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INDEX

2022年

 

号数(掲載月)    タイトル       
第9号(12月)    「昭和史B面」から 掘り起こす (その4)  つづき 昭和8年~9年
第8号(11月)    「昭和史B面」から 掘り起こす (その3) つづき 昭和6年~7年
第7号(9月)      「昭和史B面」から 掘り起こす (その2) つづき 昭和5年~7年
第6号(7月)      半藤一利さん著の 「昭和史B面」から 掘り起こす  
第5号(5月)      今年は、 戦前戦後体制 の平行年  戦前の世相 を知る投書  
第4号(4月)      あの時から60年、 還暦にまた巡ってきた 恐怖の日々  
第3号(3月)      地球がみんな青かったら   あ・・ いい湯だな・・  
第2号(2月)      運を天にまかす  
第1号(1月)      元茨城衛星通信所と 先祖代々の墓地めぐり

 

 

 

新 四 季 雑 感(9)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その4)

つづき 

昭和8~9年

 

 

 昭和8年の元旦、満州と中国の国境にある山海関付近で日中両軍が武力衝突した。前年10月にリットン調査団の正式報告が発表されて以来、混迷を続けている日本外交をあざ笑うような軍事的一大事である。国内には関東軍をバックアップするように、うるさい国際連盟など早く脱せよとの世論が日を追って高まっていた。しかし国民の多くは、我関せずとして対岸の火事視していたが、国民が意識しないうちに「破局の時代」の幕が明け始めていたのである。
 A面的には昭和8年とはそんな風に始まった年であるが、B面的には、前年暮れから全国に流行した小唄勝太郎の<ハアー島で育てば娘十八恋心・・・>と、音痴にでも歌える「島のむすめ」が流行した。ところが、まさかこの流行歌が伊豆大島へ誘ったわけでもあるまいが、突然のように伊豆大島噴火口が投身自殺の名所になったのである。そのきっかけとなった奇妙な事件が人々を驚かせた。年が明けたばかりの1月9日、三原山の頂上に立つ二人の女学生がいた。実践女学校の真許三枝子と富田昌子である。病弱な三枝子は世をはかなんで火口に見を投じた。死を見送った昌子は沈黙をまもった。1か月ほどたって同じ学校の松本喜代子がやはりおなじ三原山で自殺、またしても富田昌子が立ち会った。これが公に知れ渡った時、新聞は「学友の投身を二度も道案内、奇怪!三原山に死を誘う女」などと書き立てた。自殺案内人とか変質者とかのレッテルを張られた昌子は、ひどいノイローゼになり間もなく死んだ(病気とも自殺とも言われた)。三原山の自殺は前年は9名、未遂30名だったのが、これ以後増え、この年1年間で男804名女140名と恐ろしい数になった。社会不安、陰鬱な社会状況、それらが多くの人々を三原山へ招いたのか、大島警察署は妙なブームに襲われ、警視庁に応援を求めなくてはならなかったと言う。
 確かに8年が明けた頃は、なんとなく社会は暗くなっていたのだ。満州国建設は日本の植民地化にすぎないと国際連盟で各国から非難され、承認することはできない、と突っぱねられた。こうなっては穏健な斎藤実内閣も危険な道とは承知していても、連盟脱退を決めざるをえなくなり、2月24日、松岡洋右が大見えを切って脱退を宣言し、天皇の詔勅が発布された。日本は「栄光ある孤立」の道を選んだのである。軍国主義化は軍部だけの問題ではなく、大塚金之助、河上肇と言った経済学者の検挙、更には小林多喜二の拷問死等は政府の社会主義弾圧政策に深くかかわっていたのである。小林多喜二の逮捕は連盟脱退の数日前の2月20日、そしてその日に虐殺された。享年29。築地署の発表は心臓麻痺だったが、遺体は、胸や両股が紫色ににじんでおり、苦痛のあとが痛々しかったという。三つの病院から解剖をこばまれた。
 しかし、一般大衆の生活は、正直なところそんなに切羽詰まったような状態ではなかった。まだまだ平和を楽しんでいた。4月17日の読売新聞は桜の咲いた頃の東京の様子を次のように伝えている。 「サクラ咲く今日こそ市民のお花見休日、市内外の桜名所に繰り出す花見客は無慮2百万、潮干狩り、ピクニックから一泊泊まりの温泉客まで新記録で大東京の屋根の下は空っぽの状態である。飛鳥山は全山を埋める人の数4万人、これ以上増えたら身動きできないと悲鳴があがった。上野公園、博覧会に10万人、動物園2万人、家族ずれが多く和やかな気分が溢れていた」。
 たしかに時代の流れそのものに、不安と緊張があったのは間違いないが、まさしく嵐の前の束の間の平穏が、景気が上向きになりだした昭和8年ごろだったのである。この年の4月1日から教科書が改訂された。「サイタサイタ、サクラガサイタ」で始まる昭和1桁世代の教科書である。この頃の高学年の教科は、修身、算術、国史、地理、図画、唱歌、体操、手工、操行、女子にはこれに裁縫が加えられた。国語は、読み方、綴方、書方、算術は筆算、算盤に分かれていた。そして成績は甲・乙・丙・丁で示され、全甲は優等生と言われた。子供たちは通信簿をもらうとコソコソと教室の隅で隠語で喋り見せ合った。甲はシャミセン、乙はオシドリ、丙はヘイタイ、丁はオタマジャクシと言った。教育は軍国主義化の始まりで、忠君愛国の精神が徹底して教え込まれた。さらに、これまでの教科書に比べカラーふんだんにつかわれるようになった、菊池寛が「色刷りになったのは喜ばしい、これまでは一番高くて一番汚くて、一番つまらない本であったのに」と朝日新聞に書いている。
 前にも書いたが、昭和8年は、非常時日本という言葉が流行語になり、世情の変化に一抹の不安感を隠し切れなかったにも関わらず、庶民の生活は平穏だったのである。世界広しといえども少女歌劇は日本にしかない。その松竹歌劇団のうら若き踊り子百数十人が、首切り反対、衛生設備の完備など28項目の改善要求をかかげストライキに突入した。新聞は桃色ストと銘打って華々しく報道した。輝ける闘争委員長はターキーこと水の江滝子19歳、男装の麗人といわれ時代の先端を行く女性と言われ、非常時日本などどこ吹く風とストライキ人気はうなぎ登りであった。大阪松竹のレビューガールもこれに呼応してストライキに入り高野山に立て籠る。東京では松竹の切り崩しを受け数人が脱落するが、ターキーらの結束は固く129人は湯河原温泉に立てこもった。フアンも応援するようになり、会社側は譲歩せざるを得なかった。結末は会社側が白旗をかかげ、東西とも踊り子たちの全面的勝利に終わった。非常時をとなえる軍部にとっては、少女歌劇のストとはけしからんということから、非常時意識を徹底させなければならないと、8月9日、初めて防空演習を行うことになった。

東京音頭を踊る

 そしてその夏、日比谷公園内のレストラン松本楼の主人が朝風呂の中で、田舎で盛んな盆踊りが東京でもできないかと思いついた。早速西条八十に相談し、出来上がったのが”ハッ 踊り踊るなら丸うなって踊れ、ヨイヨイ・・・の丸の内音頭である。所がこれに目を付けたのが抜け目のないレコード会社ビクターで、もっと大々的にな、東京中を巻き込む発展的な改作はできないものかとなって、ここに出来上がったのが有名な「東京音頭」である。この夏に突如として爆発的な大流行をした。「とにかく日本中の神社や寺の境内、公園、空き地という空き地で、陽が傾く頃から深夜に至るまで、ドドンガドンドンと太鼓が響き、人並みが大きな輪をいくつも作り、狂ったように手足を動かしていた。交通整理の警官の手がいつの間にか踊りの振りになっていたほどであった」。と作家安岡正太郎が「僕の昭和史」で往時を回想している。
 この年のB面話の特報となると、映画のキングコングが東京で封切られたことである。初めての日本人は仰天した。天地にとどろく咆哮とともに巨大なゴリラがニューヨークに現れ、美女を抱いて摩天楼によじ登り、複葉の飛行機を相手に戦うが最後は撃ち落される。皆はこれに同情したが、両手で胸をぽかぽかと叩いてウオーと叫ぶ真似が流行した。そして、これは昭和史にうずもれた話であるが、この年の11月22日、古典「源氏物語」の上演が新宿の新歌舞伎座初日を目前に、警視庁から待ったを掛けられた。殆どの国民には縁のない話ではあるが、当局の厳重な取り締まりが始まっていたのである。当局からみれば、「光源氏を中心とした人達の姦通、浮気など非常時日本にふさわしからぬ恋愛物語であり、風紀上大いに害がある」と言うことであった。観客の強い抗議があったが、当局は非常時には古典文化などはどうでもよいとはねつけた。凡そ昭和8年とは、そんな年であったが、その掉尾を飾るのが12月23日の皇太子(平成天皇、上皇)の誕生である。天皇が「確かに男の子か」と念を押した。謹厳そのものの侍従長は大声で答えた。「ハッ 確かに男子のおしるしを拝しました」、天皇はにっこり笑った、という。そして東京市民は大喜びし、宮城前広場には旗行列の人並みで埋めつくされた。

 昭和9年、世界の注目を集めていた満州国は、この年3月1日、執政溥儀が皇帝に即位し、元号を康徳と改めて世界に名乗りでた。しかし新国家として国際的に認めたのは僅かな国だけだった。国際連盟の主要列強はすべてソッポを向いた。日本帝国は一層孤立を深めたが、とにもかくにもこの新国家を育成していかなければならない。これを作り上げた陸軍省、外務省、拓務省などが主導権を巡って暗闘を繰り広げたが結局陸軍省が強引な政治力を発揮して勝ち、対満州事務局が新たに設置され、林銑十郎陸軍大臣が総裁になる。これにより陸軍の、満州独占の支配体制が確立した。これによりこの年から陸軍の、「そこのけ、そこのけ」と軍国への堂々たる闊歩が始まったのである。結果として満州事変は収まり上海事変、更に熱河作戦と続いた戦火も収まり、昭和9年は国民にとって誠に穏やかと見える年であった。駐日米国大使ジョセフ・C・グルーがその日記「滞日十年」に書いたように、嵐の前の平穏そのものであった。日本の支配層の中にも、新しい軍事的冒険に出るよりも、すでに獲得した権益を確固たるものにする方が大事、との空気が生まれてきた。  そうした風潮のなか、関西の卓越した興行主小林一三と天才的演出家の白井鉄造という人が世界でも稀なレビューを東京に持ち込んできた。元旦の東京宝塚劇場の開場である。こけら落としが葦原邦子主演の「花詩集」で、元日の招待客は黒紋付の羽織袴だったと言う。この劇場の華やかさが物語るように、昭和恐慌も収まって日本の景気は右肩上がりになり始めていた。

