連載コーナー


 

- 遠藤榮造さんの寄稿 -

 

マリサットからインマルサットに至る
トピックスをはじめ、多彩な話題で
エッセイを連載

 

INDEX

第19話(2)  後編: 良く生きる~教育・文化・介護  ~2017/8
第19話(1)  前編:高齢を生きる~安全安心・自立・介助・公助  ~2017/7
第18話    原爆ドーム100周年 戦争と平和  ~2015/4
第17話    生活不活発病  ~2015/2   
第16話    幻の霞が関時代 ~KDD試練の歴史を見る~ ( 前編後編 )  ~2014/9
第15話    アベノミクス & 幽霊!?  ~2013/9
第14話    がんばろう!ニッポン!~ 後編  ~2012/11
第14話    がんばろう!ニッポン!~ 前編  ~2012/08

 

第1話 ~ 第13話(旧サイト掲載) INDEX(クリックしてください)

 


 

第19話(後編)

~ 後編:良く生きる ~ 教育・文化・介護 ~

2017年8月 遠藤榮造

 

◆ 前編では老人ホーム「グランダ調布」での当方の体験・感想等を紹介したが、このホームを運営するベネッセスタイルケア社を含むベネッセ・グループのルーツが、かつて吾ら新宿時代にお馴染みであった(株)福武書店であると云う。同書店は1955年福武哲彦氏により創業され、岡山市に本社を置くが、特に学童用の「福武国語辞典」等を編纂・発行するなど教育分野の図書に力を入れてきたと云う。創業者の急逝により、長男の福武総一郎氏が2代目社長に就き、引き続き教育分野の事業拡大に努め、進研ゼミ(添削付き講座)等で知られる通信教育事業が時流にも乗り発展した。

 余談だが、筆者も戦前の受験勉強時代に英語の通信講座を利用した思い出がある。それはコメント付きの添削が特色で、基礎知識を学ぶのに有効であったと思う。受験に役立ったことは勿論、戦後の英語時代を迎えて当時の通信講座に助けられた思いである。因みに、筆者はKDDにおいて対外交渉を担当、海外体験等の思い出も残った。ともかく福武書店が通信教育を中核に執り組み、発展したことは頷けるところだ。

◆ 福武書店は事業の拡大に伴い、1990年に岡山本社を高層ビルに建て替え、1995年には社名を個人名の「福武書店」から、(株)ベネッセコーポレーションに変更した。一見、馴染みのない外国の会社のように見えるが、2代目社長の説明によると、「ベネッセ」とはラテン語の造語で「良く生きる」を意味し、事業の理念・目標でもあるとしている。つまり、ベネッセ(良く生きる)は、本来「一人ひとりが主体的に人生を切り開いていくこと」であるが、その中でこの事業は、少子高齢化時代に対応し、教育・語学・生活・福祉などの分野において、お手伝いを目指している、と云う。

 ベネッセコーポレーション社は、教育事業に続いて福祉分野の老人介護事業にも参入。既に述べる通り、吾らの老人ホームを取り仕切るベネッセスタイルケア社として分社化し、「人生の達人・お年寄りの幸せなコミユニティー作り」を目指すと云う。また一方、同社は生活・福祉問題として「保育事業」を推進している。このような事業の多角化・拡大に伴い、東京本部として多摩市にも高層ビルを建設している。

 その後2007年には、持ち株会社のベネッセホールディング社を起こし総一郎氏が会長に就き、ベネッセ事業各社を統括した。なお、これらベネッセ3社は何れも東京、大阪などの証券市場において株式の一部上場を果たしている。戦後の成長期に波に乗った企業の一つと云えようか。

 因みに、社名のベネッセ(良く生きる)は、事業目標であると同時に経営理念でもあるとされる。即ち、会社自体も「良く生きる」ため「人を中心とし」「人の能力を生かす」と云うような概念も含めて、既に述べたように、スタフの適切な訓練・洗練されたマニュアルにより仕事の成果を高めると共に、スタフのモチベーション維持向上に資するベネフィット(厚生施設・制度等)の充実も図り、人を軸とする仕事の円滑な循環を醸成しているようだ。「良く生きる」事業の活性化の源泉と云えようか。

◆ ところで、ベネッセ事業がすべて順調満帆に進展した訳ではなかったようだ。福武総一郎氏がベネッセホールディング社会長を退き最高顧問に就いた直後の2014年7月に、進研ゼミ等の会員名簿の一部流出と云う不祥事が発生している。顧客データの流出事故は他の大手企業でもしばしば発生し、企業の顧客データ管理が問われてきた。このベネッセのケースは、顧客データを管理していた関連会社の技術者により名簿(恐らく顧客データのUSBメモリ?)が持ち出されて名簿業者に売捌かれたという悪質な事件のようだ。その影響は大きく、ベネッセコーポレーション社が顧客対応に追われたのは当然とし、通信教育事業の評判は落ち会員数も減少、事業収益にも可なりの打撃を与えたと云う。

 老人ホーム事業のベネッセスタイルケア社には影響が及ぶものではなかったが、当ホーム内の掲示板にも、事件発生の経過やお詫びの言葉が掲示されていた。この不祥事を契機に、創業家の福武氏は、ベネッセの本体の要職からは手を引き、後事を適任の役員に託したとされる。見事な新陳代謝と云えようか!

◆ その後、総一郎氏は福武財団(公益財団法人)の理事長を務めている。この財団はベネッセ・グループに属するが、福武家が代々理事長を継いでいる。つまり、財団は福武氏の出捐により設立、活動資金にも同氏保有のベネッセ株式の配当が充てられているようだ。

 先代の哲彦氏は既に地元の文化事業に乗り出しおり、宇野港に近い「直島(香川県)」の開発について、直島町長の協力を取り付けていたと云う。なお、財団は本部を直島に置くが、岡山・香川両県の協力を得て備讃瀬戸の島々の開発も進めていると云う。

 先代の意志を継いだ総一郎氏は、世界的に著名な建築家・安藤忠雄氏と協同して「直島アート村」の建設を手始めに、隣接の犬島(岡山市)や豊島(香川県)にも開発を進めている。豊島は、以前から産廃ゴミの捨て場として知られるところたが、この2017年春までに漸くゴミの焼却処分を完了、更に直島の工場で無害化処理も終結して、今やオリーブ茂るアート村に変貌した訳だ。自然との調和を重視する安藤氏のユニークなアート的近代建築と共に島々は生まれ変わっている。  なお、成功企業がその果実を地元や社会一般に還元するようなボランティア活動の例は少なくない。例えば、美術館を開設・公開するとか・・・・・。福武氏も「経済は文化の僕(しもべ)」とし、上述のように地元の文化振興に財団のボランティア活動を充実し、ベネッセの理念である「良く生きる」を地元や来訪者等と共有していると云えようか。

 ともかく、ユニークな瀬戸内のベネッセアート村は海外にも広く知られるようになり、国際アートフェスティバルなども開かれて、観光客も年々賑わいを見ていると云う。その他の備讃瀬戸の島々(併せて10島余)の開発整備も進んでいるようで、出かけてみるのも一興でしょう!?

 因みに宇野港は、かつて本州と四国(高松港)とを結んだ「国鉄宇高連絡船」のターミナルであったが、本四架橋・備讃瀬戸大橋(自動車道と鉄道の2階建)の完成(1988年)により、その使命を終っている。本四架橋実現の契機になったのが、船舶交通の難所・瀬戸内海における国鉄連絡船なども含めて衝突・沈没事故が相次ぎ、多くの人命が失われたことである。その後も瀬戸内海を跨ぐ架橋事業は着々と進行した。渦潮を跨ぐ「明石海峡大橋」の完成。尾道・今治間の島々を結ぶ「島なみ街道の架橋」も完成し、それぞれ供用されていることは先刻ご承知のとおりだ。なお、備讃瀬戸大橋のように2階建ての吊り橋方式に鉄道を通しているのは珍しく、距離としては世界一とされる。島々の観光と併せ、もう一つの観光の目玉になっているようだ。

◆ 最後に当方が入居中の老人ホームの現況などに触れておこう。当方は、既に述べるように足腰の不具合から二人とも手押し車(シニアーカー)の生活になったが、お陰で入居から7年目の今日を老夫婦揃って迎えることが出来た。入居当初の夫婦は10組ほどあったようだが、今では当方の一組だけ。概ね女性が残り、ホーム全体のバランスとしても凡そ5対1でお婆ぁちゃん天国と云うところであろうか? 

 また当然のことだが、元気な老人の中にも認知症傾向の人が次第に目立ってきたように感じるが、スタフの見事な対応で、ホームは穏やかに経過している。老人の変化・衰えは小生のように進行が速いようだ。歩行困難者も増え車椅子の使用が目立つ。ホーム内での移動にもスタフの介助を受けるケースが多くなったようだ。  ホームでは老人の楽しみや健康維持の一環として、各種イベントが企画・実施されている。例えば、体操・書道・コンサート・映画上映・外食・バス旅行等々・・・・・。ボランティアによるコンサートなど殆どは無料イベントだが。バス旅行などは当然有料になる。当方はこれまでに富士山麓の河口湖と山梨のブドウ狩りの2回参加した経験がある。バス旅行は日帰りだが大掛かりのため、2~3年おきの催行になるようだ。車椅子の参加者が多く、大型の特殊観光バス(リフト付き)を使用し、看護師を含めスタフの介助もご苦労な大名旅行のようである。

 創業者が目指した「お年寄りが幸せになるコミュニティ作り」のアイディア・イベントは、挙げれば限が無いほどだ。この夏は丑の日の関係で、好物の鰻丼が2回出た。家族も招待される夏祭りの準備は、目下スタフの手で着々と進んでいる。  以上、駄文を連ねたが、当方の老人ホーム暮らしや、ホームの運営・経営などの一端を紹介した。ご参考になれば幸いである。

(おわり)

 

 

 

第19話(前編)

~ 前編:高齢を生きる~安全安心・自立・介助・公助 ~

2017年7月 遠藤榮造

 

◆ 永らくk-unetに親しんできたお陰で、超高齢と云われる今日でも時々パソコンを開きインターネットも楽しんでいる。偶々昨年の誕生日(10月で96歳)には孫から「ウインドウズ10」の新品が贈られて、好奇心も駆り立てられ、k-unetへのアクセス頻度も増えた。関係諸兄姉のネットでのご活躍に敬意を表する次第です。ところが当方残念なことに、2年半ほど前から老化現象と云うことで、特に歩行面での不具合を生じ研修会などにはすっかりご無沙汰です。

 実は当方、既に7年ほど前から老人ホームのお世話になっているが、このほど、ベテラン樫村さんの連載コラム「四季雑感」37号(2017年3月)を拝見し、老人ホームの情報についてお尋ねの趣を承知したので、拙いコメントでもと思い、久しぶりに筆を執った次第。

◆ 恐らくどなたでも樫村さん同様、歳を重ねると生活環境への不安や急病などへの対処について思案を巡らし、選択肢として老人ホームを考える方も多いと思う。先刻ご存知のことだが、戦後の新憲法や改正民法(1947年)の下で、家族の在り方が大きく変化。戸主中心の家制度は廃止されて、平等・自由な婚姻が進展し、所謂「核家族」時代を迎えてきた。つまり、子供の親離れが自由になり親は子供への依存が難しくなってきたと云えよう。当方も二人の子供がそれぞれ独立、老夫婦のみの生活になり、80歳後半頃には、運転免許証も返納・ゴルフ仲間も激減と云う状況に至り、老夫婦いずれが倒れても自立生活が困難との思いを巡らすようになった。

 偶々その頃、市内に有料老人ホーム「グランダ狛江3番館」の開設・見学会の案内があり、早速家内共々出掛けてみた。この施設は手広く老人ホームを展開しているベネッセ系のホームで、設備等に興味を覚えた。早速各社の施設等を比較検討し、体験入居も試み、結局ベネッセ系に一応の方向を固めてきた。その頃(2010年秋)家内が重病に倒れ、緊急手術(冠動脈バイパス手術)には成功した訳だが、急遽グランダ調布に入居(2011年4月末)、今日を迎えている次第。このホーム選択の事情としては新築で入居者募集中であったこと。また狛江の家(家具等そのままの留守宅)にも交通の便が良いことなどである。なお、ホームの詳細は関係ホームページで確認できる。

◆ 以上、当方の入居の経緯などを述べたが、今日では老人施設の多様化が進んでいるので、入居ホームの選択には情報の収集検討はもとより、可能ならば体験入居もお勧めです。因みに当方が現在のホーム暮らしに満足か?と云えば、当然問題点はある。例えば食事は、お仕着せメニューであるから口に合わない場合もある。このホームの料理は専門の会社が担当し、栄養・カロリー等は当然栄養士が老人向きに管理していると云う。しかし、味付け・盛り付け等は現場の調理師の匙加減になるから難しいところだ。なお、グランダの上位クラスのホーム(例えば「アリア」)に入れば、食事・サービス等のグレードアップは期待できるようだが、当然費用も増えるし、何よりも、ホームの設置地域・数が限定されていることで利用しにくいと云う問題もある。

