第29

  

 

 

LIGHT 光  テート美術館展 
Works  from the Tate Collection 
ターナー、 印象派から現代へ

 

東京展  2023/7/12 - 10/2  大阪展 10/26 - 1/14

 

(本稿掲載の作品の画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )

 

ターナー自画像

 9月上旬、東京の本展覧会へ行ってきた。入り口で出迎えてくれたのはターナー数点の作品群。これまでの私のターナー観は決して肯定的ではなかった。不鮮明な輪郭、ぼやーっとつかみどころがなく主題が分からない…。あれこれ調べていたら、我が意を得たりという文章に出あった。奔放な色彩と筆使いで描かれた、対象のはっきりしない絵は批評家たちから痛烈な批判を浴びていたそうである。伝統と過去の規範から逸脱しているターナーの作品を前にして「石鹸の泡と水漆喰」「卵とほうれん草」「ロブスターサラダ」と揶揄する表現が浴びせられたというのである。
 しかしながら、そんな批判のなかでもターナーは光と色彩をめぐる独自の作風を模索していった。あまりに革新的で斬新なスタイルは反感を買った時もあったが、ターナーはパトロンに恵まれ、創作活動を続けていくことができたのである。

ヴェネチア

 そして敬遠されがちとなっていったターナーの作品を絶賛し、ターナーの名声を世界的に広めたのは、ヴィクトリア朝時代の最大の美術評論家となっていたジョン・ラスキンであった。ラスキンにとって「ターナーは自然の全体系を写し取った唯ひとりの人間であり、この世に存在した唯ひとりの完璧な風景画家」であった。「彼の芸術は、自然の表層を正確に描写するだけでなく、見る者の精神をより深い思索へと導くからこそ重要である」と主張したのである。

ノラム城日の出

 ターナーは60才の頃から次第に写実的な描写を超えて、大気や水、光、炎といった自然のエッセンスを抽出し、ときに渦を巻くような自在なフォルムを用いて、その激しい動きや変化をとらえるようになった。人々は驚き、困惑したが、ターナーはこう語ったという。
「私は理解してもらうために描いたわけではない。ただ、このような情景が実際にはどんなものなのか示したかったのだ」

 国立新美術館の本展覧会における私にとっての珠玉の作品は、《光と色彩 ゲーテの色彩論 ―― 大洪水の翌朝 ――「創世記」を書くモーセ》である。
 ターナーはゲーテの『色彩論』から影響を受けた。東京美術『もっと知りたいターナー』を読んでいたら、その解説があったので一部を紹介してみたい。

光と色(ゲーテの理論)大洪水後の朝 モーセが創世記を書く

「洪水のあとに昇った太陽の輝きが画面を満たし、中空に座して『創世記』を書くモーセが新しい世界の始まりを告げている。人の顔のようなものは、ターナーがこの絵に付した詩にある「大地から立ち昇る湿った泡」に対応し、新たに生まれる生命を表していると考えられている。しかし彼は続けて『…希望の前触れは、夏の蠅のごとく儚く、湧き上がり、漂い、はじけて、死ぬ』と書いている。そこには生と死は永遠に循環するという、ターナーの思想が込められていると推測されている」

 そして、今般参考文献として読んでいたこの『もっと知りたいターナー』ではターナー作品を「崇高」という言葉で評していた。
「崇高…巨大なものや激しいもの、あるいは無限や暗黒や沈黙など、何か途方もないものが我々の心の内に呼び覚ます、強烈な畏敬の感覚を積極的に肯定していく美意識である」
「ターナーの絵画に繰り返し描かれた、険峻な山並みや壮麗なゴシック建築、嵐や吹雪、雪崩や洪水といった大自然の脅威などは、まさしく風景を介して崇高美を表したものであった」
「崇高」という表現がターナーの作品を最も端的に表現しているのではないかと思う。

 今回の展覧会を機に、すっかりターナーファンになってしまった自身に驚きもしたが、年齢とともに捉え方や感性も変化していくのかもしれない。崇高なターナーの絵を前にして、ターナーが見た現実の情景から精神の昇華と深い思索へ誘われているのを認めずにはいられない。
 日本人二人のターナー論を最後に記しておきたい。 夏目漱石「かのTurnerの晩年の作を見よ、彼が画きし海は燦爛として絵具箱を覆したる海の如し」 和田英作「コムポジションやデッサン等の事を考へるいとまもない実に驚くべき色彩に富んだ画家」

(2023.11.4)

 

 

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著者へのメッセージ

 