 
小唄勝太郎

 昭和7年から11年までの5年余りの間に、日本の産業は目覚ましい転換を遂げた、低為替による輸出の増加、重化学工業中心の大規模設備投資が需要を創出し、高橋是清の低金利政策のおかげで諸産業は急足な成長を遂げ、特に鉄鋼、機械、電気機械、化学工業は急激な発展を遂げた。具体的には、1月29日に釜石、輪西、三菱、九州、富士の5製鉄会社が大合併して日本製鉄が設立された。これは軍部の要請でもあった。中島知久平の中島飛行機が創立したのもこの頃である。おかげで軍需インフレになり一般民衆もだんだんに潤ってきた。工場は増築を重ね、熟練工は引っ張りだこになり、最低日給が2円から4円、5円とうなり登りで、残業手当がこの2倍3倍になった。今はなきチンドン屋が町を練り歩いた。鉦に太鼓に三味線、クラリネットにアコーディオンなど5人1組になって街から街へ。日当は女が2円50銭、美人はもっと取る、女でクラリネットができれば3円50銭から4円、男は精々2円どまりと言われた。あんみつ13銭、コーヒー1杯15銭、かけそば10銭の時代である。今や日本は世界の五大強国(英米仏伊日)の一つで、更にその中の三大列強(日英米)の一つであると胸を張りだした。たしかに、この年くらいから急激に国力は上向きになっていった。その証ではないけど、またまた音頭ができた。今度は「さくら音頭」である。コロンビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクが総力をあげて、ヤットサノサと音頭の大合戦が展開された。歌うのは、小唄勝太郎、徳山環,新橋芸者の歌丸、富勇、東海林太郎、喜代三、〆香、美ち奴などなど豪華版であった。人の心は景気がよくなれば落ち着いてくる。そして将来を楽観的に見るようになる、戦火はおさまったし、民衆は皆浮かれ心地になっていた。まさか、2年後に2.26事件が起こるなんて想像もしなかった。このような世間を背景に映画の人気が高まってきた。輸入される洋画はみなトーキーだったが、日本映画はまだトーキーは12%くらいだったと言われている。当時の日本映画の代表作の題名を挙げておく。五所平之助「生きとし生きる物」、小津安二郎「浮草物語」、木村荘十二(そとじ)「只野凡児人生勉強」、島津保次郎「隣の八重ちゃん」、伊丹万作「忠臣蔵」などである。
 この文章の元にしている「B面昭和史」の作者半藤一利さんは昭和5年生まれで、昨年1月91歳で亡くなったが、その中で、「私(半藤さん)より年配の安岡正太郎とか山本七平とかいう作家の回想録などを読むと、人々が最も明るい顔をしていたのは、昭和9年から10年にかけててあった」、と書いている。

 エロチックなカフェーはぐんと下火になり、かわりに喫茶店とかミルクホールが盛り場に登場し、貧乏な学生たちを喜ばせるようになてきた。そこで働くミス喫茶たちもみんなパーマネントをかけるようになった。国産パーマネントの機械が発明されたのはこの年である。それまではすべて輸入品で非常に高価だった。そのため備え付けている美容院は全国でも数えるほどしかなかった。そこへ山野千枝子が中心となって国産機械の製作に苦心惨憺し、山野ジャストリー社がようやく第一号を造った。これにつづいて国産メーカーが続々出現した。

銀座を闊歩する、モガ

 平和時代を象徴する話題を上げると、女性が美しくなると世の中が明るくなる。天下泰平で有閑ガール・マダムが生まれ、モガと呼ばれた彼女たちがただ何となく銀座をぶらつく。東京日日新聞がわざわざ彼女たちを誌面で紹介していた。また同新聞の見出しに「自動車洪水、全市の混乱」というのがあった。「二重橋前の大道路を抜ける自動車は1日に32505台、現在警視庁管下の自動車約28000台だから、市内、郡部の全自動車が一度は通らなければならない勘定になる、それほどの交通量を占めその激増ぶりを物語っている」。
 世は泰平の話題をもう一つ拾うと、文部大臣松田源治の突飛な発言がある。「日本人はちゃんと日本語で、お父さん、お母さん、または、お父さま、お母さまと言わねばならん、舌足らずのパパ、ママを使うのは日本古代よりの道徳の廃れるもととなる」、これが新聞にでて、近くパパ、ママ禁止令が発表されると言う噂が広まり論争が起こった、という話がある。何とも平和ボケした話である。話題も楽観的になって暗い話を忘れそうになるが、実はそうばかりではなかったのである。この年は、東北地方を中心として悲劇的な凶作に見舞われていた年で、米の収穫は大正2年(1913)に次ぐ大凶作だったのだ。当然のことに、また昭和6年同様に娘の身売りがはじまっていた。出稼ぎは58000人、その多くは芸者、娼婦、女給になった。悪徳周旋屋にだまされ、女給は15円、娼婦は50円で売られたという。景気が良くなったと言っても、昭和史にはしばしば凶作、飢饉があったことが出てくる、これは現実の悲劇だったのである。この貧しい農村出身の兵に多く接することのあった陸軍の青年将校が、これを国家存亡にかかわる重大事と切々としてその身に感じていたのである。そのことが2.26事件の間接的遠因へ、やがて国民総力を挙げての大戦争へとつながる導火線の一本になったと言える。
 この年の12月1日に、殉職者67名をだした難工事だった丹那トンネルが開通し、東海道線が熱海から沼津へ直通で走るようになった。それでも特急つばめは、東京~大阪が8時間もかかったのである。それに、電話。「(筆者注)日本で自動電話が開通したのは1912年(明治45年)であるが、その後の普及は早くない」。当時は交換手に申し込み早くて2,3時間、遅い時は半日かそれ以上かかった。情報の伝達スピードは全く違った。この年(昭和9年)の様々な事件、1月の共産党リンチ事件、3月の時事新報社長・武藤山治射殺事件、5月の軍神東郷平八郎の国葬、9月の室戸台風の多大な被害、11月の満鉄の特急アジア号の運転開始などなどを新聞が伝えても、ホーそうかいと一時は話題にしても、すぐ忘れられてしまう。つまりは直接に今の生活との距離があまりに遠い故、それも当然のことであったと言える。それに東北の凶作飢饉はほぼ毎年のこと、だからと言って自然災害はどうにもならず、重大視するには及ばずと言う空気が世間を支配していた。
 こうして見かけ上戦前の昭和時代で最も平和な年と言われていたこの年(昭和9年)の末には、ついに陸軍が満州をほぼ自分達の領土化してしまうことになった。昭和10年になると、いよいよ日本の大転換期をむかえることになる。 おわり 

(とりあえず、中断します)

(註:写真、「流行歌と映画で見る昭和時代Ⅰ」遠藤憲昭編 1986.2.10 国書刊行会)

 *昨年1月に逝去された半藤一利さんの著書、B面昭和史(政治、経済など意外の出来事)を土台に、昭和初めから9年までについて、ごく大雑把に書いてきました。かなり省略しましたが、主な出来事だけは漏らしていないと思います。長くなりましたので、この辺で一息ついて、来年の適当な時期に再開して、昭和10年~16年あたりまで書いてみようと思います。ご愛読ありがとうございました。

 

(2022.12.13記)

 


 

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新 四 季 雑 感(8)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その3)

つづき 

昭和6年~7年

 

 

 昭和6,7年頃の日本の産業、工業の進歩に自信を持った海軍は、とんでもない計画を考えだした。後、悲惨な最期を遂げることになる浮沈戦艦、武蔵、大和の巨艦を作ろうと目論だのである。更に忘れてはならないことに、新聞各社が雪崩を打つように陸軍の満州における野望の応援団と化したことである。あれよあれよという間にメディアは陸軍と同志的関係になっていった。その理由の一つにラジオの普及があった。ラジオの臨時ニュースのスピードに新聞はかなわなかった。対抗して号外を出すが、その記事は陸軍の報道班にもらわなくてはならず、陸軍の意のままに書くことになる、それまで軍縮に賛成したり対中国強硬論反対とぶっていた新聞の権威も主張もどこへやら、陸軍の意のままの存在になり下がり、これ以後新聞の力を自ら放棄してしまったのだ。
 それに戦争は、新聞経営に追い風になったのである。戦争は購読者を伸ばすのである。本来にぎやか好きな民衆はこれまでメーデーの行進に喝采を送っていたのが、180度背中を向けて満州問題の成り行きに熱狂し、確かな事実として、一時は面白いように売れたマルクス資本論は全く売れなくなってしまった。プロレタリア文学は本屋の棚から一斉に姿を消した。エログロ・ナンセンスの昭和史はここから様相を一変し始める。軍事国家へ舵を切り、世は戦争の色が濃くなり出す。貧困が戦争を呼びこんだとも言える。

出征兵士を載せた軍用列車
昭和6年(1931年)

 昭和7年、満州事変は拡大するが日本軍は連戦連勝、国内は提灯行列や旗行列が続いた。しかし支那本土では反日排日の動きが一段と燃え上がり小ぜりあい繰り返された。国際世論も日本の強引なやり方に厳しく当たるようになってきた。、そうした中で国際都市上海で日本人僧侶殺傷事件というのが起きた。実はこれも日本軍の仕組んだもので、昭和7年1月28日、上海は一時戦火の街となった、第一次上海事変である。これは天皇の強い指示によりじき停戦になったが、実は陸軍が満州での拡大作戦に対する世界の非難の目をそらす作戦だったのである。まんまとこの間に満州国を誕生させてしまう。満州の実態を調査するために来日していた国際連盟のリットン調査団はこのずる賢い事態に驚愕した。総会で満州国を承認したのは、日本ただ一国だけだった。
  日本国内の不況は特に農村部がひどく、簡単にはたちなおれるものではなかった。そうした中で、血盟団による井上蔵相、檀琢磨三井理事長暗殺事件がつづき、犬養首相が陸海軍の青年将校に白昼堂々と暗殺された5.15事件など、いよいよ軍部による恐怖時代の幕開けである。しかし、こうした事件の続発にも新聞は強く批判することはせず、世論もまた軽い批判にとどまっていた。その結果軍部と右翼はますます力を強くしていった。日本はこの頃から一歩一歩恐る恐る重苦し時代への足を踏み入れていったのである。
 上海事件で爆弾三勇士の作られた美談がブームになったのは、昭和のご老体諸兄はご存じであろう。2月22日早朝上海廟行鎮の鉄条網を爆破するため、久留米工兵第18大隊の江下武二、北川丞、作江伊之助の三人の一等兵が爆薬筒を抱いて飛び込み壮烈な戦死をとげた話である。荒木貞夫陸相のあっぱれであるとの談話が出るは、新聞社が義援金募集を呼びかけると、一日で2500円(筆者の知識では約175万円位かな?)の新記録が出るは、爆弾三勇士の歌の募集にはなんと84000余通の応募があったとか、3月にはついに映画にもなり、芝居、新派、浅草の一座まで、世は戦意高揚の波に包まれた。

昭和大典奉祝花電車
昭和3年(1928年)

 戦意高揚も一段落した10月、東京市は周囲5群82町村を合併して20区を親設した。新たに加わった区は、品川、目黒、荏原、大森、蒲田、世田谷、渋谷、淀橋、中野、杉並、豊島、荒川、滝野川、王子、板橋、足立、城東、葛飾、江戸川、向島で、全35区、人口551万3482人の大都市になった。そこへB面らしき事件が起こった。向島区ができる前の3月7日、東葛飾郡の寺島村でバラバラ事件が起きた。場所は当時2000人の売春婦がいた私娼窟玉ノ井、その入り口の通称”お歯黒どぶ”。どす黒くにごった水面に、ぼこぼことメタンガスが浮き上がる泡と共に浮かんだのが胴体の上部と下部のバラバラの死体。今時はバラバラ事件などでビックリする人間はいないだろうが、当時の日本人はまだ優しくて、残忍な殺し方をするものなどはいなかった。そのうえ場所が場所だけに気味悪く、しかも猟奇的ということで、この事件は昭和1桁時代の中で、特筆される大事件になった。被害者は30がらみの男と言うだけで身元不明、捜査は難航、迷宮入りかと思われた。そこで新聞雑誌が競って推理小説家を総動員して色々推理させた。

