第10

  

 

 

夏目漱石と 女性像  
     

 

 夏目漱石関連本を読んでいたら、漱石はジャン=バティスト・グルーズ《少女の頭部図》のこの蠱惑的な女性像を好んでいたそうである。
 意外な印象を受けた。正直驚いた。私が創り上げてきた漱石の小説の中の女性像は、竹久夢二の描くような女性の中に芯の座った、一本気の通った細身の女性である。この絵に描かれているぽっちゃりした少女は想像外だった。
 1985年、当時上映された映画「それから」を観に行き三千代を演じる藤谷美和子が登場してきた時、う~ん、違うなあ~とうなったことを覚えている。あのぽっちゃり感は違う違う、私の描く女性像とは違う、と反感を覚えたものだ。しかしながら、映画監督の森田芳光は漱石好みの女性を知り尽くしたうえで藤谷美和子を選んだのかもしれない、と35年という長い年月が経った今、思い直しているところである。

 『草枕』に那美さんという、キ印とうわさされている女性が出てくる。
 鏡が池に散歩にきた主人公の余は、こんな所に美しい女の浮いているところを描いたらどうだろう、と元の所へ戻ったりと鏡が池周辺を歩きながら想像をめぐらす。ジョン・エヴァレット・ミレイ《オフィーリア》を思い起こす場面である。
 ここで余の脳裏に登場してくるのが那美さんである。
 「お那美さんが記憶のうちに寄せてくる。」
 しかし直後に次のように語る。
 「人間を離れないで人間以上の永久という感じを出すのは容易なことではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情ではだめだ。苦痛が勝ってすべてを打ち壊してしまう。といって無暗に気楽ではなお困る。…やはりお那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。…あれに嫉妬を加えたら、どうだろう。嫉妬では不安の感が多過ぎる。憎悪はどうだろう。憎悪は烈しすぎる。怒? 怒では全然調和を破る。恨? …ただの恨ではまり俗である。色々に考えた末、しまいにようやくこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れという字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかし神にもっとも近き人間の情である。お那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。」
 漱石は「憐れさ」を醸し出す女性を好んだようだ。
 『草枕』の最後の場面は、那美さんが元夫を汽車で見送るプラットフォームで見せた「憐れ」の表情で主人公余の絵がやっと出来上り、小説の完了となる。

 漱石は小説で花を象徴的に使っていることが多い。
 椿の花の狂おしい女性の擬人化の場面が『草枕』で描かれている。凄味を感じるほどだ。エロス。突き刺さってくるような魔力さえ感じる。長いがこの場面も抜粋してみたい。鏡が池での背景場面である。
 「向う岸の暗い暗い所に椿が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角を、奥へ二、三間遠退いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑として、かたまっている。その花が! 一日勘定してもむろん勘定しきれぬほど多い。しかし眼が付けばぜひ勘定したくなるほど鮮やかである。ただ鮮やかというばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪られた、後は何だか凄くなる。あれほど人々を欺す花はない。余は深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い。…あの花の色はただの赤ではない。眼を醒ますほどの派出やかさの奥に、言うに言われる沈んだ調子を持っている。悄然として萎れる雨中の梨花には、ただ憐れな感じがする。冷ややかに艶なる月下の海棠には、ただ愛らしい気持ちがある。椿の沈んでいるのはまったく違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。この調子を底に持って上部はどこまでも派出に装っている。しかも人に媚ぶる態もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ち付き払って暮らしている。ただ一眼見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際、免るることはできない。あの色はただの赤ではない。屠られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自ずから人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。見ていると、ぽたり赤いやつが水の上に落ちた。…あの花は決して散らない。…また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。」

 『草枕』では、主人公余が湯に浸かっている時、ガラッとお風呂場の戸が開き那美さんが知らぬ顔で入ってきて入浴する場面がある。唖然とする余ではあるが、那美さんの美しい裸体にしびれてしまう。しかし何かが起こるわけではない。
 漱石が女性の裸体を描いたのは全作品のなかで唯一この場面のみだそうだ。妖艶でどこか娼婦的な女性像を展開させながらも一線を越えないところで留まっているところに、漱石は決して女性を性的対象にはせず、女性に対してのリスペクトをわきまえていたのではないかと思う。
 そして派手派手しい女性ではなく、内部から密かに狂おしさをにじみ出している女性が漱石の本には登場してくるように思われる。内に秘めた魔性の女、色っぽく科を作る艶のある少女めいた女性。椿の花の毒々しさと重なる女性。小説という架空の世界では思う存分、現実離れした好みの人物像を創り上げ、実生活とはかけ離れたところの女性像を漱石は楽しんでいたのだろう。
 鏡子夫人の写真を見た時、ぱっちゃり型の凛としたそのお顔は、冒頭で取り上げた絵の少女にも相通じるものがあると私は合点してしまったのである。

(2020.12.13)

 

 

ー グルーズの作品から ー

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メッセージもよろしく

著者へのメッセージ

松方コレクションから欠かさず拝読しています

次号は何だろうと、いつも楽しみにしております。

コロナ禍の中で、中止となった絵画展もあろうかと思います。題材に苦慮されているかもしれませんが、今後もさらに連載を続けられることを希望します。

松本房子

 


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第9

  

 

 

ウィリアム・ターナー  William Turner  (1775/4/23~1851/12/19)
ロンドン、 コヴェント・ガーデン 生まれ


 

 17~18世紀のイギリス風景画の最盛期、ロマン主義を代表する画家として巨匠といわれ、イギリス近代画家に多大に影響を与えた画家。1870年に普仏戦争が勃発した際モネやピサロたちが英国に逃避し、ターナー始め英国画家たちより影響を受けたと言われている。