 ともかく当方はグランダ調布への入居により、それまでの老夫婦暮らしの不安感は薄らいだし、子供達も両親の心配からかなり解放されたことも間違いなく、何よりも有り難い。その後のホーム暮らしも概ね期待通りと云えよう。その背景として、ベネッセの老人介護事業が既に20余年の経験を経ており、特に適切に訓練されたスタフやサービスにも定評があり、経営は順調、規模(ホーム数)等においても業界をリードしているようだ。スタフについて云えば、学卒採用を中核に男子・女子のチームにより24時間サービスが提供されている。経験豊富な中年女子のパートタイマーは貴重な存在のようだ。なんと云っても介護サービスは、生身の人間にかかわる仕事で、スタッフの資質も問われる訳だが、洗練されたマニュアル・訓練・経験により、ホーム内の人間関係は穏やか円滑に経過しているようだ。また、介護の重要部門として常勤看護師(2名)を中心とする入居者の健康管理・医療対応など。また契約医師(内科・歯科)の診察・治療なども適切に機能しているようだ。その他ホーム内の清潔維持や安全管理(特に玄関の出入り)などのチームの活躍も評価されよう。

◆ 前述のとおり、当方入居7年目を迎えているが、筆者の歩行が不具合になる前の当初の4年間ほどは、自立生活をエンジョイしてきた。その頃の日課としては午前中にパソコンや読書など、午後は2時間ほどの散策を楽しんだ。ホーム近辺の野川遊歩道をはじめ、古刹深大寺や都立神代植物園。足を伸ばせば、調布飛行場・味の素スタジアム・野川公園等も散策コースに入る。また、ホーム入居前からのご縁で、狛江駅前の禅寺の行事にも暫く参加を続けた。夏冬の早朝座禅会(6時開始)や日曜日の読経会・座談会等々・・・。

 更には、息子の付き添いで外泊旅行にも出かけた。広島の墓地・お寺へのお参りをはじめ、京都の浄土宗総本山・知恩院にも参拝の機会に恵まれた。「法然上人800年の大遠忌法要」に当たり、広島の菩提寺から案内を受けて、知恩院御影堂における法要に参加できた。歳の性で仏事関係の旅が多かったが、一度は家内の熱望で「大相撲クルーズ」と云う、珍しい船旅も体験し、大きなお相撲さんとの触あいを楽しんだ思い出もある。

◆ 勿論この4年間には、苦難の出来事も少なくなかった。まず、家内がホーム入居間もなく大腸がん摘出手術を受けている。医師の指示で内視鏡検査の結果、上行結腸に大きながんが見つかり開腹手術を受けた。幸い無事終了、5年を経過した今日まで再発の兆は見られていない。また、ホーム入居のきっかけになった、家内の心臓手術の後遺症も案じられるが、これまでのところ若干の体調不良は見られるようだが、90歳を超えた今日でも病院のお世話になることもなく、ホーム看護師のカウンセリング等を受けて無事に経過している。

 さて小生の方だが、転倒や熱発などの思いもよらぬ事態を経験している。不覚にも室内で転倒し、土曜日のことで、急遽ホームのワゴン車(車椅子利用)で休日診療の病院に搬送されレントゲン診断の結果、肋骨4本骨折の重傷。でも数週間ほどで一応常態に回復できた。また、熱発の件では、夜間睡眠中に見回りのスタフに発見されて、医師の往診も受けたのを覚えている。更には予防接種を受けていたものの、インフルエンザに罹り自室に隔離された。幸い他への感染もなく1週間ほどで終結を見た。何れもホームの適切な措置に救われたわけだが、もし自宅での出来事であったらと、ゾーットする思いである。

 以上は、当方の入居当初4年間ほどの体験・感想であるが、その後は前述のとおり、小生は自立歩行困難となり、今日に至る。つまり、散歩中に突然大腿部に痺れを感じ病院を受診。結果は背骨の一部が崩れて神経を圧迫する老化現象(骨粗鬆症)とかで手術は無理。背骨の崩れの進行を抑える薬物療法(毎朝看護師の介助により腹部に皮下注射)を受けている。ホームでは手押し車(シニアーカー)の使用が勧められ、筋力の維持を図りつつ、お陰で今日に至っている。病院受診などの外出時には車椅子の介助を受ける。なお、当方は現在、介護保険の「要介護2」が適用され、毎月介護保険金の支給(ホームに支払われる)も受けている(公助)。

◆ 以上、ややグランダ寄りのPRになった感はあるが、一先ずはホーム暮らしの体験・感想を述べた。ところで、このベネッセ系の事業は、(株)福武書店からスタートしていると云う。この書店の店舗が西新宿のKDD ビルに近い東京建物ビルの地下階、カフェ等の軽食堂が 並ぶ一角にあったのを思い出す。この本屋がベネッセのルーツと云うことで、些か余談になるが調べて見た。 (後編につづく)

 

 

 

第18話

~ 原爆ドーム100周年 戦争と平和 ~

2015年4月 遠藤榮造

 

 本年は戦後70年の節目に当たり、天皇・皇后両陛下の太平洋線激戦地ペリリュー島(現・パラオ共和国)への慰霊の旅をはじめ、多くの行事が催されている。その中で先日、終戦の象徴なった世界遺産の広島原爆ドームが建設100年目に当たると云うテレビ報道を見た。広島出身の筆者は戦前の建物に些か馴染みがあり、記録や想い出があるので、その一端をまとめて見たいと思う。

 なお、パラオについては、本シリーズの3話・4話に船旅紀行の拙文があるので、ご参照願いたい。

◆ 原爆の悲劇と敗戦の様子は広く語られるところだが、当時広島では原爆を「ピカドン」として広島市民を未曾有の惨禍と恐怖に陥れた。ピカドンは1945年8月6日午前8時15分に投下された新型爆弾(ウラン型原子爆弾)で、爆心から半径およそ1kmの地域は強烈な熱線「ピカ」による焦熱地獄。今日爆心地付近に原爆モニュメントとして保存されるのが世界遺産の「原爆ドーム」。

 知られるとおり原爆ドームは戦前「広島県産業奨励館」として使われた当時のモダンビル。太田川支流の元安川河岸に建てられた5階建ての鉄骨・煉瓦・石積み造り。建物中心部の玄関ホールを吹き抜けとし、螺旋階段で各階を繋ぎ5階部分がガラス張りのドーム、昼間はこのドームから玄関ホールまでを明るく照らすと云うユニークな設えであった。チェコ人設計のバロック建築、1915年に完成している。因みに、この産業奨励館は物産展示のほかに絵画展や写真展などの文化活動にも利用され、一般市民に親しまれていた施設であったと云う。

 このビルは、原爆炸裂の中心点から僅かに200㍍東南に位置したため、一瞬にしてメルトダウン、ドーム天井階が骸骨のように残った。「ピカドン」は、まさにその威力を端的に表現したものと云えよう。つまり、ピカを直接浴びた人々は殆どが即死。2㎞範囲はピカ火災で焼け野が原。生存者にはケロイドの後遺症が多いと云われる。さらに3~4㎞範囲では爆風「ドン」により建物は殆ど壊滅という状況。被爆者の多くが水を求めて元安川などに集まったと云う惨状は語り継がれるとおりだ。当時の広島市民、人口凡そ30万の半数に近い10余万が即死ないし1か月以内に死亡したとされる。今日百余万の政令都市に躍進した広島では当時の面影を見付けるのは難しいが、いまだに放射能による健康被害者の苦痛はつづき、強力な殺傷・破壊力の原子爆弾の影響が語られる。

 因みに、爆心から北東3km程にある広島城も全壊(現在は再建されている)。実は、更に北東1㎞先にあった筆者の伯父(本家)の屋敷も全壊・家族は行方不明の悲劇に見舞われている。原爆投下間もなく呉在住の叔父などが捜索に駆け付けたが、投下の時刻が午前8時15分であったから、丁度勤めなどに出掛けていた頃と見られ、一家の行方は尋ね当たらずと云う。

 この広島原爆に続いて3日後の8月9日には長崎にさらなる新型のプルトニューム型原爆が投下されたことも周知の通りで、余りにも凄まじく痛ましい惨禍に見舞われ、戦争終結の道を模索していた日本政府は、遂にポッダム宣言(連合国側が出していた無条件降伏)を受諾し8月15日の終戦を迎えた訳だ。この原爆被災前に日本各地は既に広範囲な焼夷弾の空爆を受けて焼土と化しており、大戦終結時の日本国土の惨状は国民の記憶に深く焼き付いた。

 なお、筆者は戦局悪化の昭和19年夏、招集により台北(台湾)の部隊に配属され現地で20年8月の終戦を迎えた。宇品港(広島)に復員したのは、翌21年(1946年)3月のこと。新型爆弾の広島攻撃については台北の現地でも断片的な情報を得ていたが、復員により呉市で生き延びた母と弟との再会を喜び合うなかで、はじめて原爆の惨劇・伯父一家の全滅、また空爆下での妹の病死などを知らされ驚愕の極みであった。

◆ さて上記のように、世界で唯一最初の原爆被災国になった日本では、当然ながら原爆廃絶の世論で一致しているが、国際的には複雑な状況が続いている。そもそも広島への原爆投下の是非を巡っては未だに国際世論は大きく分かれる。当時の神懸かり的軍国主義の日本を降伏させ、戦争の早期終結手段として原爆投下はやむを得なかったとする主張(米・連合国側)。これに対し、原爆の使用は一瞬に市民を大量殺戮する人道上許し難い暴挙であったとする有識者等(科学者・宗教家など)の人道論が渦巻く。

 そのような世論の象徴としては、例えば米国では第2次世界大戦を終結に導いた記念として、広島上空に世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機体をスミソニアン航空宇宙博物館(首都ワシントン)の別館に展示して原爆作戦の功績を称えている。

 一方日本では、ご存知のとおり広島の原爆ドームを惨禍のモニュメントとして世界文化遺産に登録(1996年)し、その一帯を平和記念公園として整備して犠牲者の慰霊碑・祈念堂や当時の悲惨な様相を後世に伝える平和記念館を建てて原爆の非人道性を証し、戦争の過ちを訴えて恒久平和を誓っている。

 因みに、広島上空で炸裂した原子爆弾「リトルボーイ」に搭載された原子核(ウラン235)の量は、50㎏とされるが、核爆発に成功したのはそのうちの僅かに1kgほどに過ぎなかった、と専門家は分析している。しかし、その僅かな核融合が広島に焦熱地獄をもたらした訳だ。そのエネルギー量を通常爆弾に換算すると、例えばその年の春、首都東京を焦土化したB29凡そ300機による焼夷弾攻撃の総体的威力の8倍余にも匹敵すると云う。その上、核被爆による放射能汚染が長期にわたり被災者・被爆地に深刻な影響を及ぼした。この強烈な非人道的破壊兵器・核爆弾の廃絶を訴える声は今や地球的な叫びである。

◆ 周知のとおり核軍縮や核廃絶の世論の下、1970年には国連条約として「核不拡散条約(NPT)」が発効、既に190余か国が加盟(2008年末現在)して核軍縮の要になっている。たが、残念ながら同条約への不参加国(インド、パキスタン、イスラエル)や北朝鮮のように一方的な脱退国もあり、核開発・保有の動きは政治的駆け引きのカードとしても使われ、さらなる紛争の種になっている。つまり、核保有を米英仏露中の5ヵ国に限定したNPT条約の矛盾が指弾され、核戦争の抑止が微妙なバランスの上にある。真の世界平和は地球上の核兵器の全廃がなければ実現困難との訴えが、年々原爆祈念日などを機に強く叫ばれる所以である。関連する米オバマ大統領のノーベル平和賞も記憶に新しい。

 顧みるに20世紀前半は戦争に明け暮れ、ついに核爆弾というパンドラの箱を開けてしまい、史上未曾有の惨禍にまみれた不幸な時代であった。戦争突入の無謀な過去を振り返り、戦争を再び繰り返してはならない、との祈りは日本人、否全人類共通の念願である。

 ともかく原爆の尊い犠牲のもとで日本は平和への歩みを進めることが出来た。皮肉にも我が国の戦後復興をリードし民主化のレールを敷いてくれたのも原爆を使用した米国であり、今や日米同盟のきずなで結ばれている。それは戦後の民主主義社会の繁栄につながり、われらが享受する今日の戦後70年の平和であることも紛れもない事実。この歴史と現実を踏まえて、如何に未来を指向するかが、我らに課せられた課題であろう?

 今日は、アフリカ・中近東から南西アジア地域にわたり、イスラム系過激派などのテロが続発、世界にその恐怖と影響をもたらす不安定な状況が憂慮され、70年の平和も脅かされている?!

~以上~ 

 

 

 

第17話

~ 生活不活発病 ~

2015年2月 遠藤榮造

 

◆ k-unetマンスリーレター12月号に掲載された運営委員会・楳本CMGリーダーのコラムを拝見し、成程と頷いた。年齢と共に体感時間が短くなると云うお話。まさに年末年始が年々速く巡ってくるのは吾らの実感だ。楳本さんの解説によると、このような心理現象は19世紀の仏哲学者ポール・ジャネの法則として論じられているようで、詳しくは楳本さん薀蓄のコラムでご覧頂きたいが、ここでは、コラムから若干のヒントを頂戴し岡目八目の視点で老人の健康談義を進めて見たいと思う。既にマンスリーレター11月号において稲垣副代表のコラム「健康長寿の秘けつ」が格好の話題を提供している。拙稿は、これに重複しないよう、相互補完ともなれば幸いである。

 さて、ポール・ジャネの法則によると、年齢を重ねるのに伴い「未経験の出来事や日常の新鮮さが減少」し、体感的に時間を短くしていると云う。またフィジカル的にも高齢者の心拍数や体温は若年者よりも減少している、つまり高齢化に伴う身体機能の低下(機敏さを失う)が見られることで、高齢者は相対的に時間の経過が速くなり、逆に若年者ほど遅くなると云う物理的現象としても説明されている。  このような加齢に伴う時間経過の変化については、筆者の勝手な解釈になるかも知れないが、高齢者の「未経験な出来事や新鮮さの減少」と云う体感は、言い換えれば高齢者は「新しい物事に対する関心が低下し、理解も困難な状態」にあると見ることも出来よう?