レコード楽譜表紙
昭和4年(1929年)

 ヤメ検の浜尾四郎、医学博士の正木不如丘、森下雨村、牧逸馬(林不忘の別名)、そして大御所の江戸川乱歩の面々、これがまた話題になって事件は東京府下から全国へ拡大していった。犯人は警察のモンタージュ写真が役立って、10月に入り逮捕されるが、その自白で腕や足は本郷の東大工学部の空家同然の教室から発見された。結局は不況のどん底生活がもたらした悲劇であった。朝日新聞が犯人逮捕をすっぱ抜いて号外を出したが、その記事を書いた記者は、警察のトイレに入っていて、二人の刑事が並んで用を足しながら喋っているのを聞いたスクープだったそうだ。  このバラバラ事件の捜査が難航して世間の噂も下火になり始めた5月のこと、昭和史の事件で今も語り継がれている”坂田山心中”が起こり、またまた世間の耳目は衝動した。80歳以上のお年寄りで、この事件を聞いたことがないと言う人はいないはずだけど、懐メロの「天国に結ぶ恋」の事件といえば、あああれかと思うだろう。「今宵名残の三日月も、消えて寂しき相模灘・・・・」という歌い出しよりも、最も歌われたのは3番の「二人の恋は清った、神様だけがご存じよ 死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ」の名歌詞だ。この作詞は柳水巴となっているが、これは西条八十の変名であった。早大教授の肩書の本名では、さすがに、この甘ったるい文句は書けなかったのか、それとも満州をめぐる国連調査団来日中という厳しい時局に、純情な若い男女が清浄なまま世を去ったなど、ロマンスを謳歌する歌詞は教授の肩書ではできなかったのか。

夜の銀座の雑踏 
昭和8年(1933年)

 毎日新聞社編「最新昭和史辞典」の坂田山心中の後日談を簡略して述べると、『5月10日朝、大磯町の共同墓地から前夜仮埋葬された心中死体が盗まれ、翌朝近くの船小屋で発見された、慶大生調所五郎(24)と湯山八重子(22)が結婚に反対され坂田山の松林で心中、女性は清純なままだった。犯人は火葬人夫で、仲間から美人だったと聞き興味をそそられて発掘した。心中者を検視した警察が、女は処女だったと発表した。墓が暴かれ女性の遺体がなくなり、再発見されたとき彼女は全裸で、船小屋の砂の中にうめられていた』、となっている。
 新聞は今の週刊紙顔負けの見出しで報道した。「朧月夜に物凄い死体愛撫・・・砂上に這う女の黒髪」ときては映画がだまっているはずはない。五所平之助監督、竹内良一、川崎弘子主演でたった12日で撮り終わり事件の1か月後に封切り、これが大ヒット、主題歌も日本人で歌わぬものなかったと言われた。しかし、映画はしばらくして上映禁止になってしまう。天国に結ぶ恋を歌いながら坂田山で心中したり、自殺するものが増えたからである。この年だけで20組の心中があったという。

楽譜の表紙
昭和7年(1932年)

 数年続きの不景気、満州事変に始まる軍靴の響き、国際社会からの孤立化の恐れ、血盟団のテロ事件、さらに5.15事件もあり、世の中はぎすぎすする一方である。そうした時代、人は感傷に過敏になるのである。5.15事件は陸海軍の革新将校たちが引き起こしたテロである。彼らは首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、警視庁などを襲い、変電所を襲撃して停電を起こして東京を暗黒にし、戒厳令を敷いて軍部政府を作り国家改造の端緒を開こうとした。つまり、テロリズムによって破壊的衝撃を引き起こし、維新政府を作る、自分達は昭和維新の捨て石になると言う目的であった。それゆえ青年将校たちの純粋さ、志士的気概が世の多くの同情心を呼ぶという奇妙なムードになった。忠義と憂国の名においてなされる世直しに人々は大いに共鳴した。そうしたやりきれない現状が、暗殺者たちを昭和維新の志士と祭り上げた。当時の日本人の多くの心のうちには重臣や政治家や財閥に対して漠然とした不信と疑惑があって、これらの階級に対するある種の天誅が下るのを期待する思いがあったようである。その上、海軍大臣や東郷元帥などが彼らをかばう発言をした。こうして国民感情は盛り上がり軍法会議の判決も軽いものになった。首謀者でも禁固15年であり、その後恩赦でかなり早く出所した、後の2.26事件の判決に比べ国民感情を汲み取ったかなり温情的なものであった。

銀座のモガ
昭和8年(1933年)

 とにかく当時の日本人は、長年続く不景気と先行きの不安に飽き飽きしていた。どうゆう形であれ現状打破を待望しつづけた。政党政治は腐敗しきっている、官僚は無為無策である、財閥は暴利をむさぶるだけ、と言う声が巷に蔓延していた。そのため陸軍が無理に建設した満州国こそが、現状打破の突破口になるかもしれない、と人々の目には写ったのである。赤い夕陽の広野こそが現状打破の夢がある美しい理想郷と思われた。これにこたえて日本政府は欧米列強が絶対に初認しなかった満州国を昭和7年9月15日承認した。その理想の大地へ武装開拓移民の第一陣が日本を出発したのが10月3日である。移民しても国に後ろ髪をひかれるような者は活躍ができないだろうからと、当初は係累のない者を送るということで、423名が選ばれた。10月14日、満州北部のチャムスに到着し、先住の中国人400人を一人500円で立ち退かせた後の土地に強引に住みついた。後の弥栄(いやさかえ)開拓団である。
 満州国をめぐって国際世論はますます厳しくなり、日本の傀儡国家にすぎず、日本は手を引くべきであるとする声が高まり、10月1日リットン調査団の報告書がでる、この時の日本の新聞の反応はすさまじかった。すなはち「錯覚、曲弁、認識不足(朝日)、誇大妄想の甚だし(毎日)、葦の髄から天除き(読売)、非礼悔匿なる調査報告書(報知)」などなど、これでは、我が国が国際社会からよってたかった叩かれて、生命線を扼殺されると思い込んでも仕方がなかった。こうして新聞によって導かれる当時の日本の世論が、殆ど国際連盟脱退への強硬論一つに固まってしまうのは目にみえていた。

白木屋の火事
昭和7年12月(1932年)

 非常時とはそもそもなんなのか。国家の危機、重大な時期であるが、今から見ると、自業自得の感が強い。昭和6年の満州事変に始まり、7年の上海事変、血盟団事件、満州国の建設、5.15事件、国連脱退で孤立化へと、日本帝国は軍事大国化への坂道をひたすら転げ落ち、民衆はそれについていったのである。昭和8年の国家予算は過去最高に跳ね上がって、22億3800万円という巨額になった。新聞は日本始まって以来の非常時大予算と報じた。これが「非常時」と言う言葉が流行するきっかけになったらしい。陸軍や官僚が早速「非常時、非常時」と盛んに吠えだした。つまり「非常時日本」は昭和7年からスタートしたことになる。そして小学校教育にも軍事教練を導入していこうとする動きがでて、文部省が青年学校の設立を計画するようになった。
 さて、B面話は非常時の話を主題にしては面白くない。この年昭和7年12月16日、歳の締めくくりにもあたる大事件が起きた。年末売り出し中の日本橋白木屋(のち東急、今コレド日本橋)で大火事があり、近衛3連隊の1個中隊と軍用機7機が出動した。結果として女店員14名が死亡、重軽傷者百数十名が出た。気の毒にも亡くなった女店員たちはみな和服を着ていた。火事となって救命ロープにつかまって脱出したとき、煙火の勢いで着物の裾がまくられるのを押さえようとして、つい片手を離してしまった。そのため転落した気の毒な事故になった。彼女たちはズロースをはいていれば死ななくても済んだのである。これ以後、「ズロースをはけ」が自然に流行語になり、白木屋では女店員はズロースをはくのが義務となった。街ではズロースをめぐって駄洒落が語られた。坂田山心中事件をもじって、
 「天国に結ぶ恋の彼女はズロースをはいていただろうか?」
 「はいていなかったにきまっているさ」
 「へエー、なぜわかる?」
 「美人はくめい(薄命)」
念のために書くと、湯山八重子さんはちゃんと和服の下にズロースをつけていたという。彼女はミッションスクールに通い、寄宿舎生活をした経歴があったからだそうだ。
 昭和7年、非常時、非常時と言われるようになっても、まだ、この程度ののんびりとした、ユーモラスなムードは巷の生活の間には残っていたのである。 ( つづく 2022.11.5記)

(註)写真出典:「流行歌と映画でみる昭和時代Ⅰ」遠藤憲昭 編 
   発行者 佐藤今朝夫 国書刊行会1986.2.10発行。

   なお写真と文章は、白木屋の火事を除き直接関係ありません(筆者)。

 

(2022.11.5 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(7)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その2)

つづき 

昭和5年~7年

 

 

 8月にニューヨークで起きた株価暴落による世界経済へのショックの年、ドイツのツエッペリン飛行船が来たことで、終わった昭和4年、株価暴落は、そのまま引きずって昭和5年の日本を大きく揺さぶった、生糸の暴落、米の暴落と続き国の経済基盤の根底はぐらつき、失業者は都会にあふれ、全国にストライキが続発した。東北の農村では昭和2年以来の娘の身売りが復活した。当然ながら左翼運動が活発化した。ところが、当時浜口雄幸内閣はそれらに対して手の打ちようがなく無策であった。1月からのロンドン海軍軍縮会議を前に野党の攻勢に政府は悪戦苦闘、民草の苦しさをよそに権力闘争に明け暮れ、海軍部内は分裂するという醜態をみせていた。それは、その後の「危機の時代」の開幕ともいえ、次の「破局の時代」の前夜であったかもしれない。
 始めに少しだけ景気のいい話をかいておくと、3月に行われた「帝都復興祭」というのがある、関東大震災から7年たって東京の復興工事は順調に進んでいた。隅田川の6大橋はこの大事業として新たに建設されたものである。川上から言問、駒形、蔵前、清洲、永代、相生である。これは大正11年の海軍軍縮条約の結果、建艦競争が終わりになったため、鉄材や職工が多量に余ってしまったためである。震災の時、橋がなくて多くの死者が出た経験があるので丁度良いということになり実現したもので、これこそ平和利用というものであった。  昭和5年月3月26日皇居前広場での復興祝典(関東大震災からの)は盛大におこなわれた。新聞の社会面の見出しは狂気乱舞した。朝日新聞曰く「歓喜の乱舞の中に湧き立つ全帝都、昨日の人出実に200万、素晴らしい復興の門出よ」。そして夜の表現「闇も焦げよと打ち振る提灯の海、夜景を彩る花火に総和して延々2万人の行列」。そして祭りが終わると又、意気の上がらぬ暗いに話になってしまうのである。景気のいい話はここまで。
 「ルンペン」という言葉を知っているだろうか。朝日新聞の小説の”浮浪者”に作家の下村千秋がわざわざ”ルンペン”とルビを付したところからそれが流行語になったといわれている。この年の4月に東京市民をビックリさせる大ストライキがあった、東京市電・市バスの職員13000人が首切り反対、給与及び賞与減額反対である、当時の市電・市バスは割合給料がよかったので殿様ストライキと言われた。冷蔵庫などない時代なので、消費者から反発が起き5日目にストライキ側が負けた。不況は都会も地方も同じであった、ただ地方には多少ユーモラスな話もある、この年は米が大豊作に恵まれた、となると米価は目に見えている、急落である。「余るものに原価なし」というが、農村も不況のどん底に落ちてしまった。愛知県のある村では、不況対策として「タバコ、酒を一切廃止すること、中毒的なものはタバコは刻みに限る、酒はごく少量を認める、理髪、結髪につい
ては、自宅でやり、男は丸刈り、女は束髪にすること」を取り決めたとのことである。農民の生活も生か死かの岐路に立った。例えば、汗水たらして作ったキャベツは50個でたばこ敷島1箱(18銭)、かぶは100把がゴールデンバット一箱(7銭)、繭は3貫、大麦は3俵でたった10円だった。下々がこうして生活苦にあえいでいるというのに、上の政府は海軍軍縮条約に絡めて統帥権干犯題などに大騒ぎしていたのである、まことに情けない話である、朝日新聞は、「政治が軍部を統制せよ、軍事をして政治に口をはむことなかれ」とか、「空前の経済困難を打開するのに軍費の節約が絶対に必要なることは国民の常識である」とか各紙が一斉に主張した。 
 不況話が少し長くなってしまった。B面話に戻ろう。昭和5年の流行語は西のルンペンに対し、東のエロ・グロ・ナンセンスであろう。エロ・グロは前からあったが、これにナンセンスが付いたのは時代の象徴でもある。この年の閣議で、非常識を意味する、ノンセンスがナンセンスと変わってモダン化したことが、突然閣僚間で話題になった。