 ターナー、これまで何度か本物の絵を見る機会はあったが、取り立てて私の興味を掻き立てるほど魅力を感じることはなかった。ぼやっとしたイメージ、輪郭の不明瞭な風景、船、汽車、これらが私が描くターナー像である。 今般、夏目漱石『草枕』を読んでいると、ターナーが2回出て来た。以下に抜粋してみたい。

・・・・・

ターナーがある晩餐の席で、皿に盛るサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だとかたわらの人に話したという逸事をある書物で読んだことがあるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から言ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の献立は、吸物でも、口取でも、刺身でも物綺麗にできる。会席膳を前へ置いて、一箸もつけずに、眺めたまま帰っても、目の保養からいえば、お茶屋へ上がった甲斐は充分ある。

・・・・・

…してみると、四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。このゆえに天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の淋琅を見、無常の宝璐を知る。俗にこれを名けて美化と言う。その実は美化でも何でもない燦爛たる採光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。ただ…(略)、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。

 国民的作家漱石が1冊の本の中で2回登場させているとなれば、気になって仕方がない。漱石はターナーの作品を愛していたようだ。 調べてみたら、代表作3作品が目に留まった。

1.《戦艦テメレール号》1838~39年 

2.《吹雪-港の沖合の蒸気船》1842年

3.《雨、蒸気、速度-グレート・ウエスタン鉄道》1844年 70歳前の晩年に描いた“最後の傑作”のひとつ

1.テムズ川を下る老朽化した戦艦を描いた作品。テメレール号は新時代の蒸気船にとって代わられ、解体されるために曳航されてゆく様子、赤い夕日に染められた空は哀しみを表現しているという。晩年になるにつれ、モチーフの輪郭が不明瞭になり光と色彩が溶け合うような叙情的な風景画を描き、のちに「印象、日の出」のモネなど印象派に影響を与えた。

2.Steamboat in a Snowstorm

英語の原題の方がすんなり入ってくる。吹雪の中の蒸気船。このころターナーの幾度にもわたるヨーロッパへの旅が始まり、特にイタリアのベニスへは数回訪れ、こよなく愛したこの地の多くのスケッチを残している。フランス、スイス、イタリアへの旅はターナーに大きな収穫をもたらし、彼が光を描くことに影響を与えていった。

3.当時世界最大の鉄道だったグレート・ウエスタン鉄道の黒い蒸気機関車が、テムズ川に架かるメイデンヘッド高架橋の上を猛スピードで走り抜けていく様子を、デフォルメされた遠近法を用いて描いている。産業革命の象徴である機関車の速度感を強調するために、線路の側壁の線を極端に左右に開くという大胆な遠近法を用いて描かれている。産業革命賛歌だそうだ。ターナーが近代化に肯定的だったか否定的だったか、今でも議論が分かれるところとのこと。

 名作『坊ちゃん』にもターナーは登場してくる。赤シャツが野だに「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と語る場面。野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がりぐあいったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と得意顔である。ターナーとはなんのことだから知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。『坊ちゃん』ではこのあと赤シャツが勝手にこの島を“ターナー島”と命名してしまう。今では松山にある実在の島を“ターナー島”と読んで観光名所になっている。

 漱石のターナー論を読んでみたいと検索してみたが見当たらなかった。漱石ならではのターナー論を覗いてみたい衝動にかられるが、こんな茶目っ気たっぷりに小説に登場させて場を沸かす漱石の遊び心を楽しんでいるだけでも十分である。“光と色彩が溶け合うような叙情的な風景画”に魅せられつつ自分もいることであるし。

*「四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」、英訳題名 The Three-Cornered World となった文章です。

(2020.11.2)

 

 

ー ターナーの作品から ー

 

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第8回

  

 

 

The National Gallery, London
ロンドン・ ナショナル・ ギャラリー展

国立西洋美術館 2020年6月18日~ 10月18日

 

 9/20(日)曇天の日に行ってきました。コロナ禍により入場整理券を事前に購入しての鑑賞となりました。事前購入という煩わしさもありましたが、混雑を避けてゆったりと観て回ることができ、結果的にはとても良かったです。
 ロンドン・ナショナル・ギャラリー200年の歴史で、史上初めて英国外での大規模な展覧会とのことです。61作品、すべて初来日。日本で開催されることの意義や価値について中野京子氏が次のように語っています。「ほんとうにすごいこと。とんでもないこと。そういった表現に尽きるでしょうね。一般的な美術館展は目玉となる作品が数点あって、その他大勢が脇を固めるというラインアップがほとんどですが、今回はほとんどの作品が目玉クラス。『61作品、全てが主役!』というキャッチコピーに偽りはありません」。
 作品がバラエティーに富み画家の国籍も多岐にわたり、時代背景や絵画の属性が多様で少々戸惑いもありましたが、中野氏によると、そういった“違い”や“差”に注目しながら見比べるのがこの展覧会を楽しむポイントのひとつでしょう、と仰っています。「完璧に統一感が取れているというわけではなく、良い意味でなんでもありというか、ごった煮状態になっている点もロンドン・ナショナル・ギャラリーの特徴です。ここは他のヨーロッパの多くの有名美術館のように王室が母体ではなく、市民によって設立された美術館でヨーロッパ中から買い集められたコレクションがベースになっています。」
 そしてまた、中野氏は絵画におけるイギリスの国民性を興味深く語っています。「物語が大好きな国民性ということもあってか、イギリスでは美術よりも文学のほうが広く好まれてきました。だから、イギリス出身のメジャーな画家は数えるほどしかいません。…興味深いのは集められた作品に物語が好きなイギリス人らしさが垣間見えるところで、…深い意味やストーリーが込められた作品の多い点が際立った特徴といえます。」  
 パオロ・ウッチェロ、ドミニク・アングル、フランシスコ・デ・スルバラン等の絵は確かに一片の小説から一場面が立ち上がってきているようです。
 会場は7つのセクションに分かれて展示されていました。