程度の低さに自虐、悲観

 島崎さんは、素敵な評論眼をお持ちなんですね、羨ましい趣味と感心。私も美術館にはいきます。特に絵は好きです、しかしただ見るだけで、どこがいいのか悪いのか分かりません。へー と関心するだけです。今根津の竹久夢二美術館で特別展をやっています、それを見に行きます。品格が全く違います。こちらは、まさに庶民の中の代表格です、更には、大正ロマンの代表であり、一時代(もう3時代前です)昔の象徴です。でも日本の絵もいいですよ、特に私みたいな懐かし物好きな人間にはね。これからも精々、楽しんでご鑑賞ください。 ***

12/15 樫村 慶一

 


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第28

  

 

 

生誕100年  山下 清 展  百年目の大回想

 

東京都新宿  SOMPO美術館 

2023年6月24日-9月10日

 

(本稿掲載の作品の画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )

 

長岡の花火

 

 山下清(1922-1971〔大正11-昭和46〕年)は放浪の天才画家として知られており、懐かしい日本の原風景や名所を貼絵で表し、多くの人々の心を捉えました。生誕100年を記念する本展では、代表的な貼絵の作品に加えて、子供時代の鉛筆画や後年の油彩、陶磁器、ペン画などを展示し、山下清の生涯と画業をご紹介します。日本各地を自由気ままに旅する生活を好んだ清は、驚異的な記憶力をもち、スケッチやメモを取らずとも、旅先で見た風景を細部まで正確に思い出すことができました。ときおり旅から戻ると、高い集中力を発揮して、手で細かくちぎった紙片を緻密に貼り合わせることで、超絶技巧的とも言える貼絵を制作しました。そこに見られる丁寧な細部描写と豊かな色調という魅力は、油彩やペン画、水彩画など他の作品にもよく表れています。このような多彩な作品約190点、そして旅に持参したリュックや浴衣、所蔵していた画集などの関連資料を間近に鑑賞することで、49歳で逝去するまで個性的な創作活動を続けた山下清の世界をご堪能いただければ幸いです」(SOMPO美術館HPより)



グラバー邸

ロンドンのタワーブリッジ

 圧倒されました。山下清の集中力と繊細さと凄み。貼絵とペン画と油絵。 貼絵に関しては、細かく手でちぎった細片の紙切れをひとつひとつ貼っていくのです。気の遠くなるような作業を丹念に丁寧に進めていくしか方法がありません。離れては見て近付いては見て色彩加減や全体像を捉えながらの作業だったのでしょうか。

  山下清作品を代表する名作「長岡の花火」についてのエピソードをご紹介しましょう。昭和24年の夏、清は日本一の花火を見るために長岡へ行きます。清は花火が大好きでした。花火を打ち上げる場所に行った清を見た花火師は危険なので、あちらへ行きなさいと追い払います。その翌年、脳裏に刻まれた記憶だけであの有名な「長岡の花火」を完成させました。その作品を雑誌で見た花火師は、あの青年が山下清だったのかと驚嘆し、交流が始まります。その花火師とは、長岡の花火を創り続けた伝説の人、嘉瀬誠次さん。

 嘉瀬さんは戦争を体験しシベリアに抑留されました。重労働を強制される過酷な状況のもと戦友たちがハバロフスクで次々と死んでいきました。無事帰還した嘉瀬さん、亡くなった戦友たちに俺の花火を見せたいと、嘉瀬さんは鎮魂の気持ちを込めて“白菊”という花火を創り上げていきます。「俺、ハバロフスクへ花火上げに行った、戦友に花火を手向けたいと思ってね。白菊を上げに行ったんだ。精魂込めて作った白菊を戦友のために打ち上げることができて本当によかった」。このとき、嘉瀬さんが目にしたのが、何万人もの戦死者の碑。「ロシア人も日本人と同じように大勢の人が亡くなっているんだな」と気付いたのです。「個人的な恨みや憎しみは無くなりました。戦争は何の得にもならないね。戦争っていうのは、本当にばかばかしいもんだ」 嘉瀬さんの作る花火はゆっくりしんなりと開くのが特徴です。ハバロフスクの漆黒の空に大きく咲いた一輪の白菊、その花火に寄せた嘉瀬さんの気持ちが戦友たちに届いたことでしょう、亡くなったロシア人たちにも。

 嘉瀬さんは清の「長岡の花火」を家宝として大切にしていきました。 夜空を彩る円状の花火、信濃川の川面に映る花火、見上げる大勢の観衆。彼らの黄色やピンクの色がアクセントとなって花火と呼応している様子は見事なバランスを作り上げています。 清はつぶやきます「みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりをつくっていたらきっと戦争なんか起きなかったんだな」 祖父の代から百二十年、代々花火師の家業を継いだ嘉瀬さんと清、二人には同じ思いと願いが通い合っていたのです。現在は嘉瀬さんのご子息が継承し、二人の魂を未来につないでいっています。 

(2023.9.2)

2023年の「白菊」の打ち上げ

 

 

