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INDEX 

 号数(掲載年月)        タイトル       
第23号(2024年5月)     肉、魚と つづけば、 野菜の話も
第22号(2024年3月)     サケの握りが たべられるようになった 理由とは・・・
第21号(2024年1月)     日本の牛肉は、 産地により そんなに味が 違うのか?
第20号(2023年12月)   耐震構造とは絶対か? 予報、予測は なぜできるのか?
第19号(2023年11月)   「昭和史B面」から 掘り起こす (その11)  昭和16年(最終回)
第18号(2023年9月)     「昭和史B面」から 掘り起こす (その10)  つづき 昭和14年
臨時増刊号(2023年8月) 
高円寺の 阿波踊り の様子
第17号(2023年8月)     「昭和史B面」から 掘り起こす (その9)  つづき 昭和14年
第16号(2023年6月)     ワインを知らない ワイン通のお話
第15号(2023年5月)     「昭和史B面」から 掘り起こす (その8)  つづき 昭和13年
第14号(2023年4月)     「昭和史B面」から 掘り起こす (その7)  つづき 昭和12年
第13号(2023年3月)     1995年 掘り起こす 8月15日の 村山首相談話のこと
第12号(2023年2月)     「昭和史B面」から 掘り起こす (特集)  2.26事件 B面話
第11号(2023年2月)     「昭和史B面」から 掘り起こす (その6)  2.26事件のあった昭和11年
第10号(2023年1月)     「昭和史B面」から 掘り起こす (その5)  つづき 昭和10年
第 9号(2022年12月)    「昭和史B面」から 掘り起こす (その4)  つづき 昭和8年~9年
第 8号(2022年11月)    「昭和史B面」から 掘り起こす (その3) つづき 昭和6年~7年
第 7号(2022年9月)      「昭和史B面」から 掘り起こす (その2) つづき 昭和5年~7年
第 6号(2022年7月)      半藤一利さん著の 「昭和史B面」から 掘り起こす  
第 5号(2022年5月)      今年は、 戦前戦後体制 の平行年  戦前の世相 を知る投書  
第 4号(2022年4月)      あの時から60年、 還暦にまた巡ってきた 恐怖の日々  
第 3号(2022年3月)      地球がみんな青かったら   あ・・ いい湯だな・・  
第 2号(2022年2月)      運を天にまかす  
第 1号(2022年1月)      元茨城衛星通信所と 先祖代々の墓地めぐり

 

 

 

新 四 季 雑 感 (23)

樫村 慶一

肉、魚と

つづけば、

野菜の話も

しないと・・・

 

 

 いきなり話が大きなものになってしまうが、今地球上のあらゆる種族の人間の数は、80億人を越したと聞いた。それが100億になると、食料の取りっこで戦争になると言われる。あちこちの、局地戦争などは小さなことだというわけだ。そして強いものが勝つのだろう。誰が強いのか知らないが、k-unetの会員諸氏は、恐らくその悲劇は見ないですむであろうが、とりあえず、平和な話題に戻りたい、それも極端に小さな話題に。

2007.9.4(火)朝日新聞夕刊より

 日本は農業国と言われているので、どこでも野菜はとれる。東京を取り巻く6県でできる特産野菜(果物も含め)のひとつかふたつを、半分聞き伝えと常識で判断すると、千葉の落花生(野菜ではないのかな?)と西瓜、茨城のサツマイモ(薩摩芋神社もある)、竹の子、栃木のかんぴょうとかイチゴ、群馬のコンニャクとキャベツ、埼玉の長ネギ、神奈川の、って来て、さて困った、神奈川県の特産野菜ってなんだろうと考え、すぐ思い出した!三浦大根だ。このへんまでは、大体常識でご存じの方も多いであろう。そして、”とり”はいよいよ東京であるが、東京に野菜などとれるところなどない、と考える人がいたら、とんでもないことで、昔から、江戸は野菜の豊富な国だったのだ。

 もともとは、江戸にあった地元の野菜に、参勤交代で諸国から上京してきた武士達が、地元野菜の種を持ってきて栽培し、品種の改良を経て、「江戸の野菜」として定着させたのが江戸野菜の起こりである。今でも練馬大根は有名だし、その他にも、おでんの材料程はそろわないにしても、結構あるものである。2022年12月末の時点で、農協中央会に認められた、「江戸東京野菜」は52品目あると言われている。江戸川区の小松菜、練馬・亀戸の大根、千住の葱などは有名である。これらの他にも多摩地域を含めた、江戸東京野菜のリストを造ると、下記のように多彩なものになる。

「足立区」

千住一本葱、しんとり菜(1970頃から栽培が盛んになった新種の菜、生食ができ加熱しても歯ざわりがよい)、つまもの(紫芽、あさつき、木の芽、穂じそ、つる菜、鮎たで、芽かぶ)

「荒川区」

二年子大根、谷中生姜、青茎三河島菜、三河島枝豆

「板橋区」

志村みの早生大根

「江戸川区」

小松菜(一の江の小松川地区が発祥の地)、べか葉(菜っ葉)、しんとり菜

「大田区」

馬込半白胡瓜(明治33年に作られた新種の胡瓜、下半分が白くて太くて固めで水分が少ないのが特徴、漬物の名品と言われた)、馬込三寸人参

「葛飾区」

小松菜、金町小蕪、本田瓜(ホンデン・マクワウリ)、しんとり菜、千住一本葱

「北区」

東京長蕪(滝乃川蕪)、滝乃川牛蒡、滝乃川人参

「江東区」

砂村胡瓜、砂村茄子、砂村三寸人参、砂村一本葱、亀戸大根(根は短めで先細りが特徴)

「品川区」

品川蕪、居留木橋南瓜、汐入大根

「新宿区」

早稲田茗荷、淀橋南瓜(内藤南瓜)、内藤唐辛子

「墨田区」

寺島茄子

「世田谷区」

高井戸の節なり胡瓜、大蔵大根(江戸時代杉並辺りで造られていたものが、昭和になって世田谷につたわった)、千歳白菜

「多摩地方」

東京うど(立川)、鳴子瓜(マクワウリ、府中)、高倉大根(八王子)、のらぼう菜(菜っ葉、あきるの)、奥多摩わさび、小金井マクワウリ、拝島葱、たけのこ

「豊島区」

枝なり胡瓜、雑司ヶ谷茄子

「中野区」

東京大越瓜(シロウリ)

「練馬区」

練馬大根

「文京区」

駒込茄子

「目黒区」

真黒茄子(かっては目黒茄子とよばれた)、目黒の竹の子

 2022年になっても種類だけは、ビックリするほど豊富である。しかし、どこで作っているのか分からないし、もう作っていないものも多いのではないかとも思う。それでも、1960年(昭和35年)頃までは都内や近郊で盛んにつくられていたと言う記録がある。しかし、サイズが揃っていないため、流通システムにのせられないとか、現代の食生活になじみにくく、栽培に手間がかかることもあって、急速に減ってしまった。その反動か、それぞれの地元では、小中学校が栽培をするようになり、学校給食や地元の祭りなどで人気がでてきた。
 旧築地市場では、2003年頃から江戸東京野菜の取引をはじめた。土地の名前がついた野菜が多く、地域の魅力を見直す動きにもなっていると言われている。市場では、「京都の人が京野菜を守っているように、江戸の伝統野菜も東京で大事にしていきたい」と語っている。しかし、本当に、食糧不足の時代がきて、東京で野菜を地産地消なんてことになったら、笑い話ではなくなることになるだろう。「かつて、東京でも野菜がつくられていた・・・」という想い出話のうちが花であると思う。 肉、魚、野菜と3回に分けて話してきた食べ物の話は、これで終わり。
4月になって94歳、k-unetの皆さんのために、これからも頑張らなくちゃと思う。

(2024.5.1記 ) 

  

 


 

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新 四 季 雑 感 (22)

樫村 慶一

サケの握りが

たべられるようになった

理由とは・・・

 

 

 前回の「四季雑感」には牛肉の話を書いたので、今回は、魚と行きたいと思う。魚と言えば、すぐ寿司を連想する。実は私は、生魚を食べられない。どうしてか、理由はよく、じゃない全然わからない。おそらく昔、魚に当たってひどい目に合ったからかなと思うのだが、別に生魚が食べられなくてもたいしたことはない。だから、私には、マグロのトロだろうが、タイだヒラメだといったって、猫に小判で、ぜんぜん見向きもしない。その代わり肉にはおおいにこだわりがあるが。

地の果て、プエルト・モンの町

ロス・ラーゴ州都
プエルト・モン市

 さて、寿司のことを昔は関西では箱寿司と言ったが、関東(東京)では、断然握り寿司で、昭和の初めころまでは、寿司のNo.1はコハダで、マグロはズケと言って安物だったと言われていた。時代は飛んで、昭和30年頃(1950年代後半)になると寿司飯を小さくした店が増えてきた。飯よりもサカナが大きい方が良い値段になると思たのだ。しかし下町では飯はある程度大きいのを好んだようで、「刺身を食いに来たんじゃねー、飯を喰いたいんだ!」という客もいたようである。小さい飯にサカナがしなだれかかっているような寿司は、売春婦が客にしなだれかかって、「旦那、お金ちょうだい」と言っているような下品な女郎寿司だ、と作家の小島政二郎は言っていた。(以上、宮尾しげを著 下タ町風物詩より)。

プエルト・モンの青空市場

 すし飯が小さい事を現実にあてはめると、先日近所に新しくできた「くら寿司」というのに行った。そして驚いた、飯が小さいのなんの、普通の握り寿司の2/3くらいしかない。そして種が薄い、更には、ワサビが付いていない。ちょいと前に回転寿司で悪さをする子供がいたことが問題になったためか、ワサビはテーブルにあり、薄い種を自分でめくってワサビをつける、なんとも、寿司屋らしからぬ寿司屋である。もうこりごり、もう絶対に「くら寿司」には行かない。          
 寿司の話を続けよう。かっては、生でたべられなかったサケ(鮭)が、今では回転寿司の人気トップとか。スーパーでは、年中生の切り身が買える。その元は17000キロ離れても一衣帯水の、遥か彼方のチリからやってくるものである。昭和40年頃(1965)における家庭での魚購入量は、アジ、イカ、サバが上位であったが、2001年頃にはイカ、マグロ、サケとなり、2011年以降はサケ、イカ、マグロの順になり、その後はサケが首位を厳守している。そして今の日本人が食べているサケの68%がチリからの輸入サケで、ノルウエーからは10%である。しかし、このような状態になるまでには、何も考えないで買っている人々には、到底理解できない苦労話があった。

プエルト・モンの名物料理 クラント

プエルト・モンの土産物店街

 JICA、世界の発展途上の国々のあらゆる分野で活躍する団体で、今までに多大の実績を上げてきたが、アフリカ、中東、南米など各地で多くの犠牲者もだした。そのJICAに1970年頃にチリからやってきた鮭養殖の技術研修生と出会った技術職員が、南部のロス・ラーゴス州(ラーゴは湖で複数形でラゴス)に眼をつけた。緯度が北と南の違いだけど、それぞれ約50度と同じであり、地勢的にも小さな島が寄り合ったり、フィヨルドのある地帯なので、北海道の鮭の稚魚を持っていけば、きっと立派な産業になるに違いないと考えた。ところが、これがとんだ見込み違いであった。ぜなら、稚魚が育っても帰ってこないのである。動物の本能は微妙で南北の違いは簡単には解消しなかったのだ。自然の海を回遊してきたのでは、日本のサケと同じで生ではたべられない。その問題をどう解決したのかは知らないが、地勢を利用して自然の養殖池のようにしたのかもしれない。JICAは20年近く苦労したのち、チリ政府に試験事業を引き継いで引き上げた。それを受け継いだチリ側も立派であった。見事成功させたのである。日本の援助から始まった養殖事業なので、チリも養殖したサケを日本へ優先的に輸出してくれる。
 養殖のサケが輸入されるようになって、生のサケがたべられるようになった。北海道などの自然に生きるサケは、プランクトンなど食べているので、雑菌がいるため生ではたべられない。養殖の飼料はこうした心配のない、人口の餌だからナマでも大丈夫である。何気なくスーパーやデパートで買うサケには、こうした先人の苦労と努力の汗がにじんでいる。大威張りでチリのサケを食べていいのであるが、先人が苦労した裏話も合わせて覚えていてほしいと思う。

プエルト・モン~アンクー間フェリー

 このことは、チリの産業経済全体にも大きな影響を及ぼし、ロス・ラーゴス州の発展に大きな影響を与えている。小さな島が寄り合い、島と島の間は川のようであり、フィヨルドは細い川が縦横に流れているジャングル地帯で、とても人が住める環境ではない。しかし、サケの養殖が始まる前も、日本とは全く関係のない所ではなかった。このあたりの森林の木材をパルプの原料として輸入する商社があり、数えるほどの日本人が州都プエルト・モンの町に駐在していた。この地方がサケの養殖に最適ということになり、ここで養殖したサケを、プエルト・モンのすぐ南に位置する、チロエ島で加工するようになったわけである。
 フィヨルド地帯の入口に当たる位置にある、チロエ島は、真否は確かめたことは無いが、南米大陸で2番目に大きい島だということを聞いたことがある。また、チロエ島は南米というか世界のジャガイモの始祖の土地でもある。サケのための工場ができ、人口78万人のロス・ラーゴス州には養殖会社が60社もでき、3万人がサケ産業に勤めていると言うことで、チロエ島の住民の家族は親戚単位では、誰か一人はサケ産業に関わっていることになる。

チロエ島のアンクーの町

アンクー漁港
南米太平洋岸南端の漁港

 私は妻と二人で2000年にチロエ島に行った。細長いチリは南北約4000キロあり、隣のアルゼンチンとの国境越えルートは大きく3つある。一番北はアルゼンチンのサルタ州からアンデス山脈の峠越えのルート、昔はチリへの直通列車が通っていた。しかし今はアルゼンチン側の線路だけが生きていて、アンデス山脈の凡そ4000米の高さまで登り、国境に近い終点の高さ70米の鉄橋で折り返す「雲への列車El tren a las nuves」という観光列車が走っている。2番目はアルゼンチンの、というより世界的ワイン生産地として知られるメンドーサ州の州都から、国境の上に聳えるアンデス山脈最高峰アコンカグア(6960米)のほぼ真下に掘られた国際トンネルを抜けるルート。
 3番目が、一番南のルートで、南米のスイスと言われる、アルゼンチンの高級保養地サン・カルロス・バリローチェから、ナウエル・ウワッピ湖を遊覧船で渡り、バスを乗り継ぎまた湖を渡るという、一日がかりだけど一番景色を楽しめるルートがある。このルートの終点がプエルト・モンである。この町は、南米大陸の北の端コロンビアから続く道路(パン・アメリカン・ハイウエー)の南端の終点でもあり、サンチアゴから来る列車の終点でもある。この先には全く道はない。つまり、本当の地の果ての町である。ここからチロエ島の島都アンクーの町とはフェリーボートで約30分で繋がっている。
 

1960年の大地震の震源地近く
地震で河口が拡がった
入江を渡るプデト大橋

 サケブームが来るまでのプエルト・モンは、町の周辺に野菜や魚の市場が開かれ、土産物屋が軒を並べていいる質素な町であったが、今では、高さ90米のツインタワーができたとか、高級住宅が沢山建ちデパートもできて、サケ養殖の都と呼ばれている。目だった産業もなく、経済的に低い生活水準だった町に雇用がうまれ、すっかり町の様子がかわったようである。全ては、日本の発想と援助のお陰だったのである。
 サケの話とは関係がないが、このチロエ島は1960年(昭和35年)のチリ大地震の震源地に近く、地盤変化でそれまで海にそそぐ川口だった所が、広い湾のようになってしまったところがある。この大地震は、日本の三陸地方にまで津波を影響を与えたことで知られている。 今日本で一番沢山食べられている鮭の話はこの辺で幕としよう。
(2024.3.10記 ) 

 

 

 


 

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新 四 季 雑 感 (21)

樫村 慶一

日本の牛肉は、

産地により

そんなに

味が違うのか?

 

 今回は食べ物のお話をしよう。それもお肉の話である。日本には、米沢牛とか、松坂牛とか、神戸牛とか、なになに牛とか、色々土地の名前のついた牛が沢山いる。これらは、何処が違うのだろうか。そもそも、こんな狭い日本には、本当に美味しい肉牛を育てるに適した土地がどのくらいあるのだろうか。牛の味が変わるほどの、飼育方法の違いを生み出すことができるのだろうか。誠に疑問が多い。テレビ番組で、世界で一番美味しい牛肉はどこの国の牛か、という番組を見たが、アルゼンチン牛とオーストラリアの肉が、1,2を争う品質だった。これには私も同感である。

 大草原(パンパ)の遠望

 牛の肉は、起伏のない平原で自然にはえた、アルファルファ(日本名、うまごやし)という雑草を、体を余り動かさないで、ただ食べるだけで育つのが、一番柔らかくて脂っこくない最高の味の肉になる。アルゼンチンの牛もオーストラリアの牛も、そのルーツは、スコットランド北東部のアバディーン市の周辺やアンガス地方が原産の牛で、アバディーン・アンガス牛、一般にはアンガス牛と言われている。日本に輸入される主な肉は、大多数が米国やオーストラリア産の肉で、アルゼンとウルグアイの肉が少々入っているが、皆アンガス牛だと思う。美味しい肉だ。日本の牛肉は最初の一口が、何となく生臭い感じがすると思うのは、私の偏見だろうか? 今はあるかどうか知らないが、アルゼンチンにはかって、「アバディーン・アンガス」という銘柄のワインもあった、味は覚えていないが、まあまあのもだったと思う。アンガス牛の特徴は、赤身が多くて柔らかく、脂部分と別れているので、食べやすい肉だということだと思う。

 アルゼンチン・ワイン=アベル゙ディーン・アンガス

 日本とアルゼンチンの国土の大きさはというと、アルゼンチンは日本の8倍の広さがあり22の州に別れている、このうち、ブエノスアイレス州と隣接のパンパ州の2州だけで約450万平方キロあり、日本全土の377万平方キロより広い。そのうち約半分はパンパだが、それでも銘柄は、「アルゼンチン牛」一つである。これだけ広いと草原を真っ直ぐに伸びる国道を、車で120キロくらいのスピードで飛ばして、3時間かかっても、まだ草原は続く、しかも全くの平原であって、ところどころに、オンブーという高さ5メートルはゆうに越す大木(実は草の一種)が、ぽつんぽつんと生えている、牧場の事務所の様な建物がこの奥にあるという印に、道端に、古タイヤとか牛の骨にガウチョの帽子をかぶせたものとか、なにか一寸目につくものを建てている、しかし車で走りながら建物は見えないことが多い。地下を2米も掘るとしょっぱい塩水が出る。大昔海の底だったからだ。           
 私の知っている限りで、日本でアルゼンチンの大草原に似た場所と言ったら、北海道の平原くらいだろう、それでも広さは全く違うし、起伏が沢山ある、まして本州に、そんな牛の放牧に適した土地がどれだけあるか。狭っこい土地の牛にいちいち名前をつけて差別化を図ろうと言うのは、ナンセンスだと思う。

パンパで悠々と草を食む
アンガス牛の群れ

 アルゼンチンの牛は朝起きて、モウー と一鳴きして、足元の草を食べ始め、太陽の動きに合わせて、一日かかって日没まで自分の周りの草を食べる、草を探して歩き回る必要は全くないので、柔らかい肉だけの体になる。南米大陸は、アルゼンチン北部のラプラタ川やパラナ川を超えたウルグアイ国から、ブラジルに向かって緩やかな傾斜地になるので少しづつ肉が固くなる。
 日本の平地を全部合わせても、アルゼンチンの一州の広さもない。そんな狭い土地で、名前だけ付けたって、味の違いが出ることはないだろうと思う。餌で味の違いをだすと言うが、冒頭で申したように、餌は自然の牧草が一番いいのだと思うのだが、餌を違えてどの程度、味の違いがでるのだろうか。目をつぶって名前の違う牛の同じ部位を食べ比べて、味の違いがわかるのだろうか。疑問だらけだ。

 脂肪部分が少ないアンガス牛の肉

 生物というと動物と植物の総称だけど、植物は土地の改良だけで、そこで育つ植物の特徴は変えられる。米でも野菜でも果物でも、気候に対する適応力までも変えられるけど、動物は、そうはいかない。生き物は自分でその土地に適合しようとする知恵があるから、人間様のやることに一筋縄では応じない。(チリで南北の緯度がほぼ同じだからといって、北海道の鮭を養殖しようとしてうまくいかなかった例がある)。日本には牛が自然に生きられる土地がないし、牛の餌になる草がないので仕方がないが、本当に牛が好きなのは、天然の草原に生えている自然の草が一番好きなのだ。

 パンパのオアシス、
オンブーの木(本当は草)

 東アジアの中国から東北方面(中国東北部、旧満州、朝鮮半島などの地域)には、牛が自然に生存できる場所は少ない。モンゴルのように広い平原のような土地があるが、砂漠のようだし、旧満州辺りになると寒すぎるのではないだろうか、そのため食用に十分食べるだけの数がいない、そこで、昔から頭の良い人間は考えた。つまり、どうしたら少量の肉で満腹感を味合えるか、ということである。それには、まず肉を薄く切って一切れの面積を広げる、その次に、味を濃いめにつけること、他の材料と一緒に食べること、こうしてたどり着いた食べ方が鍋料理である。明治時代の牛鍋はすき焼きの元だと思うが、テレビなどでみると、結構色が濃いので、恐らく醤油や砂糖をそこそこに使っていると思う、味が濃ければ少量でも満腹感を味わうことができるだろう。実際に我々が食べるすき焼きにしても、肉ばっかり食べないで、野菜と一緒だし、そこそこに満腹感を味わえるというものだ。中国料理にしても、アルゼンチンの様な豪快な大きな肉料理はないし、韓国料理だって肉料理は薄く切った肉が主体だ。

 アルゼンチン人の食べ方は誠にシンプルである。量は男も女も普通400g~500gのステーキ(ビッフェ・デ・チョリッソという)で、味は塩だけである。焼くときに鶏肉には、なぜかレモンを掛ける人がいる。味付けは塩と焼き加減だけである。都会の中流以上の家には大抵アサド(焼肉)用器具が備わっている。一番下で炭を燃やし、その上に網を鎖で釣って、ハンドルを回して上下させ、焼き加減を調節する。一度に焼く時間は2時間位かける。現在は郊外に観光牧場があり、そこで観光客にビッフェ・デ・チョリッソを出すが、この肉を焼くのはガウチョの役目で、大きな網の下で、ガンガン炭を燃やし、つきっきりで、ほどほどに裏返ししたりして焼き加減をみている。

 この他に、牛の内臓のほとんどすべての部位を焼くパリジャーダという料理がある。心臓から肝臓、腎臓、胃袋,、腸、子宮等殆どの部位を焼く。(我々駐在生活者は常にポケットに醤油の小瓶を入れていた、数滴たらすと味がぐっと良くなる)。レストランなどで食べるときは、付け合わせは500gの肉に対して、小さなどんぶり程度の器に生野菜サラダ(玉ねぎ、レタス、トマトでエンサラーダ・ミスタ=ミックス・サラダと言う)だけ。一寸熱が通ったら一握りもないくらい少量の野菜しか食べない。大体アルゼンチン人は日本人ほど野菜をたべない。だから、足などに静脈瘤の人が多い(と言われる)。ステーキ肉には赤味と脂部分(1/5位)がはっきり分かれているので、脂を食べない人は、綺麗に取り分けることができる。仲間などと一緒に食べるとき、この脂部分が好きな人が、グラーシアス(ありがとう)と言ってフォークを刺して頂戴する。普通の日本人には、とても一人では食べきれない。
 ひれ部分(ロモと言う)は誠に柔らかい、だから、病人食や幼児の離乳食にされる。適当な厚さ(3,4センチ)に切り、周囲を軽く焼く、そして、中のまだ血が残ているような赤い肉を、スプーンで掬って食べさせる。私はそれまで、肉をたべすぎると胃が持たれて、翌日は大変だとばっかり思いこんでいた。アルゼンチンへ行ってまもなくの頃、友人と食事をして、結構食べたなと思って消化薬を飲もうとしたら、とんでもないと止められた。牛肉くらい消化のいい肉はない、消化薬なんて全く要らない、だまされたと思ってやめておけ、というのである。そして、その通りであることを知った。
 牛以外の肉はどんなものを好むのかと言うと、牛の次は羊である。肉のレストランへ行くと、入り口に羊を一匹、腹から割いて広げたものを、炭火でゆっくり焼いている。その次は鶏肉、豚はその次くらいだろうか、豚肉は自由に走り回って飼われているので、硬くて油っけがなく、美味しくない。その次は日本人もご存じの、全身が針でおおわれているような、アルマジロ(キルキンチョともいう)、そして兎、これらは鶏に似ていて、食べやすい。パラグアイ辺りで、鰐の尻尾が最高に旨いと言う政府高官がいた。

 世界の牛の分布は知らないが、アルゼンチン肉の料理が量と味の点で横綱なら、さしずめ北東アジアは前頭というところか。アルゼンチン人は朝から肉を食べる、主食なのである。日本人がいくら肉が好きだといっても、朝からステーキを食べる人はいなだろう。何世紀も続いた食生活の質は変わるものではない。さりとて、恐らく今後もアルゼンチン牛の品質が変わることも無いと思う。
 その理由は、牧場のオーナーの多くは、日常はみな牧場のある田舎には住まないで、フランスやイタリア、スペインなどヨーロッパに住んでいて、牧場経営の一切を執事という代理人に任せて、1年に一度売上を調べに帰ってくる。執事は毎年、前年同様ですと例年並みの売り上げが報告できれば、ご苦労様よくやったと、次の年も任せてもらえる。しかし、品質改良など危険のともなうことをやって、失敗しようものなら即、馘になる。危険を伴う品種改良なんかに手をだすわけがない、と思うからである
 一方、狭い国土をコマ切れに区分けして、それぞれに、名前を付けて張り合っている日本の牛肉産地が、なんともせせこましいと言うか、いじらしいと言うか、狭い国に住む人の商才というのか、複雑は気持ちにさせられる。こんな感じを持つのは、日本人として生意気なのか、と自己卑下に陥ることもある。やっぱり、私はれっきとした日本人なのだから。では、この辺で、次回まで。おわり  (2024.1.20)

 

 


 

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新 四 季 雑 感 (20)

樫村 慶一

耐震構造とは絶対か? 

予報、予測は

なぜできるのか?

 

 

 

地震の耐震性

 昭和48年?だったか、霞が関に超高層ビルができた。霞が関ビルである。32階くらいあったと思う、日本最初の超高層建物として、話題になった。

霞が関ビル

新宿KDDビル

KDDビルと京王プラザホテル(手前)

 徳川時代までは、東京湾の海だったと言うような、地盤の柔らかい所に、よくあんな高い建物ができるもんだと感心したものである。高層ビルは、中央のエレベータ部分がコアになっている。つまり中心柱である。法隆寺の五重塔が1000年以上経った今でも健在なのは、地震に対する対策ができているからで、その原理を真似したとも聞いている。そのため、大きな地震がおきたら、エレベータ・ホールにいるようにしようとか、エレベータと並行にできている非常階段を降りようとか、真剣に考えたことがある。
 そのうち、新宿に会社自前のビルができた。これも超高層ビルであるが、精密な通信機器を置くために、普通のビジネス・ビルとかホテル・ビルとは、桁違いの頑丈さにできている。天井の高さは普通のビルの1,5倍くらいあり、床の厚さも厚いし、普通の超高層ビルの50階くらいの高さのビルなのに32階しかない。使われた鉄骨、コンクリートのは普通の1,5倍くらい多いと聞いている。まあ、これならば、と多少は安心したものである。
 そういえば、もう半世紀も前になるが、会社の労働組合の賃上げ闘争の期間、スト対策として数日、京王プラサ・ホテルのシングル・ルームに泊まった。そしたら、なんと隣室のトイレの水の音が聞こえるのだ、へー このような5つ星でもチャチな作りだこと、と驚いた。また、ここに泊っている間、窓の大きなガラスが、寝ていると、ピシッピシッ と鳴る。ホテルの建物が揺れるときに、ねじれて鳴るんだと思った。いい気持ちではない。要するに、建築方法が安普請だからじゃないのだろうか。ある夜の事、会社のビルが相当揺れたことがあった。空は月夜である、幅2~3米ある窓枠の右~左を月が往復しているのを、震えながら見たこともある。

 1980年代のある日、32階の大講堂で、NHKの解説委員が来て講演を行った。テーマは、災害の話だったように思う。高層建物の安全性について喋っていたのを覚えている。その中で特に印象的だった話が、ビルの耐震性についてだった。高層ビルは地震にも大丈夫だと言うが、それは、過去に起きたのと同じような、或いは似たような地震波による地震に対してであって、過去にないような波形の地震がきたら、どうなるか分からないと言う、怖い話だったのでよく覚えている。

地震波の種類と伝わり方

 地震は、地上を伝わる地上波(表面波)と、地中を揺らしてくる地中波(実体波)があり、地上波や地中波のP波が早く伝わる。これを気象庁が受信して、NHKなどから地震警報を発するのだ。タワマンなどの設計者は、過去の地震波のデータを蓄積しておいて、設計段階で模型等を使って実験し、この波形なら大丈夫と自信を持つのだろう。しかし、過去にない波形が来たら、どうなるか分からない。私が怖がるのはこの場合である。大概は大丈夫なんだろうけど、絶対に大丈夫とは言えないだろう。だから、タワマンの宣伝で、震度幾つまでの地震は絶対に大丈夫と言うとしたら、それは言い過ぎだと思う。

天気予報はなぜ予報(予測)というか

 天気予報は、よく当たるようになったと思う。昔の天気予報は、当たらないことへの当てこすりに「天気予報」という言葉が使われたものである。恐らく予報官の”かん”によるものだったんじゃないかと思う。ところが、今はどうだろうか。

気象庁のスーパーコンピュータ
(気象庁ホームページ報道発表資料から)

 世界1,2を競うスーパーコンピューターの、大容量記憶装置に、過去毎日の気象データ(等圧線の気圧、前線の移動方向、気流や偏西風の方向、早さ、上空や海水の温度など、また台風や異常気象のすべての記録等)を蓄積してあり、その中から今日の今の気象状況に最もよく似た過去データを瞬時に選び出す。そして、その状況がどう変化していったか、時間ごとに、翌日までの変化がすぐ分かる。だから、今の気象状態が明日はどう変化するなかなんて、手にとるようにわかる訳である。これなら当たらない訳がない、勿論完全に同じではないだろうし、明日の気象データが過去と全く同じになるかどうかはわからないから、多少は違う結果になる、だから予報とか予測というのだ。予報とか予測とかは過去の記録がなければ、すべて山勘か、あるいは、当てずっぽになる。私が考えた話であるが、面白い話しがある。もし、地球に本当によその天体から生物がやってきたとして、或いは攻められたとして、チャットGTPに、どうするべきか聞いてみても、何も言わないで黙ったままだろうと思う。全く過去データがないから、返事のしようがないからである。一寸先は闇だ、運を天に任せる、なんて昔の人は結構、現代人に役に立つ言葉を作って置いてくれたものだ。科学を100%信用してはいけないということだろう。

 2023年はどういうわけか、年紀事象が多いと思う年であった。まずは我がk-unetが創立25周年を迎え、われらのKDDが創立70周年になった。ついでに、的外れになる事を挙げると、ペルーとの友好条約が結ばれたのが150年前、アルゼンチンと修好条約が締結されたのが125年前、さらに今の国連に当たる国際連盟を脱退して破滅の道へ踏み出したのが90年前、プロレタリア作家小林多喜二が虐殺され、我々戦前派には懐かしい国語教科書に「サイタサイタ サクラガサイタ」がでてきたのも90年昔、浅草観音様本堂が落成して、丹那トンネルが開通したことや、新宿に伊勢丹ができたことなども90年前と、思い出すといろいろあったものだ。今年ももうすぐ往ってしまう。地上も天空も嫌なことだらけの年だった、来年はどうなるのか、先の先人の言葉ではないが、一寸先は明るいと思い、運を天にまかせて生きるしかないのだろう。人間であるかりぎは・・・・
 皆様 来年は、今年よりは少しでも”ましな”年になりますように。
 では、また来年。

(2023.12.13)

 


 

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新 四 季 雑 感 (19)

樫村 慶一

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その11)

(最終回)


(半藤一利さん著の「B面昭和史」を主体に、の他の本
から写真などを拝借して、私の主観で編集した昭和16年
1941年の記録です。いよいよ大戦争の勃発です、この年
の記録を持って、この題材の連載は終わります。)

 

 初日独伊三国同盟を締結したあとの日米関係は、当然のことながら険悪化する一方となる。ドイツと英国とは激越な戦争を繰り広げている。その英国を同盟国として公然と支援しているのが米国である。ドイツは準敵国、そのドイツと手を結んだ日本は、同じように準敵国視せざるを得ないからである。米国海軍長官ノックスは、「日独伊三国同盟は米国を目標としたものであるが、我々は挑戦された場合、いつでもこれに応ずる用意がある」、ときつい発言をしていた。
 昭和16年の年が明けるとともに、近衛内閣は一層日本精神強調による戦時体制確立への動きを増強していった。大袈裟に言えば、やがて戦うことになるかもしれない対米英戦争のための準備ということか、前年の11月にポリドールから売りだされたレコード「月月火水木金金」が、年明けから、やたらに巷で歌われ出した。日曜なし、半ドンの土曜なしで精々働けと言う歌である。

宣戦布告の証書
(画面をクリックすると大きく表示)

