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会員からの投稿

INDEX

 前サイト掲載分

連日のデモに揺れる バルセロナに 行ってきました   森 弘道さん
ラグビーワールドカップ  KDDにまつわる嬉しいニュース   伊藤 英一さん
原田マハ『楽園のカンヴァス』  島崎 陽子さん
ジェイン・オースティン 『エマ』を読む  島崎 陽子さん
「モーツァルト、バイオリン」 に対するコメント   川角靖彦さん
映画『私はマリア・カラス』を観て  島崎 陽子さん
新刊書の紹介『通信の世紀』  富士 暹さん
私の切手アルバム  太田 忠一さん
五十人一訓、 贅六の二言・三言   松本 一夫さん
平野啓一郎著『葬送』を読んで  島崎 陽子さん
(故磯村栄一様の遺稿)  Plate Techtonics   磯村栄一さん
Eclipse 2017 Oregon  小島 宏さん
モーツァルトと ヴァイオリンの故郷   島崎 陽子さん
Your Voice is You !  前尾 津也子さん
現役テニスプレーヤー in US   小島 宏さん
絵本を出版する 夢を応援したい!   前尾 津也子さん
ブラジル サッカークラブ選手が 搭乗していた 飛行機が墜落   樫村 慶一さん
ホモサピエンスの 祖形に近い D型日本人   榊 博史さん
邦楽演奏会のご案内  森田 紀典さん
台風の爪痕 ~ 大企業対個人バトル の顛末   伊原 昭男さん
百人一語  松本 一夫さん
TPPの誤訳  矢田部 亮一さん
贅六の二言・三言  松本 一夫さん
健康長寿の秘訣 ー 稲垣さんの マンスリーレター に続く第2弾   勝部 日出男さん
『無線山・KDDIの森』  服部 尚彦さん
世界遺産 『ミディ運河』 クルーズ   服部 尚彦さん
インターネット公開 オンライン大学講座 を受講して   久保 勝一さん
迎賓館の見学 に行ってきました   森 弘道さん
茨城衛星通信所跡 へ行ってきました   青木 丈夫さん
終戦前後の私  大竹 忠一さん
KDD年表  久保 勝一さん
KDD絵葉書  嶋田 英一さん
ピアソラをご存知ですか?  堀井 勉さん
懐かしいKDD  嶋田 英一さん
私の終戦後の一年  (1)  (2) (3)   興野 龍介さん
VTC訪問  関根 勝昭さん
故郷河内の評判 が気になる   松田 隆治さん
福島だからこそ 旅に出た   伊原 昭男さん
奇異な年 ・・・2011年 ― 平成23年   稲垣 和則
函嶺山荘の 売却を惜しむ   服部 尚彦

 

 

 島崎陽子さんの投稿

  

モーツァルトとヴァイオリンと故郷
~入会にあたって~
2027年7月
島崎 陽子
 
 7/23(日)21時~Eテレ『クラシック音楽館 バイオリン 500年の物語』は、ヴァイオリン好きにはたまらない番組であった。窪田博和さんというヴァイオリン修理士が、ストラディバリウスの音色はなぜ他と違うか、長年の修理士としての経験を基に学者との共同作業で科学的に分析をし、その違いを追及するというものであった。その結果、音色の違いは板の薄さや左右対称性に大きく起因していること等が判明、窪田さんは、今後、この分析結果とこれまでの経験値を関係者と共有し、よりよいヴァイオリン製作に努めていきたいという話であった。質実剛健、職人気質そのものの窪田さんに大変魅力を感じた。

 1996年、北イタリア2週間の旅で、クレモナに立ち寄ったことがある。一人旅、観光にも飽きてきた頃、どなたかヴァイオリン製作者とでも話をしてみたいと思い、たまたまコムーネ広場に面した工房に恐る恐る入ると、若いドイツ人夫妻が快く出迎えてくれ、チェロを作り終えたばかりと作業の手を休めて雑談の相手をしてくれた。ダ・ヴィンチの肖像画が掲げられていて、ダ・ヴィンチを崇拝しているようなことを伺っている最中、突然、ご主人様が「ここはもと旅館で、モーツァルトが泊まっていったんですよ」と言った時の私の驚きようといったらなかった。因みに私はモーツァルトが大好きで、某モーツァルトの会に20数年間在籍している。この時の旅も、主にモーツァルトの足跡を訪ねる旅であった。モーツァルトがクレモナに立ち寄り1泊したことは資料で確認していたが、それがどこであったかを語っていたものはなかった。
 それから数年後、私は一冊の本を手にした。クレモナ在住、石井髙著『秀吉が聴いたヴァイオリン』。なんとこの本には石井さんの友人として川角靖彦さんがご登場されている。そして2015年9月、石井さんの『ヴァイオリンに生きる』が出版される。
 『ヴァイオリンに生きる』の内容については割愛するが、私を驚かせたことのひとつは、石井さんが私の故郷、会津若松市を訪れていてそこで講演もしていることである。復興の為に、会津漆のヴァイオリン製作の依頼が石井さんにされたようであった。後日、会津田島(私の出生地)で、このヴァイオリンで演奏も行われている。知っていたら行っていたのになああ、と悔やまれる。
 私同様、会津田島生まれの私のいとこが、日本人学校の先生としてローマに数年間赴任していたことがあるので、石井さんのことを話してみたら、「陽子さんから石井さんの話が出てきて驚いている。私たち家族はクレモナの石井さんのお宅におじゃまし、ワイン、チーズ、サラミをご馳走になった。石井さんのヴァイオリンも持っているよ」との返事が返ってきて、再度驚いたものだった。
オドロキの連続である。不思議なものである。冒頭のEテレの番組からさまざまなことが思い出され、E気分になっている。
 ヴァイオリンも好きである。パガニーニのヴァイオリン協奏曲を初めて聞いた時の衝撃は、昨日のように覚えている。楳本龍夫さんよりハイフェッツのシベリウス協奏曲のお薦めがあったので早速購入、到着待ちである。
 k-unet前回のトップ写真(大谷恭子さん撮影)が会津鶴ヶ城であったこともあり、石井さんと川角さんのご関係もあり、このような流れもあり、入会させていただくことになりました。冒頭のEテレの番組は、私の入会日にもあたりますので、記念の番組になりました。皆さんとのこのような語らいやチャットを楽しみにしております。よろしくお願いいたします。
 ※7/29(土)玉木宏ナビ、近衛秀麿氏の番組も秀逸でした! シューベルト『未完成』に新たな思いが加わります。
 
以上
 

  
 

 

 

 前尾津也子さんの投稿

  

Your Voice is You!
2017年5月15日
前尾 津也子
 
“Your Voice is You” (あなたの声は、あなた自身である)。

これは、今から30年ほど前、私が国際電話のオペレータをしていた時に、先輩から聞いた言葉である。
その昔、AT&Tの電話交換室に掲げられていたモットーであるという。
正直、私はその言葉をそれほど意識することなく、会社生活を過ごしてきた。まだ、現役で仕事を続けているが、国際電話のオペレータの業務に就いたのはほんの数年間。その後、人事や営業、カスタマーサポート、販促、そして現在はグローバルビジネスと様々な業務を経験させていただいた。

ところが、今から10年余り前に、私は趣味として「朗読」を始めることになる。
最初は、「子供に絵本の読み聞かせもいいかなあ・・・」という軽い気持ちだった。それが、だんだん、声で人に感動を与えることのできる朗読に魅力を感じ、気がつけばもう10年以上続けている。今では、独自に朗読コンサートを企画・実施したり、コンテストやイベントに参加するなど、朗読活動は私の生き甲斐にもなってきている。私は無意識のうちに、声を通しての コミュニケーションに関心を持ち、“Your Voice is You” (あなたの声は、あなた自身である)の精神に支えられてきたような気がする。

私は現在、NPO日本朗読文化協会の会員で、毎年、銀座博品館劇場で開催される「朗読の日」というイベントに出演している。これは、日本最大の朗読イベントであり、今年は6月18日(日)に開催される。そこで、今回私が朗読するのは、元NHKアナウンサー 加賀美幸子さんの「ことばの心、言葉の力」というエッセイ。その中で、加賀美さんは、「言葉は人そのもの」と表現されている。

このエッセイを読んだとき、言葉を仕事で使っていらした加賀美さんの、言葉に対する想いをひしひしと感じた。そして、また、それは“Your Voice is You”に通ずるものだと感じている。

“Your Voice is You”(あなたの声は、あなた自身である)。
これからも大切にしたいモットーである。

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もし、皆さんの中に、朗読や加賀美幸子さんのエッセイにご興味ある方がいらっしゃれば、
是非、「朗読の日」 6月18日(日) に銀座博品館まで、足をお運びください。
プロの演出による様々な朗読を、ライブでお楽しみいただけます。
■ 開催日時
  (Dステージ)
  6月18日(日) 15:00開演 15:30開場
■ チケット代 2500円
■ お申込み/お問合せ
  前尾(maeo2010@gmail.com)

<朗読の日のご案内:詳細> 
http://www.rodoku.org/class/images/roudoku_201706.pdf
 
以上
 

  
 

 

 

 小島宏さんの投稿

  

現役テニスプレーヤー in US
2017年4月12日
小島 宏
 
 錦織圭の影響もあり日本では近年テニスブーム再到来のようですが、私自身上手下手は別にしてテニス暦40数年でまだまだ現役のテニスプレーヤーです。今でも週3~4回はコートを走り回って若さをキープしています。
 KDD時代には東話テニスクラブ創設期だったこともあり野沢コートに入り浸りの生活をもしていた事を懐かしく思い出されますが、ここ米国では20年来USTA (US TENNIS ASSOCIATION)のメンバーとなりアマチュアテニスですがプロ並みに試合をこなしています。レベル、性別、年齢で色々な試合が年間を通して行われます。
 私は<7.0 MIXED 18+>, < 7.0 MIXED 40+>, <6.0 MIXED 55+>に加え <3.5 MEN’S 18+>, <3.5 MEN’S 40+>, <3.0 MEN ‘S 55+>のチームのどれかに加わり汗を流しています。
(*ちなみに <7.0MIXED 18+>とはペアの合計レベル7.0のミックスダブルスチームで18才以上が構成メンバーです。又<3.0 MEN’S 55+>はレベル3.0の男子シングルとダブルスからなるチームで18才以上が構成メンバーとなります。ミックスダブルスでは組むペアのレベル合計ですので6.0 MIXEDでは3.5の男子と2.5の女子やともに3.0のペアだったり色々で対戦する相手を考えペアリングします。もちろん3.0 WOMEN’S 18+などのチームもありますが女史でないと入れません。)

 チーム結成後はポートランド地区の15~16のテニスクラブ総当りのトーナメントが約3ヶ月かけて行われます。
 期間が長いのでオーバーラップする試合が必ずあり現在私も3.5 MEN’S 40+と6.0 MIXED 55+を掛け持ちでこなしてます。私はTHPRD (TUALATIN HILLS PARK & RECRETION DISTRICT)というクラブに所属し、何チームかに入りプレー中です。オレゴンは雨が多いので各クラブにはインドアコートがあり一年を通して試合が可能です。ちなみにTHPRDにはバブルコートも含め18面のインドアコートがありオレゴン最大のスポーツ施設です。(THPRDに関して興味のある方はGOOGLEしてみて下さい。)
 チームは約12名で構成され、まとめ役のチームキャプテンが大抵TEAM SNAPというテニスアプリですべてを管理してくれています。一昔前だったら電話やメールでいちいちラインアップを調整したりで大変でしたが何でも便利になってしまいました。そう言えば先月までDISTRICTトーナメントが行われていた3.5 MEN’S 18+のプレーオフが来週末にあります。今回は無敗で勝ち進んでのプレーオフですので期待がかかってます。ここで優勝すると西海岸3州とハワイ州の勝者が競うSECTIONAL トーナメントに進めその後NATIONAL(決勝戦)に行きます。
 1996年に一度NATIONALまで上り詰め準優勝したのは生涯忘れる事ができない大事な一コマです。その時のクリスタルトロフィーは大切に飾ってあります。プレーばかりでなくチームの結束を図るという建前の打ち上げや、キャプテンの家などで何かにつけパーティー(米国では誰かの家で行われるPOTLUCK PARTYが中心です)もよくありこれもまた大事なソーシャルイベントとなってます。私はUSTA主催のテニス以外にTHPRDで6月~9月の夏に行われるSUMMER LEAGUEというリクリエーショントーナメントに出たり、雨さえなければ街のいたる所に無料のテニスコートがあるので有志でつくるSATURDAY SOCIAL TENNIS GROUPのテニスにも顔を出しています。
 こんな風に一年を通してテニスができる環境がある事自体、米国をしてスポーツ王国にしている要因かもしれません。

 ゴルフもそうですが、テニスはいくつになってもできるスポーツですので生涯続けて行こうと思い、今日も夕方7時から練習に出かけます。
 
 
以上
 

  
 

 

 

 前尾津也子さんの投稿

  

絵本を出版する夢を応援したい!
2017年1月
前尾 津也子
 
 初めて投稿いたします。私は趣味&ボランティアで「朗読」をしております。
 
 昨年は、脳性まひで重度の障がいを持ちながら、「春雪トンネル」という詩集を出版された 藤枝利教(ふじえだとしゆき)さんとご縁があり、つくば市や東京で、何度か「春雪トンネル」の詩の朗読会を実施いたしました。藤枝さんは手も足も動かすことができず、話をすることもできませんが、彼の詩には、ユーモアがあって、読むと元気になれる不思議な力があります。
 
 
 その藤枝さんが、今度は「絵本の出版」に挑戦されています。「3粒のブドウ家族」という「虐待」をテーマにした絵本で、これはご自身の経験をベースに書かれたものです。その「絵本の出版の夢」を実現させようと、現在、クラウドファンディングを立ち上げ、私もそのプロジェクトのメンバーの一人として応援しております。
(左下写真   黄色い服が前尾です。)


 クラウドファンディングは、現在みなさまのあたたかいご支援のおかげで、目標額の70%を超えましたが、2月20日の23時までに100%達成しないと本プロジェクトは成立しません。
 もしよろしければ、「情報の拡散」にご協力いただけると幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

<2月14日追記>
※ たくさんの応援、ご支援、本当にありがとうございます。
 おかげさまで、プロジェクトは目標額を達成し、絵本出版の夢が実現することになりました!プロジェクトは2月20日まで続きますので、引き続き、少しでも増刷できるよう最後まで頑張ります。
 
赤いボタンをクリックするとクラウドファンディングのページが開きます
 
以上
 

  
 

 

 

 樫村慶一さんの投稿

  

ブラジルのサッカークラブ選手が搭乗していた飛行機が墜落
2016年12月5日
樫村 慶一
 
 ブラジルのサッカークラブ「シャベコエンセ」の選手らを乗せた飛行機が、2016年11月28日夜、コロンビア北西部のメデジン近郊で墜落した。同機には乗客72人、乗員9人が乗っていたが、現地警察による6人が生存しているが残りは全員死亡した。
 同クラブは、ブラジル南部のサンタカタリーナ州シャペコが本拠で、同国全国選手権第1部に所属。
 搭乗者の中には、J1神戸を率いたカイオ・ジュニオール監督、元セロッソ大阪やJEF千葉で活躍したケンペス選手、元柏レイソルのクレーベル選手元京都のチェゴ選手、元川崎のマイア選手らの名前がある。飛行機はサンパウロからボリビア経由でメデンに向かっていた。現地は悪天候だったと言われている。 ご冥福を祈りたい。
 この事故は新聞やテレビで大きく取り上げられてが、普通は墜落した機種について報道されるのに今回は出ないので、南米によくある、とっくに博物館行きのおんぼろ飛行機かと思って調べたら、結構新しい飛行機である(初飛行1981.1)。

 BAe(ブリティッシュ、アエロスペース社が開発製造したAvro RJ85型機。82人~112名乗りの4発ジェット機で、比較的短距離を就航するリージョナブル・ジェットとして開発された。同型機と異なり、低騒音,高離着陸性能を狙っており、敢て4発にして、ジェット機には珍しい高翼構造を採用した。そのため、短い滑走路や騒音制御の厳しい空港を発着する近距離路線に就航している。
騒音規制の厳しロンドン空港でこの機体を多くみることができる。
 
樫村 慶一 (2016.12.5記)
 
以上
 

  
 

 

 

 榊博史さんの投稿

  

(論文)

ホモサピエンスの祖形に近いD型日本人
榊 博史
 
まえがき
 東日本の男性の40%はY染色体ハプロタイプDを持つという調査結果が「崎谷満:DNAでたどる日本人10万年の旅:昭和堂 2008」に示されています。この文献は日本人のY染色体ハプロタイプに関する優れた著作です。Y染色体ハプロタイプDは近隣の中国や朝鮮半島には殆ど存在しません。ハプロタイプDは縄文人に由来することが判明しているので東日本の男性の40%は縄文人の末裔であることになります。筆者はこの値の大きさに驚きハプロタイプDに関する調査を始め、調査結果を本稿にまとめた次第です。縄文人の日本列島到着時期は1万6千年以前とされています。Y染色体ハプロタイプとは男性が持つY染色体の形式のことであり男系で伝わります。皇位の男系継承はY染色体ハプロタイプを保つ意味で必要です。

 上記文献によると5~6万年前と思われる出アフリカ時にアフリカ外のホモサピエンス全体が持つY染色体ハプロタイプはC、DE、FRの3種類に限られていました。
ここでまず日本人が持つハプロタイプ全体について少し考えます。出アフリカハプロタイプFRの末裔であるハプロタイプO2は日本人に相当な割合で存在しますが、これは上記文献によると黄河文明に滅ぼされた長江文明の避難民である弥生人に由来するとされます。到着時期は3千年前とされます。避難民として特にいざこざも無く縄文人と混じり合いました。なお祖先の出アフリカハプロタイプFRは現在のモンゴロイド、コーカソイド人口の大部分が祖先として持つ強大なタイプです。

 到着時期は不明ですが、縄文人到着前に最初に日本列島に流れ着いた人々がもたらした出アフリカハプロタイプCが1割以下日本人の中に存在します。このタイプはモンゴルに多いタイプです。

 あるハプロタイプを持つグループをハプログループといいます。出アフリカハプログループDEはその直接の子孫に本稿で取り扱うハプログループDの他にその兄弟ハプログループEを持ちます。これら2つのグループは出アフリカ直後に離別したようです。ハプログループEはアフリカに戻りアフリカ全体を独占すると共にその一部は地中海のまわりに分布を広げています。これはハプログループDよりはるかに成功したグループであると言えます。

