会員の広場

 

 

Happy  Birthday! 

 

投稿していただいた会員の一覧(INDEX)

 (敬称略)

 

お名前をクリックすると投稿記事が表示されます。

 (注)お名前の後の年月日は、掲載月を表示しています。

 

あ行
 
  小川 忠弘   2013年5月     沖 和美      2013年5月     大場 尚文   2013年5月     大場 光男   2013年6月     安道 宰一郎  2013年6月     岩佐 裕司   2013年7月     岩本 喜直   2013年10月   稲尾 登志高  2013年10月   石原 英雄   2013年10月   梅田 昭夫   2013年11月   伊原 昭男   2014年2月     池田 佳和   2014年4月     大橋 正良   2014年5月     小田 洋之   2014年7月     小川 明義   2014年8月     青木 丈夫   2014年9月     出石 昌三   2014年10月   小川 桂子   2014年10月   小野 欽司   2015年3月     磯村 栄一   2015年4月     岡田 哲也   2015年6月     小川  明   2015年8月     大場 一則   2015年9月     太田 忠一   2015年10月   石垣 英明   2015年11月   織間 政美   2015年12月   梅村 民男   2016年1月     牛尾 哲久   2016年3月     猪熊 昭男   2016年4月     楳本 龍夫   2016年5月     伊藤 叔夫   2016年7月     天沼 松次郎  2016年7月     大湾 勇    2016年8月  

か行
 
  金澤 修二   2012年11月   榑松 明      2012年12月   勝部 日出男  2013年1月     金澤 政和   2013年2月     川口 憲一   2013年5月     北村 秀二   2013年6月     国府田 大   2013年7月     桑山 晶次   2013年7月     河野 洋三   2013年8月     上村 新八   2013年9月     見城 正幸   2013年11月   柏原 修一   2013年12月   來山 征士   2014年1月     久保 勝一   2014年1月     後藤 節子   2014年2月     小畑 富宥   2014年3月     金城 晴八   2014年3月     川角 靖彦   2014年4月     金澤 徹郎   2014年5月     衣畑 晃治   2014年6月     北田 聖明   2014年6月     小室 圭五   2014年7月     川添  質   2015年2月     金城 晴八   2015年3月     樫村 慶一   2015年4月     北田  勲     2015年9月     甲斐野 幸一  2015年11月   景山  正     2016年3月     木本 正二   2016年3月     衣畑 晃治   2016年6月  

さ行
 
  鈴木 進午   2012年11月   佐藤 龍夫   2013年1月     清水 恍平   2013年2月      関 義信      2013年3月     佐野 智敏   2013年4月     佐藤 正紀   2013年5月     柴田 清栄   2014年1月     佐藤 正武   2014年1月     齊藤 秀樹   2014年5月     佐賀 健二   2014年7月     相馬 良明   2014年10月   鈴木 英昭   2014年11月   真田 一郎   2015年1月     庄司 竹夫   2015年3月     嶋田 英一   2015年4月     佐藤 敏雄   2015年5月     関根 勝昭   2015年7月     島田 常五郎  2015年7月     杉原 裕俊   2015年8月     佐藤 軍吉   2015年8月     坂本 令子   2015年9月     城下 征治   2016年1月     関口  栄     2016年3月     杉下 勇      2016年4月     櫻井 富雄   2016年4月     関戸 芳二   2016年10月   袖山 公平   2016年10月

た行
 
  田渕 紀一   2013年1月     高宮 孝一   2013年1月     高橋 春雄   2013年2月     武村 俊平   2013年5月     田代 道彦   2013年8月     田中 成欣   2013年8月     塚田 一幸   2013年9月     竹田 文子   2013年10月   髙倉 保      2014年3月     豊川 修司   2014年10月   高橋 俊雄   2014年11月   武田 伸子   2015年10月   舘野  孝   2015年10月   玉木 久光   2015年10月   瀧本 直孝   2015年11月   竹中  理   2016年3月     高木 徹雄   2016年10月  

な行
 
  永田 秀夫   2012年12月   内藤 雅行   2012年12月   中村 宣洋   2013年4月     野村 幸男   2013年4月     西宮 凞      2013年6月     仲川 達雄   2013年8月     長浜 剛毅   2013年10月   祢津 信夫   2014年2月     橳島 明      2014年8月     中島 薫      2014年12月   西澤 太郎   2015年1月     新納 郁江   2015年12月   二瓶 和義   2016年4月      

は行
 
  富士 暹      2012年11月   畑中 卓純   2013年2月     廣瀬 辰      2013年4月     波多野 雅朗  2013年5月     服部 尚彦   2013年6月     藤森 正一   2013年7月     原田 建夫   2013年8月     堀内 周樹   2013年8月     福村 明      2013年9月     橋本 恵三   2013年9月     平井 富子   2014年2月     堀 正夫      2014年6月     古澤 嘉平   2014年12月   林 雅和      2015年5月     肥田 俊      2015年8月     堀井 勉      2015年8月     星山 文雄   2016年1月     長谷川 光男  2016年6月  

ま行
 
  森 弘道      2013年2月     三上 達郎   2013年3月     水橋 量司   2013年5月     森田 孝志   2013年7月     宮内 美耶子  2013年8月     松本 潤      2014年6月     前田 昭男   2014年8月     松平 恒和   2014年12月   松田 隆治   2015年2月     松波 鋭四朗  2015年4月     町田 香子   2015年6月     峰村 桂子   2016年2月     望月 さち子  2016年9月        

や行
 
 
  吉田壮五郎   2012年11月   山岸 幸子   2012年12月   吉澤 生雄   2013年1月     湯口 裕      2013年3月     山村 和臣   2013年4月     山本 昭男   2013年4月     宿谷 將夫   2013年4月     吉田 保夫   2013年5月     柳澤 孝雄   2013年8月     横井 寛      2013年11月   山本 隆臣   2014年2月     吉田 京子   2014年3月     横山 幹雄   2014年4月     山本 英雄   2014年5月     矢島 勇夫   2014年9月     矢部 靜樹   2014年9月     横山 喜明   2015年7月     横尾 常勇   2015年12月    吉田 和男   2016年1月     横山 邦夫   2016年5月    

ら行 わ行
 
  若原  恭   2015年7月                                                  

 

Happy Birthday (2016年10月掲載)

Happy Birthday !