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著者へのメッセージ

樫村 慶一 様 コメントありがとうございます。

樫村 慶一 様

コメントありがとうございました。

式場隆三郎病院の存在を初めて知りました。

仰る通り、下書きもせず、記憶を頼りに作品を仕上げていったわけですから、もう、言葉がありません。精神異常者に認定するのは大間違いですね。いわゆる天才なわけです。

天才はいつの世も、変人です。

立派な膨大な数の作品が残っていますので、山下清さん、あちらで悠々と過ごしていてほしいものです。

日本が世界に誇るべき、素晴らしい作品群です。

島崎 陽子

9/24 島崎 陽子 

飛行機  山下清のこと

 昔、市川から松戸まで歩いたことがある。途中に式場龍三郎病院がある。精神病院であり、山下清が入院というか、定宿のようにしていた所ときいた。しかし、あれだけリッパな絵を、記憶を蘇らせながら書いたり、文章も書いたり、どこが精神異常なんだ、ただ、一寸した変人じゃないかと思っていた。そして今、認知症が色々言われているけど、それと比較すると、やっぱり山下清は、とてもじゃないが精神病患者なんかじゃないと思うのだが。彼が聞いたら、喜ぶかがっかりするか・***

9/22 樫村 慶一

富士さん コメントありがとうございます。

富士さん

ありがとうございます。

私には漠然としたイメージのみの山下清でしたが、一緒に行った連れ合いは映画も観ていて、山下清の生涯をよく知っていました。

素晴らしい作品群でした。気圧されそうでした(笑)。

山下清を発掘した式場隆三郎氏も時折登場されていて、どこかでお会いした(文字上で)方と思ったら、ゴッホを日本に紹介された方だったんですね。

美術館ショップで本を2冊購入し、京王プラザホテル樹林(今はJULIN)へ行って余韻を楽しみました。

山下清の書かれた本も面白いですよ。

寿岳章子氏は山下清の日記に心を動かされその魅力に取りつかれました。


(「日本ぶらりぶらり」解説より)

語彙集も乏しく、幼く、文章は繰り返しが多い。感情表現に至っては極めて乏しく、故に情緒豊かということはまるでない。但し、その乏しさで、そしてきわめて具体的な表現で、驚くべきすぐれた記憶力を駆使して事柄を書きつづってゆく時、世の常の文章とはまるで違う楽しさが生じるのである。附加価値のようなものがまるでないところに偉大な附加価値が生じるのであろう(寿岳章子)。

★拡大表示は楳本さまへ! → すべて拡大表示に変更しました。(楳本)

 

9/05   島崎 陽子

美術散歩(第28回)への感想

今回 生誕100年を迎えられた山下 清を取り上げて頂き、ありがとうございました。
私はずっと以前から山下 清の大ファンのひとりです。
今回の投稿文で、花火師 嘉瀬誠次氏にまつわる逸話を紹介して頂いたのがとても良かったと思います。
まとまりのある気の利いた文章に仕上がっていると思いました。
島崎さんの投稿文の中では四つの作品が紹介されていますが、全ての作品について拡大表示が出来るようになっていたら尚更良かったと思います・・・蛇足かも知れませんが。

9/05  富士 暹

 


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第27

  

 

 

マティス展  Henri Matisse :  The Path to Color 

 

2023年4月27日(木) ~8月20日(日)  上野 東京都美術館 

 

 

 

現在開催中のマティス展

 世界最大規模のマティス・コレクションを所蔵するパリのポンピドゥー・センターからやってきた本マティス展は、日本では約20年ぶりの大規模な回顧展、155点の傑作が勢ぞろいです。絵画のみならず、彫刻、素描、版画、切り紙絵、南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂に関する資料まで、生涯まるごとのマティスをお楽しみいただけます。

 展覧会最後のしめくくり、ヴァンスの礼拝堂についてご紹介いたしましょう。 礼拝堂内の静かな牧師の声やミサの歌声に導かれて足を踏み入れた部屋にはヴァンスの礼拝堂が大スクリーンに映し出されていました。それは小さな礼拝堂でした。所在なげにされることのない居心地のいい、コージーにさせてくれる小規模な造り、とても現代的でライトテイスト、マティスはこの礼拝堂の建築から内装、堂内で司祭がまとう上祭服を含めて、全てを総合的な空間装飾として創り上げました。建築家のル・コンビュジェは、この礼拝堂について「すべてが喜び、清澄、若々しさ」と述べ、「勇気を掻き立てられた」とマティスに賛辞の手紙を送っています。
 マティスは南仏の光を愛してやみませんでした。人生に注がれる光、清々しく、明るく、強く、輝く色、力のみなぎった線描、自身が絵と完全に一体化する瞬間を待っている、その空間に身をゆだねながら、不思議なエネルギーに吸い寄せられていく時間を求めて、一瞬の美のひらめき、一目惚れの瞬間を大切にしていました。天上から降り注ぐ光に包まれるような、そんな現代的なステンドグラスと壁画を描き、南仏の風土に調和する礼拝堂を創り上げていったのです。
 時間の経過による光の動きとともにステンドグラスの色が重なり合い、黄、青、紫、桃色とファンタジーでやわらかい色合いへ変遷していきます。何時間でも身をゆだねて自分をさらけ出したくなる空間、自身を取り戻し浄化された心、さあ、礼拝堂の扉を開けて日常の生活の営みへ戻りましょう。