 永井荷風の「断腸亭日乗」に面白いことが書かれている。2月4日の項である。荷風はこの日も浅草へ出かけ、オペラ館の楽屋に顔をだした。「楽屋に至るに朝鮮の踊り子一座有りて、日本の流行歌をうたう。声柄に一種の哀愁あり、朝鮮語にて朝鮮の民謡歌わせなば、さぞよかるべしと思いてその由を告げにしに、公開の場所にて朝鮮語を用い、又民謡を歌うことは厳禁されていると答え、さして憤慨する様子もなし、余は言い難き悲痛の感に打たれざるを得ざりき・・・・悲しむべきの限りにあらずや」、なぜこれが面白く感じたかといえば、昭和13年頃には、まだ朝鮮語で歌うことが許されていたことを、荷風が明瞭にかきとめてえいるからである。浅草六区の芸人の中には朝鮮人が少なからず、ことにオペラ座の舞台では朝鮮語で歌とうたっていた。それから2年ちょっと、いつからと指摘はできないが、状況はガラリと変わっていた。当局からの強い指示があったのであろう、もう朝鮮語の唄はうたえなくなっていた。
 それなのに、という事件がその直後に起こっていた。2月11日、日劇の周りには早暁から群衆が押し掛けた、8時を過ぎた頃には、収拾がつかない状態になっていた。入場券を買う行列が巨大な円形をなす日劇をなんと七周り半したうえ、押すな押すなで負傷者が続出する状態になった。丸の内署から警官が大挙出動して整理しようとするがとても無理だ、遂に消火用ホースによる放水で群衆を追い散らした。出し物は、折からの紀元節の日、「建国記念祭、歌う李香蘭」と題した、中国人女優の李香蘭の映画と実演である。映画は長谷川一夫と共演の日満合作の「白蘭の歌」。李香蘭は以前から「支那の夜」などで爆発的な人気を呼んでいた。日、満、中の三か国語がペラペラの中国人女優としての物珍しさもあり、更には戦争という国家の大事業を支援する日満親善という役割のために来た、これはもう応援せずばなるまいというわけである。

シンガポール降伏調印式
(左端山下将軍)

 それにしても、日劇の中国人女性とオペラ館の朝鮮人女性とのこの違いは、当時の日本人にはどちらに対しても軽蔑感があった。人種差別感があった。ただ、中国人にたいしては、得体の知らないものを感じて、あまり深く付き合いたくないとの思いを抱かされていた。一撃で済むと思っていた戦争が、長引いてドロ沼化しているしつこい嫌らしさが、中国人とそもそも何者なのか、という疑問を感じていたのである。李香蘭については、後日談がある。彼女は本当は日本人なのだと言う噂であった。しかし日満親善と東亜新秩序の大使命のためには、彼女が日本人であっては、ならなかったのである。戦後になって、李香蘭、コト山口淑子は語っている「日本人であることを隠しているのがつらかった」と。
 

小学校から国民学校へ

 この年は、春がいつもの年よりも早く訪れた。政治や軍事や経済情勢の窮迫に伴って、國全体が臨戦態勢に組み込まれているとは思えないほど、穏やかな日々が続いていた。そのなかでも、若者たちへの赤紙1枚による応召は相次ぎ、日の丸の小旗をふって、勝ってくるぞと勇ましく・・・・の見送りは、白いタスキの国防婦人会や愛国婦人会の小母さん達と、学童たちの大切な銃後の勤めであった。その小学校の名称が4月1日から、国民学校に改称された。科目も修身・国語・歴史・地理が国民科、算数・理科が理数科、体操・武道が体錬科、音楽・習字・図画・工作・裁縫・家事が芸能科と編成替えになった。そして操行がなくなった。このついでに文部省は音楽の授業を化粧替えして、「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロ」と妙なこと言い出した。そして長い間使われてきた通信簿の甲乙丙丁が、優、良、可、不可となった。そして、上級学校へ進学するのに
昔からあった学科試験が無くなり、口頭試問と内申書と体力検査の三点セットになったのが、昭和15年の春からであった。この頃から学業の基礎となる知識や知能の錬磨よりも、戦力となる体力錬磨の方が重要視される時代がやってきたのである。例えば、昭和12年の東京府立第一中学(現都立日比谷高校)の入学試験・国語の一部にこんなのがあった。
 ◎次の漢字の読み方をカタカナで書きなさい。
面影、修行、紺青、弁へ、信仰、臨終、著しい、訪ふ、小春日和、座る。こんなものが読めなくても、力が強い方がよい、というわけでもあるまいと思うのであるが。昭和16年3月に、朝日新聞が公募した「国民学校の歌」というのができた。「皇御国に生まれ来た、感謝に燃えて一心に、まなぶ国民学校の、児童だ、われら朗らかに、輝く歴史うけついで、共に進もう民の道」。

 4月13日、松岡外相の活躍で日ソ中立条約がアット言う間に調印される。日ソ相互間の領土の保全、相互不可侵を決めた条約である。有効期限は5年、世界中が両国の離れ業に驚愕し、日本国民も何故か拍手を送った。左翼的な弁護士の正木博は個人誌「近きより」5月号の巻頭言にこんなことをかいている。「日ソ不可侵条約ができて国民は久しぶりに青空を仰ぎ見たように喜んでいる。3か月前まで「ソ連憎むべし」と言わなければ安全に世の中が渡れなかったのに、今は外務大臣も「スターリンさん」と呼び、スターリンと抱擁している写真が新聞に大きく出ても、お上はこれを発売禁止にしない。全くの話、イデオロギーというものが、いかにいかがわしいものか、時と時世によってどうにでも変わるものか、右とか左とかの話ではない、今はあきれるだけである。
 ところが、それから2か月たった6月22日、ドイツはソ連に宣戦布告し、独ソ戦がはじまった。スターリンが松岡の誘いに乗って中立条約を結んだのは、こうした危機的事態の到来を予期してのことで、満州方面で日本軍の侵攻を受けての両面作戦は展開できない。その思惑が裏にひめられていた。外交の腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかったようなのである。

戦時一色の明治神宮外苑
国民体育大会

 そして、この独ソ戦開戦の1日前の6月21日に、アメリカは石油の全面輸出許可制に踏み切っている。それは日本からみれば事実上の輸出禁止と判断しなければならなかった。翌日、陸軍省燃料課長の中村儀十郎大佐が東条英機陸相に石油問題でかみついている。航空ガソリンの手持ち量は38万5千キロリットル、これを月間使用料1万5千キロリットルで割ると、現在の中国戦争を戦っていくだけでも2年で尽きてしまう。他方面での必要量を考慮すれば、2年といわず、1年で作戦不能におちいるであろうことは明白であると、中村は必死の面持ちで説いた。「それでどうなんだ」と東条がいった。静かな口調で中村大佐はこたえた。「一刻も早くご決断を・・・」最後まで聞くことなしに、東条は答えた。「泥棒をしろというわけだな」中村大佐は、米国の禁輸政策が実施されれば東南アジアの油を狙うほかない。そのことが東条にはわかっていると判断した。泥棒という物騒な言葉は明らかにそのことを意味している。この事実から、対米戦争に踏み切る決意を固めることになった決定的時点は、6月22日と思える。更にもう一つ注目すべき事実がある。陸軍主計中佐秋丸次郎を中心とする戦時経済研究班の秘密におこなわれてきた、各国経済力の分析報告である。秋丸がその報告を陸軍中央部の首脳に説明したのも、この22日のことであった。この時秋丸はチリ一つのごまかしもなしに言った。「対米英戦となった場合、経済戦力の比は20対1程度と判断される。開戦後最長にして2年間は備蓄戦力に寄って交戦は可能だが、それ以後はわが経済力はとても耐えられません」。聞いていた杉山元大将は感想を述べるかのよう淡々と言った。「分かった、調査及び推論は完璧なものと思う。しかし、結論は国策に反する、ゆえに、この報告書はただちに焼却せよ」。
 東条も杉山も、日本の国力が長期戦には耐えられないことがわかっていた。日支戦争始まって以来の対支戦費はすでに280億円をこえている。ちなみに、日露戦争は20億円、戦死者もこれまでに30万人を超えている。日ロ戦争は10万人であった。そんな数字は十分承知していたのである。しかも、「持てる国」を敵とする対米英戦争は長期戦となる、そのことも明白である。そうでありながら、7月2日の御前会議で、海軍の対米強硬派の言うがままに、南部仏印進駐を決定するのである。もちろんいろいろな議論のあるところであるが、少なくとも最終的に対米英戦争を決定づけたときとして、南部仏印進駐があげられることは間違いない。7月28日、陸軍の大部隊が、サイゴンに無血進駐する。8月1日米国は直ちに石油の全面禁輸で応じてきた。日本は交渉妥協への命綱が切り落とされたに等しい情勢となった。

 内地では2月に東京のすし屋は4階級に分けられた。特級が36、一級927,2級1,315、三級729の店にしぼられた。特級や1級の店に出入りする客は”国賊”的な連中と思われたと言われた。さりとて、2級、3級の玄米を使った寿司など、食べられたものではなかった。
 8月29日、閣議で緊急労務対策がきまる。①選り好みの職業に就くのではなく国家の要請する職域において勤労する。②平和産業、不急産業の従業員を軍需産業に転職せしめる、③学生、生徒、一般青壮年を動員する勤労奉仕の組織化を図る等々、要するに一人の有閑人もなからしめるべき、総動員の取り決めなのである。9月1日、金属類特別回収令が施行された。回収の対象になるものは、鍋鎌道具等の生活必需品を除いた、火鉢、喫煙用具、花器、菓子器、銅壺、焜炉、薬缶、水差し、置物、花器、吊り下げ手洗い器などである。国民学校校庭の一等地に立っていた、薪を背負い本を手にした二宮金次郎の銅像がどしどし供出された。9月11日、タクシー、ハイヤーなどのガソリン使用営業用自動車が禁止される。つづけて、10月1日には、マイカーのガソリン使用も全面的に禁止された。
 10月、浅草寿町の本法寺境内に「はなし塚」が建立された。山ほどもある演目のなかから花柳ダネ(あけがらす、居残り佐平治、廓大学、子別れ、品川心中、付き馬、つるつる、六尺棒等35種)、妾(めかけ)ダネ(権助提灯、星野屋など4種)、間男(まおとこ)ダネ(紙入れ、包丁など6種)、艶笑ダネ(疝気の虫、不動坊、宮戸川等7種)、残酷ダネ(後生鰻)の計53種の古典落語をすべてここに葬ったのである。お上からの命令ではなく、落語協会の自粛によると言うのだから、一寸首をかしげたくなる。花柳タネこそが芸のみせどころだと思うのだが、それを高座にのせないことが聖戦遂行や大政翼賛のためになると言うのであろうか、もう日本人が皆訳の分からないままに戦争への集団催眠にかかったというほかはない。11月22日、対米英戦争に突入する直前のこの日、「国民勤労報告協力令」が公布された。議会の審議を必要としない天皇お大権で発令する勅令によった。そして10月には「青壮年国民登録」が実施さて男子は15歳~40歳未満、女子は15歳25歳未満で配偶者のない者をすべて登録させた。国民を根こそぎ動員する準備はすでに整えられていたのである。かくして、敗戦までに徴用されたもの160万人、学徒勤労動員300万人、女子挺身隊47万人に及んだ。

銀座通りの防空壕堀り

 この間に9月6日の御前会議での天皇のいとも稀な「おもの海、みなはらからと・・・・」との発言があったり、近衛内閣が倒れて対米主戦論者の東条英機が首相となったとき(10月18日)の、天皇の「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」の感想があったりしたが、勿論、国民は全く知ることはない。11月5日の大本営政府連絡会議の席上で、長野修身軍令部総長の「今だ、戦機は後には来ない。今がチャンスなので」と机を叩いての豪語があって、大日本帝国は、「自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設するため、対米英蘭戦争を決意す」という「国策遂行要領」を決定する。勿論、国民は、だれひとりとして、こんなことが進められていることなど、知るべくもなかった。この日、11月26日、千島列島の単冠湾より南雲忠一中将指揮の大機動部隊が真珠湾を目指して出撃していった。そして11月27日にいわゆる「ハル・ノート」が送られてきて、万事休した。予想はしていたとはいえ、日本の指導層は声を失った。
 日本の過去の全否定で、日露戦争前に戻れと言われているにひとしい。取りようによっては、最初の一発を撃たせようとしてるとも解釈できた。その後の、東京朝日新聞の見出しを拾ってみれば、12月3日一面のトップ、「ABCD陣営の妄動、今や対日攻勢化す」、6日一面には「対日包囲陣の嬌態」、「ABCD四国一斉に戦争準備開始」とある。しかしABCDという言葉は、8月1日の対日石油全面禁輸以後に新聞によってつくられた流行語で、当時の日本国民はみんな、それらに包囲された重苦しくて息もつけない国内ムードを、何とか打破しなければと思っていた。

 作家司馬遼太郎が1991年12月、産経新聞連載の「風塵抄」に極めて当然のことを書いている、戦後46年もたってからであるが、『「現実の日本は米国に絹製品や雑貨をほそぼそと売って暮らしていた国で、機械については他国に売るほどのものはなかった、地上軍の装備は日ロ戦争当時に毛の生えたくらいの古いものだし、海軍には連合艦隊が1か月も走れるほどの石油はなかったから、米国から買っていた、そんな国が大戦争など起こせるはずがなかったんである。恐らく当時でもそうした声はあったことであろう。でも、そんな声ははかないもので、「早くはじまってくれ」という心身ともに憤った、熱狂した国民多数によって黙殺されてしまった。つまり日本人は、その程度にしか懸命でなかった、ということである。近代日本になっていらい、負けたことがない無敵日本という自己過信、米国の国力に対する無知、ドイツの勝利への根拠なき確信、そして今や好戦的と変わった国民の心情など、そんな愚かさの総和が結局は大戦争へと突入することをゆるしてしまったのである』。こうして日本人は12月8日を迎えることになる。そして真珠湾の勝利、マレー半島上陸作戦の成功などの第一報に、気持ちをスカっとさせた。気の遠くなるような痛快感をいだくことになったのである。

 日本は結局はナチス・ドイツのヨーロパ戦線での勝利を当てにし、12月1日の御前会議の決定で、対米英戦争に踏み切った。その4日後、すなはち12月5日、モスクワ迄あと30キロの地点まで攻め込んでいたドイツ軍は、ソ連軍の猛烈な反撃と弾薬の補給不足と、マイナス50度という寒さのために、一斉に後退せざるを得なくなっていたのである。機甲部隊は燃料不足と寒さとで部隊の力は尽き、兵は凍傷で各連隊ともそれぞれ500人以上を失い、寒さのため機関銃は火を噴かなくなり、対戦車砲は発射できず、ソ連軍の戦車に対して無力と化した。ヒトラーの断固として現在位置で応戦すべし、との命令もむなしく、無敵ドイツ軍の歴史は終わっていたのだ。

隣組の防空演習の集い

 日本の政府も軍中央部も、残念ながらそれを知らなかったのだ。そして、12月10日午後6時より大本営政府連絡会議は、この戦争の名称について討議した。東条首相と陸軍は、海軍の反対を押し切って「大東亜戦争」の名称を強く主張した。過去の戦争の通例からは異例である。戦争の意義を標ぼうするような理念的呼称ともいえる。陸軍側の主張はこうであった。「今次大戦は大東亜新秩序建設を目的とする戦争である、米英中国を屈服せしめ八紘一宇の大理想、大東亜共栄圏を完成する、これを国民に自覚せしめ、かつ徹底させなければならない、その意味において他の呼称は考えられぬ」。こうして連絡会議は次のような決定した。①今次の対米英戦争及び今後情勢の推移に伴い発生することあるべき戦争は支那事変をも含めて大東亜戦争と呼称す。②12月8日午前1時30分より戦時とす」。翌11日、内閣情報局はこれを発表、「なお、戦争地域を大東亜のみに限定するものではない」と付け加えて解説した。大東亜のみに限定しないと言う意味は、今後の推移如何によって起こるかもしれない、対ソ連戦のことである。ドイツ軍が中東方面迄侵攻してきたときには、日本軍もそれと握手するため、中東まで攻め込む意図をあらわしていたのである。とに角ドイツの勝利をあてにしたのである。そのドイツはすでにもはや勝利の芽が無くなっていたのを知らなかったのだ。なんとも情けない話である。今目の前の日本軍の勝利に熱狂していないものは、殆どいなかった。ヨーロッパ戦線に眼を配る者などはいなかった。街の電気屋のラジオの前には黒山の人だかり、戦争はお祭り気分で進められていった。早期講和などは夢のまた夢というよりは口にすることが愚の骨頂となってしまった。

 そして軍人たちがえばりだした。軍隊内部では、「貴様らは所詮一銭五厘、しかし、馬は違うぞ、どちらが価値があると思っているんだ」、と怒鳴って将校が兵隊にビンタを食らわせていたのである。銃後においても民衆統制の国家方針はぐんと強まった、12月10日には「決戦生活五訓」なるものが提示され、隣組の常会で徹底するよう指示された。そうはいっても、連戦連勝で、それに酔うことなかれ、と言われても無理である。長野軍令総長ですらが、「戦争はやってみなければわからんじゃないか」と底抜けのご機嫌である。誰もかれもが、長期戦となれば日本必敗となる現実を忘れているかのように、浮かれていたのである。むしろ、決戦体制で気を引き締めていたのは国民の方だったと言えるかもしれない。12月21日の東京朝日新聞には、「百貨店は、虚礼廃止が贈答品にも徹底して皆無同様。従来なら高価な羽子板が売れたものだが、そんな浮薄の影はピッタリひそめ、1,2円程度の実用向きが人気の的、それにひきかえ慰問品売り場のゆるぎない売れ行きは銃後の結束も力強くて頼もしい。ある一流料理屋の主人も、忘年会について、「今年は忘年会の ボ の字もありません。この精神があってこそ日本国民です。やせ我慢でなく、本当にうれしく思います」、と言っている。本当に緒戦の勝利に喜びつつも、国民はみんなやせ我慢をしていた。そして、世界はものすごい勢いで変わりつつあった。大日本帝国は、つかの間の勝利で有頂天になっている場合ではなかったのだが。そして開戦の翌年、昭和17年6月のミッドウエー海戦で、連合艦隊の主力を失う大誤算に見舞われる。その後は、大本営発表で国民をだましつつ、悲惨極まりない戦闘を繰り広げて行ったことは、すでに、皆さんも充分ご存じのことである。  完

 筆者註: 大日本帝国は、対米英戦開戦にさいして、どんな戦争終結の構想をしていたのか。開戦直前の16年11月15日、大本営政府連絡会議で終戦(出口)構想について十分な討議をしている。その結論は、
①初期作戦が成功し自給の路を確保し長期戦に耐えることができるようになったとき。
②重慶の蒋介石政権が降伏したとき。
③独ソ戦がドイツの勝利で終わった時。
④ドイツの英国本土上陸が成功し、英国が講和を請うてきたとき。
 こうした情勢が出現したら、いかに強力な米国といえども戦意を喪失するだろう。その時には栄光ある講和に持ち込む機会がある、というのが骨子であった。特に③と④、は必ず近く実現すると信じていた。したがって我に勝算ありと信じた、つまりは、ドイツの勝利をあてにしていたのである。
 昭和16年12月8日は、私は国民学校6年生だった。かなり記憶は薄れているが、確か前夜は雨だったと思う、水溜まりの残る校庭の朝礼で校長先生から、戦争が始まったことを知らされた。そして敗戦時は15歳。戦争が終わって78年、実際に戦争を知っている人間がどんどん少なくなり、戦争を知らない人がもう孫を持つ年代になってしまった。年をおうごとに騒々しい地球だが、日本が今後も戦争を知らない国であり、曾孫の将来が平穏であるよう祈っている。ここまでで本シリーズを終了いたします。長いあいだ、ご愛読ありがとうございました。

(2023.11.3 記)

出典:

「B面昭和史」半藤一利 平凡社2019.2.8/
「1億人の昭和史②」毎日新聞社1970年7月1日/
「懐かしの昭和時代」株式会社ベストセラーズ1972年1月10日/ 
「流行歌と映画でみる昭和時代Ⅱ」(株)国書刊行会1986.2.5/


 

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新 四 季 雑 感 (18)

樫村 慶一

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その10)


 (B面昭和史を再開します。半藤一利さん著の「B面昭和史」を主体に、その他の本から写真を拝借した、昭和14年、1939年の記録です。)

 

 初代天皇神武天皇の即位を皇紀(紀元)元年とする日本独自の元号で数えると、昭和15年は皇紀2600年目の年で全国民が挙げて祝うべき記念の年であった。果たしてめでたい年になるのかならないのか、前年に廃棄を通告されていた日米通商航海条約は、明けて間もなくの1月26日に失効となる。この損なわれた日米関係を何とか修復しなければ大平洋の波立ちが治まることはない。

 文芸春秋の昭和15年新年号に、時代の風潮を知る上に面白い世論調査が載っている。東京、埼玉、千葉、神奈川の読者196人に10項目のアンケートを出してその回答を得たものである。

① 現状に鑑み統制を一層強化すべきか   賛成 461  反対 228  不明 7
② 対米外交は強硬に出るべきか      賛成 432  反対 255  不明 9
③ 最近の懐具合はどうか         良い 108  悪い 573  不明 15

 

などなどであるが、平和を楽しんでいる人々がいる一方で、そうした悠長な気分にかなり苛々して、もっと指導者による強い国家指導を望む声が高くなっているのが分かる。

最後の祭典 紀元2600年奉祝花電車

この新年号には大島駐ドイツ大使、白鳥駐イタリア大使が威勢の良い記事を投稿し、社長菊池寛も煽情的な一文を載せた。国はもっと強くなり、勇壮たれとの声が2600年という節目をむかえて益々高まってきた。そんな空気の中に在った、おそらくこれが最後の抵抗ともいえるであろう特筆すべき事件が起こった。第75国会の衆議院本会議場における、民政党の斎藤隆夫議員による、軍の威嚇をも恐れぬ名演説「支那事変処理方針」である。昭和史に輝く歴史的演説なので、少し長く引用する。

支那大陸は泥濘ばかり
ふんどし部隊

野戦病院へ着いた従軍看護婦

【の世界情勢を無視して、只いたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をもつかむような文字をならべ立て、国家百年の大系を誤るようなことがありましたなら、現在の政治家は死してもその罪を償うことはできないのである】、と頭ごなしに政策批判をした上で、陸軍に対して、いわば喧嘩を売った。2月2日のことである。【支那事変は始まってからすでに2年になるが、10万の英霊を出しても解決しない、どうやって戦争を解決するのか処理案を示してもらいたい】と。これに対して米内首相も畑俊六陸軍大将も「中々うまい事いいますな」と感服したが、あくまで控え室でのひそひそ話。石頭ばかりの陸軍は聖戦目的を批判した、聖戦を冒涜するものだ、と激怒し議員辞職を要求した。斎藤議員は「俺は正論を言ったまでだ、辞職はしない、文句あるなら除名しろ」といきまいて一歩も引かなかった。その後すったもんだの末、3月7日になり、本会議で投票ということになり賛成296、反対6,欠席・棄権144で除名が可決された。斎藤議員はさばさばとして議場を去って行ったという。3月25日、陸軍派の政党人が結集して、この非常時に及んでは全政党を解散し強力な一大政党を結成すべきであり、体制を刷新するべきである、と米内内閣打倒、近衛文麿の担ぎ出し動きだす。担がれるといい気持ちになる近衛は、6月24日、枢密院議長を辞任して新体制運動推進の決意表明という呆れた展開になる。斎藤隆夫の最後の抵抗は、折角アメリカと和解を進めようとする米内内閣の命運を逆に縮める結果になってしまった。

支那の戦争孤児たち

芸術慰問団小唄勝太郎

 少し時間を戻す。3月16日、内務省からの指示で、芸能界が異変に遭遇させられた。警視総監名で、新興行取締規則なるものが交付され、芸能人は新たに技芸証を内務省から発行してもらうことになったのである。これも総動員体制で戦地慰問の白紙を出すためという名分である。思想、素行、経歴その他不適格と認めるものは不許可となって技芸証がもらえなかった。お陰で、芸者出身の映画女優花柳小菊は「俳優と芸者の二足のワラジは不適当なり」と言われ考え抜いた末、やむなく芸者の方を選んだ、そっちの方が稼ぎが多かったからだ。更に3月28日、内務省は世にもバカバカしい命令を映画会社やレコード会社に発した。芸名の中で、不真面目、不敬、外国人と間違えやすいものの改名を指示してきたのである。漫才のリーガル千太、万吉、ミス・ワカナ、低音の魅力の歌手ディック・ミネ、東宝の藤原鎌足、日活の尼リリスなど、該当者16名全部がいかんとなった。それで、リーガルは「柳家」、ミスは「玉松」、ディックは「三根耕一」、藤原鎌足は「藤原鶏太」と改名させられた。また中村メイコは本名が誕生月の5月から取ったメイだったが、メイは敵性語だからけしからんと言われ、「コ」をつけて日本名らしくさせられた。
 この技芸証の徹底で芸能人の戦地慰問、軍隊慰問がやりやすくなったのはたしか。もともと昭和13年から始まった慰問隊、名付けて「わらわし隊」はこの時から二線級、三線級もどしどし徴用されて組織化され、次々中国大陸や満州に送り出されていった。政府がこの調子だから、お調子ものがでてくる。諸事百般からアメリカ色、イギリス色は一層しようという声が高まりだした。「敵性器具に頼るな」すなはち、マイクロフォンで歌うなから始まって、以下、プラットホーム→乗車廊、自転車のハンドル→方向転把、ビラ→伝単、パーマネント→電髪、ラグビー→闘球、アメフト→鎧球、スキー→雪艇と呼ぶ。野球のスタルヒンという投手がいた、とに角横文字は直せということで、須田博に改めるというバカ騒ぎ。医学研究所で研究中だったペニシリンは、カビの一種で緑色をしているから碧素とよぶことになった。もはや滑稽もきわまれりであった。

銀座通りの防空演習
物陰に隠れるか伏せる

 更におかみからの統制にニュース映画があった。日支事変勃発この方、その戦況を伝えるニュース映画はたいそうな人気を集めた。皇軍の快進撃はニュース映画によってよく理解できる、これによってしか、戦争を目にすることができない。ということでニュース映画専門館があちこちにできてきた、たとえば新宿なら武蔵野館の裏の朝日ニュース劇場、伊勢丹前の新宿文化映画劇場・・・こうなると学生がしきりに出入りしても時局を知るために良い事と、口うるさい教師もここは不良の巣窟だ、など文句をいえなくなった。それまで朝日一社しかつくっていなかったニュース映画を、「東日、大毎」、「読売」、「同盟」等も作り出し、外国のニュース映画もパラマウントのほかに、ワーナーニュースとかパテーニュースとかいうのもやりはじめた。そして思いついたのが新聞や雑誌とおなじようにニュース映画も又当局による指導・統制ということである。ニュース映画の乱作は面白くない傾向と当局には感じられ、ただちに手をうった。

 4月16日、新聞、通信社系の四つのニュース映画を一つにしようということで、社団法人日本ニュース映画社の設立となり、社長には同盟通信社の古野伊之助が就任した。以来終戦まで「日本ニュース」の独占となったのである。これによって当局の監視のもとにワンパターン化し、日の丸を掲げて万歳する兵隊たちが毎回出てきて勝った勝ったとやっている。このため日支事変が点と線を確保しているに過ぎないドロ沼であるという事実が伝わらなくなっていった。

産めよ増やせよ、子供は国の宝

 海軍大将米内光政と書くと14年の平沼内閣のときの海軍大臣として山本五十六次官、井上成美軍務局長の海軍良識派三羽からすの見事な活躍が大きく映る。しかし首相としての米内は殆ど見るべき仕事はしていなかった。ヨーロッパでは、突如として5月10日にドイツ軍が矛先を西に向け、オランダ、ベルギーをアッという間に席巻、更にフランスへ向かった。イギリス軍はダンケルクに追い詰められ、命からがら逃げだした。かくて6月14日、フランスは完膚なきまで撃破され、22日には無条件降伏、ピトラーがパリに意気揚々と入場したのである。ドイツは強いという見方が大方の日本人に定着する。
 この時に、特に陸軍と海軍や外務省の親ドイツ派の目は東南アジアのフランス領、オランダ領の植民地にむけられ、そこにある天然資源が喉から手が出るくらい欲しく、「バスに乗り遅れるな」という昭和史の名言が国民的大合唱になり始めた。こうした世界情勢、世情を考えると英米友好を基調としてきた米内内閣の立場は相当に厳しいものになった。そこで精々、更なる引き締め、物資の統制を強め、砂糖とマッチの配給制が実施され、さらにはくだらない法律を作ったりした挙句、戦時中の名言「贅沢は敵だ」の言葉を残した。早速新聞は協力の太鼓をたたいた。禁止になった主な物は「指輪、ネクタイピン、宝石類、白羽二重生地、丸帯、洋服等で、例えば、夏物の背広は100円、時計は50円、ハンカチは1円、ワイシャツは10円、洋傘は25円、下駄は7円、靴は35円、香水は5円まで、それ以上は禁止とされた。デパートの食堂も贅沢は禁止で代用食になった。大阪毎日新聞はスクープの如くデパートの代用食メニューの腕比べを大きく報じた。8月1日の永井荷風の日記「断腸亭日乗」の日記には、思いがけないことが書いてある。「贅沢は敵という言葉は、ロシア共産党政府創立の際につかわれた街頭宣伝用の言葉であるという」。本当だろうか、と半藤さんは疑問を持っている。話はちょっと戻るが、初めて国民歌謡の時間が設けられ、「トントン とんからりんと隣組」の歌ができたのが、6月である。この歌は、政府が音頭を取らなくても、流行していった。

 7月22日に米内内閣が強引に崩壊させられて第二次近衛内閣が成立した。陸軍の策謀が見事に成立したのである。「陸軍の、ドイツとの軍事同盟を結ぼうと急接近する姿勢や、日本もドイツばりの強力な一元政治を取るべしと言う声にも耳をかさない。対米関係の改善を何とか図りたいと、やることなすこと、陸軍と反対の方向に進もうするもうとする米内内閣の存在」が、陸軍には邪魔で邪魔で仕方がなかった、これを鮮やかに倒してしまったのである。

日独伊三国同盟締結祝賀会 
帝国ホテル 昭和15年10月

 成立した近衛内閣はすでに予定稿としてきめていた、「基本国策要綱」を発表した。「・・・・皇国を核心とし日満支の強力なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するにあり、これがため、速やかに新事態に即応する不抜の国家体制を確立し、国家の総力を挙げてこの実現に邁進する」。言っていることは実に立派である。八紘一宇の大精神といい、東亜新秩序と言い、誰も文句のつけようもない。しかし、果たしてこんなことが現実に日本にできることなのか、支那との戦争でもニッチモサッチモ行かない状況にあり、その上に、強敵米英が目の前に立ちふさがっている。しかし、当時のわが国民は「出来る、しなくてはならないの」と本気で思わせられた。そして、近衛内閣が成立した日、太平洋戦争への道が決定的になった、破滅の序曲が始まったと言っても差し支えない。
 外相松岡洋右、陸相東条英機など、対英米強硬派がぞくぞくと入閣した。終戦時の首相となった鈴木貫太郎の当時の批判はすこぶる手厳しい。「松岡を外相にしたのは誰か、東条を陸相にしたのは誰か、近衛公としては認識不足もはなはだしい」と。しかし近衛は記者会見で大言壮語した。「米国は日本の真意をよく了解して、世界新秩序の日本の大事業に、積極的に協力すべきであると思う。米国が日独伊三国同盟の立場と真意をあえて理解せず、どこまでも同盟を敵対行為として挑戦してくるにおいては、あくまで戦うことになるのは勿論である」。この大ボラを近衛が本気で考えていたとはとても思えない。大衆の「バスに乗り遅れるな」の大合唱に迎合した人気とり、とみれば理解できよう。世の風潮は正しく新体制運動の一色に染まっていく。

 『茲で、半藤さんの本からちょっと離れ、月刊雑誌「選択2023年9月号」の記事からヒントを貰ったものを私流にして紹介する。”歴史に もし はない”とか、小林秀雄の”歴史とは、人類の巨大な恨みにほかならぬ”といった言葉がそのままあてはまる好例がある。それは、「海軍良識トリオといわれた、米内光政首相、山本五十六次官、井上成美軍務局長の時代が終わり、山本五十六は連合艦隊司令長官に出た。その山本は近衛の自宅に呼ばれ、対米英戦への見通しをきかれたとき、=どうしてもやれと言われれば半年、1年は相当暴れてみせます。しかし、2年3年ともなると、全く自信はありません。日米開戦は極力さ避けて頂きたい=。 と答えた。これが大誤算だと言われる。軍務局長だった井上成美は山本をこよなく尊敬した人だが、この一言だけは許しがたい、と言った。なぜあんな曖昧なことをいったのだろうか。軍事に素人で優柔不断の近衛公が、あれをきけば、とにかく1年半くらいは持つらしいと曖昧な気持ちになるは分かり切っている。=海軍は対米英戦はできません、やれば必ず負けます= と、はっきり言うべきだった。それでは、連合艦隊を任せられないと言われたら、=潔く辞めます=と、なぜはっきり言いきれなかったのかと言っている。結局情勢はずるずると海軍の思うことと反対の方向に進むのだが、もし山本が「できません」と断言し、近衛がこれを取り上げていれば、歴史の”もし”が実現していたかもしれない。』

米が配給に、昭和15年4月

 ヨーロッパにおけるドイツの勝利によってドイツとの同盟を急ぐべしとの声がたかまるばかりとなる。それにつれて、反英、反米の運動が強くなっていく。8月2日、ロンドンで英国官憲が日本の商事会社の支社長を検挙する事件が起こった。これを取り上げて、「実業之世界」9月号に浅沼稲次郎が「英国を東洋から追放せよ」という激しい論文を発表している。更に返す刀で米国にも斬りつけた、「英国の退潮に比例して米国の極東前進を見るのである、米国は英国の後退以上に東亜新秩序建設の妨害者として進出してきている」と、社会主義者にあるまじき戦争肯定論を述べ、法律家清瀬一郎もすさまじい事を主張した。「この際日本は英国にいる日本人を全部引き上げさせる態勢をとらなくてはならない。新聞もバカ騒ぎしないで、南阿、インド、シンガポールなどから、どしどし日本人をひきあげさせることだ。要するに英領から日本人を一日も早く全部引き上げることだ」。すでに、思想信条を問わず、識者の間にも排外的な強い言葉が飛び代わっていたことが分かる。こうした米英に対する敵視が、ドイツへの親近感を増幅させ、日本人の心情をぐーんとヒトラーに傾斜させていった。ヨーロッパ戦況は圧倒的にドイツが優勢で、8月下旬ころからドイツ空軍は連日数百機で、英国各地を猛爆した。そのころに、やがてドイツが負けるだろう、などということを予見できたものがいるだろうか。