10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
  高木 徹雄 さん、 関戸 芳二 さん、袖山 公平 さん

 

 

1. 高木 徹雄 さん  (10月1日生まれ)

近況報告・・・元気でいます


 k-unetの会員のみなさま方におかれましては、ご健勝でお過ごしのことと拝察いたしお喜び申しあげます。早いもので、私もこの10月に喜寿を迎えました。
 KDDでは主に経理部勤務、KDD開発に出向、その後成田の日本空港無線サービス(株)に出向・転籍し、平成12年末で同社を退職、以後は自由気ままな毎日です。
 退職当時は、小さな家庭菜園でも耕しながら「晴耕雨読」の毎日を夢見ていましたが、適当な耕地もなく、また生来のなまけ癖がでて早々と「晴耕」は放棄してしまい、現在は、15年間にわたって関わってきた町会運営からも完全に手を引き、週4~5日のテニス、年20回前後のゴルフ、毎日の新聞の熟読、TV(主にスポーツ観戦、報道、健康番組)鑑賞、週1回の健康麻雀、年数回の国内外旅行、たまの囲碁や映画鑑賞と遊びに忙しい毎日を送っています。
 健康面では、平成16年2月に心筋梗塞を発症し冠動脈にステントを2本入れる手術を受けました。発症から病院に行くまでの時間が短かったため、幸い心臓への後遺症がほとんどなく医師からは運動制限を受けていません。最近では、人間ドックの度に加齢を原因とした定期的な検診箇所が増え、今では異常のない部位を探す方が早くなり「病自慢」「多病息災」を自負しながら、この年齢でこれだけの遊びができることに感謝しています。
 ところで、話は全く変わりますが、最近公証人役場における「遺言公正証書」の作成の経験をしましたので、みなさまのご参考になればと思い、この場をお借りしてここにその要約を記すことにいたしました。ご存知のとおり、遺言書には「自筆による遺言書」と公証人役場で作成してもらう「遺言公正証書」があります。昨年末、妻の義姉から遺言公正証書を作りたいので協力して欲しいとの要請があり、いろいろ考えた末、これも経験の一つと考え引き受けることにしました。義姉は、親、配偶者、子、兄弟姉妹、甥姪等の法定相続人が全くいないため、遺言書により相続方法を決めておかないと、遺産は国に収納されてしまうことを懸念したようです。

1.公証人との事前打ち合わせ

遺贈者(遺言者・義姉)を同行し、遺言執行者(私)と公証人役場に赴きます。公証人からは、遺贈者に遺言書作成の意思及び受遺者(遺産を受け取る人・法人)を確認し、さらに遺言執行者に引き受けの意思の確認をされます。 そして遺言書の作成に必要な書類を用意するよう指示されます。

2.必要書類集め等

・遺贈者の住民票、印鑑証明書、不動産の全部事項証明書(登記簿謄本)、遺贈対象の預金通帳の写し

・受遺者の住民票(法人の場合は、履歴事項全部証明書または登記簿謄本)

・遺言執行者の住民票及び印鑑証明書

・証人2名指名(適任者がいなかったので、有料で公証人に紹介していただきました。)

3.公正遺言証書の作成

上記2の書類を揃え、指定日時に遺贈者と共に実印を持って公証人役場へ赴きます。公正遺言証書の作成は、公証人と遺贈者の相対で当たります。作成中は遺言執行者も付き添いはできません。
公証人の話では、相対で作成するのは「遺贈者が正常な判断ができる状態であるかどうか判断すること。」と「付添人の圧力を排除する。」ためだそうです。
公正遺言証書の書式は、標準化されているようで、証書(証人の署名押印済)が出来あがりますと遺言執行者が呼ばれ、証書の内容の確認後、正本に署名押印します。 その後、正本が遺贈者に副本は公証人役場で保管され、遺言執行者には謄本が交付されます。 作成にかかった時間は、2時間程度でした。
また、証書作成に要した費用は、国が定めた基準(受遺者数と遺贈額により算出)に基づき算出されますが思いのほか安く上がりました。

4.感想等

・事前に行政書士の方に公正遺言証書の作成は、大変な手間がかかると聞いていましたが、実際にやってみますと公証人も親切丁寧で、書類さえ揃えれば簡単に作成出来ることが分かりました。

・証書作成後公証人から、公正遺言証書を作成した人は平均寿命が4年半延びているデータあることや、遺言書に記載された遺贈額に固執することなく、手持ち資産は生きているうちに有効に使用した方が良い旨のお話がありました。

・公正遺言証書を作成する人は年々増加し、昨年は110,776人の方が作成したとの新聞報道がありました。

 

 


 

2. 関戸 芳二 さん  (10月15日生まれ)

ロンドンと沖縄


 16年過ごしたロンドンを引き払って、岡山での孫たちとの生活が始まリました。山奥の農家を借りて脱都会生活をしている娘の手助けもありますが、走り回ってきた人生の手を休めて、振り返る機会にしたいという思いです。そうは言いながら、あばら家の手入れと3人のやんちゃボーイズの世話は結構時間がかかり、時々自転車に乗ったりしているとなかなか振り返る時間がありません。ご無沙汰しているKDDの皆様へのごあいさつはもう少し落ち着いたら、また改めてしたいと思っています。
 私の今は、KDD最後の転勤先が沖縄だったことが幸いしています。4年3カ月の赴任で沖縄のことは知り尽くしました。米軍基地もフリーパスだったので、沖縄の人以上に沖縄の全てを知りうることになりました。泳ぎに自転車、ランニングとダイビング、トローリングにパラグライダーとアウトドアライフを満喫し尽くしました。
 そして転職後ロンドンに赴任、早めの定年退職で単身定年生活をロンドンで過ごすことにしましたが、日本人との付き合いでは沖縄が柱になりました。年に一度はトライアスロン大会参加で沖縄に出かけましたが、沖縄赴任中は全くしていなかった沖縄の文化、三線の演奏とエイサーの踊りに食い込みました。7年前から毎年6月に沖縄デーをロンドンで開催しています。 2年前にはエイサーの大会にロンドンから沖縄に遠征しました。そんな活動が認められて、5年に一度開催される世界の沖縄系移住者の大会に合わせて、沖縄県庁から沖縄民間大使に認証されました。10月末の世界ウチナーンチュ大会に参加する予定で、10月は1カ月沖縄に滞在します。今年の誕生日は沖縄です。

 

 


 

3. 袖山 公平 さん  (10月26日生まれ)