- イタリア・ルネサンス
- オランダ絵画の 黄金時代
- ヴァン・ダイクと
 イギリス肖像画
- グランド・ツアー
- スペイン絵画
- 風景画と ピクシャレスク
- イギリスにおける  フランス近代美術受容

 

 私は馴染みのある画家の絵を楽しむことができました。 カナレット《ヴェネツア 大運河のレガッタ》、ゴッホ《ひまわり》、フェルメール《ヴァージナルの前に座る若い女性》、モネ《睡蓮の池》、ルノワール《劇場にて》、ゴーギャン《花瓶の花》

 今回は《ひまわり》を取り上げてみたいと思います。土壁を力強く塗りたくったような筆遣いが印象に残りました。SONPO美術館にも《ひまわり》はありますが、こんなにゴテゴテしていたかしらと気になっているところです。合計11点(または12点)の《ひまわり》のなかで、ロンドン・ナショナル・ギャラリーのは4番目の作品(1888年8月)、SONPO美術館のは5番目(1888年12月~翌年1月)です。この時期、ゴッホが日本絵画から影響を受けていることは知られていますが、「ロンドン・ギャラリー所蔵のものは、背後に塗られた黄金色がひときわ輝き、どこか金屏風を思わせなくもない」と小野正嗣氏は述べています。そして「ゴッホの絵のひまわりがどれも根を断たれ、花瓶に挿されたものであることが気にかかる。すでに萎れはじめている花もいくつかあるように見える」と興味を掻き立てることを語っています。
 日本の切り花とは違い、西洋では切り花は“残された儚い時間”、“死”を意味するそうです。燦燦と輝く太陽の日を受け、その太陽に向かって光り輝くように咲くひまわりの切り花を描くことで、心の闇の部分を対照的に表現しようとしていたのでしょうか。ゴッホを調べていたら“黄色は孤独の中で愛を求める希望、暗闇の中の一条の光”の一文に出会いました。
 会場で、この絵の解説にゲーテの『色彩論』からの抜粋がありました。そのコメントは覚えていませんが、ゲーテは光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする、とその著書で述べています。「もっと光を」とも関連性があるのでしょうか(笑)。『色彩論』はターナーの絵にも影響を与えたようです。『色彩論』を初めて知り、ゲーテの多才さに驚かされた日でもありました。

(2020.9.22)

公式ページはこちら 

 

 

ー 展示作品から ー

 

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第7回

  

 

 

ざくろの聖母子と 神秘の磔刑
サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510)
「春の戴冠」辻邦生著 を読んで 第3回(完)


 ジロラモ・サヴォナローラ、後にサン・マルコ修道院長となるこの僧侶の登場で、フィオレンツァに暗雲が立ち込め、フィオレンツァは大きな変遷をたどってゆく。
 ジロラモは、フィオレンツァの諸悪の根源であるとされたメディチ家による独裁体制を批判、「祈りによる統治」を掲げ信仰に立ち返るよう市民に訴え、激しい言葉で市民たちの心をわしづかみにしていった。少年たちを集めて説教、扇動していき、その少年たちの騒動は常軌を逸するまでになり、街を歩いている女たちのブローチや首飾りを奪い、各家を訪ねて贅沢品と思われるものを破壊し奪い取っていった。ジロラモを崇拝していく少年少女たちの態度にはどこか子供らしからぬ残忍さ、執拗さ、あくどさが加わり始め、少しでも彼らの考える基準に合わぬ人間を見ると、糾弾し嘲笑するのであった。なぜ手の汚れていない子供たちがそれをやる必要があるのか。
 「虚飾をやめよ、キリストに栄光あれ」が合言葉になっていった。謝肉祭、ドゥオーモに姿を見せたジロラモの説教は人々の熱狂を呼び起こした。多くの人々は以前の華美な祭礼よりこの簡素な復活祭の方が、はるかに荘厳で清浄感に満ち、神を身近に感じることができると言っていた。こうした清浄感に打たれた人々の心を捉えたのがジロラモの説教であった。
 しかしながら数年経つと、人々もさすがにジロラモの言葉だけでは、差し迫った不安や空腹はどうにもできぬことを理解していった。疫病、死人、穀物の値上がりと人々の不安は増していった。反対派が立ち上がり、ジロラモに対する理由のない嫌悪感が突然火のように拡がった。サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束し、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。
 このころサンドロの絵は、急に激しさを加え、なまなましくなり、喘ぐようになって、そして突然、火が消えたように描かれなくなり、いっそう陰気になっていた。体調を崩し病床で過ごす日々となっていった。

