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衛星中継50周年特集

 投稿目次

小川 明 さん  衛星通信と研究

佐藤 敏雄 さん 宇宙中継50年

本間 強 さん 初の日米間宇宙中継実験の思い出

川井 一夫 さん、竹中 理 さん、糸原 志津夫 さん 追尾装置開発の思い出

小野 欽司 さん ケネディ暗殺を伝えた日米最初のTV宇宙中継の現場に居て

横井 寛 さん 衛星通信実験50周年記念に寄せて

青木 丈夫 さん 茨城衛星通信所跡へ行ってきました ~ 茨城衛星通信所の現況

 

衛星通信と研究


小川 明


 1963年茨城での衛星通信実験時には、送信機を担当し、11月23日の受信実験では、本番に入る前に石尊山に設置された疑似中継器に向け、テスト用信号を送信するのが仕事で、本番になるとお役御免となり、管制室に戻っていました。そのお蔭で、例のケネディ大統領にまつわる驚くべき画像を見ることができました。

 縁の下の力持ち的仕事の後、翌年4月にやっと初めて我々の送信機を使って、ヨーロッパに送信実験する機会が訪れました。その準備中、送信管(クライストロン)の調子が悪くなり、それを取り替えるため、予備の球を持って送信機室への狭い階段を登りました。もし転んだら送信実験はおじゃんになるだろうと緊張したことを覚えています。

 送信機に関する研究としては、衛星中継器の非直線性の影響軽減のために送信機の電力制御装置を開発しました。その後、より効果的な方式として、時分割多元接続(TDMA)方式の開発に関わり、その変復調方式の研究に携わりました。この研究を通じて得られた様々な経験が、自分のその後の人生を決めたと言って過言ではありません。

 1988年に名古屋大学に移り、TDMAだけでなくCDMA(符号分割多元接続)も含めて、無線通信における多元接続方式の研究を続け、これが自分の生涯の研究テーマとなりました。衛星通信は、国際通信の主役の座から降りましたが、そこで培われた技術や考え方は、現在の通信システムに活かされていることを実感します。

 

 
宇宙中継50周年
 
佐藤 敏雄
2013年11月17日
 
(1)当時は短波全盛
 1956年(昭和 31年)、卒業と同時にKDDに入社した。プロパー第3期生である。同期には、後に副社長となった小林好平、野坂邦史の両君がいた。苦労したお二人、残念ながら共に早世した。最初に配属されたのが八俣送信所。輪番に入り、先輩の指導で夜食には洗面器でうどんを煮て食べたものだ。当時最新鋭の100kW短波送信機を用いてNHKの国際放送を行うと共に、大半の国際電話を送信していた。八俣からの北米回線は僅か6回線に過ぎなかった。1958年に研究所の電波課に転勤し、宮憲一博士のご指導の下、アンテナの研究に携わった。
 1957年初めてソ連が人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した。米国もすぐに追い付き、1961年にはAT&Tベル電話研究所が通信衛星テルスターを打ち上げ、更にNASAがリレー衛星を打ち上げて、通信の本命として衛星が注目を集めるようになった。KDDでは早くも1961年には衛星通信の重要性に着目し地球局の建設を開始した。

 初めての海外出張を命じられたのがこの頃である。新川さん、三宅さん、榎本さん、室井さんのお供をして、ワシントンにおけるCCIR SG-4(注)の第1回会合に出席した後、米国の宇宙通信技術を調査することとなった。このSG-4は、記念すべき第1回会合ということで、開会式ではジョンソン副大統領の基調演説があったのだが、彼の南部訛り?のせいか?全く理解出来なかった恥ずかしい記憶がある。
  (注)CCIR(国際無線通信委員会)
     SG-4(第4研究委員会)は固定衛星業務を担当する
  会議終了後、全員でメーン州にあるAT&Tベル研究所のアンドーバー地球局やカリフォルニアのジェット推進研究所(NASA)の地球局等を訪問した。
 