 このことは、高齢者のフィジカル的な機能低下―活動の不活発化が大きく関係しているかも知れない。

 もっとも、高齢者の脳力、つまり知的蓄積(経験)や判断力などの知的活動の点につては、必ずしも上記のパターンに当て嵌まらないとも云われるが・・・・・。

◆ 昨今は、k-unet同報メールで友人の訃報に接することが増え、吾らOBの高齢化として悔やまれる現実だが、そのなかでも先般の磯部重夫さん102才の大往生の訃報は、時代を象徴するものとして拝誦した。磯部さんとは仕事上でご一緒したことは無かったが、本社時代の柔和で穏やかな容姿を想い出す。穏やかな100才人生は目出度く羨ましい。日本の100才生存実績は10年前の凡そ500人から今や5万人に達したと云う。先日はテレビ番組で遺伝子の若返りを可能とする薬剤が開発されたとの報道もあり、人類100年時代の到来は遠い話ではないかも知れない。

 このような日本の高齢化の背景としては、当然ながら平和環境の持続(敗戦この方既に70年も)。その間における医療科学の目覚ましい進展・生活環境の改善などが挙げられよう。一方、高齢者自身も趣味や地域活動(ボランティア)などで体力・知力の活性化に挑戦している方の多いのも事実だ。特に、吾らKDD/OBにとっては生活基盤としてKDD時代から継続されるKDDI年金制度の恩恵に浴していることも挙げなければなるまい。

◆ そんなに長生きしてどうするの!と云うのも、大方の実感であろうが、人の寿命は自分で決められないのが現実。ご存知のように、お経などの仏典には「生老病死(ショウロウビョウシ)」の四字熟語が多く詠われ、人生の根本苦(四苦)を現していると云う。つまり、人は誕生・成長(老化)病み・死去の過程を経て人生一巻を終わる、自然の節理。人生を慶びと感じるか?苦労と感じるか?は人それぞれだが、仏教では「四苦」と教えている。吾ら高齢者は老化と成人病に悩む時代を迎え、まさに「老病」と「病死」の過程(悩み・苦しみ)に直面していると云えようか。

 生老病死は、なにも仏教だけの教えではないようで、筆者はノルウェーを旅したときに、オスロ―の「ヴィーゲラン彫刻公園」で、まさに生老病死の様相=歓喜・労働・苦悩・悲しみの様々な裸像(ブロンズや花崗岩の彫像)により表現しているのを鑑賞したことがある。この公園は、同国の著名な彫刻家G.ヴィーゲランの作品のみを展示する特別の公共広場。入り口を飾るアーチは、裸像の環で生老病死を表現しており、圧倒されるものがあった。ご存知のようにノルウェーはキリスト教(プロテスタントが多い)の国であるから、生老病死の思想は人類普遍の真理を語るものと云えようか。

◆ 生老病死の人生を如何に全うするかは、それぞれの生き方に係わる問題だが、吾ら後期高齢者は、既に「老病」・「老死」の段階にあり、稲垣さんも指摘するように、テレビやラジオの健康番組に注目する年ごろだ。筆者もこの新年の番組で「生活不活発病」なる解説が流れていたのに注目した。この病態は、例えば長期の病床から復帰した場合など、病変からは回復していても体躯の機能は衰えたままで、元の生活に戻れないような状態を生活不活発病と云うらしい。

 高齢者は多くが生活習慣病も抱えるので、体力の低下と共に生活不活発病に陥り易い状況にあるとされる。このような身体機能の低下に伴う「生活の不活発」な状態が続くと、筋骨系や循環器系等の機能が低下し、精神的機能の低下にもつながり、不健康の悪循環に陥る可能性が高いと云う。専門家は、これを「廃用症候群」と称し、早期の回復手当を勧奨している。生命現象としての老化―身体機能低下は防げないとしても、その進行を遅らせ、改善を図ることは可能と強調する。  「老病」時代に直面する吾らOBにとっては当然ながら、老化対策=健康寿命の維持が最大の課題と云えよう。つまり「ピンコロ」で一巻の終わりを迎えるのが理想であろう。そして老化対策については幅広く種々論じられる・・・・・曰く、栄養バランス・生活環境・精神的安定対策等々・・・・・。具体的には、楳本さん・稲垣さんも、推奨するようにk-unet行事への積極参加。またお馴染みの友歩会やサテライト会などへの参加も結構と云う。全く同感である。

◆ 稲垣さんのコラム「長寿の秘けつ」も注目される。ハーバード大学の研究調査を紹介し「ウォーキングやジム通い」よりも「外出交流・家事仕事」等が長寿の上で大切な活動であると云う。恐らくこの研究調査の目標は、文化活動や生産的活動に重点をおいたもので、必ずしもウォーキング等の老化対策を否定したものではないと想定される。つまり、知的・文化的活動の移動手段としても歩くこと・歩けることが前提になるし、一般的に「歩くこと(ウォーキング)」は、健康生活の基本とされ、医師や専門家は特に老化対策として推奨している。

 そこで、本題の「生活不活発病」対策としての、健康長寿つまり長寿の秘けつとして、身体運動の重要性について些か敷衍しておこう。

 吾らOBは、老化と成人病により生活不活発病を併発し易い段階にあることは既に述べた。ご存知のように、成人病に多い高血圧症・糖尿病・肺気腫などの改善には、医師の指示に従うことは当然だが、ウォーキング・スロージョギング・ハイキング等の歩行運動が奨励されている。勿論、病状などにより無理をしないことが前提だが、可能な場合には歩く速度・歩幅・歩数を徐々に増やし、散歩と速歩とスロージョギングを組み合わせて、一日一万歩の実行が理想とされる。精神的には「笑顔と緊張感」を忘れないこと。姿勢を含む歩き方については、専門家の指導を受けるのが望ましいが、ご参考までに筆者の拙い経験を紹介しておこう。

 愚生も70代後半に膝の痛みで受診したことがある。老人に多い一般的な「変形性膝関節症」と云うことで、歩き方についてアドバイスを受けた。その指示は簡単明瞭で「猫背や腰折れの無い良い姿勢で、直線上を歩く(例えば、路側帯の白線の上を)」と云うもの。初めのうちは姿勢にブレがあり、白線をハズれることもあったが、よい姿勢での歩行に慣れるのに伴い次第に膝の痛みは治まってきた。姿勢正しく真っ直ぐに歩く、と云う歩行訓練の大切さを実感した次第。  歩行運動は、全身的な有酸素運動として有効であると共に、体躯の土台である足腰の複雑な筋骨を活性化し維持するもので、いわゆる脚力は第二の心臓とも云われ、また、足裏の筋力・神経と脳との脈絡・協調により、転ばないバランスが保持されると云う。足腰が人体活動の基本とされる所以だ。

 もっとも、何らかの事情で歩行困難となり「車いす」移動に頼る状況もあり得る。このような場合でも、車いすの自主的操作を、可能な限り確保することが勧奨される。生活不活発病を克服しk-unetに参加出来れば最高!!!

~おわり

 

 

第16話

-前編―

<< 幻の霞が関時代 ~KDD試練の歴史を見る~ >>

遠藤榮造

 k-unet掲載の「KDD発足60周年記念」投稿の中に、久保勝一さんのKDD業績年表を発見、興味深く拝見した。その「KDD事業所一覧表」によると、KDD本社が一時期「霞が関ビル」に移ったことが記録されている。つまり、1968年(昭和43年)5月の組織改正と共に本社部門が、KDD大手町ビルから新築早々の「霞が関ビル」に引っ越している。そして1974年6月に新宿副都心に完成した「国際通信センター(KDD新宿ビル)」に落ち着くまでの凡そ6年間のKDD本社の霞が関仮住まいであった。

 因みに、霞が関ビルは当時、日本初の柔構造免震方式の超高層ビルとして知られ、1968年4月オープンの36階建。霞が関官庁街の西端に位置し、南東方向に虎の門から新橋方面の繁華街を俯瞰、当時は周囲を圧する景観であった。その後は40階超の超高層ビル群が各地に林立。最近では、更に巨大な超高層ビル(都心の六本木ヒルズ・渋谷ヒカリエ・虎の門ヒルズ等々)のオープンが続いている。

 さて、ご想像のとおり、KDD本社の霞が関への移転は、当時の急速な「広帯域通信施設」の拡張に対処するため、大手町局舎の関門局にスペースを確保する必要があったからである。つまり、幻のような6年間の本社霞が関仮住まいは、KDD半世紀の歴史を方向付けた広帯域通信事業の拡充と、その象徴としての国際通信センター(新宿ビル)の建設を成し遂げた要(かなめ)の時期であったと云える。以下に当時の事情・経過等を概観してみたい。

  ◆KDD設立時の状況は先刻ご存知の通りだが、設立直前の1952年には歴史的なサンフランシスコ講和条約が成立。日本は敗戦国から平和・文化国家として名実ともに独立、国際社会での活動を本格化した。資源の少ない日本としては貿易立国を標榜、その情報通信の脈絡を担ってKDDは1953年4月に誕生をみている。  KDD設立趣意書(KDD設立委員会-1953年1月)によれば、KDDは民営企業として国際通信の設備・運用を一体的に経営するものとし、通信サービスを先進国の水準において提供することを早期に具現する・・・・・と謳っている。即ち、日本の電気通信事業は創始以来、政府の専掌としてきたが、戦後は国内通信をNTT公社により、また国際通信をKDD株式会社により提供する、と云う経営形態の一大転換が行われ、欧米先進国水準のサービスを目指したのである。

 因みに、KDDが担当した国際通信では、昔から対外通信施設を民間企業が建設保守して政府が運営した例は少なくない。例えば、明治初期以来、大北電信会社(デンマーク)により敷設運用されてきた日本海海底電信ケーブルをはじめ、その後の無線施設等の建設保守は、日本無線電信会社、国際電話会社、国際電気通信会社など戦前の国策民営会社により提供され、通信サービス自体は一貫して政府(逓信省など)事業として運営されてきた。戦後は、民営方式の優れた前例も採りいれて、通信事業を総体的に民営化した訳だ。

 勿論、国際通信事業における相手国側の経営形態は、国営・民営等様々であることは周知の通りで、問題は技術革新など世界的な潮流への逸早い対応能力が問われるところ。日本は身軽な民営形態を選択し、機動的な運営を目指した訳である。

◆さて冒頭に、KDD本社の霞が関への移転が広帯域通信事業展開の要であったと述べたが、当時開発された広帯域システムへの対応は、まさに民営として立ち上がったKDDの真価が問われる事態であったと云えよう。当時の経過を振り返えれば・・・・・。

 先ずは、広帯域システムとして大陸間を結ぶ海底同軸ケーブルの開発実用化が挙げられる。その開発は、先の大戦中に米英間の共同研究(米ベル研・英BPO)により進展していたが、新型ケーブルの特徴は、ケーブル被覆材にポリエチレン(1933年英化学企業開発)を導入、また海底ケーブルの一定区間ごとに中継器を埋め込むと云うもので、ケーブルシステムの耐久性・伝送品質・広帯域化において革新を遂げた。KDD発足の1950年代初めには既に実用化を迎えていたが、当時のKDD首脳部は情勢を把握し活用する段階にはなかった訳だ。

 つまり、1953年のKDD発足当初(本社:丸の内三菱21号館)は、当然ながら事業体制の整備が中心課題で、まずはNTT中央局(東京・大阪)に同居していた国際電信局・電話局の関門局施設を独自の局舎に収容すべくKDD東京局舎(大手町ビル)を突貫工事により1955年7月に完成。次いで大阪局舎(KDD備後町ビル)も翌年9月に完成して、東京本社・大阪支社などの管理部門も含めて、それぞれを総合局舎として整備した。

 これら新設の関門局は、当時の対外無線回線に対応したもので、例えば大手町ビルは、その後20年にわたり大規模な増改築等を必要としない余裕の目論見であったと云われる。

 

 

 ところが、前出の欧米間における新型海底同軸ケーブルの実用化、つまり大西洋横断海底同軸ケーブル(TAT-1)の登場(1953年)以来、主要国間に海底同軸ケーブル網の敷設が相次ぎ、安定した電話サービスの進展・ニーズの多様化と共に需要の急拡大を見るに至った。

 遅れを取ったKDDも急遽、米AT&Tの協力・支援を得て、太平洋横断電話ケーブル(TPC-1)の建設に取り組み、欧米に遅れること10年、1964年に漸くTPC-1の完成を見ている。

 引き続きKDDは、先行していた英連邦世界一周同軸ケーブル網(COMPAC・SEACOM)やその後の米比共同のグアム・フィリピン同軸ケーブル等とTPCとの相互接続を図って逸早く世界の新型ケーブル網に参加し、サービスの改革を進めた。

 また日本を取り巻く同軸ケーブル網の建設・整備も促進、例えば、日中ケーブル・東南亜ケーブル・日本海ケーブル等々も相次いで敷設、波及的な関連事業を含めてKDDは新型ケーブル・ブームを迎えていた。

 かくして1960年代後半から70年代かけて、我が国の国際通信環境は革新的に進化し、短波無線時代の面影を一新した。なお、その後のケーブル網は更なる技術革新により、光ファイバー方式への転換やデジタル伝送の進展により高速大容量通信網時代を迎えていることは周知のとおりである。