江木翼鉄道大臣 ナンセンズ? つまり、それは他愛のない話ということなんですかな。・・・
幣原喜重郎外務大臣 いや、それより与太話とした方がいいのでは・・・
すると浜口首相が割って入って 
ハハハ その訳は簡単ですよ、今話しているこんな場面が、すなわち、そのナンセンスということなんですな。・・・

 このナンセンスな時代をよく分からせてくれるようなことを、日日新聞がこの年の夏に大々的にやってくれた。何だと言うと、ロバ、牛、豚、山羊に富士登山競争をやらせた。さらに、何時間何分で頂上につくか、というクイズを出して読者から懸賞募集をしたところ、これが大当たり、新聞の部数が伸びたという嘘のような本当の話がある。おかしいのは選手?の名前を公募して、ロバは太郎、牛がお花、豚が東吉と日出雄、山羊は不二子となずけられた。スタートは7月20日の午前4時、各選手に記者はカメラマンがついて、ガンバレ、ガンバレとさかんにハッパを掛ける。ばかばかしい話だが結果は1等が牛で8時間10分,2等はロバで8時間40分、3等が山羊で18時間、豚は2日がかりの29時間だったとか、これぞ、おおナンセンスというばかりである。こうなると当然でてくるのがエノケンである。
 浅草の人気者に、後に一世を風靡する喜劇作家菊田一夫がコンビを組み、二人で時代の波にのり爆発的な大当たりをとったのが「かな手本忠臣蔵」のパロディ「阿呆疑士迷々伝」である。内匠頭が安全カミソリが切腹したり、山崎街道の定九郎がゴルフパンツで現れたり、それを勘平が拳銃で撃つ、とおもうと勘平はカルモチンで自殺し、赤穂城明け渡しで、エノケンの内蔵助が城門にペタリと貸家札をふら下げる。ところが、時代がいくらバカバカしくてマジメにやっていられないときであっても、さすがに当局は許してくれなかった、日本人の模範とすべき忠臣蔵を茶化すとはとんでもないと、菊田一夫はさんざん油を絞られ始末書を書かされた。
 ナンセンスの後にきたのが、エログロ・ナンセンスである。先が見えない不安だらけの世の中であればあるほど、エロチシズムの花は咲く、カフェーやダンスホールでのエロ・サービスである。民衆の不安感に対する反動として、生まれるべくして生まれたものといえる。大阪で繁盛した「美人座」が銀座1丁目に、光は東方より、カフェー文化は西よりと進出してきたのが昭和5年5月31日だった。そして1週間後には復興した銀座の裏通りに雨後の竹の子よりも激しく続出してきて、刺激的な店内装飾に女給群のエロサービス、狂騒的なジャズのリズムで銀座ボーイの魂を完全つかんでしまった。
 という有様で、銀座の横丁は妖気を振りまく赤い灯青い灯の洪水になった。そして現れたのがタクシー・ガール。これを称して「1930年、エロ時代に現れた尖端女性の新職業」といった。当時のタクシーはエンタクと称したが彼女達をエンタク・ガールと言い、ドアを開閉担当の助手が乗っていたのである。そのガールと交渉すると、よろしき宿へと運んでくれるという寸法だったらしい。また1回50銭でキッスをさせるキッス・ガールもいたと言われる。その他、ワンサ・ガール、ガソリン・ガール、ボート・ガール、エンゲルス・ガール、ショップ・ガールなどなど何をするのか分からないガールがやたらに出現した。そして露出度も度を越してきた。そこで、またしても警視庁の出番である。各地の盛り場の興行界にエロ取り締まり規則を通達した。その一部。①ズロースは股下2寸未満、および肉色は禁止。②背中は上体の半分以上は禁止。③胸は乳房以下の露出は禁止。④足は股までの露出は禁止。⑤踊りで腰を部分的に前後左右に振る動作は禁止。⑥和服の踊りで太ももを見せるのは禁止などなど、興行主は悲鳴を上げたが警視庁は頑として認めなかったという。
 1930年、昭和5年、私の生まれた年は、このように、猥雑で、どことなくやけくそ半分のユーモラスな空気が巷に会った年だったようだ。不景気からは脱しきれず、満州問題がくすぶって、政治・軍事面ではキナ臭さが感じられ始めていたが、それでも人を殺したり、殺されたりの戦争のない昭和史の平和な時代のおおらかなときであったのは間違いない。知る人ぞ知る、谷崎純一郎が自分の女房を佐藤春夫に譲るという「細君譲渡事件」があったのもこの頃である。国勢調査によると、日本本州の人口が初めて6千万人台にのった。正確には6千445万人で、これに朝鮮半島、樺太、台湾を加えると9千39万人だったという。農村危機が深刻化し、不景気は加速し失業者が氾濫しているのに、赤ちゃんは続々生まれてきたのだ。そこで日本で始めて産児制限相談所が東京の芝公園にできた。産めよ増やせよが国策になったのは、ずっと後のことである。
 更に昭和6年の終わりにとんでもない事件が起きた。浜口首相が、東京駅で右翼の佐郷屋留雄に撃たれた(翌年8月死亡)。物情騒然たる世情が始まりだした年末に長く争議が続いていた、富士ガス紡績工場で、45米の大煙突によじ登り赤旗を降る男があらわれた。新聞は「エントツ男」となずけた、男は誰が何を言おうと降りてこない。外電までがミスター・チムニーと本国に報じた。結局130時間22分の滞空記録を残し組合側の要求を殆ど会社側に飲ませ、世紀のエントツ男は悠々と降りてきたという。降りてきた本当の理由は、その日、昭和天皇が載ったお召列車が付近を通過するので、上から見るのは不敬である、何とか下ろせ、という当局の強い要請で会社が折れたということである。年末まで騒々しかった昭和5年1930年はこうして暮れた。私はこのような年に世にでたのである。

 いよいよ昭和6年である、田川水泡作の「のらくろ二等兵」の誕生である。この年の1月から少年倶楽部に連載が始まった。なんと10年9か月の連載で134回だったという。この10年は子供にとっては、食べ物の歴史でもある。昭和8年に天ぷらとアイスクリーム、9年にチョコレートとお汁粉、10年にトンカツが、13年には大福、14年は鶏の肉団子、15年キャラメル、なべ焼きうどんとか豚饅頭などが初めて世に出た時代である。資料によると、砂糖とバターの需給がひっ迫しだしたのが14年秋頃からで、東京中の砂糖が品切れになり、バターがなくて西洋レストランの味ががた落ちになったと言われる。
 「降る雪や 明治は 遠くなりけり」という名句は昭和6年の中村草田男(腐った男と読むのかわからない)の作である。始めは、雪は降り であったのを後日「降る雪や」になおした。降る雪やは、軽い詠嘆の感じ、つまり一切の追憶も哀愁もすべて蔽いつくして、シンシンと降る雪なんだそだ。昭和になって間もないのに、老若男女の風俗はまるっきり一変した。明治からまだ20年そこそこなのに、もう明治生まれにはついていけない速さだったようだ。その先端に立ったのが、モボ、モガそして色々なガールの出現。ガールのシンボルはそのヘヤースタイルである、そして洋装、引き眉毛、濃い口紅の化粧、当時の川柳に、「マネキナンの爪まで 女房見て帰り」といのがある。昭和になって、だんだん女性が強くなってきたことは、もう確かな事実としてみとめるほかはなくなってき。麹町高等女学校の卒業生に理想の夫は?という質問をしたら、背が高くて健康、酒やたばこはすこし、着るものに気をかけないこと、妻や子供のあらゆる質問に答えられる学問と教養のあること、などはいいとしても、「結婚してから妻が異性と交際しても何も言わないような理解のあるひと」があったと、草田男はなげいた。
 しかし、時代はこんな笑い話で済むような時代ではなかったのである。昭和6年のGNPは戦前昭和の最低だったのだ。農村の住民は殆ど米を食べることができず、粟、稗を常食とした。そのうえ気候不順のため魚は取れず、どっちを向いても真っ暗闇の世の中である、亀戸、玉の井などの私娼窟の女たちは、殆どこの頃は東北弁であったといわれていた。ない袖は振れないと、政府は昭和4年以来問題になったいた公務員の給料減額を正式決定、天皇の裁可を得て断行することにした。各省の職員がどんなに反対しても万難を排して実施すると発表、新聞もこれにエールを送った。
 とにかく昭和改元以来ずっと不況だったのである。そんな中で生まれたのが、名曲「酒は涙かため息か」である。世の中不況不況となんとなく暗い世相に、前年から小さな小競り合いをしてきた支那との問題がクローズアップっされてくる。満州の権益は20億の国費と10万の同朋の血をあがなって手に入れたものである、日本の生命線である。と外務大臣松岡洋右が獅子吼した。しかし、大震災以来こんなに消耗した国力をどうにかしなければ、国防をまっとうすることはできないと、いらだった軍人たちが立ち上がることを決意したのは、歴史の必然かもしれない。

1931.9.18柳条湖事件記念碑

 昭和6年9月18日、今の中国東北部、当時の満州の満鉄奉天駅近くの柳条湖付近の線路が爆破された。いわゆる満州事変である。当時は支那軍がやったと言ったが、真っ赤なウソで関東軍がやったことは、今では知らな人はいないであろう。私は、この記念碑を見たが、横には当時日本軍が建てた、碑が横倒しにされているのが、時代を象徴している光景であった。支那軍の張学良は反撃は無理と考え国際連盟に訴え世界の世論を味方につけようと考え国際連盟に提訴した。そして有名な、松岡外相の国際連盟脱退の大演説の舞台が回ってくるのである。この時は今の国連で言えば世界の5つの常任理事国の一つだったのだ。バカなことをしたとしか言いようがない。