 ここ栃木県鹿沼の地から長年電車通勤で都内の職場まで毎日通ってきた東京でのサラリーマン人生を卒業してから早くも10年が過ぎようとしています。東京勤めの時代は、毎朝5時半に起床し、日光線と東北新幹線を使い、都内の職場で仕事をして、夜9時ごろ帰宅する生活が当たり前であり、何の苦痛も感じていませんでした。しかし、現在では、年にたかが数回の東京や横浜にお出掛けとなると、前日から心配で、何を着ていこうかなとか、帰りの新幹線を乗り越さないようにするには、どうしたら良いかとかで、大変な精神的な負担になってしまいます。
 さて、最近の生活ですが、約10年間程度、近所の畑を70坪ほどお借りして、野菜や草花を作っていましたが、少し興味が薄れてきたので昨年で止めてしまいました。そして、それに代わるものとして、NPO法人等が主催する植樹や公園清掃等のボランティア活動とか、オカリナやキーボード等の器楽演奏に興味が移って参りました。
 ボランティア活動では、昨年に引き続いて、今年も宮城県岩沼市の海岸での「千年希望の丘植樹祭」に参加しました。この岩沼海岸は、東日本大震災の大津波の被災地でもあり、最近、再構築された防潮堤の法面への植林事業が現地のNPO法人により推進されております。更に、植樹ボランティア活動に関しては、栃木県足尾銅山跡地の山や丘を緑の森に戻そうとする運動が10数年前から展開されており、小生も年に2回ほど足尾での植林活動に参加しております。今では、足尾の山を訪れる度に、以前に植樹した、樫や椚の樹々が青々とした枝葉を伸ばした元気な姿に育っているのを見て幸せを感じております。
 そして、残りのオカリナとかキーボードの器楽演奏に関してですが、小生は、音楽にはさほど興味も無く、もちろん才能もありません。今、思い起こせば、小学校の時代、せいぜい、カスタネットやハーモニカ程度の楽器を友達と一緒に楽しんだ程度でした。しかし、ここ数年、地域の年配の方々との集まりで、オカリナ、デスクベル、ハンドベル、キーボード、オルガン、ピアノなどの楽器に触れる機会が多くなり、最近では、下手の横好きで填まっています。

 

Happy Birthday (2016年9月掲載)

Happy Birthday !


9月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員: 望月 さち子 さん

 

 

  望月 さち子 さん (9月7日 生まれ)

ドレスコード


 「ドレスコード」という言葉をおぼえたのは、若かりし頃、女性週刊誌を読んだ時だった。なんでも宮中晩餐会の招待状には、着て行く服装に関して「ホワイトタイ」だとか「ブラックタイ」だとかの指定か書いてある、ということであった。男性の服装で女性の服装もそれにつれて決まるので、イブニングドレスだとか訪問着だとか、書かれていなくても、当然わかるのだそうだ。それは、ヨーロッパの王室や貴族社会のパーティーの習慣に倣ったものだ、ということだった。
 ところが、である。数年前、習い始めた、隣町のハープ教室の発表会で、経営者の女性社長からの通達に、「ドレスコード:演奏会にふさわしいもの。ロングスカート等。ジーンズ厳禁」と書いてあった。へえ、こんなところに「ドレスコード」などという単語を使うのか、と妙に感心した。さすが、「斬新な言葉の選び方!」と、若手起業家の成功の秘訣をかいま見たたような気がした。
 まあ、モノの本には「dress code: 服装規定」とあり、ドレスすなわち衣服の規則なのだから、間違った使い方ではないけれど、たかが素人のピアノや楽器の発表会に「ドレスコード」などと仰々しい、というか、でもちょっと「おしゃれ」。今までにも、発表会なるものは色々経験しているが、「ドレスコード」などとは言わず、単に「当日の服装」とだけ書くか、言わずもがなで特にコメントはないか、さもなければ「平服で」とか「特に華美にする必要はありません」とか、その時の先生なりの注意書きが書かれていた。
 ところが、である。先日、或る"ちょっと高めのレストラン"の宣伝ビラに「サマー・フェス ドレスコード:ゆかた」と書かれていた。これには、友人が少々アタマにきて、「ゆかたなんぞはお風呂上りの寝間着みたいなモンじゃない? レストランのドレスコードなんかにするものではないわよぉ。」と、のたまわった。
 むかし、中野サンプラザの最上階のレストランでポロシャツにゴム草履で入ろうとしたら、マネージャーがやって来て「上着をお貸ししましょうか?」と言われたと、中学校時代の「シティ・ボーイ」を自任する男子たちが、嘲(わら)いながら話していたっけ。
 人前に出る時どんな服装をするか、は誰も気にすることだ。歌舞伎に行くときは、和服を着た方が良いような気がする。だけど、逆にイキがって、こんなことは慣れている、とばかりに、ジーパンで行ってみたり?オペラでは?コンサートでは?バレエでは?でも地元の文化会館で、午後のコンサートだったら、やっぱり普段着?
 
 先日、東話局時代の友人S嬢(特に名を秘す)と箱根に行った。 アジサイを見て、ウォーキングをして、美術館に行く、という予定で、彼女から「ウォーキング・シューズとパンツルック。でもホテルでお食事が出来るように」と言われ、まあ、彼女に許される程度の服装にして行った。
 まず、昼食を美術館併設のレストランでとった。それからゆっくり絵をみて、近くのホテルでお茶をした。それから、そのホテルの庭づたいに下って行けば隣のミニ博物館に行け、その先にバス停がある、というので、どれどれ、木立ちの中の小道を行ったところ、何と、境界の門が閉まっているではないか。 ええっ、戻るとなると、今来た山道を15分も登らなければならないじゃない!「これは、門を飛び越えるしか手はないわァ」と、私は唐草模様の鋳物製門扉をよじ登り、反対側にピョンと飛び降りた。 そしてS嬢に、「貴方もこうやればいいから」と言うと、しぶる彼女も、おそるおそる門扉の唐草模様に、ひと足、ふた足と足をかけたのだが、「ダメ、ダメ、こわい」「私はダメ」という。「だいじょうぶ、ここに足を乗せて、こちら側にピョンと降りるのよ」とせかすのだが、S嬢はブルブルふるえるばかり。S嬢が、「どうしても、ダメー。」と言うので、ついに、この「門扉飛び越え作戦」は断念することになった。 仕方なく、私たちは、もと来た道を、えっこら、さっこらと、フーフー言いながら登り、別のバス停に向かった。しかし、あれは、68歳のバアサンがやることじゃないわねえ、と、あとで、反省した。
 さて、発表会である。ハープである。取り敢えず、40年前に作ったロングドレスを出してみたけれど、ウエストはキュウキュウ、腕のスナップはハマらず、背中のチャックは上げようにも上がらず。でも、そんなことで、くじけてはいられない。脇のダーツを開いて、両脇の縫い代をギリギリに広げて、腕のスナップの位置をずらして、どうにか作り直し、体を入れ込んだ。
 あれから、数年。今年も発表会がやって来た。今年の曲は「美しく青きドナウ」。 さあ、青いドレスを着るぞ。演奏の出来なんかは、二の次だ。 でも、長い裾が足にからんで、ステージで、スッころんで、ハープまでたどりつけないかも!!!??? 