 出アフリカハプログループDEの直接の子であり本稿の主題であるハプログループDはチベット、ブータン、ミャンマーという一つのまとまった地域と日本に存在します。人口的に日本人はハプログループD全体の80%以上を占め、出アフリカハプログループDを相続する唯一の大民族集団です。アジア大陸では上記ハプログループFRとその末裔の圧迫を受けてほぼ絶滅したのに対し日本では大陸から海により隔てられているので生き残りました。

 このような訳で日本人の中に出アフリカの3ハプロタイプC、DE、FRの全ての子孫がそろいました。すなわち、日本人は出アフリカ時の人類の遺伝情報全体を相続しているのです。こんな民族集団は世界中に他にはありません。日本人は多様性という今後の発展に必要な武器を持っています。この多様性の原因は世界でも稀なハプロタイプDの存在です。

 ハプログループDの特徴は2つあります。1つは「a.集団の中での自分の役割の自覚とその誠実な実行」でありもう1つは「b.民族集団外の人々への極端な排斥」です。ハプログループDの割合が高い3つの国について見てみます。

 まず日本の例について述べます。まずa.関する現象について示します。一番分かりやすいのが商店等の接客時のお客への細やかな応対です。自分がその場で求められている役割を果たそうと努力します。ハプロタイプDの割合が高い東京では電車に乗車の際に列の先頭から整然と乗車します。先の大戦までの国民の見事な対応もこれに相当します。次にb.について述べます。一番わかりやすいのが難民受け入れの厳しさです。

 ミャンマーの例について述べます。a.について述べます。ここは所得のわりに識字率が高いのですが、これは軍事政権が目先の利益を考えずに教育を推進した結果です。これに対して父兄たちは労働力需要を犠牲にして応えました。次にb.について述べます。ここでは常に国が周辺諸国や周辺民族と緊張状態にあります。軍が他の国に比べて死活的に重要であるのがよく分かります。

 ブータンの例について述べます。a.について述べます。ここでは王室が率先して権力を国民に渡しました。またGNH(国民総幸福量)という概念を導入して皆が平等に幸福になることを考えております。b.について述べます。国内に居るネパール人をネパール人であるという理由だけで国外追放しました。

 以上が本稿の背景についての説明です。次に本稿の記述内容を章ごとに説明します。章1はホモサピエンスアダムから現代人までのY染色体系統樹でについて記述します。主要なハプロタイプの発生時期についても示します。たとえばY染色体ハプロタイプDは50kaから60ka前に発生しました。kaは現代から起算した過去の年数です。50kaから60kaという年数は出アフリカに近い時期です。章2は現在のアジア民族集団における各ハプロタイプの比率とハプログタイプDを多く持つチベット、ビルマ、ブータン系民族の分布について述べます。章3はハプロタイプDの系統樹について示します。日本列島において11分岐と非常に深く分岐したことが分かります。章4はY染色体ハプロタイプDの祖形を持つアンダマン諸島の住民の現状を述べます。彼らはハプログループDらしく暴力的に外部に対応したので殆ど絶滅状態に陥りました。この諸島はインド領です。章5はハプロタイプDの兄弟タイプであるハプロタイプEについて述べます。ハプロタイプEはアフリカ全体に優越的に分布していることが分かります。またこれの1分派がユダヤ人を含む地中海世界に分布を広げていることもわかります。さらにこの分派がヨーロッパに農業をもたらしたことを示しました。章6はハプロタイプD、E以外のハプロタイプの分布について述べました。特に出アフリカハプロタイプFRの末裔であり現在のモンゴロイド人口の大部分を占めるハプロタイプO、同じくハプロタイプFRの末裔でコーカソイド人口の相当部分を占めるハプロタイプRの分布を示します。最後に章7で筆者の主観を含めた考察を示します。
 本稿の情報は全てインターネットのホームページより得ました。それぞれ参考文献としてHPアドレスを示してあります。


以下、論文(pdf)はこちらをクリックして、ダウンロードしてご覧ください。
 
以上
 

  
 

 

 

 森田紀典さんの投稿

  

邦楽演奏会のご案内
森田 紀典
 
 私、昭和38年入社の森田紀典です。私が所属出演しています、ドルチェ邦楽合奏団神奈川支部主催の定期演奏会を11月13日(日)に、横浜桜木町の神奈川県立音楽堂で開催します。開演は13時30分(開場13時)です。今回は入場は無料ですが整理券を必要としますので、合奏団の森田の紹介ですと言っていただければ入場が可能です(十分に席があります)。
 演奏会の概要は下のチラシをご覧ください。なじみの薄い合奏団の演奏会ですが、琴、17弦琴、三味線、尺八による楽しい現在邦楽曲の演奏です。ご興味とご都合がつきましたら、一度、覗いていただければ幸いです。なお、身近なKDD OBの方々には、すでにご案内をしています。
 
 
 
以上
 

  
 

 

 

 伊原昭男さんの投稿

  

台風の爪痕 ~ 大企業とのバトル
2016年9月
伊原 昭男
 
「大組織対個人」の交渉(バトル)の話です。

先日8月22日、千葉県に上陸した台風9号で、田舎の(直径50㎝くらい)大木が途中でボッキリ折れ、NTTの電話線にのしかかってしまい、(もちろんワイヤーで補強されているので)電話線は切断されなかったものの、「く」の字に強く引っ張られ、両端の電柱は傾いてしまいました。 本当に、電話線が、よくぞ切れなかったものだ。

早速、NTTを呼んだところ、「高所作業車」が来たが、現場を見るなり、
「これは無理だ。 小さな枝なら切るけど、これは大きすぎて「クレーン車」が必要なので切れない。 
自分でクレーン車を雇って切ってほしい。」という。

「それはないでしょう! 『小さな枝は切るけど、大きな枝は切らない』とは筋が通らない。 納得できない。」と主張した。
また、「そもそも、NTTや東電等、公共事業者が、日本中の家庭から「基本料」を強制的に徴収しているのは、このような事態に備えるためでしょ。 NTTは常時、屋外設備を管理・保全し、電気通信サービスを安定的に提供する使命があるはずでしょ。」と、食い下がり、さらに、
「もし、NTTとして「切らない」という結論の場合は、「文書」でその「理由」を添えて回答してほしい。 当方の親戚に法律家がいるので、NTT法と電気通信事業法に照らし合わせ、法律家に相談する。」と迫った。

結局、NTTは現場の写真をバチバチ取り、本部に持ち帰って後で回答することになった。 
返事がなかなか来ないので、翌日の夜、「公道が塞がれたままなので、早く回答してほしい」、また、「時間がかかるようなら、こちらで業者を手配し、かかったコストをNTTに請求させてもらってもいい」と申し入れた。

結局、3日後の夜になって、NTTから正式回答があった。
『NTTでクレーン車を手配し、NTTで切らせていただきます。』 と。

僕は技術系だけど、たまたま立場上、「NTT法」や「電気通信事業法」を聞きかじっていたので、NTTの押しつけや脅しに、ひるむことなく、頑として対抗できたが、知識がなければ、(半分)「お上」のNTTに屈してしまったことだろう。 
怖い話だ。
多数派が、権力者が、声のデカい者が、必ずしも「正しい」とは限らない、良い例ですね。

交渉中、「台風で街路樹が倒れ、電話線を切った場合、NTTは「市」にコストを請求するんですか?」と聞いたところ、相手は苦し紛れに、かつ、いい加減に、「はい、請求することもあります」と即答したので、
「本当ですか?! 本当に請求するんですね! 確認できますね!」と畳みかけたら、相手はシドロモドロ、ヘロヘロ、「出まかせ」だったことも判明した。

しかし、疲れたよ。 一人で大組織を相手に交渉するのは疲れる。
でも、面白かったよ。 とっても。
また、良い勉強になった。 だから人間社会は面白いね。(ご参考まで。)
 
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ついでに、「なぜNTT(市原)は、制度違反(違法)を冒してまで、だだをこねたか」について、一つ、情報を追加します。
ポイントは、今回のNTTとの交渉(バトル)の中で、担当者が苦し紛れに発した「一言」です。

「『上』から、このような大変な(経費が掛かる)事案は当事者側に払ってもらえ、と言われているんです。」
という泣き言です。
ピンと来ました。

要するに、大NTT本体がそんな制度違反を全国に指令する訳はない。(国会で追及されて大問題になるし、社長は総務大臣にも呼び出されるだろう。)
大NTTとしては、「基本料」を強制的に徴収する「根拠」を失うことになるのだから。

NTTの地方局(市原)で起こった今回の案件は、要するに、NTTの民営化に伴い、「NTT市原」は上層部から、「売上げ」だの、「収支状況」だの、「利益率」だのと、厳しく詰め寄られているはずだ。 (今や民間企業だから当然のこと。)
「NTT市原」の管轄には森や林がいっぱいあって保全費用がかさみ、利益率は低くなる。(NTT市原の局長はいつも責められていることだろう。)
となると、制度面をよく知らない、(現場上がりの)ローカル「局長」は、保全部門に「経費削減」の大号令を発するのは自然なことだ。

多分、今回の僕の反論に合って、局長はかなり慌てたことだろう。
NTT本体に問合せ、身構えたことと思う。
かなり上層部(本社の制度部門)にまで話が上がったものと思われる。
なかなか返事が返って来ないこととも符合する。
特に、僕から「NTTが『できない』というのであれば、その理由を文書で回答してほしい。それをもって法律家に相談する。」と、言われれば、間違いなく、本社の制度部門に話を上げたはずだ。
そして、そんなこと(お客様にお金を払わせること)したらとんでもないことになる、と分かったんだろう。
このような動きは、同じような会社にいたからよくわかるのです。 「蛇(じゃ)の道はヘビ」。
この筋書きは、当たらずとも遠からず、多分ほとんど当たっていると思う。

今回、自分で納得できず、どう考えても、筋が通らないので、頑張ったが、近所に菓子折りを持って夫婦で挨拶に回った、とは言え、田舎の小さな公道を塞いでしまっていたので、早く片付いて本当に良かった。

僕は、「権力」を笠に着た政府や大企業・大組織が嫌いで、それを相手に戦う、弱い個人や少数派の映画が大好きです。
①家庭の主婦でありながら、巨大製薬会社の公害垂れ流しを訴えて勝利した、アメリカの実話の映画、これは大好きです。
②また、冤罪で投獄された無実の会計士の実話。 彼は刑務所で所長の横領作業にこき使われたのです。
この所長はこの会計士の再審請求を、自分の権限でことごとく握り潰し、自分の横領を隠す会計書改ざん作業をやらせるのです。 会計士は、証拠になる秘密文書を油紙で包み体に巻いて、トイレの排水管を通り抜けて脱獄し、悪徳所長を公に暴くのです。

ところで、NTTの伐採作業というと、台風9号が8月22日、
「NTTが全面的にやらせていただきます」と回答して来たのが8月25日の夜21:00、
伐採作業は翌日26日の朝一番で実施しました。 (さすがNTT! 決まったら早い。)

翌朝早く、NTTの「クレーン車」と「高所作業車」、作業員「4名」が来て準備、10:00過ぎには作業を開始した。
チェーンソーで小枝(と言っても直径15cmはある)を落とし、次に、太い幹(50cm)をクレーン車で吊るし上げ、
電話線を避けて市道に下ろして長さ40-50cmのブロックに刻んだ。
50cm立方の木片ブロックとは言え、「生木」なので一人では持ち上げられず、二人で運んで敷地内の、市道と境界上に並べた。
その他、折れ曲がった太い孟宗竹も7・8本切って竹山に運び入れてもらった。
作業は4人がかりなので、早い早い。 正味1時間半くらいで終わった。
家内が冷たい飲み物と果物をいっぱい出して、その場で談笑して12:00に帰って行った。

そのあとの片付け作業が大変だった。
大量に残った太い大きな枝を、一人で(腰を曲げて)チェーン・ソーで引き、茗荷山に山積みにした。 
また山に運び入れた、折れ曲がった孟宗竹も、一人で3・4mに刻んで、これも山積みした。

重労働だったが、NTTには感謝しつつ、気持ちは晴れ晴れだった。
 
以上
 

  
 

 

 

 松本一夫さんの投稿

  

丙申(2016年)・睦月吉日
《不肖・松本 撰》 
 
百 人 一 語
【第 2 版】
 
 
 

十三世紀のお話。鎌倉前期の歌人・藤原定家は、京・小倉山の山荘において蔵していた和歌から百人の歌人の歌を一首ずつ撰び“百人―首"とした。その顰みにならい不肖・松本も武蔵国・町田の苫家に蔵する熟語…毎年末に住友生命が公募したものが多い…から百語を撰び、これを "百人一語″と名付け人類の叡智の指標とすることを試みた。さらにこのほか特に優れた熟語が世に出た場合は、現撰分こ入れ替え新版とすることにしており、当版は第2版になる。
 なお各熟語の行末は、この熟語と同音の人口に謄災している似非熟語である。

 ◎住友生命は、毎年9月から~11月に1年の出来事を漢字四文字で振り返る『創作四字熟語』を公募し、 1万件近い応募作品が寄せられている。この『百人一語』は、これら四半世紀にわたる入選作品の中から、100点を抽出し、転載させていただいたものである。 
参照:住友生命「創作四字熟語」

  1) 安価航路 上がるものが多い世に格安航空が相次ぎ飛んでいる暗夜行路
  2) 安山祈願 最近は火山の噴火がいやに多く被害が大きい安産祈願
  3) 案中模作 作品の案を考えているうちに他人の作品を真似てしまうこと暗中模索
  4) 胃口同温 胃と口は体温が同じであると言つている医者の言葉異口同音
  5) 違算相続 取らぬタヌキの皮算用の讐え遺産相続
  6) 医師剥弱 わるい医者が弱い患者から金を奪つて儲けること意志薄弱
  7) ―居両得 旅館で相部屋すること一挙両得
  8) 一指送電 ケータイのメールのキー操作が得意な若者の様子をいう一子相伝
  9) 越見行為 垣根越しに他人の邸内を覗き見る、あまりよくない行為越権行為
10) 怪鶏処理 中国からの怪しい鶏肉で、ハンパーガーが売れなくなつた会計処理
11) 解 社 員  失業者のこと会 社 員
12) 街頭煙絶 日本全国各地で、条例により路上の喫煙を禁止した街頭演説
13) 隔駅停車 各駅停車より少しだけ速い列車のこと各駅停車
14) 賀新正旦 新年の新しい挨拶言葉臥薪嘗胆
15) 株式騒場 株価がどうも安定せず騒々しい株式相場
16) 憾善重悪 善であることを残念に思い悪を重んずるわるい讐え勧善懲悪
17) 顔面総白 化粧品の顔面パツクのこと しかし最近は一騒ぎのものあり顔面蒼白
18) 危雨増大 最近は思わぬ集中豪雨が多く浸水の被害が多い気宇壮大
19) 帰郷村望 福島事故で避難した人びとに帰村を望む声が大きい危急存亡
20) 気象転決 天気予報を決めるのに下駄を転がして決めるさま起承転結
21) 危草千害 危険ドラツグとやらをやつて運転をする輩がいる奇想天外
22) 強 心 症 やけに気が強くなる症状、心臓に毛が生えるためと思われる狭 心 症
23) 巨絶阪応 根つからの阪神ファンのこと拒絶反応
24) 勤休非難 勤めを休みなじられること緊急避難
25) 愚問愚当 下らない質問には下らなく答えるのが当然であるという話愚問愚答
26) 群衆心離 政治家にこつて最悪の状態をいう群集心理
27) 軽口窮語 森元首相は時々やらかす鶏口牛後
28) 景色朦朧 お隣の中国では大気汚染で景色がかすむ意識朦朧
29) 欠益銀行 絶対に儲からない銀行 解決策は合併だ血液銀行
30) 嫌 塩 権 なめくじの持つ固有の権利をいう嫌 煙 権
31) 後世捻金 年金制度で将来若い人が苦労することを案じた語厚生年金
32) 五八至十 ["ごはしじゆう"と読む] 消費税の5%が8%になり、その後10%に  五八四十
33) 再職件徴 リストラのあとの再就職は極めて困難な現状をいう才色兼備
34) 才足兼美 なでしこジヤバンは世界に誇れるチームになつた 才色兼備
35) 三矢一体 ["さんしいったい" と読む]“ 三本の矢"は首相の口くせ三位一体
36) 山震水鳴 近年、火山の噴火や豪雨騒動が多い山紫水明
37) 産声多数 出生率が少し上がつたことを喜ぶ話題であるが先は暗い賛成多数
38) 参否農諭 TPPは秘密事項が多く、特に農業は議論が多い賛否両論
39) 死近距離 老人の立つている位置をいう至近距離
40) 四九八九 4 X 9 = 89 というような根本的な間違いのこと四苦八苦
41) 自公堅持 今のところ、自は公を手放せない自己顕示
42) 嗜好停止 増税されそうなのでタバコを止めることをいう思考停止
43) 史嬢最強 レスリングの吉田沙保里選手は相変わらず強い史上最強
44) 紙面疎化 大した事件のなかつた日の翌日の新聞四面楚歌
45) 蹴姿一貫 ラグビーの五郎丸選手のキツク前のポーズを真似る子が多い終始一貫
46) 瞬禍終塔 テロでNYのWTCのタワーが短時間で崩壊したことをいう春夏秋冬
47) 触欲不振 痴漢がスランプに陥ること食欲不振
48) 親心喪失 子供への虐待が依然多いことをいう心神喪失
49) 心沈退社 沈んだ気持ちで勤め先を退社すること新陳代謝
50) 睡 奏 楽 いびきのこと吹 奏 楽
51) 星降凍庭 しし座流星群の観測では寒い庭で毛布にくるまつた西高東低
52) 税途多難 震災復興予算の目的外使用でばれることが多い前途多難
53) 世界遺蚕 ["せかいいさん"と読む] 相変わらず富岡製糸場を訪れる人が多い世界遺産
54) 責任十代 2016年の参院選から選挙権の年齢が18歳に下げられた責任重大
55) 選挙縁絶 最近の若者は投票に行かない者が多いことをいう選挙演説
56) 船船境航 尖閣に中国の公船が出没し国境が怪しげだ戦々恐々
57) 尊脳上位 現代社会の学歴至上主義をいう尊皇攘夷
58) 断雇反対 派遣切りや雇い止めで職を失つた人々が叫ぶ様子をいう断固反対
59) 暖冬胃変 暖冬、暖冬こ気を揉むために起こる胃痛暖冬異変
60) 鉄頭鉄尾 ロボットのこと徹頭徹尾
61) 天威無法 近年の自然災害の多いさまをいう天衣無縫
62) 電遠都市 要するに田舎のこと田園都市
63) 投資満満 株式市場の明るさに投資家が集まつた闘志満々
64) 得意体質 いろんなことを得意がる体質の人特異体質
65) 肉怠労働 力を使わない労働、すなわち頭脳労働をいう肉体労働
66) 二息三悶 忙しくて非常に疲れている近代病二束三文
67) 煮本烈湯 地球温暖化の故か、うだる夏の日が多くなった日本列島
68) 年中無給 タダ働きのこと年中無休
69) 倍雨前線 通常の倍の雨をもたらす前線で近年多くなつた梅雨前線
70) 拍手滑采 フイギユアの羽生選手は世界を酔わせている拍手喝采
71) 波乱番号 マイナンバーが国民に知らされたが問題が多そうだ波乱万丈
72) 春樹多売 ノーベル賞を逃しても新作の小説が売れている薄利多売
73) 判官判民 裁判員制度が始まり、裁きに市民感覚が入つたが問題も多い半官半民
74) 万国胸痛 中東の摩擦やテロで各国が胸を痛めている様万国共通
75) 晩遊引力 夜になると遊び回りたくなる不思議な力万有引力
76) 徴的感覚 極めて小さな事まで気がつくことをいう美的感覚
77) 風向明尾 動物の尾が風に靡いて明確に風の方向を示すとの讐え風光明媚
78) 不肖不随 バカ息子は親の思い通りにならないこと夫唱婦随
79) 浮浪父子 親子二代のホームレスをいう不老不死
80) 文明階下 階下の住人の方が文明的つまリバカと煙は高い所を好むの意文明開化
81) 兵進低頭 前線の兵隊は進むとき頭を低くせよこの教え平身低頭
82) 棒飲棒食 手品師のこと暴飲暴食
83) 抹消神経 神経をなくすこと 世の中にこういう人が多くなつた末梢神経
84) 慢心創綾 何事も油断すると怪我をするということ満身創痍
85) 無勤状態 リストラされ、続く職がなく失業した状態無菌状態
86) 無銭電話 他人の家でかける電話無線電話
87) 無理鰻代 ウナギの稚魚が高騰し、蒲焼きの夢を見る事が多い無理難題
88) 猛妻欠陥 欠点だらけのコワーイ奥さん毛細血管
89) 文答無用 音楽・体育などの筆記のない実技試験のこと問答無用
90) 薬罐飛行 夫婦ゲンカの様子を述べた状況描写夜間飛行
91) 悠久休暇 会社をクビになること有給休暇
92) 雄峰果敢 80歳でエベレスト登頂の三浦雄一郎さん勇猛果敢
93) 油断最適 油を使わずに揚げる調理器が売れているようだ油断大敵
94) 浴窮不満 自宅の風呂の狭さに対する不満をいう欲求不満
95) 落下老石 高速道路のトンネルで天丼コンクリートの落下事故が多発落花狼藉
96) 落績注意 営業成績のわるい社員への警告の言葉落石注意
97) 利子粉塵 預貯金の利子は相変わらず埃程度獅子奮迅
98) 料裁嫌母 料理・裁縫の嫌いな母親が多くなつた良妻賢母
99) 零歳企業 発足したばかりの企業零細企業
100) 廊下減少 都会の家から廊下が減つていく現象、特にマンシヨン老化現象
 