 「目もくらむような西日の射す中、私はこの場所へとたどりつきました。小さな礼拝堂の扉を開けたとき、真っ白い無垢な光に全身を包まれたことを、いまでもはっきりと覚えています。なんと表現したらいいのでしょう。それはまさしく、天上の光。やわらかく、祝福に満ちた光でした。
 正面の祭壇の背景に広がる、先生(マティス)が愛してやまなかったニースの海と空の青。その中に萌え出ずる植物たち。その脇に堂々と立つ聖ドミニコ。輪郭だけの卵型の顔は、諭し、慰め、受け入れている。聖母子も、キリストの受難の場面も、すべてが明るく、すなおで、一途なのです。まるで、先生そのもののように。
 堂内のステンドグラスには、おおらかに空を舞う鳥の翼のごとき健やかな植物の青、緑、黄色。それが、『生命の木』と名づけられたのを知ったのは、もっとあとになったからのことですけれど」(原田マハ著『ジヴェルニーの食卓』より)

 

 リディア・デレクトルスカヤというロシア人女性について付記しておきましょう。
 マティスとは「画家とモデル」という関係とはほど遠いにあった女性、自分の人生をマティスに捧げた女性です。1910年生まれ、貴族のインテリ一家に生まれたがまもなく孤児に、20才で結婚してパリへ。パリではソルボンヌ大学に入学した才女、良家に生まれた教育のある女性でした。その後離婚、1932年所持金も持たずにニースへ。マティスとの運命的な出逢い。
 マティスにとっても、リディアとの出逢いは多くのことを決定づける要因となりました。「ダンス」の新しい大作に挑んでいたときに助手を求め、応募してきたのがリディアでした。恋愛感情へ発展、家庭の二重生活は続き、正式な夫婦の危機が深刻化、1939年、アメリ夫人はマティスを捨て離婚届にサイン、夫婦関係は破綻し、夫婦は人生の最期まで別々に暮らすことになったのです。
 マティスの才能、マティスの作品がリディアの人生において人生本来の意味を持つようになってきました。リディアは22年にわたってマティスを全面的に支えたのです。秘書のように事務作業を行い、家事をこなし、マティスが体が不自由になって動けなくなり始めてからは(マティスは喘息、関節炎、年老いてからは癌を患う)インスピレーションを与え、慰さめ、蒐集家や役人らにマティスを宣伝する活動を行っていったのです。戦時中、ヴァンスに避難した際にも、食料品を調達したり身の回りの世話をしていました。
 リディアのイメージは、マティスの多くの作品に残されています。専門家によると、その数は90点以上に上っているとのことです。
 マティス亡き後、リディアは合わせて300点以上の作品をエルミタージュとプーシキン美術館に寄贈しました。今、ロシアにあるマティスのコレクションが世界でも最高のものとされているのは、リディアのおかげなのです。
 本展覧会ではリディアをモデルとした数点の作品にお目にかかることができます。

(2023/7/2)

 

☞ 7月の趣味の広場/美術のページ 今月の1枚のコーナーに マティスが初めて成功した作品として知られる「読書をする女性」をピックアップしました。掲載は終了しましたが、こちらをクリックしてご覧になれますので、ご鑑賞ください。 

 

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第26

  

 

 

クララと シューマンと ブラームス

 

 

 ドイツ・ロマン派を代表する作曲家ロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810-1856)と妻クララ、そして14才年上のクララを生涯慕って独身を貫いたヨハネス・ブラームス(1833-1897)について紹介いたします。

(上) 100ドイツマルク紙幣に描かれたクララ・シューマンの肖像

(中) 100ドイツマルク紙幣に描かれたピアノの絵

(下) ライプツィッヒ・ゲバントハウスにデビューした際に使ったピアノの写真

 

クララ・シューマン作曲
3つのロマンスOp.21(1853)
(右のピアノアイコンをクリックすると新しいウィンドウでYouTubeが開きます。)