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:



ドレスコード

山本 勝美 2016/09/26 11:32:03    

  
望月さん、
ドレスコードにかかわる一文を、楽しく拝読いたしました。
本来、ドレスコードは社交界で使われてきたもののようですが、例挙されていますように下々の世界でも使われるようになってきました。私の趣味のアマチュア無線の会合などでも、ドレスコードはカジュアルだとかスマート・カジュアルだとか、使っています。ほかにも、ビジネス・アタイアというのもありましたかね。
要するに、会合などで極端にほかの参加者と異ならないようにする目安だと受け取っています。
私の解釈では:

カジュアル:Tシャツ、ショートパンツもOKだが、一般的にはポロシャツに長ズボン
スマート・カジュアル:ネクタイはなくてもよいが、シャツにジャケット。
ビジネス・アタイア:スーツにネクタイ着用。

これよりハイソなものには縁がありませんので、私が知るのはここまでです。
もし、間違いに気づかれた方は、ご教示ください。  山本勝美
 
Happy Birthday (2016年6月掲載)

Happy Birthday !


6月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
  長谷川 光男 さん、 衣畑 晃治 さん

 

 

1. 長谷川 光男 さん (6月24日生まれ)


 

 


 

2. 衣畑 晃治 さん (6月24日生まれ)

気になる日本語アクセント


 日本語のアクセントがおかしい。
 どの音節にもアクセントをつけずに平坦に発音するケースである。たとえば、一時話題になった"彼氏"である。
 問題をはっきりさせるために、"彼氏"をローマ字で karesi と書いてみよう。普通は太字部分 ka にアクセントを置き、karesi と発音するものである。それをアクセント抜きで、だらりと流すのである。
 元は外来語で "表"を意味するリスト "list" であるが、これを risuto とアクセント無しに発音する輩がいる。聴くたびに risuto だろうと声を荒げたくなる。 

  枚挙にいとまがないが、不愉快なアクセント抜き外来語発音の例を挙げてみよう。 


 よく日本人は英語発音が下手だと言われる。
 私はその原因の一つは外来語の日本語表記にあると思う。日本語の音節には必ず母音が伴うので、英語を日本語で表記すると発音が変わる。例えば、Google である。カタカナで表すとグーグル、小学校で習うローマ字表記では Guhguru と原語にはない母音が音節ごとに現れる。これが奇妙なアクセント抜きの日本語発音を生む原因となる。
 どんな言葉もアクセントの位置は重要な意味を持つ。本来の日本語でも、地方によってアクセントの位置は変わる。原語のアクセントを考慮して日本語を話すのは面倒である。それで手抜きした結果がアクセント抜きの外来語である。NHK の TVアナウンサーもこの種の手抜きをやっている。
 アクセント抜きの外来語が次の重要なステップ、原語の正しいイントネーションに繋がることはあり得ない。 アクセント抜きのカタカナ外来語を排除しない限り、正しい英語を会得することはますます難しい。

:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:


衣畑さんに同感


楳本 龍夫 2016/06/03 21:39:18


日本語のアクセントがおかしくなり、声を荒げたくなるとのご指摘、共感をもって読ませていただきました。
これは「アクセントの平板化」というそうです。この平板化について、国立国語研究所のホームページに面白い記事が掲載されていました。
要約すると、平板化は、記憶の負担や発音の労力の軽減のために起こるのだそうです。「サーファー」「モデル」「バイク」など、外来語について最初に平板化が起こるのは、その単語を普段からよく使う人たちの間であり,その分野によく通じていることの目印になって、専門家の一員であることをアピールするために平板化アクセントで話すようになるということのようです。平板化アクセントは「専門家アクセント」と指摘する人もいるそうです。
 http://www.ninjal.ac.jp/publication/catalogue/kokken_mado/09/04/
私たちがこれを聴いて違和感を覚えるのは、専門家でも何でもない者がマネをしてあたかも専門家や業界人のように喋り始めたからなのかもしれません。
Happy Birthday (2016年7月掲載)

Happy Birthday !


7月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
   伊藤 叔夫さん、  天沼 松次郎 さん

 

 

1. 伊藤 叔夫 さん (7月1日 生まれ)

新潟県が輩出した3人の偉人とは?


 「マスターズゴルフのTV生中継」、「タイッタニック号の遭難信号と(船舶)無線通信規則」この二つのテーマは、3年間の私の直江津海底線中継所赴任中(1991~1994)に、直江津ロータリクラブで行った講話(ロータリー用語では、卓話と云う)です。 直江津ロータリークラブは、当時54名のロータリーアンが在籍しており、本来の市域での社会奉仕活動以外に、ロータリアン同志の知識向上のため、各人が1年に1回のそれぞれの専門の知識等を披露しておりました。
 私の前記のテーマは、KDDのプロバガンダ的な内容ではありますが、KDDの社会的役割である国際通信の業務について、上越市地域の人々に理解してもらうことにありました。私以前に赴任したKDDの諸先輩の方々もテーマが違うもののこのような内容の卓話をされたと思います。
さて、3年目にして、卓話の順番が再度廻ってきました。これまでで、ほぼ、KDDの社会的存在について、理解いただけたものと思い、それ以外の興味の湧くお話をしたいと考えました。当時の中継所の図書室には、郷土の歴史物・神話等の本が沢山あり、テーマとなる素材がないか探りました。そして、郵便の父・前島密に関する書籍を見い出しました。これとは別に、米どころの新潟県には、おいしいお酒の代表として、銘酒三杯(峰の白梅、越乃寒梅、雪中梅)があり、日本全国に知れ渡っています。
 この三杯にちなんで、新潟県が輩出した三人の偉人をテーマとすることに決めました。明治初期の日本の文明開化を推進した前島密は、偉人の一人として欠かせない存在であり、それ以外の偉人たる人を模索しました。直江津の山城である春日山城を構築し越後の国を治めた上杉謙信がすぐに思いつきましたが、戦国の武将は、偉人としてなじまないので除外しました。散々模索したあげくに、ようやく、山本五十六、及び、田中角栄が浮かび上がりました。k-unetの皆様なら、この三人についてはどなたもご存じと思いますが、後段に参考として前島密の履歴のみを紹介します。
 さて、早速、3回目の卓話に於いて、「新潟県が輩出した三人の偉人とは?」をテーマに、日本国家の文明開化、日本人として誇れる賢人、そして、日本列島改造と地方経済の活性化を推進した人はどなたでしょうかという謎解きを知識豊富な方々53名のロータリアンに問うたところ、真っ先に、田中角栄先生という名が挙がりました。そして、しばらく論議した結果、前島密が挙げられましたが、山本五十六という名は最後まで挙がらずじまいでした。そこで、私の方から、山本五十六では如何でしょうかと申し上げました。元帥・海軍大将の山本五十六は、日米開戦はけっしてすべきではないと強く政府に進言しましたがままならず、不本意ながら、当時の政府の命を引き受け、連合艦隊司令長官として現場の指揮をとることとなり、第二次世界大戦の口火をとなる、ハワイ・オワフ島真珠湾の奇襲攻撃に多大なる成果を挙げるに至りました。この鋭い先見性とひとたび意に決すれば用意周到な戦略で立ち向かう山本五十六の行動と成果に、国民の多くは、絶賛し、今でいうレジェンド呼ばれる扱いであったようです。この賢人を偉人の一人として残せないのではないかと提起しました。
 ロータリメンバーの方々からは、この3人に括られた偉人については、賛同の意が示されました。そして、我々県民として、自ら新潟県の偉人ということを述べるのは厚かましい思いであり、県外の方からの推奨されることであれば、まことに喜ばしいことです。 今日は、新潟県人として誇れる内容の卓話を戴きましたとのお言葉がありました。