 ジロラモに扇動された少年少女たちのなかに、語り手の次女、アンナがいた。生真面目で笑うことのない少女、尼になり尼僧院で暮らしている。父から尼僧院に住むアンナへの思いが述べられている。
 「アンナ、お前はいま何を考えているのだ。ひたむきに正義と愛とを求める気持はよくわかる。だが、人間には美も要れば悦楽も要る。たまには笑声をあげ、冗談を言い、朝ねをし、酒を飲むことも必要なのだ。そういう弱点を持っているからこそ、人間は互いに許し合うこともできるのだ」。
 この小説は尼僧院のアンナから父の語り手への手紙で幕を閉じる。長くなるがここに抜粋したい。アンナとサンドロは、父の知らないところで交友を深める友人同士であった。
 「最大の喜びは、サンドロが死ぬ前に、私の好きな『聖母子像』を尼僧院に贈ってくれたことでした。礼拝堂にゆくたびに、この美しい円形肖像画の前に、ながいこと座っております。心が安らいでいるのはそのためなんです。あのやさしい顔をした幼児キリストが聖母の手にあるざくろに触っている絵です。お父さまはこの聖母のモデルが、サンドロやお父さまが憧れていたシモネッタのお母さまだ、と仰っていましたね。私を捉えたのは、サンドロの絵のなかにある魂でした。
 お父さまが首をかしげ、多くのサンドロ愛好家が不安な表情をしたあの最後の絵、それを最後に、サンドロはもう二度と画筆をとろうとしなかった絵ほど、私の心を捉えて放さないものはないのです。色も形も混沌としているあの絵の遠景にフィオレンツァの都市が見えている。十字架にとりすがる前景の女。気味の悪い赤い眼の狐が女の衣服の下から逃げ出そうとするところです。フィオレンツァの半分は火焔に包まれ、天使が女に向かって立ち、剣を振りあげてもう一匹の狐をこらしめています。火焔は嵐に煽られ、悪魔の大軍はなお無数の火を投げているのです。
 フィオレンツァの形をとって現れた人間の運命というふうに受け取って頂きたい。十字架を抱いて心から痛悔するときだけ、自分の深い根源の正しさに向かって、自分の一切の虚偽、不正、冷酷を告発するときのみ、はじめて人間の心が美にかなうようになることを、この絵で示しているのです。この最後の絵がサンドロの心の絵であり、私の心であり、十字架の心を描いていると信じることができるのです。ジロラモへの心酔がサンドロから絵を描く根拠を失わせたといいます。サンドロはもう絵を描く必要がなかったのです。あの最後の絵のなかにサンドロの心は、すっかり言いつくされてしまったからです。サンドロは本当の生を心から生きたのです。あれから、時間をこえたところ、場所をこえたところで生きつづけました。それはサンドロがよく言っていたように〈永遠〉という言葉がいちばんふさわしかったでしょう。
 私たちが〈地上にいる〉ということだけで、すでに一切が成就している、サンドロが静かな老年の生活のなかで示したのは、単純にこの真実であったのです。しかしそのことに思いを致すときほどに〈永生〉を感じることがあるでしょうか。人々の生死も、花々も、雲も、風も、こうした思いのなかでのみ、ヴィーナスが誕生したあの朝の香しい軽やかな光を取り戻せるのです。」

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 私にはアンナの次の言葉が重くのしかかっている。
 「私はなおジロラモを信じておりますが、ジロラモの本当の心は少年たちの仲間よりも、ずっとずっとサンドロに近いと思われました」。
 『ヴィーナスの誕生』『春』、その他数々の甘美な香しい陶酔するような絵を描き続けてきたサンドロと、フィオレンツァを陥れたジロラモとが心の内では最も近い関係にあったというのだ。この長編を数週間かけて読んできて、このような言葉がアンナから出てこようとは、そしてこの小説の締めがこの言葉で終えようとは誰が想像できたであろうか。
 アンナにこの言葉を語らせて静かに完了、本の最後に確かに(完)とあるが、ルネサンス以降の人々と私たち読者に「永遠に同じ出来事を演技する、それが人間なんだ(サンドロ)」の言葉と同時に、他人の心を理解することはできず、人間は常に問題を抱えながら未解決で曖昧模糊としながら日常を送っていく、これが〈神的なもの〉である、と辻邦生氏は提示しているように思えるのです。その提起された問題も心豊かな日常と表裏一体ですよ、と言っているように思えて仕方がないのです。(完)ではなく、サンドロの言うように繰り返していくのです。そして「私たちが〈地上にいる〉ということだけで、すでに一切が成就している(アンナ)」
のです。
 小説の構成、語り手とサンドロとの関係、語り手父と叔父とフィオレンツァ経済行政との関わり、語り手娘アンナとジロラモとサンドロの関係等々、全てにおいて卓越した小説である。これから時間をかけてじっくりとこの小説を消化、咀嚼していきたい。


アンナの手紙に出てきたサンドロ最後の絵について
 
京谷啓徳著
『もっと知りたいボッティチェリ』(東京美術より)

「黙示録的なイメージや、悔悛によりフィオレンツェが救済さるという意味内容は、サヴォナローラの説教や改革に基づくと考えられる。とりわけサヴォナローラの存在の深く刻印された作品であり、サヴォナローラ主義者の注文によるものであろうと推定される。
 

 

 

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第6回

  

 

 

カステッロの受胎告知 サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510) 「春の戴冠」辻邦生著を読んで 第2回 

  

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 聖マルティノ寺院から依頼された「受胎告知」の背景に、一本の樹が枝葉を空に開いている。明らかに北方画家の作品の背景に触発された雰囲気、不思議な静謐感。一本の樹木はこの細長い窓の枠取りの中央に、内と外の両方を静かに眺める証人のように立っていた。
 私にはその樹木が無人の、音の絶えたような、澄明な神聖劇の唯一の観客のように思えた。それは沈黙した、敬虔な存在に化身した人類そのものに他ならぬのではないか。「神曲」の詩人と同じように、自由な視覚で〈神的なもの〉を表わす形を空想の中から呼び出している。この異国風な風景のなかに私は地上の静寂と懐かしさを感じる。(本文より)