(注)「百人一語」の撰定に当つては、内容の検討のほか、次のように言葉の寿命について配慮をしている。
一例を挙げると7年前のこと、奈良・興福寺の阿修羅像が一般展示のため東京上野にやつて来た。この展示は大きな話題を呼び、年末に住友生命が募集した創作四字熟語の優秀作品に『阿美叫喚』(阿鼻叫喚)があつた。しかし話題を呼んだ期間は案外短く、まもなく話題にならなくなつた。このように寿命の短い熟語は「百人一語」には適さないと思われ撰から外れている。また4年前には(12の政党が入り乱れた総選挙があり、投票用紙を前にして『紙前党多』(自然淘汰)との巧みな語が生まれた。しかし、このような機会は稀で、この語も寿命が短い結果となつた。
 
以上
 

  
 

 

 

 矢田部亮一さんの投稿

  

TPPの誤訳
平成28年2月5日
矢田部 亮一
 
 「環太平洋戦略的経済連携協定」或いは「環太平洋パートナーシップ協定」と呼ばれるTPP参加12ヶ国が昨日協定に署名した。尽力された甘利大臣は残念であったろうが署名迄漕ぎ着ける事が出来たのは(私はTPP反対論者ではあるが)ご同慶の至りである。しかしながらTrans Pacific Partnersを前述の如く環太平洋云々と訳すのは誤訳である。環太平洋であればPacific Rim或いはPan Pacificであろう。
 元々TPPはシンガポール、ブルネイ、ニュージーランド、チリの4ヶ国が2005年に締結した経済協定であるが、当時日本では大きく報道されず、私は勿論、誰もそんなものがある事を知らなかった。
 ところで、シンガポールの通貨はシンガポールドル(S$)で、ブルネイはリンギブルネイ(RB)であり、この二国の通貨は完全ペッグ制を執っている。すなわち常にS$1=RB1である。よってこの二国は同一経済圏と言って良い。両国とも国土が狭く農業が活発でないため、食料品の殆どを輸入に頼っている。シンガポールは水もマレーシアから買わざるを得ない。
 一方、チリとニュージーランドは農産品輸出国であり、安定的に輸出できる相手国が必要である。よって買手と売手の思惑が一致し協定を作る事となった。しかしTPPが包括的FTAであったことが後の騒ぎを起こす元となった。チリとニュージーランドは工業製品であれサービスであれ、自身で生産出来ず何処からか輸入しなければならないので包括的FTAとする事に異論はなかった。
 Transは訳出が難しいがランダムハウス英和辞典によれば「~の向こう側へ、(across) ~の通過(through)、」等がある。要するにTransは直線であり、昔TrasAm (Trans America)という車があったが、これも米大陸を高速で一直線に駆け抜けるイメージを表している。同様にTPPの4ヶ国は世界地図で結ぶとほぼ直線になるためTrans Pacific Partnersと命名したものと思われる。
 TPPをややこしくしたのはバックに農業票を持つオバマ大統領である。農産品の輸出増を企図してTPPに入ると言い出した。しかしTPPを始めた4ヶ国では市場が非常に小さい。よって何とか日本を引っ張り込もうとしたのはご承知の通り。(日米で12ヶ国のGDPの総和の約8割を占める。)すなわち日本が加入しなければ米国に利益は無い。よって木っ端役人がアメリカ様のご意向に少しでも沿うよう「環太平洋」と意図的に誤訳し、日本も加入するのが当然だという雰囲気を醸成した。
 意図的な誤訳としてはUN (United Nations)を本来の意味である「連合国」と訳さず「国際連合」と訳した事が有名である。これが日本人の国連崇拝という誤った信仰を生み出した。いずれにせよ、巷に氾濫する外来語や翻訳語も、たまには辞書をひいて騙されないように気を付けましょう。
 
以上
 

  
 

 

 

 松本一夫さんの投稿

  

贅六の二言・三言
松本 一夫
 
 
 
Ⅰ.食べ物

1) 大阪人は料理にウースターソースをかけるのが好きである。カレーライスにかけるなどはその典型だ。またテンプラにかける人も多い(ちなみに、大阪ではサツマアゲもテンプラというが、これにはかけない)。
 [拙注: 梅田の老舗デパート“阪急”の食堂が、客が自由に使えるように卓上にウースターソースをおいたのが流行の始まりといわれる。拙も各種料理にウースターソースを使うことが多いが、あまり他人に知られたくないのは餃子にも使うことである。つまりこのソースにラー油を加えるのである。醤油より旨いと思うが書きながらなぜか恥ずかしい]

2) このウースターソースは一般にサラサラしているので、トンカツなどのため粘性の高い「トンカツソース」が売られている。しかしその中間の粘性が客から要望され、東京では「中濃ソース」というのがある。不思議なことに大阪にはこれがない。
 [拙注: 仕事で付き合った英国人の話によれば、英国では(彼はイングラン在住)「A1ソース」という日本のトンカツソースよりもっと濃いテーブルソースがどこの家庭にもあるという。最近はこれが日本でも売られている]

3) 大阪ではオデンをカント炊き(関東煮〉という。クジラの皮の脂の抜いたのをコロといい、大阪ではこれがないといくら美味いカント炊きでも画竜点晴を欠いたことになる。しかし現在の大阪の若い人がそう思っているかどうか、筆者は自信がない。
 [拙注: 大阪ではハンペンやチクワブを売っていないのでこれらをカント炊きには入れない。したがって大阪人にはこれらを見て食べ物と思わない人がいる]

4) 大阪のイナリ寿司は油揚げが三角形で内部に麻の実や胡麻などいろんなものを入れる。
 [拙注: 拙は1962年の東京転勤まで俵形で酢飯だけのイナリ寿司を知らなかった]

5) 大阪で麺というとウドンである。代表的なものは昆布味の利いた汁の中に甘味のある厚めの油揚げが入ったキツネウドンである。これに対し東京では江戸時代から続くソバで、通は茹でたソバを付け汁に殆どつけずまず喉を通る味覚?を楽しむという。
 [拙注: 東京人は麺というともっぱらソバだというが、ソバの本場の信州などの人が東京人の楽しみ方をどのように評価しているかを知りたい]

6) 大阪のキツネウドンは時にはケツネウドンとも呼ばれ、これがソバになるとタヌキになる。

大阪ではテンカス(揚げ玉)は無料で置かれているので、メニューに東京でいうタヌキウドン・タヌキソバがない。これがほしい時はカケウドン・カケソバを注文し無料のテンカスを入れればよい。
拙注: この呼び方は大阪特有か? 九州ではメニューにタヌキウドンがあった]

7) 普通、大阪以外では各種のウドンー杯は一食として扱われるのが普通だ。しかし大阪ではウドンを副食として別に米飯を食べる人が少なくない。

8) 大阪では豚肉入りの中華まんを「豚まん」と呼ぶ。しかし東京を含め全国的には「肉まん」である。東京から見れば大阪の「豚まん」の呼称は奇妙に映るのかも知れない。
 [拙注: 昔から西日本では農耕用の和牛飼育が盛んであったが、東日本は馬の飼育が盛んであった。しかし肉食文化の到来で馬より飼育の容易な豚が飼われる様になり、豚肉文化が形成された。この背景から、東京では肉といえば豚肉を指す様になり豚肉を用いた中華まんじゅうは必然的に「肉まん」になったと思われる]

9) 大阪ではスキ焼きの肉は牛肉に限る。豚肉は考えられない。また調味料に割下など余計なものを使わない。
 [拙注: 大阪ではスキ焼き鍋で牛の脂身(一般に店ではタダでくれる)を熱し脂を出し、そこで牛肉を焼き(ホントに焼くのだ)、砂糖・醤油で味付けをする。一般の家庭では父親が鍋奉行になる。拙の幼少時、自宅で父が手を下した料理らしいものはこれだけであった]

10) 大阪人は白滝を知らない。スキ焼きではもっぱら糸コンニャクを使う。
 [拙注: 白状すると、拙は白滝と糸ゴンンニャクの違いを知らない。太さの差か?]

11) カレーライスで用いる肉も関東は豚肉、関西は牛肉が多いらしい。では本州のどの辺りがこの違いの境界線か、を日本テレビが調査した。結果は三重県の木曽川と揖斐川に挟まれた桑名市長島町の消費が丁度半々でここを境界線とした。
 [拙注: 鯖の煮付けも東京と大阪で好みが変わる。東京はミソの煮付けであるが、大阪は甘からい醤油味。これは京都や大阪へは日本海から鯖が運ばれたが、長持ちさせるため塩味にして運んだ。これにはミソ昧が合わず醤油味となったと言われる]

12) 大阪では前夜残ったカレーを利用して翌日カレーウドンを作る家庭が多い。
 [拙注: 残った翌日のカレーは前日のより旨いというのは東西共通の意見である]

13) オニギリに巻く海苔は、関東は焼海苔。関西は味忖海苔が多いらしい。これも日本テレビの調査によると境界が三重県の亀山市にあった。

14) 大阪人はトコロテン(心太)には黒蜜をかける。酢醤油や辛子などは用いない。
 [拙注: 拙は未だに黒蜜以外では食べたことがないし、また食べたくもない]

15) 大阪のソーメンは夏の風物詩である。ソーメンの上には多くの具、例えばハム・玉子・キューリ・トマト・チェリーなどが見られ賑やかで彩りが豊富である。
 [拙注: これを見た東京人は「冷やし中華」のようだと言う]

16) 昔の大阪の縁日(夜店【よみせ】)は、内臓をとった生イカ(ゲソを含む)を大ざっぱに切り、小麦粉をまぶしたものを2枚の鉄板で挟んで焼いたイカ焼きが名物であった。焼けたものにウースターソースを塗った。
 [拙注: 現在大阪の街ではほとんど見なくなったが、梅田の阪神デパ地下でたしか一枚150円程度買える]

17) 大阪風お好み焼きは、小麦粉と少々の山芋の生地といろんな具を初めから混ぜ込んで焼く。生地と具を別々に重ねて焼く広島風とは異なる。
 [拙注: 広島風はさらに焼きソバを加えるが、拙は大阪風を好む]

18) 大阪人は「麦芽水飴」に生姜汁を加えた“ひやしあめ”を好む。自動販売機にもある。
 [拙注: 幼少時の海水浴で冷えた体に熱くした“あめ湯”の味は忘れられない]

19) 東京では正月科理に真赤な酔ダコは欠かせないもののようだ。しかし大阪にはそのようなタコはないので、大阪人はそれを見ると強烈な赤色に驚き食べ物と思わない人もいる。そこで例によって日本テレビはどこにその境界線があるかを調査した。
東海道で調査を行った、浜松市の人はほとんどがこの真赤な酢ダコを知らなかったが、静岡市の72%の人は知っていた。そこでその間の天竜川が境界かと考え、川の東側にある磐田市で調べると、96%の人が知らないという。次にその東の大井川を跨ぐ島田市で調べると川の東側の人は知っているし、西側の人は知らなかった。そこで、島田市の大井川を境界線とした。
 [拙注: 島田市は大井川により東西に分かれており、旧国名で東は駿河、西は遠江(とおとうみ)であった。川による分断、国名の別により川の東西で食事の習慣も違ったものになっただろう。しかし一事が万事、その他の習價も異なるだろう人びとが一つの行政の市に住んでいて問題はないのだろうか]

20) 東京では食パン1斤の8枚切りが最も売れている。大阪ではこれは少なく、一枚が厚い6枚切りが多い。
 [拙注: 大阪人は表面カリカリ、中モチモチの厚いパンを好むようである]


Ⅱ.言葉・習慣

1) お好み焼きを鉄板の上で裏返したり切ったりする道具を東京ではコテというが大阪ではなぜか逆にしてテコという。
 [拙注: お好み焼きを食べるのに箸を使うのは正道に反する。テコの片端に上手に乗せて口に運ぶのが正しい]

2) 大阪の中心部の難波(なんば)に老舗の蒲鉾屋で’大寅(だいとら)'という店がある。東京にも支店を出しており、東京人の好みは大阪と少し異なり昧を少し変えているという。
 [拙注: その話を大阪の難波の本店ですると、もちろん本店でも知っているが「大阪の方がいい味でっせ!」と言っていた]

3) 大阪で有名なトンカツ屋でKYKという店がある。大阪府下に11店。この店名は Keep You Kindness(親切一途)の頭文字をとったとの話があった。
 [拙注: 実はそうではなく、この店の前身が大阪東区の瓦町洋裁研究所であった。大阪にはこの種の話はほかにもありそうだ]

4) ビールの大瓶・小瓶のことを東京ではオオビン・コビンと言うが、大阪ではダイビン・ショウビンと言う。

5) 炊くとは水に浸した米を煮ることをいうが、関西では惣菜を煮ることも炊くという。
 [拙注: 関西の科理人が首都圏を席捲したのでテレビに出演することが多くなり、関西の用法が市民権を得た]

6) 大阪では洗髪に際し理容師が痒い部分の有無を尋ね、客は「頭のテッペンが痒い」などと具体的に答える。しかし東京の理容師は客に尋ねない。

7) 大阪ではハッキリした返事の必要のない曖昧な誘いがあった場合、断る返事として「行けたら行くわ」と言う人が多い。これを聞いた大阪以外の人は、余程のことがない限り承知したと理解する模様であるがこれは大きな誤解である。「考えときますわ」も同じ。

8) トイレットペーパーには一枚のシングル、二枚重ねのダブルの2種類があるが、消費量を調べると東京は8:2でダブルが、大阪は8:2でシングルが多いらしい。

9) 駅などのエスカレータの片側を空けるのに東京は右側を、大阪は左側を空ける。
 [拙注: 拙は京都の地下鉄で右側を空けている様子を見たことがある。関西も一様ではないようだ]

10) 大阪人は言葉の繰り返しが好きである。例えば「あの話聞いたか?」に対し、聞いている場合は「聞いた聞いた」と二度答える(途中に句点のない発音)。この繰り返しは大阪の人間にとっては普通だが、他の地の人には耳障りになるらしい。バカにされているような印象を受けるというのだ。「オッチャン居てるか?」「居てる居てる」も同じだ。
 [拙注: 大阪人は一回だけでは愛想がないという気持ちが働くのだ。また、ここで書いた「居てる」は難しい語だ。「居る」とは少し異なる。ホントに居るのである。強調した習慣としか言い様がないが、他の地の人には奇異に響くようである]

11) ここに出てきた「オッチャン」の話は、大阪で年長の人を親しく呼び掛けるのによく使う。「オッサン」はダメ、言われた方は侮辱された感じになるのである。
 [拙注: 拙はアラサーで大阪から東京に転勤したが、大阪時代に子どもが拙を「オッサン」と呼べばもちろんのこと、「オッチャン」と呼んでもその子を掴まえ「オニイチャン」と言え、と指導した]