 クララは欧州通貨ユーロ導入前のドイツではお札の肖像にもなっていたことをご存知でしょうか。100ドイツマルク札に使われていたのです。100マルクはドイツマルクの中でも流通量の多い紙幣、100ドル米紙幣と並んで世界で最も流通していた紙幣のひとつでした。裏面の中央にはクララが1828年10月にライプツィッヒ・ゲバントハウスにデビューした際に使ったピアノの絵が添えられ、右下には音叉が5本描かれています。なおこのピアノにはペタルが4本描かれていて、絵を描いた人の単なるミスだといわれているが修正されることはありませんでした。ピアノのペダルは2本または3本です。

 クララは天才少女とうたわれ9才でデビューしました。12才でヨーロッパ中を演奏旅行、18才の時にはオーストリア皇帝より宮廷音楽家の称号を受けます。シューマンと結婚後はいかにしてピアノの練習時間を確保するかの闘いでした、8回もの出産をしているのです。 シューマンには若い頃から情緒不安定な傾向がみられ自己破壊的な衝動があり、常に死の影に脅かされていました。15才の時姉自殺、自分もいつか発狂するのではという恐怖に怯えつつけていました。また他人に危害を加えることを何よりも恐れていたのです。それを知りながらクララはシューマンと結婚しました。クララはシューマンが常に精神的に危うい均衡の上に立っていることと、そして自分の結婚生活が決して平坦なものにはならないだろうと知りながら彼と一緒になったのです。一生シューマンを支え励まし続きたクララは、やはり並みの女性ではなかったといえるでしょう。結婚前のシューベルト「もし君がそばにいたら、自分と一緒に君を殺してしまったかもしれない」こんな洒落にならない衝動まで告白しています。結婚後二人の演奏旅行の間は、妻ばかりが脚光を浴びることに不満をいだいたシューマンの激しい気分の浮き沈みにクララは振り回され続けていました。

 シューマンの成し遂げた業績のひとつは、ヨハネス・ブラームスを世に知らしめたことでした。ブラームスを「今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命を持った人」と若き天才作曲家の出現を高らかに褒め称えたのです。19世紀後半、圧倒的な魅力を放って西洋音楽界を席巻したワーグナーとその一派に、たった一人で対抗していた感すらある最後の砦ブラームスを、熱烈な賛辞と共に世に送り出すことだったというのは、象徴的な出来事として歴史に刻まれています。

ロベルト・シューマン

 ブラームスとシューマン夫妻との出会いについて述べておきましょう。 ブラームスはハンブルクに生まれ、13才から家計を助けるために酒場などでピアノを弾いていました。一度シューマンに自作品を送りますが、シューマンは当時精神的に参っていて封を切られることもなく返送してしまいます。その後ヴァイオリニストのヨアヒムにシューマンを訪ねるよう勧められ、ライン河沿いの徒歩旅行中シューマン家を訪ねことになりました。この時ブラームスは、持参したピアノ・ソナタ第1番を演奏し、その音楽に感銘を受けたシューマンはクララと共に深い感動をブラームスに伝えたのです。シューマンは、自身が創設した、今なお続く音楽雑誌『音楽新報』で、ブラームスを「新しい道」として紹介し、この出会いがブラームスのその後の全人生を決定することとなりました。

ヨハネス・ブラームス

 

ブラームス作曲
ピアノソナタ第1番ハ長調Op.1(1852-53)
(右のピアノアイコンをクリックすると新しいウィンドウでYouTubeが開きます。)

 ブラームス自身はシューベルトとの出会いを次のように語っています。 「シューベルトが私を世に紹介してくれた。私自身の性格は恋の成就を阻むことになる。自分自身が結婚生活に向いていないことは私は自覚している。私は内気で奥手で、女性に対して大胆に振る舞ったり、愛の言葉をささやいたりすることが大の苦手だ。不器用で、結婚生活と作曲を両立させる自信もない。家庭を持つことが、芸術の蘊奥を究める妨げになることはないだろうかという恐れ。Frei aber Einsam 自由だが孤独。愛にはいろんな形があってよいと私は思っているし、結実しないからといって、そんな愛は無駄だと言い切ることなど、誰にもできないはずだ。〈詩人の恋〉がそもそもそういう作品だ。私は決して結実しない私の愛を、創作活動へと昇華させよう。クララに対する私の愛は、私なりの〈詩人の恋〉なのだ」(深水黎一郎著『詩人の恋』より) ブラームスは生涯独身を貫きました。クララ亡き後、クララの娘ユーリエにひそかな愛情をいだいていたものと思われています。

 壮絶な生涯を遂げたシューマン、それを支え続けたクララ、夫妻を傍らで眺め続けたブラームスの関係はドラマティックであり、長編小説の体を成しています。 最後にシューマンへの最大級の賛辞を贈り、終演としましょう。