(2)第1号アンテナと宇宙中継
 当時KDDはマイクロ波の経験も少なく、初めての宇宙通信用としてどのようなアンテナを作るかが問題であった。各種文献や見学調査の結果などを参照し、カセグレン型という2枚の反射鏡を持つ直径20mのパラボラアンテナを採用したのであるが、これが後に世界の主流になるとは予想だにできなかった。ベル研ではレドームに覆われた巨大なホーンリフレクターを建設し、英国は風でびくともしないように強度を増した重量級の1枚反射鏡のパラボラを使っていたのである。
 私は当初6mの追尾アンテナを担当したが、間もなくこの20mアンテナの建設と運用を担当する事となった。組み上がったアンテナに厚い布製のレドームをかぶせる作業は困難を極めた。深夜、煌々と照らされた照明の下、中々いうことを聞かない30mのレドームを、三菱電機 森川係長の大音声の指揮でやっと膨らませることができた。
 施設が完成し、1963年11月23日、初めての太平洋横断テレビ中継デモンストレーションが行われた。その第2周目に送られてきたのがあのケネデイ大統領暗殺のニュースであった。リレー衛星が地上から見える時間はたかだか20分。巨大なアンテナが高速で衛星を追いかけなければならない。
  ところがこのアンテナは油圧駆動装置に難があり、しばしば故障していた。中継途中でアンテナが停止しては大問題である。担当の私はアンテナ真下の制御室にこもり、アンテナの動きを示すメーターを必死に追い続け、少しでも異常があればいつでも手動に切り替えられる体制をとっていた。テレビモニターなどもなく、あの感動的な瞬間は、イヤホンから漏れてくる管制室でのやり取りに耳を澄ますだけであった。その時の実況は、本特集で、横井さんや小野さん達が書いておられるのでそちらにお任せするとしよう。
 海の彼方で今起っていることがそのまま鮮明に見られるという異様なカルチャーショック。これがその後の私の衛星人生を決めたといっても過言ではない。

 

  
(3)問題の連続
 このような技術開発には常に難問が付きまとうが、この宇宙通信も例外ではなかった。先ず最初の洗礼は、翌1964年春のこと。強烈な北西の季節風でレドームが吹き飛んでしまった。列車に飛び乗って高萩に急行し、取り敢えず雨仕舞をして実験を継続したが、このアンテナの電気的性能にはもっと大きな本質的な問題が潜んでいた。
 
 大統領暗殺という衝撃的な事件を伝えることができ、この実験は表向きには大成功ということになったのだが、その後の数多くの検証試験の結果、どうしても衛星からの電波受信強度が足らないのである。
 当時アンテナの性能(利得)測定は、約 5km 離れた石尊山の上から試験電波を発射し、受信される電波強度を基に計算で求められていた。石尊山で作業中、雲行きが怪しくなりついに鉄塔に落雷。トランシーバで、「落ちたァ!」と喚いたのだが、後で聞くと、地上では、「電話でしゃべったのだから生きてるんだろう」とつれない話だったとか。
 電波の性質から、直径20mのアンテナで必要な測定距離は20km 以上ということが理論的に分かってはいたが、それではアンテナの仰角が3度と低くなり過ぎ、地面からの反射波やフェージングの影響が無視できない。そのため、5kmでの測定データを理論的に補正して利用していたのである。絶対的な利得測定法を見出すことが急務であった。
 
 
(4)星を見つめて(S&S 38号参照)
 そこで考えられたのが当時漸く注目されてきた天体電波源(電波星)の利用である。星は無限の彼方に存在するから距離の問題はない。また高い仰角で観測できる利点がある。  
 世界中の天文学者が、色々な電波星について、色々な周波数で精密に測定した放射密度が天文学会で公表されていた。宇宙通信で使用する4/6GHz 帯で最も強い電波を出している電波星は、カシオペア座にある超新星の燃え残りのガス雲で、カシオペアA (Cas-A) と呼ばれている。
 次が牡牛座にある「かに星雲」(Tau-A)。これは超新星爆発の名残で、後冷泉天皇の時代(1054年)に強烈な光を放つ星が現れたと、藤原定家が明月記に記載している珍しい「星」である。電波的には、この星は他と異なり、直線偏波を放射しているという特徴がある。一方白鳥座にあるCyg-Aは図のように極めて狭い範囲に波源が2箇所ある理想的な電波源なのだが、電波強度が弱くて、観測対象には不向きである。
 Cas-Aの電波が強いと言っても極めて微弱な雑音である。横井さん達による高感度ラジオメーターの開発も進められ、これを使って連日、徹夜で悪戦苦闘の結果、この第1号アンテナの利得は設計値より2dB(30%)程低いというとんでもないことが判明した。
 結論から言えば、メーカーの設計自体が間違っていて、謂わばピンボケの状態で使われていたのである。この推論を実証するためアンテナを天頂に向け、一次放射器である大きな円錐ホーンを上下に動かしては、電波星の電波を受信し、最も強く受かる位置を探すという、泥臭い実験が続けられた。折しもクリスマスイブ。寒空に凍えながら、文字通り星を見つめながらの作業が続けられた。幸いこの実験は大成功。真の焦点はホーンの中ほどにあるという我々の推論の正しいことが実証され、ホーンの設置位置を変更してこのアンテナは理論通りの性能を発揮することができるようになった。20mアンテナにより国際電話サービスが始まったのは、このすぐ後の事である。
 