 このように新型海底ケーブルの成功的展開が、技術発展の賜ものであることは論を待たないが、一方で、経営的視点からも特筆される改革を挙げることができよう。  つまり無線通信網時代の、所謂「50:50主義」が新型ケーブルの建設・運営上の概念として引き継がれたことである。それは建設・保守のコストを使用回線数に応じて折半分担し、通信収入も折半すると云うもので、新たな法的概念として「破棄しえない使用権(Indefeasible Rights Of User=IRU)」が国際的に導入・普及したことである。

 例えば、通信事業者が新型ケーブルの回線を利用する場合には、そのIRU使用権を取得し、使用回線数に相当するケーブルの建設・保守費等を分担する。いわばIRUは、所有権に近い使用権とされ、譲渡はできるが一方的に破棄はできないと云うもの。このような民主的(平等・透明)な概念による運営方式により、新型ケーブル網が国際間で発展的に拡大したと評価される。勿論、今日では多様な権利形態に進んでいることも周知のとおり。

◆上記新型海底ケーブル網の展開を追う形で、衛星通信システムの導入が進行したことも周知のとおり。つまり、戦後の東西冷戦下における米ソ宇宙開発競争の一環として、衛星システムによるグローバル通信網構想が米国を中心に具体化した。1964年には「世界商業衛星通信組織(インテルサット)」が取り敢えず暫定制度として創設され、早くも翌1965年には最初の通信衛星アーリーバード(Ⅰ型・F1)を大西洋上空に配置。太平洋上空には1966年10月にⅡ型・F1衛星の配置を計画したが、打ち上げに失敗。3か月後の翌年1月にⅡ型・F2衛星が再打ち上げにより配置された。更にインド洋上空にはⅢ型・F3衛星を1969年8月に配置。日米間・日欧間を含めてグローバル衛星通信サービスが開始されている。

 このグローバル・システムは、静止衛星方式によるもので伝送上のタイムディレーは避けられず、電話通話にはやや不向きであるが、当時は特に大陸間のテレビ中継が可能となり、大いに活用された。また一方でグローバル・システムは、途上国の通信事情の改善にも貢献している。つまり、経済的に設置できる小型地上局施設(VSAT)により国内外の通信網の整備が容易になり、衛星システムの広域性や使用料率の平等性などと相まって、いわゆるMissing Linkと称された途上地域の情報格差の解消に大きく貢献したとされる。

 さて、大陸間テレビ中継について見れば、今日では衛星システムと共に光ケーブル網なども利用されて日常茶飯事の情報インフラとなったが、インテルサット・システム草創期の出来事として、幾つかの感動的なエピソードが刻まれている。  先ず挙げられるのは、インテルサット誕生直前の日米間の衛星伝送実験中の1963年11月23日に、J.F.ケネディ大統領暗殺の衝撃的ニュース映像がKDD茨城衛星通信実験所のモニターに送られてきた出来事。本コラムでも既に話題にしたところである(第6話)が、この衛星TV実験は、翌1964年の東京オリンピックの国際TV中継を成功に導いている。

 なお、ご存知の通りケネディ大統領は宇宙の平和利用の一環として、1961年の年次教書において「世界各国が参加するグローバル衛星通信システム」の実現と「1960年代末までに人間を月に送る宇宙技術」の開発を政策として声明していた。これらの政策は、何れも実現したが、大統領はそれを見届けることなく悲劇に見舞われた訳だ。  更にKDDの係わった感動的エピソードが、グローバル・システム形成中にも続いた。

 その一つは、1969年6月インド洋衛星の配置・商用開始に伴い、KDD山口地球局と英グンヒリー地球局との間でテレビ伝送実験中のこと、偶々大西洋衛星が故障のために、英側の緊急要請により「英皇太子立太式典」の慶事を英連邦諸国等へ生中継することになり、山口と茨城両地球局によるインド洋と太平洋の両衛星をダブルホップする中継方式でカナダや豪州などに中継されたと云うエピソード。  もう一つの出来事は、続いての同年7月に前記ケネディ大統領の声明どおり、「アポロ11号による米宇宙飛行士の月面着陸・探査・無事帰還」の快挙が達成され、その生中継を米航空宇宙局(NASA)と協同して、KDD茨城・山口両地球局がインテルサット衛星経由で世界をカバーした訳だ。

◆以上のように新型ケーブルや衛星システムによる広帯域通信網の導入に伴い、KDDは中央局施設の抜本的拡充整備をはじめ、冒頭に紹介した久保勝一さんの「KDD事業所一覧表」にも見るとおりケーブル陸揚げ局や衛星地球局の新増設等、事業拡大の対応に大童であった。

 中央局設備の整備について云えば;大手町ビルの二の舞にならないよう、十分に余裕を持った施設の建設。つまり、我らが長年お世話になったKDD新宿ビル(国際通信センター)の実現は、霞が関KDD本社の仮住まい6年間における重要課題の一つであった。

 些か敷衍すれば:国際通信センター建設の青写真は、1968年6月の局舎対策総合委員会の立ち上げに始まり、偶々開発中の新宿副都心街区の一角に所要敷地を確保(1969年3月)。また海外の先進的通信センターなども視察して資料を収集。建築専門家の助言等を取り入れて構想が固められた。ビルの建築は、大手建設会社(鹿島建設・大林組・清水建設)のジョイントベンチャーが担当。1971~74年の約3年間で、地上164m(塔屋を除く)32階建の超高層ビルを完成(1974年6月)。高さは霞が関ビル(147m・36階)を抜いたが階層は若干少ない。つまり、通信機器等を収容する運用スペースに必要な高さを各階(2~23階)に確保した、国際通信センターの特色と云えよう。

◆かくして霞が関KDD本社時代は、広帯域通信網事業の推進と、そのシンボルである国際通信センターの完成を成し遂げたユニークな時期。つまり、KDD設立趣意書に謳われた世界先進水準のサービス体制を準備してきたKDD史前半の試練を全社の団結で乗り切った時期と云えよう。

 一方、霞が関の仮住まい時代の様子については余り語られていない。今や幻のような6年間ではあるが、筆者は本社組織の一員として霞が関時代を経験してきたので、拙い記憶ではあるが当時の一端を振り返って見よう。

 私事になるが、大手町本社時代には愚生は協約課に所属し、TPC-1の建設保守協定やCOMPACとの相互接続協定、JASC建設交渉など新型海底同軸ケーブル関係も担当。1964年にインテルサットの暫定制度が立ち上がるのに伴い、社長室の衛星通信グループ副参事に転任し、その暫定委員会(Interim Committee of Satellite Communications=ICSC)関係を担当した。霞が関本社への移転(1968年5月)後も同様任務であったが、移転と同時に行われた本社機構の改正に伴い、新設の「計画参事室」に配属された。

 因みに、この計画参事室は誠にユニークな形態で、12室(業務系6:技術系6)の個室に分がれて22階の南東側窓際に配列、「馬小屋」のニックネームで呼ばれた。各参事室には、参事と副参事3~4人が机を並べた。例えば、小生が所属した外国参事室は、外国参事とICSC副参事、ITU副参事、国際業務副参事の4名のみ。小部屋に仕切られた馬小屋体制は、個室の静謐な環境で構想を練ると云う配慮によるものだが、一方で付随的作業(タイプ清書やコピー作成等)に人手不足をかこち、サポート部門(事務サービスセンターや資料センターなど)の利用にも不便なことから、馬小屋の住人には甚だ不評であった。結局は、3年ほどで計画参事室は廃止、馬小屋は取り払われて、新たな総合企画部や国際部などに移行、従来の部・課制が復活している(1971年10月)。

 このようにユニークな霞が関の馬小屋体制は短命に終わったが、実は丁度その人手不足をかこっていた時期に、広帯域通信網の一角を担う衛星通信システムのインテルサット暫定制度が恒久制度化される、と云う重要な動きがあった。

<< つづく >>

 

 

 

第16話

-後編―

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遠藤榮造

◆KDDの大手町時代から霞が関本社仮住まい時代は、前編に見るとおり広帯域通信網の建設・拡大に総力を挙げた時期。そして広帯域網の一翼を担ったのがインテルサット衛星システムで、1964年に暫定的制度として発足したことは前編に述べた。実はこの暫定協定の規定により、インテルサットの恒久制度化の協議を1969年末までに開始することが要請されており、このため米政府は1969年2月に国際会議をワシントン(国務省)に招請した。会議には凡そ80余か国(当初はソ連圏も含め)が参加、大会議となった。

 因みに日本は、当時の下田武三駐米大使を主席代表とし、外務・郵政両省とKDDの関係者および法律専門家(ICU山本教授)等で構成する大代表団を送った。ICSC副参事も随員として霞が関の馬小屋から参加、足かけ3年に及んだ長丁場の会議の渦に巻き込まれた次第。その複雑な経過等については別の機会に譲ることとするが、実はこの会議の渦が、その後の通信界の変革・自由化の潮流に繋がっていることを実感する。なお、恒久制度の協定類(基本文書)は1971年8月に採択・73年2月に発効。この発効に伴い、筆者はワシントン事務所長に転任し、引き続き現地でインテルサット理事会関係等を担当。その後のインテルサットの変遷と国際情勢の変革にもタッチする機会に恵まれた。

 更に、インテルサットを追う形で開始された海事衛星システム「インマルサット」の創設協議の第1回国際会議(1975年・ロンドン)にも命によりワシントンから馳せ参じ、以来インマルサットの設立(1979年)にも係わってきた。この移動体衛星通信システム展開の潮流(端末の小型化・ハンドヘルド化の方向等)から、その後のケイタイ時代を予感するものがあったと云えよう。

◆このような通信界のダイナミックな進化・変革が、科学技術の進展(研究開発)に負うことは論を待たないが、同時に上記のような国際協議における制度的枠組みの対立・妥協など、両々相まって進化してきたことも知られるとおり。背景として、特に世界をリードしてきた米政策の変化・転換による影響が大きいと云えよう。以下、その流れについて概観してみよう。

①インテルサットが、米国の主導するグローバル衛星システムを早期に実現するため、取り敢えず暫定制度としてスタートしたことは既に述べた。つまり、暫定制度下のインテルサットは、コムサット社(米国策会社)を管理者とする「国際コンソーシアム(各国出資者の共同事業体)」体制で発進した訳だが、その後の恒久化協議では、欧側等の強い主張により「国際機関」型(非米化の方向)に再編され、米国の思惑を大きく外れる組織体制に移行した。

 また、システム運営上のコンセプトについても、米側はインテルサットを「世界単一システム」に位置付けたが、一方欧側等の強い主張により「国内や地域衛星システム」の創設も各国の権利として認める、と云う妥協的規定が含まれた。これにより、欧側では欧州の地域衛星システム「EUTELSAT」を、またアラブグループは「ARABSAT」の設立を進める等、インテルサットの「世界単一性」の概念と矛盾する事態に進んできた。

②このような状況を踏まえて米国は、南北米州を結ぶ地域衛星システム(私企業のパンナムサット)計画をインテルサット理事会に提議した。つまり「世界単一システム」を目指した米政策の大転換であり、システム間の自由競争化の発端となった。当然、理事会の大多数は私設衛星システムの参入に反撥し議論が噴出したが、結局のところ、妥協の道を模索、私設地域システムの参入も認めざるを得ない方向に進展した。

 因みに、米国の通信政策は連邦通信委員会(FCC)の手続きにより進められていることは周知の通りだが、その特徴を挙げれば:FCCは政治的に中立の独立規制機関として、5人の委員会を中心にスタフ1,900人余を擁する通信専門の組織。通信事業者等からの事業申請や事案の提訴を受けて調査・審議して、政策(認可・裁定・命令等)を発出しいる。

 上記の私設通信衛星パンナムサット・システムの参入を認める自由化政策をはじめ、当時における通信事業者の「提供サービスの自由化」政策等も米の政策転換として注目された。例えば、デジタル技術の進展によるデータ伝送サービスの多様化に伴い、伝統的な電話と電信(記録通信)事業者間のサービスの棲み分けが廃止された。つまり、長距離電話事業者(AT&T等)が記録通信事業にも参入できると云う自由化。当時の電信事業者(お馴染みのITTやRCA等)に大きな衝撃を与えたことが想起される。

 このようなFCC政策の発出は、公開手続(申請、提訴、意見聴取、公聴会等)によるものだが、当然ながら国益を背景とし、国際情勢・社会動向・技術動向等々、幅広い分野の調査に基づいている訳だ。

③さて、1973年に恒久制度に移行したインテルサットであるが、上記のように衛星システム間の競争環境に巻き込まれて、早くも体制の見直しが俎上に上ってきた。つまり、衛星システムの設定・運営が技術的・経営的にも普遍化して私企業の参入が容易になり、国際機関としてのインテルサット体制が再び問われる事態に至った。例えば、暫定制度下の初期には、衛星打ち上げの確率は、4基に1基失敗と云う寥々たる状況であったが、その後、打ち上げ事業の多様化(米・欧・ソ連等の企業参入)に伴い競争場裏で打ち上げ成功率は向上した。また、衛星技術の普遍化については、インテルサットが、その事業(資金)により確保した技術特許・ノウハウ等を加盟国にも公開する等の手続きを維持してきたことも背景として挙げられよう。

 結局、20世紀末にはインテルサットの国際機関体制は民営化に移行したし、また1979年に国際機関として発足した海事衛星システム(インマルサット)も、ほぼ同様の経過で民営企業に移行した。もっとも、両機関とも公共的なグローバル性や遭難安全システムを確実にするため、それぞれに政府間機関体制も同時に維持したことは周知の通りである。