12) 東京の街で近畿地方の府県の名前(大阪、京都、兵庫、奈良、滋賀、和歌山、三重の2府5県)を尋ねると多くの人が正しく答えるようだ。しかし、大阪の街で関東地方の都県の名前(東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬の1都6県)を尋ねると、多くの人が北関東3県(茨城、栃木、群馬)の名前が出てこない。
 [拙注: 近畿の兵庫・滋賀・三重には神戸・琵琶淵・伊勢神宮のあることはよく知られているし、その他は都市名と府県名が同じで分りやすい。一方、北関東の3県にも有名地である日光(栃木)、尾瀬(群馬)、日本三公園の偕楽園(茨城)があるのだが、これらを知らない大阪人が多いのだ]

13) 東京では11月の酉の日の“酉の市”、大阪では1月10日(前後の日も賑やか)の“戎さん(えべっさん)”が寒い時期の祭りとして有名だ。“酉の市”は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする浅草の鷲(おおとり)神社の祭りが一際有名である。一方“戎さん”は天照皇大御神を祭神とし、本社である兵庫県の西宮神社と大阪の今宮戎(えびす)神社が有名だ。この二つの祭りに共通するのが縁起ものである。“酉の市”では、金銀をかき集める意味の熊手に多くの縁起ものを取り付け、祭の市で売れると威勢よく祝いの手締めをする。一方“戎さん”では福笹と呼ぶ飾の枝に打出の小槌や酉の市に似た多くの縁起ものを取り付け『商売繁盛じゃ、笹持って来い!』と囃し立てて売る。
 [拙注: このような話になると「江戸時代から続く・・・」との枕詞がつくが、この習慣はまさしくそうだろう。しかし不思議なことに、大阪人も東京人もお互いの地にこのような似た縁起ものを大きく扱う祭りのあることを知らない人が多い]

14) 大阪城は大阪人の敬愛する豊臣秀吉が安上城をモデルに16世紀に築城したが、これは惜しくも大坂夏の陣で燃え落ちた。その後徳川幕府により別の位置に再建されたが、落雷により焼失、しばらく天守閣がなかった。その後19世紀に再び徳川幕府の手により再建された。しかし、明治維新の動乱の中で焼失。その後1931年、昭和の時代になって大阪市民の募金により天守閣が再建された。
 [拙注: 昭和の再建では「秀吉」の天守閣を蘇らせることに力が注がれた。「大阪夏の陣図屏風」などをもとに考証され、『徳川が建てた天守閣の位置に、大阪市民が秀吉の天守閣を再建した』と言われている]

15) 大阪は「都」に関しては京都よりも先輩である。聖武天皇が難波宮を都にしたのは、744年(天平16)であった。平安京(京都)への遷都は、その半世紀あとである。

16) 大阪では電車の中での会話がうるさい。そこで大阪人は東京の車内は静か過ぎると言う。

17) 大阪人は東京でタクシーを利用して、運転手が話しかけてこないのに驚く。

18) 英エコノミスト誌に世界中の住みやすい都市のランキングがあった。大阪は世界で12位で、11位がチューリッヒ、13位がジュネーブ、大阪はアジアで1位であった。因みに世界の1位はバンクーバで、東京は18位であった。
 [拙注: 大阪市長は大喜びだろう!]

 

◇東京と大阪の言葉の違いを列記すると

 
「大阪」の地名

   豊臣秀告が建てた城は『大坂城』、土偏の大坂を用いているが市内に大きな坂は存在しない。強いていえば、淀川から上町台地にかけての緩い坂を大江の坂と言ったが、それが語源か。

 これが現在の大阪に変わったのは明治時代になってからである。都が東京に遷都され、大坂の繁栄が下火になった。この時、大坂の宇を眺めると「坂」は土偏に反っくり返る、「土に帰る」で衰退を意味することから「坂」を「盛ん・多い」の意味がある「阪」に改め縁起を担いだ。これを境に大阪になったとされるが、実際には江戸時代から坂と阪は併用されていた。1806年(文化3)発行の「増補改正摂州大阪地図」には「阪」の字が見られ、天保年間建立の住吉大社の当時の灯籠にも「大阪」の表記がある。
 
以上
 

  
 

 

 

 勝部日出男さんの投稿

  

☆ 健康長寿の秘訣・第2弾 ☆
稲垣さんのマンスリーレターに続く第2弾
2014年12月
勝部 日出男
 
 どうしたら若々しく健康長寿できるだろう? 郷里の母は今年で100歳になる。ボケずに元気なので本当に子孝行なお袋だ。仕事柄最近親交深い健康長寿研究者順天堂大学院白澤卓二教授から学んだ事等を基に母の健康長寿の秘訣を考えてみた。

1. マ(豆類) ゴ(胡麻ナッツ類) ワ(若布海藻類) ヤ(野菜類) サ(魚類) シ(椎茸類) イ(芋類) 食事が基本。時々外食、赤身肉を食べ、FastFoodや(砂)糖質塩分の多い食事をしない。(10歳若返るとの説あり)
2. 傍の畑で姉と野菜果物栽培(短時間労働と日光浴)で新鮮な物を食べる。
3. 毎日の日課は新聞のクロスワード解きで、映画好き。
4. 折々美容院にて髪を整え、おしゃれに気を配る。
5. 毎日一度は抹茶をたてて飲むことが昔からの習慣である。
6. 家事はもちろん、75歳まで仕事を持ち、町中を歩き回っていた。
7. 90歳過ぎても近くの公民館で合唱に参加していた。

 最近はボケ防止もかねて白澤教授ご推奨のココナツオイル,ココナツミルクを使う料理や珈琲(特にトリゴネ珈琲*)にココナツミルクを入れるように勧め、更に年に4,5回帰郷するたびにハグハグするようにしている。それも帰郷土産として楽しみにしているようだ。
 こうした母の生活は抗加齢研究成果にも適っている。バローロという合唱団にて月2,3回土曜日午後に様々な曲を歌い、その後の赤ワイン懇談交流を楽しんでいる私としては、これも最高秘訣の一つと密かに考えているが、k-unetが催す料理教室とかパソコン習熟教室とか運営参加ボランティア活動なども効果の高い秘訣の一つ。皆さん、k-unet活動参加とともに健康生活習慣・ボランティア活動により健康長寿で100歳まで目指せるかも!

 註* 珈琲生豆に本来沢山含まれている記憶保持機能物質トリゴネリンを独自低温焙煎法の開発により多く残したトリゴネ珈琲として販売されているもの

<追伸> 勿論最新の老化長寿研究では、染色体の先端部にあるテロメアの長さが寿命を決め、そのテロメアを長くするテロメラーゼ酵素を誘発する物質やテロメアが短くならない幹細胞を増やす物質も発見され、再生医療や化粧品等に応用されている。それによる若返りや長寿化も現実化し、更に開発研究が深化している。
 
以上
 

  
 

 

 

 服部尚彦さんの投稿

  

無線山・KDDIの森
服部 尚彦
 
先日友人から次の様な情報を頂きました。

◯ 緑のトラスト協会なる法人があり、最近講演会を開き、その中で埼玉県内に13カ所のトラスト保全地域があって、この中に『無線山・KDDIの森』との名称で新しい保全地域が指定されたとのニュースです。 この一帯はこれから土地取得に向けて動き出し武蔵野の森として開発されずに残せる様になるらしいです。

◯ 平成25年6月、「無線山」の愛称で親しまれている小室地区の樹林地が、「無線山・KDDIの森」として、県内13番目の緑のトラスト保全地に指定されました。

◯ 後先になりましたが、この場所は昔の小室受信所跡地であり、またその後受信所の機能が無くなりKDD総合研究所、ゴルフ練習場、乗馬クラブなどが置かれ、サクラの名所として今も土地に愛されているそうですが、更に合併後は薬品会社に売却されてしまったと聴かされて居りました。 しかし、この軽井沢を思わせ広大な緑と何よりKDDIの名前で土地の保全が守られる事は我々OBに取っては嬉しいニュースと受け止めました。

◯ 土地の所有権などは分かりませんが、尤も、KDDIが加わった後の発表であり、kunetでも感知されているかも知れませんが、改めてご連絡致します。
 

 

 

 服部尚彦さんの投稿

  

世界遺産『ミディ運河』クルーズ
服部 尚彦
 
 丘に走る線路より高い石橋梁、河川の橋の更に上に掛かる石橋、そこにカラフルな船が通っている。考えられない所に水路が有るらしい。昔、ヨーロッパで見た此の点景に、機会があれば此の様な所をクルーズしたいと思い続けていました。此の年になって漸く機会に恵まれ、宿願を果たす事が出来ました。

◯ どこをクルージングしたか
 クルージングをした場所は、17世紀に南フランスを縦断して、ジブラルタル経由より3,000kmもショートカットして地中海と大西洋を結んだ世界遺産の大運河です。ピエール・リケは、大西洋側に流れ込むガロンヌ川の源流、海抜450mに貯水湖を作り、他方は複雑な地形に絶えず此の水を供給しつつ進み、水路を7運河橋と64を越すロック(閘門)とで水位調整して地中海に繋ぐ長さ240kmの運河建設を14年掛けて成し遂げました。今回の旅行は、乗船地カルカッソンヌから下船地アグド経由、地中海に面するトー湖までの約140kmを一週間掛けて船旅をするものでした。

◯ どの様な船で走ったか

 船はキャナルー社の長さ12.9m、幅4.2m、の大型船を借用しました。同乗メンバーは家人、息子家族、友人を含めて6名でしたが、船は8名用、キャビン、大型ラウンジ、キッチン、シャワー、トイレ、洗面台、フライブリッジ、等装備されていました。操船技術、動力油、バッテリー、給水などに関する知識は30分程度の実技訓練と簡単なレクチャーだけで、直ぐ船の鍵を渡されました。船は、制限時速8kmで、規程では船舶免許を必要としないのです。

◯ 大型船を無免許運転した
 操船は車と比較して、前進、後進は兎も角も、方向を変える舵が後方にあり、船体は大型バスの長さ、幅共1.4倍位大きさの平底船ですし、船自体に直進を保つ機構は無いので、車とは大分勝手が違いました。時々運河の流れに船が直角になり、周囲のブッシュに突っ込んで抜け出すのに往生しました。しかし、数日後は全員が船長気分を楽しめ、息子等は縦列駐船、後退による並列駐船、方向転回など難操作も巧みになり、お任せでした。  

◯ 航路と周囲の景観は
 航路幅は十分にあり、途中数箇所には比較的大きな街に隣接したポートがあり、給電、給水、が可能です。17世紀から続く航路で特に狭い場所は、ロック内、世界初の手掘りマルパ運河トンネル、多くの石橋でした。船の幅ギリギリなので、突端に金具が付いた棒で船の両舷で守る係、操舵士は低い橋底を伏せの体勢でやり過ごす必要がありました。航路の周りは一面の葡萄畑やのんびりした田舎の風景が続き、航路は左右、南北に大きく蛇行する変化に富んだ航路でした。南フランスの夏の厳しい日差しを避ける為に、両岸には45,000本のプラタナスと糸杉の並木が延々と植栽されて緑のトンネルを作っています。航路は所々で大小の川と交差し、オルブ川を跨ぐ98mの世界初のベジエ大運河橋をはじめ、多くの跨川石橋が出現していました。此の風景こそ旅の願望の発端であった訳です。 初め船上生活は退屈ではないかと心配でしたが、操船、狭い石橋通過、トンネル通過、頻繁に現れるロックで船側、岸側での舫操作などは全員配置、港での給水、給電等で、退屈の文字は杞憂でした。名物であるロックは4隻程度で満杯、特にフォンセランの7段連続ロックは22mの水位差を一気に調整する場所で壮観でした。

◯ 陸中のクルージングでの楽しみ

 船尾には国旗をはためかせ、岸にペグ打ち込みでの係留、大規模ポートでの係留後、田舎町の観光、土地レストランでの賞味、土地産物の買出し、ワイナリー、古代要塞都市遺跡の見学を楽しみました。生活シーツ、タオルの交換などはポートでサービスをしてくれますし、離船時と夜間は施錠とカーテン締めをする程度で快適・安全でした。航行中は屋上のフライブリッジでの緑に包まれた飲食でユッタリとした時間を味わいました。行き交う観光船や同類船、両岸の小径のサイクリング、トレッキングの人達と手を振り合い、街中もフレンドリーで、外国での心理的疎外感は全く感じる事無く快適でした。下船地アグド経由して地中海に接するトー湖、マルセイアン街、アグド街の散策後、遂に離船時には、一週間愛着を感じて来ただけに寂しささえ感じました。

◯ 結びとして 
 近頃は旅行社お任せに慣れていたので、現地集合、現地解散の計画作りは久し振りで不安が先に立ちました。しかし、多方面に活躍する嘗ての同僚の助け、豊富なネット利用時間など、此の年齢でこそ企画が出来ることを実感した事や個人的宿願を果たせた事を喜んでおります。          


(ご参考)
 此の旅行は、フランス観光局のHPでも紹介されている運河旅行代理店(有)アドバンティス(代表:KDD・OB矢部静樹氏)が切掛けを作って下さいました。気持の若いうちに是非トライされては如何でしょうか。
 ℡:03-5314-5424、E-mail : info@canal.advantis-jp.net
http://canal.advantis-jp.net/
 
以上
 

  
 

 

 

 久保勝一さんの投稿

  

インターネット公開オンライン大学講座を受講して
(喜寿の挑戦)
久保 勝一
 
 喜寿を迎えた今年、何か新しいことに挑戦・学び直してみようという気持ちが沸き上がり、いろいろと思慮した結果、日本のインターネットの父とされ、「Mr. Internet」と呼ばれることもあり、かつ英語圏では「インターネット・サムライ」のニックネームを持つ村井 純 慶應義塾大学 環境情報学部教授・同学部長が講師をつとめるインターネット公開オンライン大学講座 (gacco) (無料) を受講・勉強することに決心しました。50数年ぶりの大学生になったつもりで、5月26日から受講を開始しました。
 受講する方法は、まず、メール・アドレスとパスワードのみで受講登録しました。
 本講座の場合、わずか1ケ月の短期間に4回配信される延べ39回の動画をYou Tubeで視聴し、計52問の設問に対する答案を提出する方法でした。具体的な内容は下に示します。
 講座内容は、中身の濃いアカデミックな講義が、ハイペースで進められました。そして、ほぼ10日ごとに課せられる設問、難問山積み・答案提出日が迫るなど、幾度か窮地に立たされましたが無事最後まで挫折せず到達することができ合格、修了証を頂きました。
 受講生の中には、40-50代のIT技術者なども沢山いたようです。合格者の最高齢は、男性78歳、女性71歳だったようです。私も2番目の高齢者として終了できました。

1) 本講座のシラバスは次の通りです。
  講師: 慶応大学 村井 純先生によるgacco講座    テーマ:「インターネット」
[講座内容] 本コースでは、インターネットについてその構造から社会的意義まで多角的に議論する。基礎技術を始めとして、インターネット上での現在話題のサービス、インターネットが創造したグローバル社会、インターネットの社会的インパクトや生活基盤への貢献など、未来への展望に関する正確で高度な理解を目的とする。インターネットが社会のライフラインのための基盤として確立され、情報の流通量・範囲・速度は劇的に向上した。人間や環境のあらゆる挙動がダイナミックに変化するデータとなり、情報産業は常にイノベーションを創出する。インターネットは、情報や知識を数値で表現するデジタルデータを基本として構築される。デジタルデータを取り扱うツールが数値を演算する機器、コンピューターである。コンピューターが相互に接続され、デジタルデータが自由に流通する環境がインターネットとなる。 デジタルコミュニケーションの高速化・活発化はグローバル社会のあり方も変えた。これからの社会は「アフターインターネット」の社会であり、インターネットによる情報流通を前提とする新しい社会が生まれた。経済のグローバル化や知識の共有の自由度が増加し、教育や健康など、ヒューマンセキュリティにも大きな貢献を期待される一方で、国や文化の多様性と尊厳をどのように「アフターインターネット」の社会で築くかは人類の新しい挑戦となって来ている。このような新たな課題への取り組みは、グローバル・ガバナンスと呼ばれ各国の政府だけでなく、国、産業、コミュニティ、個人などすべてのグローバル社会への参加者、すなわち、マルチステイクホルダによるあたらしい地球社会の構築が始まった。
本講義を受講することにより、インターネットが社会基盤として存在する環境を前提として、インターネットやデジタルデータと、産業、教育、健康、エネルギー、環境など、すべての分野での新しい発展との関係を正しく理解することを目標とする。

[カリキュラム]
* 第I週目 : インターネット テクノロジー
  インターネットがどのように構成され世界を繋いでいるのか、ユーザになじみ深いアプリケーションから掘り下げてアーキテクチャを解説する。インターネットの社会的意義や役割、設計理念についても講義する。
 講義動画の公開:5月26日(月)課題提出の締切:6月 1日(日)課題. 選択式問題 10問(各1点 計10点)

1-1. はじめに 1-2. インターネットの魔法
1-3. インターネットの原理 1-4. インターネットのアーキテクチャ
1-5. インターネットの根幹 1-6. インターネットでデータを送る
1-7. インターネットに参加するコンピューター 1-8. インターネット通信の質
1-9. ネットワークのネットワーク 1-10. インターネット社会の礎 (ケーブル)
1-11.インターネット社会の礎 (無線) 1-12.LANとインターネット

* 第II週目: インターネット プラットフォーム
  インターネット上の様々なサービスが稼働するための、共通のプラットフォームについて解説する。
 講義動画の公開:5月26日(月)課題提出の締切:6月 8日(日)課題. 選択式問題 10問(各1点 計10点)

2-1. クライアント サーバ モデル 2-2. HTMLとHTTP
2-3. ブラウザとweb 2-4. グローバル インターネットの発展(スケーラビリ ティ)
2-5. オーバーレイ ネットワーク 2-6. ストリーミング通信
2-7. 対話型アプリケーション(通信の遅延) 2-8. クラウド コンピューティング
2-9. サイバーフィジカルとIoT(Internet of Things) 2-10. ビッグデータ
2-11. インターネットと脅威(セキュリティ)

* 中間課題 : 公開日:5月26日 課題提出の締切:6月 8日(日) 課題 5問(各5点、計25点)

* 第III週目: グローバル インターネット
インターネットは国境のないグローバル空間を形成した。そのグローバル空間の誕生と様々なグローバル社会へのインパクトを議論す る。
 講義動画の公開:6月2日(月)課題提出の締切:6月 15日(日) 課題. 選択式問題 10問(各1点 計10点)