昔日本軍が建て倒された記念碑

 この年、9月1日は「世界最長の清水トンネル」が開通した。当時の新潟は、米どころだけではなく日本唯一の石油の産地。米と石油を東京へ運ぶには険阻な三国山脈が大障害だったのだ。凡そ世界一なるものがなかった日本に初めて、世界に誇るものが誕生、それまでの半分以下の時間で東京へ運べるようになったのである。それほど、日本の科学技術は高くなっていたのだ。その証拠にアメリカでトーキー映画が試作されたのは昭和2年(1927年)、そのトーキーの本格映画が日本で始めて上映されたのが、この年の8月、松竹蒲田映画の「マダムと女房」である。機械が声をだすのに、天と地が引くり返ったような大騒ぎになった。更には、国産の第一号旅客機(乗客数6名)が完成したのもこの年昭和6年である。それに先立ち羽田に飛行場が完成した。東京~大阪間30円、寝台特急が80銭のときである。西欧が何十年もかかって作りあげてきた「近代化」を日本は短時日で築こうとし、それが昭和6年頃から成功しつつあったのである。

(つづく)

 

(2022.9.10 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(6)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

 

 

 
 1953年昭和28年4月、KDDが創立された頃はまだ朝鮮戦争は終わっていなかった。凡そ3年半近くに渡って死闘を繰り広げ、日本に特需をもたらした戦争が終わったのは7月であった。その頃の外信部門は、最新式の通信設備を使った米国との回線や、スピーカーに耳をくっつけてようやく聞き取れる微弱電波で受信していた、ヨーロッパや地球の裏側の国々との回線など、国際無線通信の華々しい職場であった。

 対米回線は5単位プリンターと言われた、大きな黒い箱の中で、カチャカチャ、カチャカチャ、とリズミカルな音を出すプリンターと、縦に5つの穴が開くテープをタッタタッタ、タッタタッタと流れるように送りだす送信機で送受するのが第一級回線とすれば、スピーカーに耳を吸いつかせ、ピーピー、ガーガーの雑音の中から信号を聞き取る劣悪回線は、国際無線通信の超一流の腕を持つ第一級無線屋の檜舞台でもあった。

 地球の裏側とは、何処を回っても20000キロある。受信する電波は東西南北、全方向から来るので、その中の強い信号を聞き取るのが腕のみせどころでもあった。その無線通信の化石ともいえる今は亡き先輩諸兄や我々老体は、今のSNSと称する媒体には、多くの人は縁がないといえる。フェースブック、ユーチューブ、ツイッターなど、私は一も使ったことがないのに、毎朝、パソコンを開いて一番にやるのが、夜のうちに溜まったこれらの、くだらないゴミメールの削除である。私は妻が亡くなった後、そのアカウントも自分の名前にしているので受信トレイが二つある、その中には大事なメールも混ざっているので、いちいち選別して削除するのが一仕事である。

 もし電波に色がついていたら、地球はおそらく空が見えないほどの色糸に覆われているであろう、昔の宮廷で遊んだ蹴鞠の毬のごとく電波の糸で包まれた大きな輪にみえるだろう。そんなことを全く意識しない現代人が携帯電話の文字盤を、あたかもキツツキの如くつっついているのを見ると、すでにわれわれ年寄とは別種の人間に思えてくる。こうして年寄は、現代人と隔離され、ただただ来し方の足跡を振り返り、涙を流すのである。

 昨年1月に亡くなった、ミスター昭和、半藤一利さんは、私と同じ昭和5年生まれだ。彼は遅生まれなので、学年は1年下になる。彼が書いた昭和史は、その名の通り昭和元年から20年の敗戦までの20年間の軍部の動き、満州建国、ごり押し政治、などを主とした表の昭和史と、B面と称する、社会現象や銃後の動きなどを面白可笑しく、中には切々と、ある時は悲憤慷慨に燃え、ある時はユーモアたっぷりに書いた別冊がある。これが面白い、私と同い年でしかも東京の向島生まれなんだから私が知っている、覚えているようなことは、彼も当然知っているだろうけど、本の内容は自分がすでに大人で実際に経験・体験をした様な内容が殆どである。私が知らない世間の出来事が沢山書かれている。書くことが本職なんだから当たり前だとしても、ものすごい量の参考文献にうずもれていただろう。本人の記憶は1/10位で、あとはそれらからの引用だろうと思う。まだお読みになっていない方々も多くいると思うので、昭和前半の軍国主義時代の、固い表話ではない、ヘー っと思うような記事を紹介させて頂こうと思う。全て「半藤一利著、昭和史B面 平凡社2021,7.15刊」からの引用である。

 

 大正15年12月25日、午前1時25分大正天皇が葉山御用邸で崩御された。時に25歳、同じ御用邸内で践祚式が行われ昭和が始まった、昭和は表話だけでも膨大な話題がある、しかし、こんな話は分かりすぎているし、我々同輩はみな知っていることばかりで面白くないし。そこで、昨年亡くなった半藤一利さんの書いた「昭和史B面」話から、面白い話題を拾って見た、そうかあんな話があったな、と昭和生まれの多い、k-unet会員のご老体は思い出すであろう。思い出さなかったら、老化が相当進んでいるか、あるいはまだ若くて知らない話と思って頂きたい。

 まず元号の昭和のいきさつである。東京日日新聞(現毎日新聞)が、枢密院において、光文,大治、弘文などから、光文に決定するだろうと、特ダネとして号外をだした。その後昼頃になって、朝日と時事新報が号外を出した、元号は昭和とする、というものである。日日新聞は震撼した、本当なら100年に一度の大誤報になる。光文は、日日が枢密院の秘書課長から光文になるらしいとの極秘情報を入手したためである。元号候補は43もあったという。光文は、日日が号外を出したため、その通りになったら枢密院の沽券にかかわるということで、急遽変更になったそうである。

 この後、「昭和の子供」というジャズ調の歌が流行った、私も今でも歌える。「昭和、昭和、昭和の子供よ、僕たちは・・・」という。この頃は昭和の昭の字はほとんど人が知らなかったたと言うことである。まして昭の字の入った熟語は知らない。そして、昭、昭介、和夫、和子、和江,昭子が一挙に増えた。そして昭和元年は1週間しかないので、生まれたばかりの赤ん坊がすぐ2歳になるのを不憫に思って、昭和2年1月生まれにした親が多かったということである。

 

 昭和2年は不景気で明けた、何時の時代もそうであるが金持ちと貧乏人との格差は不景気の時ほどひどいものだ、特に若い女性の自殺が続出した。一方、日本ラグビー教会が正式活動を始め、5月には第1回日本オープンゴルフ大会が開催された、デパートや貴金属店がやたらに活気好き、劇場、寄席が満員が続いた。しかし、この年は喪中の年である、新1年生は黒い腕章とか黒リボンを付けて入学式に臨んだそうである。そして各地の銀行が取り付け騒ぎを起こすなど、昭和の始まりは暗い幕開けだった。

 しかし、こうした鬱とうしい時勢にあっても、楽しいこともあった。本が売れるブームが始まったのである。戦前の昭和でも奇跡といわれている。特に全集ものが売れた。「尾崎紅葉集」、「世界文学全集」「明治大正文学全集」「日本児童文庫」などなど、円本ブームのこの頃、新しく乗り出した電通が先輩博報堂に挑戦、社運をかけて大宣伝を繰り広げたと言われる。そして、作家連中もいい思いをした、軽井沢に別荘を建てたり、高級自動車を買ったり、海外旅行を楽しんだり、豪奢な邸宅を新築したりした。

 そうした作家がこの世の春を謳歌している一方で、芥川龍之介が自殺した。享年35,動機については多くの理由が語られているが、作家として行ずまったとか、発狂したとか、悪性の性病にかかったなどと言われたが、本人は「将来に対する漠然とした不安」といい、後年その後の”昭和”に対する予言とも受け取られた。

 

 大正12年5月には小田原急行鉄道が開通した。2時間20分で小田原に着き料金は1円36銭、のちに昭和17年には東京横浜電鉄の創業者、五島慶太が小田急を合併して東京急行電鉄という大鉄道会社を設立する、五島慶太は、関東大震災で焼け出された下町の人間がみな郊外へでてきた、私たちが住宅地を造成しておいたおかげ皆入れたんだ、とうそぶいた。そういえば、五島慶太の東急と堤康次郎の西武との宅地造成合戦が繰り広げられたのは、戦後のことである。因みに下落合~東村山間の今の西武新宿線が初めて走り出しのは、昭和2年4月のこと、私は昭和5年生まれであるが、結婚したばかりの母親が、線路工事の音が夜中もうるさくて、眠れなかったと言っていたのを思い出す。

 昭和になった時には東京には15区しかなかった。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川である。渋谷、新宿、池袋などは田舎であった。三軒茶屋などは茸の産地だったそうだ。

 話は変わって、半藤さんの本によると、「昭和2年12月20日、暮れも押し詰まったころ、上野、稲荷町、田原町、そして浅草の道路上にマッチ箱のような小さな建物がポッカリト出来上がった」と書いてある。日本初の地下鉄が開通したのである。全線2.2キロ、所要時間5分、全線十銭均一、物見高い江戸っ子は初日になんと十万人が押しかけた。地下鉄の父と呼ばれた早川徳次がロンドンの地下鉄をみて東京にもと思ったのがきっかけだそうである。

 明治を鉄と石炭の時代と称するなら、昭和は電気とガラスの時代だった、という人がいたそうだ。軍事的には後に、石油の時代が追っかけてくる。電気時代を代表するものにラジオがあった。昭和3年、昭和天皇の即位の大典に合わせてNHKは全国に放送網を完成させた。これへ相撲中継を載せた。この頃の相撲は人気がなく協会は経営難でふうふう言っていたそうだ、そこへNHKからの話である。しかし、親方衆の中には「そんなことしたら、ますます国技館の客は減ってしまう」と反対するものが沢山いた。ところが出羽の海親方が、相撲で面白い勝負を耳にすれば相撲に関心の薄い人も国技館にきてくれるようになる、と決断し、初めて大相撲の中継が流された。これが大当たりで、大鉄傘の中は超満員になったということである。

 昭和に入っても世界の趨勢から見ると、まだまだ日本の文化はあらゆる面で遅れに遅れていたといえる。ともあれ普通選挙が実施されるようになり封建的な雇用制度、つまり丁稚小僧精度がくずれたことなど、大正デモクラシーの成果がみられるようになってきた。そして貧困生活を救うものとして社会主義思想が猛威を振るいだしてきた。

 

 昭和4年、私の最も好きな超懐メロの一つ「東京行進曲」が流行りだした。早稲田大学仏文科の教授、西条八十が作詞したこの曲の4番は、「シネマ見ましょかお茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」ですっかり有名になったが、実は元の歌詞は、「長い髪してマルクス・ボーイ、今日も抱える赤い恋」だったと西条本人が言っている。マルキシズム全盛で、長髪で深刻な顔をした青年がソ連の「赤い恋」を抱えているのよく見かけたと述会していた。ところがレコード会社がビビった。これじゃ官憲から文句が出るので書き換えてくれと苦情がでた、そこで西条はやむなく、当時の人々の関心が高かった、シネマと郊外電車を登場させたということである。