④更に東西冷戦の終焉を迎えて、通信界全体に自由競争の流れは一層促進されてきた。例えば、アル・ゴア氏(米クリントン政権の副大統領)が上院議員時代から提唱していた「情報スーパーハイウエー構想」も通信の開放的発展を促進した政策として注目された。特にアル・ゴア法案として知られるコンピューター通信法がインターネットの展開をリードしたことで知られる。1990年代のパソコン普及とともに今日のIT時代に繋がったとされる。

◆以上、1970年代後半から始まった通信事業の多様化・自由化の流れの幾つかを振り返って見たが、丁度その頃KDDは、前述の通り新宿副都心に懸案の「国際通信センター(KDD新宿ビル)」を完成(1974年)。新型海底ケーブル・衛星システムを中心とする広帯域通信事業に万全の体制を敷いて、多様化するサービスの提供を確実にしていた。なお、筆者はワシントンでの任務を終え1975年に新装のKDD新宿ビルの本社(衛星通信調査室)に戻った。任務は引き続きインマルサット設立協議を担当、インマルサット機構の発足・初回理事会(1979年7月)までヨーロッパ通いが続いた。

 その後は、旧ソ連圏の国際衛星通信システム(インタースプトニク)の理事会にオブザーバーとして招かれ、東側関係国を訪れる機会も得た。因みに、このインタースプトニク会議にはインテルサットやインマルサットの事務局長も招待されていた。また、東側代表との交流や接触を受ける(例えば北朝鮮等)機会もあり貴重な経験であった。インタースプトニクから招請を受けた事情については、インマルサットが国際海事機関(IMO)の主導により設立さられたこと、そしてIMOには旧ソ連をはじめ東側の海運国もメンバーであり、特にソ連はインマルサットの大口メンバーとして、その設立時には重要な交渉相手であったこと等によるものと思われる。

◆さてKDDは、1978年に目出度く創立25周年を迎えて盛大に祝賀行事が行われた。思い出すのは、海外の関係事業体のVIPを招待した京都一泊の観光行事。新幹線グリーン車両を借り切った大名旅行にお供して、10数年ぶりに邂逅できたVIP (GNTC社幹部等)もあり懐かしい限りであった。振り返れば、この行事はケーブル・衛星を中心とするKDD広帯域通信事業の集大成を画する一大イベントであったとも云えよう。

 ところが残念なことに、翌1979年秋に忌まわしい不祥事が首脳部および周辺において明らかになりKDDの業績・名声が大きく失墜したことである。内容については周知のところで、詳細に触れる積りはないが、既に数年前から本社首脳部の不規則な動きは我ら海外組にも少なからず影響及ぼしており、遂に密輸事件として発覚・・・直ちに社長辞任=会長の社長兼任/社長室廃止=秘書課設置/臨時株主総会(80年2月)を経て新社長・会長等の選任・・・と云う、KDD全社を揺るがす事態となった。社内の喪失感は勿論、事業活動に及ぼした影響は計り知れない。当時の新宿ビルの雰囲気は放心状態であったと云えようか。

 ”集団はリーダーを映す鏡“と云う諺があるが、首脳部・本社一部の不始末が、KDD全体に極めて深刻な事態を及ぼしたことは間違いない。1970年代後半から始ったグローバルな通信界の自由化・変革の流れに対するKDDの態勢には往年のような活力が見られなかったように思われた。まさに失われた10年の試練であったと云えようか?

◆その後は勿論、KDDは新鋭の幹部・職員の英知・努力により、サービス改革、事業拡張への対応も急速に復活してきた。しかし、1980年代に入って、コンピューティングと通信の融合、競争環境への対応が求められる事態になっていた。  例えば、米国では上述のFCC政策の他に、反トラスト法(競争法・独禁法)に基づく司法手続きによる規制で、通信界の巨人と云われたAT&T社が1984年には、司法省との同意審決により分割された。当時驚きと共に大きな話題になったことを想い出す。

 つまり、反トラスト法はご存知の通り、米国流の寡占化排除の手続きで、「出る釘は打つ」と云う方式で当時の巨人AT&Tは、垂直統合の川下部門の地域電話事業や付属事業(研究・製造部門等)が切り離され、長距事業に縮小された。勿論その後も、サービスの多様化・競争の進展に伴い、更に事業体間の合従連衡が続いてきたことは周知のとおり。

◆世界的な変革・競争促進に遅れ気味であった日本の通信事業環境にも1985年には「電気通信事業法」が施行されて、それまでの「公衆電気通信法」に代わり多様な通信事業者の参入と競争環境が促進された。つまり、通信回線設備を有する第1種事業者(許可制)と回線をリース等で賄う第2種通信事業者(届出制)などの多様な事業体の参入を可能とした。NTTも公社から株式会社に移行。NTT・KDDによる国内・国際分業の独占時代も終焉した。

 当時、この新しい電気通信事業法に基づき新規参入を果たした、いわゆる「新電電」の主な事業者を一覧すれば次のとおり。

*第二電電(DDI):京セラを中心に三菱商事・ソニー等の25社の出資により設立。国内幹線網には主にマイクロ波通信施設を建設し、移動通信には各地にDDIセルラーを順次設立して対応。

*日本高速通信(テレウェイ):トヨタを中心に道路公団・電力系などの出資により設立。  高速道路沿いに光ケーブル網を整備して対応。

*日本テレコム:JRの線路沿い管路を利用する光ケーブル網を整備して対応。三井・三菱・住友等の商社系も出資。なお、後に新興のソフトバンク社に吸収されている。

*日本移動通信(IDO):トヨタの主導する自動車電話を中核に移動通信システムを展開、NTTの移動通信事業に対抗。

◆このような通信事業の自由競争化と共にニーズの多様化が進展した。特に、デジタル・データ通信の展開は、1990年代に入り、インターネット(IP)の急速な普及に繋がってきたし、また一方で、ポケベルや自動車電話から始まった携帯型電話の急速な展開により、通信事業は多様なニーズの革新時代を迎えていた。因みに、NTTは1988年に「NTTデータ」を、1992年には「NTTドコモ」をそれぞれ分社化して新サービスへの体制を整備している。通信ニーズの変革・多様化の中でKDDは、収益の柱であった国際電話の料金値下げ・需要鈍化などに直面。生き残こりを賭けて国内通信事業への本格参入を図った。

 つまり、KDD設立の特別法である「国際電信電話株式会社法」の改正・廃止(1998年7月)により、KDDは本格的な国内事業への参入が可能となり、まず、国内ネットの整備として、日本沿岸を結ぶ光海底ケーブル網(Japan Information Highway=JIH)の建設等に着手(1997年)すると共に、テレウェイ社との合併(1998年12月)により、同社の光通信網と接続して全国ネットの構築を進めた。なお、テレウェイ社との合併による社名を「KDD株式会社」としてスタートした。

◆余談になるが、そんな困難を迎えていたKDDについて、我らKDD/OBも憂慮とともに新時代の流れを実感していたことを想い出す。例えば、1990年代に入って我らがお世話になってきたKDD同友会は母体KDDからの支援が打ち切られて、漸次会の事業を縮小、残念ながら、その後ついに解散(2011年末)し、KDD同友会は消滅した。この同友会の事業縮小の困難期に、同友会会員(OB)のネットワーク構築を目指して誕生(1998年4月)したのが、実はKDD同友会パソコンクラブ(k-unet)である。その経緯等はk-unetホームページの「会員の広場―ネットインタービュー」の頁に詳しい。

 さて、KDD事業の困難な状況については、我らOBも実態的に体感していたのが、1990年代から急速に発展してきたインターネットの存在と云えよう。筆者の経験で恐縮だが、1996年春、遅ればせながらパソコン教室(NEC系)に誘われてデスクトップ型のPCを導入。ワープロの延長として使い始めたが、メールやWEBの機能も驚をもって体験した。

 つまり、同年夏のこと、コムサットの友人F氏から「マリサット20周年記念」の集まりを計画しているので参加されたい旨の手紙を貰った。早速、F氏のレターヘッドに載っていたメールアドレス(当時は電話番号のような数字の羅列)宛てに、習い始めのメールで「お礼と欠席」の旨の返信を送ってみた。翌朝には早くも返事が届いており、この往復メールの費用は、何とダイアルアップ通信料(20円)のみ?! この国際メールの初体験で通信事情の革新に驚くと共にKDD国際事業の苦境を実感した次第。なお、マリサット20周年記念行事については、コムサット社の財政不如意で、マリサット衛星を製造したヒューズ社が主催し、同社から正式の招待状が届いた。小生らは偶々JTBのアラスカ・ツアーを予定していた関係で、ワシントンの記念行事を止む無く欠席したが、後日行事の模様を記録したビデオテープが贈られてきた。

◆さて、世界的に通信環境の革新が進展する中で、前述のように、わが国でも電気通信事業法の施行で新電電が参入し、通信業界の再編が続いた。既に述べるように1998年7月には「国際電電法」の廃止により、KDDとテレウェイ社との合併が実現し、純民間企業になったKDDも国内事業を本格化した。そのころNTTの分割・再編の動きが国の政策論議と共に進展していたことは周知のとおり。つまり、NTTはユニバーサル・サービス(国内電話インフラ維持)の継続と云う事情もあり、特別法により1999年7月、NTT持ち株会社の下に、NTT東日本とNTT西日本の地域会社を特殊会社として設立。長距離・国際事業のNTTコミュニケーション社(NTTコム)やその他の系列会社(NTTデータ・NTTドコモ等)は完全民間企業として、NTTグループを再編した。

 このようなNTTの対抗馬として実現したのがKDDIの設立。つまり、ベストミックスと云われる、「堅実経営のDDI」と「内外に事業資産(ソフト・ハード)を擁するKDD」それに「トヨタが主導する移動通信の新鋭IDO」の3社が合併(存続会社・DDI)に合意し1999年12月に覚書調印。そして、2000年10月に総合電気通信事業のKDDI が3社のシナージー効果の期待を担ってスタートした。その間の実情・経過等については門外漢の知るところではないが、当然ながら関係当局・当事者による調整・協議(日本式の根回し?等も含め)が続いたものと想定される。

◆「歴史は記録し伝承すべきもの」と云われるが、昨年のk-unet行事による「KDD発足60周年記念投稿募集」は時宜を得た施策であったと思う。諸兄姉の投稿ページを興味深く拝見していたころ、k-unet運営委員会の楳本CMGリーダーや佐藤顧問からお勧めと督励を受けて、筆者もKDD半世紀(48年)の歩みを、拙い経験・記憶をもとに纏めてみたのが本編である。認識不足・誤謬や不適切な表現の多いことを怖れるが、ご叱正を頂ければ幸いである。

 さて、戦後復興期の1953年、KDDは世界最先端の国際通信サービスを目指して誕生。初代社長(会長を含め)の足かけ10年に亘るリーダーシップにより、広帯域通信網の基盤を確立、KDDの発展を確実にした。因みに初代社長は、政財界に顔の広い文化人で、当時の大部屋役員室からKDD全員野球の態勢を敷いていたのを印象深く思い出す。KDDの発足時に乗り切った我らの試練であった。  10年ひと昔と云われるように、通信界のイノベーションは急速に進展した。20世紀末にはグローバルな大変革・自由競争時代を迎えて、我らのKDDもM&A(合併・買収)を繰り返し、遂にその半世紀の歴史と資産は「KDDI株式会社」に引き継がれた。この大変革の試練を乗り切ったKDD最後の社長の英知と適切な決断に喝采を贈りたい。今日のKDDIの活躍には、我らKDD/OBも誇りと共に注視・応援を送っているところである。

<< おわり >>

 

 

 

第15話

~ アベノミクス & 幽霊!? ~

2013年9月 遠藤榮造

 猛暑・ゲリラ豪雨・水不足と経験したことのない異常気象に見舞われた日本列島だが、台風の訪れと共に漸く季節の変わり目を迎えているようだ。K-unet ポータルサイト「季節の映像」でも可愛い季節の草花が教えている。時々訪れる同ホームページも運営委員会のご尽力により、いよいよ見応えのある内容に充実されてきた。ご同慶のいたり。小生も枯れ木の賑わいにと駄文「不死鳥物語」を連載しているが、遺憾ながら投稿はさぼりがち。先般の総会パーティで担当委員から叱咤激励をうけたが、相変わらず野暮用に紛れてと云うか、歳と共に行動力・頭の回転ともに鈍くなり、取材・取り纏めにも時間がかかると云う次第!何卒ご寛恕のほどを・・・・・。

◆さて、前回の拙稿14話では柄にもなく経済問題を話題にしたが、昨秋の衆議院総選挙で圧勝した自民党!その第2次安倍政権が早々に打ち出したのが、デフレ脱却・経済再生を旗印にした「アベノミクス」。リーマンショックの不況から抜け出せないまま東日本大震災(津波・原発事故等)の追い討ち、その復興に喘ぐ日本にとって、アベノミクスはカンフル剤のような効果を現しているようだ。と云うことで、本稿でも素人の経済怪談になるが、先ずアベノミクスの経過などから話を始めることにしよう。

 周知のとおり、アベノミクスは、戦国武将・毛利元就の遺訓「三本の矢」ならぬ「三つの矢」として順次政策を打ち出すものとしている。まず、デフレ脱却の導火線として第一の矢「大胆な金融緩和策」が中央銀行(日銀)の責任において打ち出された。ご存知の通り、この金融緩和は「2%インフレを2年程度で達成することを目標」とするもので、本格的インフレに入る手前の段階、つまり「リフレ政策」とも云われる。リフレ政策はデフレ脱却の手法として近年学説としても広く知られている。