 話は少し戻るが、8月1日、米国は航空機用揮発油の輸出を禁止、更に石油輸出を許可制にすると発表した。屑鉄や鉛に続く石油の禁止である、遅かれはやかれ全面的に石油を止めるだろうとの予測は軍を戦慄させた。ともあれ、日本の政策に真っ向から異を唱え、友好条約の廃棄に続くこの許可制、真の敵の立場を米国がはっきりと出してきたとみるほかない。英米と呼んでいたのに、いつの間にか、呼び方が逆転して、米英となったのは、この頃からである。内閣情報部は情報局となり、報道規制はさらに強まる。銃後の空気も、ドイツ軍の英本土上陸を予想させる世界情勢の緊迫化に伴い、米内内閣当時の様な、何とはなしの太平楽をきめこんでいるわけにはいかなくなっている。近衛内閣は新体制運動の一つとして「戸毎に翼賛運動」というのを始めた。すなわち近衛の筆による「臣道実践」「大政翼賛」の2枚の札を玄関に貼る。とく他愛のない事であったが、それを実行するために当局が利用したのが隣組という、すでにできている組織であった。9月11日、内務省は、「部落会町内会等整備要領」を発表、つまり隣組を「国民の道徳的錬成と精神的団結を図る基礎組織」とすることを表明、嫌も応もなく隣近所を接触せざるを得なくなるようにした。隣組から出征兵士が出ると総出で見送り、隣組全員が署名した日の丸を送るのが習わしになった。また、隣組は監視機関・密告機関となって、当時盛んに言われた、スパイ防止の標語の実践機関ともなって行った。

愛国国債を買おう運動
左から渡辺はま子、音丸、松原操

 それと俄然猛威を振るったのが、在郷軍人会という組織である。天皇の名のもとに軍服を着ると星一つの違いで天と地の違いがでる。小作人の倅が先に召集を受けていたゆえに星が一つ多くなり、後から来た地主の倅に非人間的な往復ビンタを張ることは正義なのである。所が満期になって除隊して家に戻ると、肩章もなければ星の記章のついた軍帽もないから、まさに木から落ちた猿と同じに元の身分に戻る。しかし、彼等にも一つだけ楽しみがあった。在郷軍人会という組織である。ここでは元の階級が生きているから、軍人としての自尊心をもう一度満足させることができた。防空演習や隣組での訓練が行われるときは、在郷軍人会メンバーが軍服を着て出てくる。一般人は元軍人の指揮に従わなくてはならなかった。
 10月5日付けの東京朝日新聞によると、「厚生省では男子用国民服を祭典・儀式に際して従来のフロック、モーニング、紋付き羽織袴等の式服と共に着用できるよう、今月末の勅令をもっ国民服令が公布されることが決定した」と報じた。それでなくても防空服装の名目のもとに、男はゲートルをつけ、女はモンペ着用のことと、元軍人が服装にまで厳しく指示を発していたのである。これがいよいよ法律ないし規律化されて国民服となった。ウヘー野暮ったい、とかドロ臭いのと言ってはいられない、これぞ、近衛首相の言う臣道実践の証なのである。
 銃後のこうした空気に乗って、9月23日、軍部は北部仏印(今のベトナム)に武力進駐を行った。蒋介石軍が頑張れるのは米英が軍需品などの援助物資を背後から輸送しているからである。その援蒋ルートの一つが仏領インド支那からのルートだったのだ。そのルートの全面封鎖のための進駐であると国民はあっさり納得した。

1940年映画 熱砂の誓い
長谷川一夫・李香蘭

 9月27日、日独伊三国同盟が、それこそアット言う間に調印となった、近衛が再び首相になった時、彼の頭にあるのは、三国同盟と政治新体制の二つの問題だけ、そのほかは馬の耳に念仏であった、といわれている。その目的の一つが成就したことになる。新聞各紙も大歓迎した。朝日新聞の28日社説は、「誠に欣快に堪えざるところである」と手放しで喜び、「今ぞ成れり、”歴史の誓” 万歳の怒涛」などと特大の活字でその意義を伝えている。そしてこの日、同盟締結に関する証書が出て、「大儀を八紘に宣揚し、坤與(こんよ)を一宇たらしむるは、実に皇祖皇宗の大訓にして、朕(ちん)が夙夜(しゅくや)、けんけん措かざる所なり・・・」と天皇もまた同盟に賛意を表しているのである。ところで、作家野上弥代子は29日の日記にこんな不敵な文字を書き付けている。「英米の代わりに独伊と言う旦那持ちになった、10年後にはどんな目に逢うか、国民こそいい面の皮である」。
 10月1日におこなわれた人口調査で、日本は内外地(台湾、朝鮮、樺太南半分)合わせて1億500万人と、ついに1憶人を超えた。高度国防国家体制を作る、さて、それにはまず「産めよ増やせよ」というわけではないが10月19日、厚生省が子宝隊(優良多子家庭)を表彰すべく、選ばれた10336家族の名簿の発表をした。このニュースを伝える新聞の見出しが「出たゾ!興和の子宝部隊長」と書いた。その人は長崎県庁の総務部長の白戸半次郎さん、なんと男10人、女6人を育てている。この白戸さんを筆頭に表彰されるのは満6歳以上の子供10人以上の家庭で、しかも父母が善良な臣民の条件を兼ね備えていること。これにめでたくパスした家庭は北海道が978、以下鹿児島県541、静岡県444、最低は鳥取県の39。とにかく昔のお父さんお母さんは、お国の将来のため頑張ったのである。

懐メロ、加藤隼戦闘隊 藤田進

 B面的話題はといっても、大政翼賛会という大義名分が大手をふるい、規則ずくめの世となっては、そんなに多くの話題を見つけることはできない。10月20日、日本野球連盟が監督、選手、マネージャをそれぞれ教士、戦士、秘書と改称することを決める、同27日,戸田ボートコースが竣工する、全長2400米、幅70米、本当はこの年に開催されるはずであった、東京オリンピックのレース会場となる予定であったのである。同31日、外国名のタバコ「ゴールデン・バット」が「金鵄」、チェリーが「櫻」に改名された。そして、この日には、日本中のダンスホールが完全に閉鎖された。東京には10のホールがあって、ダンサーは361名、楽士109名が職を失った。最後の夜はどこも超満員、やけっぱちでハシゴするものも多かったとか。いよいよラストで、ワルツの「蛍の光」が演奏されたとき、ホールのあちこちですすり泣く声が高くなった。「くだらねえ、権力で押さえつけるなんて」歌手の三根耕一(ディック・ミネ)が隅の方で悔しそうに言った。

 11月24日、元老西園寺公望が世を去った。享年91、日独伊三国同盟が結ばれたとき、「これで日本は滅びるだろう、お前たちは畳の上で死ねないことになった。その覚悟を今からしておけ」と側近にしみじみ嘆いたという。当時の国民には、西園寺のそんな憂いなどが伝えられるわけはない。日本が滅びるなどとは思ってもみないことである。
 もっぱら大人も子供もひそかに口にしていたのは、この流行語 「あのねエ おっさん、わしゃかなわんよう」。元は喜劇俳優の高瀬実乗(たかせ みのる)がチョンマゲにちょび髭、目の周りに墨を塗って、スクリーンで頓狂な声で叫んだセリフである。とにかくやたらに重く苦しくなっていく時代。取り締まりだけは厳しい時に「わしゃ かなわんよう」と悲鳴を上げることが一部の民草には一服の清涼剤となっていたのである。しかしこれすらも、9月には皇道精神に反すると禁止命令が下される。
 紀元(皇紀)2600年、本来なら、平和に祝うべきだったこの年を一口で表すと、「やたらな切符の氾濫と回覧板、スフを着て代用食を食え」という年になった。小さな記録だが、本文以外で今も関心がありそうなものとして、4月1日、所得税の源泉徴収がはじまった。6月14日には、勝鬨橋が開通し、7月8日、日本労働総同盟が解散、戦前の労働組合運動おわった。そして11月3日 に国産初のカラーフイルムができた。

つづく(昭和15年、1940年おわり 2023.9.21記)

(本連載は、次回昭和16年太平洋戦争開始年で終わる予定)

 

出典:

「B面昭和史」半藤一利 平凡社2019.2.8/
「1億人の昭和史②」毎日新聞社1970年7月1日/ 
「懐かしの昭和時代」株式会社ベストセラーズ1972年1月10日/ 
「流行歌と映画でみる昭和時代Ⅱ」(株)国書刊行会1986.2.5/
「青春プロマイド70年」主婦の友社1988.8.6。


 

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新 四 季 雑 感 (臨時増刊)

樫村 慶一

高円寺の

阿波踊り

の様子

 

 8月27日。高円寺の阿波踊りを見に行きました。
 人人人、よくもあれだけ集まるものぞと、その理由を考えています。1/5くらいは外人かもしれません。徳島に次ぐ、日本のNo.2の規模の阿波踊りを紹介します。
 画像は色々修正してありますので、ご了承のほど(2023.8.28)

 

 

 


 

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新 四 季 雑 感 (17)

樫村 慶一

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その9)


 (B面昭和史を再開します。半藤一利さん著の「B面昭和史」を主体に、その他の本から写真を拝借した、昭和14年、1939年の記録です。)

 

  前年(昭和13年)の11月に漢口を攻略したものの、兵站線はのびきり、戦況は停滞し、ドロ沼状態になりはじめた。日本軍が占領しているのは点と線のみ。年内解決の見通しを失った陸軍は、これ以上の侵攻作戦を打ち切り持久戦へと戦略を転換した。近衛首相は「戦争の目的は東亜永遠の安全と新秩序の建設である」、と謳い上げたものの、戦争の行くへと言い、対米英交渉と言い、新たな外交懸案になる日独軍事同盟と言い、様々な難問の解決の困難さにすっかり嫌気がさして、前年暮れに内閣をほうりだしてしまった。そして昭和14年1月5日に平沼騏一郎内閣が成立した。

 昭和14年の正月といえば、戦後派には全く縁のない話であるが、当時双葉山と言う”不抜の双葉山城”といわれた大横綱がいた。

 69連勝を達成した双葉山
 

 この当時、大相撲は1月の春場所、5月の夏場所と年二場所で、一場所は11日間制であった。この大横綱が69連勝し、70連勝を目指した春場所4日目、藪入りと日曜日、それに大安吉日と重なり超満員の両国国技館が潰れんばかりに揺れた。前頭3枚目の安芸ノ海の外掛けに敗れたのである。1年に22日間、3年半の間絶対の強さを誇った大横綱についに土がついた。この3年半には日支事変が始まり、日本軍は連戦連勝、正しく双葉山が無敵皇軍を象徴するような存在であったのだ。その旭日昇天の勢いを示してきた双葉山が陥落した。新聞記者は日ごろから書き慣れた軍事用語を、思い切り使った。(私もはっきり覚えている。もう9歳だったから。家のラジオは当時流行のラッパのついたラジオだった。ラッパから出る音声はボケる、丁度家族は誰も聞いていなかったので、ラッパを外し、下の丸い台の中にスピーカーが入っているので、その台の穴を直接耳にあててはっきり聞いた)。

海を渡り、重慶爆撃に向かう

 3月17日、海軍の艦上戦闘機、すなわちゼロ戦試作第一号機が完成したのだ。詳しく言うと試作機の完成検査が行われた日で、公式には4月1日が工場による試験飛行実施成功の日とされ、更に海軍による試験飛行成功は7月6日である。「飛行機は真一文字に軽い砂塵の航跡を残しながら、次第にスピードを増し、やがて軽く大地を蹴ってふんわりと空中に浮かんだ。約10米の高度を保ったまま真一文字に500米ほど飛んだ後、無事着陸した。人々がほっとして互いに顔を見合わせている間に軽快な爆音をたてながら元の位置に帰ってきた」。

 日本軍占領地で兵隊相手に開業
する抜け目のない商売(広東)
 

 双葉山とゼロ戦の話には何の脈絡もないが、背景にはドロ沼化した日支事変があり、国家権力はこうした国民的な一致した歓声を、ドンドン続けていきたくなるものである。国民一人一人のアイデンティティではなく、一つに集めた集団としてのアイデンティティ、集団の結集力、国民の顔をみな同じ方向に向けたいという欲求を強くする。つまり国家ナショナリズムの強調である。支那との戦争がドロ沼化し国民が厭戦的,嫌戦的になることを憂慮した政府は、法制をその方向に向けて次々に変えて行った。国家総動員法はすでに国会を通っており施行もされている。しかし、警防団を作ったり、国民精神発揚週間を始めてみたりしたが、実効はめざましいものではない。ならば、中央ではなく実行部隊を作って上からの指示で下の方に徹底させていくにしくはないと考えた。

 かくして国民精神総動員委員会が設置され、委員長に文部大臣の陸軍大将荒木貞夫が任命された。荒木は早速得意の八の字の髭をしごいて、「どしどし実行の成果をあげようぞ」と獅子吼した。
「遂げよ聖戦 興せよ東亜」
「建設へ 一人残らず 御奉公」
「聖戦へ 民一億の 体当たり」(筆者註:この頃の人口はまだまだ1億にはとても届かない)

 女学生も訓練をした
 

 3月30日、文部省は指令を発して、「大学各学部の軍事教練は、総長または学長の指揮監督の下に学生全員これを受けるものとす」とがっちり締め上げることとになった。特にこれは、東大生の軍事教練の徹底を目的としたものであった。3月31日、賃金統制令が交付された。物価抑制を目的とし、軍需工場の初任日給(1日10時間)標準額を決めたものである。最高額で12歳55銭、19歳で1円15銭とするものであった。4月5日には映画法が施行された。その内容は、脚本の事前検閲、14歳未満の児童の入場制限、製作・配給の全面的許可制、文化映画とニュース映画の強制併映、俳優・監督の登録制など。これによって大衆に大きな影響力をもつ映画の生殺与奪の権限が完全に役所に握られたことになった。

 4月27日、満蒙開拓青少年義勇軍の計画が発表された。満州国総務長官、星野直樹が日本の農村青年に向けてハッパをかけた。「血気にあふれた青年1万人は、フヌケの100万人に勝る」計画は国を挙げてのものとなり、対象は16歳~19歳の青少年である。総勢10万人が予定されたが、軍部の意図は、農業移民だけではなく、満州国防衛の兵力としての期待もあった。そして、現実に敗戦までに86000人の十分に訓練された青少年が満州に渡った。その人達が敗戦時にどんな悲惨な目にあったかは、ご存じの方々はお分かりであろう。

 5月15日、八の字の髭の荒木大将が文部大臣として東大を視察した、そしてその一週間後、軍事教育試行15周年を記念して大々的に全国学生生徒代表ご親閲式が挙行された。晴れてこの日、朝鮮、台湾、満州、樺太を含む全日本からえりすぐった中等学校以上1800校代表32500余名の学生生徒は大学学部の第一集団をはじめ、学校別、地区別になって9集団、30個大隊、110個中隊に編成され、武装もりりしく、新緑滴る大内山を背景に浮かび上がった、白木の玉座の前を歩武堂々と行進した、と報道された。だが実はこれは表向きの話であって、当時の当事者であった教育学者原敬吾氏の回想によると、「当時の大学生は四列縦隊の行進ができないほどの状態」、なかんずく、東大の学生の行進はお粗末のかぎりであったとか。それからわずか4年半後、昭和18年10月、学徒動員で氷雨けぶる神宮外苑での歩武堂々の大行進があった。軍事教練の成果はわずかな年月の間に、ものの見事にあがったのである。この時の査閲は天皇ではなく、東条首相であったが、さぞや胸中大満足であったに違いない。恐らくこの前後であったと思うが、文部省が全国の小中学校に通達した指令がある。「小学校低学年児童その他病気などの特殊事情者を除き、原則的に2キロ以内の通学は徒歩通学とする」というもので、この通達はその後ずっと活きていた。

 泥水との戦いでもあった、中支戦線
 

 6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定し、一般に通告する。毎月1日を興和記念日とし、歓楽をつつしんで皇軍将兵に国民の感謝の意を表す日にしなくてはならないというのである。日本はアジアの新秩序再編成のため遠く中国大陸迄押し出して敵と戦っている。それなのに銃後の国民が遊び呆けているのはよろしくない、この日は遊びは一切やめて全国民が、戦場にいると同じ思いで、節約に励もうではないか、と言う趣旨の通告である。かくて、毎月1日は、カフェー、酒場,料理屋、ダンスホール,麻雀クラブ、ビリヤードなどの遊技場は全てこの日は休みとなる。仮に開いても早仕舞で酒は一切だめ、さらに、ネオン全廃、中元や歳暮の贈答廃止、家庭では一汁一菜、学校では弁当は梅干し一つの日の丸弁当が奨励された。ついでに学生の長髪禁止がある。男の子がイガ栗頭になるなんて大したことではないが、それよりも忘れずにいられないのは、国民徴用令である。

 この年の1月7日に国民職業能力申告令と言う剣呑な法令が公布されたのである。これに寄って16歳か49歳までの特殊技能を持っている男子は自ら申告して、能力申告手帳の交付を受けることがきまっていた。航空機技術者、造船技術者、化学技術者、冶金技術者、電気技術者、建築技術者、気象技術者、無線電信技術者、潜水夫等134種類の技術者達の手帳である。何ら技術を持たない、例えば文科系の学生のような者はどうなるのか。ロシヤ語、スペイン語、蒙古語などを修めたもので16歳以上50歳未満の男子も申告の必要がある、ということで登録させられた。結局、これ以外の文科系は戦争のためには役に立たない連中とみなされたようだ。政府は能力申告に基づいて職業カードを作成して一人ひとりを区分し、国民徴用令の際に、役立たぬ連中を真っ先に役立たせたのである。とに角戦争のためには不急不要と思われる職業にある者を、必要に応じて徴用令書(白紙といった)を発して引っ張りだすことが可能になった。全ては国家総動員令に発することなのであるが、確かに国民の誰にとってものんびりと安穏には生きていけない時代が到来したのである。

 こうした間にも、海外では激動の時代に入り、激しさを増す一方となってきた。日独軍事同盟をめぐる陸海軍の大論戦、満蒙国境をめぐってのノモンハンでの日ソの戦い、米国からの6か月の猶予期間のある日米通商航海条約廃棄の通告と、息をも突かせぬ大問題の続発である。八月十九日、ソ満国境ハルハ河畔でソ蒙軍から攻撃され、その四日後にはドイツとソ連が不可侵条約を締結したのだ。ノモンハンの戦場では無敵のはずの日本軍が苦戦しているさまがそれとなく察しられた、さらには、何とかという皇族の将校が、上官の命令も聞かず勝手に後方の陣地に下がったので、敵前逃亡にあらづやと問題になった。早くソ連と和睦を結んだ方がいいんだという声もかなり大きくなりつつあった。そうしたときにドイツ政府が、独ソ不可侵条約を突如として全世界に公表したのである、平沼内閣をはじめ国民はこれには唖然となる、腹立たしい思いを味わう人も多かった。日独防共協定というのはソ連を共通の敵として結ばれたものではなかったのか。ノモンハンで無敵皇軍の将兵が血を流している当面の敵と、盟友のはずのドイツが不可侵条約を結ぶなんて大事を、日本政府は今の今まで気がつかなかったのか、日本政府も軍もいいようにソ連のスターリンの政略戦略に翻弄されていたと評するほかない、ヒトラーも、ドイツ嫌いのスターリンの手玉に取られた、と言うか、独ソ両政府は条約の裏側で、ポーランド分割の独ソの境界線をひそかに決めた。ソ連は坐したまま大きな獲物を掌中に入れることができた。スターリンは喜色満面で言ったという「ついに全世界が俺のポケットにはいった!」と。

 9月1日、国民精神総動員委員会が6月にきめた、「興和記念日」がいよいよ実行にうつされた。午前四時半にサイレンが一斉に鳴り響き国民はたたき起こされる。一家そろって宮城遥拝、そして中国大陸やノモンハンの戦場で戦う前線将兵の武運を祈る、そしてこの日は一日中歌舞音曲の中止、酒類の販売中止、ネオンサインの消灯、家庭では一汁一菜そして禁煙、警察官が市内の盛り場を巡回して各店の自粛ぶりを点検してまわっていた。

ガソリン統制を宣伝、銀座を行くロバ馬車(1939年11月)
 

 ヨーロッパでは、この日未明、ドイツ陸軍の150万の機甲部隊が南北からポーランド国境を越えていた、2千機以上の戦爆連合の大編隊がポーランドを爆撃粉砕した。ヒトラーは今より一兵士として戦うであろうと二度繰り返し、勝利の日まで神聖にして貴重な兵士の制服を脱がないであろうと宣言した。9月3日、ポーランドを救うため、英仏はドイツに宣戦を布告する。世界中が憂慮していた大戦争がついに始まったのである。政府はこれに不介入を宣告したが、結果としてドロ沼の日支事変や、日本の国情に大きく影響してくるであろうことは、誰にでも予感されてことであった。その表れとして、9月半ばにノモンハン停戦協定が成立した。国民はほっと一息つきながら、ドイツ軍の電撃作戦の行方を追いかけていった。そして合間のラジオでは、宮本武蔵の活躍に耳をすましていた。これは9月5日から徳川夢声の朗読で始まったもので、すこぶる名演で、誰もがその放送を心待ちして聞きほれていたのである。

 後に第二次世界大戦となる戦争はすでにヨーロッパで始まっていたのだが、独ソ両軍のポーランド侵攻、分割の後、10月下旬ころから奇妙なことに、戦場が広がらずに治まっていた。歴史家は、これを「かりそめの平和」と言ったが、日本もまた中国戦線が膠着したままで、新聞も記事に窮し始めた。その後数か月間、言うならば、かりそめの平和を楽しむような時代になったのである。しかし平沼内閣に代わった阿部信行内閣にとっては、そんな悠長なことは言って居られる情勢ではなかった。アメリカからの通商条約廃棄の通告、イギリスに加えてアメリカも敵性国家の様相を表してきたことである。しかも条約を結び盟友となっているドイツは、英仏と完全に敵対関係にあり、いつ大々的に戦火を交えるかもわからない状態にある。一言で言えば世界情勢は明日にでも激変しようとしていたのである。やることなすことうまくいかない政府が、いくら挙国一致、国民精神総動員を叫んでも、盧溝橋事変以来2年半も経ち、国民は厭戦気分になってきていた。劇場や映画館は満員御礼、街中や盛り場は軍需景気に湧き立っている。こういう時は何時の時代も同じで、政府は危機意識をあおり、国民の気持ちを戦争に向けさせようとする。勅令を持って価格統制令をしき、地代家賃、賃金臨時措置法などを公布した。しかし、止まったのは賃金だけで物価は止まらなかった。

 法の裏側にもぐる「ヤミ」と言う言葉うまれた。この言葉はうまいことを言ったもので、昭和40年代まで使われる息の長い昭和語になった。これよりもちょっと前の、12月1日から米穀搗精等制限令という、つまり白米を食べてはいけないという、むごい法律ができたのである。銀シャリよ、さようならである。一升瓶の中に玄米を入れて細い棒で上からついて、少しでも白米に近づけて食べようと、どこの子供たちもやらされた。江戸前のすし屋の親父達が一斉に猛反対をした。白米を酢で締めるのが身上、7分搗き以上禁止じゃ鮨じゃねー 「飯はパラパラ、酢はピチャピチャ、こんな鮨が握れるかってんだ!」江戸っ子は腹をたてた。
 農林省の米穀局長の説明では「長期戦に備えるため目減りが減り年間200万石の節米になる、さらに健康と体位の向上になる」と、もっとなことであったが。本音は国家非常時に国民が美味しい物をたらふく食っているのはけしからん、ということだった。こうした国民統制は、物価とか食べ物にどどまらない、ジャーナリズムの方にも向けられた。11月には用紙統制が強化される、新聞・雑誌が整理統合された。御蔭で廃刊させられた雑誌は全国で500余誌に上った。ジャーナリズムもすでに昔日の面影はなく、言論の自由も又さらばであったのだ。この他にも、米の強制買上げ制、小作料統制令、木炭の配給制実施、暴利行為取締まり規則公布と、とにかく法律や規則でやたらに統制を強化した。

 江戸っ子娘も戦時体制に変身
 

 中でも特筆したいのが、12月12日に公布された「朝鮮戸籍令」の改正であった。祖先を重んじ”氏(うじ)”を大事にし、儒教道徳を信奉する朝鮮人にとっては、その氏名を日本式に「創氏改名せよ」と言われることは、到底服することのできない暴圧と感じられたのである。朝鮮総督の南次郎陸軍大将は、規則に背くものは日本領土の外へ出て行って生きるべきである、とまで言って、脅迫政治を強引に推し進めた。予め6か月の期限を設けていたが、制限を過ぎても30%の届けしかなかった。それで一層躍起となったため自殺者まで出たという。その一方で創氏改名を逆手にとって、反逆調の氏名を作った人も少なくなかった。「田農丙下」(天皇陛下のこと)、「南太郎」(朝鮮総督をもじる)、詩人の金素雲は「鉄甚平」とした、その心は「自分の金(姓)を失っても甚だ平気なり」であったそうだ。日本の芸術家の中には、これ見よとばかりペンネームを変えた人もいる。千田是也がそれで、千田は住所の千駄ヶ谷から、是也は朝鮮のKOREAからである。そうではなく、関東大震災での朝鮮人殺害の抗議としての改名という説もある。しかしこの説は時代がずれている。
 こうして国民精神総動員の元に、統制、統制で窮屈極まりない状況のなかで、年の暮れを迎えた。年末は経済戦強調運動の掛け声も高く、物資節約、貯蓄奨励、生活刷新でいかなくてはならないことになった。止むを負えず百貨店組合では(1)年末贈答品の大売り出し廃止(2)門松全廃(3)歳末年始贈答品の配達中止を決定する。勿論ショーウインドウの華美な陳列なんかはもってのほかである。漱石ではないが、住みにくさが高じると安い所へ引っ越したくなるはずであるが、ドッコイ、不敵の国民は必ずしもそうではなかったのである。そんな上からの様々な弾圧にもめげずに、秋の終わりから昭和15年にかけての、ほんの数か月ほどの束の間の”平和”を大いに謳歌していたようだ。

 歌謡曲は東海林太郎の「名月赤城山」が大当たり、「大利根月夜」「白蘭の歌」「父よ貴方は強かった」「出征兵士を送る歌」 「懐かしの歌声」 「旅の夜風」 「古き花園」 「並木の雨」 「上海ブルース」 「一杯のコーヒーから」 などなど、(私には)涙がでてくるような懐メロが大量に作られた。一方映画はというと、長谷川一夫と李香蘭の「白蘭の歌」、「支那の夜」、「熱砂の近い」「蘇州夜曲」と続々発表、「純情二重奏」、「綴方教室」などドラマが押すな押すなと封切りされた。当局はこれでは世界の激変に後れをとると一層統制引き締めに躍起になった。

 支那の夜(1939年)
長谷川一夫・李香蘭(山口淑子)
 

 こうした昭和14年(1939年)である。その他のB面的主な出来事と言うと、2月16日、鉄製郵便ポストなどの回収開始。3月30日、軍事教練を大学の必須科目とする。6月10日、待合、料亭など午前0時閉店。6月16日、ネオン全廃、学生の長髪禁止、パーマネント廃止。7月6日、ゼロ戦の初の試験飛行成功。7月8日、国民徴用令公布。8月19日、東京で初のテレビ一般公開。8月20日、ノモンハンで日本軍敗北。8月26日、毎日新聞社のニッポ号世界一周に出発。9月1日、初の「興和奉公日」。9月4日、第2次世界大戦勃発で株式市場大暴落。11月25日、白米が禁止。などなどの、戦時下ならではの、国民締め付け政策が続々と実施された年である。

 私事ながら、当時9歳の遊び盛りの筆者には、重圧など分かろうはずがない。本を読んで、ただただ へえそうだのかあー、そういえば、そんなことがあったなー、という思いである。

つづく(2023.7.31記)

 

出典:

「B面昭和史」半藤一利 平凡社2019.2.8/
「1億人の昭和史②」毎日新聞社1970年7月1日/ 
「懐かしの昭和時代」株式会社ベストセラーズ1972年1月10日/ 
「流行歌と映画でみる昭和時代Ⅱ」(株)国書刊行会1986.2.5/
「青春プロマイド70年」主婦の友社1988.8.6。


 

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新 四 季 雑 感(16)

樫村 慶一 

 

ワインを

知らない

ワイン通

のお話

 

ー 

昭和史B面は

ひと休みさせて

頂きます

 ー

 

 表題の如く、昭和史B面は、少し疲れたので、一回お休みを頂き、埋め合わせにベッドで頭に浮かんだ古い話をメモにしておいたものを纏めてみました。人間は齢九十も過ぎると、暴力は別として、世の中に怖いものがなくなってくる。特に、口から出る”言葉”については、それまでの”生き様”から自然に形成された自分だけの哲学のようなものに裏付けられ、他人に何と言われようとも、〈俺はこう思う ”文句あるか”〉といった頑固さが表に出てきて、怖いものがなくなる。それどころか、他人のことに逆に口を出したくなるから厄介であるし、場合によっては怪我をすることもあるからこわい。

  ワインに関する本が沢山発行されている。いずれも綺麗なカラー写真が豊富に掲載されていて見てくれは楽しい本であるが、中味に重大は欠陥があるものもある。過日二つの雑誌について、アルゼンチン・ワインに関する記事が全くないことと、”その他のワイン”とか、”新大陸のワイン”などと一緒に扱われているのがあるのに気がついた。本屋の店頭で立ち読みして、怒りが一遍に頭にきた。私はアルゼンチンに馴染みが深いので、あの国を身びいきすることはあるが、世間一般でもアルゼンチンと言えば、去年のFIFAの決勝で、フランスとの、ペナルティキックで劇的なチャンピオンになったことは、まだ耳新しいし(世の中の話題はもっぱらウクライナになってしまったが)、タンゴ、ワインとくるのが大方の常識だと思う。アルゼンチン・ワインを知らないでワインの本を書くなんて、執筆者が自らの無知をさらけだし、編集担当者もそれに気が付かないと言う、二重の恥をさらしていることになる。二つの出版社に、アルゼンチン・ワインの名誉と伝統のためにメールで抗議した。1社からはすぐに返事がきた。文面は平身低頭と言う感じであるが、本心はどうなのかは分からない。

 改めて言うと、世界のワイン産地は、ほんの半世紀くらい前までは、ヨーロッパと南米でほぼ独占していたのだ。1770年代にはヨーロッパのワインが病虫害にやられて大変なことになった。そのとき、、チリとアルゼンチンへの移住者が、故郷の味として持って来て定着した南米ワインの苗を恩返しに、ヨーロッパに送って助けたという、今では100人に一人も知らないようなエピソードもある。

 もう一つの雑誌の、”その他のワイン”には、中国、メキシコ、エジプト、ペルー、韓国などの国が入っている。葡萄は地球の南北緯度20度~40度の間ならどこでもできる。そもそもは、猿が食べ残した葡萄を木の洞においておいたのが自然に発酵してワインになったのを人間が発見した、という説が有力である。自分の国内だけで飲むために醸っているような国々とアルゼンチンやチリを一緒に評価するのは、あかたも、小学生の作文と芥川賞受賞作品を同列に語るようなものだ。素人のくせにワイン通ぶっているのは許せない。以前、ワインのラベル(エティケッタ)の文字はフランス語かイタリヤ語じゃないと本物じゃない、などと言ったソムリエがいると言う話を聞いたことがある。呆れてものが言えない。常識のない事甚だしい。この他にも、全く違う意味の言葉が書いてあるラベルを、無理にタンゴと読ませて”情熱的なワイン”だと宣伝する商魂たくましい業者もいた。ついメールと言う便利な媒体を利用して”文句”を言ってしまう。こうした出来事は年寄りの一徹といわれればそうかもしれない。妻が健在の頃はしょっちゅうたしなめられていたが、咽喉元まで出かかった言葉は出してしまわないと納まらないのは、どなたも経験があろう。出してしまうか、ぐっと飲み込んで納めてしまうかがストレスになるかならないかの境目で、飲み込んでもストレスにならないようにできる人は長生すると思う。

ワインの話はこの辺で棚に上げて。
 そもそも21世紀になって、北アフリカから始まったイスラム諸国の革命(アラブの春)が中東のシリアで途方もない戦争になり、ついに、最後の戦争になるかもしれない、ウクライナ戦争につながった。ただ、詳しく知ると双方に言い分はあるようだけど、今は使われなくなった日本の言葉に、「判官(ほうがん)贔屓」と言う諺がある、弱い方に肩入れをすることだ。ウクライナ戦争を見ていると、この諺的な感じがする。ウクライナ領内にいる、親ロシヤ人を助けるため、と言うロシヤの言い分は、200年前にテキサス州をメキシコから奪い取った米国のやり方と極めて似ている。アメリカはこのとき、メキシコに応援団がいないのをいいことに、テキサスだけではなくカリフォルニアから南の、メキシコのほぼ半分を取ってしまった。今回の戦争の元になった「ミンスク議定書」は2014年9月5日に発効した合意書で、(これをお読みいただく皆さんがネットを開く手数を省くために)概要を申し上げると、次の様なものである。①「包括的な停戦」、②「東部の親ロシヤ派支配地域に特別な地位(高度で幅広い自治)を与える恒久法の採択」、③「ウクライナからの外国部隊の撤退」、④「ウクライナ政府による国境管理の回復」など12項目からなる。NATO側はドイツとフランスが調印している。米墨戦争とよくにているけど、ウクライナには応援団が沢山いるのが、米墨とは違う。今度は、それをロシヤ側が破ったことが出発点であるけど、ほんとに人間のバカさ加減にあきれ返るばかりである。