 本の主人公に語らせたこの描写。
 推敲に推敲を重ねたのであろうか、それとも想うがままにペンを走らせたのであろうか、無駄のない文章で情景を見事に描き切っている。静謐感、澄明さ、敬虔さ、懐かしさを全身で感じ取ることができ、放心するように陶酔してしまう。辻邦生を敬い仰ぎ見、大ファンであるといいたくなるこのような描写場面に至る所で出会う。
 私が今回この絵を取り上げたのには理由がある。1489-1490に製作されたこの絵はフランドル派の影響を受けているといわれていてこの頃から芸術作品に北方の暗示が見られ始めてきたからである。絵画では、遠くがぼんやり霧で薄れるトスカナにおいて、それまで冷たく澄んだ水のような空気の表現は不可能だったそうだ。それまでフィオレンツァでは試みられなかった画法で、その澄明な空気を湛えた実物そっくりに描かれた世界は驚異的だっだそうである。北方画家たちの影響が拡がり始めた。
 そこには当時のフィオレンツァとヨーロッパの政治情勢が大きく関わっている。
 そのころまでにはメヂィチ銀行の柱がぐらつき始め、すでにロンドン支店が閉鎖されていた。北ヨーロッパのみょうばん独占販売権を失い、今度はアヴィニヨン支店の崩壊と続いていた。
 すでに英国もネールランディアも羊毛をフィオレンツァに輸出せず自国産の毛織製品で自給自足をはじめていて、フィオレンツァの輸出入業にも大きな陰りが見えてきていた。メディチ家当主のロレンツォにはもはや打開の道はなく、問題は各支店をいつ閉鎖するかにあった。一日のばせばそれだけメディチ家の財政に負担が加わることは眼に見えていた。一斉に引き揚げることはロレンツォの地位を危うくするのではないかという忠告の声のなか、最後にブリュージュ、ヴェネツィア、アヴィニヨンの三支店の閉鎖を決定したのはロレンツォ自身だった。実質的な負担を軽減したほうがメディチの力を温存することになるとロレンツォは判断した。
 ブリュージュのメディチ商会を取り仕切っていたのがトマソ・ボルティナリ。ブリュージュ支店が閉鎖されブラドラン館が売却されて、ボルティナリが生涯の大半を過ごしたブリュージュからフィオレンツァに戻ってきた。ボルティナリの屋敷に相当の数の北方都市の絵画、木彫、レース飾り、家具、飾物、つぼ、細工物、装身具が持ち帰られていた。
 フィオレンツァの人たちが北方文化に触れる大きな契機となった出来事である。
 ボッティチェリをはじめとした画家や職人たちも足しげく通い詰めたのであろうか。新しい世界に目を見張るボッティチェリのクリクリとした目と純真な好奇心を垣間見るようである。

 京谷啓徳著『もっと知りたいボッティチェリ』東京美術より。
『カステッロの受胎告知』について
 マリアは美しい曲線を見せながら、思わず身を引くかのようなポーズを見せており、戸惑いと受け入れの間の絶妙なパランスが感じられる。
 この作品で焦点になっているのは、マリアと大天使ガブリエルの手振りにより対話だ。垂直に立てた天使の手は、開口部の垂直線と一致し、それに対して、同じ形を繰り返すマリアの両手のうち、右手は開口部のくり型のなかにぴったりと収まることによって、その役割を際立たせている。彼らの手先の、いかに表情豊かなことか。戸惑いながらも天使を受け入れようとするマリアの心情が、彼女の表現とポーズに加えて、この手によるコミュニケーションによっても見事に表現されている。通常描かれる象徴的なモチーフは切り詰められ、ガブリエルとマリアが大きくクローズ・アップされたこの作品は、キリスト教の教義の図解よりも、人間的なドラマの表現に比重があるといえる。

 ロレンツォ時代のボッティチェリについて付記しておきたい。
 当初、ボッティチェリ初期の時代の評判はさして目立ったものではなかった。当時の流行から離れていて、画家仲間ではどこか異質の人物、わかりにくい人物、煙ったい人物と見なされるようになっていた。ボッティチェリの絵は、ただきれいごとを狙っているだけ、真実味が欠けていて〈ありのまま〉が描かれていないという批判があった。
 ところがコシモやピエロの時代が終わり、ロレンツォが花の都に春をもたらした時代になると、急激な人々の好みの変化があり、ボッティチェリの出現は町の人々に待たれていたものであった。まさに人々が求めていた〈神的なもの〉が現われていて人々の心に広く感じら受け入れられるようになってきていたのである。 

 

 

 

 

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第5回

  

 

 

プリマヴェーラ(Primavera)/春 サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510) 「春の戴冠」辻邦生著を読んで 第1回 

  