 政権交代のタイミングで打ち出された第一の矢は、デフレ脱却に向けた経済変化への期待感を高めていると云えよう。早速円安株高の景況観を演出。輸出企業の収益改善が進み、株式市場の活性化もみられる。当然ながら他方で、輸入品の値上がりに伴う物価上昇圧力の副作用が懸念され、また株式市場では、投機筋(ヘッジファンド等)の動きも加わり時には株価の乱高下に驚かされる。しかし、デフレ脱却の期待感の高まりも事実のようだ。

 第一の矢を補強するのが第二の矢「政府の補正予算を含む切れ目のない財政出動」である。つまり、災害復興、インフラ整備などで景気の浮揚・市場の活性化を促しながら、その間に第三の矢「成長戦略」として、日本再生課題の各種政策をタイミングよく打ち出し、経済に好循環を醸成しようと云う目論み。

◆アベノミクス構想は、第1次安倍内閣の失脚から雌伏6年の間に温められてきた日本再生の切り札の一つ。拙稿14話でも触れる通り、昨秋10月国際通貨基金(IMF)/世銀の合同年次総会が東京に招請され世界経済がレビユウーされた。この機会も捉えて、自民党首脳は世界のブレインとも議論を深め、この構想をブラッシュアップし固めてきたものと云えよう。

 ご存知の通り、IMF/世銀は世界経済の見張り役・アドバイザー役として、多くの国・地域に対して助言や必要な融資等を行っている。つまり今日のグローバル社会では、一国の経済危機・財政不全(債務不履行など)が及ぼす他国への影響は大きい。その影響を可及的速やかに緩和・解決するのに、IMFなど国際機関の協力は益々重要性を加えていると云えよう。例えば、先般来、欧州連合(EU)のユーロ通貨不信問題(ギリシャの財務危機が発端)で世界的不況が憂慮されてきたが、IMFを中心とする、EU中央銀行などの国際機関等の協力により漸次難関を切り抜けつつあることは拙稿でも紹介したところである。またIMFは特に日本に対しては、少子高齢化対策が急務として女性の職場進出の重要性を強調し、そのための社会環境の整備等についても種々解説している。

 いずれにしても財政経済の立て直しには、各国それぞれの実情に即し、適時適切な戦略的対策が求められると云う。まさにアベノミクスは、このような助言・学説等を下敷きとして安倍政権が日本再生に向けて発動したもの。それを可能にした背景としては、20年来世界第2の経済大国の地位を占めてきた日本の豊かな経験・豊富な人材、そして国際的人脈の活躍していることが挙げられよう。

 アベノミクスが既に国際的にも認知を得てきたことは周知のとおりだが、6月半ば英国北アイルランドで開催された第39回主要国首脳会議(G8サミット)において安倍首相は、早速アベノミクスについて説明し、日本のデフレ脱却・経済再建の意気込み披歴するとともに、世界経済にも寄与したいとの願望を込めた。一部からは日本の財政赤字体質を懸念する指摘(独)もあったが、世界第2の経済大国日本の再生は、不況下の世界経済にとっても望ましい方向として、アベノミクスは大方の歓迎を受け、サミット宣言にも盛り込まれている。つまり、アベノミクスは世界経済の牽引役としての役割も負う形になった。安倍首相はサミットの帰途もロンドンにおいてアベノミクスについて講演を行い、大方の好評を得たとされる。

 このようにアベノミクスへの期待感が高まる中で、7月に行われた参議院改選選挙おいて自民党はまたまた圧勝し、年来のねじれ国会が解消された。信認を得た安倍政権は、いよいよ第三の矢「成長戦略」の正念場を迎えているが、政権の奢りなき慎重かつ大胆な政策推進を期待したい。好循環の経済再生を確実にするための成長戦略では、当然ながら民間企業の活性化を促す規制緩和、産業構造改革等、枠組みの近代化整備が急がれよう。

 勿論、政府自体の改革、財政規律の立て直しは待ったなしの重要課題だ。例えば;1千兆円を超える累積財政赤字の削減策、予算収支のプライマリーバランスの回復等々の難題は目白押しだ。目睫には、消費税アップや社会保障制度改革のスケジュールも迫っている。

 アベノミクスにより、再び「Japan as NO.1」の到来を期待したい。

写真(右)は第39回G8サミット出席の各国首脳の様子

◆思い起こすのは6年前の第1次安倍政権が1年足らずで挫折したことだ。拙稿9話でも話題にしたが、その際も安倍政権のスタート・ダッシュは素晴らしく、大きな賛辞と共に期待が膨らんでいた。ところが、その夏の猛暑とねじれ国会の苦労が重なり、安倍総理は体調を崩し、政権は僅か1年でダウンした。今回の第2次安倍政権はこれまでのところ、アベノミクスはじめ順当な滑り出しを見ている。だが、課題は山積、特に外交案件は複雑怪奇;曰く、領土問題、亡霊のような歴史認識問題等々。安倍総理には一層の自重・自愛をもって、前轍を踏むことなく初志貫徹に向けての邁進を期待したい。

 ところで、安倍総理の健康管理に関係があるのかも知れないが、今次政権では、安倍総理は首相公邸に移らず、渋谷の私宅から通勤していると云う。前回の安倍政権では、首相官邸(現在の公邸)に居住して健康を損なったと云うような因縁を指摘する向きもあるが。

 去る6月の新聞報道によると、参議院民主党の加賀谷議員から総理の通勤問題について質問が提出された。曰く「安倍総理が就任から半年を過ぎても渋谷の私邸から通勤を続けているが、警護上も経費上も問題ではないか?」首相公邸に引っ越さない事情は「公邸に幽霊話があるからか?」との質問。これに対する閣議決定の回答は「幽霊問題かどうかの事情は承知しないが、公邸への転居は諸般の状況を勘案しつつ判断される」というもの。関連の記者会見で、幽霊の気配を感じるかと聞かれた菅官房長官は「云われれば、そうかとも思う」と答え、公邸の幽霊噺は、猛暑の永田町に冷風を呼んでいた。

 なお、首相官邸と公邸の名称がややこしいので、付言すると;2002年に新たな総理大臣(首相)官邸が完成し、内閣機能を集約的に充実した。そして旧首相官邸の建物は、新官邸の南50mの隣接地にそのまま移設(引き家方式)して「首相公邸」になった。つまり、公邸になった旧官邸は、専ら首相の居住場所として使われている(公務員宿舎扱い)。  

写真は首相官邸玄関(上)と首相公邸玄関(下)
官邸ホームページから引用   

◆さて、公邸の幽霊噺の根源はご存知のとおり、昭和11年に起きた2・26事件にまつわるもので、当時の首相官邸(現・公邸)はじめ政府機関が近衛師団等の若手将校率いる部隊の襲撃を受けた政治的クーデターである。このクーデターは国粋主義の青年将校達が師団横断的に鳩合・画策したもので、昭和維新と称して重臣を殺害し、首都中枢部を4日間にわたり陸軍部隊(約1,000の将兵)が占拠した事件である。当時官邸に起居していた岡田啓介首相も襲撃を受けたが奇跡的に難を免れ、身代わりとなった首相の義弟(襲撃側が岡田首相と誤認)や警備の警官など官邸側に可なりの犠牲者がでている。後には実行部隊の責任将校にも処刑された者がいると云う。軍靴の音(行軍の幽霊)も夢枕に出ると云う証言もある。今年は68回目の終戦記念日を迎えた訳だが、2・26事件は、あの忌まわしい太平洋戦争突入(昭和16年12月8日)の前奏曲であった、と云えよう。因みに、岡田啓介海軍大将は、軍縮会議の日本代表を務めるなど欧米を知るリベラル派、事件当時は最重要人物として狙われていた。事件の責任を取って岡田内閣は総辞職。もともと米英との戦争に勝ち目のないことを感じていた岡田大将は、その後、重臣としての立場を生かし同憂の志と共に、戦争の早期終結に尽力した。その功績も高く評価されていると云う。昭和27年(1952年)10月に85才で逝去されたが、80才の時には宮中での杖使用を許されていたと云う。  なお、岡田大将は越前(福井県)出身で、妻イクさんに早く逝かれ(昭和3年)、以来独身で通していたようだ。2・26事件の時は、身代わりとなった義弟の松尾伝蔵氏(妹の夫)を側近とし、同郷の福田耕氏を総務秘書官、大蔵キャリアの迫水久常氏(次女の夫)を財務担当秘書官、外務キャリアの大久保利隆氏(迫水の義弟)を外務担当秘書官とする同郷グループで支えられていた。福田耕氏は2・26事件では首相救出劇に活躍したという。戦時中は華北電電の要職にあった関係で、戦後はご存知の通り、KDD発足時に渋沢敬三社長と並んでナンバー2の専務取締役を勤めている。

◆余談に亘るが、KDD発足間もない1955年(昭和30年)に「岡田啓介海軍大将を偲ぶ会」が首相官邸(現・公邸)で開かれた。福田専務はその幹事役を勤めていたということで、専務のお手伝いとして、KDDから小生ら数名も首相官邸に駆り出された。このご縁で岡田大将の伝記本を頂戴したり、官邸ホール一隅で昼食のご相伴に与かったりした想い出が印象的に残っている。

 上記偲ぶ会は、我らが丸の内のKDD本社から大手町の新築ビルに移って間もない頃で、愚生は、当時広報を担当、新聞記者関係で役員との交渉も多かったことから、お手伝いに駆り出されたと思うが、大変特異な経験であった。

 なお、2・26事件の背景・経過などは、偲ぶ会から頂戴した「岡田啓介伝記本」に詳しい(ご興味のある方には貸与OK)。この本は、B5版500ページに及ぶ大作で福田専務を世話役とする「故岡田啓介海軍大将記録編纂委員会」で纏められ、冒頭の序文は吉田茂元総理が贈っている。

◆この偲ぶ会で印象を深くしたのは、敗戦日本の立ち上げをリードしたワンマン宰相・吉田茂氏の出席であった。ご存知のように敗戦間もなく公職追放になった自由党総裁鳩山一郎氏を継いで同党総裁に選ばれた吉田氏は、1946年に第1次吉田内閣を発足し、以来1953年の第5次吉田内閣まで6年余に亘る長期政権を担った。

 もっとも、1947年には新憲法により総選挙が行われた結果、1年半ほど社会党に政権が移ると云う事態もあったが、直ちに自由党が政権を取戻し、第2次吉田政権が発足している。つまり、吉田ワンマン体制により、敗戦日本を世界の舞台に復帰させた数々の事績を残したことはご存知のとおり。連合国軍司令長官マッカーサー元帥との交渉をはじめ、平和憲法の制定、サンフランシスコ平和条約締結、日米安保条約締結等々吉田宰相の活躍・エピソードは、多くの報道・ドキュメントに語られる。その活躍・功績により吉田氏は1967年に逝去の際、国葬の礼をもって送られたことは記憶に新しい。

 上記偲ぶ会において吉田氏は冒頭挨拶に立ち、大将を同憂の志とし戦後復興状況を報告、大将からも貴重な示唆を得ていたなどの想い出を語った。吉田氏は、もともとは外務官僚出身であるが政治感覚に鋭く、2・26事件当時には外務大臣候補に挙がっていたが、岡田大将と同様のリベラル派として、対立する国粋派に嫌われていたから、事件直後には英国大使に飛ばされ、国内での平和活動(戦争回避)を阻まれていた、と云う経緯も語られる。

写真(上)はデンマークGNTC社長一行との会談(KDD大手町ビルにて)
~右端からKDD福田専務・渋沢社長、スエンソンGNTC社長・・・~

◆アベノミクスと2・26事件とは全く関係ない話だが、もし、かつての事件現場・首相公邸が歴代総理の居住場所として健康上(精神的にも)に何らかの影響及ばすものとすれば速やかに処置し別途新公邸を計画したら如何かと思う。公邸の建物自体は、昭和2年完成の2階建(大蔵省営繕財務局・下元氏設計)。かつての帝国ホテル同様に、ライト風様式(米建築家設計の煉瓦と大谷石を飾る鉄筋コンクリート造り)を踏襲する歴史的建造物である。因みに、旧帝国ホテル玄関は、愛知県の犬山明治村(博物園)に移築・保存されていることは、ご存知の向きも多いと思う。現公邸も歴史的建造物として保存することは望ましいかも知れない。

以 上

 

 

第14話 がんばろう!ニッポン!