(5)衛星搭載アンテナの研究
 以上のような経緯から円錐ホーンアンテナの性質を徹底的に調べる研究を開始し、やがて画期的な衛星搭載用の誘電体装荷円錐ホーンが誕生したのだが、その詳細はS&S 46号に詳しく述べてある。
 この研究が一段落する頃、命じられてワシントンのコムサット研究所に勤務することとなった。そこで発表した私の研究成果の一部に目敏く着目したのが米国の衛星メーカー、ヒューズエアクラフト社である。このアンテナはヒューズの提案するインテルサットIV-A衛星2基に搭載され、全世界の地球局の交差偏波特性の測定に利用された。更にその後、同VI号衛星6基(左写真赤矢印)にも搭載され、長く国際テレビ中継などに利用されてきた。
 その後、宇宙飛行士が衛星を捕まえて修理した(下の写真)ことが話題となったが、捕まえてくれたあの衛星に私のアンテナが乗っていたのである。
 
(6)IEEEマイルストーン登録
 2009年11月、元KDD茨城衛星通信所が、IEEEのマイルストーンに認定され、2009年11月23日、高萩市において贈呈式が行われ、IEEE本部から小野寺社長(当時)にマイルストーン銘板が贈呈された。この認定は、1963年のKDD茨城宇宙通信実験所における初の太平洋横断テレビ中継と、その後の技術的な貢献に対するものである。(S&S番外参照)
 
(7)語り部として
 2005年11月、KDDI経由、NHKより依頼があり、プロジェクトXに出演の機会をいただいた。キャスターの膳場貴子さんが美しかった。
 また2007年には産経新聞から、茨城と山口の統合についての取材があった。いずれもKDD関係者全員の問題であり、私などはとてもと固辞したのであるが、誰かが語り継いでいく必要があるのだろうと、お引き受けした次第。
 
(8)おわりに
 諸先輩の温かなご指導を受け、多くの同僚の協力のお蔭で、幸運な楽しい衛星人生を過ごすことができた。セレンデピティの賜物と言ったら言い過ぎだろうか。これまで殆ど部外に出たことのない当時の写真などをご覧いただき、往時を回想して頂けたら幸いである。
以上

 