〈詩人の恋〉「ドイツリートの最大傑作のひとつとみなされている。一音の無駄もない完璧な作り、足すべき音も引くべき音もない」 「シューマンは古今東西の作曲家の中で最も文学的才能のあった人物の一人であり、卓越した批評性と文学性を併せ持っていた」 「シューマンが若い頃から何度も自殺の瀬戸際に立ちながら実行しなかった理由として、自分は芸術作品を創造するために生まれてきたのだという強烈な自負心を持っていたことが挙げられているが、シューマンの人生はこの自負心を支えに、迫り来る精神の衰微と危機の中、恐るべき勤勉さと不断の努力によって高みに至ろうとする精神の軌跡であり、その生き様が我らシューマニアーナを惹きつけてやまないのだ。そうやって不断の芸術創造によって自らを〈救済〉し続けたから、若い頃から死の影に取りつかれながらも46才まで、曲がりなりにも生を全うすることができたのだ」(深水黎一郎著『詩人の恋』より) 

(2023.5.7 ブラームスの190回目の誕生日に) 
 

シューマン作曲 詩人の恋 Op.48

フィッシャー=ディスカウ
ホロヴィッツ (pf)

 

 

  

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著者へのメッセージ

爽やかな清々しい出会い

富士さん

2人のハンサムマンと上品な女性クララ、素敵な場面です。 英語も聞き取りやすく分かり易いですね。 全映像を見てみたくなりました。 そしてさらにシューマンとブラームスを聴きたくなってきました。

島崎 陽子

5/12 島崎 陽子 

古~ぃ映画のひとこまをご紹介しましょう

文中でシューマン夫妻とブラームスの出会いのことに触れておられますね。

このことに関連して1947年制作の映画(Song of Love)のひとこまをご紹介します。

こちらをクリックしてください。

うまく開かないようでしたら、楳本さんの助けを借りてください。 PS:投稿文の中で「シューベルト」の名前が2か所出てきますが、もしや「シューマン」のタイプミスでは?

5/12 富士 暹

富士さん おお、私もどうしよう…

富士さん

ぜひぜひ、第1話からお願いいたします。ですが、第何話まであるのかしら…(笑)

いや、何話まであってもいいんですよ、喜んで耳を傾けさせていただきます。

ドビュッシー…フランス音楽へも発展させていきたいですね。

おお、音楽を聴いて本を読んで美術館へ出かけていって、さらに、人生、楽しんでいきたいです。

お薦め本ございましたら、ぜひ、ご紹介ください。

島崎 陽子

5/11   島崎 陽子

クララとブラームス・・・ああどうしよう!

島崎さん・・・ああどうしよう!!!

当時の作曲家はお互いにいろいろな形で影響し合っていましたね。そういう意味で今回のテーマにはたいへん興味深いものを感じます。クララ/ブラームス  vs. リスト、シューベルト、ドビユッシー・・・どんどん発展していって下さい。

クララとブラームスに限って言えば、86歳の私にとって溢れんばかりの思い出があります。お許しを頂ければ第1話(?)から始めますが・・・

5/11   富士 暹

楳本さま ありがとうございます。

楳本さま

エピソード、楽しませていただいています。

しばらくしたら、美術に因んだ音楽家をまた取り上げてみたいです。

島崎 陽子

5/8   島崎 陽子

蛇足ですが・・・

島崎様

メッセージへのご返事、ありがとうございます。

蛇足になって恐縮ですが、折角ですのでついでの付加情報です。

シューマン夫妻とブラームスには関係ないので書きませんでしたが、本日5月7日は、ブラームス以外にチャイコフスキーの誕生日(1840年)でもあります。
それともうひとつ、シューマンの誕生日6月8日を2倍すると、ベートヴェンの誕生日とされている12月16日(1770年)になるのを付加情報として追加しておきます。ベートヴェンの誕生日は定かではありませんが、洗礼日が12月17日と記録が残っていますので、その前日が誕生日とされています。

楳本 

5/7   楳本 龍夫

楳本さま ありがとうございます!

楳本さま

たとえこじ付けであろうと、面白いエピソードに3人の因縁めいた宿命を感じました。

フィッシャー・ディスカウ《詩人の愛》は本当に素晴らしいですね。

雨模様の今朝、この曲から一日が始まりました。

島崎 陽子

5/7   島崎 陽子

シューマン、ブラームス、クララの誕生日の不思議な関係

島崎様

時宜を得た投稿、興味深く拝読しました。そこで、話題作りに面白い話を提供します。

ブラームスの誕生日は5月7日、シューマンの誕生日は6月8日、クララの誕生日は9月13日です。
これらの間には面白い関係がありますが、ご存知でしたか?