(参考)
 郵便の父と云われる前島密(1835~1919)は、上越市(直江津市と高田市が合併して上越市となった)郊外に出生し、6歳で上京し、勉学に努め、蘭学・英語、及び航海術等を学び、その後、日本文明開化と改革を推進した官僚として知られる。
 唐を通じて鎌倉時代位から始まったといわれる飛脚制度は、800年弱続 いたが、信書の違いや、距離別の料金をとっていたものを、日本全国のどの区間であっても一律の料金として、あまねく公平に扱う郵便制度を明治4年を設立し、この先導的役割と改革を実現させた。これによって、飛脚に携わる人々の失業を与儀なくされることから、この人達のために荷物運搬業である、現在の日本通運の前身の内国通運会社を設立させた。
  また、明治21年、官立による国内電話交換業務の創立を行った。その他に、ひらがなの普及を始めとする教育、鉄道の敷設等を推進した。
 

 


 

2. 天沼 松次郎 さん (7月18日 生まれ)

少年たちと平和


 小学校の教室での給食の時間、向かいの子から「おじさん、西暦で何年の生まれですか? 昭和では分からないの」と質問がとぶ。このクラスの子たちに前日、2校時の座学で「地元の歴史・旧:東海道物語」の講話をして、今日はその校外学習のガイドとして町内を通る旧東海道を3時間一緒に歩いてきたのです。校長から「子どもたちと給食をご一緒にどうぞ」と誘われての食事中。「1931年。語呂あわせで、イクサハジマルとおぼえたの」。するとしばらくしていっせいに「エー」と驚きのこえが。「わたしが生まれたのが昭和6年7月、その二ヶ月後、満州事変がはじまり、この国は15年も戦争をしてきたんですよ」。ここ数年、この小学校で「地域の歴史」を特別講師として語ってこの子たちの6年間の成長を見つめてきました。昨年、この子たちが小学校卒業をひかえた3月、「感謝の会」への招待状が届いた。両親や保護者への感謝と地元のボランティアを招いての6年間の感謝をこめたつどいです。3・11の翌日から、思うことあって子どもたちの登校時の見守りの緑のおじさんを志願して交通安全を5年間つづけてきました。こどもたちの成長への思いがこもります。プログラムが進んだフィナーレに「ドラマ」。シナリオをクラスの全員が一ヶ月かけて仕上げた群読というスタイル。全員のセリフのある劇です。
 「今年は、終戦から70年になります。二度と戦争をおこさないという誓いは、今も受けつがれているはずです。『平和について考えよう、12歳の平和宣言』"はじまり、はじまり"」。すじみちは、縄文時代からの人類の争いから語り始め、たべものの争奪、土地をめぐる争い、戦国時代、そして近代の戦争、70年前の空襲の恐ろしさへとドラマがすすむ。5月29日の横浜大空襲、市民の二人に一人は被害にあったと。楠の木の下で赤ちゃんが母親に抱かれて死んだ。戦争は、なんて悲しいんだろう。僕たちは二度と戦争への道を歩まない。たとえ、非国民と呼ばれても戦争に反対し続ける!!」とむすぶ。会場からは大きな拍手が鳴りやまない。若いお母さんたちも感動したのだろうハンカチに手にしていた。「ちょっと感想を述べさせてもらっていいかな?」と司会者に許しをもらい立ち上がった。「70年前,私はみなさんと同じ年齢でした。恐ろしいアメリカの艦載機の機銃掃射を体験しました。3月10日には東京大空襲でたくさんの人が亡くなりました。いま、あなたたちのセリフに当時を思い出し感動しました。日本人300万人が亡くなり、1,300万人のアジアの人々の犠牲のうえに日本国憲法が生まれ、9条で戦争をしないと誓っているのです。いまそれが危なくなっているのはみなさんと同じ思いです。この不戦の思いを皆さんとこれからも共有し,二度と恐ろしく、みじめな戦争は起こさないようにがんばりましょう。素晴らしドラマでした。ありがとう」。控えめながら教師もふくめ会場から大きな拍手があり、わたしは子どもたちの代表と握手する。

 まもなく日本の命運がかかった歴史的な選挙がはじまる。85年、生きてきた証しの誕生日がハッピーであるか、楽しみにしながらわたしもがんばろう。
Happy Birthday (2016年8月掲載)

Happy Birthday !


8月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員: 大湾 勇 さん

 

 

  大湾 勇 さん (8月25日 生まれ)

健康と趣味


 今月の8月25日で73歳になります。 昭和37年にKDDに就職させて頂き、定年までの長きに渡って本当に沢山の先輩同僚後輩にお世話になりました。まだこの私をご記憶下さる方も沢山居られると思います。その節はお世話になりました。 ひょっとしたらみなさんもそうであったかと思いますが、私も怪我、病気を乗り越えて今の健康を得て毎日楽しく過ごしています。
 今夢中になっているのがゴルフ。 年齢以下のスコアで回るエージシュートを達成することが夢のまた夢で,健康な今でこそ、と叶わぬ夢に向かって頑張っています。 もう一つは邦楽です。 神戸垂水社宅から小野受信所に通っていた頃に,社宅近くの文化教室の尺八教室を見学させてもらった事が、40年以上も飽きることなく続いている趣味との出会いでした。実力はさておいて、努力が認められたのか都山流尺八の大師範の資格を得ることが出来ました。
 今はデイサービスの民謡伴奏や、地域の余興依頼でカラオケをバックに演歌を吹いたり、先日もある施設への応援依頼で、詩吟の伴奏もさせてもらいました。まだまだどれを取っても満足のいくものはなく日々勉強中です。この投稿を期に私を思い出して頂き、趣味を通してまたご交遊頂ければ嬉しく思います。

 

Happy Birthday (2016年5月掲載)

Happy Birthday !