 同じような例はほかにもある。1870年代までボリビア領だった大平洋岸の大貿易港アントファガスタを、アンデスに遮られ情勢の把握が十分にできなかったボリビア政府の隙をうかがい、チリ人をそろりそろりと定着させ、いい加減たまったところで、独立の話をもちだし、それを守るためと称して、戦争(第一次大平洋戦争と言う)を起こした。十分準備をしていたので、勝つのが当たり前、ボリビアの大平洋への出口を取り上げたチリの狡猾な汚い手口もその先例である。本当の正義のための戦争などないのだと思う。日本の太平洋戦争だって、少しずつ少しずつ自作自演の事件を造り、自衛のためと言う口実の下で、侵略していった陸軍の横暴。人間一人ひとりは決して戦争は望まないだろう、プーチンだって趣味は戦争ではないだろう。柔道と言う立派なスポーツマンなんだから。世界人口70億人、戦争大好き人間なんか一人もいないだろうに、人類出現以来戦争がなくならない。どうしてなのかが分からない。これを止められる人間が現れたら、それが本当の「救世主」だろう。今の世界中にはびこる宗教は全部、エセ宗教だと思う。本当の救世主だったら戦争を止めさせられる筈だ。ロシヤ正教もギリシャ正教も、カトリックもプロテスタントも皆キリスト教だ。それなのに何にもできない。キリストなんて張り子人形の最たるものだ。独裁主義か民主主義か、という議論とは全く別の話である。

 そうゆう意味では、私は、国民の本質を、他の国よりは多少は知っているつもりの南米諸国の方が、民主主義は程よく定着しているし、今の現状だとやっぱり、アフリカや中央アジアの旧ソ連領や、東南アジア諸国よりは安定しているように思える。その理由は、上記の国々よりも形の上では民主化が進んでいるから、知っているからだと思う。今は軍事政権はない。2023年になって、パラグアイをのぞいて、南米はみな、左派の政権になってしまった。しかし、キューバを除いてみな自由経済の国だ。それぞれ国内にいろんな問題を抱えてはいるが、数年前のコロンビアの内戦終了で、反政府活動を武力に訴えるような国はなくなった。随分大人になった。長年対立し合っていたコロンビアは、反政府勢力だった人間が大統領になっている。過激な反米行動をとるベネスエラだって、ちゃんと選挙で選ばれた大統領だし、ボリビアもまたしかりである。中南米の国々の首長は皆選挙で選ばれている。今年の初めブラジルの大統領選挙で負けたボルソナールが、トランプみたいな駄々をこねたが、あっさり引き下がった。ただペルーのように無茶をする(現職大統領を逮捕してしまう)国がないとは言えないが。イスラムの王様達のように、国は俺の物だなんて威張っている国はない。民主主義に対する民度から言ったら南米とアフリカやアジアの一部などとは数十年以上も違うかもしれない。

 閑話休題

 この話の始まりで”北アフリカ”という言葉を書いたけど、北アフリカと言う国はない、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビアの総称だ。行ったことがある人には強い思い出が甦り、行ったことがない人達も、なんとなくロマンのあふれた所のようなものを感じるのではないだろうか。それはそのはずで、人それぞれに: 西洋史に少しでも興味を持っている人は、紀元前にフェニキア人の都市国家カルタゴ(チュニジア)の英雄ハンニバルが活躍した第二次ポエニ戦争を・・・、卒寿を過ぎた人達は、70年前(1942年、昭和17年)の映画「カサブランカ(モロッコの都市、正確な発音、カーサ・家、ブランカ・白い)」で、ハンフリー・ボガートがバーバリーのトレンチコートの襟を立て、イングリット・バーグマンを抱き寄せるシーンを・・・、また後期高齢者の懐メロフアンは、古い歌手エト邦枝が歌う”カスバの女”を聞いて、白いカンカン帽をかぶった格好いい外人部隊が活躍する場面を・・・、だけどこの歌には、「ここは地の果てアルジェリア」と言う歌詞が出てくるが、これは大間違いだ、アルジェリアは地中海を挟んで、憧れの地ヨーロッパを想う望郷の地ではないか、そこが地の果てとは、とんでもない歌詞の偽造だ。そして第二次世界大戦を知る年代の老人達は、砂漠の狐と言われたドイツのロンメル機甲軍団が、イギリス、フランス軍を相手に、サハラ砂漠を縦横無尽に暴れ回った話を・・・、また別の人は、同時代の話で、小説「星の王子様」の作者サン・テグジュペリが砂漠に不時着し、この小説の構想を練った話を・・・、さらに、ぐっと時代が下った話題では、フランス、スペイン、ポルトガルそして北アフリカの15か国以上を回るパリ~ダカール・ラリー(2009年からアルゼンチンとチリ両国に舞台が変わった)の危険で勇ましい話を・・・ 想い浮かべるからではないだろうか。

 ことほど左様に北アフリカには話題が多い。私は、アフリカには一度も行ったことがないが (アンダルシアの丘の上からアフリカ大陸を遠望したことがあるだけ)なんとなく北アフリカという地域に、憧れにも似たような感情を掻き立てられて仕方がない。政治情勢とか国内治安などの点は別にして、北と言いながら、ちっとも寒さも暗さも感じさせない言葉だからだろうと思う。
 人類の素が2億年前に深海の温泉水の吹き出し口から湧いてきてからか、或いは、どっかから飛んできた隕石にこびりついてきた遺伝細胞が水に落ちてからか、機械で人間もどきができるようにまでに成長してきたが、これも大きな目で見ると、ひとつの生物の一生であって、すでに地球は中心部のマグマは日々少しずつ冷却していて、後20億年で、月や火星と同じようになると言われる。現代は、鬱々しい、悲しい、寂しい、バカな、そして家族泣かせな話が溢れている。その原因の一つは、低気圧が連続することによる、と行きつけの薬屋の薬剤師が言っていた。気圧なんて血圧と同じで、毎日、時間によっても変わっているはずだ、本当だろうかとも思うけど、暑くなるけど、やっぱり、雲一つない快晴の平和な日が待ち遠しい。 

(2023.6.16 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(15)

樫村 慶一

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その8)

昭和13年(1938年)

 

 昭和13年、前年の暮れに首都南京を落としても事変は終わらない。しかし我が陸軍はまさに無敵の皇軍として、すべての日本人は胸をそらした。もっと正しくいえば陸軍以上に政府、特に近衛首相が連戦連勝に有頂天になっていた。中国駐在のドイツ大使の和平斡旋案をしりぞけ、1月16日「国民政府を相手にせず」との声明を内外に発表するほどののぼせ上りであった。この声明は、今考えると日中間の国交断絶の宣言であり事変は戦争になったことを意味した。蒋介石はここに及んで米英にすり寄り、その関係を一層蜜にしていく。これにより日本はますます国際的に孤立化し、先行きに明確な展望のないまま果てしない戦いにのめりこんで行った。
 4月1日には「国家総動員法」が成立し、いざとなれば人的、物的に何でも政府の思うがままに動かせる、動員できる。いわば国がすべての国民のすべての生命財産を、いつでも自由に裁量できる権限にお墨付きを与えたことになる。これにより陸軍は後顧の憂いなく支那大陸の戦線拡大ができるようになった。
 この日本軍の傲慢な侵攻に、それまではモンロー主義を守る上から抗議や非難をさしひかえていた米国が、この年の秋になってこのような無法な作戦行動の即時中止を強く要求してきた。これに対して有田八郎外相は、戦争をつづける日本の立場を説明し、米国の批判に反論する、それが11月3日に近衛首相が発表した「東亜新秩序の建設」という大理想であった。米国だけではなく、英仏蘭など列強も完全に硬化した。これはヒトラーの「ヨーロパに新秩序をつくる」という絶叫と同質の不気味なものを感じとったからである。アジアは日本が盟主となって統括するという宣言は、これによって大平洋戦争への導火線に火がつけられたと言えるかもしれない。

 「国家総動員法」は、それまでも一種の精神的運動としてあったが、これが昭和13年が明けると国会に提出され審議が始まったものだ。軍部に白紙委任をすることなる、この法律案の審議過程においては、政友会も民政党も大反対し議場は大揉めに揉めた。そして3月3日、陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐が滔々と演説をした。「全国民の精神力、物理力を一丸として目標に向かって邁進せしめるという組織が必要である、それがこの法案であり・・・」。佐藤はただの陸相補佐の説明員でしかない。議会で許されているのは質問に答えるだけで、意見を述べる資格はない、にもかかわらず佐藤は委細構わず信念を説いて止めなかった。議員からは止めさせろ、とヤジが飛んだ。その中で宮脇長吉議員は大声で何度も「やめろ」と言った。佐藤はキットなり「黙れ!」とどなった。佐藤の回顧録によると、「黙れ! 長吉」と言おうとしたが、さすがに「長吉」は飲み込んだと書いてある。単なる説明員が議員に対して「黙れ」と怒鳴ったことは国会を冒とくしたことになり大騒ぎになった。翌日杉山陸相が陳謝して、何とか騒動は収まった。これは「黙れ」事件として歴史に載っている。  

『*この話には、半藤さんの後日話がある。半藤さんがこのことがあって四半世紀たった昭和38年に、本人に取材したときのこと。当時佐藤は67歳で、なお意気軒高だったとか。戦犯にはならなかったようである。その時のこと、「いいか、国防に任するには絶えず強靭な備えのない平和はない。備えのない平和なんて幻想にすぎん。いいか、その備えを固めるためにはあの総動員法は絶対に必要だったんだ」。この元軍人には反省をいう言葉はないと思った。そして勝海舟の言葉を思い出した、「忠義の士というものがいて、国をつぶすのだ」とつぶやいたということを』。

 ともあれ、「黙れ」事件をさしはさんでこの法律は成立した。ほぼ同時に、「電力国家管理法」「農地調整法」などが成立した。戦争遂行上必要欠くべからざる、いわゆる軍事三法が軍部の希望通りに成立したのだ。これから後、経済も社会も、そして言論もこれらに引き回されることになる。
 この中に、政府は国家総動員の必要あるときは、新聞記事の制限または禁止することができる、とあった。これに違反すると発売禁止、原版差し押さえ、これらは当然としてさらに発行禁止処分の条項が加えられた。流石に新聞各社は猛反対した。新聞各社の代表が集まって反対決議をすることはしたが、当局から、何を今更くだくだと言っておるのか、各社は一致して「言論報告」の方針堅持をすでに宣言しておるではないか、と突っ込まれてギャフンとなった。内閣情報部参与に朝日の主筆緒方竹虎、読売社主の正力松太郎、同盟通信主幹の古野伊之助、ジャパンタイムス社長芦田均、大阪毎日主筆の高石真五郎らが名を連ねている。内閣参与は天皇が任命する「勅任官」であり、内閣の一員としてこの法案の成立に力を尽くすべきにあらずや、とやられ、強硬な反対もならずという状況であった。それでも見逃すことはできぬ由々しき大事と反対するジャーナリストも多数あり、やっとのことで発行禁止条項の削除だけは何とか勝ち取った。それが精いっぱいのところであった。内実は「日本経済新聞80年史」によると、戦争景気で新聞はどこも有卦にはいっていたのだ、新聞各紙は部数拡大に向けて大いなる競争的前進を開始していた。新聞は戦争と共に繁栄する、とは日露戦争以来の真理なのである。

南京陥落後に市内に入った従軍記者が撮影した死体の写真。
当然ながら不許可になった。

 日中戦争が始まってすぐに書かれた石川淳之「マルスの歌」は素晴らしい反戦文学である。マルスの歌とは、ギリシャ神話の軍神(マルス)の歌、つまり軍歌のことと書いている。戦争中の正気とは狂気でしかありえないと説いたこの「マルスの歌」を載せた「文学界13年1月号」は、ただちに発禁となる。また、2月27日に発売された石川達三の「生きている兵隊」を載せた中央公論3月号は、翌日に、聖戦に従う軍を誹謗し、反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品として、即時発禁処分になった。中国戦線に従軍した石川達三が1月5日南京に付き、そこで日本軍の実態に接して深い衝撃をうけたルポルタージュ文学である。南京は前年の12月13日に陥落しており、石川はずっと遅れてその地を踏んでいるのである。「小便臭い貨車に便乗して上海から南京まで揺られていきました。南京市民は難民区に隔離され、町の中にはゴロゴロ死体が転がっていて、死の町という言葉がピッタリでした。初めて目撃した戦場はショックでした」と書いている。2月下旬に帰国した石川達三は、警視庁に連行され厳しい取り調べを受けた。8月には編集・発行・印刷人ともども「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を乱すもの」との理由で起訴される。9月 に判決がでて、石川は禁錮4か月、執行猶予3年という予想を超えた厳しいものだった。

戦地を慰問した芸能人。
右の中央は赤坂小梅姐さん

 こうした軍・官・警が一つになって言論統制と弾圧の高まる中で起こったのが人民戦線事件である。第一次が12年12月、山川均、大森義太郎、向坂逸郎、荒畑寒村たち400名余りが検挙された、更に第二次が13年2月に起こり、大内兵衛、有沢広巳、美濃部亮吉たち「労農派教授グループ」が次々に逮捕された。そして3月には宮本百合子、中野重治たち左翼作家に執筆禁止が通達された。民主主義や自由主義さへも危険極まりない思想とみなされたのである。ところら、8月に内閣情報部から文学者たちの懇談会の開催がもちかけられた。陸軍省新聞班の松村秀逸中佐 が「ペン部隊」という文学者の従軍の提案である。「従軍したからと言って、けっしてものを書けの、隠せよという注文は一切考えていない。全く無条件だ。国としてはかかる重大時局に際して、正しい認識を文筆家一般に浸透することを望むことであり、またそれが急務だと思う」と。こうして菊池寛が音頭取りになり、文学者だけのペン部隊が編制され、陸海協同の漢口攻略戦に従軍した。陸軍班は、久米正雄、川口松太郎,尾崎士郎、滝井孝作、丹羽文雄など、海軍班は、菊池寛、佐藤春夫、吉川英治、吉屋信子、小島政次郎など7名。ところが面白いことが起こった。このペン部隊とは別行動で、中央公論特派員記者となった林芙美子の、10月17日の漢口攻略戦一番乗りが大きな話題になったのである。つまりは、文芸春秋社主体のペン部隊の連中の鼻をあかしてやろうという、放浪記の作者の根性、生活力の強さ、そして健康がものを言った。彼女のルポルタージュ作品「北岸部隊」は翌14年年頭の初の一番の呼び物となって良く売れた。新聞が戦争と肩を並べて前進を始めたように、文学もまた活発に動き出したということである。

徐州徐州と人馬は進む、徐州居よいか住みよいか・・

 ペンと戦場ということで、芥川賞の授賞式がこの年の4月に中国で行われた。昭和12年下半期の芥川賞は、日野葦平の「糞尿譚(発表は文芸春秋13年3月号)」と決まったが、当人は出征中、そこで丁度上海へ渡ることになっていた、小林秀雄が菊池に頼まれ同賞を伝達することになった。日野の所属する部隊は杭州にいた。小林秀雄の従軍記「杭州」にその伝達式のことが詳しく書かれている。「S部隊長をはじめM部隊長、報道部からはS少尉などがわざわざ列席された。部隊全員が本部の中庭に整列した。「気をつけ! 注目」と号令をかけられたときはドキンとしたが、思い切って号令をかけるような挨拶をする。続いて日野伍長、S部隊長の挨拶があり式は終わった。いかにも陣中らしい真面目で素朴な式であった、僕は恐縮したが嬉しかった」。この時小林秀雄がした号令をかけるような挨拶とは「これからも日本文学のためにおおいに気をつけて、すぐれた作品を書いて頂きたい」というものであった。ところが、授賞式後の祝賀会 で、酔った下士官が日本刀を抜いて小林に息まく小事件が起こった。「兵隊の体は陛下と祖国にささげたものだ。文学のため に身を捧げるとはなにごとか、非国民め」と詰め寄った。このからみに、からみの名人と言われる小林がなんと答えたかは、残念ながら伝えられていない。更にこの芥川賞受賞に付け加えると、日野葦平コト玉井勝則伍長の任務は、これ以後は単なる一下士官ではなく、5月に敢行された大作戦の徐州攻略作戦の従軍ルポルタージュを書く作家へと任務を変えられた。そして生まれたのが、日中戦争を描いた作品中でもっともよく知られた「麦と兵隊」である。当局の指示もあり、「改造」8月号に掲載されたのち単行本になり大いに売れた。私(半藤氏)は戦後に日野さんから、120万部は売れたのではなかったか、と聞いた。何となくトンビに油揚げをさらわれた観のある文芸春秋の社長菊池寛は、ペン部隊の音頭取りとして、この作品を何としても認めようとしなかった、というが、ごもっともというほかはない。

愛染かつらの映画ポスター

 これに乗ったポリドール・レコードが、藤田まさと作詞、大村能章作曲で流行歌としての「麦と兵隊」を売り出し、空前の大ヒットになった。これは、いわゆる軍歌ではなく軍国歌謡、戦地の将兵の苦労を歌う国民歌謡である。この他にも、「日の丸行進曲」「愛国行進曲」「同期の櫻」「皇国の母」「南京たより」「湖上の尺八」「西湖の月」などヒットした。かといって、甘い流行歌がないかといえば、そうではない。何事も挙国一致といっていても、人の情けというものは決して一面的ではない。前年の12年には淡谷のり子の「別れのブルース」や「青春日記」「青い背広」が出たし、この年にも「雨のブルース」愛染かつらの主題歌「悲しき子 守唄」などの恋歌というような流行歌がはやった。赤紙1枚で出征しなければならない当時の若者たちの、口には出せない切々たる愛恋の心情が伝わる。

*上記の曲はこちらをクリックしてYouTubeで聴くことができます。

 歴史学者色川大吉が、「ある昭和史…自分史の試み」の中で妙な告白をしている。「愛染かつらの映画の中で好演したスター達に圧倒された、軍人になろうという夢をすてた、というのである。愛することと愛されることとが人生最大の幸福である。という意味が明瞭にわかった。その結果、僕は突然軍人なんか止めてしまえ、高等学校に進んで恋愛しよう、と思うにいたった」。

戦時下の庶民の一家団欒

 流行歌のことについて、もう少し書くと、じつは、昭和12年から14年位にかけて、やくざ調の歌が色々作られた。「妻恋道中」とか「鴛鴦道中」とか「勘太郎月夜唄」とか「流転」とか。これらの歌詞だけを眺めていると、恋人や妻や故郷に本当は別れたくないのだが、これも国のために赤紙1枚で出征して行かねばならない、当時の若者たちの苦悩を歌い上げたものにみえてくる。民草の口には出せない切々たる恋慕の心を歌い上げている。そうゆう目で見ると、愛染かつらの「花も嵐ものりこえて・・」も、人生劇場の「やると思えばどこまでやるかもジーンとせまってくるものがある。

*上記の曲はこちらをクリックしてYouTubeで聴くことができます。

 盧溝橋の一発から、玉音放送までの戦時下の日本本土を銃後と言った。その銃後意識の戦時体制は、この年(昭和13年)の後半頃から完璧にかたまり、5月には隣組制度が制定された。その銃後の3大行事といえば、献金、武運長久祈願の町民大会、それに千人針であった。今になおせば、カンパ、集会、署名運動といことになる。

蒸釜に木炭を積む

とに角こうして銃後にも戦争気分がどんどん醸成され、ソッポをむこうものなら、たちまち白い目でみられた。街角には割烹着にタスキを掛けた小母さん達が立ち、通り行く女性に千人針を要請する。虎は千里を走るという言い伝えにあやかり、予め虎の絵を描いた布地に、千個の印をつけ針と糸で結び目をつくっていく。この千人針を腹に巻いて戦場に出ると敵弾に当たらないと信じられた。寅歳の女性は自分の歳の数だけ縫うことができた。死線、苦戦を超えるというたとえで、5銭玉や10銭玉を縫い付ける人もいた。当時の様々なおまじないは愚かしい限りであるが、戦地と銃後を結びつける精神的な絆として思い込まれていた。そして、10月18日、日比谷公園に4か所の防空壕が造られ一般に公開された。空襲に襲われても絶対的な威力を発揮するという触れ込みであった。

 こうした状況下、物価は日に日に上がり続けた。7月にはいり「皮革非常時管理」が強行されて、靴の製造がピタリと止まり国民に足異変がもたらされた。そして、下駄が時代の寵児宜しく、颯爽と登場し た。下駄材料の台湾桐の移入制限、米国松の輸入制限などで高騰し、事変前より3割強も高くなった。桐下駄の材料は一足29銭が45銭~50銭になった。又腕の良い職人は1日に3円以上も稼いでいた。当局はこれに対応して知恵をしぼった。6月大蔵省が「皮革節約」に協力するため、下駄ばき登庁を認めると許可の通達をだす。早速洋服に下駄ばきのお役人が登場した。東京市も負けてはならじと、大正7年から禁止していた下駄ばき自転車運転を7月に解禁とした。皮革より深刻化したのは石油である。5月1日にはガソリンの配給切符制が始まり、政府は「ガソリンの一滴は血の一滴」の標語で節約を懸命に呼びかけた。

木炭釜を摘んだバス

5月1日からは、バス、タクシー約3割、自家用車は4割、トラックは2割の制限を受けることになった。東京市内を走るバスが木炭車にどんどん切り替えられていった。木炭を釜にいれて蒸し焼きにしてガスを発生させ、これをエンジンに注入して爆発させる。そのため車体の後部に大きなガス発生装置が取り付けられた。当時の記録によると、木炭15貫(56kg)で7,80キロは走れたという。冬はこのでっかい釜が暖房の役割を果たしホカホカとするので、後ろの席を争って取りっこしたものである。このように日々の生活はだんだんと窮屈になっていったが、戦争遂行にとっては軍需工業は好況で、失業はぐんと少なくなり、極端な貧困者も減っていった。

大繁盛の提燈屋

 銃後の景気のよさに乗って、8月22日、大本営は広東攻略作戦実施を決定した。中支派遣軍30万の大軍が漢口へむけて進撃を開始した。この大兵力は日露戦争の奉天会戦以来の最大規模の攻撃軍である。そしてそれは、「露営の歌」の、土も草木も火ともゆる、果てなき曠野踏み分けて、・・・の歌詞そのままの、中国大陸の奥へ奥への進撃になった。広東占領は10月12日、漢口、武昌、漢陽の武漢三鎮占領は25日、蒋介石はそれより前に首都を遠く重慶に移していた。
 日本軍は確かに幾つもの主要都市を攻略したが、戦争解決の方策はどこにもなかった。兵站は伸びるだけ伸びた。いうならば攻撃の限界に達したのである。大本営は、やむなく漢口攻略の後は攻勢作戦を転換して、長期持久戦に持ち込まざるをえなくなる。しかし、銃後は相変わらず「勝った、勝ったの下駄の音」で、新聞には連日のように連戦連勝の記事が載り、万歳万歳の歓声と、旗と提灯の波が日本全土を覆っていた。兵隊さんは命がけ、私たちはタスキがけと、銃後はもうすっかり戦場と結びついていた。勿論この戦争の前途を心配するものもいないではなかった。しかし、そういう人達は少数であり、発言を封じられたり重要な地位を遠ざけられたり、殆ど影響力を失っていた。川柳作家鶴彬(つるあきら)が特高警察に逮捕され拷問を受けて体をこわし、収監されたまま病院で死んだ。享年29。彼は王道楽土の満州国の実相をこう詠んだ。

● 銃剣で  奪った美田の  移民村
● 土工一人  一人枕木となって  のびるレール
● 塹壕で 読む  妹  売る手紙
● 手と足を  もいだ丸太に  して帰し
● しかばねの  いないニュース映画で  勇ましい
● 主人なき  誉の家に  蜘蛛の巣が

 

 悲観していた人は軍の内部にもいたのである。参謀本部戦争指導課の高級課員、堀場一雄少佐がその手記に残している。「漢口陥落して国民狂気し、祝賀行列は宮城前より三宅坂に亘り昼夜に充満す。歓呼万歳の声も、戦争指導当局の耳にはいたずらに哀調を留め、旗行列何処へ行くかを危ぶましむ」。少佐は戦争拡大に涙を流して猛反対し、後に前線に飛ばされる。この時三宅坂の参謀本部の窓よりお堀端を行く旗行列を俯瞰しながら、国家の前途に暗澹たる思いを抱き、悲しみにうち沈んでいたのだ。

 日本が破滅する戦争が始まって2年目のこの年、ここに記述しきれない出来事を並べておこう。

1月  3日  岡田嘉子と杉本良吉が樺太国境を越えてソ連は亡命。
4月  2日  国民健康保険法が公布。
4月10日  灯火管制規則の実施。
5月13日  東大航空研の航研機が関東平野上空を62時間23秒、11667キロを飛行し速度・距離 の世界記録を樹立。
6月  9日  勤労動員はじまる。
7月11日  張鼓峰で国境紛争起こる。
8月24日  羽田空港上空で民間機が衝突、市街地へ墜落、死傷者130人。
8月        日野葦平 「麦と兵隊」を発表。
11月 3日  近衛内閣、第2次東亜新秩序建設声明を発表。

つづく (2023.5.5記)

 

参考引用: 半藤一利著「B面昭和史1920~1945」2021.7.15第7刷 平凡社。
写真出典: 一億人の昭和史② 1975.7.1 毎日新聞社
  流行歌と映画でみる昭和時代Ⅱ1986.2.5 国書刊行会。
  豪華写真シリーズ③・懐かしの昭和時代1972.1.10 ベストセラーズ。

 

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新 四 季 雑 感(14)

樫村 慶一

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その7)

昭和12年

 

 少し脇道へ逸れたが、話をまた「B面昭和史」にもどす。満州事件から2.26事件までの灰色に沈み込んでいた世情は、昭和12年のはじめ頃から軍需景気がようやく軌道にのって、かなり明るさと華やかさとを加えるようになっていた。作家野上弥生子がこの年の初めに新聞に書いた一文を紹介する。
 「たった一つお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても大地震があっても、暴風雨があっても、・・・・コレラやペストがはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように・・・・・」
 2.26という考えてもいなかった大事件を体験した後のこの年であっただけに、平和に思えた時代の空気にも、不気味な緊張感があったのかもしれない。この年の1月21日の衆議院本会議でのこと。政友会の浜田国松代議士が、なにものも恐れぬかのように発言した。「5.15事件しかり、2.26事件しかり、軍部の一角から時々発される独裁政治的思想またしかり、要するに独裁強化のイデオロギーは常に滔々として陸軍の精神の底を流れている。この危険な思想は、国民のひとしく顰蹙するところである」。これに対して陸軍大臣の寺内寿一大将が反発した。「われわれ軍人に対していささか侮辱するがごとき発言があったことは、真に遺憾である」。再び浜田は蛮声を上げた。「どこが軍を侮辱したか、事実をあげよ。もしあったら割腹して君に謝する、なかったら、君が割腹せよ」世に言う「ハラキリ問答」である。後世の歴史を学ぶ者からすると、これこそ政治介入をあらわにしてきた陸軍に対する政治家の抵抗であった。これによって広田内閣は総辞職した。さもありなんと合点するが、見方を変えれば、まだ陸軍大臣を相手どって堂々と啖呵をきることができる余裕と力とが、議会そして政治家にあったということもできる。国民も成り行きをおういに憂慮したものである。
 そのうち、多くの人々の関心は、名古屋城の天守閣の金の鯱のうろこ58枚を、調査用に組んであった櫓を上り、盗んだ不敵や奴の事件に集まった。事件が起きたのは1月4日のことであるが、犯人が捕まったのは27日、国会への関心はこの事件の方に変わってしまった。

平和に明けた昭和12年
銀座4丁目交差点
 鱗は、慶長14年(1609年)に慶長大判1940枚を鋳つぶして作られたと言われたもので、80万円はすると言われた。犯人は、前科2犯の40歳のコソ泥専門のミシン工、佐々木賢一で名古屋城を見物したとき、足場があるのをみてとって、「あれを盗んでやろう」と決心したと言う。家で手間をかけて溶解し、大阪市内の時計屋へ少しずつ売り歩いていたが、当然なことながら、「金を売り歩く男がいる」との噂がたち逮捕された。結局稼いだ金は2130円とか、でも当時は大金であった。

 そんなことで年が明けたので、この年は、野上弥生子が祈った、どうか戦争だけは・・・というような緊張感は世情にはなかったとみるのが正しいかもしれない。おなじように、京都では、いささか暢気な事件があった。京都には千数百軒の喫茶店があったが、それらの店が、女性がサービスをするために、料理飲食店と同じような細かい取り締まりを受けていた。喫茶店は女性が侍る店ではないので細かい取り締まりは止めてくれ、というものである。(結末は不詳)一方、東京では「日本国民禁酒同盟」なる団体が、女給たちの紀元節祭参加を許してはならぬ、という決議をして当局に訴えた。国家的祝日の式典に不浄の女どもの参加はまかりならぬ、というわけである。これに対して警視庁保安課は毅然として言った。「大切な国家の祝賀への参加は、どんな職業であろうとも平等で自由であるべきである」、と懐の広い所を見せた。

横山大観(鉢巻姿)

 昭和12年は、B面話で後世に残るような大きな話題の少ない年であった。その中でも触れておきたいことに2月11日の紀元節に、日本初の、第一回文化勲章が制定されたことである。第一回の受賞者名がこの日に発表された。長岡半太郎、本多光太郎、木村栄(ひさし)、岡田三郎助、藤島武二、竹内栖鳳、横山大観、佐々木信綱、幸田露伴たちである。そうそうたる人物である。なかでも、幸田露伴の受賞の言葉が傑作であった。「文学者というものは時の政府を批判したり、あらがうことを本来の使命とする。しかるに、その政府から勲章を頂くことになった。私もモーロクした」。露伴時に71歳。同じように後世に話題になる、帝国芸術院が誕生したのもこの年の6月23日である。最初に選ばれた文芸部門の芸術院会員は次の人たちである。幸田露伴、徳田秋声、岡本綺堂、菊池寛、武者小路実篤、谷崎潤一郎、千葉胤明、井上通泰、佐々木信綱、斎藤茂吉、高浜虚子、河合翠明、国分青崖、三宅雪嶺、徳富蘇峰。

自宅でくつろく島崎藤村

 この中に正宗白鳥、島崎藤村の名前がないことが不審におもわれたが、この二人は、選ばれたのに固辞しとおしたからだということであった。また、志賀直哉の名もない。志賀直哉本人も分からないと言う。彼は「とても不愉快だ、無心になろうと思ったが、中々無心になれず、益々不愉快になったと」、周囲に漏らしたと言う。志賀の代表作「暗夜行路」が完結したのはこの年。「改造」4月号に最終回が発表された。大正10年から16年間、精魂込めての大作を仕上げた直後の芸術院会員の話に、全く声が掛からなかったことには、容易に無心になれなかったのは当然ことであろう。もう少し文学の話を続けると、プロレタリア文学衰退のあと、文芸復興の言う観点からみると、昭和11年からこの年の初夏頃までが、昭和の文学の絶頂期と言えるかもしれない。堀辰雄「風立ちぬ」、北条民雄「いのちの初夜」、岡本かの子「鶴は病みき」、太宰治「晩年」、川端康成「雪国」さらに吉川英治の「宮本武蔵」と吉屋信子「良人の貞操」が圧倒的な人気を読者を集めていた。そこえ欧州から帰国した横光利一が「旅愁」の新聞連載を始めたが、時を同じくして永井荷風の「墨東綺譚」も別の新聞に連載を開始した。花形作家の競演に挿絵も、藤田嗣二と木村荘八が花を添えた。
 こうして見ると、この年は昭和文学の代表作が勢ぞろいしたと言える奇蹟の年と言える。しかし逆に皮肉な見方をすれば、明治以来の日本文学の発展もここまでと言いたくもなる。永井荷風の墨東奇譚の終わったのが6月15日で、その直後に7月7日の盧溝橋の事変が勃発したのであるから、後2,3か月遅かったら”玉ノ井の娼婦との色っぽい交情”を描いたこの小説の新聞掲載はとても無理であったろうと、ヒヤリと思い出す。

ブラッセルからベルリンへ向け
飛び立つ神風号

 平和な年の話題の最後になったのが、朝日新聞社の国産機によるアジア~ヨロッパ連絡飛行計画の実現である。(本編連載、12号を参照されたし)。東京~ロンドン間15350キロを飛びぬけようという壮大な計画であった。飛行機の名称を一般から公募した。国産機ということで関心が高まったところへ、飛行機の名前を公募することでいやがうえにも人気が高まった。飛行機は、三菱重工業製で低翼単葉、単発、長さ8米、最高時速500キロ、航続距離2500キロという世界最高水準の純国産機であった。名前の応募総数は3万6千通を超えた。この中から東久邇宮稔彦王によってえらばれたのが「神風」、いい名前であった。飛行士は朝日新聞航空部員の飯沼正明、機関士が同飯塚賢爾と決まった。二人ともイケメンで更に人気が高まった。これに乗って朝日新聞は、ロンドンまでの所要時間を懸賞募集した。国民もこれに乗り大阪朝日に301万7300通、東京朝日に172万5800通計474万3000通とい驚くばかりの応募がった。正しく鳴り物入りのお祭り騒ぎである。結末をはしょると、4月6日早朝立川飛行場を離陸、台北、ビエンチャン、カラチ、バグダッド、アテネ、ローマ、パリを経て、9日午後3時半にロンドンのクロイドン飛行場に着陸した。所要時間は、94時間17分56秒で、これを秒までピタリ当てた人が、なんと5人もいたという。イギリスの航空雑誌「フライト」もこの快挙をたたえた。世界も極東の小さな島国日本の、技術力・工業力にびっくり。外電も絶賛ばかり、世界が驚いた以上に日本国民が驚いた。(当時7歳の筆者もすごい事だと思ったのを覚えている)。神風の快挙は軍部も大喜び、神風は後に陸軍の97式司令部偵察機になった、実はこの時の大飛行は、軍用機としての実地試験を兼ねたものであることが後で分かった。

映画:夫の貞操、高田稔、入江たか子

 つくづく平和だな、と思われるような事ばかり書いているが、事実この年の夏までは陽気であった。満州事変のあった昭和6年から12年までの経済成長率は平均7%で世界最高であったし、昭和12年の成長率は何と23.7%であった。戦後の高度成長期でも最高が14%であったことを思うと驚きである。川端康成の雪国の中で、芸者の駒子の述懐が書かれている。「月に100円稼げばいいのさ、先月一番少ない人で300本の60円だってさ、私は座敷数が90いくつで一番多いの。一座敷で1本が自分の取り分になるので、主人には悪いがドンドン座敷を回るのよ」。