ブラームスの誕生日の月日の数値にそれぞれ1を足すと、シューマンの誕生日になります。
つまり、5+1=6、7+1=8 となります。

ブラームスの誕生日の月日の数値とシューマンの誕生日の月日の数値を足して2を引くと、クララの誕生日になります。
すなわち、5+6-2=9、7+8-2=13 となります。

かなり、こじ付けの感じは拭えませんが、面白い関係ですね。

以上、お粗末でした。

楳本

5/6   楳本 龍夫


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第25

  

 

 

パリ ・オペラ座 とドガ

 

 

エドガー・ドガ

 

 昨年11月から今年2/5まで開催されていた《パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂》(東京都 アーティゾン美術館)を鑑賞した。今回はその展覧会からドガに焦点をあてて紹介してみたい。

 エドガー・ドガ(1834-1917)、生涯独身。パリの銀行家の息子として生まれる。恵まれた環境に育ったが父の残した借金と兄が事業に失敗して抱えていた巨額の業務債務返済のため「生きるために描く」ようになっていった。世間知らずの貴公子的性格、気難しくて皮肉屋、扱いにくい画家で衝突が絶えなかったという。晩年はドレフュス事件で有罪を主張したために、ゾラやユダヤ人たちの数少ない友人を失ってしまった。印象派とももめ孤立していき親しかったルノワールも晩年には離れていった。普仏戦争で砲兵隊に志願して入隊、寒さで目をやられたために右目の視力がなくなり『まぶしがり症』といわれる網膜の病気を患ってしまい、外に出ることがままならなかったことも屋内の絵画に集中した理由とされている。

ジャン=バティスト・ エドゥアール・ドゥタイユ

《オペラ座の落成式、1975年1月5日》


 ドガたちが台頭してきた1860年代、ナポレオン三世命によるセーヌ県知事のオスマン男爵の「グラン・ブールバール計画」という都市大改造計画が行われた。凱旋門から放射状に並木が配されたアヴェニューと呼ばれる広い12本のブールヴァール(大通り)を作り、中世以来の複雑な路地を整理し郊外へ開発を広げていった。都市整備により経済を活性化するとともに、迷宮のようなスラムを取り壊し、そこに住む人々を立ち退かせてしまおう、という目的も実はあった。これは産業革命後の経済界の要請にも沿うものであった。パリ改造は近代都市計画・建築活動に大きな影響を与え、近代都市のモデルとして見做され、変革の過渡期であった。その変革は当然芸術へも忍び寄っていたのである。ブルジョワジーが変革の主体となり中流階級の家の居間にも絵が飾られるようになっていった。それまで「美術アカデミー」という古色蒼然とした権威の象徴は力を失いつつあり、その制度の外で自由で新しい表現を模索する個性的な前衛芸術家たちが活躍できる時代になりつつあった。そんな時代の背景のもとにドガは登場してきた。 ドガは外の光の世界へ飛び出していった戸外派とは違い、目の病気からか室内を好み、オペラ座に出入りするようになっていった。オペラ座の定期会員になり、稽古場や楽屋に自由に立ち入りできるようになった。そこで出会った踊り子たちをテーマ、モティーフとした作品を描き始めた。動きの描写が得意でありのままに描いた。踊り子たち、彼女たちは恵まれない家庭環境に育ち家計を支えるために舞台に上がっていたのである。ブルジョワ男性を背後に描いた作品は、裕福な階層の彼らの援助がなければ生きていけない少女たちとの冷酷な関係も物語っている。そして稽古場の椅子でリラックスして談笑する少女たちのドガに見せる緊張のほどけた笑顔と表情は、ドガとの信頼が築かれていたからである。境遇の似た生活を送ってきた者同士、お互いの心に触れものがあったのであろう。

踊り子たち ピンクと緑

 ドガは次の名言を残している。

 Art is not what you see, but what you make others see.

 芸術とは君が何を見るかではなく、君が何を創造できるのか、人々が見ることなのだ。

 最後に原田マハ氏のドガのお話で当絵画展を終えたい。

 「ドガは、街中のカフェや競馬場、ベッドルームや浴室の裸婦などをモチィーフに、19世紀末のパリの空気感をいまに伝える風俗画を多く描いている。その彼の名を不動のものにした題材が、バレエに登場する踊り子たちだ。しかも、舞台の彼女たちが華やかに舞い踊るシーンよりも、バックステージの彼女たちを、ドガは描き続けた。――執拗といってもいいほど、繰り返し、繰り返し。

バレエの授業

 ドガが描いた舞台裏の踊り子たちの様子は、実にさまざまである。教官の指導を受けながら振付の真っ最中、ストレッチをしているところ、つかの間の休息中、舞台でのレッスンなど。そのどれもに共通しているのは、まさに『現在進行形』のシーンを描いているところだ。アトリエで、つんと取り澄ましたポーズのモデルに対峙して、黙々と絵筆を動かす――という、それまでの画家の制作スタイルではない。目の前で繰り広げられている瞬間、瞬間をすばやく切り取り、そのままカンヴァスに閉じ込めた――いってみれば、『瞬間冷凍保存』したような画風が、ドガの最大の特徴なのである。・・・
 ドガが求めていたのは、『瞬間』であった。たったいま、目の前で起こっていること、自分が見ている現実を、いかにみずみずしく、そのままに絵の中に封じ込めるか。かつ、いかにして『瞬間』に『永続性』を与えるか。その点にこそ、ドガの強い関心と執着があったのだ。・・・
 ドガによって、一瞬を永遠にすり替えられた踊り子たちは、その喜びも悲しみも凍結されて、いまなおカンヴァスの中で呼吸し、踊り続けている。」