5月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
   楳本 龍夫さん、  横山 邦夫さん

 

 

1. 楳本 龍夫 さん (5月7日生まれ)

私の趣味


 私の趣味の話をしてみたいと思います。私の誕生日は5月7日(1952年)です。 ブラームス(1833年)とチャイコフスキー(1840年)が同じ誕生日です。第一の趣味は音楽。
 まずは、その話から。実は中学生になる頃までは歌舞音曲の類は大嫌いでしたが、中学生のときに父親が買ってきたベートーヴェンの第5交響曲のレコードが運命を変えました。学校で習う音楽とは質の違う世界で、これをきっかけに暇さえあれば音楽を聴くようになりました。
 大学ではクラブ活動でオーケストラに入り、ヴァイオリンを始めました。まったくの初心者でしたが、日本でも最古参のアマチュアオーケストラということもあり、それなりのノウハウがあって、初心者でも難なく参加できました。音階練習もそこそこにいきなりベートーヴェンの交響曲で演奏会に出演しました。 本人は第2ヴァイオリンのパートを弾いているつもりですが、いずれのパートにもない音を出すので、第3ヴァイオリンと自称していました。アマチュアオーケストラ特有の音色は、この第3ヴァイオリンの存在が原因していると確信しています。素人楽団の演奏を聴くコツは、個人の音が聞こえなくなる、出来るだけ後ろの席に陣取って、集団の音として聴くことです。 名曲は誰が演奏しても一定水準の音楽になり得ると自分勝手な解釈で感銘を受けるなど、音楽を内側から鑑賞することができたと思います。
 KDDに入社して保土ヶ谷寮に入りましたが、休日にヴァイオリンを弾いていると、何か変な音がするという人がいて(強いて名前は挙げませんが)、あれは何だろうと私に尋ねてくるし、当時ピアノ殺人なども起きていたご時世で、身の安全のためそのまま弾かなくなりました。その後は専ら鑑賞で音楽に接しています。私の所属したデータ通信部門には、オーディオが趣味の先輩方がおられたのですが、財力の違いもあり、あまり影響を受けることもなく、「音楽」を聴くことに専念してきました。
 そのうち、アナログからディジタルに時代が変化しましたが、最初はレコードがCDに変わったくらいでそれなりの財力が必要なのは相変わらずでした。ところが、インターネットの登場でたいていの曲がタダで、しかもまともな音質で聴くことができるようになってきました。往年の名演奏の録音などは著作権切れのパブリックドメインで聴き放題の状態になっており、これらはダウンロードしても違法性はないと思われます。ただし、レコードやCDの場合は自分のコレクションとして所蔵する必要がありましたが、ネットを通していつでも好きな曲にアクセスできるので、自分で所蔵する意味も必要もなくなってきていると言えます。>br />  これによって聴き方が随分と変わってきました。ハイドンの100曲以上の交響曲や200曲もあるバッハのカンタータを全部聴いてみるというようなことが簡単にできるようになりました。しかも電車の中でスマホからのネットアクセスにより聴くということも可能です。最近は専らこのような隠れた名曲探しをしています。

 ころで、同じ誕生日のブラームスとチャイコフスキーですが、少し思い入れがあり、聴くだけではなく日々尊顔を拝したいと部屋にポスターを貼っていたのですが、それだけではつまらなくなり、古いレコードのジャケットを模写して油彩画にし、玄関に飾りました。
 次の趣味の話題に移ります。KDDと他社との合併話が出始めた頃、突然、絵を書き始めました。絵については、昔から自信はあった(!)のですが、道具を揃えるのが面倒なので、はじめのうちは息子の水彩絵の具を借用して描いていました。当時、法人営業の担当で、一緒に出張で出かけたお客様に現地で描いた水彩画を進呈して随分と喜ばれた(これが客離れを誘発した?)ものです。
 そんなある時、近所のフリマで油絵セットを見つけ、安く買い叩いて入手し、本格的に油彩を描き始めました。出張の折、パリの美術館で見たバルビゾン派の画家であるドービニーの絵が気に入ったのですが、オルセーに飾ってある絵は手に入れる訳にはいかないので、それなら同じものを描いてしまえばいいと、絵はがきを見て製作したのが左の絵です(実物は こちら )。私自身は模写のつもりですが、贋作と言って非難する人もいます。贋作というにはもう少し技術が必要だと思うので、非難される筋合いはないと思います。

 もちろんオリジナルの絵も描きます。しかし、美術が好きといっても才能には限界があるわけで、見たままをそれらしく描けばいい写実主義を貫いています。右の絵は山口のかつて宮島社宅があった近くの鰐石橋という橋を描いたものです。
 それから、最後に是非書いておかなくてはという話がひとつ。贋作とオリジナルの絵を取り混ぜて、私個人のホームページに掲載しているのですが、それを見た見も知らぬ人から突然、バルセロナの写真を油彩画にしてくれないかというメールが届き、数日後に写真を同封して4万円が送ってきたのです。写実主義者としてはこれを受けないわけにはいかないと12号キャンバスを仕入れて2週間ほどで仕上げ、1か月後に左の絵を送って差し上げ、たいへん感謝されました(と信じています)。つまり請負とはいえ1枚が売れたわけで、これの意味するところは、生前に1枚だけが売れたゴッホに追いついたということ。以後、ゴッホを超えては失礼にあたりますので、展覧会の類に出品することや、絵と引き換えに金品をいただくのは差し控えています。
 そして、最近はホームページ作りが私の趣味に仲間入りをしています。この趣味はk-unetの会員の方々がホームページにアクセスする度に否応なくお付き合いいただく羽目になっていて、たいへんご迷惑をおかけしていますが、ご容赦いただければと思います。
 

 


 

2. 横山 邦夫 さん (5月12日生まれ)