3-1. サイバーセ キュリティ 3-2. インターネット オペレーション
3-3. インターネット ガバナンス 3-4. グローバル エコノミー
3-5. 知財とプライバシー 3-6. インターネットと文化
3-7. 標準化

* 第IV週目: インターネット前提社会
  インターネットが前提となる社会が形成された。ここでは医療や農業、報道など、あらゆる分野がインターネット基盤を利用してまったく新しい方法で発展している。それぞれの分野の具体的な事例を学習し、未来を展望する。
 講義動画の公開:6月9日(月) 課題提出の締切:6月 22日(日) 課題. 選択式問題 10問(各1点 計10点)

4-1. インターネット推進政策 4-2. 自然災害とインターネット
4-3. メディアとインターネット 4-4. 集合知とソーシャル
4-5. 行政とインターネット 4-6. デジタル ファブリケーション
4-7. オリンピックとインターネット 4-8. 都市とツーリズム
4-9. インターネット前提社会

* 最終課題 :公開日:6月12日(木)最終課題提出の締切:6月25日(水)最終課題 7問(各5点、計35点)
* 閉講(講義映像の公開期間終了)8月3日(日)  修了証発行 開始日:7月10日(木)
 

 日頃、パソコンやインターネットに関しては、Webページの閲覧・メールのやり取り・Word 、Excel 、Power Pointなどアプリケーション・ソフトの操作など実用面での利用が主体ですが、本講座では、上に示したように“インターネットがどのように構成され世界を繋いでいるのか”など沢山のことを学びました。例えば、世界におけるインターネットの利用者数は、27億4千万人(ITU,2013年)で、年々増え続けていること。また、インターネットの人口普及率を国別に見てみると、ノルウェーが93.9%(ITU,2011年)で1番普及率が高く、第2位以降は、オランダ、スウェーデン、デンマーク、フィンランドとヨーロッパの国々が続き、韓国が第8位(約83%)、日本のインターネット人口は、図に示すように利用者数9,652万人,普及率79.5% (H24年度末)のようです。誰もが参加できる「インターネット」になってからは、ほんの20年程度ですが、これほど短い間に、これだけ発展したインターネット、現在も伸び続けています。また、インターネットの世界は、ISOC (Internet Society;インターネット協会)と呼ばれる集団の下にICANN (The Internet Corporation for Assigned Names and Numbers)という非営利民間組織を核に運営・管理されています。さらにこの下には、タスクフォースや下部組織が世界中に配置されています。日本では、JPNIC (Japan Network Information Center; (財) 日本ネットワーク インフォメーション センター) を中心に活動しています。
 ほとんどの人類がインターネットを使い、ほとんどの分野や生活にインターネットが貢献する時代が来ています。一方では“アフター インターネット”という言葉が囁かれ始めました。インターネット社会の今後の見通しは、どうなるのでしょうか?
なお、この講座は、非常に人気が高く、来年度も開講される見込みです。

2) インターネット上で誰もが無料で受講できる公開オンライン大学講座
 最近、話題になっているMOOC (Massive Open Online Course ;ムーク) は、インターネット上で誰もが無料で受講できる大規模な開かれた講義のことです。代表的なプラットフォームとしては「Coursera」「edX」や、日本版としてはJMOOCが提供する「gacco」「OUJ MOOC」があり、条件を満たせば修了証が交付されます。
ここに、いくつかを紹介しておきます。
Gacco  ( http://gacco.org/about.html)
JMOOC  (http://www.jmooc.jp/)
MOOC LIST (http://www.mooc-list.com/)
東京大学 (http://www.juce.jp/LINK/journal/1303/02_02.html)
Cousera  (https://www.coursera.org/utokyo)

JMOOCではどのように学習するのかを見てみましょう。
 
 
開講の数ヶ月前には受講受付が始まります。開講講座一覧 の受講受付をしているものから受けたい講座を探します。開講日からは講義動画を見て週毎の課題を提出し、総合点が修了条件を満たしている場合は修了証が発行されます。
 
 上記各講座の受講方法(一般例)
 
 
 1週間が基本的な学習の単位になっています。その週の間に見るべき講義が5本から10本公開されます。各講義は10分程度の動画(You Tubeで視聴)で見終わると確認のための小テストが提示されます。このセットをその週の間に5セットから10セット学習します。学習が終わると課題が提示されますので、提出期限内に提出します。これが1週間の学習内容です。1ヶ月コースであれば、これを4週繰り返し、最後に総合課題を提出して完了です!週毎の課題と総合課題の全体評価が修了条件を満たしていたら修了証がもらえます。

 最後になりますが、今回の講座では、非常に沢山のことを学びました。アカデミックに学ぶ機会に参加できたことに感謝しています。「自分のキャリアを振り返る良い機会」となりました。これまで、刺激されなかった新たな心の扉が開くような「あっ、これが大学で学ぶ内容なのだ!」とあらためて気が付きました。市民大学講座ではないから、難しいのは当たり前のことだと自分自身に言い聞かせました。人に教えることも大変ですが、それ以上に新しいことを学ぶ楽しさを実感しました。
目下、受講した内容を復習、ノートの整理をしています。
 
以上
 

  
 

 

 

 森弘道さんの投稿

  

迎賓館の見学に行ってきました
森 弘道
 
 
 今年の4月頃だったでしょうか、当ホームページで、迎賓館見学を紹介した來山征士さんからの短信を拝見し、ダメモトで申し込んでみました。ところがラッキーなことに、8月29日の分が当たりました。家内と二人で張り切って出かけました。当日は時たま雨がぽつぽつという天気でしたが、あまり暑くもなく、館内はもちろん、庭園も気持ちよく見学できました。

 迎賓館は、明治42年に東宮御所として建設され、後に赤坂離宮と呼ばれるようになったネオバロック様式の宮殿建築です。実際には皇室の利用はほとんどなく、戦後は国会図書館とか内閣法制局とかいった行政用に使われ、一時は東京オリンピック組織委員会がここに置かれたそうです。その後、国の迎賓施設とするべく大規模な改修が行われ、昭和49年に完成しました。三度に及ぶ東京でのサミットも、ここが舞台となりました。平成になってからも大規模な改修があり、平成21年に現在の姿となり、この年、創設当時からの建物、正門、主庭園の大噴水が国宝に指定されたそうです。

 全く予備知識もなしで出かけたのですが、白く塗装された鉄柵による正門、そして建物の正面はまさにバッキンガム宮殿といった面持ちで、その威風に圧倒されました。館内は、中央に赤絨緞が敷かれた大階段、上りの際には朝日の絵、下りには夕日の絵を仰ぐ趣向となっています。階上には4つの大広間があり、それぞれ趣きを異にした西洋宮殿風の内装が施されています。まさにヴェルサイユやシェーンブルンの世界です。明治時代、世界に追い付き、追い越せと、積極的に西洋文明を取り入れ、それを模倣した時代だからこそできた建築とつくづく思いました。しかし、部品を輸入して組み立てた数多くの大シャンデリアには、能面などの日本的な装飾を追加したり、西洋の宮殿の壁には不可欠の油絵に代えて、西陣の金華山織や七宝焼きの花鳥図など日本の粋を集めた工芸で装飾するなど、単なる模倣ではないことに、私たちの先達の意気を感じさせられもしました。

 館内外の案内には大勢のボランティアの方があたっておられ、素人解説ながら、木目の細かい解説で、とても参考になりました。大変残念でしたが、館内は撮影禁止でした。

 建物背後の庭園の目玉は大噴水。大規模で見事な噴水です。頭部と翼は鷲、下半身は獅子の架空の動物(ギリシャ神話のグリフォンか?)が四隅をがっちり固めています。盛大に噴出する水は、宮殿の背面を見事に引き立てていました。とても良い景色でした。

 申し遅れましたが、ご紹介いただいた來山さんに感謝します。来年も申し込みの時期になりましたら、再度ご紹介いただければと思います。会員の方々にお勧めです。
 
以上
 

  
 

 

 

 青木丈夫さんの投稿

  

茨城衛星通信所跡へ行ってきました
青木 丈夫
 
 26年程前のことですが、お客様団体の付き添いで茨城衛星通信所に行ったことがあります。門外漢の私ですが、整然と並んだパラボナ・アンテナ群はその後も記憶に残っていました。

 偶々昨年12月北茨城の温泉に行く機会があって、思い立って衛星通信所の跡地へ行ってきました。
 アンテナは高台にあるので、直ぐ見つけることが出来ましたが、その後が大変でした。
 牧場やら苗木の試験場がある一角に迷い込んでしまって、通信所の正門があった辺りにたどり着くまでには随分と時間が掛かってしまいました。

 残されたアンテナは2基だけで、現在は茨城大学の管理となっているようです。
 写真でご確認頂けるように、広大な敷地にある桜並木は健在でした。
 
(2013年12月26日撮影)
 
以上
 

  
 

 

 

 大竹忠一さんの投稿

  

終戦前後の私
年月日
大竹 忠一
 
ふと気が付けば86歳 光陰矢のごとし 

昭和18年3月26日逓信省に採用され国際電話調整所(通称ボーダス)に勤務した、国際電話と申しましても太平洋戦争の為相手局は極めて少なく同盟国であったドイツのベルリン、イタリヤのローマ 中立国スイスのベルン、日本と友好関係にあった南米のブエノスアイレスぐらいで、あとは日本の勢力下にあった新京、上海、台北、昭南島(現シンガポール)、パラオ、マッカサルでした。

戦局は日本の敗色が一段と濃くなり職場の先輩も一人又一人と出征していった。

昭和20年7月初め、私にも命令下った。陸軍参謀本部通信隊軍属という肩書で新潟県佐渡郡相川気象観測所に赴任した(佐渡と新潟間の無線電話建設工事)。8月10日新潟へ戻れとの命令があったが船が無く新潟港に着いたのは8月14日夕方でした。港には日本の駆逐艦3隻が停泊していた。これを見ていた人々は「日本はまだまだ負けんぞ」と叫んでいたが、翌15日正午に日本は連合軍に無条件降伏した。

この報で体中の力が抜けたようになり、何もする気がしなかった。

昭和21年4月頃進駐軍の要請によりマッカーサー司令部のルーフ・ラジオ・ステイションで働くことになった。条件は当時の月給と同額の進駐軍手当が付いた。その他休暇は日曜日とクリスマス半日で正月は1月元旦1日だけ、仕事の内容はVHF通信機器の保守運用でした。

約1年半の勤務を終えボーダスに復帰した。
 
以上
 

  
 

 

 

 久保勝一さんの投稿


KDD社 業績 年表  (通信・放送関連事項を含む)   (第1版)

久保勝一   
(作成:2013-10-26)   

 当時を振り返り、こんなこともあったと思い出す手助けに“KDD社 の業務実績“ をメインとした「年表(第1版)」を作成しました。目次の各タイトルをクリックしてください。該当ページがポップアップします。是非、ご利用になってください。
 また、「年表  ( 第1版 )」をより正確・充実させるために、[参考]となる情報の提供、文献や資料などの貸し出しなど、ご協力をよろしくお願いします。

    


目   次


 
原資料(jpegイメージ)のダウンロードはこちらから
 

 


  

 

 

 

 嶋田英一さんの投稿

 
こちらをクリックすると嶋田英一さんご提供のKDD絵葉書をダウンロードできます。

 


  
 
 

 

 

 堀井勉さんの投稿

  

ピアソラをご存知ですか?
堀井 勉
 
 ピアソラ - Astor Piazzolla は1921年、アルゼンチン生まれの前衛的タンゴの作曲家です。正確には、「アストール・ピアッソーラ」(日本式はアストル・ピアソラ)です。

 リベルタンゴ ? Libertango、 アディオス・ノニーノ - Adios Nonino、ブエノスアイレスの四季、 ブエノスアイレスの夏 - Verano Porteno、ブエノスアイレスの秋 - Otono Porteno、 ブエノスアイレスの冬 - Invierno Porteno、ブエノスアイレスの春 - Primavera Portena など数々の名曲を残しました。
 オランダの新国王とアルゼンチン出身のマキシマ王妃との結婚式の時に、王妃の父が参列できなかったことを悲しみアディオス・ノニーノ - Adios Noninoが演奏されました。

 先日、ピアソラの曲を中心に演奏活動をされている松岡真貴子さん(バイオリニスト)のライヴ・コンサートが赤坂のラテン・ミュージックのライブ・レストラン「アンベ・クアトロ」で開催され、KDDIスペイン語サークルの皆さんと一緒に観賞しました。
 
参考:ピアソラ「天使のミロンガ」
 
 
以上
 

  
 

 

   嶋田英一さんの投稿

 

 

懐かしいKDD
- KDD ANNUAL REPORT 1988から -
平成25年2月
嶋田英一
 
 
皆さんとともに昔のKDDの姿を懐かしみましょう。
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
以上
 

  
 

 

   興野龍介さんの投稿

 

ー その3 ー
平成24年11月
興野龍介
 
(帰国を待つスリルの日々)
ソ連兵の蛮行
 終戦後の数ヶ月間は、ソ連軍が駐留しており、マンドリン銃(自動小銃)を肩に、単独で一般民家に押し入り、女性を捜したり、めぼしい物を強奪していった。 我々は、ソ連兵が来てドアーをドンドンと叩いたり、ソ連兵の姿を見ると、女性は、押し入れに隠れたり、裏口から隣の家に逃げ込んだりして難を逃れた。残った男性や子供は、土足で上がり込んだ兵士のなすがままに、ただ怯えながら見守るだけだった。
 彼らは、数ヶ月間主要なビルなどに駐留し、満州国内にある重工業用の工作機械などを続々と運び出していった。

どさくさ紛れ
 ソ連軍が撤退した後には、国民政府軍(蒋介石軍)が、進駐してきたが、交代する数日間は、全くの無法状態となり、日本人(小生を含めて)も中国人も入り乱れて、ソ連軍撤退後のビルに入り込んで金になりそうな物品を探しては、手当たり次第掻っ払って(略奪?)来るのが流行っていた。
 因みに、降雪のあった早朝、近くのビルからソ連兵が撤退したのを察知した小生は、早速そり(雪上で荷物が運べるようにした手製の物)を引いて掻っ払いに出かけた。
 その時の小生の戦利品(?)は、通信機器についていた真空管)4・5本と小型のトランス(変圧器)1個、小さな四角い缶詰1個、一斗缶11個。モービル油が半分くらい入ったドラム缶一本である。 これに味を占め、その日の夕刻先生の息子(小学4年生)を連れて再び侵入したが、既にめぼしい物は残っていなかったので、そりを引いてビルから出てきたところ、中国警察官に見つかり、二人とも捕まってしまって警察署に連れて行かれた。そこでは何をされることでもなかったが、こちらは子供と若い青年の二人のため、冷やかし半分に脅かされたりして、夕方暗くなってやっと解放された。
 無法状態とは、人々の心をこのようにしてしまうものなのか、不思議なことに、このような略奪並みのことをやっても、 良い物を見つけたという感覚で、少しも罪悪感が無かったことである。

戦利品の処理
 このとき得た戦利品(?)は、真空管は市場に持っていっていくらかに売れたが、缶詰の中身は、白濁で弼状のもので何か判らなかったので数日経って廃棄したが、先生から『アレは阿片だったらしい、もし持っていたら、あの缶に入りきれないほどの札束になったそうだよ』と言われてびっくり。
 11個の一斗缶は、印刷用のインキだったが、友人が「ブローカーを知っているから、売り捌いて上げる」と行って持って行ったが、数日後、「あれは、ブローカーに持ち逃げされた。申し訳ない」といってきた。 これもパーだ。
 トランスは、同居で、別室にいた技術屋さんが、「これを巻直して使えば、水道が凍結しているのを溶かすことが出来るよ」との助言があり、措置をして貰って、いよいよ[水道溶かし業]を始めた。
 この小さな機械をソリに積んで引っ張り、日本人の家庭を一軒一軒「水道は凍っていませんか」といってまわった。これは結構成功して商売になったが、同じ商売をやっているところに声を掛けてしまって、「商売の邪魔をするな」と怒鳴られ、怖くなって方々の態で逃げて帰った事もあった。

市 街 戦
 5月頃になって、今まで統治していた国民政府軍は、八路軍(中国共産軍)に包囲され、市街戦が始まり、政府軍は孤立し、救援物資が空からパラシュートで投下されていたが、風の為政府軍の上空を通り過ぎて、八路軍部隊に着陸するのが多く見られた。
 この市街戦では、我々日本人は、流れ弾を防ぐため、窓に畳を立てかけて、隙間からこの戦闘模様を眺めていた。この戦闘で、隣家には迫撃砲弾が着弾して、2階部分が破壊された模様だった。

札束の箱の山
 戦闘が終わって、銃声も聞こえなくなったので、小生はリュックサックを背負って、戦闘で死亡した兵士の死骸が、そのまま転がっているのを,目を覆いながら吉野町(当時の繁華街)方面に出かけたが、途中でソ連兵が撤退したらしい大きなビルから煙が出て、その中から幾人かの民衆が出入りしているのを見掛け、何か獲物がありそうだと思って、飛び込んだところ、ジャガイモが山のように保管してあった。今日は、これで一日の仕事になったと思いリュックサックに一杯詰めて帰ることにした。
 ところが、途中、大同広場の満州中央銀行から、茶箱ぐらいの大きさの白い箱を担いで出てくる人々がいるのを見て、これは札束の箱だと直感。 小生は直ちに、いままで背負っていたリュックサックを、近くの植木の茂みに入れ、急いで銀行内に入ってと行くと、講堂の真ん中にこの箱が山積みにされていた。 中には幾つかの箱が壊されて、五十銭札の札束が散乱しており、小生はこの札束を5~6冊ポケットに入れ、初めて見る札束の山に興奮しながら、箱の一つを担いで道路に出てきた。
 ところがである、混乱の警備に当たっていた八路軍兵士に、拳銃を向けられ、その箱を元に戻してこいと警告された。 不思議と怖くはなかったが、やむを得ず近くにあった防空壕に入れて隠し、再び何食わぬ顔をして、木の下に隠しておいたリュックサックのジャガイモを背負って家に帰り、このことを先生に話した。
 午後から先生に見張りをして貰う事にし、先ほどの防空壕に入ったところ、その箱は在ったが、中身の札束は、既に誰かに持ち去られていた。 全く、泥棒に取られたトンマな泥棒とはこの事だ。 因みに、ポケットに入れてきたお金は2~3百円あり、小遣いになったが、数週間後、この五十銭札は、使用禁止になった。