~ 前編 ~

 

2012年8月 遠藤榮造

◆ ロンドン夏季オリンピック大会は、猛暑の日本列島を文字通り熱気に包み成功裏に閉幕した。続いて8月末にはロンドン・パラリンピックが開幕、各競技場では感動的な熱戦が繰り広げられており、日本列島の猛暑も9月に繰り越されたようだ。日本選手団は“がんばれ日本!!”の応援に応えて善戦し、この歴史の街で大和魂・なでしこ魂をいかんなく発揮している。アスリート達に心からエールを贈りたい。

 さて今次ロンドン夏季大会には、史上最多の選手団が200余の国・地域から参集、まさに5輪マークが象徴する世界一丸の平和のスポーツ祭典になったようだ。市内外の競技場では伝統的・歴史的な街の景観も取り込み、ユニークな運営が繰り広げられていたようだ。各種競技では悲喜こもごも、国を挙げて興奮し盛り上がった。勝敗は、オリンピック精神と原則、ルールと審判により決するので清々しい。日本選手団も予想外の種目で健闘し、史上最多の38個のメダル(うち金7個)を獲得したことは悦ばしい。

◆ ロンドンと云えば、我らKDD/OBにとっても街の景観・想い出の詰まった地である。本コラムの話題でも紹介してきたように、この地は国際海事衛星機構(インマルサット)設立の舞台。1975年4月ロンドン・キュナードホテル(中心街のハンマースミス地区)で第1回政府間会議が開始され、1982年2月に「インマルサット初期システム」の運用を開始するまで、多くの交渉・協議が繰り広げられた。会議は英当局(BPO)の招請によりイングランド各地;ドーバー海峡の景勝地ブライトンやボーンマスをはじめ、古都ストラットフォード-アポン-エイボン、その他各都市でも開かれ、更に大陸各地(ノルウエー・オランダ・フランス・旧ソ連等の招請)にも転戦した。忘れられない思い出である。

 ご存知のとおり、インマルサット機構は2000年には民営化され、引き続きロンドンに本部を置く「Inmarsat plc」の手によりグローバル移動体衛星システムを運営;世界中の船舶・航空機・陸上移動体等を対象に近代的な移動体通信およびグローバル遭難安全システム(GMDSS)を提供している。当初船舶を対象に始まったインマルサット・システムだが、技術的進展により今日では世界中の各種移動体に多彩なサービスを提供している。最近の情報によれば、災害に強い衛星通信の特色を生かし、インマルサットの携帯端末が見直され、日本(KDDI等)においても新たなケイタイ衛星サービスとして導入されていると云う。ロンドンで発祥したインマルサットが不死鳥の如く進化発展している情勢は悦ばしい。

◆ さて5輪マークに象徴される近代オリンピックは、1896年のアテネ大会を第1回とし、今回のロンドン大会で30回を数えるが、この平和の祭典も国際環境に因り必ずしも平坦な道でなかったことは知られるとおり。振り返れば、1916年のベルリン大会は第1次世界大戦の勃発で中止。特に我ら戦前派にとって苦い思い出だが、1940年の開催を準備した東京大会は、不幸な日中戦争により返上。急遽、2位の候補地・ヘルシンキでの開催となったが、これも第2次世界大戦への突入で中止。次の1944年ロンドン大会も大戦中のため中止の憂き目を見る、と云う残念な歴史を刻んでいる。 その後、敗戦から立ち上がた日本は再度の挑戦で、アジア初のオリンピック大会を東京に招請し、1964年10月成功裏に開催している。競技は数々の記録で盛り上がり、日本選手団は金メダル16個を獲得(米・ソ連に次ぐ3位)と云う歴史的成果を挙げた。さらに、競技の成果もさることながら、オリンピックを背景とした日本復興のエピソードが多く語られる。

 即ち、我らKDD/OBとして忘れられないのが、世界初の国際テレビ中継を実現したことである。本コラムの話題でも触れるように、衛星通信開発草創の期に関係者の研鑽努力により、逸早くKDD茨城衛星通信所を立ち上げ、シンコム3号衛星(NASA提供)の利用等の国際的協力を得て、東京オリンピックTV映像の世界への中継に成功した。更に1964年6月にはKDD/AT&T/HTCの共同事業として建設・運用を開始した新型海底同軸ケーブルの第1太平洋横断電話ケーブル(TPC-1)が導入され、多彩な通信需要に対処してきたこと等が懐かしく想い出される。

 このような戦後復興期における日本の社会インフラの多くが、このオリンピックを契機に導入・展開された訳だが、なかでも象徴的なのが世界初の高速鉄道・東海道新幹線のデビユーも特筆されよう。いずれも我が国高度成長の基盤になったことは間違いない。もっとも、当時の資金不足、特に外貨不足の日本において必要資金の調達には苦心があったようだ。

 例えば、上記KDDのTPC-1ケーブル建設資金としては、AT&Tの肝いりで1962年に、KDD社債2,500万ドル(約90億円)をニューヨークの金融市場から調達した。その苦心談は増田元一・元KDD社長(当時・経理部長)の語り草であった。一方、東海道新幹線の建設関係では、JRが世界銀行(IBRD)から8,000万ドル(280億円)の融資を受けたと云う。なお、何れの事業も順調な成果を挙げて、KDDは1977年までに社債を全額償還。JRの新幹線も順調な運営で1981年までには世銀に完済していると云う。復興途上における日本の状況を物語るものとして感慨深い。

◆ 近代オリンピック成立の柱として、世界平和・民族融和が標榜されるが、大会の開催運営には残念ながら大小様々の紛糾や人種問題等が付きまとうようだ。筆者の記憶に生々しいのが、1980年のモスクワ大会ボイコット事件である。つまり、前年12月に突如ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻し、これに抗議した西側諸国等がこの大会をボイコットしたため、参加は80か国・地域にとどまると云う変則的な大会になった。筆者は、たまたま1979年10月にインタースプートニク(東側の国際通信衛星機構)総会に招待されて、アゼルバイジャンの首都バクー(モスクワの南2000km・カスピ海東岸)に出張し、その帰途モスクワでソ連郵電省幹部と翌夏に迫ったモスクワ・オリンピックの通信対策について打ち合わせがあった。その2か月後に突如ソ連軍がアフガンに侵攻という事態が起きた訳だ。出張中にこのような事態を知る由もないが、現地で何となく異様な雰囲気を感じたことは今でも思い出す出来事であった。なお、このボイコット騒動は、次の1984年のロサンゼルス大会に持ち越されて、ソ連圏16か国が不参加になったが、ロサンゼルス大会には結局140か国・地域が参加している。

 オリンピックによる世界融和は貴重なテーマだが、国家間・民族間の因縁付き紛争は絶えることはないようだ。お互いに冷静・粘り強く、大局的・平和裏に処理したいものである。関係当局・政治家の腕の見せ所?!

◆ さてオリンピックと云えば、その発祥の地ギリシャは切り離せない存在。聖地オリンピアで採火された聖火はロンドンにリレーされて期間中メインスタジアムに輝き、また開会式ではギリシャ選手団が入場のトップを飾る、と云う栄誉を担う。この近代オリンピックは、1896年のアテネ大会で始まり1996年に100周年記念大会(米アトランタ)を迎えている。実はこの記念大会にはアテネも当然のこととして立候補したが、アトランタに敗れてしまうと云う、ギリシャにとって不本意な事態になった。開催地の選定においては、立候補地間の派手な招請活動・経済事情なども絡み種々の噂・憶測が流れた。なお、アテネは、その後も立候補を続け、2000年のシドニー大会に次ぐ2004年に漸くアテネ大会の開催に漕ぎ着けている。

 オリンピックでは栄誉を担うギリシャだが、最近の報道でご承知のとおり、その財政不調が世界経済の足を引っ張ると云う不名誉な事態に立ち至っている。同国は古代文明遺跡や風光明媚なエーゲ海に囲まれる観光国として有名だが、元来は南欧地域で盛んな農産物(綿花・オリーブ等)を中心とする平和な農業国。近代工業の生産性は低く経済的には必ずしも恵まれていないようだ。先年のアテネ・オリンピック開催では随分と無理をしたとも云われる。同国の財政危機は、当時から潜在的に見られていたようだ。

 ギリシャは2001年にユーロ(欧州共通通貨)を導入しており、ユーロ圏の自由経済・支援の恩恵を受ける一方、EU(欧州連合)のルール・監視下に置かれている。昨年その財政に粉飾(例えば、2010年の財政赤字を3%と発表したが、実は13%)などの不適切な財政状況が明らかになり、EUや共通通貨を管轄するECB(欧州中央銀行)、さらにIMF(国際通貨基金)などの指導を受けて、財政改革や緊縮財政の実施を迫られている。世界が注視する、長引くギリシャ経済危機の行方は!?  それに付けても財政赤字大国・日本は大丈夫だろうか???

≪ つづく ≫

 

 

第14話がんばろう!ニッポン!

~ 後編 ~

2012年11月 遠藤榮造

 

◆オリンピックの熱気が去って早くも秋から冬へ。紅葉の好季節と共に世間の舞台もめぐり移っている。前編では、さきのロンドン夏季オリンピック大会や近代オリンピックの経過などを振り返ってみた。一方、オリンピック発祥の地として栄誉を担うギリシャだが、長年の放漫財政が明るみに出て、同国の加盟する欧州共通通貨「ユーロ」全体に信用不安が広がり、さらに世界経済にも不況の影響を及ぼすと云う、不名誉な事態を指摘した。したがって、この後編では、敢えて複雑怪奇な国際経済の話題にも触れて見たいと思うが、何分にも素人の岡目八目談義!予めご諒承をお願いしたい。

 さて、秋は「ノーベル賞」の季節。今年も日本人の受賞者(医学生理学賞)山中伸弥教授の発表受けて、国中が祝賀気分に沸いた。ノーベル賞は周知のとおり、物理学賞・化学賞・医学生理学賞と経済学賞がスエーデンで、平和賞がノルウェーで、それぞれ選考・発表されている。1901年の創設当初は受賞者の選定システム等の関係もあり、対象者が欧米人に偏っていた。漸く戦後に至りグローバルな選定が行われるようになり、日本人受賞者は、1945年の物理学賞・湯川秀樹博士にはじまり、この半世紀余で20人を数えている。この受賞者数は、近隣諸国では断トツ、欧米各国に比べても際立つ実績で、誇らしくも頼もしい限り。ノーベル賞は個人の業績を対象とする(平和賞には団体も含む)が、国の科学・文化・経済など学術レベルの現れとも評される。今回の山中教授の栄誉を励みに、益々“がんばろう!ニッポン!”

 さて話題の欧州共通通貨「ユーロ」について見ると、その母体である欧州連合(European Union=EU)が今年の「ノーベル平和賞」に輝いたことも周知のとおり。現下の世界経済不況の震源とも云われるEUに対し、敢えてこの時期に平和賞が贈られた訳で、意表を突く発表に驚きを感じた方も少なくないと思う。EU体制の構築が、永年にわたる欧州諸国の平和結束の努力によることは、つとに注目されており、ノーベル賞の顕彰には意義深いものがある。また世界の他の地域に対する平和構築のお手本・モデルとしても高く評価されるところであろう。平和賞の発表は何時もながら政治的ニュアンスが込められるが、今回も恐らく、ユーロ問題の試練を乗り越えて、さらなる平和の結束に向け“がんばれEU!”とのエールを送っているものと云えようか。

◆EU体制構築の経緯等については、大方ご存知の通りだが、20世紀前半に2度にわたり世界大戦の発端となった欧州諸国の強い反省の下、不戦の誓いとして超国家的枠組の欧州連合が構築されてきた。つまり、さきの大戦直後から米国の経済支援(無償援助を含む「マーシャルプラン」)をはじめ、世界銀行や国際通貨基金(IMF)等の融資を受けて欧州各国の復興が促進された。特に英独仏などの欧州主要国間で様々な和解協力の試みが進展し1967年には欧州共同体(EC)を実現。その結束が拡大・深化して、1993年に「独立国家連合体」としての欧州連合(EU)が発足した。いわゆるマーストリヒト条約により、単なる経済統合にとどまらず政治・司法・外交・安全保障面にもわたる国家連合を形成した。欧州各国は、それぞれ国民投票などの手続きを経てEUに加盟し、今日では東欧・地中海諸国にも拡大、EUは27か国(人口5億余)の輪を構築している。国民投票で過半数に達しなかった未加盟国(ノルウエーやスイス等)の今後の加盟は期待されよう。

 EUの特色はその形成過程にあると云われる。例えば、外交・安全保障・人権・法の支配など連合体としての普遍的政治体制の確立では、1990年代のユーゴ紛争の苦い経験も生かされたと云う。国連を中心とする平和維持部隊(PKO)への参加、つまりEU部隊の編制により、以来アフリカ・バルカン・中東等の紛争地へのEU部隊のPKO派遣に繋がっている。なお、EU本部はブラッセル(ベルギー)に置かれ、各国にも連合体の統治機関が展開し、EU議会をはじめ大統領・閣僚などの統治機能が活躍していることも周知のとおり。

 EUの共通通貨「ユーロ」の導入について見れば、ヒト・モノ・カネの移動に制約なく、関税障壁も取り払われる単一市場を目指すEUとして、共通通貨制は当初からの目標と云われる。まず1979年に、いわゆる欧州通貨制度(EMS)として、一定巾の変動を許容する固定為替相場制を導入した。その後、ソ連邦の崩壊やドイツの東西統一に象徴される市場経済の拡大に伴い、通貨間での軋轢(例えば、強いドイツマルクに買いが集中)が高まり、緩和策として1995年から共通通貨「ユーロ」の導入が図られた。2001年にはユーロ貨幣が流通し新たな段階に入った。目下ユーロ圏への参加は17か国だが、ユーロは既に米ドル・英ポンド・日本円と共にIMFが採用するSDR(特別引出権)バスケットの4基軸通貨として国際的に重要な地位にある。なお、ユーロを管轄する欧州中央銀行(ECB)は、本部をフランクフルト(独)に置き、EU各国の中央銀行も統括している。

◆以上見るようにEUは、国家連合として結束し順調な経済発展を遂げており、その総生産高(GDP)は、既に米国を抜いて世界一の座にあると云う。IMF(国際通貨基金)の統計(2011年)によると、EU内のGDPは17.5兆ドルで、全世界のGDP総計・約70兆ドルの凡そ25%を占め、米国のGDP15兆ドル(世界の22%弱)を上回った。なお、米国に次ぐのが中国の7.3兆ドル(10%)、日本は5.9兆ドル(8%)で4位を占める。もっとも、人口比(中国13億人:EU5億人:米国3億人:日本1.3億人)を加味した比較で見ると、やはり米国が1位、EU2位、日本3位の順になろう。