  
初の日米間宇宙中継実験の思い出
 
本間 強
 
 50年前の昭和38年にKDDに入社した小生の最初の赴任先は、予想もしていなかった茨城県多賀郡十王町(現日立市十王町)に建設されたKDD研究所茨城宇宙通信実験所でした。 赴任当時は衛星追尾用6mアンテナが完成しており通信用20mアンテナが建設中で、 ビーコン送信機をヘリコプターや自動車に搭載して衛星追尾用アンテナの模擬追尾実験が行なわれている最中でした。 7月に入り米国の通信衛星(Telstar衛星)の追尾実験が行われ、衛星追尾実験に成功いたしました。
 20m通信用カセグレンアンテナが完成したのち、実験所の南方約5.5km、標高377mの石尊山に設置されたコリメーション(擬似衛星装置)と対向して20mアンテナの性能試験が研究所の方々(西田さん、横井さん、佐藤さん、山田さん)により行われました。 小生もお手伝いで研究所の西田さんと一緒に石尊山で測定機器の操作のため一夜を明かしたこともありました。
 小生はその当時、衛星軌道データ(数十秒間隔の方位角と仰角のデータ)及び追尾アンテナからの追跡角度情報を用いて電子計算機により通信用20mアンテナを制御する指令制御装置の運用・保守作業を行っていました。 実験が行われる数時間前に指令制御装置の電源を入れて立ち上げ、研究所から送られてくる5単位符号の衛星軌道データを紙テープで受信し、それをテープリーダーにセットして研究所の方の到着を待つのが主な仕事でした。 当時の電子計算機は演算素子が磁気コアを使ったパラメトロンであり、記憶装置は磁気コアメモリーで構成されたもので、演算素子や記憶素子が目に見える大型の装置でした。 現在のパソコンと比較しますと非常に低性能でしたが、それでも0.1秒毎に衛星軌道データとアンテナ指向角度との差を計算して誤差信号を20m通信用アンテナに伝える能力がありました。 研究所の渡辺さん、市川さん、小野さん及び高橋さんから指令制御装置の操作方法やソフトウエアの仕組みを教えていただきましたが、この時の経験が後々の小生の仕事に大変役立ちました。
 20m通信用アンテナの性能試験を終えたのち、11月下旬に米国の通信衛星(Relay衛星)を使った米国からの初のTV伝送実験が行われることになりました。 本番は11月23日の早朝に行われましたが、当日は午前2時頃から準備作業が行われました。 日本で初の衛星TV中継実験ということでNHKのTV中継車が実験所に配置されましたが、指令制御装置が設置されている部屋は実験全体をコントロールする管制室でもありましたので、その部屋に中継用カメラが入り実況中継するアナウンサーも控えていました。 当時の通信衛星は静止衛星ではなく低軌道の周回衛星であったため、日米間で相互に衛星が見える時間は限られており概ね20分間程度しか通信できませんでしたが、米国からの衛星TV伝送実験はトラブルもなく予定時刻どおり開始されました。 皆さんご存知のとおり、TV伝送実験で伝送された内容はケネディ大統領が暗殺されたという予想もしなかった大変ショッキングな内容でした。 追尾アンテナ及び20m通信アンテナサイトで実験に従事されている方々はTVモニターラインが用意されていなかったので伝送内容を見ることができませんでしたが、小生はたまたま指令制御装置の担当であったのでこの歴史的な映像とNHKのTV中継の様子を全て目の当りにすることができました。 今でも当時のことを記憶していますが、数年前にNHKで当時の実験の様子が放送されたことがあり指令制御装置の周りで動き回っている小生がチラッと映っていました。
 歴史的な衛星TV伝送実験を経験して以来、衛星通信の素晴らしさに魅了され専ら衛星通信関係の仕事に関わってまいりましたが、貴重な体験をする機会に恵まれたことは大変幸運でありました。
 
※ 映画「衛星通信」に出演したk-unet運営委員とは、本間強さんでした。
 

 