内地送還
 中国共産党が勝利を収めた後は、八路軍の軍律も厳しくて、市内の治安も良くなり、日本人も落ち着いて生活し、避難してきた人々は、それぞれ市場で商売をしたり、日雇い労働者になったり、中国人の家庭に住み込んだりして暮らしていた。(同期生のK君は八路軍に入隊して、中国各地を転戦,重慶あたりまで行き、13年後の昭和33年に帰国した。)
 終戦後約1年が経った昭和21年7月、急遽内地送還命令が出て、技術引き継ぎのため残留することになった者を除き、荷物一人1箇のみを持って、無蓋貨車に乗せられ、いよいよ帰国することになった。
 この頃は気候も暑い真っ盛りで、無蓋貨車の上に掛けるテントも、用を足す便所の用意もなく、動く車上の片隅にバケツを置き、これに用を足していた。列車は、屡々途中で停車したが、何時発車するかもしれないため、うっかり下車して用でも足していたら、大地に取り残されることになる。
 数日後、小都市の避難民収容所に到着、畳や板張りもない屋根の下(土間だったと思う)のアンペラの上で過ごし、引き揚げ船が配船されるのを待った。

懐かしの故郷へ
 数日後、漸く引き揚げ船の手配が出来て、渤海湾に面したコロ島から米軍の上陸用舟艇(LST)に乗船、昭和21年8月9日、長崎県佐世保港に上陸した。
 埠頭に於いて、米軍MPの監視の下、頭から背中、また、持ってきた手荷物まで、真っ白になるほどDDTの消毒。
8月13日懐かしの故郷、熊本に帰郷した。

あ と が き
 振り返って見ると、この日は偶然にも終戦直前,東京城を撤退してから丁度一年が経っていた。
 この間、実際には無法状態の中で随分と危ない目にあったり、愉快な事もあったが、今はただ、少年のころの貴重な体験として、懐かしい思い出だけが残っている。
 ただ、戦後生まれの方には、この記録が、全く滑稽でお伽噺話のように聞こえるかもしれないが、これが約70年近く前の敗戦時まで、比較的物資も豊富で生活も豊かな暮らしをしてきた人達が、一瞬にして無一物の避難民となり、住むところも収入もなく、明日からの暮らしの糧を如何にして得ていくか、この人達の心理状態がどの様に変わっていったか、ご理解頂けるのではないでしょうか。
 
(了)
 

  
 

 

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ー その2 ー
平成24年11月
興野龍介
 
やっと畳の上に
 その翌日、電電社員100余名が集結している市内の工事用社宅に入り、6日ぶりで、畳の上に脚を伸ばし、夜は、布団に寐ることが出来た。
 ここでは、途中から局長が不在となったため、付き添って守ってきた局長の奥さんが、不安と疲労のため、夜中から悪寒がして発熱したが、それようの薬も無く、小生の布団を提供して介護したが、徐々に症状も回復してきた。
 その後は、避難列車を待つため数日間滞在していたが、ソ連軍兵士の執拗な住居侵入があって、腕時計や万年筆などの貴重品が取り上げられたが、婦女子は、頭を丸刈りにして男装したりして、素知らぬ振りをしていたので大事には至らなかった。

屈辱の避難列車
 数日後、避難列車の手配がついて出発することになったが、途中の治安が悪く貴重品や現金などは、暴徒に襲われ略奪されるかもしれないとの情報があり、小生は、まだ隠し持っていた万年筆や腕時計を宿舎の回りにいた中国人に売り渡して現金にした。 そして彼らに襲われても発見されないように紙幣を柔らかく揉んで違和感がないようにして着ていた衣類の裏側に縫いつけた。  
 その他の連中もそれぞれベルトの裏側に貼り付けたり、或いは、こよりにして、下着のゴム通しの部分に縫い込んだりして隠し持った。
 時季は、9月半ば頃のため、夜は冷え込むが昼間はまだ暑い最中ではあったが、出来るだけ身につけられる物は着込んで、最初の避難目的地である新京(現長春市)に向かう事になったが、夜になっても列車が到着せず、駅前の広場で待つことになった。 ここでは、我々難民の隙を見て荷物をかすめとろうとする輩が徘徊していたので、婦女子や荷物を中心にして、男性が回りを囲んで待機していた。
 深夜になって出発することになったが、列車は常にのろのろ運転で、駅でもない所に停車した。その都度マンドリン銃(自動小銃)を持ったソ連兵が乗り込んできては、まだ大切なもの(勲章などの貴重品)を処分しきれないで、隠して持っていた人は、それらを取り上げられたり、他の車両では、女性が拉致されて、辱め受たものもいたとのことであった。
 このような事があって、漸く目的地の新京駅に着く直前、列車が停車したと思ったら、急に車内が騒がしくなり、今度は、中国人の暴徒が棒きれを振り回し、威嚇しながら、ドヤドヤと乗り込んできて、身につけ隠し持っていた現金、特に女性には、男性の目の前で下着のゴム部分にまで手を入れ、縫い込んだ現金を取り上げ、又、網棚に乗せていた子供連れの家族の物を含めて、それぞれの全財産を入れたリュックサックなど、根こそぎ大きな袋(麻袋)に入れて強奪していった。 これで我々一行の大部分は、全くの無一物になってしまった。 偶々小生は、暑いにもかかわらず防寒着を着込んで下着の両肩に縫いつけていた紙幣(400円位だったと思う)は発見されずに済んだ。
 それにしても、これだけの屈辱を受けながら、何一つ抵抗することも出来無かった当時のことを思うと、これが敗戦国民の置かれた立場だったのかと、全く無念で、痛恨の極みである。

難民となって
 こうして電電本社がある新京に辿り着いた。
 ここでは、我々と同様,東北満州から殆ど無一物同然で、続々と避難して来る社員のための避難対策室が設けられ、家族毎に分散し、独身者は独身寮に、それぞれ自給生活をすることとなった。 
 今まで同行してきた局長の家族は、会社の援護に委ねる事としたが、その後この家族はどの様にして生活し、帰国されたかは定かではない。 おそらく病弱な2年生の子供を抱えた若い母親には、食べることにも事欠いていたのではないだろうか。噂によるとこの少年は,栄養失調で死亡したとのこと、今でも気に掛かる事柄である。
 市内では、既に方々で日本人による市場が開かれ、市内に在住していた人達は、自宅の家財道具や衣類などを売り捌いて暮らし、また、先着した難民達は、生活用品や食料品の販売などの商売をして活発に活動していた。そこでは、戦時中には簡単には手に入らなかった砂糖や米、着物や洋服、日常雑貨から食料品等あらゆる物資が豊富に出回っており、盛況を呈していた。
 さて小生は一日も早く生活費を稼ぐ手段を講じなければ食べていけなくなるので、先着していた同室の友人に習って、お菓子の立ち売りを始めることにした。 まずは、早朝に起き出して、4.5キロ離れた市場に行って、和菓子を仕入れ、部屋にあった机の引き出しに雑誌の紙を敷き、お菓子を並べて、腰のベルトを外して首に掛け、これに引き出しを乗せ、生まれて初めての商売に、胸をドキドキさせながら、街頭に立ち大きな声を張り上げて売り始めた。
 ところが、なんと小生のお菓子はいとも簡単に売り切れてしまった。そこでまだ売れ残って、隣で一緒に売っていた友人の物を手伝っていた。

幸運・恩師との巡り会い
 こうして、目の前を通る人々の顔を見ながら立ち売りを手伝っていたところ、急に目の前で「おい興野ではないか、お前良く生きていたな」と声を掛けてくれた人がいる。 全く夢のようであった。其れはまさしく小生が慕っていた通信学校時代の恩師で国語の教官のS先生だった。 先生は、当時本社の人事部に転勤になって、会社難民の援護事務所に勤務していて、続々と避難して来る社員名簿に小生の名前がでて来ないため、家族共々大変心配して下さっていたとのことである。
 早速翌日から先生の家庭にお世話になることになり、幸運にも内地に引き揚げてくるまで、衣食住に困ることもなく、東北満州から避難してきている多くの同窓生が、衣食住に困り、中国人の家で住み込みで働いたり、あるいは寮生活で栄養失調やパラチブス(シラミなどで感染する)で死亡している中で、自分だけがこのような苦難もなく、本当にラッキーだった。
 先生は、帰国後小学校の校長や国語検定委員などを勤め、定年後は、晴耕雨読、奥さんと菜園などを楽しみながら、しっとりとした老後を過ごしておられたが、10数年前ご夫妻を訪問(広島県)し、当時の思い出話し等をしながら、お礼を申し上げた。
以上
 

  
 

 

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ー その1 ー
平成24年11月
興野龍介
 
まえがき
 昭和20年(1945年)8月、あの終戦の年から早67年が経った。
 この記事をお読み頂いている方の中には、戦後生まれの方もおられると思いますが、第2次世界大戦終戦直後の、旧満州国(現中国東北部)における私の少年時代(当時18才)の、生涯二度と体験することのない、最早「死語」になりかけた「敗戦」当時の思い出の数々を、記録や記憶をたどりながら、拙文ではありますがk-unetサイトに投稿致します。

敗戦国民の惨状
 この終戦を境にして、日本の「内地」にいた人々にとっては、焦土の中であれ、終戦は夏の晴れた青空の様に開放感の伴うものであったという。また、灯火管制の為の黒い布をとった裸電球の明るさに、「平和と自由」を実感した人も多かったとのことです。
 他方、旧満州国においては、支配民族として君臨した日本人はまさに戦争が終わった瞬間から、侵略の責めを負う敗者として、苦難の日々の始まりとなった。
 8月9日、ソ連軍の参戦により、ソ満国境近くにいた日本人は侵入してきたソ連兵や中国人暴徒に襲われ、親兄弟を亡くした子供や、一家の主人が軍に招集され、そのままソ連軍の捕虜となってシベリヤに連行されたり、或いは、職場を忠実に守るため、家族のみを避難させたため一家が離散し、避難途中で辱めを受けるのではないかと、幼児共々青酸カリで自殺した母親(当時のM先輩の奥さんもその内の一人)、過酷な逃避と衣食住に苦しみ、断腸の思いで、幼児を現地人に預けたり放棄したりせざるを得なかった母親、その現実が、今も続いている中国残留孤児の肉親捜し(朝日新聞2012年24年10月17日朝刊)、この目で見た敗戦国民の悲惨さと屈辱と忍耐は、筆舌に尽くす事ができない。      
 また、この一年の間に、異境の地で望郷の夢を抱き、焦りと苦しみに耐えながら、遂に帰国を果たせず、無念の内に、彼の地の露と消えて行った同僚も数多くいる。
自分自身は、若年のため身軽であったことと、幸運に恵まれたため、翌年の昭和21年8月9日(偶然にもソ連が参戦して丁度1年目)無事帰国し、郷里熊本の実家に帰宅することが出来たが、昨今の中近東における難民が、荷物を担いで幼児の手を引き乍ら徒歩で集団避難している姿や、略奪等の報道記事を見聞きすると、無法状態の中での当時の事が走馬燈のように脳裏に浮かび未だに忘れることが出来ない。

のどかな環境
 昭和20年4月、私は、現中国東北部の元渤海王国の王城があった小さな町の電報局に通信士として赴任した。局員は30名位で、この内日本人は、局長、技術主任、それに通信士の小生と、5名の電話交換手の計8名で、その他は現地人(旧満州人)要員であった。  
近くには関東軍の航空部隊とこれを守備する部隊がいて、軍事的には、東満州から南満州に通じる陸路交通の要衝であった。
 当時、沖縄では、既に米軍が上陸していて、日本内地の緊迫状態が、この東満州の小さな町にも伝わって来ていたが、空には航空隊の赤とんぼ(練習機)が飛び交っており、また、民間人として食料に困るようなこともなく、休日には、近くの湖沼に魚釣りに出かけたりして、戦争に負ける等とは思ってもいなかった。

ソ連軍の参戦
 同年8月9日,突如としてソ連軍の参戦(前述)となり、怒濤のようにソ連軍の戦車部隊がソ満国境を越えて侵入してきた。当時65万人と言われた関東軍の主力部隊は、前述の赤とんぼも含めて、何時の間にかその大部分が、主戦場となっている沖縄や南満州に転進しており、残った軍隊には、手にする十分な武器もなく、ソ満国境に置いては玉砕(全滅)する守備隊があったりして、在留邦人を救出すべもなく、南満州へと後退していった。
 後に残された数多くの開拓団や一般民間人は、統率の執れていない残虐非道のソ連軍兵士(囚人部隊といわれていた)によって、思うままに蹂躙され、略奪に合い、数多くの行方不明者をだして悲惨な運命にさらされた。 これらのことは、今まで発刊された多くの著書などにも記録が残されている。

撤 退
 ソ連の参戦後は、勤務時間外に、警察署との非常電話の架設などを応援していたが、8月13日、戦局は益々不利が伝えられ、 通信回線も途絶したため緊急事態を察知し、局長の指示により、日本人局員は家財道具を防空壕に搬入して隠し、貴重品と身の回りの品のみをリュックサックに詰め、折から南下撤退してくる軍用車両(トラック)の指揮官と折衝して便乗させて貰った。 当時、多くの電電社員が、関東軍の通信要員として派遣されていたため、「電電」の腕章を着けていると、軍からも優遇されていた。
 こうして、夜はトラックの下に潜って夜露を凌いで仮眠し、昼は延々と続く山また山を、濛々と土煙を上げながら撤退してくる幾十台ともしれない軍用トラックの列の中の一台の荷台に身を任せた。
 途中の山から牡丹江方面を望見すると、大きな黒煙が一筋空高く昇っており、多分弾薬庫等が爆破されたのだろう。
 走行中は故障して走行不能になった車両には追跡してくるソ連軍に利用されないように火が掛けられ、その炎と煙が天高く、幾箇所ともなく舞い上がり、まさに悪夢を見ているようであって、今でも脳裏から消えない一駒である。
 この途中で局長は、東満州から避難して来る電電社員の誘導支援のため、東京城に引き返していったが、その後は消息不明となった。

終 戦
 8月15日、鏡泊湖(現在は、中国東北部の観光名所になっている)に到着、幾人かの電電関係者の群れと合流,野営中に敗戦の情報を聞いたが、その時の感動は、あまり記憶にない。
 その後は、小さな軍用舟艇に乗せて貰い、湖を渡り,川を遡り、とある小さな船着き場に上陸した。
 これからは、トラックなどの便はなく、それぞれのリユックサックを担ぎ、あるいは、子供の手を引いて、ぞろぞろと、徒歩での避難民となった。
 翌日の夕刻、避難の中継地点である市街の手前の小さな橋のたもとに到着した。ここでは、武装解除を待っている数百人の日本人部隊が停止させられていた。(おそらくこれ等の軍人は捕虜としてシベリヤに送られた事でしょう)
 我々もここで待機させられ、橋の下で野営する事になったが、通信士としての責任上、今まで大事に腹に巻き付けていた暗号書を、技術主任立ち会いの下で焼却、暗号書を敵にとられた場合の自殺用として、腰に付けていた手榴弾を川に投げ捨てようとしたが、非力のため川まで届かず慌てたが、爆発しなかったので、難を逃れた。
以上
 

  
 

 

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VTC訪問

関根勝昭
 
 20年前、ロシア・ウラジオストックに国際通信の合弁会社「ボストーク・テレコム」(VTC)をつくるためKDDから3名の専門家(石垣英明さん、藤田徹さん、そして私)と、日商岩井の内山恒平さん(元VTC副社長)が赴任しオール日本の設備を設置。 その後私は約1年半現地で技術部長として技術・運用指導をおこなった。
 このたびVTCから20周年記念祝賀会の招待状が届き、6名(石垣英明さん、斉藤正範さん、金澤政和さん、鈴木常春さん、内山恒平さん【元日商岩井】、それと私)が6月28日から7月1日まで滞在した。
 


 久しぶりのウラジオでどんな変化があるか興味津々であった。これまでのロシアのペースなら陸橋1つかけるのに何年もかかったものだが、驚いたことに空港から市街への道路は高速道路並みに整備され、あちこちで住居の新築・補修工事がされていた。この変化はAPECが9月にここで開催されるのも大きな要因だが、聞くところでは多額の政府の予算がここ沿海州につぎ込まれているとのことだ。天然ガス・石油輸出の拠点になることも要因なのだろう。走る車は99%日本の中古車。コンクリートミキサー車に日本の企業名が入っていた。一部は新車も見かける。ロシア人の車へ欲求は強く、市内に入ると渋滞が予想以上だ。 
 記念祝賀会の前日、VTCの本社や衛星通信所などを見学した。途中ゼーマ前社長の墓に立ち寄り献花した。
 衛星通信所には今6基ものアンテナが据え付けられ、ロシア極東における国際、国内通信の一大基地の様相を呈していた。
 祝賀会当日、会場のウラジオストックホテルに招待客が続々集まってくる。当初予定を上回り190名とのこと。昔一緒に働いたサーシャ、セルゲイ、アンドレーたちと再会のハグや固い握手。祝賀会はまことに派手で戸惑ったが、“郷に入れば郷に従え”のとおり、私も一緒に大いに楽しんだ。会場では型どおりVTC20年間の歴史ビデオを大型スクリーンに写しながら解説(もちろんロシア語)があり、ビデオには機械設置工事や電話・テレビの運用作業にロシア人と一緒に私も写っていた(若い!)。
 
 VTC会社は順調に発展している(当初30人程度が今は120名の社員)。長年の労苦に対し、ロシア人たちに混じって我々も表彰され、ゲームセット(終わり!ではなくゲームの道具)をもらった。硬軟とりまぜてのこの祝典は、歌、バイオリン演奏、社員のパフォーマンス、芸術家の「砂絵」、など多彩な催し。その間、ディスコダンスタイムで多くのロシア人(私を含め日本人もみな)がダンスに興じた。日本人タイムでは各人が自己紹介、そのあと用意したロシア語・日本語の歌集で『百万本のバラ』『カチューシャ』を合唱。私は日本語で歌いリードしたが、最後に大きな拍手と「ハラショー」の歓声。ロマン社長(20年前一緒に仕事した仲間)の奥さんは元歌手だそうで、一緒に1曲ハモった。