近況報告


 昭和36年4月入社、平成10年3月に退社しました。主な職歴は、東京電報、新橋、東京電話、運用部電話課、東京電話、総務部総務課、小山通信センターで、退職して早や18年。
 最近の近況(胆管癌手術の体験)をお知らせしたいと思います。多少なりとも参考になれば幸いです。今回の手術のきっかけは、今思うと、2009年2月末からの南米四か国18日間旅行から帰国後、数ヶ月ほど体調不良が続き、秋口に地元のJAとりで総合医療センターで人間ドックを受診したところ肝臓の数値(ガンマーGT)が500超である事等が判明した時から始まったように思います。(2006年迄のガンマーGT値は40前後、2007年は110、2008年は未検査、正常値≦70)
 さっそく同センターの肝臓内科で、エコー、CT、MRI検査を受診したところ、数値異常が認められるものの、他に特に異常が判明される事もなく約3年の間、定期的に採血、エコー、CT、MRI 検査を繰り返し受けておりました。この間「ガンマーGT値」のみが500→600→700→800→900と確実に増えて来ても、医師は高値安定(?) なので特に心配する必要は無いとの診断が続きました。
 2012年8月から妻の主治医(東京慈恵会医科大学病院耳鼻咽喉科)の紹介で、同医大の肝臓内科で診察を受けるようになりました。 慈恵医大では採血、エコー、CT、MRI検査の他、毎食後2錠のウルソ錠( 胆汁の流れを良くする)の投薬、アルコールの完全禁止(ノンアルコール類も)とトマトジュースを除くジュース類も強く禁止を指示されました。その結果? 肝臓の数値(ガンマーGT)は一気に400前後に下がりましたが、その後は大きな変化もなく病名もはっきり しませんでしたが、2013年12月の診察で、ようやく病名が判明,「原発性硬化性胆管炎」でほぼ間違いないでしょうとの診断が下されました。
 この病名は非常に珍しいもので、『全国でも1,200人程度しか患者数がおらず、いずれは、 脂肪肝→肝炎→肝硬変→肝臓癌 へと遷移する事が予測されるので、これからも「採血、エコー、CT、MRI検査」を定期的に行い注意深く診て行くことが必要となります。しかし今の時点では脂肪肝、肝炎、肝硬変、肝臓癌の兆しは全くないので心配はありません』との事でした。
 2014年2月に入り、娘の知り合いの慶應義塾大学病院肝臓外科助教の先生に診てもらう様になりました。慶應病院でも肝臓のエコー、CT、MRI 検査を受けましたが、この時点では慈恵医大の診立て「原発性硬化性胆管炎」と同じでした。3月に入り、慶應病院としては更なる検査として PET-CT 検査を受ける事を奨めたいとの提案があり、受ける事となりました。(慈恵医大にはPET-CT 検査用設備無し) PET-CT検査は、ブドウ糖に近い成分の検査薬を体内に注射した上で PET&CT撮影をするものでしたが、その結果、肝臓に2ヵ所「光」が映し出され、ガンであることが判明、手術を受ける事となりました。手術を受ける事となった3月後半以降は、検査入院を含め連日のように、全身麻酔に耐えられる体力、気力、忍耐力を有しているか、また心臓を始めとする各種臓器の正常性を見極めるため、集中的にエコー、CT、MRI、内視鏡等の検査を受ける事になりました。
全ての検査終了後は、病院側の手術体制(肝臓移植手術の様な最優先手術の予定のない日程等)が整った2014年5月末に本入院の運びとなりました。

● 検 査 入院 : 5月6日~10日、検査入院中に大腸ポリープ 2コ摘出

● 手 術 入院 : 5月29日~6月14日

● 手   術 : 6月2日
(10時間に及ぶ腹腔鏡による手術、麻酔~麻酔の目覚め迄12時間)

● 放射線治療 : 8月中旬~9月末までの平日25日間
(1日2グレイ、計50グレイの放射線量)

● 経 過 観 察: 2014.10~2015,7中旬(3~4ヶ月毎に採血、CT検査ほか)

● 抗がん剤治療: 2015.7末~2016.4(現在継続中)
(通院による3週1クール、治療・治療・休み、治療・治療・休み、の繰り返し)

体力の回復現況
 退院1ヶ月後から再開した、施術前から始めていたラージボール卓球を週3回行っており、昨年7月にはスイスアルプスでのハイキング旅行、本年3月にはハワイ島キラウエア火山トレッキングとマウナケア山星空観光、他 にも行くことができ、今では施術前とほぼ同程度に体力も回復して元気(?)にしております。


 

Happy Birthday (2016年4月掲載)

Happy Birthday !


4月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
  杉下 勇 さん、二瓶 和義 さん,、猪熊 昭男 さん、櫻井 富雄

 

 

1. 杉下 勇 さん (4月16日生まれ)

公との係わり



 早いもので4月16日の誕生日で喜寿を迎える。KDD本体を離れてから、国際テレコメット、KDD総研に出向後KDDを退職した。それから、(財)国際通信経済研究所に7年間在職し、64歳になる直前の平成15年3月に当研究所を退職した。その後は纏まった仕事はなく、気まぐれな生活になったが、公(らしきものを含む)に若干関与したのでそれらを記すこととしたい。

1.足立区のヤングジョブセンター・プロジェクト
 産業カウンセラーとキャリヤ・コンサルタントの資格をとって、心理療法の一つ「認知行動療法」の講座を受講している時、受講者の一人が東京都足立区の計画しているプロジェクト「ヤングジョブセンター」の話を持ってきた。相談した結果、講師を中心に私も含めた受講者5名が参加することになった。そして、翌年(平成17年)4月から1年間6人のメンバーがシフトを組んで足立区が用意した施設で、訪ねてくる若者のキャリア・カウンセリングを行った。一人当たり1時間で、半日最大4人の就業相談を行った。しかし、このプロジェクトは1年間で終了となった。

2.老人ホーム入居者の話し相手
 最初の話し相手は90歳近い盲目の女性(A子さん)だった。2週間に1回ホームを訪問することとした。A子さんは盲目だったが、当初は、耳、口、頭はしっかりしていて、関東大震災や娘さんの一人を養女にした話などをしてくれた。A子さんよりも1年遅れてB氏(80歳)も話し相手になり、その内、A子さんは他界された。B氏は特攻隊の生き残りである。なぜ生き残ったのか。それは乗る飛行機が無くなったからである。乗る飛行機を求めてフィリピン、台湾と転戦した話を断片的に聞いてとても面白かったので、「戦歴を纏めてみませんか」と提案しテープに吹き込んでもらうことにした。学徒出陣、特別攻撃隊員の試験、日本―台湾―フィリピンへの輸送船、フィリピンでの行軍、フィリピンにも飛行機はなく再度バシー海峡を台湾へ、台湾で終戦を迎え、日本へ帰還。吹き込んでもらったテープを記録するとA4サイズで15ページになった。 ごい記憶力だと感心した。もし私に文才があれば、この記録を基にして本を出版することができたかもしれない。

3.統計調査員
 これは、八王子市役所に統計調査員の登録をして調査が行われる度に臨時職員として調査を行うものである。調査は年に1~3回程度。殆どが総務省統計局によるもので、製造業者を対象とした「工業統計調査」、事業者を対象とした「経済動向調査」等が多い。最も大がかりなのが、5年に1回行われる全世帯を対象とした「国勢調査」である。私は11年前に行われた国勢調査から調査を実施し、国勢調査を3度経験した。

4.八王子囲碁連盟の技術顧問
 何ともおこがましい名前である。10数年前の技術顧問は、若い頃は県代表だったという程の実力者揃いだった。ところが、これら実力者も歳には勝てず次々と辞めていかれた。そして、その穴埋めの一人として私も加えられたのである。技術顧問は、3か月に2回ほど会場である福祉センターで、約30分間大盤解説をしてその後指導碁を3名程実施する。指導碁は7子~3子の人に対して行う。「私は技術顧問の資格はあるのか」内心忸怩たる思いを抱きながら「棋力と指導は別問題だ」と自分を励ましながら続けている。 
 