  
追尾装置開発の思い出
 
川井 一夫、 竹中 理、 糸原 志津夫
 
  追尾装置は、その名のとおり、通信衛星の方向にアンテナを常に正対させるようアンテナの向きを制御する機能を持ち、アンテナから見た衛星の正確な位置情報を仰角と方位角の値として時々刻々読み取れるようにした装置であって、この読み取った仰角、方位角の値を通信用大型アンテナに送り、大型アンテナをこの仰角、方位角の方向に向けさせるのが最終目的である。この機能は、その後、大型アンテナ自体に持たせるよう改善されたが、当初はまだ別々であったので、この研究、開発は我々計測研究室グループが担当した。
 移動衛星では、通信可能時間が軌道によっては10数分程度しかないこともあるため、追尾装置は、衛星が地平線上に現れると少しでも早くそのビーコン電波をキャッチし、その仰角、方位角情報を管制室と大型アンテナに伝える必要がある。
 このような、追尾装置に関する経験はそれまでKDDには全く無かったので、その開発に際しては方向探知機等も含めた文献調査やラジオゾンデ追尾装置の見学をはじめ、製造業者の三菱電機技術陣の意見聴取など幅広に調査検討した。その結果、やや専門的になるが、方向誤差の検出には、4つのオフセットビームを用い、その和と差から方向誤差の値を得る方式とし、6mパラボラアンテナ軸の駆動は発生雑音を考慮して油圧制御方式となった。そして、このようにして組み立てた追尾装置は風雨対策としてレドームで覆われた。
 また、追尾装置を働かせるためのビーコン電波は非常に微弱で、無変調連続波の信号は地上到達時常温ノイズに埋もれており、これを確実に取り出すためには抽出フィルタの帯域幅を極端に狭くする必要があった。しかし、帯域幅を狭くすればするほど、もともと送受の周波数誤差がある上、ドップラー効果でビーコン電波の周波数が動いていくと言うことも考慮しなければならなかった。こうした問題にたいしては、位相同期回路内の発振器を周波数掃引させ、ビーコン電波にロックオンすると同時に周波数掃引を停止させるという方法で解決することにしたが、実際、この機能は極めて快調に動作した。因みに、テルスター衛星を開発した本場の米国AT&Tは、ビーコン電波捕捉のために約300個の狭帯域櫛形フィルタを用いるという大がかりな装置を開発・使用していたので、我々の簡便な方式は自賛できるものであった。さらに、ビーコン電波補足に際しては、まだ位置が分かっていない衛星にアンテナを確実に向けなくてはならず、そのためなかなか受からないこともある場合に備えて、アンテナを少し振ってみる場合の振り方のパターンも幾つか用意されたが、これは使用するに至らなかった。
 追尾結果の角度情報は精度0.005度刻みの値で送出された。ただし、追尾装置内ではその後0.002度刻みの精度で動作するよう改善された。
 このような追尾装置の移動体にたいする追尾実験として、疑似ビーコン電波発信器を積んだ自動車を国道6号線に走らせたり、ヘリコプターの周辺飛行に対する追尾実験などを実施したが、何れも極めて順調に追尾できた。これらの実験を重ねることによって、まずロックオンさえしてくれれば、その追尾実験はもう半ば終わったような気がしてきたことを思い出す。
 そして、いよいよテルスター衛星からのビーコン電波を受ける初めての追尾実験を迎えた時は、それまでの種々の実験結果から、きっとうまくいくはずだという自信はあったが、しかし本番の時にかぎって何か起こる、という例はよくあることなので、実際にロックオンランプが点くまでは油断できない。アンテナをその方向に向けて、いささかの緊張感を持って、祈るような気持ちで予定時刻になるのを待ち受けた。そして遂にロックオンした。その瞬間、パッと何か衝撃が走ったような気がした。それだけに、ロックオンの後は、6桁のアンテナ角度表示器の値が衛星を追いかけて滑らかに変化していくのを、幾分放心気味で眺めていたことを思い出す。
 その半月後、こんどは公開実験でリレー衛星を追尾した。この時は、前回での経験もあったので、大分冷静に立ち合うことができた。そしてこの日の2回目の追尾の時も上々の首尾であった。しかし、あの時ケネディ大統領暗殺の一大ニュースが送られていたことを実験後に知り、大変ショックを受けたとともに、テレビ信号が伝送出来る衛星通信の威力をまざまざと見せつけられた思いがした、と同時にそのような重要な仕事に携わることができたことを大きな誇りに思った。
 また油圧系を含む自動制御系など、それまで無関係であった分野の勉強ができたことは大変幸せであった。実際、始めの頃、何かを間違えたため、衛星とアンテナの角度誤差で動作する自動制御系全体が発振を起こしかけ、アンテナが突然ゆっさゆっさと左右に首を振るように振動し始め、あわてて電源を落として難を免れたことがあり、これで自動制御系の勉強意欲がかき立てられた。これも今となっては恥ずかしくも懐かしい思い出の1つである。いずれにしても当初の設備はオール真空管式で、その後固体化した装置と比べるとかなり大きなものであった。また、その後の衛星通信技術の進歩により、追尾装置は不要となったが、当初は必要不可欠な設備であり、衛星通信の実現に多少なりとも責任を果たせたことに満足している。
 これらのことは50年も前のことであり、当初追尾装置開発のリーダーであった道下さんが他界されているので、重要なことで書き落としたこと、書き間違いが無いとは言い切れない。お気づきのことがあればご指摘、ご教示いただきたい。
以上

 

  
 