 大学は出たけれど、インテリが嘆いた不景気な年でも、忘れられないのは、1928年8月のアムステルダム・オリンピックである。織田幹雄選手が初めて金メダルを取った。三段飛びで15メートル20センチを飛び、米国のケーシーの15メートル17センチを抑え高々と日の丸を上げ、君が代が奏楽された。ところが、その日の丸だが、まさか日本人が優秀するなんて誰も思っていなかったので、アムステルダム市中どこにもなかった。さあ困ったとなった時、日本選手団から申し出があった。万一勝ったとき体に巻いてフイールドを歩こうと思って持ってきた、大きな日の丸である。センターポールに掲げられた日の丸は、2位、3位の2倍以上もあったということである。そして同じ日、人見絹江が女子800メートルで世界タイ記録をだしている。

 

 昭和4年(1929)は騒がしい年になった、満州事変が勃発し、不景気は相変わらず立ち直らず、10月には海の向こうでウオール街の大暴落が起き世界的大恐慌と言う、容易ならざる大事が襲ってきた。でもB面話をする本稿では、そうゆう固い話はしない。前年につづいて一世を風靡した「東京行進曲」の作詞者西条八十の続きである。彼は天才である、歌詞の中に昭和モダニズムを十分に取り入れた。いわく、ジャズ、リキュール、ダンサー、地下鉄、浅草、新宿、シネマ、小田急などなど。レコードは飛ぶように売れた。ところが、とんでもないないところから文句がでた。社名を勝手に縮めて使うのけしからん、これではわが社は恋の逃避行電車のようではないか、許しがたいと小田原急行鉄道会社がねじ込んできた。ビクターが回答のもたもたしている間に東京行進曲は全国的な流行になり、「小田急」という略した社名の方が全国的になっていく。鉄道会社は渋い顔をしながら内心ニヤリとした。その証拠にしばらくたって正式社名を小田急と変えてしまった。(ただこれは嘘で正式に変えたのは1941年だからと半藤さんは言っている。)でもにゃりとしたのは事実であろう。

 この年には新語がでた、曰く、モボ、モガ、モボはモダンボーイだし、モガはモダンガールはもうご存じだと思うが、ステッキガールというのもあった。お金をもらって銀座を散歩したり、映画に付き合ったりする女性のことだった。夜までは付き合わないということであった。昭和史のB面話はまだ続くが、昭和4年で一区切りつけたい。5年以降は次回に回すことにして、昭和4年に世間を騒がした話をして締めくくりたい、それは、ご同輩はご存じであろうが、説教強盗の話である。犯人妻木松吉(29歳)が狙ったのは、もっぱら富豪や名士の邸宅とか小金持ちの家。猫なで声で縛った家人に長々と説教する、戸締りが悪すぎるとか、ガラス戸だけでは不用心だとか、犬を飼えとか言いながら、いろいろ食事をすませ一番電車で悠々と引き上げていったと言う。「悪事は悠々と働いてこそ光る」というのが座右銘であったとか。懸賞金をかけられた末逮捕されるが、刑期は2年、出所後は警察の依頼「防犯の心得」をあちこち講演したといわれる。

 昭和史B面の第一部の最後に昭和4年には、ドイツのツエペリン飛行船が来たことを書いて、ひとまず終わりとしたい。

(2022.7.25 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(5)

樫村 慶一 

 

今年は、

戦前戦後体制

の平行年

 戦前の世相

を知る投書

 

 私は年紀というものに、割合興味を持っている、ということを以前の四季雑感に書いたことがある。何々の何年目だとか、あれから何年たったとか、かといって、どうってことはないから、すぐ忘れてしまう。そうゆう性格だから、物事を記録するとか、或いは色々な届け物などの書類も絶対に元号は書かない。最近は役所の用紙も、年号欄の初めには何もないのが多い、かっては、昭和とか平成などがあらかじめ印刷してあったものだが。だから、私は、お寺ごとも西暦を使う。塔婆は勿論、墓誌の妻の死亡年号ももちろん西暦である、先年、先祖の墓地に行ったが、徳川時代の元号が色々書いてあったが、いつ頃死んだのか見当がつかない。西暦だった、ヘー 何年前だったのか、とすぐわかるのにと思う。 
 その手で今年を見てみたら、面白いことが分かった。今年は、日本の国家体制が両極端に分かれて、それぞれ同じ年月が経った年である。つまり、明治維新の1868年から1945年の敗戦までの、帝国主義、神格化された天皇、軍国主義の時代が77年間続いたこと、そして、1945年の敗戦で民主主義、人間天皇、自由主義国家に180度変わってから77年経ったということ。つまりここまでで、日本は二つの国家体制を同じ年数だけ経験したことになる、世界でも珍しい国である。

  さりとて、明治時代は明治45年まで、つまり1912までだから、明治最後の年に生まれた人でもすでに110歳だ。だから実際に明治の風俗を知っている人は、もういないということになる。4月の20日過ぎに世界最高齢だった人が、119歳で亡くなった、今最高齢はやはり日本人で115歳だそうだ。今、日本には100歳以上の人が凡そ65000人いると報道されていたが、明治時代最後の人達(1912年、明治45年と大正元年)でさえ帝国主義の時代は33年しか生きていない。1945年(敗戦の年)生まれでも、もう77歳だ。物心ついて記憶に残るのは5歳くらいからだから、帝国主義の時代を少しでも覚えている人は、日本全体でも僅かしか生きていないと思う。

 私も生まれてから戦争が始まる(1941年)までの11年間の、平和な昭和モボモガ時代を生きたけど、物心ついて記憶にあるのは6,7歳からほんの5,6年間のことである。この時代、軍国主義最高潮の時代だけど、普通の生活をしていくには、なにも不自由はなかった、だからおしゃれな服装髪型に工夫がなされ、モボモガが盛り場を闊歩していたし、今も残る数々の名曲歌謡曲がうまれ、タバコや酒類が店頭に豊富に並び、ダンスホールやバーが繁盛し、野球もプロ野球が始まり、新天地を求めた南米への移民が最高潮期を迎えるなど、戦争とは全く縁のない社会が存在していたのだ。要するに今の中国と同じで、国家体制に不平不満をいわなければ、庶民生活には何の支障もなかったということである。

 映画にもなった「日本の一番長い日」というドキュメンタリーを書いた半藤一利とい人がいた。昨年91歳で亡くなったが私と同じ昭和5年生まれである。しかし、昭和時代の知識の塊見たいな方である。昭和の歴史を表からとらえた本と、三面記事的視点で社会的事件などを主にした、昭和史のB面という2冊ペアーの本がある。面白い、まああ あれだけの本を書くのに、百倍位の参考文献を読みこなしているように感じる。書くのが商売とは言え、ただただ敬服あるのみ。私もそんなことがあったな、ということはおなじ歳なのだから知っているが、細かい出来事でも表も裏もよくもこんなことまで、と思うほど知っているし、流ちょうで江戸っ子的、切れの良い文章で、奥深くまで探求し、名士の残した言葉や歌(俳句、詩、名言、歌謡曲の歌詞など)をふんだんに引用し、知識造詣の奥行の深さ感じさせられる本である。 
 戦前の昭和は平和だったと思っていたが、それはあくまで表面で、裏では特に陸軍が満州を柱にちょくちょく事件を起こし、中国(当時は支那)と小競り合い繰り返し、だんだん侵略していった様子がよくわかる。太平洋戦争までは表向きは平和であったが、表も裏も一番落ち着いていたのは昭和9年10年頃だそうだ。この時代に生きた庶民の生の声が朝日新聞の投書に残っている、それを紹介しよう。(文面は現代文に修正し一部簡略した)

1.南米移民

 『南米熱に浮かされた私は家族5人と、昨年5月ブラジルに移住した。私達は不運にも辺鄙な農園にやられた。電灯のない豚小屋みたいな生活は覚悟はしてきたが、その後の1年間の生活は来る前の想像以上に惨めである。米は簡単には手に入らない、野菜を作れば野獣に食われる、鶏を飼えば盗まれる始末だ。 (中略) 腕1本で小作から成功するには至難のこと、日本で宣伝される「南米成功者」など千人に一人もいない。渡航の船中は勿論、上陸の際にも賄賂に使うだけの金を準備するのを忘れてはならない。欧米移民に比べて日本移民には日本政府の保護施設も機関も何もない。いつになったら、「移民は棄民なり」の諺から抜けられるのか暗然とする。 (在ブラジル一移民より)1929年5月21日』

2.婦人雑誌

 『近頃の婦人雑誌の記事はどうしてこのように汚い乱暴なものばかりになったのでしょう。先月号のある雑誌の広告には、「やきもちは如何に焼くべきか」とか「夫婦喧嘩の必勝法」などというのがあった。来月号の広告も夫婦愛増進号と称して「男性の心をつかむ奥の手公開」だの「妻が夫に恋される秘訣伝授」だのと言う題目がいくつも並んでいる。雑誌は多くの婦人の良友であり休養所であります。それが今日の如く私達の読むに堪えないものとなっても、どうすること出来ないと言うのは情けないことだと思います。 (たへ子より) 1927年6月23日』

3.駅名の呼び方論争

 『秋葉原の読み方に異議をとなえた人の提灯を持つ。鉄道省はアキハバラを本来の呼称たる「アキハノハラ」にあらたむべきである。どこを探してもアキハバラなんてところがあるものじゃない。秋葉原は私の知る範囲でもう一か所ある。向島の秋葉神社の境内で、アキハノハラと知られていた。地名を勝手に読みたければ、神田をカミタ、徒土町(おかちまち)をトシチャウと読むがよかろう。江戸っ子はなにおボンヤリしておる。 (無腸居士より)』

 『小生も不快感をもっておる。我が長野県下をみても、カルイサハ(軽井沢)をカルイザハと濁らせた。製糸で有名ヲカノヤ(岡の谷)をヲカヤとした。地名は固有の歴史があってそれがやがて大日本の歴史の一部になっておる訳けで、独断で清(す)ませたり濁したりできまい。駅名制定の主義を承りたい。(積水生より)』

 『駅名における処置、甚だ不快に感じおり候。高田馬場をタカダノババは聞く度に不快に候。蒲田をカマタとは何故か。カマボコより他にカマとよむのを知らず候。(沐芳生より)1929年2月16日』

 『蒲田出生でありますが、土地の人は誰でも昔からカマタと称しております。だからカマタの方がいいと思います。(KF生より)1927年2月18日』

4.鰺の抗議

 『私はアジという魚です。うまくて滋養にとみ、安いことはご承知の通りでしょうが、この4月から市民や農民諸君の口に入るために運送されると、2級の運賃をとられます(生糸が1級)。生活必需品値下げの声明に比して、乱暴な運賃改正という他ありません。われわれ魚類は漁場でとれた新鮮なものをどんどん送られるから皆さんがおいしく食べられるのです。常に氷詰めにされて荷造りされるから、自分の重量の約3倍の運賃を納めます。4級とするのが正当でしょう。専門業者を入れないで級品改正なんて絶対無理ですよ。(房州鰺より)1930年2月6日』

おわり  (2022.5.5 記)

 


 

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新 四 季 雑 感(4)

樫村 慶一 

 

あの時から60年、還暦にまた巡ってきた恐怖の日々

 