(*筆者註: 1本とは線香代のことで酒宴に侍る時間を時計代わりに線香1本の燃える間を1単位にする。芸者の稼ぎ高の基準)。

 公務員の初任給が75円の時代に雪国の温泉芸者が100円も稼ぐとは、当時の景気の良さがわかるというものである。こうして、盧溝橋までは天下泰平であった。

(*筆者註:参考にさせて頂いている本の著者半藤一利さんの生まれは向島で典型的庶民の町、そこの光景が書かれているので紹介する)。
 『街の家並は、豆腐屋、イカケ屋、下駄屋、自転車屋、大工、酒屋、ミルクホール、左官屋、米屋、魚屋、八百屋・・・朝いちばん早く聞こえてくるのは「なっとうウ なっとうに味噌豆エー」、つづいて「アサリー、シジミー」そして「豆腐ー とうふー」昼間になると「はさみ包丁ッ カミソリ磨ぎイー」「さお竹やー」「朝顔の苗エー」「玄米パーンの、ホヤホヤー」他にも、虫売り、風鈴売り、下駄の歯入れや、金魚屋、物干し竿売り、定斎屋(箪笥修理)、千金丹売り、季節によって色々な物売りが去来した』。 

国防婦人会の慰問袋作り

 しかし、泰平をむさぼっていた大衆の世情の裏側では、何かが、ひそかに進行していた。4月5日には防空法が制定された、これにより東京など大都市で防空演習が定期的に行われることになる。それにともない、女性の和服は活動に不便だとモンペの着用が叫ばれるようになった。5月には「国体の本義」という著者不明の本が文部省から売り出された。天皇は神様であると言う事が書いてある。6月には「卑俗な歌の発禁」命令がでた。何が卑俗なのかレコード会社は頭を抱えた。6月4日、こうした大衆の嫌がる動きをしてきた陸軍推薦の林銑十郎内閣が倒れ、民草の期待を集めた近衛文麿内閣が登場した。青年宰相の唱える革新によって軍部の政治介入が排除され、戦争のない前途の希望に胸を膨らませたのである。しかし、穏やかで平和な国への夢は余りにもはかなかった。組閣後わずか33日目の7月7日、七夕の夜、日支両軍が北京郊外の盧溝橋付近で衝突した。これから8年も続き日本を破滅に追い込んだ日中戦争(当時は支那事変もしくは日支事変と言った)が始まってしまった。(*事変の話は、本稿にはそぐわないので割愛する)。

 とにかく日本が勝手に起こした戦争なのに、事変と言ったり、暴支膺懲を声高に叫んだり、国民は熱狂した。ウクライナ戦争もそうであるように、戦争は一度おこすと止めるのが難しい。新聞も、イケイケドンドンで国民に指導的になり士気を鼓舞する。軍部の要望にのって慰問袋を送ることを奨励した。中に入れる推奨品目まで書いていた。戦争を知らないひとが大多数になった現代、推奨品を書いてみよう。『慰問文、慰問絵、手芸品、名詞、絵葉書、優美な写真、自分の写真、娯楽雑誌、缶詰類、菓子類(缶入り氷砂糖、角砂糖、キャラメル、ドロップなど)、缶入り味付け海苔、塩豆類、ハンカチ、タオル、ふんどし、奉公袋、便箋・封筒、チリ紙、ゴム消し付き鉛筆、色鉛筆、手帳、懐中ナイフ、缶入り清涼口中薬などなど』。戦争になって世の中の空気はがらりと変わった。若者たちに召集令状が来て、次々の出征していく。もう昭和10年頃までの平和な国ではなくなってしまった。11月20日、宮中に大本営が設置された。昭和史の年表には必ずこのことが書かれている。半藤さんの記録では、国民を欺いた「大本営発表」は全部で846回だと言う。始めのころは体中の血を掻き立てる「軍艦マーチ」で始まったが、その後は「海ゆかば」に変わってきたと言う。確かに、大嘘の大本営発表は勇ましかった、そのため戦後には嘘の話を大本営発表と揶揄することもあった。
 かくして完全に戦時国家になったのだ。そのため、昭和15年に行われる事になっていた、第12回オリンピックは返上の憂き目になった。この東京招致は前年のベルリンでの国際委員会(IOC)で決められていたもので、昭和6年の東京市議会で招致を決定して以来、営々たる努力を重ねた宿願だったのである。これがあっさり捨てられる運命になった。不幸の原因の一つに世界平和運動としてオリンピックを推進してきた、近代五輪の創設者クーベルタン男爵の死去(9月2日)がった。しかしそんなことより、日本陸軍から平和運動というものに反対の声が澎湃と起こり、これがいつしか世論となっていったことが大きい。

南京を占領した陸軍部隊

 さらに国民を熱狂させたのは、12月14日の各新聞朝刊である。「わが南京城攻撃軍は、本13日夕刻、南京城を完全に占領せり、江南の空澄み、日章旗城頭高く夕陽に映へ、皇軍の偉容紫金山を圧せり」(報知新聞)とあった。戦後問題になった南京虐殺事件は攻略作が侵攻する途中で行われたと言われる。中支方面軍最高司令官の松井石根大将はその責任をとわれて、東京裁判で絞首刑になったが、自身がこの事件を知ったのは戦後になってからだと言われている。総指揮官が知らなかったことを国民が知るすべもない。この祝いは盛大に行われた、昼は旗行列、夜は提灯行列と一日中お祭り騒ぎ、東京中が火の海となり万歳万歳の大合唱になった。
(*筆者註:私も近くの氷川神社まで騒ぎながら歩いたのをよく覚えている、このほかにも、武漢三鎮陥落などにも大騒ぎをした)。

 この頃の世相は、昨日も勝った今日も勝った、と浮かれていた。この時代の世相は、反省や落ち着きを取り戻すなど、全く考えられない状態で、結局いきつくところまでいかなくてはならなくなっていたのだ。その一因に、中国人の反日排日の様々な暴行や殺人が、日本の新聞にやたらと報じられていたこともある。昭和11年だけにかぎってみても・・・・

1月 5日、 朝陽門事件=北京朝陽門内で鈴木大尉以下7名に対し不法射撃。
5月29日、 輸送列車爆破事件=天津東駅にて貨車爆発、軍馬3頭負傷。
8月24日、 成都事件=日本の新聞記者4名が大川飯店で虐殺される、2名重傷。
9月 3日、 北海事件=薬種商中野順三が理由もなく虐殺される。
9月18日、 漢口事件=吉田巡査が暴徒に射殺される。

などなど。

 これらは、新聞によって大袈裟に報道された。陸軍は「断じて許すことは出来ない」とその度に怒り、「国民よ、これぞ帝国の危機である」と吠えた。新聞とラジオしかない時代の国民が、心の底から本当に国家的危機と感じたとしても、これを責めることはできない。

つづく (2023.4.8 記)

写真出典: 一億人の昭和史①② 1975.7.1 毎日新聞社
  流行歌と映画でみる昭和時代Ⅱ1986.2.5 国書刊行会。

 

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新 四 季 雑 感(13)

(1995年8月15日の

村山首相談話のこと)

 

樫村 慶一 

草木1本もない曠野を行く装甲列車

 あっちを向いてもこちを向いても、キナ臭い匂いが充満している地球だが、漸くちっぽけだけど、雪解けのささやかな音がかすかに聞こえてきた。日本と韓国の仲直りの気配である。そこで、真っ先に思い出すのが、過去に何かある度に何回も言われたり、聞かされてきた、1995年に発表された、いわゆる村山富市首相の談話である。首相談話の他にも天皇のお言葉というのがある。私は、過去の記録や資料を保存しておくのが趣味の一つである。当日(1995年 (平成7年)8月15日火曜日)の新聞(朝日新聞)も保存してある。それを下記に添付したのでどうぞお読み頂きたい。

 この内容はその後、故安部元首相も同じような趣旨の発言をした。今、岸田首相は、「現政府もそれらを踏襲していく」、なんて、持って回った言い方をしている。何回目になろうと、同じ意志を持ているなら、すんなり、改めて言い直してもいいではないと思うのだが、面子にこだわるのか、それとも、これが外交と言うものなのか知らないが、なぜ素直になれないのかが理解できない。

 私は、最近、人と話をしていて、時々聞くことがある。「今、後期高齢者の限界を超えた、78歳の人までは全く戦争を知らない人間ばかりだ。今外敵が本土に入ってきた時に、お国のために死ね、といわれたら死ねるだろうか?」と。皆さんはどう思われるだろうか。

万里の長城を占拠した日本軍

 私のように敗戦時15歳の半大人だった人間には、それまでの、天皇陛下は神様で、すべてが軍事優先の教育を受けており、”男は天皇陛下のために戦争で死ぬんだ”、と思いこまされていた当時の精神状態を思い出すことできるけど、平和ボケどころか、戦争ってよその国でやるものと思いこんでいるような現代の青荘年は、はたして敵に向かって鉄砲を撃てるのだろうか。自衛隊の若者には、どこまでの覚悟ができているのか、はなはだ心もとない気がしてならないのだ。

 ウクライナで、家族を同じ国内において、自分だけ前線に立つ兵士達の心境は、昔の日本の兵隊と同じような心境なんだろう。戦時中は、実際に死ぬ間際に「天皇陛下万歳と叫んで倒れた。あっぱれな最後だった」という話を聞かされたが、実際は、奥さんや子供の名前を呼んだ、という話を聞いたものである。世界でも珍しい長期平和が続く日本でも、男なら「国を守るためなら逃げる、だけど、妻や子供を守るためなら死ねる」、という気持ちにはなれるだろうな、と妻が元気な頃は感じたことがあったのを思い出している。中国本土と台湾の争いはいわば内戦だ。それなのに第三国の日本の、米軍基地のある各地にミサイルが飛んでくるような、帳尻の会わない愚挙だけは、絶対に避けてもらいたい。 

おわり

(2023.3.10  昔陸軍記念日、東京大空襲犠牲者追悼の日、そして三陸大地震追憶の前日 記)

 

「写真出典:1億人の昭和史(1)1975.5毎日新聞社」

 

 

 

 


 

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新 四 季 雑 感 (11) (12)

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新 四 季 雑 感(11)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その6)

2.26事件のあった

昭和11年

 

 

横綱 玉錦

 世の中なべてこともなし。昭和11年(1936)が明けた1月5日、例年の如く読売新聞社主催の箱根駅駅伝(第17回)行われ、日大が2年連続の2回目の優勝を飾った。10日からは、両国国技館で大相撲初場所の初日が幕開けした、連日満員御礼で20日千秋楽、横綱玉錦が全勝優勝した。
 警視庁は牛車、荷車、リヤカーの時代からすでに「自動車の時代」へと東京も変化していると気づき、緊急の場合の119番を設定することを決定した。それまでは交通事故による死亡とか重症などは考えられないことであったからである。この前年頃から東京府の年間交通事故は約2万件、うち死者は約4千人に達していた。そこで消防部に救急車6台を配置、救急病院173を指定、緊急呼び出し電話を119番とすることにした。
 2月26日の反乱事件のちょっと前の平和な出来事を挙げてみると、特記すべきは、2月9日のプロ野球公式戦の初記録がある。名古屋市郊外の鳴海球場で行われた。

 名古屋金鯱軍   計10点 
 東京巨人軍      計 3点  
日本初めてのプロ野球の結果の報道
(ウイキペディア)

 

 記録によると金鯱軍の左腕投手内藤幸三の剛速球と鋭いドロップが冴えにさえて、巨人軍は散発8安打、一方金鯱軍は青芝憲一、沢村栄治、畑福俊英の3投手に集中打を浴せ、安打7本だけどすべてが有効打となり圧勝した。本邦初のプロ野球公式戦第一線のスコアである。因みに、翌日の第2戦は8対3、11日の決勝戦は4対2 といずれも巨人軍が勝った。すでにラジオの実況も始まっていた。

 20日に行われた、第19回衆議院議員総選挙で、予想を裏切り社会大衆党から出た、合法左翼の加藤勘十が全国最高点で当選した。それだけではなく、吹けば飛ぶよな存在であったこの党から18名の当選者が出た。反対に保守大物で、”腕の喜三郎”と言われた鈴木喜三郎が落選という、大番狂わせがあった。世の中なんとなく「革新」に期待をかけている機運が表れてきたことがわかる。
 (筆者註:ここで言う革新とは、昭和9年に、軍事啓蒙のために陸軍パンフレットなるものが国民に掲示され、その中で、池田純久元中将が、岸信介、和田博雄、などの革新に熱意のある官僚と手を組み、新国家建設の構想を革新的構想と称し、広く国民に訴えていく様になり、国民の中にも共鳴するものが次第に増えて行った、ということ。)

 それにしても、この年は東京によく雪が降った、2月4日に東京は49年ぶりの大吹雪に襲われた。省線電車は2、3時間おきに徐雪していたが、午後10時過ぎには完全運休、市内電車もバスもタクシーも夕方頃には雪の中に釘付けになる。「銀座も暗黒化し劇場、映画館は閉鎖となってもお客は去らず、結局歌舞伎座へ300人、日比谷映画劇場に、東宝、日劇、有楽座などの従業員とお客1200人が収容され、炊き出しの握り飯で腹を満たした」と2月5日付けの東京朝日新聞が報じている。更にこの後も、7日8日と雪は続いた。中旬にも雪模様の日が続き、25日も降った、
この日、銀世界の吹上御苑で天皇は久しぶりのスキーに打ち興じた。

 そして26日は、前夜からの大雪で、東京は何回目かの一面の銀世界となった、その雪を踏んで完全武装の陸軍部隊約1400人が、都心占拠、重臣暗殺による反乱を起こした、いわゆる、2.26事件である。 『2,26事件については、別編にてB面話(いわゆる裏話)だけを紹介するので、そちらをお読み頂きたい。』

 自然界は地上の出来事に関係なく四季が廻る。3月になった。東大法学部教授の南原繁が春の歌をいくつも詠じている。
 * 音立てて ストーブの湯はたぎちおり 3月の陽は斜の射せり
 * 朝の光 さし来て庭の椎の木の 雪すべり落つ木 木の葉さやげり 

 事件の後、軍部は”反乱”という恐怖をテコにして、その後、政、財、官、言論の各界を陰に陽に脅迫しつつ、軍事国家への道を強引に押し開いていった。3月9日、広田弘毅の新内閣が成立し、首相が人心一新の声明を発した。寒気はゆるんだがまだ戒厳令は解除されない。4月19日、外務省が突然、思いがけもしないことを発表した。証書、公文書などでは、これまで日本国、大日本国、日本帝国、大日本帝国などまちまちに呼称されてきたが、本日3月18日より「外交文書には大日本帝国で統一し実施する」。また皇帝と天皇とが混用されてきたが、「大日本帝国天皇」に統一する、と突如として知らしめた。国際連盟を脱退して以来世界の孤児となったが、今後は威厳と権威にみちた重々しい国名で列強との交渉にあたると言う決意を内外に示したのである。 
さらに、5月18日、軍部大臣現役武官制(現役将軍ではないと入閣できない制度)を復活させ、8月7日には、陸海軍が協議して、これからの日本の在り方を決定づける国策の基準を策定した。すなはち「南方海域にも進出する南北併進」である。

外地へ出発する兵隊達を載せた列車

 国民の生活にはなにも変化は感じなかったが、時代の空気という大きな枠で捕らえてみると、この年を境にしてそれ以前とそれ以後とでは、同じ昭和とは思えないほどの変質と変貌を遂げて行ったとみることができる。例えば海軍は、ワシントン軍縮条約をすでに脱退し、更にこの年の1月にはロンドン軍縮条約からも脱退し、世界列強を相手にした苛烈な建艦競争に身を投じていった。大正11年(1922)以来続けてきた「建艦すれど戦わず」の海軍思想はかなぐり捨てられ、仮想敵国でしかなかったアメリカが,真正敵国になり大平洋の向こうから巨大な姿を現し始めてきた。そのためには、パナマ運河が通れないような巨大戦艦を複数建造しなければならないと、大和、武蔵の設計が着々と進められていった。先の国名表記の問題あたりから鬱陶しい時代が到来したと言える証拠に、この年のメーデーは禁止、渡辺 はま子の流行歌「忘れちゃいやよ」が官能的であると発売停止、言論の取り締まりが厳しくなってきた。この間には、反乱をおこした第一連隊、第三連隊は次々に満州に送られていった。そんな、暗いムードを打ち破るかのような、思いもかけぬ事件が起きた。

 5月18日、荒川区尾久の待合「まさき」で40歳位の男が、布団のなかで首を絞められ、急所が切り取られて死んでいたのだ。左太ももには血文字で、「定吉二人」と書かれていた。有名な阿部お定事件である。今ではもう知らない人の方が多いかもしれない。もう87年昔のことだから。この事件が社会的になったのは、殺人行為そのものではなく、その直後からのマスコミの狂奔ぶりにある。戦後すぐにお定本人と「オール読物」誌上で対談した坂口安吾が、その点を鋭くついている。「あれくらい大紙面を使ってデカデカと煽情的に書き立てられた事件はなかった。当時はあの事件でもなければやりきれないような、押しつぶされたファッショの走りの時代だった。お定さんもまた、そんな時代のおかげで、反動的に煽情的に騒ぎ立てられた犠牲者だったかも知っれない」。

 美人と言われた、阿部定

 全く安吾の言う通り、当時の報道のすさまじさは、例えば19日朝日新聞は社会面トップ5段抜きの大見出し、「尾久紅灯街に猟奇殺人・・・美人女中姿を消す・・・」、20日朝刊トップ4段抜き、「いずこに彷徨う? 妖婦、血文字の定・・・」という調子である。これは他紙も同じで、戒厳令下の報道制限のうっ憤を今ぞ晴らさんとするかのように、新聞はセンセーショナルに事件を報じた。この日、チャップリンとフランスの詩人、ジャン・コクトーが来日したが、二人の芸術家が束になっても、お定人気にはかなわなかった。当時の朝日新聞の政治部長、細川隆元がその当時の話を詳しく話している。「あんなけばけばしい編集をしたのは朝日新聞始まって以来のことかな。一番問題になったのは、切り取った一物さ、これをどう表現するか。局部とか急所とかにすべきという論と、直接表現は避けた方が良いという論があって大論戦になったが、慎重論が勝って”下腹部”という新語がうまれたんだ」。一方東京日日は”局所”となっていた。こちらも頭をかかえたようで、編集局内に懸賞募集が張り出され、局部と急所の間を行く言葉が採用されたと言う。事件は20日夕方、お定が高輪の旅館で逮捕されあっさり解決した。捜査課長が一物をどうしたかと聞くと、お定は帯の間からハトロン紙包をとりだして、ちらっと見せただけですぐ大事そうにしまいこんでしまったという。当時馴染みの薄かったハトロン紙がこれで一躍有名になったということである。

 戒厳令が解けぬまま夏になった。何かが歴史の裏側で進行していた。明らかなのは自由主義の排撃がいまや軍の総意となったこと、更に一般大衆にもその影響が及んでいく。多くの人が、自由主義が何たるかを知らぬまま、利己主義と同じようなことと勘違いして、声高に撃滅を叫ぶその声は、天皇万歳の斉唱と同じくらいの力を示し始めていった。そんな動きとは別に、民衆は時代の暗さを忘れたいかのように、阿部定事件を話題に乗せていった。川柳や小話が沢山作られた(筆者註、沢山あるのが、本篇では紙面の都合上掲載しない)。そんな時、また笑いの種になるような事件が起きた。「東大法学部の学生が往来で立小便をした」、との罪状で蔵前署の巡査にとがめられ1円の過料に処せられた事件である。学生は身に覚えがないと主張し裁判になった。した、しないの水掛け論になり、小便は地中に吸い込まれ証拠の痕跡は残る筈もなく、東京区裁判所は無罪の判決を下した、かくて新聞は、流石東大生なりと一斉に讃辞を載せた。報道制限の鬱屈をはらしたのである。
 そうして、2.26事件のことは大衆から忘れられようとしていたが、7月7日、こうした大衆の心に冷水を浴びせるように2.26事件の判決が出た。首謀の将校17名には死刑の判決である。執行の日は銃声を紛らわすために、隣合わせた練兵場では軽機関銃の空砲の音がひきりなしに鳴っていたと言う。この日が終わり、7月18日、ようやく戒厳令が解除になった。ここかしこに銃をもった兵士の姿が一斉に消え、東京はようやく普段の顔を取り戻した、そして、待ってたように隅田川の川開きが行われた、見物人は何と85万人と時事新報が嬉しそうに報じた。

優勝した前畑秀子

 昭和11年(1936)は明暗それぞれに大きな出来事が起きた年である。海外では第11回ベルリン・オリンピックが華やかに開かれた。開会宣言をしたヒトラーの前を各国選手団が挨拶をしながら行進する。挨拶のスタイルは、フランスが過去のオリンピック・スタイルによるものだが、これがハイル・ヒットラーに良く似ているので、ドイツ観客は大拍手。イギリスはだた単に「頭(かしら)右!」、アメリカは挨拶はおろか旗手は星条旗を下げるどころか、誇らしげに高々と掲げた。ドイツ観衆は口笛と足を踏み鳴らし、無礼なヤンキーに抗議を送った。そして我が日本選手団は戦闘帽姿で、おとなしく手を横に出し足を直角に上げてカッカッと行進した。世界の各国の間では、ナチス・ドイツをめぐって敵意と猜疑と追従と様々な思惑を秘めて冷たい戦争がもう始まっていたのだ。ベルリン・オリンピックは選手自身の名誉より国家の栄光が先に立って争われ、競技は国家の威信をかけたの戦いとなっていた。
 昭和8年の国連脱退以来、栄光ある孤立、を誇っていた日本人が、鋭敏な国際感覚と国際情勢への認識を持ち得ていたとは到底思えない、ただ、このオリンピックを通して国民的熱狂が燃え上がったことだけは確かである。全国民が日の丸が上がるかどうかに一喜一憂した。前半の陸上競技では5千米、1万米の村社(むらこそ)選手の健闘、棒高跳びの西田、大江がアメリカ選手相手に大熱戦を繰り広げ日の丸を2本挙げた活躍、三段跳びの田島直人が16米の世界記録で優勝など大活躍。後半の水上は日本が威力を発揮した。
 「特に今でも語り草になっている、女子200米平泳ぎ決勝。前畑秀子の白い帽子とドイツのゲネンゲルの赤い帽子が先頭を競った。白がややリード、しかし赤が猛然とスパート、<前畑危ない、 頑張れ前畑、がんばれ、! 頑張れ、頑張れ>河西アナウンサーが絶叫する、<あと5米、4米、あと3米、2米、アッ前畑リード、勝った 前畑勝った、勝った、勝った・・・>スポーツ放送史に輝く名実況である(註:クリックすると音声で聴けます)。1936年8月11日のことであった。

 祭りの後には戦いがくる。6月頃からくすぶり続けていた、スペインの内乱がついに火を噴き、みるみる拡大していった。フランコの率いる国家主義者(右翼)と人民戦線(左翼)が砲火を交え本格的な戦争へと発展した。ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアがフランコ側に付き、ソビエトとフランスが人民戦線側についた。アメリカとイギリスは不介入・中立の立場をとったが、明らかに人民戦線側に多大な同情を示した。その結果国際的対決の場となり、武器の性能などやがて来る第二次世界大戦の実戦訓練をスペインの国土で行い、スペイン人の血によって武器の性能を確認すると言う得難い経験を得たのである。

 一方、日本国民は、2.26事件後は軍部は謹慎しているとばかり思っていたのだ。しかし広田内閣は軍の主導により重大な国策を次々と決定していた。この頃、戒厳令が解除されて静けさが戻った東京の盛り場には、ホット・ドッグという当時としては妙な食べ物が出現して、若者や子供たちを喜ばせ、ビヤホールでは黒いビールが売り出された。昭和11年11月11日、11という数字が並ぶ日である。この日たばこのゴールデンバットが7銭から8銭に値上げとなった。それで新聞に号外が出たと言うから驚きである。一方タクシー(円タク)の値下げが話題になった。東京駅から新宿、渋谷までが70銭となって運転手は大ボヤキである。雷門まで50銭、数寄屋橋まで30銭。この年のタクシーの総台数はおよそ4千6百台なのであるが、それでも競争が激しく、東京市内1円均一(円タクの由来)の看板は壊れ、距離に応じて値下げせざるを得ない状況になった。そんなタクシーの嘆きをよそに、この年から僅かではあるが国産の黒塗りのダットサンの走る姿がみられるようになった。

国産自動車 ダットサン

 そして都市部を中心に結婚ブームが起きた。8年頃からの軍需景気がつづいて失業者は減り、青白きインテリなどといわれた大学卒業者は、皆大手を振っていい職業につくようになり、娘達のあこがれの的になってきた。そのうえ新婚生活の甘い歌が大いに売れた。
 「空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は・・・」、「髪は文金高島田 皆さんのぞいちゃいやだわよ・・・」、「何か言おうと思っても・・・女房にゃ何だかいえませぬ・・・」などなど。民草は生活にかなりの余裕を感じ始め、国運は前途隆々たるものがあると思っていたのである。東北地方の貧農の娘の身売り話は全くなくなったと言えた。昭和11年10月から翌年4月にかけて、東京日日、大阪毎日新聞に連載された吉屋信子の代表作「良人(おっと)の貞操」が爆発的人気になった。未亡人と妻ある男との道ならぬ恋の物語である。
 ちょうど同じ頃、朝日新聞が、国産飛行機「神風号」による初の渡欧飛行計画を発表し、連日これがいかに壮挙であるかを紙面であをった。この話も人気になり2紙は天下を2分した。小説は連載中から映画化・劇化の話が持ち上がり、浅草の喜劇・大衆劇まで即席の「良人の貞操」一色となる。こうなると、まだ飛んでいない神風より話題は貞操に引っ張られ、翌年まで貞操ブームは続いた。この恋愛小説には時局性は全くなく軍の反乱も南北併進も全く無縁である。2,26事件後の重苦しい息苦しさを忘れるためにも大ヒットしたということである。戦争などと言う物騒なことは夢にも思っていない大衆は、ひたすら不倫小説に惑溺した。大衆の感覚はまだ健全であったということでもある。この年のクリスマスは盛大にやろうと言う空気が高まり、東京や大阪のホテルやダンスホールは、年に一度の書き入れ時と大宣伝を始めた。

 陰に陽に、明るい事も暗いニュースも色々あったこの年の、最後に政府が行った重要施策が「日独防共協定」である。11月25日、陸軍の革新派と外務省の親ナチス・反英米的革新グループの主導のままに締結する。このことを聞いた元老西園寺公望は「結局ヒトラーに利用されるだけで何も得るところはない」と嘆いたと言う。
 更に、隣国支那では蒋介石が部下の張学良によって軟禁された。共産党の周恩来が仲介に入り、日本の支那侵略に対し抗日共同戦線を樹立しようと呼びかけたところ、蒋介石はこれを受諾して無事解放された。これによって「国共合作」が成立した。しかし当時の日本政府はこの事実をあまり重大視していなかった。蒋介石と毛沢東が手を結ぶなんてことがあり得るはずはない、と信じて対支強硬策を取り続けていたのである。

(つづく)

 

【写真: 懐かしの昭和時代、(株)ベストセラーズ1972.1.20/ 流行歌と映画で見る昭和時代Ⅱ、(株)国書図書刊行会1986.2.10/ 青春プロマイド70年、(株)主婦の友社1988,8.6 】

 


 

 

新 四 季 雑 感(12)

樫村 慶一 

2.26事件

 B面話

(特集)

* 半藤一利さん著の

昭和史B面を

主に他の資料を

加えてまとめた *

 

 

 大雪の昭和11年2月26日、兵を率いるのは陸軍大尉、野中四郎、安藤輝三以下の青年将校22名。そして、内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎、大蔵大臣高橋是清が死亡、侍従長鈴木貫太郎は重傷、総理大臣岡田啓介は義弟松尾伝蔵大佐の身代わりの死で奇跡的に命拾いをした。この大事件に際して内閣は無力、陸軍首脳はなすすべもなく右往左往した。ただ一人、反乱軍として討伐を決意したのは昭和天皇である。昭和天皇実録が記載している天皇の言葉と態度は毅然としていた。「自らが最も信頼する老臣を殺傷するとは真綿にて我が首を絞めるに等しき行為である」と。この天皇の怒りとゆるがぬ意志の基に事件は4日間で終わった。しかし実際には本当は終わっていなかったと言う人もいる。

赤坂山王ホテルに集結した反乱軍

 この事件に関して、全く事前に情報をつかんでいたものが一般大衆の中にいなかったのか、となると、あながちそうとばかりは言えないようである。麻布の歩兵第三連隊(反乱軍の主力になった部隊)が10日ごろ首相官邸や警視庁付近で夜間訓練をやっていたとか、20日過ぎに、一部の青年将校が朝日新聞社に見学と称して訪れ、屋上から写真撮影をしていたとか、その他、外部の忠告やらで朝日新聞の編集局長美土路昌一は、ある種の予感を抱いていたと言っている。また一匹狼の津田という男が、ある日新聞社にやってきて、「何か軍の方で大きな計画をしているようだ、西田税(みつぎ)や北一輝が軍の提供したキャデラックで飛びまわっている、計画の中には朝日の襲撃も入っているようだから気をつけなさい」と言ったとか。美土路は主筆の緒方竹虎に話したが、緒方は一笑に付したと言われている。
 この事件については、読むのに難儀を極めるほどたくさんの資料がある。さりとて、B面だけで事件の4日間を書くことはむずかしい。主な話だけを紹介することにする。一般の人はその日、いつもの通り勤めに出た、街にはタクシーも走っていた。

 噂の一つに、秩父宮が軍隊を率いて応援に来るというのがあり、こうなると内乱である。あわてて東京から脱出した人々もいた。哲学者三木清は新橋駅から早々に三重県に旅立ったとか、随筆家高田保は夫人に「貴方は厄年だから危険だから」と言われ熱海に避難したとか、王子製紙の藤原銀次郎は市内を自動車で乗り回し、本社には時々電話を入れて情報を確認したとか、三井総本家の池田成彬は一日中雲隠れしたとか、他にも本宅を気にせず妾宅にしけこむ政財界人も多かったとか。
 一番大袈裟なのは、静岡県興津の坐漁荘に隠棲していた元老西園寺公望で、木戸幸一からの電話で緊急避難を強く要望されたので、側近が早速辺鄙な地へ移る準備をしたが、西園寺は、「通信や交通不便な所へ行って、もし畏き当たりより御用があった時はどうするのか」ということで、清水水上署の警備船を屋敷の裏海岸へ待機させた、という話もある。
 こうした中で、秩父宮が天皇に代わる、というのが一番重大な話であった。つまり反乱軍の黒幕は秩父の宮だと言うことだった。完全なデマだったのだが。しかし、こうしたデマは、夕方ちかくには、何となく落ち着いてきた。東京の夜が寂然として夜が更けて行った時、皇居の堀端だけがやたらににぎわっていた。奇怪ともいえるこの現象を、2月27日の東京日日新聞の記者が書いている。「いつも銀座を漫歩している人並みが、この夜だけは日比谷のお堀端を埋めていた。丸の内のビジネスセンターは巨大なビルの谷底に眠っているのに、2.3丁もはなれぬ堀端を行く人、人、人は静かに動く。しかしこの尋常ならぬ散歩者の姿も夜が更けるにしたがって消えて行き、警備令下の帝都は深沈として静かになった」。
 そして翌27日が明けると、夜のうちに香椎浩平司令官の名において戒厳令が布告されたにも関わらず、市民生活はもう平常の活気を取り戻していた。劇場は開き、映画館は呼び込みを始めた。有楽座は水谷八重子の「母なればこそ」、新橋演舞場は松竹少女歌劇の「東京踊り」、宝塚劇場では星組の「バービー」などなど。帝劇はこの日が封切りでジュリアン・デビビエ監督の「白き処女地」が公開された。フランス映画がどんどん輸入されてくるのはこの頃からである。「地の果てを行く」、「ミモザ館」、「幽霊西へ行く」など、結局は何事も起こっていなかったという楽観に、殆どの人はとらわれていた。

 政治評論家の戸川猪佐武が赤坂の料亭「行楽」の女将福田らく、から聞き取った、笑えない回想が庶民感情を代表している。
 「あの日、中橋中尉に言われ、お酒を4樽、握り飯を沢山首相官邸に届けました。何か目出度い事でもあるのか、としか思いませんでした。7時ごろ軍曹がきて、百畳広間と食事の用意をしました。まもなく景気のいい進軍ラッパが聞こえ兵隊がきて、家の前で酒井中尉が演説しました。27日の朝、北一輝が支那服を着て颯爽と現れ、激励演説を始めましたっけ。28日、晒し木綿の白鉢巻、白たすきが全員に配られ、冷や酒の乾杯、首相官邸や陸相官邸から握り飯の催促がどんどんありました。29日、まだ夜の明けない3時ころ、うちの不寝番が「大変です、ヒトッ子一人いませんよ」と駆け込んできました。お隣の山王ホテルに集結したのです、庭のお地蔵さんの前に遺書がありました」。
 「後の話になりますが、困ったのはお勘定です。5千円弱なんですが、麻布の歩兵3連隊に行くと、頭ごなしにどなられました。近衛3連隊でも相手にしてくれません、二つ月ほどたって、赤坂の憲兵隊から呼び出しがあったので、喜びいさんて行くと”何と思ってあちこちに請求書を持ち歩くのか、逆賊に味方したのだから、本来なら手が後ろにまわるところだぞ”と叱られました」。 
 女将は、いわば大スペクタクルの見物人としての気持ちで対処していたのであって、市民もまた見物人に徹した。29日、皇軍が相打ちの危険を含んだが、天皇の強い意志の元に決起部隊の原隊復帰をもってあっという間に終息した。