 EU各国は市場競争においては、米国を見習い「追いつき追い越せ」をモットーに、戦後の復興発展を遂げてきたと云えよう。つまり、EU国家連合と米合衆国連邦は共に自由民主主義の成熟した共通文化圏にあり、平和的な産業技術の競争において切磋琢磨していると云えよう。そのような競争の実態として、EUの意欲的事業は枚挙に暇ないが、例えば、当時世界初の超音速旅客機(SST)として華々しくデビューした、英仏の共同開発による「コンコルド(英仏両語で協調の意)」事業を挙げることが出来よう。

 コンコルドは1969年に初飛行。マッハ2。5の超音速でロンドン・パリからニューヨーク・シンガポールなど世界主要空港間を結び、ビジネス機として人気を博した。日本航空も一時期SSTの購入を検討し羽田へのデモ飛行も行われたが、不運にもパリ空港での事故をはじめ騒音や燃費問題、さらには旅客機の大型化時代を迎えて採算性などからSSTは次第に敬遠され、2001年の同時多発テロ(9.11事件)による心理的影響も加わり、遂に2003年で30余年の運航に幕を閉じた。なお、その後の旅客機大型化競争では、エアーバス社が仏独の共同事業として発足(後に英・スペインも参加)し健闘している。今日では大型機で君臨する米航空機産業(ボーイング社など)と互角の競争を展開していることはご存知のとおり。

 さて我らKDDにとって、お馴染みの衛星通信面から見れば、既に述べる通り国際海事衛星機構(インマルサット)が1979年ロンドンに設立された訳だが、その初期システムを構成する欧州宇宙機関(ESA)のマレックス太平洋衛星について、KDDはその打ち上げ運用に協力するため、衛星コントロール(TT&C)施設の建設・運用を請け負った経緯がある。ESAはEU条約上の協力機関で、欧州19か国が参加し宇宙研究開発などを担当している。このTT&Cの請負交渉には、筆者らがパリのESA本部に赴き、友好裡に協議が進んだことを懐かしく思い出す。また、オランダ西部の欧州宇宙技術センター(ESTEC)を見学する機会もあった。ESTECは、当時(1970年代末)はまだ少規模な宇宙研究開発施設との印象であったが、宇宙技術では米航空宇宙局(NASA)の欧州版を目指す意気込みが窺われた。因みに、JAXA資料によれば、ESAの2011年予算は4,800億円でNASA予算の35%に相当、日本のJAXA予算の凡そ3倍に当たる。ESAの活動は次第に増強されていることが窺える。

◆話は前後するが、ユーロ危機を惹起したギリシャ問題を見ると;長年にわたる年金天国(現役時代と変わらない年金額の支給)に象徴される同国の放漫財政が、ユーロ圏各国からの借金で賄われてきたとされ、2009年のギリシャ財政報告において粉飾決算が明らかとなり、ギリシャ国債は暴落、財政は破綻寸前の状況に立ち至ったと云う。

 ギリシャはEU主要国や欧州中央銀行(ECB)の支援をはじめ、国際通貨基金(IMF)などからの支援・指導を受けて、財政の立て直し・緊縮財政の具体化が迫られている。報道でご存知のとおり、年金や給与の削減と共に増税などでギリシャ国民の不満・対立が激化し、遂に総選挙・政権交代などの混乱に発展、財政再建の道は険しいとされる。なお、EU圏ではギリシャのほかにもスペイン・ポルトガル・イタリアなど南欧諸国の財政不全問題が順次顕在化し、欧州経済の大きな不安材料として注視される。共通通貨が各国個別の自由な金融財政下(財布の紐の緩い国も含む)に置かれたとの批判もあり、EUとしてはギリシャ問題の解決を急ぐと共に、ユーロ圏各国の財政規律強化等により、ユーロの信用不安を払拭し、ユーロ圏の結束を図る方向とされる。最近の報道によると、EU当局の発表として、ギリシャ債務危機は関係国際機関の支援・協力により乗り越えられる見通を得たと云う。このところ、為替相場が「円安ユーロ高」の傾向に進んできたのは、その裏付けとも評論されている。

◆さて、このように問題山積の世界経済の中で、去る10月中旬東京において、国際通貨基金(IMF)と世界銀行の合同年次総会が開催され、注目を集めた。この総会はご承知の通り、日本政府の招請によるもので、東京での開催は48年振り。IMF/世銀の加盟国188か国から代表団・専門家および関係国際機関(OECD/WTO)等、凡そ2万人もが参集したと云う一大イベントであった。併せてこの機会に、日米欧先進7か国の財務相・中央銀行総裁によるG7経済サミット等も開かれている。

 ギリシャの債務危機・ユーロ不信・世界不況が懸念されるこの時期に、この年次総会において世界経済がレビューされ、現状認識、改善策等が討議され、世界中の関係者間で共有されることは大変意義深いものがあると云えよう。

◆上記年次総会の規模からみても判るように、IMF/世銀とも、ワシントンDCをベースとする巨大な国際機関である。因みに、我らのインテルサットは1973年に恒久制度化されてワシントンの国際機関に仲間入りしたが、筆者は当時、世銀職員の若手日本人キャリアーに知己を得て、同機関の見学・案内を受ける機会があった。幹部食堂で昼食まで御馳走になったことを想い出す。当時の印象も含め、両機関の概要を纏めて見よう。  IMFと世銀の生い立ちは意外と早い時期 で、ほぼ国際連合と同時に発足している。つまり、第2次世界大戦が終焉を迎えたころ、唯一の戦勝国と云える米国が中心になり、連合国首脳が糾合して戦後世界の構想が進められた。再び世界を戦火の巷にしないと云う強い反省の下、戦前の国際連盟に代え、平和共存・人権尊重・自由平等などを目指した国際連合(UN)を1945年に創設。同時に、大戦勃発の底流に国家間の経済的軋轢があったとの強い反省から、戦後世界では特に国際金融の安定化と技術的サポートおよび戦後復興支援を目的とした経済専門機関としてIMF/世銀体制の創設を見ている。1944年米ニューハンプシャー州ブレトンウッズで成立した、いわゆるブレトンウッズ協定による戦後の経済体制である。

 なお、日本がこの体制に参加したのは1952年。戦後復興時には世銀から併せて8億6000万ドルを借り入れたが、高度成長を迎えた1980年代には、すべて完済している。その後日本は、IMF/世銀・両機関の出資国として貢献。今日では、米国に次ぐ世界第2位の出資率(クオーターと云う)を両機関において維持している。IMF(国際通貨基金)の主要任務は、国レベルの財政問題を扱う国際機関として国・地域などの経済状況を分析し、必要な助言・融資などを行う。一方世界銀行は、国際復興開発銀行(IBRD=International Bank of Reconstruction & Development)を中核とする世銀グループの総称で、各国の復興開発事業に資金を融資し、特に貧困国の開発事業等も担当している。IMFと世銀は、表裏一体の関係で平和構築のためグローバル経済の安定的発展を目指している。

◆IMF/世銀は大戦直後に創設されているから、その後の経済界の変遷に伴い、役割も大きく変革している。特に、戦後定着していた、米ドルを基軸とする各国間の固定相場制は、1970年代に入って、いわゆるニクソン・ショックにより変動相場制に移行し、各国通貨の変動、経済の動きは一段と複雑さを加えた。このような変革の中でEUが欧州共通通貨・ユーロを導入してきたことは画期的変革として注目された。  ニクソン・ショックについては、ご記憶の方も多いと思うが、1971年7月突如、米国が米ドルの「金兌換停止」を発表。戦後維持されてきた、金本位の米ドルを介する固定相場制(日本場合1ドル/360円に固定)が崩れて各国通貨はフロート相場に移行した劇的瞬間である。筆者は、たまたまワシントンにあって、その変革の一端を体験したので、蛇足ながら、当時の状況を付言しておこう。

 即ち、まずインテルサット恒久制度化の協議(1969-71年・国務省)において、インテルサットの基軸通貨(出資・配当・支払等に使用)を従来の米ドルからSDR(主要5か国のバスケット)方式に変更すると云う提案が西欧グループから提出され、論議が紛糾した。筆者は当時の大蔵省に電話で意見を求めたところ「貴方は米ドル不信論者か」との反駁を受け、日本政府の米ドル維持方針に変更ないことを確認した。しかし当時は、長引くベトナム戦で米国の財政事情は厳しく、国内にも厭戦気分が広がり首都ワシントンにはデモ隊(ヒッピー等)が押し寄せるという異様な状況。このような情勢を反映した欧側の提案であったと考えられたが、会議では結局、米ドル支持が優勢を占め、SDRの採用には至らなかった。

 ところが、会議が終盤を迎えた1971年7月突然、ニクソン大統領の声明により「米ドルの金兌換停止」が発表された。それまでは、米ドル紙幣を随時金貨に交換できた。その金の裏付けが外された訳だ。上記西欧のSDR提案がこの事態を予想したものかどうかは判らないが、米ドルの信認を問題にしていた訳だ。兎も角、日本円の相場は、1ドル360円から直ちに308円に値上がりし、その後も日本産業・国力の進展と共に円高傾向は続き、今日では記録的高値の1ドル70~80円代で推移し、輸出貿易に依存する日本経済にとって厳しい状況が続いていることは周知のとおり。  因みに、戦前には金本位制が広く採用されており、戦前の官報に公示される米ドル:円の為替相場は、概ね1ドル/1円で推移していたのを憶えている。万国電信条約では金フラン制。調べてみると;日本は明治4年(1871)に金本位制を導入。「新貨幣条例」により1円を純金1.5g(1897年には1円=純金750gに半減調整)とした。幕末維新における日本の国際化推進の一環として金本位制が導入された訳だ。明治4年は恰も日本を初めて海外に結んだ「長崎―ウラジオストク海底電信ケーブル」開通の年でもある。本コラム第12話に述べるように、このケーブルが西欧文明の情報ルートとして活躍した時代、金本位制も当時の世界を映したものと云えようか。ニクソン・ショックで遂に金本位制は世界から消え去り、国力を背景とした変動相場制の世界に移っている。諸行無常!!

◆さて、IMFと世銀の今次東京総会において、どのような成果を見ているかは、素人目ではフォローしかねるが、最近の報道によれば、世界不況の発端となったギリシャの経済破綻は、IMFやEU当局などの努力で一応解決に向かっているとの朗報がある。一方で大国フランスの国債格下げ騒動やスペインの財政危機・緊縮策に伴う国内の混乱(バスク地方の独立運動など)も報じられ、ユーロ圏の不安定さは依然続いているようだ。  日本の経済問題については、スポークスウーマンとして報道関係に度々登場したIMFラガルド専務理事の解説・アドバイス等が注目された。既に知られることだが; まず、赤字大国日本の体質改革が求められる。既に1千兆円を超える財政赤字(国債)は、これまでのところ国内貯蓄に裏付けられていること、特に、日本貿易の経常収支が黒字で推移していることで、対外評価は維持されている。しかし、長引くデフレ不況は懸念材料だ。景気浮揚対策が急がれるが、IMFラガルド女史の言葉を借りれば、その実行は「金融緩和と緊縮財政との狭い経の綱渡り」であり、当局の適切な舵取りと国際的視野に立った調整が必要と云う。今や1国の混乱が世界に波及する複雑な経済関係、バランスのとれた対応が重要とされる。

 日本が消費税の引き上げを決定しことは、財政健全化の一環として歓迎されるとの評価。専門家の間で、金融緩和・雇用促進・企業の活性化等々、論議は賑やかだが、政府のリーダーシップと実行力が期待されると云う。

 ラガルド女史は更に、社会経済活性化の例として日本に提言した。つまり日本はもっと女性の雇用・社会進出を図るべきであると。そのための社会的仕組みの整備として、オランダの例(保育所・家事分担・共稼ぎ・職場での処遇など)を挙げた。これによる雇用増と収入増が社会経済の活性化に繋がると強調した。

 次に領土を巡る紛争については、当事国のみならず世界経済の不安定化につながる。平和的対話による早期解決を期待したいと云う。示威的・強圧的な戦略・戦術は、もはや20世紀の遺物と云うのが識者の見解。残念ながら、アジア地域でのEU方式の平和結束の構築は時期尚早のようだ。取り敢えずは、経済協同体制(FTA/TTP/ASEAN等)の推進が地域の平和構築にも望ましいとされる。

◆日本再生のために景気回復は待ったなしの課題だが、上に述べたようにIMFラガルド女史が云う、金融財政当局のタイミング良い、金融緩和と緊縮財政の舵取りに期待される。一方、中長期的戦略としては、日本・日本人の特質を生かした社会体制の醸成が肝要と云う。12月10日にはストックホルムでノーベル賞の授賞式が挙行され、山中教授夫妻が栄誉を受けられる。このノーベル賞受賞者に象徴されるように、基礎的学術の飽くなき追及、それを支える日本人の好奇心と勤勉さ、それを醸成・進化する学制改革や社会体制の日本らしいイノベーションが強調される。 

 かつて、日本文学研究者として著名な米コロンビア大・名誉教授のドナルド・キーン先生から「古代日本」についてお話を伺ったことがある。ご存知の通り先生は、東日本大震災を機に日本国籍を取得し移住した知日親日派。そのお話を要約すると;古代日本は、稲作伝来の弥生時代に顕著な発展を見たと云うのが一般的解釈だが、実は日本人の特質には、縄文文化が色濃く今日に継がっており、大陸文化とは特異な進化を遂げていると強調した。日本人になった先生は、決して褒め言葉を云わないが、大震災に耐え乗り越えている島国日本を励ましている思いである。世界的な不況のなか、日本沈没にならないよう、大和魂・Japan As No.1を想起し、自信をもって

 !がんばろう!ニッポン!

<おしまい>