 1962年(昭和37年)10月に起きたキューバ危機から今年は丁度60年目である。この時の世界中の人々の恐怖感というのを、はっきり覚えている人もだんだん少なくなってきていると思う。この頃に20歳の人も80歳になっている。私は32歳で宝塚の清荒神社宅にいたが、なんだか落ち着かなくて狭い座敷の中を歩きまわっていた思い出がある。当時の世界中の人が多かれ少なかれ、恐怖で落ち着かない気持ちでいたものと思う、そして、もう生きている間には2度と起きないだろうとも思った。
 それが、どうだ、2度目が来ているように思うのは、長生きしたからかなのか、動物は生存のためにみな闘争本能を持っていると言うが、人間の中でも特にロシヤ人は野生動物と同じなのか、或いはそれ以上に野蛮なのか、なぜここまで愚かな人種なんだろう。
 あの時は、ケネディの方から核の話を持ち出したと思うのだが、今度は逆だ。抑止力というのは相手が言いだした時に、反論するときに使う話だと思うのだが、これも野蛮なロシヤ人の言うことの意味が分からない。ただただ、可哀そうなのはウクライナの国民だ。たった昨日まで平穏に暮らしていた家庭に、目をさましたら一挙に爆弾が落ち始めた、こんなことって・・・・、後は絶句!!。

 私は古い懐かしいカメラをオークションで集めていることは、以前に四季雑感の場をかりて書いた覚えがあるが、手にいれたカメラはただの部屋の飾り物ではない、実際にフイルムを入れて撮る。これが楽しいのだが、撮影対象を季節の花にした。花は一年中どこかで何か咲いており、それを追いかけていると、飽きないし、身体だけではなく頭の運動にもなるし、カメラを弄る最高の楽しさが得られる。ただ、場所は歳を考えると余り遠出は無理で、遠くでも精々多摩地方までである、その中に西立川の昭和記念公園がある。立川市の公式観光ガイドの肩書を持つ女性の友人がステッキガールを勤めてくれて、昨年から3回ほど出かけた。そして時節柄、興味のある話を聞いたのでご紹介しようと思う。下記数枚の写真は、かって一面が平地だった昭和公園の現在の地形を現わす。

立川駅側入口から平らな地面が広がる

1.昭和記念公園の地下に!?・・・・それは都市伝説!?

 国営昭和記念公園の地下に政府の重要拠点がある、といった話をきいた。正式に日本国政府が認めてるわけではなく真偽は不明だが、近くに米軍横田基地があることや、太平洋戦争時に昭和天皇が長野県松本市に避難する際に使用されたのが甲州街道だったということがこの説の信憑性を高めているようである。たしかに広大な敷地(公園の外れ)には自衛隊、海上保安庁、警視庁等の分室のような建物があり、昼間はしょっちゅうヘリコプターが飛んでいる。国家機密上および防衛機密上の理由から真偽が確認できないため様々な憶測を呼び、都市伝説化することが多いと言われるが、客観的に裏つけるような話もある。

平地だった所に丘陵地帯が出来ている

 というのは、元は日本陸軍の飛行場施設で、広大な平地だった。それが、いまでは、敷地内に丘や川が流れ、道路が昔の位置よりも1メートルくらい高くなっている。それらの変化をもたらした、膨大な量の土をどこから持ってきたのか、建設当時、ダンプカーで土を運んできた様子はなかったと、生まれてから立川市に住んでいる、上記の友人女性は言うのである。もうお分かりだろう、地下を強固な施設にするために広大な範囲を掘った土を盛り上げたということである。さらに、これは私もにわかには信じ難いが、霞が関辺りから地下トンネルで直通道路が出来ていると言う。その他にも、下記のような都市伝説的話がある。

2.首都高速を戦車が走る説?

旧日本陸軍の飛行場跡を思わせる平地
この欅が昭和記念公園のシンボル

 首都高速道路は有事の際、戦車を走行させるため高架が頑丈にできているという話。総重量50トン程度である戦車が通行する事は可能である。海外でも滑走路にもなるドイツのアウトバーンなど、有事の際の軍事利用を前提に設計された道路はあちこちの国々にも存在する。

3.国道16号は首都圏防衛ライン説?

 国道16号は有事の際の首都圏防衛ラインとなり、戦車を走行させるため道幅を広げているという話。随分広い地域になると思うのだが。確かに16号(久里浜から館山まで)で囲むと、東京港、横浜港が含まれる。

4.地下鉄丸の内線は核シェルター説?

 丸ノ内線(特に国会議事堂前駅)は有事の際、国会議員や都庁関係者が退避するための核シェルターになっている、という話。それなら、大江戸線とか副都心線の方がずっと深いので効果が高いと思うのだが。

5.地下鉄有楽町線は軍用路線という説?

 有楽町線は有事の際、防衛省のある市ヶ谷駅と、平和台駅(第1師団司令部が置かれている練馬駐屯地)、陸上自衛隊朝霞駐屯地に近い和光車庫、さらには、西武池袋線稲荷山公園駅(航空自衛隊入間基地)との間で、軍事物資や人員を運搬するために作られている、という話。

6.東京地下鉄の謎の連絡線?

平地だった所に谷のような場所も出来た

 営団地下鉄・都営地下鉄には、蜘蛛の巣のように脇線という線路が存在すると言う。現実に複数路線における車両整備の一元化や新車搬入の為に、いくつかの路線の間を結ぶ連絡線が存在することは、鉄道ファンなどには古くから周知の事実であるが、これが政治家達の避難用だと言う話がある。

7.内堀通滑走路説?

 皇居外苑から日比谷公園にかけての内堀通から祝田通にかけての区間は直線であるため、日本有事の際は代替滑走路として使用される。その際は桜田門の警視庁庁舎が管制塔として使用されると言う話。

 さて、みなさんはどう思われるだろうか?

おわり(2022.4.1 記 エープリルフールではない)

 


 

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新 四 季 雑 感(3)

樫村 慶一 

 

地球がみんな青かったら  あ・・ いい湯だな・・

 

  私は肺が弱く気管支も弱い。慢性閉塞性肺疾患、すなはちCOPDである。鬼黒べえ(オミクロンの自称)に捕まると危険な人種である。50年間タバコを吸ってきたらだと言われたが、もうやめて20年近くなるけど、昔の罪は一生消えないのだろうか。肺房が少なくなっているから肺活量が少ない、そのため飛行機に乗るのが怖くて、もう15年以上乗っていない。肺の中の気圧は.0.8気圧で、大気の気圧は普通1気圧(ヘクトパスカル、しょっちゅう細かく変動している)なので、黙っていても空気は気圧の低い肺に入ってくる。だけど、飛行機の中の気圧は.0.8で肺の中と同じだ(最新型のボーイング888は機内気圧1.0だと聞いた)、だから内も外も同じ気圧なので空気は流れない、それでも普通の肺活量があれば平気なんだろうが、少ない人は、苦しくなることがある。そのとき自分だけ酸素マスクつけるなんて、はずかしくて恰好悪い。恥ずかしいだけならまだしも、大袈裟になって、どっかに緊急着陸なんてことになったらえらい騒ぎになる。だから乗らないのだ。かっては、結構乗ったから、今更そんなに乗りたいとも思わないし、もともとそんなに好きな乗り物ではない。飛んでいるところや空港それに映画などで見るのは大好きだけど・・・・・ 

 ・・・だから気管支を強くして、人より弱い肺に余計なものが入らないようにしておかないといけない。もっと歳をとった時(今でも十分年寄だけど)喉の筋肉が弱っていると、食べ物を飲み込むとき気管支に入ってしまう”誤嚥”という厄介な現象を起こすようになる。つまり、喉を通過した空気は気管支線へ、食べ物は食道線へと線路が分岐するポイントの役割を果たす弁が、きちんと動くように喉の筋肉を日頃から鍛えておく対策をいくつかやっている。口を一杯に開くの30回とか、舌を上顎に押し付けるのを30回とか、上下の歯をぎゅっと嚙合わせるのだとか、顎の下を親指と人差し指で挟むようにするとゴロゴロする筋肉のことである。皆簡単にできるが、その中の一つに大声を出す練習がある。風呂にはいって湯気で湿った喉を、思い切り収縮拡張させようと大声で歌を歌うことである。マンションの風呂場は殺されそうな悲鳴を上げても外へは漏れないので思い切り大声で歌える。でも3,4曲歌うと飽きる。歌詞の本を歌うところを開いてビニール袋に入れ、手で捧げるようにして歌うのだ。歌う曲はいわずとしれた懐メロである。

 今は2020年代、テレビなどで懐メロといわれるのは、1970年代(昭和45年頃から)頃からの歌を言っている、それもむべなるかな、大阪万博が1970年で、もう50年も経ってしまったんだから十分懐メロの資格はあるだろう。でも私の懐メロは更に古い1925、6年頃(大正14,5年)から1960年(昭和35年)頃までなのだ。その約30年間に歌われた歌が、モボ、モガが闊歩した、穏やかな昭和の最後の時代を思い起こさせてくれる、えも言われぬ幸福感に浸れる、紫苑(しおん)の花言葉(注)のごとき時間である。

 そんな歌詞を歌っていて、昔の東京で子供の私には知らなかったことに思いついた。愛、恋、別れ、涙、旅、月、星、雨、風などは、昔の流行歌、歌謡曲(演歌、艶歌とは言わない)の歌詞には欠かせない言葉だけど、その舞台になる東京の盛り場は、銀座、浅草、新宿の3か所であって、渋谷、池袋は絶対に出てこないことだ。おそらく田んぼか畑だったか、渋谷などは沼だったと言う人もいる。銀座と浅草が繁盛したのは、最初の地下鉄銀座線が昭和2年に銀座と浅草間で開通したお陰だ。山の手の盛り場は、早稲田の学生の人気を集めた新宿が一人気を吐いていた。
そして、勇ましい軍歌、軍国歌謡の中の男性は、父、夫、兄、弟だけで、恋人や好きな人、愛する人などは男の範疇には入れてもらえなかった。夫は元はそうだった人もいただろうけど、国力増強の一翼を担う種馬になったことで、一人前の男と認めてもらえたのだ。

 タバコを長年吸って、COPDになって、喉の筋肉を強くするために、風呂で懐メロを大声で歌う。そして、遥けき昭和を懐かしみ、昔の盛り場は銀座、浅草、新宿だけだったことを知る。戦争になり、大正ロマン時代からの軟弱な風潮と言われた恋愛は否定され、彼氏は男と認めてもらえず戦時下の歌の中では不遇をかこっていた。そして、時は変わって戦争に負けて、民主主義になって恋愛が自由を獲得し、彼氏が一人前に認知され、彼女は戦前のモラルを知らぬ新種の女性に生まれ変わり、今や男にまでなろうとしている。

 こんなことが、風呂の中で数曲の懐メロを歌う間に、頭の中を駆け巡る。喉の筋肉強化だけでなく、頭の血管も血流が活発になるという副次効果が得られる。これで世界が平穏なら 本当に ・・・ああぁ いい湯だな~ ・・・

おわり(2022.2.28記)

 

(注)紫苑(シオン)の花言葉 は「追憶」「君を忘れない」「遠くにいる人(妻)を思う」。
英語の花言葉 は「patience(忍耐)」「daintiness(優美、繊細)」「symbol of love(愛の象徴)」

 


 

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新 四 季 雑 感(2)

樫村 慶一 

 

運を天にまかす

 