 街の様子はと言うと、あちこちで道路や建物の補修、新築工事などが行われているが建物自体は100年以上昔からの煉瓦造りが多く、それを大事に保存しながら新しい装いに変えてきているという感じだ。以前は道路に面した店のドアなど牢獄の扉のように陰気で重いのが普通だったが、見違えるようになっている。道路は幹線道路以外は信号が少なく、平日の移動は混雑で大変苦労する。日本ならすぐ苦情が出て整備されるだろうがロシア人は極めて我慢強い。
 以前は、食料品店に並ぶ生鮮食品は少なく、どこの店でも長い列を作って買い物をする光景が普通だった(そのためか多くの人が郊外にダーチャという自家農園を持っていた)。今度行ってみて驚いたのは大きなスーパーがあったことだ。食料品は豊富で、生活必需品も揃っている感じだ。ロシアならキャビアが安いと思ったが、偽物は700円程度だが、本物は小さな瓶詰めでも9000円以上するのであきらめた。
 VTCが所有する丘の上に建つ125メートルの鉄塔を見学。丘の上からはかつてバルチック艦隊が停泊していたという金角湾が見渡せる。湾に架かる巨大な橋が目の前に、そして遥か遠くのAPECが開かれるというルースキー島への橋もかすかに見える。鉄塔はVTCの携帯電話中継などに使われている。20年前、国際通信改善のために合弁会社をつくったのだが、その後、国内通信に重点を移しているためで、VTCの発展もその見通しがよかったためであろう。
 ウラジオに滞在していたとき、よく町の露店を回った。常設の屋根付きの店のそばに仮設テントなどであらゆる物を売っているのはロシア人よりも韓国人、中国人が多かった。ロシア人はよく「日本は尊敬されている、韓国などは下に見られる。」と言っていたが、泊まったのはヒュンダイホテル。周りには韓国系の食べ物屋もあり、テレビなども韓国製が多い。韓国、中国に日本はおされている感じだ。
 当時をふり返ると、合弁会社設立に尽力された小関常務、松平国際部長(当時)はじめ多くの方々の苦労が思い出される。私自身は合弁交渉には加わっていなかったが、ロシアとの交渉に数多くの困難を経験した斉藤正範さん、鈴木常春さんの話などから、その苦労ははかりしれないものを感じた。事業立ち上げでは、常駐する3名以外でも事前交渉や設置工事に数十名の人たちが協力。NEC技術者も含め20名以上が厳寒のウラジオストックの古びたホテルに宿泊し、マイナス20縲怩R0度の中、ロシア人と一緒にアンテナや機械設備設置に頑張った。金澤政和さんに言わせると、「2年かかる工事を3ヶ月で仕上げるなんて脅威だ!」。 現地派遣の私たちの頼りは石垣さん(元VTC副社長)だったが、今回もロシア側との窓口となっていただき、他の者たちはただ参加するというスタンス。お世話になりました。
 今回のVTC訪問で忘れかけていたロシア・ウラジオストックの思い出が一気に吹き出した。ロシアとは領土問題など難問がある中で、お互いに理解することが友好を保つ上で大切だ。せっかくの有意義な経験を何かに生かしたい、ロシア語を再度学び通訳なしでも自由に会話ができればいいな、と思うこの頃だ。
以上
 

  
 

 

   松田隆治さんの投稿

 

 

故郷河内の評判が気になる

松田 隆治(高 7期)
 
私の故郷は河内
 私が故郷河内の地を離れたのは18歳で早稲田大学に進学したときである。以来57年、私は旧KDDに入社して間もなく神戸の国際電報局に勤務した1年間を除いて、ずっと東京とその近くで暮らしてきた。「故郷は遠きに在りて想うもの」と詩に詠われたとおり、私も故郷のことを懐かしく想い出すし、その評判も大いに気にかかる。東京にいるとよく「お国はどちらですか?」と聞かれる。私は決まって「大阪です」と答え、さらに「大阪はどちらですか?」と聞かれると、「富田林です」と答えてきた。しかしこれを「河内です」と答えようものなら、とたんににやりとされ、ああ、あの柄の悪い所から出てきた人だと思われるのが嫌だからで、このことを私よりずっと後で東京に出てきた富田林高校の同級生と話していたら、「僕にはそれが出来ないんだよ」と嘆いていたが、彼は河内長野の出身であった。私はその彼らと「在京富七会」(東京近辺にいる富高7期生の会)を立ち上げ、現在もその万年幹事をしている。
 河内が柄の悪い所と全国の人たちに思われるようになったのはそう遠い昔のことではない。私が大学に進学した昭和30年頃、今東光が八尾の小さなお寺の住職をしていて河内の風土や人間に親しみ、「闘鶏」、「こつまなんきん」、「河内風土記」、「東光太平記(楠正成)」など一連の河内ものの小説を書き、ともに世に出て以来のことである。彼は郵船会社の船長の息子として横浜に生まれ、父親の転勤で函館などの各地を転々とし、川端康成とは旧制茨木中学の同級生であった。長じて出家し天台宗の僧侶となったが、すでに文壇の重鎮であった川端康成などに勧められ小説を書くようになった。私は今東光の小説は読んだことはないが、学生時代に唯一「河内風土記」の映画を観た。その映画は生駒山や二上山、河内平野を流れる大和川の景色、闘鶏に熱狂する人たち、河内音頭の歌声に合わせ団扇を持って盆踊りをする人の群れなどを背景に、寺に出入りする檀家の助平な男たちと派手な格好でチャラチャラとしてモンローウオークで腰を振って歩く軽薄な女などと の人間模様を面白おかしく描いていて、河内弁で怒鳴り合いの喧嘩をするようなシーンはなかったと思うが、その映画を観て私はそれら登場人物のことよりも今東光を好色なエロ坊主だと思ったことを記憶している。今東光が河内のことをどのように小説に書いたのか私はわからないが、河内のことを全国の人たちに広く紹介したのは今東光が最初であったことは確かだ。
 河内についてはそのずっと後に中河内生まれの歌手中村美津子が「河内おとこ節」を唄い、これが全国的に大ヒットして我々も故郷のことを想いながらカラオケで唄ったものである。
一方大阪については谷崎潤一郎や織田作之助などの文学作品をはじめ、いわゆる大阪ものの映画、演劇、流行歌、テレビドラマなどを通して大阪の街や人々の生きざまが様々に描かれ伝えられた。通天閣がある新世界のじゃんじゃん横丁の賑わいや、騒動などがあって釜ヶ崎のドヤ街など猥雑な街の様子もテレビでよく報道された。また大阪から若いお笑い芸人たちが続々と東京に出てきて、テレビでどぎつい大阪弁で掛け合い漫才やどたばた喜劇などをして、面白いが柄の悪さや品のなさを印象づけた。さらに関西を本拠とする暴力団山口組が東京をはじめ全国に進出してきた。
 そしてそうこうするうちに何時の間にか河内のイメージが我々河内出身の者が知っているものよりもグロテスクなものに誇張され、河内はすごく柄の悪い所だと全国の人たちの固定観念になってしまった。それというも地元大阪市内や河内の周辺の人たちが自分たちに降りかかる火の粉を払うかのように、柄が悪いのは河内なのだと言い立て、地元の人たちが言うのだからと真実味をおびて信じられたからである。いったんそのような悪いイメージが定着してからは私など河内出身の者がいくらそうではないと反論しても誰からも納得してはもらえなかった。

大阪と河内は違うのか

 私は学生時代に上京して以来ずっと標準語を話しているが、本社の課長だった頃、昇進で私をライバル視していた同じ部にいた河内長野のずっと奥の和歌山県橋本出身の学卒で1年先輩の人から聞いてきて、私の課の東大出の若い社員が「課長も河内の出身だそうですね。すごく柄の悪い所なんでしょう?」と不躾に話しかけてきた。私は「本当はそんなにひどい所じゃないよ」と笑いながら反論したが、彼には全然納得してはもらえなかった。その頃、同じ階の隣の部に印象悪く思われているのを知ってか知らでか、河内弁丸出しで大声で話をする年配の管理者が大阪支社から転勤できていたせいもある。
 
 そうして我々河内出身の者まで本当に柄が悪いのは今東光がいた中河内で、富高への通学区域でもあった南河内は違うのだと苦しい言い逃れをしていたこともあったが、昭和も終わりに近い1980年代、南河内の河南町に出来ていた大阪芸大出身の若い漫画家たちが「南河内なんとか」(私は劇画の類も全く読まないので詳しいことは知らないが)というタイトルの河内弁で怒鳴りまくる劇画を書いたので、私たちも悪いのは中河内だと言い逃れすることも出来なくなった。
 私の長女は大学を出てある大阪の財閥系銀行の東京本社に就職し、結婚するまで秘書として勤めていたが、ある日役員と秘書たちとの雑談で河内のことが話題になったので思わず「私の父は河内の出身なのです」と話したそうだ。私が南河内から出た楠木正成や河内源氏のことをお国自慢で誇らしげに子供たちに語っていたからであろう。娘は大阪から来た役員に「河内は本当に柄が悪い所なんだよ」と言って笑われたそうで、帰って来て「もうあんなことは言わない」と悔し涙をためて私に話したことがある。
 そのようなことがあったので今年後期高齢者になった私は、河内が柄の悪い所と思われる原因についていろいろと考えてみた。

河内のルーツ
 そもそも河内の国は飛鳥時代に明日香から見て大河淀川の内側にあるのでそう名付けられたのであろうが、奈良時代にそこから茅渟(ちぬ)の海(大阪湾)に近い和泉の国が分離された。戦国時代に豊臣秀吉が天下を統一して大坂城を築き、摂津、河内、和泉の人たちは平和の到来を期待したが、さらに二度の大坂の陣が起り、河内から大坂城にかけて激しい戦場となった。大坂夏の陣が終わり長く続いた戦乱の世もようやくしずまったが、摂河泉の所領配置は入り乱れ、すでに複雑なものになっていた。豊臣勢を打ち倒すために長年苦労を重ねてきた徳川家康は天下の台所大坂の重要性に鑑み、大きな外様大名はもちろん我が子の大名でさえ摂河泉には入れようとはしなかった。そして苦心して幕府直轄領、旗本領、小さな大名領を一層入り組ませ、岸和田藩の5万3千石を最高にあとはいずれも5万石以下、しかもその間には諸藩の飛び地や幕府の直轄領を入り組ませ、古文書に書かれている「碁石を打ちまぜ候やう」にしたのである。摂津には高槻藩(3万6千石)と麻田藩(1万石)、和泉には岸和田藩(5万3千石)と伯太藩(3千6百石)が置かれ、河内には丹南藩(1万石)と狭山藩(1万石)が置かれたに過ぎなかった。大坂城を除けばお城のある城下町となったのはわずかに岸和田藩と高槻藩だけであった。
言語などの文化はその国や地方の支配階級のものが浸透するとされている。京都の言葉はお公家さんや女御たちの言葉が入っているのだろうか。現在東京で話されている東京弁ないし標準語は、徳川氏が三河弁を江戸に持ち込み、その江戸弁に明治政府が長州弁や上方の言葉を加えて出来てきたものである。摂津大坂は城下町でもあったが、有力な豪商がいて商人の街であった。明治以降の大阪も豪商が財閥となり商工業都市として著しく発展したが伝統的に商人文化の街であり、「もうかりまっか?」、「ぼちぼちでんな」の大阪弁は確かに商売にうってつけの言葉である。翻って河内は、前述したような事情から大藩金沢100万石に比べるまでもなく小藩2つ合わせても2万石しかなく、武士の数が最も少ない地方であった。そのためこの地方に土着の百姓たちの言葉や風習が色濃く残ってきたものと考えられる。

河内弁のイメージ
 現在の河内は大阪のベッドタウンになっているが、大阪市内に比べればまだ田舎であり、大阪の下町が持つ猥雑な面や暴力団に絡まれそうな物騒なことは全くない。では何故そのように柄が悪いと思われるのか。河内の中で同じ者同士でいればあまり気が付かないかも知れないが、河内弁はどうしても残念ながら他の地方の人たちに柄が悪く聞こえてしまうのである。なかでも一部の言葉、怒鳴ったり声高に言うときの言葉、特に男性がそれを使う場合(もっとも女性は元々男性が喧嘩するときのような乱暴な言葉は使わないが)、言葉それ自体が持つ語感に柄悪く聞こえる原因がある。それらの言葉は他の地方の人たちの言葉に比べすごく汚らしく、泥臭く、品が悪く、乱暴で恐ろしくも聞こえてしまうのである。
 例えばその最たるものに巻き舌で叫ぶ「おんどりゃ! われっ! 何さらしてけつかる!」という言葉がある。「おんどりゃ」は河内では昔から軍鶏(しゃも)(私たちは子供の頃「喧嘩鶏(けんかどり)」と呼んでいたが)という勇敢な鶏による闘鶏が盛んに行われていて、その雄鶏(おんどり)からきているのであろう。闘鶏で雄鶏に叫んだり、野良犬や野良猫を追っ払ったり、牛を叱ったり、悪童たちや喧嘩相手を怒鳴りつけたりするときに使われていた。軍隊で使われた「貴様!」、東京で使われる「この野郎!」と同じ意味で使われるが以前はあまり全国に知られてはいなかった。
 私の家とは親戚で同じ村に住む小学校の同級生で仲良しの明(あき)ちゃん という幼友達がいた。彼の父親は戦前に樺太現在のロシア領サハリンに渡り、そこで大阪や東京の中央市場などに向け北海の海産物を扱う商売を手広くやっていたが、終戦前に一家で故郷の村に引き揚げて来た。樺太で生まれ育った明ちゃんは私と同じ学年の男子組 に編入したが、校庭の隅にあった防火用の貯水プールに張った氷の上をすいすいとスケート靴も履かずに上手に滑れたし、東京風のアクセントでとってもきれいな標準語を話していたので担任の女の先生は国語の教科書を読むのをよく彼に当てた。しかし大阪市内から疎開で来ていた子供たちの「・・・へん」と語尾につける言葉使いも軟弱に聞こえた、いたずら盛りの我々悪童たちは彼を「樺太」、「樺太」と呼んだり、彼が母親を「お母(っか)さん」と呼んでいるのをまねて「おっかさん」、「おっかさん」と言ってからかった。すると彼は1年もしないうちに折角のきれいな標準語を話すのを止めて我々と同じ河内弁になってしまった。彼は富田林一中を出て引き揚げ後父親がやっていた小規模な農業を手伝いながら富高の定時制に通おうとしたが、入学して1週間目に煙草を吸っていたのを先生に見つかり退学になった。彼はその後大阪市内の町工場や商店などの職場を転々とし、「俺は隆(たか)ちゃんと違ごて学歴が無いさかい今えっらい苦労してるんやで、・・・」と私が学生時代に帰省したときに話していた。しかし彼は昭和40年頃ようやく1台の大型トラックを買い、村で運送屋を始めた。そして阪神地方の鉄鋼会社からの重い建設用の鋼材などを積んで、その頃までに整備されていた東海道や山陽道などの国道を東に西に長距離を殆ど不眠不休で日夜突っ走り、交通事故になりそうになったとき、あのような言葉を発していた。効果抜群、そのど迫力に相手は「皆んなびっくりして震えあがってしまいよるで、・・・」と話していた。彼は河内弁で遠く離れた地方の人たちを怒鳴りつけた最初のトラック野郎の一人であった。その頃大阪市内でも「河内ナンバーには注意しろ」と言われていた。実際には河内に「河内」と名のつくナンバーは無く、河内も含め大阪府南部の車は「和泉」ナンバーであったが、河内の若者たちがトラックやマイカーで大阪に行き、同様の言葉で怒鳴っていたためと思われる。明ちゃんとは私が帰省するたびに会って話をしたが、それまでの無茶な飲酒がたたったのか胃癌になり50歳代で亡くなってしまい、今は私が帰省しても村にはもう彼はいないし、私の父母も亡くなって久しく淋しい限りである。明ちゃんは決して根っからの悪(わる)ではなく、憎めない気の優しいいい奴で小学校の同窓会など改まった席では標準語で照れながら話をしていたことを懐かしく思い出す。
 やはり河内弁で特にどぎつく聞こえるのは男性が怒鳴ったり声高に主張する言葉でそれ以外の言葉は普通の関西弁であり、格別悪いとは思えない。もちろん女性の言葉も関西で一般に使われている言葉とそう大差はない。上品な京言葉とされる「はんなり」とか「まったり」とかいう言葉を私の母は河内にいて普段よく使っていた。このように殆ど大部分の言葉を共通に使い地方によって若干語尾が異なるだけであるのに、品の良いのは京都で、悪いのは河内なのである。富田林にあった大阪第二師範を出て小学校の先生や幼稚園の園長をしていた私の姉も職業柄何時もきちんとした標準語を話していた。
 要するに繰り返しになるが河内弁の特に男性の怒声など、その言葉自体が柄悪く聞こえるだけであって、もちろんのことだがそこに住む河内の人たちが皆人柄が悪く、下品なわけではないということだ。中河内に住んでいた歴史小説の作家司馬遼太郎は「河内弁は柄が悪いが、河内の百姓たちが太閤秀吉からそのまま使ってよいと許されたので天下御免なのだ」という趣旨のことを書いていたが、河内の知識人としてはちょっと暢気過ぎる。このように何時までも全国の人たちから河内だけが実際以上に柄悪く思われ続けているのを私は愛する故郷のために耐え難く、長く東京に住み故郷の評判を気にかけている人間にとっては重い問題なのである。
 河内ではもうずっと以前から大規模な養鶏場があちこちに出来ていて農家の庭先で鶏を飼うこともなくなり、私が子供の頃には村で行われていた闘鶏もすたれてしまった。そこで河内の人たちは喧嘩をするときはもう「おんどりゃ!」ではなく、「この野郎!」と標準語ないし東京弁で怒鳴ってはもらえないものだろうか?京阪神地方のサラリーマンも方言丸出しで声高に話す人は少なくなり殆どの人が標準語で話をしている。もう太閤さんの時代ではなく教育が普及しテレビやラジオから毎日標準語が流れているので、誰でも話そうと思えば標準語が話せるのである。河内弁で声高に話せばどうしても他の地方の人たちに柄悪く聞こえてしまう。日常努めて標準語で話し、河内弁が発する独特の泥臭さ、アクの強さを薄め、河内の評判を少しでも改善してもらいたいもので、私から愛する故郷の人たちへの願いでもある。そして今迄言われ続けた地元大阪市内や河内周辺の人たちにも巻き舌の東京弁で怒鳴り返してもらいたい。「この野郎!てめぇらっ! 悪いことをみんな河内のせいにするな!」と。(平成24年3月記)