 3月から読み始めた「春の戴冠」中公文庫全4巻を5月中旬に読み終えた。長編、週末のみに取れる読書時間、要点をメモりながらの読書となったので時間がかかったが十分に満足のいく読み方ができたと思っている。この壮大なルネサンス期の歴史ドラマを理解し咀嚼していくには、読書メモを取る以外に方法がないと考え、ペンを持つ指に疲れを感じた時もあったが最後まで遂げることができた。画家サンドロ・ボッティチェリの生涯を軸として展開される花の都フィオレンツァの物語である。フィオレンツァの政治経済、フィチーノ先生を中心とするプラトン・アカデミア、シモネッタとジュリア―ノの恋物語、メディア家の興亡、ジロラモ・サヴォナローナによる春の終焉。読了後の今、豪華華麗で壮観な大きなうねりが体のなかに渦巻いていて、体と精神がルネサンス期のフィオレンツァを浮遊している感覚である。数回に渡ってこの本に出てくる絵画を取り上げてみたい。
 初回となる今月は『プリマヴェーラ(Primavera)/春』。
 ウフィツィ美術館で数回観ている絵である。フィオレンツァにある全ての絵画についていえることではあるが、この本を読む前と後では鑑賞眼に大きな違いがあることは明白である。2016年1/16~4/3 東京都美術館でボッテチィリ展が開催され、その時にも足を運んだが同じことがいえる。この時に購入してきて居間の壁に立て掛けてある『春』のレプリカを見ながら『春』の部分を読み進めていった。
 この絵はロレンツォ・デ・メディチの結婚を祝う目的で描かれたといわれている。ロレンツォはボッティチェリやリッピら芸術家を擁護し、ボッティチェリも顔を出していたプラトン・アカデミアにも参加し芸術・文芸のパトロンとして親しまれ敬愛されていた。 本の2巻終盤に『春』が完成に至るまでの経緯と、製作中のボッティチェリの苦悩、苦心、迷走など心の内奥が描かれている。プラトン・アカデミアの思索を絵画で表現したものがこの傑作、死の床にあるシモネッタの生命を絵によって救済しようとし、シモネッタその人を〈永遠の不滅〉であることを表現している。ゼフィロス(西風)が2人の女に戯れかけ、乙女が香しきフローラ(花の女神)に変身。中央の三美神の輪舞は美の女神、憧れの女神、快楽の女神。左側にヘルメス、7人の人物をまとめているのがこのヘルメス。ヘルメスが死であると同時に蘇りを示していて、左への進行が元に戻って右側から再び始まることとなる。 単なる名画の1枚だった居間の絵に息吹が感じられ、生命が宿ってきた。 ボッティチェリは絵が出来上がった時、病床のシモネッタを訪ねてシモネッタに絵を見せた。シモネッタはジュリアーノの愛人、23才で病死、ヴィーナスのモデルと言われている女性である。
 シモネッタは次のように語る。 「世界じゅうの人間が、この絵があることを伝え聞いて、きっとフィオレンツァに集ってくるでしょう。そしてそのとき、いつも、そうした大勢の人たちのなかで生きることができる。人間って、こうした〈美しいもの〉を見るためには、明日死ぬことがわかっていても、遠くへ旅立とうと思うもの。この〈美しいもの〉が人間の心を高く打ち響かせ、死をさえ、小さな、取るに足らぬものに思わせるの。」
 花の女神フローラの言葉の音が醸す優しさと優雅さを感じるこの絵にシモネッタの姿が重なる。花の香に満たされている春の訪れと死、フィオレンツァ一の美女と薄命。「左への進行が戻ってまた右側から始まる」、ボッティチェリはシモネッタの死を間近にして「再生」をこの絵で表現しようとしたのだろうか。
 本のなかで繰り返し述べられたフィオレンツァの春は、この作品『春』とボッティチェリとともに永遠に生きていくことであろう。私自身、甘美で華麗な花盛りの都市フィオレンツァの豊潤さをまといながら、これからの後半生を生きていきたいものであると読了後に思った。 “春になってトスカナの空が明るく晴れ渡り、桜草が土手に花をのぞかせるようになった。” シモネッタが亡くなってもフィオレンツァの春は永遠である。

 

 

 

 

ー ボッティチェッリ

のサイト展覧会 ー

 

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第4回

  

 

 

シシィ(皇后エリザベート) 上野国立西洋美術館『ハプスブルク展』より  

  

 昨年10月~今年1月、上野国立西洋美術館にて『ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史』が開催され、秋の日差しがさす休日に行ってきた。ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたマクシミリアン1世の絵画から始まり、マリア・テレジア、アントワネット、フランツ・ヨーゼフ、シシィ(エリザベートの愛称)、マルガリータ・テリサとハプスブルク家一家が一堂に会した展覧会だった。
今回はそのなかで不遇の一生を遂げたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの妃、絶世の美女シシィ(1837.12.24-1898.9.10)に焦点をあててみたい。私が訪れたことのあるオーストリア郊外のバート・イシュルとハンガリーとの関係に的を絞って進めていく。
 フランツ・ヨーゼフとシシィの出会いはザルツカンマーグート、オーストリア最古の温泉の町、皇帝一家の避暑地があったバート・イシュルである。ここでフランツのお見合いが行われたときのこと、お見合いの相手はシシィの姉だったがフランツが心惹かれたのは15才の妹シシィであった。フランツに見初められ求婚されたことでシシィの数奇な運命が始まる。  
 結婚してウィーンで華やかな宮廷生活に入るも姑のゾフィーが取り仕切る宮廷は居心地が悪く、フランツは業務に明け暮れシシィに真正面から向き合ってくれることはない。宮廷の堅苦しい儀式にも疲れ、シシィの日常は常に逃避の連続だった。ウィーンの生活に疲れるとシシィはバート・イシュルの夏の別荘カイザーヴィラにきて過ごしたという。シシィがくつろいで過ごした部屋は今も残っている。
 バート・イシュル、この町はもうひとつの意味で私には強烈な記憶として残っている。1914年7月28日、皇帝がサラエヴォ事件を受けてセルビアに対する宣戦布告に署名した場所であるのである。署名をしたカイザーヴィラの執務室の机の前に立ったとき、私は皇帝の気配を感じ生身のひとりの人間として感じたことを覚えている。一種の緊張感が走り、身震いするほどの思いをしたものだった。
 さて、シシィはオーストリア帝国からの独立を求めるハンガリー人に好意的になっていった。その理由は姑ゾフィーがハンガリーを嫌っていたという感情的な理由からである。シシィのその好意的な行為はオーストリア=ハンガリー二重帝国成立への真の立役者にシシィを成長させていく。ハンガリー民族の立場を尊重し、二重帝国に再編成するようにというシシィの勧告があって成立に至ったといわれている。
 シシィのハンガリー人への慈しみや愛情の表れはシシィの日常生活や身の回りにもみられた。ハンガリー人の侍従や女官を身近におき、ハンガリー語を自由自在に使い、ハンガリーを第二の故郷として頻繁に訪れた。そしてシシィのハンガリーへの思いと同等にハンガリー人もシシィを愛した。シシィが亡くなったとき、その柩の上には「オーストリア皇后」とだけ記されていたが、ハンガリーが抗議をして「ハンガリー王妃」と付け加えたという。
 ハンガリーの首都ブダペストにはエリザベートの名を冠した橋が架けられている。ハンガリー人のシシィへの情愛と敬慕の表れのひとつである。30年ほど前、私はウィーンからフェリーでブダペストへ入り、19時エリザベート橋のたもとにフェリーが停泊するため速度を落として、夕方から夜に変わろうとする銀色の世界のなかに高貴で華麗、優雅な真珠のごとく輝くブダ王宮が見えてきたとき、その幻想的な王宮を見上げながら感嘆の声を発するほど興奮していたことを思いだす。私のシシィとハンガリーとの出会いの原点である。