ケネディ暗殺を伝えた日米最初のTV宇宙中継の現場に居て
 
小野 欽司
 
 「この一歩は小さいが、人類にとっては大きな一歩である」、研究生活において私の最大の転機は1969年のアポロ宇宙船の月着陸とその時船長のアームストロングの発したこの言葉でした。
   大学を卒業後、KDD(国際電電)研究所の宇宙通信課に配属され、地球を3時間で1周する人工衛星の軌道計算とその衛星をとらえて通信するためのアンテナ制御などの指令制御の研究に携わっていました。わが国最初のTV宇宙中継でケネディ大統領の暗殺を伝えた劇的な瞬間の現場で働いていました。1963年11月23日の早朝でした。
 私は大学院で人工衛星による宇宙科学の研究をしたいと考えていましたが、国際電電が人工衛星を使った国際通信の研究をスタートするという研究所長の難波捷吾さんの語る記事を科学雑誌で読み、国際電電とはどんな会社だろうと調べてみると渋沢敬三さんが社長の国際通信の独占会社でした。 この会社で仕事をしてみようかと、国際電電の研究所を訪ねましたが、話を伺った宮憲一さんから「君、ここに来るより大学院で研究を続けたほうがよいよ」と言われ就職はあきらめました。ところがしばらくして私の指導教授の永田武先生を通じて宮さんから「夏休みに国際電電の研究所へ実習に来ないか」と誘われ、実習にいっている間に国際電電の就職が内定し翌年入社しました。
 入社して私は宮さんが課長の宇宙通信課に所属していましたが、宇宙通信指令制御の研究のため大島信太郎さんが課長の調査課に席をおいて渡辺昭治さんがリーダの宇宙通信指令制御の研究に取り組みました。NASAでは宇宙開発にIBMのコンピュータが活躍中で、「何故IBMを使わないのか?」とよく質問され、また国産技術の中で私たちが担当するコンピューターがベースの指令制御装置の開発は課題が多くありました。私たちは東大の後藤英一先生のよって発明されたパラメトロン素子を用いた指令制御装置を開発して、国産技術の一番弱い所、日本と米国の差の歴然としているところに挑戦しました。
 日米TV宇宙中継の最初の日、私たちは前日から徹夜で準備をし、午前4時ごろに最後のリハーサルテストを終えました。5時半頃からの第1回の宇宙中継の前、NASAから来ていた専門家のフラハティ氏がアメリカと電話で話している「ケネディ大統領が暗殺されたらしい」「ケネディ大統領の日本国民へのメッセージの中継は中止になる」というような会話を耳にしました。私は大変驚きましたが、太平洋上の彼方を移動する衛星の軌道を正しく捉えられるか目前に迫った宇宙中継実験のことが気になり、半信半疑の状態でした。
 最初に宇宙中継で送られてきたTVではケネディ大統領の日本国民へのメッセージの中継は中止され、モハービ地球局とその周りの砂漠の風景などが鮮明に映し出されていました。20分くらいの中継の後、リレー衛星は見えなくなり無事中継は終わりうまく衛星を補足できTV映像を受信できてホットしました。
 3時間後(8時58分)再び、リレー衛星は茨城地球局の視界に入り、アンテナを衛星の方向に指向させました。そこに飛び込んできたのは、ダラスでのケネディ大統領暗殺を伝える衝撃的な映像でした。前にケネディ暗殺の事を小耳にしていたにも関わらず、宇宙中継により伝送されたありし日のケネディ大統領の姿を伝えるTVの映像で目にした事実に私はアンテナ指令制御の仕事を忘れるほど呆然とし、この衝撃的ニュースに心を奪われてしまいました。十数分近くの中継を無事終えたにもかかわらず、遠く離れたアメリカか

 

 