本稿執筆の後で

 前記「故郷河内の評判が気になる」の原稿を富高の同級生やKDDの同期生、その他の親しい人たちにメールで送ったところ早速数名の方から感想を頂いたがそのうちの3通をここに紹介する。

 ★貴兄の母校富田林高校の校友誌「菊水卿」に投稿された立派な原稿興味深く、また懐かしく読ませて頂きました。思えば昭和39年当時東京オリンピックに関連してKDD河内送信所に何度か出張でお伺いし、町内の安い旅館に宿泊しましたが、私が言葉のあらい茨城県生まれの為か、鈍感なのか、柄の悪い印象など感じた事はおもいだせません。松田さんは意外と繊細なんですね!あまり気にしない、大らかに行きましょう。懐かしい河内の事飲みながらにでもいろいろ教えてください。(KDDの先輩ME氏)

 ★力作を早速読ませていただきました。河内出身者が持つコンプレックスと、ルーツ探しの気持ちがよく現れていて、共感するところが多くありました。自分自身を振り返って見ると、KDDへ入社して小野に転属になるまでの半年は東京の人たちがまぶしく見えましたが、関西での2年半の勤務を終えて東京に来たときには、もう余り感じなくなっていました。平気で大阪弁入りで話していたように思います。河内がガラの悪いところとして知られていたことについても、余り気にせず、問われれば河内の藤井寺の出身と言っていました。上辺より中身を大事にする気質とガラの悪さは同じものの表裏で、自分がそうならしょうがないというところでしょうか。唄わされれば浪花恋しぐれや河内音頭というのも、そんな気持ちだったかもしれません。おかげさまで久しぶりに河内出身ということに思いが及びました。(大阪大学を出て同じKDDに入った在京富七会のKY氏)

 ★松田さんの記事を興味深く読ませていただきました。河内はガラの悪いところという話は聞いた事はありますが、私はそのように思ったことはありません。楠木正成の話やその遺跡、また河内送信所の懐かしい思い出などがあるからでしょうか。松田さんは河内の方言を気にしておられるようですが、私はそれぞれの地方における方言や地名は大切に伝承していって欲しいものと思っています。高校の東京同窓会に出席するのも昔懐かしい方言が聞けることと話せることという楽しさがその理由のひとつになっています。松田さんは次のような詩をご存知でしょうか。「血でつながる故郷、言葉でつながる故郷、心でつながる故郷」この次お会いした時に河内の方言を聞かせてください。(KDDの先輩で退職後防衛大の教授もされ著作も数多く出版されている讃岐出身のKY氏)

 ところで今年はNHKの朝ドラ「カーネーション」が放送され、そこで全国的に有名な岸和田の“だんじり”がよく登場した。私も故郷の“だんじり”のことを懐かしく想い出しインターネットで建水分(たけみくまり)神社の例大祭のだんじり祭りを検索していたところ私が生まれ育った村である北別井(きたべっつい)の“だんじり”がYouTubeの動画で、勢いよく走ったり前後左右に激しくゆすったりする勇壮な映像が太鼓や鉦や笛の音と若い衆たちの掛け声とともに大音響で飛び込んできて驚かされた。水分(すいぶん)神社(建水分神社)は楠木家の氏神であったものを正成の時代にその領民も含めた氏神として祭られてきたもので、丑年生まれの私が数えで5歳のとき七五三のお祝で「もぉーん」(牛のこと)の模様の入ったセーターを着せてもらい往復2里(約8km)の道のりを母に連れられ歩いてお参りをした古い記憶がある。また子供の頃秋のお祭りで“だんじり”の綱を引いて神社近くの兵の間(へのま)(昔楠木軍の兵が集結したところと聞いた)へ行った。
 そこでは当番村の人たちが担ぐ大きくて立派な神輿がひとしきり練りまわって鎮座した後、30台近くの村々の“だんじり”が順繰りにその村の青年たちによる俄(にわか)(”だんじり”の上にある小さな舞台で行う即興芝居)が演じられた。そして夕方村へ帰る長くてきつい登り坂(胴の坂(どのさか)と呼んで敵兵の首を切った胴体を並べていたと聞いた)を激しく打ち鳴らす太鼓の音とともに「おーた、おーた、おーた、おーた、・・・」と掛け声をかけて一気に駆け上るその勇壮さに私たち子供もすっかり興奮したものである。このように我が故郷の“だんじり”は数の多さでは岸和田を遥かに上回っている。岸和田の名前の起こりも賢夫人と言われた楠木正成の奥さんが楠木軍の実務を取り仕切った和田氏の出でその和田一族が後に海岸に築いた城だから岸和田城と呼ばれたことに始まっていて我々の方が歴史は古い。
 私が生まれた村は楠木正成が南河内に設けた45の陣地のうちの一つ別井城(べっついじょう)があったところで、胴の坂の他にも高台には口(くち)の城、上城(うえんじょう)、中の城、奥の城が、谷筋には狭間(はざま)という地名が今もなお残っている。先に河内弁はこの地方土着の百姓たちの言葉であろうと書いたが、私の祖先もこの別井城に立て籠もり、何万とも何十万とも言われた敵を迎え撃ち、あるいは楠木さん(地元では親しみを込めてそう呼んでいた)とともに赤坂城、千早城と転戦した勇敢な兵士であったかもしれない。感想をいただいた最後のKY氏が書いておられるように、これらの地名も大切に伝承してもらいたいと思う。
 感想をいただいたお3方はいずれも私が河内の柄悪いことをあまり気にすることはないと言ってくださり、また河内以外の生まれのお2人は私も河内弁を話して河内のことをいろいろ教えてほしいとのことだが、インターネットで調べると富田林には河内弁の研究会があり、中世の公卿の言葉の影響があるとのことだが、具体的にそれがどのような言葉か教えていただきたいものである。
以上
 

  
 

 

   伊原昭男さんの投稿

 

 

福島だからこそ旅に出た
平成23年
伊原 昭男
 
 セブ島の『僕の村』に行く前に、家内と車で福島県を旅して参りました。猪苗代から始めて、裏磐梯、白布峠を越えて米沢(山形県)、小野川温泉、会津若松を廻って3泊4日。宿の「予約なし」で、気に入ったところで宿を取り、「次はどこに行こうか」と情報を集めながら、気ままな旅を楽しんだ。結婚間もなく、二人で21日間、アメリカを気ままに横断した(8,800km)ことがあったが、その時以来の旅スタイルだ。 風評被害の福島県は、どこに行っても、係員が暇にしているので、気軽に、かつ、とても丁寧に対応してくれた。 特に、「会津若松」は、通常、この時期、修学旅行の大型バスでごった返す大駐車場も、乗用車がポツポツだった。会津は初めてだが、奥が深いことが解り、とても気に入ったので、4日間の行動日のほぼ2日間をこの城下町で過ごした。 東北の小京都というと秋田の「角館」が有名だ。 確かに、角館の家並みは「視覚的に」小京都だが、・・・会津の城下町は、歴史的に、文化的に、精神的に、はるかに重みがあり、ずっと京都に近いと実感した。
 特に、私の場合、「会津」と言うと先ず「松平」さんを思い浮かべてしまい、どうしても興味が「松平家」に関するものに向いてしまう「せい」かも知れない。そんな中、松平家の庭園、「御薬園」を見学していた時だった。家内(薬剤師)が薬草に詳しいので、いろいろ珍しい薬草(例えば猛毒のジキタリスやハシノドコロなど)を教えてもらいながら、「いくらなんでも、松平さんが小さい頃にこの庭園で遊んでいた、なんてことはないだろうなあ」と思っていた。
 ところがどっこい、この庭園の中にある「重陽閣」(ちょうようかく)を見学していると、徳川家光の弟「保科正之」から始まる松平家の家系図を見つけた。そこに、「恒和」の文字を見たときには、飛び上がるほどビックリ、というより、飛び上がるほど「大喜び」し、家内を呼んだ。よく見ると、(話には聞いていたが)、あの「松平容保」(かたもり)が、本当に恒和さんの「ひいおじいさん」に当っている。今度は私の方が家内に、松平容保は新撰組を組織した人であることを説明した。「保科正之」----「容保」-「恒雄」-「一郎」-「恒忠・恒孝・恒和の3兄弟」 までが 記載されていた。

 さらに、昭和天皇の弟、秩父宮の妃・「勢津子」(旧・節子)さんが「おばさん」に当ることも知った。 勢津子さんについては、秩父宮さまに嫁がれた時、会津の人々が、「40年ぶりに(賊軍の)汚名返上が叶った」と、喜びに沸いたことも知った。 その理由もよくわかる。
 そもそも、孝明天皇に信望厚い「松平容保」は、京都を守るために京都守護職として迎えられ上京したのに、最後には賊軍の代表格のように扱われてしまい、松平家および会津の人々の無念さは計り知れなかったことだろう。 白虎隊は有名だが、武家屋敷に復元された家老「西郷頼母」(たのも)家の屋敷では、戊辰の乱での悲劇、「女性・子供達一門の自刃」という悲劇、の解説もあった。 そんな犠牲を払った会津の人々の悔しさは計り知れなかったことだろう。その会津の人々に「光」を差したのがこの「おばさん」だったのだ。白洲二郎とその夫人、麻生太郎ちゃんのお母さんたちとの写真も多く展示されていた。
 また、「鶴ヶ城」も非常に興味深かった。不勉強の私は、「伊達政宗」と言えば仙台と思い込んでいたが、米沢城に生まれた政宗は一時鶴ヶ城の城主でもあったそうな。
 しかし、これも「小田原攻め」に遅参したため、秀吉の処分を食らって仙台に追いやられたのが、真相のようだ。そのあとの城主が「蒲生氏郷」(うじさと)だ。 この氏郷はまた「お茶」の世界になくてはならない人物だ。

 今度も、お茶を学ぶ家内から、茶における蒲生氏郷の話を「初めて」真剣に聞いた。
 「利休七哲」の一人であるばかりでなく、秀吉の逆鱗に触れ自刃させられた千利休(宗易)、その2代目「少庵」(第2婦人の連れ子)を秀吉から匿った武将だ。城内に移設された「麟閣」(りんかく)を見学した時には、家内からさらに詳しい歴史-[ 宗易(利休)に始まり、少庵、元伯宗旦、3流派(表・裏・武者小路)、そして現在の裏千家家元、宗室までの話 ]-を聞き、これも改めて真剣に記録した。家内は、長年、お茶をやっているが、「伊達」にやっていた訳ではないことがよくわかった。
 さて、鶴ヶ城城主は、蒲生氏郷のあと、あの大河ドラマの上杉景勝(直江兼続と)に移り、また蒲生家に戻り、保科家、そして保科2代目の後は「松平家」に改姓され、今の恒和さんに繋がっている。 これはこれはおもしろい。もっとも、松平・本家は、恒和さんの「おじいさん」恒雄さんの代で、弟(恒和さんの大叔父さん)の保男(もりお)さんの系統に移ったようだ。現在の本家は、恒和さんとは「はとこ」の保久(もりひさ)さん(NHKディレクター。キャスターの方ではない。)だそうだ。これらは、「重陽閣」の説明係員を、家内と1時間も独占して聞き出した話だ。
 鶴ヶ城にまつわる歴史的な話は面白いが、建築物としては、私個人的には、城内の茶室「麟閣」の方が興味が深い。 千家2代目「少庵」が、自分を匿ってくれた蒲生氏郷に感謝を込めて造った茶室が「麟閣」だ。 質素を旨とする茶の精神が滲みこんだ素晴らしい「茶室」だ。秀吉の、成金趣味の、俗っぽい、「金の茶室」など想像するだけで汚らわしい。

 今の福島は本当に穴場だ。「空いているだろう」と敢えて選んだ常磐高速は、若干遠回りになるが、やっぱり空いていた。 会津若松の無料駐車場はどこも広くてガラガラで、有料駐車場の方には車がない。 どこに行ってもサービス満点で、係員やインフォメーションはいつでも親切に対応してくれる。 時にはこちらが話を切り上げたいくらいだ。 ホテルでお会いした原発被災者家族は、「もう、半年もここに住んでいるんですよ。 これから仮設です、どうなるのかなあ。」と疲れ切っていた。
 会津の城下町は知的満足感を刺激してくれる建造物や歴史の秘話がいっぱいだ。 
 山間の小さな小野川温泉の女将さんは客が少ないので話が止まらない。 「もう、ご飯を食べさせてよー。」道路脇の果物屋さんから、可愛そうなほど安くなった、(県知事お墨付きの)桃やりんごを買い、峠超えのビュー・ポントで ほおばった。 五色沼の毘沙門沼に貸しボートを浮かべたのは、我々の1艘だけで、大きな錦鯉が人懐かしそうに寄ってくる。他にもいくつもいくつも話はあるが、・・・切りがない。

福島の皆さん、頑張ってください。

そもそも、人間が制御できないようなものを造ってはいけない。世界中で動いている原発の使用後核廃棄物の処理方法がまだ見つかっていないのに、今日も核廃棄物を生み出している。核廃棄物が無害化するのに「10万年」と言われている。  さても10万年前の人間と言えば、人間(ホモサピエンス)の前のネアンデルタール人にまで遡ってしまう。ということは、今の核廃棄物が無害化するころは、人間は今の人間でないかも知れない。「つけ」を子や孫に廻す、 なんてどころの話じゃあーない。

原発を責めるだけでなく、我々自身も電気を使わないようにする努力が必要だ。
マンションによっては、「ガス」がなく「オール電化」しかないものがあるそうだ。 ふざけた話だ。 そもそも台所で「熱」を出すのに、なぜ途中で、「電気」に変換するのか。
化石燃料を電気に変換するのに、30%程度しか変換されず、残りの70%ものエネルギーは無駄に捨てられているのだ。 逆に電気を熱に戻すのも然り、必ず変換ロスが生じる。液体ガスや石油を直接台所に持ってくれば、100%熱になるのに、・・・・あほ臭い。

僕の場合は、我々の松平家を知り、歴史を旅する、お茶を知る旅、そんな旅だった。
皆さん、福島に行こう、福島の人たちを助けましょう。

10月26日から、いつものセブ島 『僕の村』に参ります。 今回で12回目。帰国は、これまた、いつもどおり クリスマス直前で、2ヶ月間の滞在です。澄み切った珊瑚礁の水の中、無重力、3次元の空間を、僕とのんびり散歩しませんか?
時々「計画停電」があって、そんな夜は道端に椅子を出し、生ぬるいビールを片手に、「ろうそく」を囲みながら皆で談笑する、そんな素朴な『僕の村』ですけど。
興味がある方はご連絡ください。 
以上
 

  
 

 

   稲垣和則さんの投稿

 

 

☆ 奇異な年・・・2011年 ― 平成23年 ☆
平成23年
稲垣 和則
 
 マグニチュード9の東日本大震災と大津波、そして原発事故、1000年に一度と言われる大災害に見舞われた2011年(平成23年)は、忘れられない年とし博士の愛した数式て、一生、私たちの脳裏に焼きつくことになるでしょう。
ところで、今年の年号の2011年―平成23年ですが、単なる偶然であって、決して大震災を予告しているわけではないと思いますが、2011と23は少し奇異な数字です。 このことを、映画化もされました「博士の愛した数式」の著者・小川洋子さんのコラム(文藝春秋3月号)の一節を引用しながら紹介します。
 2011と23は何れも素数という数字です。 素数とは1とその数以外に約数を持たない自然数で、2、3、5、7、11、13 ・・・といった数で、タイルを長方形に敷き詰めようとしても、1列にしか並べられないような数です。 23が素数であることは直ぐ分かりますが、2011もまた素数です。 さらに、2011は、次のように、連続する3個の素数の和であるとともに、連続する11個の素数の和でもあるといった不思議な数です。

連続する3個の素数
 ■ 2011=661 + 673 + 677
 連続する11個の素数
 ■ 2011=157 + 163 + 167 + 173 + 179 + 181 + 191 + 193 + 197 + 199 + 211

そして、この連続する素数の個数である3、11もまた素数であり、大震災の起きたのが3月11日でした。さらに今月、10年前の米同時テロで世界を震撼させたアルカイダの最高指導者ウサマ・ビンラディンが射殺されましたが、殺された日、5月2日(現地および日本時間)の5、2も、これまた素数です。
ここまでくると、単なる偶然というより何か因縁めいたものを感じざるを得ません。

 来年(2012年―平成24年)は、ごくごく普通の平穏な年になることをひたすら祈るばかりです。
以上
 

  
 
   服部尚彦さんの投稿

 

函嶺山荘の売却を惜しむ


平成16年8月24日
服部 尚彦


 函嶺山荘が、会社の施策の中で売却されると聴きました。 此処では、函嶺山荘の歴史を省みて、知らなかったと後の後悔とならない様に現関係の皆様の方々にご理解を頂きたいと本稿を書きました。
 明治13年渋沢栄一、初代KDD社長の祖父らが仙石原の広大な原野に牧場を開設した後、土地の半分を仙石原村に寄付、大涌谷温泉を利用した土地の再開発を計画し、開発会社を設立しました。一方、明治政府がドイツ人医学者エルウィン・ベルツに依頼して、受けた提言に従って、時の宮内省が箱根大涌谷の開発に着手し、源泉地区周辺を御料地として買収しておりました。
 宮内省、土地所有者、開発会社など関係者の努力の結果が大規模な給湯、奥箱根開発の原動力だったわけです。最近話題となっている全国温泉地の涌出量の低下に伴う諸問題がありますが、渋沢栄一の遺志を継いだ渋沢敬三(KDD初代社長)らが関与した「源泉の権利統合」は、大涌谷温泉にはその泉質から近代的な集中管理システムには適さないものの、これを成し遂げた全国で一番古いパイオニア的なシステムであるのです。
 現函嶺山荘の土地は、箱根仙石の歴史と開発に貢献と名を残してきた渋沢敬三の所有していた土地を譲り受けたと聴いており、箱根に多くの別荘、保養所がありますが、景観の中にそれらが見えることがない特別な位置に建てられ、社員の保養に貢献しているのです。
 お金の話で恐縮ですが、世にはお金で買える物とそうでない物があり、函嶺山荘はその位置付けを持っている稀有な場所であると考えます。
 正確ではないかもしれません。原因は利用者の減少対策、年間維持費3500万円の負担軽減、土地の売却額3000万円の取得を期待されているようですが、色々な対策が考えられた上でのやむを得ぬ売却ならば仕方がありません。
売却に至らぬ次善の策(場合によってはOBにも声を掛ける)が検討される事を願って止みません。


以 上