「兵に告ぐ」のビラ

 それにしても、新聞社はなかなか情報がとれなかった。朝日新聞社会部記者は戒厳司令部に詰めていて、風呂へ入ってくる将校たちの話をきいて言いネタを取ったといわれる。そのうち、「兵に告ぐ」というビラを撒くことになって、それを朝日新聞で印刷してくれということなった。ただ、そのころはまだ反乱軍が勝つか負けるか分からなかった。しかし反乱軍はやっつけにゃいかん、となりビラの印刷引き受けた、ただし朝日が刷ったことは秘密にしてもらったという。このビラは飛行機から撒いたり戦車で撒いたりしたようである。

 反乱が起きた当時は、いろいろな作り話がはやった。高橋是清が裸で寝ていた所へ襲撃した兵隊が着物を持ってきて、「高橋これ着よ(是清にひっかけ)」と言ったとか(護衛の警官が言ったという説もある)。天皇侍従が事件の報告を言上したら、天皇がヨロヨロとよろめき「朕は重心(重臣にひっかけ)を失った」とか。陰惨な空気の中でもそうゆう笑い話が流行った。
 反乱軍の首謀者は千葉県の谷津海岸の料理屋に軟禁された。憲兵が囲んでいて外出は許されない。外部と連絡をとりたいので、すぐそばに撮影所があったので、そこの人間に頼んだかすぐ憲兵に捕まってしまった。その次に出入りの”不見転(みずてん)芸者”に頼んだら、全裸にされて調べられたが分からない所へ隠して持ち出したと言う。これは厳粛な事実である。そんなこを言っているうちに、号外だ! と言う。26日の夜に内務大臣の後藤文夫が臨時首相になったのが、「首相臨時代理」に代わった、これはおかしい、岡田が生きているから臨時代理になったんじゃないかと思われた。それで新聞記者の空気はなごやかになった。宮中から退出するところを撮った写真は朝日の特ダネである。平河門のところで待機していてぶつかった。すぐ自動車を平行させ5米くらいから窓の中の岡田首相を撮った。
 殉職した警官が5人いたけど、その見舞金が一般国民から7万6千7百16円46銭。高橋是清の葬儀には縁もゆかりもない民衆が3万か4万人焼香している。国民はこういったファッショ的空気には非常に反感をもっていたことが分かる。

筆者註:半藤一利さんもおそらく知らなかったであろう秘話。 2.26事件とKDDとは思わぬ因縁があった。岡田啓介首相は女中部屋に隠れていて、義弟松尾大佐が身代わりになって難をのがれた。その後首相秘書官二人が、官邸を囲む反乱軍の目を盗み、首相を安全な場所に移す方策はないかと思案し、警護の憲兵と相談して、弔問客に化けて無事に脱出させた。首相を無事脱出させた最大の功労者である秘書の一人が、KDD創立当時の役員の一人になった。そしてその子息もまたKDDに入った。2.26事件の隠れた主役の一人がKDD創成期に活躍したことは、平成の時代まで世に知られることはなかった。この秘話はNHKで2016年2月22日に放送されたほか、KDD・OBの証言もある。

 ここまで、東京の状況ばかりを書いてきたが、地方の都市はどうだったのか、これは今まであまりふれられていない。そこで、代表的なものとして、京都日出新聞(現京都新聞)の記事を一部紹介する。「27日早朝までに市民に知らされたが、いたって平穏で、新聞号外の鈴の音もなく、官庁、銀行、会社は勿論、各学校も普通の授業を開始し、市電、市バス、円タクなどの交通機関も正常、繁華街や京都駅前などは前日にもまして活気をみせていた」。また大阪では、レコード屋が集まり、これからはは正価厳守で行こうと妙な決議をしたり、高島屋がデパート結婚式の先鞭をつけながら、ソロバンに合わないと、式場閉鎖を公表するなど、いかにも大阪人らしい。「君側の奸」だとか「昭和維新」だなどとの言葉とは全く縁もゆかりもない話題ばかりであった。

 事件はおわって暦は3月になった、騒がさしい世であっても、麗しい春はおもむろに訪れた。

(2.26事件 B面話特集 おわり)

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新 四 季 雑 感(10)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その5)

つづき 

昭和10年

 

 

 昨年(2022)の暮れ、それまで連載してきた「B面昭和史」を一度中断すると申しましたが、一部読者から継続の要望を受けましたので、有難い事と感謝し、執筆を再開いたします。原作を元にかなり圧縮しておりますが、出来るだけ話題性の高いものは漏らさないよう書いていきたいと思っています。これからもご愛読くださいますようお願いいたします。

 昭和10年、1935年は日本にとって大いなる転換点となった年であったと言えよう。昭和8年、9年と続くやや陰に籠った軍部の政治的台頭の動きがいよいよ表面化し、意図的に言論への圧迫が強まって行く、言い換えれば天皇を神格化する動きが始まった年とでも言える。

 その踏み出された第一歩が、天皇機関説問題である(註)。2月18日、貴族院議員の菊池武夫が本会議場で、東大教授の美濃部達吉の憲法学説を「これは国体を破壊する思想である」と攻撃したのが始まりである。果たしてその裏にどんな策謀が図られていたのか、今になると様々な資料で明かにされている。この問題は、思想、学問の問題であり、歴史観への問いかけであり、言論の自由の問題であった。しかし、美濃部学説を擁護し、学問思想の自由を守ろうとする動きは学会は勿論、新聞・雑誌などの言論界にも、その動きは殆ど見られなかった。強硬な精神論の前には冷静な言論など相手にされない、容易ならざる時代が到来してきたのである。もはや宗教、いや、カルトとしか言いようのない天皇神格説が主流となり、日本の正義になってきた。そして、左翼勢力は相次ぐ弾圧により壊滅寸前、日本共産党の機関紙であった赤旗は、昭和10年1月20日号をもって終刊となり、更にこの年限りでメーデーは戦後に復活するまで行われなくなった。

(註)天皇機関説とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使する、と説いたもの。(ウイキペディア)

人気女優、田中絹代

 しかし、そうは言っても、一般民衆の生活が一挙に危機的に変容したというわけではない。大正デモクラシー的気分と言うか、昭和改元以来の自由主義的な風潮がまだ残っており、昭和10年はまだまだ平穏な年であったと言うことができる。思いもかけぬ好景気の到来で生活は楽になり、民衆は享楽的になっていた。経済的にもそれは、統計をみれば一目瞭然であった。昭和4~6年の平均と昭和10年~12年の平均の生産高の発展の様子を比べると、鋼材は2.43倍、船舶は2.02倍、電力は1.75倍とどれも2倍になり工作機械の製造台数は10倍を超えていた。
 分かりやすく言えば、家庭にラジオや蓄音機がどんどん増えてきたと言うことになり、流行歌もこの年から、ぐんぐん増えだした。(筆者註:私の大好き懐メロも昭和10年、11年頃の唄が一番好きで多い、作詞家は西条八十、佐藤惣之助、作曲家は古賀政男、吉田正など)。レコード会社もこの年にはなんと呆れるほどに増えた。参考に既存の会社も含めて名前を挙げると、ビクター、コロンビア、ポリドール、キング、ニットー、パーロホン、テイチク、タイヘイ、オーゴン、ツル、アサヒ、コロナ、ミリオン、ショーチク、ゼーオー、テレビ、国鉄、エジソン、グラモフォン、フタミなどである。街には洒落た喫茶店が激増した。この年の喫茶店は1万5000軒を超え、ジャズ喫茶とかクラシック音楽喫茶なども登場した。このため、後年、戦前戦中で国民がもっとも豊になった最盛期が昭和10年だったと言われている。やさしい女給さんが応対してくれる。彼女達は、すれっからしではなく、どこか初々しい良家の子女のような服装をしている。更に雰囲気を盛り立てたのが電機蓄音機から流れる恋の流行歌、軽音楽を聴き、芸術的香気に酔ったような気分になれる。レコード会社はそんな風潮に乗った。そのような甘い調子に乗った好景気の中で、サトウハチロー作詞、古賀政男作曲の軽いメロディーの「二人は若い」がため息が出るほど大流行した。

§ あなたと呼べば、あなたと答える  山のこだまのうれしさよ
「あなた」 「なんだい」  空は青空 二人は若い §

 当時の東京人は、赤ん坊を除いて全ての老若男女が歌った。どこを歩いても耳に入る、それくらいラジオが普及しということにもなる。そして、更に、歌詞の最初の1行が若い女性達にアッピールしたのだろうと思われる。当時の日本では、夫は妻を、「お前」と呼び、妻は夫を「あなた」と言った。下町では、あんた、これが明治以来の男尊女卑の伝統的言葉使いであった。その差別を許せないと常々思っていた女性達が、この甘いムードの掛け合いに拍手を送ったのだ。

コメディ映画、うちの女房にゃ髭がある

 昭和10年10月1日に国勢調査が行われた、朝鮮、台湾を除く本土の日本人は7千万人に達しようとしていた。昭和5年から5年間にして1千万人増えたことになる。国力の増強に連れ、産児制限の掛け声をよそに増え続けたことになる。その勢いの赴く所として満州の重要性が一層注目されていく。その7千万人の平均寿命はというと、男44.8歳、女46.5歳と発表された。今と同じで、女性の方が高い。満州事変から支那の熱河作戦まで戦闘が続いて、若者の戦死者、戦病死者が出たのでもっと差がついてもおかしくないのだが、当時の女性は出産時の死亡が多かったからで、そのため「お産は女性の大役」とも言われていた。
 平穏で享楽的な社会が続く時代、東京にはネオンサインが増えすぎてきた。強烈な刺激を追う都会人、これに迎合する光の近代感覚ネオンサインは、カフェーのデコレーション、薬品、飲料水の広告など、東京はネオンの海と化してきた。そこで、いくら何でも栄耀栄華が行き過ぎるんではないかと当局が思うようになり、6月に警視庁と内務省が折衝して取り締まりに乗り出した。

銀座通りの歩道に並ぶ夜店

 これに一番反応したのが銀座である。大正時代から近来ますます繁盛している夜店が、こんなことで客足が減ったら一大事と、ライオン、タイガー、クロネコ、サロン春、アカダマなどのキャバレーと組んで、「ネオン追放許さじ」と総決起した。結果は当然なことながら、当局側が一歩も二歩も譲ることになる。「帝都唯一の美観地区である丸の内一帯はネオンのない都市美、省線有楽町ガードから駅付近は、銀座浅草に負けないほどの装飾用、広告用ネオンがジャンジャン燃えているので、これは自粛するように」ということで、銀座はお構いなしになり決着した。

 有楽町駅そばにあった日劇を小林一三の東宝が吸収したのが、この年の12月1日。今は懐かし日劇ダンシングチームが第一回公演「ジャズとダンス」でダンサーが舞台一杯に並んで、見事な脚を高々と上げたのは翌昭和11年1月である。これが豊になった民衆に歓迎された。初代支配人秦豊吉の陣頭指揮で「一人のスターではなくチームそのものがスター」というスタイルが、ブロードウエーのロケットガールの物まねとかの批評もあったが、そんなこととは関係なく、綺麗な脚が人々のハートを打ったのは間違いない。

桜祭りの宵雪の銀座
1935.3.31

 豊かになってきたと言ったが、その証拠の一つに、東京にドンドン地方から人が集まりだしてきた。東京にアパートが増えだしたのもこの年からである。この年には約2千棟のアパートが建ち、集まってきた独身サラリーマン、職業婦人、学生など約5万人が住んでいたと言う。一所帯あたりの平均月収はサラリーマンが102円69銭、労働者が93円45銭であった、公務員の初任給が75円、大工の手間賃が1日2円の時代である。月賦販売という商法が昭和5年に生まれていたが、時代にのり盛んになっていった。「昭和9年から10年にかけて中流以下の人で、これを利用していない人は極めて少ないと思われ、頭から足の先まで月賦で固めていると言うのが中流階級以下の生活ではないだろうか」、と11月8日の東京朝日新聞が報じている。時代を同じくして、ビルが高層化し始めた。たとえば、大阪御堂筋のそごうデパートが9月28日に竣工し、10月1日に地上8階、地下3階の当時としては高層ビルが華々しくオープンした。更に自動扉式のエレベーターが普及してデパートは全てこれになった。

 話は少し逆戻りするが、この年8月13日、相沢事件というのが起きた。陸軍軍務局長の永田鉄山少将が、部下の相沢三郎中佐に切り殺さた事件である。年寄りは知っていると思うけど、原因は知らないが、物騒な事件が起きたものだ。作家中山義秀の随想に、面白い事が記されている。

昭和10年頃の宝塚劇場ダンサー

 「永田は逃げようとして隣の部屋に通じるドアを一生懸命押したが相沢に追いつかれ刺殺されてしまった、このドアは引っ張ればよかったんだ。永田を殺した後、 相沢は外へ出てきて、帽子を忘れたと言ったら、参謀本部の下士官が、わざわざ取りに行って、恭しく差し出したのである。死体はどうしたんだろうか」。 
 この事件から10日ほどたった8月23日から、吉川英治の「宮本武蔵」の連載小説が朝日新聞紙上で始まった。民衆の関心はたちまち武蔵の方へ向いてしまった。

 民衆の繁栄の裏で、軍縮で小さくなっていた軍部、それに通じる官僚、経済界や右翼が、いつしか「革新」を提唱する勢力になっていった。そして対外的には強硬派であり国粋主義的だった。こうして社会の裏側で起こっている、恐ろしい変化に民衆の多くは気がついていない。こうした動きが飽和しきった時に表面化するのである。その一つが、先に述べた美濃部達吉の天皇機関説である。自分の憲法学説をめぐって美濃部は議会で糾弾され、それに反論すると同時に、検察庁に出頭して取り調べに応じた。美濃部は「私が学説を変えるなどということは絶対にあり得ない」といった。その結果、政府は閣議で、美濃部の3つの著作を出版法違反で発売禁止とした。更に機関説に反対する「国体擁護連合会」が騒ぎ出すなど、民衆の栄華の裏ではきな臭い動きが起こり初めていたのである。この年あたりから、家庭でも天皇皇后の写真を飾る家が増えて行った。

 ともあれ、これからの危機を予知するすべもなく、多くの民衆は社会の裏の変化に無関心のまま、ただ時の勢いに流され始め、昭和10年は終わったのである。

(つづく2023.1.13記)

【写真: 懐かしの昭和時代、(株)ベストセラーズ1972.1.20/ 流行歌と映画で見る昭和時代Ⅱ、(株)国書図書刊行会1986.2.10/ 青春プロマイド70年、(株)主婦の友社1988,8.6 】

 


 

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新 四 季 雑 感(9)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その4)

つづき 

昭和8~9年

 

 

 昭和8年の元旦、満州と中国の国境にある山海関付近で日中両軍が武力衝突した。前年10月にリットン調査団の正式報告が発表されて以来、混迷を続けている日本外交をあざ笑うような軍事的一大事である。国内には関東軍をバックアップするように、うるさい国際連盟など早く脱せよとの世論が日を追って高まっていた。しかし国民の多くは、我関せずとして対岸の火事視していたが、国民が意識しないうちに「破局の時代」の幕が明け始めていたのである。
 A面的には昭和8年とはそんな風に始まった年であるが、B面的には、前年暮れから全国に流行した小唄勝太郎の<ハアー島で育てば娘十八恋心・・・>と、音痴にでも歌える「島のむすめ」が流行した。ところが、まさかこの流行歌が伊豆大島へ誘ったわけでもあるまいが、突然のように伊豆大島噴火口が投身自殺の名所になったのである。そのきっかけとなった奇妙な事件が人々を驚かせた。年が明けたばかりの1月9日、三原山の頂上に立つ二人の女学生がいた。実践女学校の真許三枝子と富田昌子である。病弱な三枝子は世をはかなんで火口に見を投じた。死を見送った昌子は沈黙をまもった。1か月ほどたって同じ学校の松本喜代子がやはりおなじ三原山で自殺、またしても富田昌子が立ち会った。これが公に知れ渡った時、新聞は「学友の投身を二度も道案内、奇怪!三原山に死を誘う女」などと書き立てた。自殺案内人とか変質者とかのレッテルを張られた昌子は、ひどいノイローゼになり間もなく死んだ(病気とも自殺とも言われた)。三原山の自殺は前年は9名、未遂30名だったのが、これ以後増え、この年1年間で男804名女140名と恐ろしい数になった。社会不安、陰鬱な社会状況、それらが多くの人々を三原山へ招いたのか、大島警察署は妙なブームに襲われ、警視庁に応援を求めなくてはならなかったと言う。
 確かに8年が明けた頃は、なんとなく社会は暗くなっていたのだ。満州国建設は日本の植民地化にすぎないと国際連盟で各国から非難され、承認することはできない、と突っぱねられた。こうなっては穏健な斎藤実内閣も危険な道とは承知していても、連盟脱退を決めざるをえなくなり、2月24日、松岡洋右が大見えを切って脱退を宣言し、天皇の詔勅が発布された。日本は「栄光ある孤立」の道を選んだのである。軍国主義化は軍部だけの問題ではなく、大塚金之助、河上肇と言った経済学者の検挙、更には小林多喜二の拷問死等は政府の社会主義弾圧政策に深くかかわっていたのである。小林多喜二の逮捕は連盟脱退の数日前の2月20日、そしてその日に虐殺された。享年29。築地署の発表は心臓麻痺だったが、遺体は、胸や両股が紫色ににじんでおり、苦痛のあとが痛々しかったという。三つの病院から解剖をこばまれた。
 しかし、一般大衆の生活は、正直なところそんなに切羽詰まったような状態ではなかった。まだまだ平和を楽しんでいた。4月17日の読売新聞は桜の咲いた頃の東京の様子を次のように伝えている。 「サクラ咲く今日こそ市民のお花見休日、市内外の桜名所に繰り出す花見客は無慮2百万、潮干狩り、ピクニックから一泊泊まりの温泉客まで新記録で大東京の屋根の下は空っぽの状態である。飛鳥山は全山を埋める人の数4万人、これ以上増えたら身動きできないと悲鳴があがった。上野公園、博覧会に10万人、動物園2万人、家族ずれが多く和やかな気分が溢れていた」。
 たしかに時代の流れそのものに、不安と緊張があったのは間違いないが、まさしく嵐の前の束の間の平穏が、景気が上向きになりだした昭和8年ごろだったのである。この年の4月1日から教科書が改訂された。「サイタサイタ、サクラガサイタ」で始まる昭和1桁世代の教科書である。この頃の高学年の教科は、修身、算術、国史、地理、図画、唱歌、体操、手工、操行、女子にはこれに裁縫が加えられた。国語は、読み方、綴方、書方、算術は筆算、算盤に分かれていた。そして成績は甲・乙・丙・丁で示され、全甲は優等生と言われた。子供たちは通信簿をもらうとコソコソと教室の隅で隠語で喋り見せ合った。甲はシャミセン、乙はオシドリ、丙はヘイタイ、丁はオタマジャクシと言った。教育は軍国主義化の始まりで、忠君愛国の精神が徹底して教え込まれた。さらに、これまでの教科書に比べカラーふんだんにつかわれるようになった、菊池寛が「色刷りになったのは喜ばしい、これまでは一番高くて一番汚くて、一番つまらない本であったのに」と朝日新聞に書いている。
 前にも書いたが、昭和8年は、非常時日本という言葉が流行語になり、世情の変化に一抹の不安感を隠し切れなかったにも関わらず、庶民の生活は平穏だったのである。世界広しといえども少女歌劇は日本にしかない。その松竹歌劇団のうら若き踊り子百数十人が、首切り反対、衛生設備の完備など28項目の改善要求をかかげストライキに突入した。新聞は桃色ストと銘打って華々しく報道した。輝ける闘争委員長はターキーこと水の江滝子19歳、男装の麗人といわれ時代の先端を行く女性と言われ、非常時日本などどこ吹く風とストライキ人気はうなぎ登りであった。大阪松竹のレビューガールもこれに呼応してストライキに入り高野山に立て籠る。東京では松竹の切り崩しを受け数人が脱落するが、ターキーらの結束は固く129人は湯河原温泉に立てこもった。フアンも応援するようになり、会社側は譲歩せざるを得なかった。結末は会社側が白旗をかかげ、東西とも踊り子たちの全面的勝利に終わった。非常時をとなえる軍部にとっては、少女歌劇のストとはけしからんということから、非常時意識を徹底させなければならないと、8月9日、初めて防空演習を行うことになった。

東京音頭を踊る

 そしてその夏、日比谷公園内のレストラン松本楼の主人が朝風呂の中で、田舎で盛んな盆踊りが東京でもできないかと思いついた。早速西条八十に相談し、出来上がったのが”ハッ 踊り踊るなら丸うなって踊れ、ヨイヨイ・・・の丸の内音頭である。所がこれに目を付けたのが抜け目のないレコード会社ビクターで、もっと大々的にな、東京中を巻き込む発展的な改作はできないものかとなって、ここに出来上がったのが有名な「東京音頭」である。この夏に突如として爆発的な大流行をした。「とにかく日本中の神社や寺の境内、公園、空き地という空き地で、陽が傾く頃から深夜に至るまで、ドドンガドンドンと太鼓が響き、人並みが大きな輪をいくつも作り、狂ったように手足を動かしていた。交通整理の警官の手がいつの間にか踊りの振りになっていたほどであった」。と作家安岡正太郎が「僕の昭和史」で往時を回想している。
 この年のB面話の特報となると、映画のキングコングが東京で封切られたことである。初めての日本人は仰天した。天地にとどろく咆哮とともに巨大なゴリラがニューヨークに現れ、美女を抱いて摩天楼によじ登り、複葉の飛行機を相手に戦うが最後は撃ち落される。皆はこれに同情したが、両手で胸をぽかぽかと叩いてウオーと叫ぶ真似が流行した。そして、これは昭和史にうずもれた話であるが、この年の11月22日、古典「源氏物語」の上演が新宿の新歌舞伎座初日を目前に、警視庁から待ったを掛けられた。殆どの国民には縁のない話ではあるが、当局の厳重な取り締まりが始まっていたのである。当局からみれば、「光源氏を中心とした人達の姦通、浮気など非常時日本にふさわしからぬ恋愛物語であり、風紀上大いに害がある」と言うことであった。観客の強い抗議があったが、当局は非常時には古典文化などはどうでもよいとはねつけた。凡そ昭和8年とは、そんな年であったが、その掉尾を飾るのが12月23日の皇太子(平成天皇、上皇)の誕生である。天皇が「確かに男の子か」と念を押した。謹厳そのものの侍従長は大声で答えた。「ハッ 確かに男子のおしるしを拝しました」、天皇はにっこり笑った、という。そして東京市民は大喜びし、宮城前広場には旗行列の人並みで埋めつくされた。

 昭和9年、世界の注目を集めていた満州国は、この年3月1日、執政溥儀が皇帝に即位し、元号を康徳と改めて世界に名乗りでた。しかし新国家として国際的に認めたのは僅かな国だけだった。国際連盟の主要列強はすべてソッポを向いた。日本帝国は一層孤立を深めたが、とにもかくにもこの新国家を育成していかなければならない。これを作り上げた陸軍省、外務省、拓務省などが主導権を巡って暗闘を繰り広げたが結局陸軍省が強引な政治力を発揮して勝ち、対満州事務局が新たに設置され、林銑十郎陸軍大臣が総裁になる。これにより陸軍の、満州独占の支配体制が確立した。これによりこの年から陸軍の、「そこのけ、そこのけ」と軍国への堂々たる闊歩が始まったのである。結果として満州事変は収まり上海事変、更に熱河作戦と続いた戦火も収まり、昭和9年は国民にとって誠に穏やかと見える年であった。駐日米国大使ジョセフ・C・グルーがその日記「滞日十年」に書いたように、嵐の前の平穏そのものであった。日本の支配層の中にも、新しい軍事的冒険に出るよりも、すでに獲得した権益を確固たるものにする方が大事、との空気が生まれてきた。  そうした風潮のなか、関西の卓越した興行主小林一三と天才的演出家の白井鉄造という人が世界でも稀なレビューを東京に持ち込んできた。元旦の東京宝塚劇場の開場である。こけら落としが葦原邦子主演の「花詩集」で、元日の招待客は黒紋付の羽織袴だったと言う。この劇場の華やかさが物語るように、昭和恐慌も収まって日本の景気は右肩上がりになり始めていた。

 
小唄勝太郎

 昭和7年から11年までの5年余りの間に、日本の産業は目覚ましい転換を遂げた、低為替による輸出の増加、重化学工業中心の大規模設備投資が需要を創出し、高橋是清の低金利政策のおかげで諸産業は急足な成長を遂げ、特に鉄鋼、機械、電気機械、化学工業は急激な発展を遂げた。具体的には、1月29日に釜石、輪西、三菱、九州、富士の5製鉄会社が大合併して日本製鉄が設立された。これは軍部の要請でもあった。中島知久平の中島飛行機が創立したのもこの頃である。おかげで軍需インフレになり一般民衆もだんだんに潤ってきた。工場は増築を重ね、熟練工は引っ張りだこになり、最低日給が2円から4円、5円とうなり登りで、残業手当がこの2倍3倍になった。今はなきチンドン屋が町を練り歩いた。鉦に太鼓に三味線、クラリネットにアコーディオンなど5人1組になって街から街へ。日当は女が2円50銭、美人はもっと取る、女でクラリネットができれば3円50銭から4円、男は精々2円どまりと言われた。あんみつ13銭、コーヒー1杯15銭、かけそば10銭の時代である。今や日本は世界の五大強国(英米仏伊日)の一つで、更にその中の三大列強(日英米)の一つであると胸を張りだした。たしかに、この年くらいから急激に国力は上向きになっていった。その証ではないけど、またまた音頭ができた。今度は「さくら音頭」である。コロンビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクが総力をあげて、ヤットサノサと音頭の大合戦が展開された。歌うのは、小唄勝太郎、徳山環,新橋芸者の歌丸、富勇、東海林太郎、喜代三、〆香、美ち奴などなど豪華版であった。人の心は景気がよくなれば落ち着いてくる。そして将来を楽観的に見るようになる、戦火はおさまったし、民衆は皆浮かれ心地になっていた。まさか、2年後に2.26事件が起こるなんて想像もしなかった。このような世間を背景に映画の人気が高まってきた。輸入される洋画はみなトーキーだったが、日本映画はまだトーキーは12%くらいだったと言われている。当時の日本映画の代表作の題名を挙げておく。五所平之助「生きとし生きる物」、小津安二郎「浮草物語」、木村荘十二(そとじ)「只野凡児人生勉強」、島津保次郎「隣の八重ちゃん」、伊丹万作「忠臣蔵」などである。
 この文章の元にしている「B面昭和史」の作者半藤一利さんは昭和5年生まれで、昨年1月91歳で亡くなったが、その中で、「私(半藤さん)より年配の安岡正太郎とか山本七平とかいう作家の回想録などを読むと、人々が最も明るい顔をしていたのは、昭和9年から10年にかけててあった」、と書いている。

 エロチックなカフェーはぐんと下火になり、かわりに喫茶店とかミルクホールが盛り場に登場し、貧乏な学生たちを喜ばせるようになてきた。そこで働くミス喫茶たちもみんなパーマネントをかけるようになった。国産パーマネントの機械が発明されたのはこの年である。それまではすべて輸入品で非常に高価だった。そのため備え付けている美容院は全国でも数えるほどしかなかった。そこへ山野千枝子が中心となって国産機械の製作に苦心惨憺し、山野ジャストリー社がようやく第一号を造った。これにつづいて国産メーカーが続々出現した。

銀座を闊歩する、モガ

 平和時代を象徴する話題を上げると、女性が美しくなると世の中が明るくなる。天下泰平で有閑ガール・マダムが生まれ、モガと呼ばれた彼女たちがただ何となく銀座をぶらつく。東京日日新聞がわざわざ彼女たちを誌面で紹介していた。また同新聞の見出しに「自動車洪水、全市の混乱」というのがあった。「二重橋前の大道路を抜ける自動車は1日に32505台、現在警視庁管下の自動車約28000台だから、市内、郡部の全自動車が一度は通らなければならない勘定になる、それほどの交通量を占めその激増ぶりを物語っている」。
 世は泰平の話題をもう一つ拾うと、文部大臣松田源治の突飛な発言がある。「日本人はちゃんと日本語で、お父さん、お母さん、または、お父さま、お母さまと言わねばならん、舌足らずのパパ、ママを使うのは日本古代よりの道徳の廃れるもととなる」、これが新聞にでて、近くパパ、ママ禁止令が発表されると言う噂が広まり論争が起こった、という話がある。何とも平和ボケした話である。話題も楽観的になって暗い話を忘れそうになるが、実はそうばかりではなかったのである。この年は、東北地方を中心として悲劇的な凶作に見舞われていた年で、米の収穫は大正2年(1913)に次ぐ大凶作だったのだ。当然のことに、また昭和6年同様に娘の身売りがはじまっていた。出稼ぎは58000人、その多くは芸者、娼婦、女給になった。悪徳周旋屋にだまされ、女給は15円、娼婦は50円で売られたという。景気が良くなったと言っても、昭和史にはしばしば凶作、飢饉があったことが出てくる、これは現実の悲劇だったのである。この貧しい農村出身の兵に多く接することのあった陸軍の青年将校が、これを国家存亡にかかわる重大事と切々としてその身に感じていたのである。そのことが2.26事件の間接的遠因へ、やがて国民総力を挙げての大戦争へとつながる導火線の一本になったと言える。
 この年の12月1日に、殉職者67名をだした難工事だった丹那トンネルが開通し、東海道線が熱海から沼津へ直通で走るようになった。それでも特急つばめは、東京~大阪が8時間もかかったのである。それに、電話。「(筆者注)日本で自動電話が開通したのは1912年(明治45年)であるが、その後の普及は早くない」。当時は交換手に申し込み早くて2,3時間、遅い時は半日かそれ以上かかった。情報の伝達スピードは全く違った。この年(昭和9年)の様々な事件、1月の共産党リンチ事件、3月の時事新報社長・武藤山治射殺事件、5月の軍神東郷平八郎の国葬、9月の室戸台風の多大な被害、11月の満鉄の特急アジア号の運転開始などなどを新聞が伝えても、ホーそうかいと一時は話題にしても、すぐ忘れられてしまう。つまりは直接に今の生活との距離があまりに遠い故、それも当然のことであったと言える。それに東北の凶作飢饉はほぼ毎年のこと、だからと言って自然災害はどうにもならず、重大視するには及ばずと言う空気が世間を支配していた。
 こうして見かけ上戦前の昭和時代で最も平和な年と言われていたこの年(昭和9年)の末には、ついに陸軍が満州をほぼ自分達の領土化してしまうことになった。昭和10年になると、いよいよ日本の大転換期をむかえることになる。 おわり 

(とりあえず、中断します)

(註:写真、「流行歌と映画で見る昭和時代Ⅰ」遠藤憲昭編 1986.2.10 国書刊行会)

 *昨年1月に逝去された半藤一利さんの著書、B面昭和史(政治、経済など意外の出来事)を土台に、昭和初めから9年までについて、ごく大雑把に書いてきました。かなり省略しましたが、主な出来事だけは漏らしていないと思います。長くなりましたので、この辺で一息ついて、来年の適当な時期に再開して、昭和10年~16年あたりまで書いてみようと思います。ご愛読ありがとうございました。

 

(2022.12.13記)

 


 

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新 四 季 雑 感(8)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その3)

つづき 

昭和6年~7年

 

 

 昭和6,7年頃の日本の産業、工業の進歩に自信を持った海軍は、とんでもない計画を考えだした。後、悲惨な最期を遂げることになる浮沈戦艦、武蔵、大和の巨艦を作ろうと目論だのである。更に忘れてはならないことに、新聞各社が雪崩を打つように陸軍の満州における野望の応援団と化したことである。あれよあれよという間にメディアは陸軍と同志的関係になっていった。その理由の一つにラジオの普及があった。ラジオの臨時ニュースのスピードに新聞はかなわなかった。対抗して号外を出すが、その記事は陸軍の報道班にもらわなくてはならず、陸軍の意のままに書くことになる、それまで軍縮に賛成したり対中国強硬論反対とぶっていた新聞の権威も主張もどこへやら、陸軍の意のままの存在になり下がり、これ以後新聞の力を自ら放棄してしまったのだ。
 それに戦争は、新聞経営に追い風になったのである。戦争は購読者を伸ばすのである。本来にぎやか好きな民衆はこれまでメーデーの行進に喝采を送っていたのが、180度背中を向けて満州問題の成り行きに熱狂し、確かな事実として、一時は面白いように売れたマルクス資本論は全く売れなくなってしまった。プロレタリア文学は本屋の棚から一斉に姿を消した。エログロ・ナンセンスの昭和史はここから様相を一変し始める。軍事国家へ舵を切り、世は戦争の色が濃くなり出す。貧困が戦争を呼びこんだとも言える。

出征兵士を載せた軍用列車
昭和6年(1931年)

 昭和7年、満州事変は拡大するが日本軍は連戦連勝、国内は提灯行列や旗行列が続いた。しかし支那本土では反日排日の動きが一段と燃え上がり小ぜりあい繰り返された。国際世論も日本の強引なやり方に厳しく当たるようになってきた。、そうした中で国際都市上海で日本人僧侶殺傷事件というのが起きた。実はこれも日本軍の仕組んだもので、昭和7年1月28日、上海は一時戦火の街となった、第一次上海事変である。これは天皇の強い指示によりじき停戦になったが、実は陸軍が満州での拡大作戦に対する世界の非難の目をそらす作戦だったのである。まんまとこの間に満州国を誕生させてしまう。満州の実態を調査するために来日していた国際連盟のリットン調査団はこのずる賢い事態に驚愕した。総会で満州国を承認したのは、日本ただ一国だけだった。
  日本国内の不況は特に農村部がひどく、簡単にはたちなおれるものではなかった。そうした中で、血盟団による井上蔵相、檀琢磨三井理事長暗殺事件がつづき、犬養首相が陸海軍の青年将校に白昼堂々と暗殺された5.15事件など、いよいよ軍部による恐怖時代の幕開けである。しかし、こうした事件の続発にも新聞は強く批判することはせず、世論もまた軽い批判にとどまっていた。その結果軍部と右翼はますます力を強くしていった。日本はこの頃から一歩一歩恐る恐る重苦し時代への足を踏み入れていったのである。
 上海事件で爆弾三勇士の作られた美談がブームになったのは、昭和のご老体諸兄はご存じであろう。2月22日早朝上海廟行鎮の鉄条網を爆破するため、久留米工兵第18大隊の江下武二、北川丞、作江伊之助の三人の一等兵が爆薬筒を抱いて飛び込み壮烈な戦死をとげた話である。荒木貞夫陸相のあっぱれであるとの談話が出るは、新聞社が義援金募集を呼びかけると、一日で2500円(筆者の知識では約175万円位かな?)の新記録が出るは、爆弾三勇士の歌の募集にはなんと84000余通の応募があったとか、3月にはついに映画にもなり、芝居、新派、浅草の一座まで、世は戦意高揚の波に包まれた。