 シシィはハンガリーでは今でも絶大な人気を誇っている。
 シシィの生涯は苦悩の多い波乱に富んだ人生だった。ひとり息子のルドルフはマイヤーリンクで謎の死を遂げるなど悲劇に見舞われた人生を送った。
1898年9月10日、スイス、ジュネーブでシシィが暗殺された時、皇帝フランツ・ヨーゼフは「私がシシィをどれほど愛したかは誰にも分からないだろう」と側近に繰り返し言い続けたという。

 

 

 

ー ハプスブルグ展出品作品 ー

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第3回

  

 

 

真珠の耳飾りの少女 トレイシー・シュバリエ著を読んで 訳者:木下哲夫

  

 1664‐1665年 そして1676年
 肩越しに振り返り、濡れた唇に情感を漂わせ、大きな瞳でこちらを見ている青いターバンを巻いた少女。真珠の耳飾りに秘められた物語。
 モデルとなったフェルメール家の女中フリートをめぐり、旦那様(フェルメール)と妻カタリーナ、同居するカタリーナの母親、5人の子供たち(最終的には11人の子持ちとなる)、女中の先輩タンネケ(牛乳を注ぐ女のモデル)、そして将来の夫となる精肉屋の息子ピーテルたちとが織りなす小都市デルフトの一角での人間模様。そうそう、旦那様の重要な顧客で、フリートにちょっかいを出すファン・ライフェンの存在も無視できません。大きな目の17才のフリートはさぞかし魅惑的だったのでしょう。
 カタリーナのフリートに対する嫉妬心との闘い、嫌がらせをする子供、バランスを取ろうとするカタリーナ母、常に画家の目を通して(と思われる)フリートに接している旦那様、一枚の世界的名画が出来上がるまでの過程は、ページを追うごとに複雑な人間模様との絡み具合とともに興味が増幅していきました。
 この時代、顔料の調合に亜麻仁油が使われていたのには驚きました。今、体にいいとしてスーパーに並び始めていますが高くて手が出ません。高額な材料―青・赤・黄―は小分けにして豚の膀胱にしまっていたそうです。風邪薬として乾燥したニワトコの花とフキタンポポの溶液が出てきます。当時の人たちの知恵には驚嘆するばかりです。
 プロテスタンとカトリックの静かないがみあいと共存も随所に描かれていて、当時の社会状況の一端を垣間見ることができます。
 時がたつにつれて、フリートは旦那様の重要な助手になっていきました。カメラ・オプスクラを巧みに使用する旦那様とその手伝いをするフリート。旦那様から色の選定に助言を求められ、茶色と返答するフリートに「なぜ茶色を選んだのかね」、青と黄色は淑女の色だということを旦那様に申し上げるのも気が進まないとはにかむ純真なフリート。
 そして旦那様の画家魂。水差しと水盤に数か月の月日をかけて描く旦那様、椅子に掛ける布やモデルの娘さんの胴着と違い、水差しと水盤は何よりも手が込んでいてこういう色でなければならないという色へ仕上げていく様子はフェルメールの穏やかで強靭な執念を感じます。
 数か月後、フリートがモデルとなった「真珠の首飾りの少女」が出来上がった時、絵の前にはパレットナイフを持って絵のなかのフリートにダイヤモンドの刃を突き立てようとするカタリーナがいました。咄嗟にその手首をつかんだ旦那様、フリートはフェルメール家を出て脇目もふらず一目散に逃げ回り、フェルメール家に戻ることは二度とありませんでした。
 月日が流れ11年後の1676年、結末は耳たぶに掛けられた大きな真珠の意外な行方で幕が閉じました。最終ページのわずか数行の出来事に驚きしばし茫然としましたが、読み終えて気持ちが落ち着けば傑作と思える終わり方に納得し脱帽しました。
フェルメールの遺言「真珠の耳飾りをフリートへ」、その耳飾りをフリートに届けるカタリーナ、そしてその耳飾りを質屋にもっていき生活の足しにするフリート。
人間模様の終着点の整理とその具現化。
ピエールと結婚、男の子の親となっていたフリート、今後のフリートに幸あれと強く願って止みませんでした。

木下哲夫氏
「著者はフェルメールの絵のような小説を志したのではないか。フェルメールの絵は言うまでもなく、芸術のジャンルを問わずとびきりの上物。較べる相手としてはモーツァルトくらいしか思いつかないほどの傑出した存在。」