衛星通信実験50周年記念に寄せて
 
横井 寛
 
 衛星通信の実験時代、地球局アンテナとしていかなる形式のものが最適であるかは未定で、米国ではホーンリフレクタアンテナが、フランスはこれを輸入、英国はバラボラアンテナ、そして日本ではカセグレンアンテナが製作された。これらは何れも口径が20m程度の大アンテナである。
 カセグレン型はホーン型よりも小型で、またパラボラ型よりも給電導波管を短くできるので、その分雑音の影響を小さくできると考えられたのだが、まだ新しいアンテナで未知の要素もたくさん残されていた。
 KDDのアンテナは三菱電機が製作し、われわれはこの利得、指向性ならびに雑音温度などの特性測定を行うことになったが、まずその測定器から考えなければならなかった。結局、ラジオメーターという機器に幾つかの改良を加えて対応したが、満足な性能を出すのに随分と苦労をした。
 ここでの測定はアンテナ設置場所から5,5㎞離れた石尊山という山に疑似衛星を置き、この電波を受信する形で行われた。
 指向性と雑音温度については、ほぼ当初に予想した数値が得られたが、利得については送受とも設計値よりやや低い値であった、しかし衛星実験が迫っていたのでそのままとされたが、後になって問題となり、その改良が加えられていく。
 なお当初のアンテナは、レードームと呼ばれる球形のドームに収められていた。
 局全体でみると、まず追尾装置(アンテナ口径6m)が6月に完成して、7月7日、テルスター2号からのビーコン電波を捉えることに成功し、その追尾を行った、その他の装置も9月までには整備され、何度かの実験も行った後、昭和38年(1963)11月20日に茨城宇宙通信実験所として開所された。そして衛星利用で米国からのテレビを受信する公開実験はそれからわずか3日後に行われたのである。
 KDDは当初、テルスターを対象に考えていたのであるが、この時期、軌道の関係でテルスター2号は利用できず、NASAのリレー衛星を用いることとなった。衛星からの電波は両者ともに4GHzであったので米国からの電波を衛星経由で受信するだけの実験となった。
 23日(祝日)の朝、実験所にはテント村ができ、100名近い報道陣が詰めかけていた。彼等は敷地のほぼ中央にある管制塔で実験を見守り、アンテナおよび送受信の担当者はそれぞれレードームの中にいた。
 午前5時57分、第1回の電波が米国西海岸からリレー1号を通して日本に送られてきた。受信は見事に成功、しかし、当初予定されていたケネディ大統領からのメッセージは流されず、事前のテストでも使用されていたモハビ砂漠をバックにしたパラボラアンテナとサボテンの映像が映し出されるのみであった。日米双方から衛星が見えるのは僅か20分18秒の放送であったが、世紀の実験としてはいかにも物足りない内容であった。
 ところが、その2時間半後の第2回実験で送られてきたのは、当時ニュヨークに駐在していた毎日放送の前田特派員による
「日本の皆様、この歴史的電波に乗せて、まことに悲しむべきニュースをお伝えしなければなりません・・」
の沈痛なアナウンスに始まる“ケネディ大統領暗殺“というあまりにも衝撃的な大ニュースであった。

 この日米初の公開宇宙通信テレビ実験はその思いがけない内容によって、宇宙通信の有用性を日本中の人々に強く印象づけることになった。
 後でわかったことであるが、事件の発生後、米国側からの電話で
「亡くなった大統領のメッセージを送ることはできないが、どうしたものか?」
と相談があり、当時のKDD研究所次長であった新川浩さん(後のKDD常務取締役)が
「ではそのニュースを送ってほしい」
と対応されたということである。
 偶然にしても、悲しい宇宙通信の幕開けであった。しかし、この実験成功が翌年の東京オリンピックにおける初めての衛星によるテレビ中継につながったのである。
 余談になるが、この実験が終わって常宿としていた山岩旅館へ帰った時、尾頭付きの赤飯がみんなに用意されていたのに感激した。女将の温かい気持ちが嬉しかった。

参考文献  横井寛“宇宙通信よもやま話”裳華房(1997)

 

 

茨城衛星通信所跡へ行ってきました
 
青木 丈夫
 
 26年程前のことですが、お客様団体の付き添いで茨城衛星通信所に行ったことがあります。門外漢の私ですが、整然と並んだパラボナ・アンテナ群はその後も記憶に残っていました。

 偶々昨年12月北茨城の温泉に行く機会があって、思い立って衛星通信所の跡地へ行ってきました。
 アンテナは高台にあるので、直ぐ見つけることが出来ましたが、その後が大変でした。
 牧場やら苗木の試験場がある一角に迷い込んでしまって、通信所の正門があった辺りにたどり着くまでには随分と時間が掛かってしまいました。

 残されたアンテナは2基だけで、現在は茨城大学の管理となっているようです。
 写真でご確認頂けるように、広大な敷地にある桜並木は健在でした。
(2013年12月26日撮影)