 

(2023.3.4) 

 

  

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著者へのメッセージ

樫村 慶一様

メッセージありがとうございます。

ドガ、いいですよねえ。踊り子たちの間に入っていって、踊り子たちの信頼を得て、踊り子たちがドガに打ち解けた素の姿をさらけ出しているところが伝わってきますね。ほんと、晩年はどうしたんでしょうね。

4/15 島崎 陽子

 

無題

島崎様
 よく勉強していますね。私も、なんとなくドガの絵って好きです。画家の商売道具の目が悪くなって、老後はどうなったんでしょうかね?

4/08 樫村 慶一

 


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第24

  

 

 

英国 キュー 王立植物園
おいしい ボタニカル ・アート
食を彩る 植物の ものがたり
11/5-2023/1/15  西新宿 SOMPO美術館

 

 「おいしいボタニカル・アート」のキャッチ―なコピー。
 ボタニカル・アートの意味をご存知でしょうか。ボタニカルは植物の、植物学のといった意味ですが、ボタニカル・アートになりますと科学的な研究のために草花を詳細に正確に描いた絵になります。この展覧会はボタニカル・アートによるイギリスの歴史と食文化をたどるものです。

 キュー王立植物園について少々触れておきましょう。ロンドンから南西に位置するキュー(Kew)にある世界で最も有名な植物園です。熱帯植物を集めた庭を作ったことから始まり、今では、世界中で採取された種子植物の標本が700万点、菌類および地衣類の標本125万点を所蔵、新種の発見などにも貢献していて2003年にユネスコ世界遺産に登録されました。日本から送られた桜も植樹されていて立派な日本庭園があるのには驚かされます。四季感が計算しつくされ、枯山水まであるんですよ。そしてキューガーデンの未来へのプロジェクトとしてシードバンクがあります。零下27℃倉庫で種を保存、190ケ国以上からの種42,000種を保護し絶滅に瀕した貴重な植物を未来へつなごうとしているのです。当時のイギリス帝国の権力誇示から始まったキューガーデンではありますが、現在の貢献と未来へ向かっていることに対して拍手喝采です。

 冬晴れのある休日、当展覧会に行ってきました。
 ジャガイモ、玉ねぎ、アスパラガスといった野菜からリンゴ、洋ナシ、プラム等の果物、そしてコーヒー、茶、ハープ、スパイスなど一点一点が詳細に丁寧に描かれていました。葉脈や花のがくなどが緻密に鮮やかに描かれた植物は、200年前から色あせることなく本物の植物がそこに生き生きとしっかりと根を張っているようでした。ローズマリーの木に至っては、私が自宅庭で毎朝水やりをしている植物そのものが額のなかにあり、当時のイギリスと一体化してしまったような時空を浮遊してしまっているような感覚に身を委ねてきました。

 私が最も惹きつけられたもののひとつはチャの木です。紹介映像では、なんと、ロバート・フォーチュンというイギリス人で世界的な大プラント・ハンターが出てきて、私の興奮は頂点に達しました。19世紀半ば、イギリス園芸協会から中国へ派遣され、当時の世界最高品質である中国茶のチャノ木と栽培方法を手に入れるよう国命を受けた人物なのです。フォーチュンはインドで中国茶の栽培を成功させ、茶貿易により世界中の経済のほぼ全ての面に影響を与えました。後世、史上最大の窃盗といわれ、今ならさしずめ産業スパイ活動です。
 このロバート・フォーチュンは1860年、日本を訪れています。「日本人の国民性の著しい特色は、庶民でも生来の花好きであることだ。花を愛する国民性が、人間の文化的レベルの高さを証明する物であるとすれば、日本の庶民は我が国の庶民と比べると、ずっと勝っているとみえる」という言葉を著書『幕末日本探訪記―江戸と北京』に残しています。

 イギリスといえばアフタヌーンティー、当展ではティー・セットやカトラリーなどのテーブル・ウェア、18世紀頃の手書きレシピ、ヴィクトリア朝の主婦のバイブル『ビートン夫人の家政読本』といった資料も展示されています。
 ぜひお出かけになってみてください。優雅でノーブルな19世紀のイギリスがお待ちしております。

 

(2023.1.2) 

 

  

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