昭和大典奉祝花電車
昭和3年(1928年)

 戦意高揚も一段落した10月、東京市は周囲5群82町村を合併して20区を親設した。新たに加わった区は、品川、目黒、荏原、大森、蒲田、世田谷、渋谷、淀橋、中野、杉並、豊島、荒川、滝野川、王子、板橋、足立、城東、葛飾、江戸川、向島で、全35区、人口551万3482人の大都市になった。そこへB面らしき事件が起こった。向島区ができる前の3月7日、東葛飾郡の寺島村でバラバラ事件が起きた。場所は当時2000人の売春婦がいた私娼窟玉ノ井、その入り口の通称”お歯黒どぶ”。どす黒くにごった水面に、ぼこぼことメタンガスが浮き上がる泡と共に浮かんだのが胴体の上部と下部のバラバラの死体。今時はバラバラ事件などでビックリする人間はいないだろうが、当時の日本人はまだ優しくて、残忍な殺し方をするものなどはいなかった。そのうえ場所が場所だけに気味悪く、しかも猟奇的ということで、この事件は昭和1桁時代の中で、特筆される大事件になった。被害者は30がらみの男と言うだけで身元不明、捜査は難航、迷宮入りかと思われた。そこで新聞雑誌が競って推理小説家を総動員して色々推理させた。

レコード楽譜表紙
昭和4年(1929年)

 ヤメ検の浜尾四郎、医学博士の正木不如丘、森下雨村、牧逸馬(林不忘の別名)、そして大御所の江戸川乱歩の面々、これがまた話題になって事件は東京府下から全国へ拡大していった。犯人は警察のモンタージュ写真が役立って、10月に入り逮捕されるが、その自白で腕や足は本郷の東大工学部の空家同然の教室から発見された。結局は不況のどん底生活がもたらした悲劇であった。朝日新聞が犯人逮捕をすっぱ抜いて号外を出したが、その記事を書いた記者は、警察のトイレに入っていて、二人の刑事が並んで用を足しながら喋っているのを聞いたスクープだったそうだ。  このバラバラ事件の捜査が難航して世間の噂も下火になり始めた5月のこと、昭和史の事件で今も語り継がれている”坂田山心中”が起こり、またまた世間の耳目は衝動した。80歳以上のお年寄りで、この事件を聞いたことがないと言う人はいないはずだけど、懐メロの「天国に結ぶ恋」の事件といえば、あああれかと思うだろう。「今宵名残の三日月も、消えて寂しき相模灘・・・・」という歌い出しよりも、最も歌われたのは3番の「二人の恋は清った、神様だけがご存じよ 死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ」の名歌詞だ。この作詞は柳水巴となっているが、これは西条八十の変名であった。早大教授の肩書の本名では、さすがに、この甘ったるい文句は書けなかったのか、それとも満州をめぐる国連調査団来日中という厳しい時局に、純情な若い男女が清浄なまま世を去ったなど、ロマンスを謳歌する歌詞は教授の肩書ではできなかったのか。

夜の銀座の雑踏 
昭和8年(1933年)

 毎日新聞社編「最新昭和史辞典」の坂田山心中の後日談を簡略して述べると、『5月10日朝、大磯町の共同墓地から前夜仮埋葬された心中死体が盗まれ、翌朝近くの船小屋で発見された、慶大生調所五郎(24)と湯山八重子(22)が結婚に反対され坂田山の松林で心中、女性は清純なままだった。犯人は火葬人夫で、仲間から美人だったと聞き興味をそそられて発掘した。心中者を検視した警察が、女は処女だったと発表した。墓が暴かれ女性の遺体がなくなり、再発見されたとき彼女は全裸で、船小屋の砂の中にうめられていた』、となっている。
 新聞は今の週刊紙顔負けの見出しで報道した。「朧月夜に物凄い死体愛撫・・・砂上に這う女の黒髪」ときては映画がだまっているはずはない。五所平之助監督、竹内良一、川崎弘子主演でたった12日で撮り終わり事件の1か月後に封切り、これが大ヒット、主題歌も日本人で歌わぬものなかったと言われた。しかし、映画はしばらくして上映禁止になってしまう。天国に結ぶ恋を歌いながら坂田山で心中したり、自殺するものが増えたからである。この年だけで20組の心中があったという。

楽譜の表紙
昭和7年(1932年)

 数年続きの不景気、満州事変に始まる軍靴の響き、国際社会からの孤立化の恐れ、血盟団のテロ事件、さらに5.15事件もあり、世の中はぎすぎすする一方である。そうした時代、人は感傷に過敏になるのである。5.15事件は陸海軍の革新将校たちが引き起こしたテロである。彼らは首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、警視庁などを襲い、変電所を襲撃して停電を起こして東京を暗黒にし、戒厳令を敷いて軍部政府を作り国家改造の端緒を開こうとした。つまり、テロリズムによって破壊的衝撃を引き起こし、維新政府を作る、自分達は昭和維新の捨て石になると言う目的であった。それゆえ青年将校たちの純粋さ、志士的気概が世の多くの同情心を呼ぶという奇妙なムードになった。忠義と憂国の名においてなされる世直しに人々は大いに共鳴した。そうしたやりきれない現状が、暗殺者たちを昭和維新の志士と祭り上げた。当時の日本人の多くの心のうちには重臣や政治家や財閥に対して漠然とした不信と疑惑があって、これらの階級に対するある種の天誅が下るのを期待する思いがあったようである。その上、海軍大臣や東郷元帥などが彼らをかばう発言をした。こうして国民感情は盛り上がり軍法会議の判決も軽いものになった。首謀者でも禁固15年であり、その後恩赦でかなり早く出所した、後の2.26事件の判決に比べ国民感情を汲み取ったかなり温情的なものであった。

銀座のモガ
昭和8年(1933年)

 とにかく当時の日本人は、長年続く不景気と先行きの不安に飽き飽きしていた。どうゆう形であれ現状打破を待望しつづけた。政党政治は腐敗しきっている、官僚は無為無策である、財閥は暴利をむさぶるだけ、と言う声が巷に蔓延していた。そのため陸軍が無理に建設した満州国こそが、現状打破の突破口になるかもしれない、と人々の目には写ったのである。赤い夕陽の広野こそが現状打破の夢がある美しい理想郷と思われた。これにこたえて日本政府は欧米列強が絶対に初認しなかった満州国を昭和7年9月15日承認した。その理想の大地へ武装開拓移民の第一陣が日本を出発したのが10月3日である。移民しても国に後ろ髪をひかれるような者は活躍ができないだろうからと、当初は係累のない者を送るということで、423名が選ばれた。10月14日、満州北部のチャムスに到着し、先住の中国人400人を一人500円で立ち退かせた後の土地に強引に住みついた。後の弥栄(いやさかえ)開拓団である。
 満州国をめぐって国際世論はますます厳しくなり、日本の傀儡国家にすぎず、日本は手を引くべきであるとする声が高まり、10月1日リットン調査団の報告書がでる、この時の日本の新聞の反応はすさまじかった。すなはち「錯覚、曲弁、認識不足(朝日)、誇大妄想の甚だし(毎日)、葦の髄から天除き(読売)、非礼悔匿なる調査報告書(報知)」などなど、これでは、我が国が国際社会からよってたかった叩かれて、生命線を扼殺されると思い込んでも仕方がなかった。こうして新聞によって導かれる当時の日本の世論が、殆ど国際連盟脱退への強硬論一つに固まってしまうのは目にみえていた。

白木屋の火事
昭和7年12月(1932年)

 非常時とはそもそもなんなのか。国家の危機、重大な時期であるが、今から見ると、自業自得の感が強い。昭和6年の満州事変に始まり、7年の上海事変、血盟団事件、満州国の建設、5.15事件、国連脱退で孤立化へと、日本帝国は軍事大国化への坂道をひたすら転げ落ち、民衆はそれについていったのである。昭和8年の国家予算は過去最高に跳ね上がって、22億3800万円という巨額になった。新聞は日本始まって以来の非常時大予算と報じた。これが「非常時」と言う言葉が流行するきっかけになったらしい。陸軍や官僚が早速「非常時、非常時」と盛んに吠えだした。つまり「非常時日本」は昭和7年からスタートしたことになる。そして小学校教育にも軍事教練を導入していこうとする動きがでて、文部省が青年学校の設立を計画するようになった。
 さて、B面話は非常時の話を主題にしては面白くない。この年昭和7年12月16日、歳の締めくくりにもあたる大事件が起きた。年末売り出し中の日本橋白木屋(のち東急、今コレド日本橋)で大火事があり、近衛3連隊の1個中隊と軍用機7機が出動した。結果として女店員14名が死亡、重軽傷者百数十名が出た。気の毒にも亡くなった女店員たちはみな和服を着ていた。火事となって救命ロープにつかまって脱出したとき、煙火の勢いで着物の裾がまくられるのを押さえようとして、つい片手を離してしまった。そのため転落した気の毒な事故になった。彼女たちはズロースをはいていれば死ななくても済んだのである。これ以後、「ズロースをはけ」が自然に流行語になり、白木屋では女店員はズロースをはくのが義務となった。街ではズロースをめぐって駄洒落が語られた。坂田山心中事件をもじって、
 「天国に結ぶ恋の彼女はズロースをはいていただろうか?」
 「はいていなかったにきまっているさ」
 「へエー、なぜわかる?」
 「美人はくめい(薄命)」
念のために書くと、湯山八重子さんはちゃんと和服の下にズロースをつけていたという。彼女はミッションスクールに通い、寄宿舎生活をした経歴があったからだそうだ。
 昭和7年、非常時、非常時と言われるようになっても、まだ、この程度ののんびりとした、ユーモラスなムードは巷の生活の間には残っていたのである。 ( つづく 2022.11.5記)

(註)写真出典:「流行歌と映画でみる昭和時代Ⅰ」遠藤憲昭 編 
   発行者 佐藤今朝夫 国書刊行会1986.2.10発行。

   なお写真と文章は、白木屋の火事を除き直接関係ありません(筆者)。

 

(2022.11.5 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(7)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その2)

つづき 

昭和5年~7年

 

 

 8月にニューヨークで起きた株価暴落による世界経済へのショックの年、ドイツのツエッペリン飛行船が来たことで、終わった昭和4年、株価暴落は、そのまま引きずって昭和5年の日本を大きく揺さぶった、生糸の暴落、米の暴落と続き国の経済基盤の根底はぐらつき、失業者は都会にあふれ、全国にストライキが続発した。東北の農村では昭和2年以来の娘の身売りが復活した。当然ながら左翼運動が活発化した。ところが、当時浜口雄幸内閣はそれらに対して手の打ちようがなく無策であった。1月からのロンドン海軍軍縮会議を前に野党の攻勢に政府は悪戦苦闘、民草の苦しさをよそに権力闘争に明け暮れ、海軍部内は分裂するという醜態をみせていた。それは、その後の「危機の時代」の開幕ともいえ、次の「破局の時代」の前夜であったかもしれない。
 始めに少しだけ景気のいい話をかいておくと、3月に行われた「帝都復興祭」というのがある、関東大震災から7年たって東京の復興工事は順調に進んでいた。隅田川の6大橋はこの大事業として新たに建設されたものである。川上から言問、駒形、蔵前、清洲、永代、相生である。これは大正11年の海軍軍縮条約の結果、建艦競争が終わりになったため、鉄材や職工が多量に余ってしまったためである。震災の時、橋がなくて多くの死者が出た経験があるので丁度良いということになり実現したもので、これこそ平和利用というものであった。  昭和5年月3月26日皇居前広場での復興祝典(関東大震災からの)は盛大におこなわれた。新聞の社会面の見出しは狂気乱舞した。朝日新聞曰く「歓喜の乱舞の中に湧き立つ全帝都、昨日の人出実に200万、素晴らしい復興の門出よ」。そして夜の表現「闇も焦げよと打ち振る提灯の海、夜景を彩る花火に総和して延々2万人の行列」。そして祭りが終わると又、意気の上がらぬ暗いに話になってしまうのである。景気のいい話はここまで。
 「ルンペン」という言葉を知っているだろうか。朝日新聞の小説の”浮浪者”に作家の下村千秋がわざわざ”ルンペン”とルビを付したところからそれが流行語になったといわれている。この年の4月に東京市民をビックリさせる大ストライキがあった、東京市電・市バスの職員13000人が首切り反対、給与及び賞与減額反対である、当時の市電・市バスは割合給料がよかったので殿様ストライキと言われた。冷蔵庫などない時代なので、消費者から反発が起き5日目にストライキ側が負けた。不況は都会も地方も同じであった、ただ地方には多少ユーモラスな話もある、この年は米が大豊作に恵まれた、となると米価は目に見えている、急落である。「余るものに原価なし」というが、農村も不況のどん底に落ちてしまった。愛知県のある村では、不況対策として「タバコ、酒を一切廃止すること、中毒的なものはタバコは刻みに限る、酒はごく少量を認める、理髪、結髪につい
ては、自宅でやり、男は丸刈り、女は束髪にすること」を取り決めたとのことである。農民の生活も生か死かの岐路に立った。例えば、汗水たらして作ったキャベツは50個でたばこ敷島1箱(18銭)、かぶは100把がゴールデンバット一箱(7銭)、繭は3貫、大麦は3俵でたった10円だった。下々がこうして生活苦にあえいでいるというのに、上の政府は海軍軍縮条約に絡めて統帥権干犯題などに大騒ぎしていたのである、まことに情けない話である、朝日新聞は、「政治が軍部を統制せよ、軍事をして政治に口をはむことなかれ」とか、「空前の経済困難を打開するのに軍費の節約が絶対に必要なることは国民の常識である」とか各紙が一斉に主張した。 
 不況話が少し長くなってしまった。B面話に戻ろう。昭和5年の流行語は西のルンペンに対し、東のエロ・グロ・ナンセンスであろう。エロ・グロは前からあったが、これにナンセンスが付いたのは時代の象徴でもある。この年の閣議で、非常識を意味する、ノンセンスがナンセンスと変わってモダン化したことが、突然閣僚間で話題になった。

江木翼鉄道大臣 ナンセンズ? つまり、それは他愛のない話ということなんですかな。・・・
幣原喜重郎外務大臣 いや、それより与太話とした方がいいのでは・・・
すると浜口首相が割って入って 
ハハハ その訳は簡単ですよ、今話しているこんな場面が、すなわち、そのナンセンスということなんですな。・・・

 このナンセンスな時代をよく分からせてくれるようなことを、日日新聞がこの年の夏に大々的にやってくれた。何だと言うと、ロバ、牛、豚、山羊に富士登山競争をやらせた。さらに、何時間何分で頂上につくか、というクイズを出して読者から懸賞募集をしたところ、これが大当たり、新聞の部数が伸びたという嘘のような本当の話がある。おかしいのは選手?の名前を公募して、ロバは太郎、牛がお花、豚が東吉と日出雄、山羊は不二子となずけられた。スタートは7月20日の午前4時、各選手に記者はカメラマンがついて、ガンバレ、ガンバレとさかんにハッパを掛ける。ばかばかしい話だが結果は1等が牛で8時間10分,2等はロバで8時間40分、3等が山羊で18時間、豚は2日がかりの29時間だったとか、これぞ、おおナンセンスというばかりである。こうなると当然でてくるのがエノケンである。
 浅草の人気者に、後に一世を風靡する喜劇作家菊田一夫がコンビを組み、二人で時代の波にのり爆発的な大当たりをとったのが「かな手本忠臣蔵」のパロディ「阿呆疑士迷々伝」である。内匠頭が安全カミソリが切腹したり、山崎街道の定九郎がゴルフパンツで現れたり、それを勘平が拳銃で撃つ、とおもうと勘平はカルモチンで自殺し、赤穂城明け渡しで、エノケンの内蔵助が城門にペタリと貸家札をふら下げる。ところが、時代がいくらバカバカしくてマジメにやっていられないときであっても、さすがに当局は許してくれなかった、日本人の模範とすべき忠臣蔵を茶化すとはとんでもないと、菊田一夫はさんざん油を絞られ始末書を書かされた。
 ナンセンスの後にきたのが、エログロ・ナンセンスである。先が見えない不安だらけの世の中であればあるほど、エロチシズムの花は咲く、カフェーやダンスホールでのエロ・サービスである。民衆の不安感に対する反動として、生まれるべくして生まれたものといえる。大阪で繁盛した「美人座」が銀座1丁目に、光は東方より、カフェー文化は西よりと進出してきたのが昭和5年5月31日だった。そして1週間後には復興した銀座の裏通りに雨後の竹の子よりも激しく続出してきて、刺激的な店内装飾に女給群のエロサービス、狂騒的なジャズのリズムで銀座ボーイの魂を完全つかんでしまった。
 という有様で、銀座の横丁は妖気を振りまく赤い灯青い灯の洪水になった。そして現れたのがタクシー・ガール。これを称して「1930年、エロ時代に現れた尖端女性の新職業」といった。当時のタクシーはエンタクと称したが彼女達をエンタク・ガールと言い、ドアを開閉担当の助手が乗っていたのである。そのガールと交渉すると、よろしき宿へと運んでくれるという寸法だったらしい。また1回50銭でキッスをさせるキッス・ガールもいたと言われる。その他、ワンサ・ガール、ガソリン・ガール、ボート・ガール、エンゲルス・ガール、ショップ・ガールなどなど何をするのか分からないガールがやたらに出現した。そして露出度も度を越してきた。そこで、またしても警視庁の出番である。各地の盛り場の興行界にエロ取り締まり規則を通達した。その一部。①ズロースは股下2寸未満、および肉色は禁止。②背中は上体の半分以上は禁止。③胸は乳房以下の露出は禁止。④足は股までの露出は禁止。⑤踊りで腰を部分的に前後左右に振る動作は禁止。⑥和服の踊りで太ももを見せるのは禁止などなど、興行主は悲鳴を上げたが警視庁は頑として認めなかったという。
 1930年、昭和5年、私の生まれた年は、このように、猥雑で、どことなくやけくそ半分のユーモラスな空気が巷に会った年だったようだ。不景気からは脱しきれず、満州問題がくすぶって、政治・軍事面ではキナ臭さが感じられ始めていたが、それでも人を殺したり、殺されたりの戦争のない昭和史の平和な時代のおおらかなときであったのは間違いない。知る人ぞ知る、谷崎純一郎が自分の女房を佐藤春夫に譲るという「細君譲渡事件」があったのもこの頃である。国勢調査によると、日本本州の人口が初めて6千万人台にのった。正確には6千445万人で、これに朝鮮半島、樺太、台湾を加えると9千39万人だったという。農村危機が深刻化し、不景気は加速し失業者が氾濫しているのに、赤ちゃんは続々生まれてきたのだ。そこで日本で始めて産児制限相談所が東京の芝公園にできた。産めよ増やせよが国策になったのは、ずっと後のことである。
 更に昭和6年の終わりにとんでもない事件が起きた。浜口首相が、東京駅で右翼の佐郷屋留雄に撃たれた(翌年8月死亡)。物情騒然たる世情が始まりだした年末に長く争議が続いていた、富士ガス紡績工場で、45米の大煙突によじ登り赤旗を降る男があらわれた。新聞は「エントツ男」となずけた、男は誰が何を言おうと降りてこない。外電までがミスター・チムニーと本国に報じた。結局130時間22分の滞空記録を残し組合側の要求を殆ど会社側に飲ませ、世紀のエントツ男は悠々と降りてきたという。降りてきた本当の理由は、その日、昭和天皇が載ったお召列車が付近を通過するので、上から見るのは不敬である、何とか下ろせ、という当局の強い要請で会社が折れたということである。年末まで騒々しかった昭和5年1930年はこうして暮れた。私はこのような年に世にでたのである。

 いよいよ昭和6年である、田川水泡作の「のらくろ二等兵」の誕生である。この年の1月から少年倶楽部に連載が始まった。なんと10年9か月の連載で134回だったという。この10年は子供にとっては、食べ物の歴史でもある。昭和8年に天ぷらとアイスクリーム、9年にチョコレートとお汁粉、10年にトンカツが、13年には大福、14年は鶏の肉団子、15年キャラメル、なべ焼きうどんとか豚饅頭などが初めて世に出た時代である。資料によると、砂糖とバターの需給がひっ迫しだしたのが14年秋頃からで、東京中の砂糖が品切れになり、バターがなくて西洋レストランの味ががた落ちになったと言われる。
 「降る雪や 明治は 遠くなりけり」という名句は昭和6年の中村草田男(腐った男と読むのかわからない)の作である。始めは、雪は降り であったのを後日「降る雪や」になおした。降る雪やは、軽い詠嘆の感じ、つまり一切の追憶も哀愁もすべて蔽いつくして、シンシンと降る雪なんだそだ。昭和になって間もないのに、老若男女の風俗はまるっきり一変した。明治からまだ20年そこそこなのに、もう明治生まれにはついていけない速さだったようだ。その先端に立ったのが、モボ、モガそして色々なガールの出現。ガールのシンボルはそのヘヤースタイルである、そして洋装、引き眉毛、濃い口紅の化粧、当時の川柳に、「マネキナンの爪まで 女房見て帰り」といのがある。昭和になって、だんだん女性が強くなってきたことは、もう確かな事実としてみとめるほかはなくなってき。麹町高等女学校の卒業生に理想の夫は?という質問をしたら、背が高くて健康、酒やたばこはすこし、着るものに気をかけないこと、妻や子供のあらゆる質問に答えられる学問と教養のあること、などはいいとしても、「結婚してから妻が異性と交際しても何も言わないような理解のあるひと」があったと、草田男はなげいた。
 しかし、時代はこんな笑い話で済むような時代ではなかったのである。昭和6年のGNPは戦前昭和の最低だったのだ。農村の住民は殆ど米を食べることができず、粟、稗を常食とした。そのうえ気候不順のため魚は取れず、どっちを向いても真っ暗闇の世の中である、亀戸、玉の井などの私娼窟の女たちは、殆どこの頃は東北弁であったといわれていた。ない袖は振れないと、政府は昭和4年以来問題になったいた公務員の給料減額を正式決定、天皇の裁可を得て断行することにした。各省の職員がどんなに反対しても万難を排して実施すると発表、新聞もこれにエールを送った。
 とにかく昭和改元以来ずっと不況だったのである。そんな中で生まれたのが、名曲「酒は涙かため息か」である。世の中不況不況となんとなく暗い世相に、前年から小さな小競り合いをしてきた支那との問題がクローズアップっされてくる。満州の権益は20億の国費と10万の同朋の血をあがなって手に入れたものである、日本の生命線である。と外務大臣松岡洋右が獅子吼した。しかし、大震災以来こんなに消耗した国力をどうにかしなければ、国防をまっとうすることはできないと、いらだった軍人たちが立ち上がることを決意したのは、歴史の必然かもしれない。

1931.9.18柳条湖事件記念碑

 昭和6年9月18日、今の中国東北部、当時の満州の満鉄奉天駅近くの柳条湖付近の線路が爆破された。いわゆる満州事変である。当時は支那軍がやったと言ったが、真っ赤なウソで関東軍がやったことは、今では知らな人はいないであろう。私は、この記念碑を見たが、横には当時日本軍が建てた、碑が横倒しにされているのが、時代を象徴している光景であった。支那軍の張学良は反撃は無理と考え国際連盟に訴え世界の世論を味方につけようと考え国際連盟に提訴した。そして有名な、松岡外相の国際連盟脱退の大演説の舞台が回ってくるのである。この時は今の国連で言えば世界の5つの常任理事国の一つだったのだ。バカなことをしたとしか言いようがない。

昔日本軍が建て倒された記念碑

 この年、9月1日は「世界最長の清水トンネル」が開通した。当時の新潟は、米どころだけではなく日本唯一の石油の産地。米と石油を東京へ運ぶには険阻な三国山脈が大障害だったのだ。凡そ世界一なるものがなかった日本に初めて、世界に誇るものが誕生、それまでの半分以下の時間で東京へ運べるようになったのである。それほど、日本の科学技術は高くなっていたのだ。その証拠にアメリカでトーキー映画が試作されたのは昭和2年(1927年)、そのトーキーの本格映画が日本で始めて上映されたのが、この年の8月、松竹蒲田映画の「マダムと女房」である。機械が声をだすのに、天と地が引くり返ったような大騒ぎになった。更には、国産の第一号旅客機(乗客数6名)が完成したのもこの年昭和6年である。それに先立ち羽田に飛行場が完成した。東京~大阪間30円、寝台特急が80銭のときである。西欧が何十年もかかって作りあげてきた「近代化」を日本は短時日で築こうとし、それが昭和6年頃から成功しつつあったのである。

(つづく)

 

(2022.9.10 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(6)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

 

 

 
 1953年昭和28年4月、KDDが創立された頃はまだ朝鮮戦争は終わっていなかった。凡そ3年半近くに渡って死闘を繰り広げ、日本に特需をもたらした戦争が終わったのは7月であった。その頃の外信部門は、最新式の通信設備を使った米国との回線や、スピーカーに耳をくっつけてようやく聞き取れる微弱電波で受信していた、ヨーロッパや地球の裏側の国々との回線など、国際無線通信の華々しい職場であった。

 対米回線は5単位プリンターと言われた、大きな黒い箱の中で、カチャカチャ、カチャカチャ、とリズミカルな音を出すプリンターと、縦に5つの穴が開くテープをタッタタッタ、タッタタッタと流れるように送りだす送信機で送受するのが第一級回線とすれば、スピーカーに耳を吸いつかせ、ピーピー、ガーガーの雑音の中から信号を聞き取る劣悪回線は、国際無線通信の超一流の腕を持つ第一級無線屋の檜舞台でもあった。

 地球の裏側とは、何処を回っても20000キロある。受信する電波は東西南北、全方向から来るので、その中の強い信号を聞き取るのが腕のみせどころでもあった。その無線通信の化石ともいえる今は亡き先輩諸兄や我々老体は、今のSNSと称する媒体には、多くの人は縁がないといえる。フェースブック、ユーチューブ、ツイッターなど、私は一も使ったことがないのに、毎朝、パソコンを開いて一番にやるのが、夜のうちに溜まったこれらの、くだらないゴミメールの削除である。私は妻が亡くなった後、そのアカウントも自分の名前にしているので受信トレイが二つある、その中には大事なメールも混ざっているので、いちいち選別して削除するのが一仕事である。

 もし電波に色がついていたら、地球はおそらく空が見えないほどの色糸に覆われているであろう、昔の宮廷で遊んだ蹴鞠の毬のごとく電波の糸で包まれた大きな輪にみえるだろう。そんなことを全く意識しない現代人が携帯電話の文字盤を、あたかもキツツキの如くつっついているのを見ると、すでにわれわれ年寄とは別種の人間に思えてくる。こうして年寄は、現代人と隔離され、ただただ来し方の足跡を振り返り、涙を流すのである。

 昨年1月に亡くなった、ミスター昭和、半藤一利さんは、私と同じ昭和5年生まれだ。彼は遅生まれなので、学年は1年下になる。彼が書いた昭和史は、その名の通り昭和元年から20年の敗戦までの20年間の軍部の動き、満州建国、ごり押し政治、などを主とした表の昭和史と、B面と称する、社会現象や銃後の動きなどを面白可笑しく、中には切々と、ある時は悲憤慷慨に燃え、ある時はユーモアたっぷりに書いた別冊がある。これが面白い、私と同い年でしかも東京の向島生まれなんだから私が知っている、覚えているようなことは、彼も当然知っているだろうけど、本の内容は自分がすでに大人で実際に経験・体験をした様な内容が殆どである。私が知らない世間の出来事が沢山書かれている。書くことが本職なんだから当たり前だとしても、ものすごい量の参考文献にうずもれていただろう。本人の記憶は1/10位で、あとはそれらからの引用だろうと思う。まだお読みになっていない方々も多くいると思うので、昭和前半の軍国主義時代の、固い表話ではない、ヘー っと思うような記事を紹介させて頂こうと思う。全て「半藤一利著、昭和史B面 平凡社2021,7.15刊」からの引用である。

 

 大正15年12月25日、午前1時25分大正天皇が葉山御用邸で崩御された。時に25歳、同じ御用邸内で践祚式が行われ昭和が始まった、昭和は表話だけでも膨大な話題がある、しかし、こんな話は分かりすぎているし、我々同輩はみな知っていることばかりで面白くないし。そこで、昨年亡くなった半藤一利さんの書いた「昭和史B面」話から、面白い話題を拾って見た、そうかあんな話があったな、と昭和生まれの多い、k-unet会員のご老体は思い出すであろう。思い出さなかったら、老化が相当進んでいるか、あるいはまだ若くて知らない話と思って頂きたい。

 まず元号の昭和のいきさつである。東京日日新聞(現毎日新聞)が、枢密院において、光文,大治、弘文などから、光文に決定するだろうと、特ダネとして号外をだした。その後昼頃になって、朝日と時事新報が号外を出した、元号は昭和とする、というものである。日日新聞は震撼した、本当なら100年に一度の大誤報になる。光文は、日日が枢密院の秘書課長から光文になるらしいとの極秘情報を入手したためである。元号候補は43もあったという。光文は、日日が号外を出したため、その通りになったら枢密院の沽券にかかわるということで、急遽変更になったそうである。

 この後、「昭和の子供」というジャズ調の歌が流行った、私も今でも歌える。「昭和、昭和、昭和の子供よ、僕たちは・・・」という。この頃は昭和の昭の字はほとんど人が知らなかったたと言うことである。まして昭の字の入った熟語は知らない。そして、昭、昭介、和夫、和子、和江,昭子が一挙に増えた。そして昭和元年は1週間しかないので、生まれたばかりの赤ん坊がすぐ2歳になるのを不憫に思って、昭和2年1月生まれにした親が多かったということである。

 

 昭和2年は不景気で明けた、何時の時代もそうであるが金持ちと貧乏人との格差は不景気の時ほどひどいものだ、特に若い女性の自殺が続出した。一方、日本ラグビー教会が正式活動を始め、5月には第1回日本オープンゴルフ大会が開催された、デパートや貴金属店がやたらに活気好き、劇場、寄席が満員が続いた。しかし、この年は喪中の年である、新1年生は黒い腕章とか黒リボンを付けて入学式に臨んだそうである。そして各地の銀行が取り付け騒ぎを起こすなど、昭和の始まりは暗い幕開けだった。

 しかし、こうした鬱とうしい時勢にあっても、楽しいこともあった。本が売れるブームが始まったのである。戦前の昭和でも奇跡といわれている。特に全集ものが売れた。「尾崎紅葉集」、「世界文学全集」「明治大正文学全集」「日本児童文庫」などなど、円本ブームのこの頃、新しく乗り出した電通が先輩博報堂に挑戦、社運をかけて大宣伝を繰り広げたと言われる。そして、作家連中もいい思いをした、軽井沢に別荘を建てたり、高級自動車を買ったり、海外旅行を楽しんだり、豪奢な邸宅を新築したりした。

 そうした作家がこの世の春を謳歌している一方で、芥川龍之介が自殺した。享年35,動機については多くの理由が語られているが、作家として行ずまったとか、発狂したとか、悪性の性病にかかったなどと言われたが、本人は「将来に対する漠然とした不安」といい、後年その後の”昭和”に対する予言とも受け取られた。

 

 大正12年5月には小田原急行鉄道が開通した。2時間20分で小田原に着き料金は1円36銭、のちに昭和17年には東京横浜電鉄の創業者、五島慶太が小田急を合併して東京急行電鉄という大鉄道会社を設立する、五島慶太は、関東大震災で焼け出された下町の人間がみな郊外へでてきた、私たちが住宅地を造成しておいたおかげ皆入れたんだ、とうそぶいた。そういえば、五島慶太の東急と堤康次郎の西武との宅地造成合戦が繰り広げられたのは、戦後のことである。因みに下落合~東村山間の今の西武新宿線が初めて走り出しのは、昭和2年4月のこと、私は昭和5年生まれであるが、結婚したばかりの母親が、線路工事の音が夜中もうるさくて、眠れなかったと言っていたのを思い出す。

 昭和になった時には東京には15区しかなかった。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川である。渋谷、新宿、池袋などは田舎であった。三軒茶屋などは茸の産地だったそうだ。

 話は変わって、半藤さんの本によると、「昭和2年12月20日、暮れも押し詰まったころ、上野、稲荷町、田原町、そして浅草の道路上にマッチ箱のような小さな建物がポッカリト出来上がった」と書いてある。日本初の地下鉄が開通したのである。全線2.2キロ、所要時間5分、全線十銭均一、物見高い江戸っ子は初日になんと十万人が押しかけた。地下鉄の父と呼ばれた早川徳次がロンドンの地下鉄をみて東京にもと思ったのがきっかけだそうである。

 明治を鉄と石炭の時代と称するなら、昭和は電気とガラスの時代だった、という人がいたそうだ。軍事的には後に、石油の時代が追っかけてくる。電気時代を代表するものにラジオがあった。昭和3年、昭和天皇の即位の大典に合わせてNHKは全国に放送網を完成させた。これへ相撲中継を載せた。この頃の相撲は人気がなく協会は経営難でふうふう言っていたそうだ、そこへNHKからの話である。しかし、親方衆の中には「そんなことしたら、ますます国技館の客は減ってしまう」と反対するものが沢山いた。ところが出羽の海親方が、相撲で面白い勝負を耳にすれば相撲に関心の薄い人も国技館にきてくれるようになる、と決断し、初めて大相撲の中継が流された。これが大当たりで、大鉄傘の中は超満員になったということである。

 昭和に入っても世界の趨勢から見ると、まだまだ日本の文化はあらゆる面で遅れに遅れていたといえる。ともあれ普通選挙が実施されるようになり封建的な雇用制度、つまり丁稚小僧精度がくずれたことなど、大正デモクラシーの成果がみられるようになってきた。そして貧困生活を救うものとして社会主義思想が猛威を振るいだしてきた。