 寒さは並ではない、今冬はペルー沖海水が”エル・ニーニョ状態になっているため例年に比べて、寒気が強いと予報されている。昨年から始めた懐かしいカメラをぶら下げて、緑の公園、緑地、神社仏閣を歩き、花や樹木の写真を撮り、脳の活性化を図る一人行脚は今年も続けるつもりでいるが、おみ足のご機嫌はどうだろうか? 花の見せ場は関東地方では、1月の冬牡丹、水仙から始まる、そして、福寿荘、梅、桜、牡丹、つつじ、さつき、向日葵、さるすべり、はぎ、彼岸花、ススキ、各種紅葉、銀杏なんて順になろう。懐かしカメラも、だんだん要領がよくなって、自動ではないカメラの、巻き上げ忘れとか距離合わせ忘れなどがなくなり、本来の画像になってきた。この行脚の時だけは足が新品になるのが不思議な話。さる1月末には昭和記念公園で何年振りかで15000歩を歩いた。もちろん休憩をとりながらではあるけど。

 写してみてわかるんだが、デジカメとアナログの違いは、デジカメの絵はピントが極めてシャープ、つまり線一本でも縁がはっきりと出る、ピントがいいと言えるが、はっきりしすぎていて冷たい。アナログはそこがピット出ない、拡大すると分かるが、線の縁がボケている。このため画像が和らかい、悪く言うと、ピンボケ的になる。でも昔は皆こういった写真しかなかった。昔を恋しがる人間には、これがたまらない。懐かしい時代の、おっとりした、のんびりした、そして余裕のある、そういった世情感がある。デジタルは現在の余裕のない、厳しい、冷たい、そういったIT世情に合っている。個人情報がどうのこうのと、昔は考えたこともない、ぎすぎすした今の世情が大嫌いな私には、アナログ時代が懐かしくて恋しいものである。

 ところで、昨年は、あることに気がついた。というのは、地球上のあらゆる物事、たとえば悪質な感染症の蔓延、Co2増悪による気象変動の問題、米中対立、中国膨張、ウクライナ危機、ヨーロッパやアフリカの難民問題、拉致問題、宗教対立、民主主義国の減少、etc、国内的にも、政治、経済の不満の拡大、異常気象、地震多発、災害頻発、殺人事件増加、いろいろな格差拡大、鬼黒べえ対策、もう関係ないけど教育問題などなど、いわゆる”・・・問題” というやつに関心がなくなってきたということである。

  それもどうゆうわけか、急激にそんな気持ちになってきた。 だから新聞も読むのが早くなった。大見出しだけで飛ばす記事が増えたからだ。理由は、自分でも分からないが、どの問題を取り上げても、百年河清を待つが如き簡単に解決する問題ではないし、私には直接痛くもかゆくもないし、解決するまで雲上の妻が、そうそう待っていてくれないだろからである。

 そうは言っても、健康問題だけは、どうでもいいや、ってなわけにはいかないので、これだけは、しっかり定期的にやっている。私の場合、四つ足を除いた身体の全部のCT検査、四つ足を含む動脈の硬化状態、持病のCOPDの状況、目、歯の定期検診、胃カメラ、血液検査と全部やる。胃カメラは2014年に胃がんが見つかって、内視鏡で切除市営ら半年に1回検査していたが、2年前から年に1回にした。もう手術はやってくれない歳になったので、何事も先手必勝で、早期発見が極めて大事である。これにお金がかかるのは仕方がない、生きるための保証金なのだから。

 それ以外のことは、もう深く考えないことにした。だから、生きていてもあまりストレスにならない。人間はもしストレスがないと、150歳まで生きられる動物だと言われる。でも、例えば、南海の孤島に一人で生きていたらストレスがないと思うだろうけど、とんでもない、毎日の魚とりに苦労するだろうし、遠くを通る船に合図をしなくてはならないとか、すごいストレスがたまるんだそうだ。妻を亡くしてみて、夫婦とはいかにストレスをため合ったいるかがよく分った。夫婦円満と言うのは、お互いに気を使って、ストレスをため合っていることを言うのだ、と言うことが一人になってよーく分った。独居生活になって、その点の自由度が100%になった。ところが、最近は掃除洗濯食事の作り置き、ふろ場の掃除季節の衣類寝具の管理などをしてくれる娘が、女房的になってきたので、またまたストレスっぽい感じを抱くときがる、なかなか、うまくいかないものだな、とつくづく思う。ストレスのない生活は生きている限りは有り得ないと言うことがよく分ったものである。

 それにしても、私達のような年齢(92歳)になると、どこへ行っても、どんな会合にでても常に最長老である、だいたい90歳過ぎて、一人で杖もつかず、シャキシャキ(ちょっとオーバーだけど)歩いている人間は、そんじょそこらには、あまりいないようだ。人に長生きに関する秘訣なんて聞かれるけど、まず健康で90過ぎまで生きてこられた遺伝子をくれた親に感謝することだと言っている。そして上記のような自己健康管理をすること。

 私は大腸ガンで死んだ人を複雑な目で見る。癌のタネになるポリープが芽をだして亡くなるまでに10年間かかるのだが、その間で一度でも内視鏡検査を受けていれば、ほぼ間違いなく寛解していたにちがいないからである。なぜなら、私は定年の前年に初めて大腸ポリープの切除をした。「多発性ポリープ症」と言う聞いたことがない病名をつけられた。以来毎年内視鏡検査をしてきたが、80歳を過ぎてからは3年おきでよくなり、昨年からは5年おきでよいと言われた。つまり、それほど大腸がんは進行が遅いのだ。まず腸壁にポリープが発生してから1年におそよ1ミリの速度で成長し、5ミリに達した頃に先っぽが癌化し(80%の確率)、次第に降りてきて腸壁に達し、そこから他へ転移が始まるまで10年かかる。つまり10年以上自分の体の管理を怠った結果と言うことになるので、何故もう少し早く検査しなかったのかな?、っていう気持ちが起きる。早死にが勿体ない気がしてならない。

 昨年末に、なんとなく体調が落ちたような気がするので、つくずく今年以降のことを考えてみた、コロナの第四世代「鬼黒べえ」を筆頭に、我々高齢者には我慢だけを強いられる現在の日本は、もはや行く末に楽園はないし、さりとて極端な地獄もない、高齢者を飼い殺しにする国になってしまったようだ。全ての経済対策、税金の優遇、給付金。補助金などの対象にならないのは、選挙の票にならないからで、常識的な目が若者に注目して行くのも当然のことであろう。もう国に期待することは何もない。親のくれたDNAの寿命が尽きるまで運に任せて生きていくしかない。そんなことを、つくづく思う睡眠前の幽明の時間である。 おわり

 

(2022.1.28 記)

 

 

 

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新 四 季 雑 感(1)

樫村 慶一 

 

元茨城衛星通信所と先祖代々の墓地めぐり

 

 k-unetのホームページの長寿の記には、遠藤さんという神様のような方がいらっしゃる。とても追いつきそうもないと思う。されど、後ろには大勢の人が団子になって追ってくる、人生マラソンの最後の5キロくらいになって、これまで走ってきた人生を振り返って見て、何か忘れ物をしたような、落とし物をしたようなことがありそうな、そんな気がずっとしていた。そんなことを考えているうちに秋になり、コロナ野郎がおとなしくなるのを待っていたお出かけ気分が湧いてきた。そこで気が付いた。そうだ、親父の田舎の先祖の墓参りを、もう50年以上してなかった、という誠に奇想天外な忘れ物である。
 最後に行ったのは、1968年(昭和43年)の夏だった。TAS建設要員として、今では考えられないような大きなコンピューターシステムを相手に四苦八苦していた夏、息抜きに山形の妻の母親の墓参りに行った。その帰り道、北茨城の海岸通りを走り、横山大観や六角堂で有名な五浦(いずら)海岸を経て、高萩市から十王の山の中へ入り、十王町1番地と言う名誉ある本家に着いた。そして、祖父の土地が一部かかっていたという我が社の宇宙通信所へ寄った、その時以来なのだ。
 私が知っている本家の住所は、十王町なんて立派な名前ではなかった、多賀郡黒前村(くろさきむら)山部(やまべ)といういかにも山の中らしき名前で、その後、村が合併して十王村に、さらに十王町になり、いつの間にか日立市に吸収併合されていた。宇宙通信所は初めから高萩市大字石滝だ。高萩市は昔から常磐炭鉱の南の拠点でもあり、景気の良いころは出稼ぎ鉱夫の財布に支えられて結構栄えた町だったが、今では駅前のスーパーが閉店してからは、駅前とは名ばかりの、殆ど車の停まっていない駐車場だらけで閑散としている。そのくせ、なぜか、バー、スナック、一杯飲み屋が多い。炭鉱が閉山になった今、どういった種類のお客がくるんだろう。不思議な町である、KDDの宇宙通信所が活躍した頃は、閉山前の炭鉱の地下戦士と宇宙最前線のKDD勇士が、北茨城の僻地の夜を賑わしていたものと想像した。古戦場を“強者どもの夢の跡”、と言うがまさに今の高萩という町は、そんな思いをひとしを感じさせられる町である。

 宇宙通信所は、今は「さくら宇宙公園」となずけられ、桜の巨木の並木を抜けると、広大な草原のような芝生の区間が広がる。旧管制室、通信室、事務所などがあった場所で、ただただ、だだぴろい空地である。サッカー場でもなく野球場でもなく、ただの空地、おそらく春の花見の時だけは、ご座敷でびっしり埋まるのであろう。公園と言っても、田舎の公園とはこんなものなりと、広さだけが取り柄の、都会のサッカー少年には誠にうらやましい広場である。アンテナは、旧第4と第5アンテナが残っている。
 広場にいた老夫婦に話しかけた。日米間の初の宇宙中継ニュースの第1号が、ケネディ暗殺のニュースだったことを知っていた。さすが膝元、ほとんどの日本人が忘れ去った出来事を地元では、きちんと?覚えていることに敬服。そんな様子が、かっての通信の花形、宇宙通信センターの、現在の姿である。高萩市の市内、および衛星通信所の敷地とアンテナの写真を懐かしんでいただきたい。解説は、茨城宇宙通信所に勤務され、現在k-unetの世話人をやっておられる本間強さんにお願いした。

 私の先祖代々の墓の話は、k-unetには関係のないことなので、ここでは割愛し写真のみ掲載す。なお、私の父の本家の土地の一部が宇宙通信所建設の際にKDDに譲渡したとか、嘘か本当か、親戚の者から聞いた覚えがある。縁は異なものとは、言い得て妙である。そして、すぐそばにあるサンライズ・カントリークラブ(倒産したのか今はフェアウエー全部が太陽光発電所になっている)の一部の土地も、ゴルフ場建設の際に買収され、父の代襲相続者としてなにがしかのお金をいただいたこともある。更にもう一つだけ付け加えると、NHKの「日本人のお名前」と言う番組で、高橋とか鈴木がトップクラスの姓名ランキングでは400番台で、割合少ないと感じる樫村姓が、この辺ではやたらにあることである。元衛星通信に関係した方々に多少なりとも懐さを覚えて頂ければ幸いである。ご協力いただいた本間さんに深く感謝する次第であります。 おわり

(2022.1.10 記)

 

 *写真集*

画面をクリックしてください。PCの場合はビューアでpdfを、スマホの場合はスライドショーをご覧になれます。スライドショーはスワイプして次の写真をご覧ください。

 

 


 

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