 

 

 

ー フェルメール展から ー

 

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第2回

  

 

 

オランジュリー美術館コレクション ー ルノワールとパリに恋した12人の画家たち (2019/9/21-2020/1/13)

  横浜美術館

 パリ、セーヌ川岸に佇むオランジュリー美術館から70点の作品が横浜美術館にやってきました。 
 初めて訪れる横浜美術館、入り口を入るとオルセー美術館内を彷彿とさせる広々とした吹き抜けの造りに心が躍りました。印象派が似合うとひとりにんまりです。
 20世紀初頭、自動車修理工だったギヨームはアフリカ彫刻に興味を持ち始め、それがきっかけでパリの画家たちとの交流が深まり画廊を開設、コレクターとして絵画の収集を始めました。ギヨーム死後は妻ドメニカが担い、最終的にはフランス国家に譲渡、オランジュリー美術館で展示されることになりました。モディリアーニが描く肖像画でおなじみのギヨーム、今回の展覧会でその画商の人となりが解説されていて、ようやく人物像が判明、少々不気味な様相を呈していた肖像画のキヨームに親しみを覚えるようになりました。

 

 一枚の絵、オーギュスト・ルノワール「ピアノを弾く少女たち」に会いたくて、お正月休みに出かけてまいりました。 姉妹なのでしょうか、あるいは仲のいいお友達なのでしょうか、一緒に楽譜を覗き込む愛らしいふたりにこちらが幸せいっぱいな気持ちになってきます。水玉模様のワンピースのかわいらしいこと、後ろで結ばれて椅子にたらんと垂れるブルーの布のベルトがいいアクセントになっていますね。この絵を引き締めいっそう引き立てています。椅子の背もたれの細い造りの精巧さがピアノ右側のあいまいな描写と好対照をなしていますが、計算されつくしたデッサンなのでしょうか。
 ふくよかな金髪の髪の毛は展示室の淡い光に照らされ、本物のように輝いていました。
 少女たちの純粋無垢な生命観、あふれ出る生きることの楽しさや喜び。みなさんはどんな曲をアレンジされますか? 

 アンリ・マティスも好きな画家のひとりです。「ブドワール(女性の私室)」「ソファーの女たちあるいは長椅子」、ヨーロッパの海辺に佇む家の一室でしょうか、穏やかさにほっとします。上品な淡いパステル調の色彩の組み合わせに魅了され続けています。 「線の単純化と色彩の純化によって作者の個性や感情が伝わる表現を追求した画家」(解説本より)、十二分にその想いが伝わってきます。
 瀟洒でトレンディな建物が並ぶお洒落な街、横浜。最寄り駅の桜木町から美術館までの10分ほどの道のり、胸をときめかせながら美術館へ向かい、夕暮れ時の退館後は満足感と幸福感で満たされた気持ちが街並みに暖かく包まれるのを感じました。
 年始を彩る素敵な一日でした。

 

 

 

ー 展示作品から ー

 

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第1回 (創刊号) 2020年2月

  

 

 

コートールド美術館展  魅惑の印象派

 

  昨年12/8(日)快晴、残り1週間となった上野東京都美術館《コートールド美術館展 魅惑の印象派》に行ってきました。ポスターに使用されているエドゥアール・マネ「フォリー=ベルジェールのバー」のお出迎えを受け、胸をときめかせながら入場しました。
 コートールド美術館、今回初めてこの美術館の存在を知りました。学生時代、数回のロンドンへの旅の時にひょっとしたら足を伸ばしていたのかもしれませんが記憶になし。美術館改修工事のために今般多くの名作が来日できることになったようです。

 美術館創設者サミュエル・コートールド(1876-1947)はイギリスの実業家でフランス近代絵画の魅力を母国に伝えたいと1920年代を中心に精力的に絵画を収集、ロンドン大学に美術研究所が創設されることが決まるとコレクションを寄贈しコートールド美術館誕生に至りました。
 上野の館内にはセザンヌ、ドガ、ゴーガン、マネ、ルノワール、ロートレック、モネ、モディリアーニと傑作が勢ぞろい、展示数も多く見応え十分でした。

 私の目を引いた作品のひとつはモネ「花瓶の花」(1881-1882)。華やかでみずみずしく、淡々しい桃色で統一されていて愛くるしい可憐な姿に引き寄せられました。水色のテーブルと藍色の花瓶との配色も絶妙、和室にも似合いそうな雰囲気ですね。場を引き立て和ませてくれることでしょう。
 マネ「フォリー=ベルジュールのバー」の前では、黒山の人だかりの中、時間を忘れて立ち尽くしていました。何かを語りかけてくるようなあるいは注文を待ち受けているかのような謎めいた表情の売り子、テーブルの上の琥珀色やロゼ色のアルコールが透けて見える魅惑的な数々の瓶、マネのサインが刻まれた左端のボトル、フルーツ皿に盛られたリアル感たっぷりのオレンジ、背後の観客の紳士淑女たちのざわめき…。この絵との対峙と会話が醸しだしてくれた異国情緒満載の世界はそれはそれは素敵なエキゾチックな空間でした。
 少女の両腕の長さがちぐはぐであったり鏡に映る少女の背中の位置が不正確であったりと、観る者の注意喚起と想像を呼び起こすアンバランスの構図はマネの遊び心でしょうか、この絵の楽しみのひとつにもなっています。左上の空中ブランコの両足にはドキリとさせられますね。
 “マネ最晩年の傑作”のタイトルにふさわしい、期待に応える一枚の絵でした。

 

 

ー 展示作品から ー


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