 

 昭和4年、私の最も好きな超懐メロの一つ「東京行進曲」が流行りだした。早稲田大学仏文科の教授、西条八十が作詞したこの曲の4番は、「シネマ見ましょかお茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」ですっかり有名になったが、実は元の歌詞は、「長い髪してマルクス・ボーイ、今日も抱える赤い恋」だったと西条本人が言っている。マルキシズム全盛で、長髪で深刻な顔をした青年がソ連の「赤い恋」を抱えているのよく見かけたと述会していた。ところがレコード会社がビビった。これじゃ官憲から文句が出るので書き換えてくれと苦情がでた、そこで西条はやむなく、当時の人々の関心が高かった、シネマと郊外電車を登場させたということである。

 大学は出たけれど、インテリが嘆いた不景気な年でも、忘れられないのは、1928年8月のアムステルダム・オリンピックである。織田幹雄選手が初めて金メダルを取った。三段飛びで15メートル20センチを飛び、米国のケーシーの15メートル17センチを抑え高々と日の丸を上げ、君が代が奏楽された。ところが、その日の丸だが、まさか日本人が優秀するなんて誰も思っていなかったので、アムステルダム市中どこにもなかった。さあ困ったとなった時、日本選手団から申し出があった。万一勝ったとき体に巻いてフイールドを歩こうと思って持ってきた、大きな日の丸である。センターポールに掲げられた日の丸は、2位、3位の2倍以上もあったということである。そして同じ日、人見絹江が女子800メートルで世界タイ記録をだしている。

 

 昭和4年(1929)は騒がしい年になった、満州事変が勃発し、不景気は相変わらず立ち直らず、10月には海の向こうでウオール街の大暴落が起き世界的大恐慌と言う、容易ならざる大事が襲ってきた。でもB面話をする本稿では、そうゆう固い話はしない。前年につづいて一世を風靡した「東京行進曲」の作詞者西条八十の続きである。彼は天才である、歌詞の中に昭和モダニズムを十分に取り入れた。いわく、ジャズ、リキュール、ダンサー、地下鉄、浅草、新宿、シネマ、小田急などなど。レコードは飛ぶように売れた。ところが、とんでもないないところから文句がでた。社名を勝手に縮めて使うのけしからん、これではわが社は恋の逃避行電車のようではないか、許しがたいと小田原急行鉄道会社がねじ込んできた。ビクターが回答のもたもたしている間に東京行進曲は全国的な流行になり、「小田急」という略した社名の方が全国的になっていく。鉄道会社は渋い顔をしながら内心ニヤリとした。その証拠にしばらくたって正式社名を小田急と変えてしまった。(ただこれは嘘で正式に変えたのは1941年だからと半藤さんは言っている。)でもにゃりとしたのは事実であろう。

 この年には新語がでた、曰く、モボ、モガ、モボはモダンボーイだし、モガはモダンガールはもうご存じだと思うが、ステッキガールというのもあった。お金をもらって銀座を散歩したり、映画に付き合ったりする女性のことだった。夜までは付き合わないということであった。昭和史のB面話はまだ続くが、昭和4年で一区切りつけたい。5年以降は次回に回すことにして、昭和4年に世間を騒がした話をして締めくくりたい、それは、ご同輩はご存じであろうが、説教強盗の話である。犯人妻木松吉(29歳)が狙ったのは、もっぱら富豪や名士の邸宅とか小金持ちの家。猫なで声で縛った家人に長々と説教する、戸締りが悪すぎるとか、ガラス戸だけでは不用心だとか、犬を飼えとか言いながら、いろいろ食事をすませ一番電車で悠々と引き上げていったと言う。「悪事は悠々と働いてこそ光る」というのが座右銘であったとか。懸賞金をかけられた末逮捕されるが、刑期は2年、出所後は警察の依頼「防犯の心得」をあちこち講演したといわれる。

 昭和史B面の第一部の最後に昭和4年には、ドイツのツエペリン飛行船が来たことを書いて、ひとまず終わりとしたい。

(2022.7.25 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(5)

樫村 慶一 

 

今年は、

戦前戦後体制

の平行年

 戦前の世相

を知る投書

 

 私は年紀というものに、割合興味を持っている、ということを以前の四季雑感に書いたことがある。何々の何年目だとか、あれから何年たったとか、かといって、どうってことはないから、すぐ忘れてしまう。そうゆう性格だから、物事を記録するとか、或いは色々な届け物などの書類も絶対に元号は書かない。最近は役所の用紙も、年号欄の初めには何もないのが多い、かっては、昭和とか平成などがあらかじめ印刷してあったものだが。だから、私は、お寺ごとも西暦を使う。塔婆は勿論、墓誌の妻の死亡年号ももちろん西暦である、先年、先祖の墓地に行ったが、徳川時代の元号が色々書いてあったが、いつ頃死んだのか見当がつかない。西暦だった、ヘー 何年前だったのか、とすぐわかるのにと思う。 
 その手で今年を見てみたら、面白いことが分かった。今年は、日本の国家体制が両極端に分かれて、それぞれ同じ年月が経った年である。つまり、明治維新の1868年から1945年の敗戦までの、帝国主義、神格化された天皇、軍国主義の時代が77年間続いたこと、そして、1945年の敗戦で民主主義、人間天皇、自由主義国家に180度変わってから77年経ったということ。つまりここまでで、日本は二つの国家体制を同じ年数だけ経験したことになる、世界でも珍しい国である。

  さりとて、明治時代は明治45年まで、つまり1912までだから、明治最後の年に生まれた人でもすでに110歳だ。だから実際に明治の風俗を知っている人は、もういないということになる。4月の20日過ぎに世界最高齢だった人が、119歳で亡くなった、今最高齢はやはり日本人で115歳だそうだ。今、日本には100歳以上の人が凡そ65000人いると報道されていたが、明治時代最後の人達(1912年、明治45年と大正元年)でさえ帝国主義の時代は33年しか生きていない。1945年(敗戦の年)生まれでも、もう77歳だ。物心ついて記憶に残るのは5歳くらいからだから、帝国主義の時代を少しでも覚えている人は、日本全体でも僅かしか生きていないと思う。

 私も生まれてから戦争が始まる(1941年)までの11年間の、平和な昭和モボモガ時代を生きたけど、物心ついて記憶にあるのは6,7歳からほんの5,6年間のことである。この時代、軍国主義最高潮の時代だけど、普通の生活をしていくには、なにも不自由はなかった、だからおしゃれな服装髪型に工夫がなされ、モボモガが盛り場を闊歩していたし、今も残る数々の名曲歌謡曲がうまれ、タバコや酒類が店頭に豊富に並び、ダンスホールやバーが繁盛し、野球もプロ野球が始まり、新天地を求めた南米への移民が最高潮期を迎えるなど、戦争とは全く縁のない社会が存在していたのだ。要するに今の中国と同じで、国家体制に不平不満をいわなければ、庶民生活には何の支障もなかったということである。

 映画にもなった「日本の一番長い日」というドキュメンタリーを書いた半藤一利とい人がいた。昨年91歳で亡くなったが私と同じ昭和5年生まれである。しかし、昭和時代の知識の塊見たいな方である。昭和の歴史を表からとらえた本と、三面記事的視点で社会的事件などを主にした、昭和史のB面という2冊ペアーの本がある。面白い、まああ あれだけの本を書くのに、百倍位の参考文献を読みこなしているように感じる。書くのが商売とは言え、ただただ敬服あるのみ。私もそんなことがあったな、ということはおなじ歳なのだから知っているが、細かい出来事でも表も裏もよくもこんなことまで、と思うほど知っているし、流ちょうで江戸っ子的、切れの良い文章で、奥深くまで探求し、名士の残した言葉や歌(俳句、詩、名言、歌謡曲の歌詞など)をふんだんに引用し、知識造詣の奥行の深さ感じさせられる本である。 
 戦前の昭和は平和だったと思っていたが、それはあくまで表面で、裏では特に陸軍が満州を柱にちょくちょく事件を起こし、中国(当時は支那)と小競り合い繰り返し、だんだん侵略していった様子がよくわかる。太平洋戦争までは表向きは平和であったが、表も裏も一番落ち着いていたのは昭和9年10年頃だそうだ。この時代に生きた庶民の生の声が朝日新聞の投書に残っている、それを紹介しよう。(文面は現代文に修正し一部簡略した)

1.南米移民

 『南米熱に浮かされた私は家族5人と、昨年5月ブラジルに移住した。私達は不運にも辺鄙な農園にやられた。電灯のない豚小屋みたいな生活は覚悟はしてきたが、その後の1年間の生活は来る前の想像以上に惨めである。米は簡単には手に入らない、野菜を作れば野獣に食われる、鶏を飼えば盗まれる始末だ。 (中略) 腕1本で小作から成功するには至難のこと、日本で宣伝される「南米成功者」など千人に一人もいない。渡航の船中は勿論、上陸の際にも賄賂に使うだけの金を準備するのを忘れてはならない。欧米移民に比べて日本移民には日本政府の保護施設も機関も何もない。いつになったら、「移民は棄民なり」の諺から抜けられるのか暗然とする。 (在ブラジル一移民より)1929年5月21日』

2.婦人雑誌

 『近頃の婦人雑誌の記事はどうしてこのように汚い乱暴なものばかりになったのでしょう。先月号のある雑誌の広告には、「やきもちは如何に焼くべきか」とか「夫婦喧嘩の必勝法」などというのがあった。来月号の広告も夫婦愛増進号と称して「男性の心をつかむ奥の手公開」だの「妻が夫に恋される秘訣伝授」だのと言う題目がいくつも並んでいる。雑誌は多くの婦人の良友であり休養所であります。それが今日の如く私達の読むに堪えないものとなっても、どうすること出来ないと言うのは情けないことだと思います。 (たへ子より) 1927年6月23日』

3.駅名の呼び方論争

 『秋葉原の読み方に異議をとなえた人の提灯を持つ。鉄道省はアキハバラを本来の呼称たる「アキハノハラ」にあらたむべきである。どこを探してもアキハバラなんてところがあるものじゃない。秋葉原は私の知る範囲でもう一か所ある。向島の秋葉神社の境内で、アキハノハラと知られていた。地名を勝手に読みたければ、神田をカミタ、徒土町(おかちまち)をトシチャウと読むがよかろう。江戸っ子はなにおボンヤリしておる。 (無腸居士より)』

 『小生も不快感をもっておる。我が長野県下をみても、カルイサハ(軽井沢)をカルイザハと濁らせた。製糸で有名ヲカノヤ(岡の谷)をヲカヤとした。地名は固有の歴史があってそれがやがて大日本の歴史の一部になっておる訳けで、独断で清(す)ませたり濁したりできまい。駅名制定の主義を承りたい。(積水生より)』

 『駅名における処置、甚だ不快に感じおり候。高田馬場をタカダノババは聞く度に不快に候。蒲田をカマタとは何故か。カマボコより他にカマとよむのを知らず候。(沐芳生より)1929年2月16日』

 『蒲田出生でありますが、土地の人は誰でも昔からカマタと称しております。だからカマタの方がいいと思います。(KF生より)1927年2月18日』

4.鰺の抗議

 『私はアジという魚です。うまくて滋養にとみ、安いことはご承知の通りでしょうが、この4月から市民や農民諸君の口に入るために運送されると、2級の運賃をとられます(生糸が1級)。生活必需品値下げの声明に比して、乱暴な運賃改正という他ありません。われわれ魚類は漁場でとれた新鮮なものをどんどん送られるから皆さんがおいしく食べられるのです。常に氷詰めにされて荷造りされるから、自分の重量の約3倍の運賃を納めます。4級とするのが正当でしょう。専門業者を入れないで級品改正なんて絶対無理ですよ。(房州鰺より)1930年2月6日』

おわり  (2022.5.5 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(4)

樫村 慶一 

 

あの時から60年、還暦にまた巡ってきた恐怖の日々

 

 1962年(昭和37年)10月に起きたキューバ危機から今年は丁度60年目である。この時の世界中の人々の恐怖感というのを、はっきり覚えている人もだんだん少なくなってきていると思う。この頃に20歳の人も80歳になっている。私は32歳で宝塚の清荒神社宅にいたが、なんだか落ち着かなくて狭い座敷の中を歩きまわっていた思い出がある。当時の世界中の人が多かれ少なかれ、恐怖で落ち着かない気持ちでいたものと思う、そして、もう生きている間には2度と起きないだろうとも思った。
 それが、どうだ、2度目が来ているように思うのは、長生きしたからかなのか、動物は生存のためにみな闘争本能を持っていると言うが、人間の中でも特にロシヤ人は野生動物と同じなのか、或いはそれ以上に野蛮なのか、なぜここまで愚かな人種なんだろう。
 あの時は、ケネディの方から核の話を持ち出したと思うのだが、今度は逆だ。抑止力というのは相手が言いだした時に、反論するときに使う話だと思うのだが、これも野蛮なロシヤ人の言うことの意味が分からない。ただただ、可哀そうなのはウクライナの国民だ。たった昨日まで平穏に暮らしていた家庭に、目をさましたら一挙に爆弾が落ち始めた、こんなことって・・・・、後は絶句!!。

 私は古い懐かしいカメラをオークションで集めていることは、以前に四季雑感の場をかりて書いた覚えがあるが、手にいれたカメラはただの部屋の飾り物ではない、実際にフイルムを入れて撮る。これが楽しいのだが、撮影対象を季節の花にした。花は一年中どこかで何か咲いており、それを追いかけていると、飽きないし、身体だけではなく頭の運動にもなるし、カメラを弄る最高の楽しさが得られる。ただ、場所は歳を考えると余り遠出は無理で、遠くでも精々多摩地方までである、その中に西立川の昭和記念公園がある。立川市の公式観光ガイドの肩書を持つ女性の友人がステッキガールを勤めてくれて、昨年から3回ほど出かけた。そして時節柄、興味のある話を聞いたのでご紹介しようと思う。下記数枚の写真は、かって一面が平地だった昭和公園の現在の地形を現わす。

立川駅側入口から平らな地面が広がる

1.昭和記念公園の地下に!?・・・・それは都市伝説!?

 国営昭和記念公園の地下に政府の重要拠点がある、といった話をきいた。正式に日本国政府が認めてるわけではなく真偽は不明だが、近くに米軍横田基地があることや、太平洋戦争時に昭和天皇が長野県松本市に避難する際に使用されたのが甲州街道だったということがこの説の信憑性を高めているようである。たしかに広大な敷地(公園の外れ)には自衛隊、海上保安庁、警視庁等の分室のような建物があり、昼間はしょっちゅうヘリコプターが飛んでいる。国家機密上および防衛機密上の理由から真偽が確認できないため様々な憶測を呼び、都市伝説化することが多いと言われるが、客観的に裏つけるような話もある。

平地だった所に丘陵地帯が出来ている

 というのは、元は日本陸軍の飛行場施設で、広大な平地だった。それが、いまでは、敷地内に丘や川が流れ、道路が昔の位置よりも1メートルくらい高くなっている。それらの変化をもたらした、膨大な量の土をどこから持ってきたのか、建設当時、ダンプカーで土を運んできた様子はなかったと、生まれてから立川市に住んでいる、上記の友人女性は言うのである。もうお分かりだろう、地下を強固な施設にするために広大な範囲を掘った土を盛り上げたということである。さらに、これは私もにわかには信じ難いが、霞が関辺りから地下トンネルで直通道路が出来ていると言う。その他にも、下記のような都市伝説的話がある。

2.首都高速を戦車が走る説?

旧日本陸軍の飛行場跡を思わせる平地
この欅が昭和記念公園のシンボル

 首都高速道路は有事の際、戦車を走行させるため高架が頑丈にできているという話。総重量50トン程度である戦車が通行する事は可能である。海外でも滑走路にもなるドイツのアウトバーンなど、有事の際の軍事利用を前提に設計された道路はあちこちの国々にも存在する。

3.国道16号は首都圏防衛ライン説?

 国道16号は有事の際の首都圏防衛ラインとなり、戦車を走行させるため道幅を広げているという話。随分広い地域になると思うのだが。確かに16号(久里浜から館山まで)で囲むと、東京港、横浜港が含まれる。

4.地下鉄丸の内線は核シェルター説?

 丸ノ内線(特に国会議事堂前駅)は有事の際、国会議員や都庁関係者が退避するための核シェルターになっている、という話。それなら、大江戸線とか副都心線の方がずっと深いので効果が高いと思うのだが。

5.地下鉄有楽町線は軍用路線という説?

 有楽町線は有事の際、防衛省のある市ヶ谷駅と、平和台駅(第1師団司令部が置かれている練馬駐屯地)、陸上自衛隊朝霞駐屯地に近い和光車庫、さらには、西武池袋線稲荷山公園駅(航空自衛隊入間基地)との間で、軍事物資や人員を運搬するために作られている、という話。

6.東京地下鉄の謎の連絡線?

平地だった所に谷のような場所も出来た

 営団地下鉄・都営地下鉄には、蜘蛛の巣のように脇線という線路が存在すると言う。現実に複数路線における車両整備の一元化や新車搬入の為に、いくつかの路線の間を結ぶ連絡線が存在することは、鉄道ファンなどには古くから周知の事実であるが、これが政治家達の避難用だと言う話がある。

7.内堀通滑走路説?

 皇居外苑から日比谷公園にかけての内堀通から祝田通にかけての区間は直線であるため、日本有事の際は代替滑走路として使用される。その際は桜田門の警視庁庁舎が管制塔として使用されると言う話。

 さて、みなさんはどう思われるだろうか?

おわり(2022.4.1 記 エープリルフールではない)

 


 

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新 四 季 雑 感(3)

樫村 慶一 

 

地球がみんな青かったら  あ・・ いい湯だな・・

 

  私は肺が弱く気管支も弱い。慢性閉塞性肺疾患、すなはちCOPDである。鬼黒べえ(オミクロンの自称)に捕まると危険な人種である。50年間タバコを吸ってきたらだと言われたが、もうやめて20年近くなるけど、昔の罪は一生消えないのだろうか。肺房が少なくなっているから肺活量が少ない、そのため飛行機に乗るのが怖くて、もう15年以上乗っていない。肺の中の気圧は.0.8気圧で、大気の気圧は普通1気圧(ヘクトパスカル、しょっちゅう細かく変動している)なので、黙っていても空気は気圧の低い肺に入ってくる。だけど、飛行機の中の気圧は.0.8で肺の中と同じだ(最新型のボーイング888は機内気圧1.0だと聞いた)、だから内も外も同じ気圧なので空気は流れない、それでも普通の肺活量があれば平気なんだろうが、少ない人は、苦しくなることがある。そのとき自分だけ酸素マスクつけるなんて、はずかしくて恰好悪い。恥ずかしいだけならまだしも、大袈裟になって、どっかに緊急着陸なんてことになったらえらい騒ぎになる。だから乗らないのだ。かっては、結構乗ったから、今更そんなに乗りたいとも思わないし、もともとそんなに好きな乗り物ではない。飛んでいるところや空港それに映画などで見るのは大好きだけど・・・・・ 

 ・・・だから気管支を強くして、人より弱い肺に余計なものが入らないようにしておかないといけない。もっと歳をとった時(今でも十分年寄だけど)喉の筋肉が弱っていると、食べ物を飲み込むとき気管支に入ってしまう”誤嚥”という厄介な現象を起こすようになる。つまり、喉を通過した空気は気管支線へ、食べ物は食道線へと線路が分岐するポイントの役割を果たす弁が、きちんと動くように喉の筋肉を日頃から鍛えておく対策をいくつかやっている。口を一杯に開くの30回とか、舌を上顎に押し付けるのを30回とか、上下の歯をぎゅっと嚙合わせるのだとか、顎の下を親指と人差し指で挟むようにするとゴロゴロする筋肉のことである。皆簡単にできるが、その中の一つに大声を出す練習がある。風呂にはいって湯気で湿った喉を、思い切り収縮拡張させようと大声で歌を歌うことである。マンションの風呂場は殺されそうな悲鳴を上げても外へは漏れないので思い切り大声で歌える。でも3,4曲歌うと飽きる。歌詞の本を歌うところを開いてビニール袋に入れ、手で捧げるようにして歌うのだ。歌う曲はいわずとしれた懐メロである。

 今は2020年代、テレビなどで懐メロといわれるのは、1970年代(昭和45年頃から)頃からの歌を言っている、それもむべなるかな、大阪万博が1970年で、もう50年も経ってしまったんだから十分懐メロの資格はあるだろう。でも私の懐メロは更に古い1925、6年頃(大正14,5年)から1960年(昭和35年)頃までなのだ。その約30年間に歌われた歌が、モボ、モガが闊歩した、穏やかな昭和の最後の時代を思い起こさせてくれる、えも言われぬ幸福感に浸れる、紫苑(しおん)の花言葉(注)のごとき時間である。

 そんな歌詞を歌っていて、昔の東京で子供の私には知らなかったことに思いついた。愛、恋、別れ、涙、旅、月、星、雨、風などは、昔の流行歌、歌謡曲(演歌、艶歌とは言わない)の歌詞には欠かせない言葉だけど、その舞台になる東京の盛り場は、銀座、浅草、新宿の3か所であって、渋谷、池袋は絶対に出てこないことだ。おそらく田んぼか畑だったか、渋谷などは沼だったと言う人もいる。銀座と浅草が繁盛したのは、最初の地下鉄銀座線が昭和2年に銀座と浅草間で開通したお陰だ。山の手の盛り場は、早稲田の学生の人気を集めた新宿が一人気を吐いていた。
そして、勇ましい軍歌、軍国歌謡の中の男性は、父、夫、兄、弟だけで、恋人や好きな人、愛する人などは男の範疇には入れてもらえなかった。夫は元はそうだった人もいただろうけど、国力増強の一翼を担う種馬になったことで、一人前の男と認めてもらえたのだ。

 タバコを長年吸って、COPDになって、喉の筋肉を強くするために、風呂で懐メロを大声で歌う。そして、遥けき昭和を懐かしみ、昔の盛り場は銀座、浅草、新宿だけだったことを知る。戦争になり、大正ロマン時代からの軟弱な風潮と言われた恋愛は否定され、彼氏は男と認めてもらえず戦時下の歌の中では不遇をかこっていた。そして、時は変わって戦争に負けて、民主主義になって恋愛が自由を獲得し、彼氏が一人前に認知され、彼女は戦前のモラルを知らぬ新種の女性に生まれ変わり、今や男にまでなろうとしている。

 こんなことが、風呂の中で数曲の懐メロを歌う間に、頭の中を駆け巡る。喉の筋肉強化だけでなく、頭の血管も血流が活発になるという副次効果が得られる。これで世界が平穏なら 本当に ・・・ああぁ いい湯だな~ ・・・

おわり(2022.2.28記)

 

(注)紫苑(シオン)の花言葉 は「追憶」「君を忘れない」「遠くにいる人(妻)を思う」。
英語の花言葉 は「patience(忍耐)」「daintiness(優美、繊細)」「symbol of love(愛の象徴)」

 


 

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新 四 季 雑 感(2)

樫村 慶一 

 

運を天にまかす

 

 寒さは並ではない、今冬はペルー沖海水が”エル・ニーニョ状態になっているため例年に比べて、寒気が強いと予報されている。昨年から始めた懐かしいカメラをぶら下げて、緑の公園、緑地、神社仏閣を歩き、花や樹木の写真を撮り、脳の活性化を図る一人行脚は今年も続けるつもりでいるが、おみ足のご機嫌はどうだろうか? 花の見せ場は関東地方では、1月の冬牡丹、水仙から始まる、そして、福寿荘、梅、桜、牡丹、つつじ、さつき、向日葵、さるすべり、はぎ、彼岸花、ススキ、各種紅葉、銀杏なんて順になろう。懐かしカメラも、だんだん要領がよくなって、自動ではないカメラの、巻き上げ忘れとか距離合わせ忘れなどがなくなり、本来の画像になってきた。この行脚の時だけは足が新品になるのが不思議な話。さる1月末には昭和記念公園で何年振りかで15000歩を歩いた。もちろん休憩をとりながらではあるけど。

 写してみてわかるんだが、デジカメとアナログの違いは、デジカメの絵はピントが極めてシャープ、つまり線一本でも縁がはっきりと出る、ピントがいいと言えるが、はっきりしすぎていて冷たい。アナログはそこがピット出ない、拡大すると分かるが、線の縁がボケている。このため画像が和らかい、悪く言うと、ピンボケ的になる。でも昔は皆こういった写真しかなかった。昔を恋しがる人間には、これがたまらない。懐かしい時代の、おっとりした、のんびりした、そして余裕のある、そういった世情感がある。デジタルは現在の余裕のない、厳しい、冷たい、そういったIT世情に合っている。個人情報がどうのこうのと、昔は考えたこともない、ぎすぎすした今の世情が大嫌いな私には、アナログ時代が懐かしくて恋しいものである。

 ところで、昨年は、あることに気がついた。というのは、地球上のあらゆる物事、たとえば悪質な感染症の蔓延、Co2増悪による気象変動の問題、米中対立、中国膨張、ウクライナ危機、ヨーロッパやアフリカの難民問題、拉致問題、宗教対立、民主主義国の減少、etc、国内的にも、政治、経済の不満の拡大、異常気象、地震多発、災害頻発、殺人事件増加、いろいろな格差拡大、鬼黒べえ対策、もう関係ないけど教育問題などなど、いわゆる”・・・問題” というやつに関心がなくなってきたということである。

  それもどうゆうわけか、急激にそんな気持ちになってきた。 だから新聞も読むのが早くなった。大見出しだけで飛ばす記事が増えたからだ。理由は、自分でも分からないが、どの問題を取り上げても、百年河清を待つが如き簡単に解決する問題ではないし、私には直接痛くもかゆくもないし、解決するまで雲上の妻が、そうそう待っていてくれないだろからである。

 そうは言っても、健康問題だけは、どうでもいいや、ってなわけにはいかないので、これだけは、しっかり定期的にやっている。私の場合、四つ足を除いた身体の全部のCT検査、四つ足を含む動脈の硬化状態、持病のCOPDの状況、目、歯の定期検診、胃カメラ、血液検査と全部やる。胃カメラは2014年に胃がんが見つかって、内視鏡で切除市営ら半年に1回検査していたが、2年前から年に1回にした。もう手術はやってくれない歳になったので、何事も先手必勝で、早期発見が極めて大事である。これにお金がかかるのは仕方がない、生きるための保証金なのだから。

 それ以外のことは、もう深く考えないことにした。だから、生きていてもあまりストレスにならない。人間はもしストレスがないと、150歳まで生きられる動物だと言われる。でも、例えば、南海の孤島に一人で生きていたらストレスがないと思うだろうけど、とんでもない、毎日の魚とりに苦労するだろうし、遠くを通る船に合図をしなくてはならないとか、すごいストレスがたまるんだそうだ。妻を亡くしてみて、夫婦とはいかにストレスをため合ったいるかがよく分った。夫婦円満と言うのは、お互いに気を使って、ストレスをため合っていることを言うのだ、と言うことが一人になってよーく分った。独居生活になって、その点の自由度が100%になった。ところが、最近は掃除洗濯食事の作り置き、ふろ場の掃除季節の衣類寝具の管理などをしてくれる娘が、女房的になってきたので、またまたストレスっぽい感じを抱くときがる、なかなか、うまくいかないものだな、とつくづく思う。ストレスのない生活は生きている限りは有り得ないと言うことがよく分ったものである。

 それにしても、私達のような年齢(92歳)になると、どこへ行っても、どんな会合にでても常に最長老である、だいたい90歳過ぎて、一人で杖もつかず、シャキシャキ(ちょっとオーバーだけど)歩いている人間は、そんじょそこらには、あまりいないようだ。人に長生きに関する秘訣なんて聞かれるけど、まず健康で90過ぎまで生きてこられた遺伝子をくれた親に感謝することだと言っている。そして上記のような自己健康管理をすること。

 私は大腸ガンで死んだ人を複雑な目で見る。癌のタネになるポリープが芽をだして亡くなるまでに10年間かかるのだが、その間で一度でも内視鏡検査を受けていれば、ほぼ間違いなく寛解していたにちがいないからである。なぜなら、私は定年の前年に初めて大腸ポリープの切除をした。「多発性ポリープ症」と言う聞いたことがない病名をつけられた。以来毎年内視鏡検査をしてきたが、80歳を過ぎてからは3年おきでよくなり、昨年からは5年おきでよいと言われた。つまり、それほど大腸がんは進行が遅いのだ。まず腸壁にポリープが発生してから1年におそよ1ミリの速度で成長し、5ミリに達した頃に先っぽが癌化し(80%の確率)、次第に降りてきて腸壁に達し、そこから他へ転移が始まるまで10年かかる。つまり10年以上自分の体の管理を怠った結果と言うことになるので、何故もう少し早く検査しなかったのかな?、っていう気持ちが起きる。早死にが勿体ない気がしてならない。

 昨年末に、なんとなく体調が落ちたような気がするので、つくずく今年以降のことを考えてみた、コロナの第四世代「鬼黒べえ」を筆頭に、我々高齢者には我慢だけを強いられる現在の日本は、もはや行く末に楽園はないし、さりとて極端な地獄もない、高齢者を飼い殺しにする国になってしまったようだ。全ての経済対策、税金の優遇、給付金。補助金などの対象にならないのは、選挙の票にならないからで、常識的な目が若者に注目して行くのも当然のことであろう。もう国に期待することは何もない。親のくれたDNAの寿命が尽きるまで運に任せて生きていくしかない。そんなことを、つくづく思う睡眠前の幽明の時間である。 おわり

 

(2022.1.28 記)

 

 

 

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新 四 季 雑 感(1)

樫村 慶一 

 

元茨城衛星通信所と先祖代々の墓地めぐり

 

 k-unetのホームページの長寿の記には、遠藤さんという神様のような方がいらっしゃる。とても追いつきそうもないと思う。されど、後ろには大勢の人が団子になって追ってくる、人生マラソンの最後の5キロくらいになって、これまで走ってきた人生を振り返って見て、何か忘れ物をしたような、落とし物をしたようなことがありそうな、そんな気がずっとしていた。そんなことを考えているうちに秋になり、コロナ野郎がおとなしくなるのを待っていたお出かけ気分が湧いてきた。そこで気が付いた。そうだ、親父の田舎の先祖の墓参りを、もう50年以上してなかった、という誠に奇想天外な忘れ物である。
 最後に行ったのは、1968年(昭和43年)の夏だった。TAS建設要員として、今では考えられないような大きなコンピューターシステムを相手に四苦八苦していた夏、息抜きに山形の妻の母親の墓参りに行った。その帰り道、北茨城の海岸通りを走り、横山大観や六角堂で有名な五浦(いずら)海岸を経て、高萩市から十王の山の中へ入り、十王町1番地と言う名誉ある本家に着いた。そして、祖父の土地が一部かかっていたという我が社の宇宙通信所へ寄った、その時以来なのだ。
 私が知っている本家の住所は、十王町なんて立派な名前ではなかった、多賀郡黒前村(くろさきむら)山部(やまべ)といういかにも山の中らしき名前で、その後、村が合併して十王村に、さらに十王町になり、いつの間にか日立市に吸収併合されていた。宇宙通信所は初めから高萩市大字石滝だ。高萩市は昔から常磐炭鉱の南の拠点でもあり、景気の良いころは出稼ぎ鉱夫の財布に支えられて結構栄えた町だったが、今では駅前のスーパーが閉店してからは、駅前とは名ばかりの、殆ど車の停まっていない駐車場だらけで閑散としている。そのくせ、なぜか、バー、スナック、一杯飲み屋が多い。炭鉱が閉山になった今、どういった種類のお客がくるんだろう。不思議な町である、KDDの宇宙通信所が活躍した頃は、閉山前の炭鉱の地下戦士と宇宙最前線のKDD勇士が、北茨城の僻地の夜を賑わしていたものと想像した。古戦場を“強者どもの夢の跡”、と言うがまさに今の高萩という町は、そんな思いをひとしを感じさせられる町である。

 宇宙通信所は、今は「さくら宇宙公園」となずけられ、桜の巨木の並木を抜けると、広大な草原のような芝生の区間が広がる。旧管制室、通信室、事務所などがあった場所で、ただただ、だだぴろい空地である。サッカー場でもなく野球場でもなく、ただの空地、おそらく春の花見の時だけは、ご座敷でびっしり埋まるのであろう。公園と言っても、田舎の公園とはこんなものなりと、広さだけが取り柄の、都会のサッカー少年には誠にうらやましい広場である。アンテナは、旧第4と第5アンテナが残っている。
 広場にいた老夫婦に話しかけた。日米間の初の宇宙中継ニュースの第1号が、ケネディ暗殺のニュースだったことを知っていた。さすが膝元、ほとんどの日本人が忘れ去った出来事を地元では、きちんと?覚えていることに敬服。そんな様子が、かっての通信の花形、宇宙通信センターの、現在の姿である。高萩市の市内、および衛星通信所の敷地とアンテナの写真を懐かしんでいただきたい。解説は、茨城宇宙通信所に勤務され、現在k-unetの世話人をやっておられる本間強さんにお願いした。

 私の先祖代々の墓の話は、k-unetには関係のないことなので、ここでは割愛し写真のみ掲載す。なお、私の父の本家の土地の一部が宇宙通信所建設の際にKDDに譲渡したとか、嘘か本当か、親戚の者から聞いた覚えがある。縁は異なものとは、言い得て妙である。そして、すぐそばにあるサンライズ・カントリークラブ(倒産したのか今はフェアウエー全部が太陽光発電所になっている)の一部の土地も、ゴルフ場建設の際に買収され、父の代襲相続者としてなにがしかのお金をいただいたこともある。更にもう一つだけ付け加えると、NHKの「日本人のお名前」と言う番組で、高橋とか鈴木がトップクラスの姓名ランキングでは400番台で、割合少ないと感じる樫村姓が、この辺ではやたらにあることである。元衛星通信に関係した方々に多少なりとも懐さを覚えて頂ければ幸いである。ご協力いただいた本間さんに深く感謝する次第であります。 おわり

(2022.1.10 記)

 

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