 


 

2. 二瓶 和義 さん (4月19日生まれ)

よくぞご無事で


 喜寿を迎えるにあたり少し振り返ってみたい。昭和37年に入社し海底線部門に配属された。山育ちの山猿が何で海の仕事をと思いつつ、それから第二の会社も含めて約50年、何だかんだと海がらみの仕事だった様な気がする。ケーブルシップの建造も経験し、海底ケーブルの建設、保守、修理に従事した。船に乗っての仕事で往路と帰路ではマージャンのツキがまったく変わる不思議な事を何回も経験した。海底ケーブルの陸揚地の選定や陸揚工事も体験した。
 これら海の仕事内容はまさに海方土方的で、仕事仲間も海方土方である。当然ながらお互いめちゃくちゃな生活でありました。結果、平成14年の会社生活卒業と同時に体調を崩してしまい胃癌の(内視鏡による)摘出手術を受けた。早期のためか大事に至らなかったが、これを機に(高血圧の薬を飲みながら)生活習慣を見直す事とした。

◆さいたま市シニア・ユニバーシテイに進む


◆小学生の登校見守りなど防犯活動に取り組む。これは10年以上今も続いている


◆「友歩会」に積極的に参加し、ゴルフに励み、ウォーキングを日課とする


◆晴耕雨読というわけでもないが、墨をする事から始める水墨画教室に通う.。これも上達しないながらも、10数年になる


◆酒・タバコはなるべく控える様努力する


 そして5年前の東日本大震災、わが故郷東北の姿に衝撃を受け、突然禁煙宣言し止めた。1年後にゴルフを卒業した(飛距離のガタ落ちに耐えきれず)。残ったのはお酒。 これもまた当然なる結果であるが、メタボ突入一歩手前まで行き、何とかしなきゃの状態である。大好きな大相撲中継や、これまたはまっている高校野球やプロ野球、駅前居酒屋そして昔仲間との語りと一献などを楽しみ、たまには美術館を巡り、歌謡ショ-に出かけ、水墨画の題材を求めて旅に出たりしている。
 還暦の頃の家族6人生活から、今は妻と2人になった。幸い子供や孫達は、比較的近くに住んでいるので退屈はしなくてすむ。目下の夢は、息子、孫と三代で酒を楽しむ事である。頑張らねば。あと何年? 長いなあ。 ?

:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+


懐かしいね


織間 政美  2016/04/11 20:57:39    

  
二瓶さんお元気そうで嬉しくなりました。 海中土木ではお世話になりましたね。 年を経て水墨画に到着したようでうらやましい次第です。 私は相変わらず模型飛行機でじゃじゃ馬ぶりを発揮してます。
織間政美
 

 


 

3. 猪熊 昭男 さん (4月24日生まれ)

日々雑感


 1961年(昭和36年)11月に神戸国際電報電話局に臨時配達外務員とし採用され、2004年4月オリックス開発(前身KDDI開発)を退職するまで、家庭の貧困事情はあったにせよ正規の高卒の資格のない小生ごときが、42年余、多くの方々に助けられつつもよくぞ勤めあげられたものと、感慨と感謝で退職した日からはや12年を経過しました。
 退職後はこれといった趣味も無かったため結構退屈するものと思っていたのですが、深い知識は無いもののパソコン、カメラ、撮りためたビデオの簡易編集、はたまた家族のお抱え運転手や雑事に加え、4・5年前からは自身の体調不良による病院通いと、退屈を感じる日々がないほど月日は早く過ぎて行っています。
 とはいえ、拘束されない時間はたっぷりあるゆえ新聞への目を通す時間、テレビ各局のニュースを見る時間は現役当時とは比較にならないほど多くあります。
 それら見聞きする中から、昨今気になっている雑感を羅列してみたいと思います。

◆日本は世界に誇る安全で住みやすい国と言われながらも、殺人事件やモラル低下によると思われる事故がなんと多いことか、そんなニュースが無い日を望むのは絵空事か


◆少子高齢化が進み続ける先に何が起こるのか、為政者や専門家は的確に把握してそれらに対処する術を真剣に取り組んでいるのだろうか


◆膨大な借金を抱えながら身内からの借金だから大丈夫と言われる説もあり、節約や工夫の努力を捨てたごときの毎年増え続ける国の支出予算や、比較的安全とされている円への信頼の不可解さ


◆格差の拡大、母子家庭の年収220万円前後での生活、子供の貧困率の増加、非正規雇用の増大による若者の将来への不安等の解決には何をどうすれば良いのか、知恵は出せないものか


◆国会議員の文書通信交通費(月額100万円)、地方議員の政務調査費(年間240万円前後から500万円超)等にみられる、かなりの数の議員の使い切ろうとする金銭に対するさもしさや、議員以前の人としての資質に問題ある議員への対応策として、議員国家試験を考えてはどうかとの新聞投稿もあった、正に同感なり
◆直近では多摩川河川敷での中1殺人事件にも見える被害者側の救われなさ、どの殺人事件にも複雑な事情はあるにせよ、あまりにも加害者側に軸足を置き過ぎていると思われる裁判判決、これで良いのか憤りを感じる
◆国民全体の増え続ける医療費問題、小生の経験の一例として1時間以上待ち3分前後の医師との会話、請求総額4,830円(10割)この高額さ、それでも医師、病院側には不満有と言われているこの不合理さ、生活保護者等への医療費の無償等は有るにせよ、全体像が見えづらい医療行政、多くの国民が納得出来る制度になるよう知恵を絞ってもらいたいものである  以上、犬の遠吠えのような雑感になりましたが、何の解決策も持ちえない一庶民として、持病(降圧剤服用(10数年来)、リウマチ治療(発症後5年)など)の不安はあるものの、深刻な難病や明日の生活に追われていない日常をありがたく思いつつ、認知症を始めとする加齢に伴う様々な問題に対して、身内や周辺に可能な限り迷惑をかけないための努力は手を抜かずにと思う日々です。

 

 


 

4. 櫻井 富雄 さん (4月28日生まれ)

そ の 後 と 現 況ありて


 誕生日で84歳になります。 KDD定年後早や20年を超え、在職中の先輩・同僚・後輩の皆様とお会いすることも少なくなりました。
 退職後も、約十年間、教員やコミュニティーセンターで受付事務の仕事などに就き、その後も、パソコン教室などを地域で主宰しておりました。残念ながら、昨年9月末日に自転車の転倒事故で骨折をし、約4か月のリハビリテーション入院を余儀なくされ、現在も自宅でリハビリテーションに励んでおります。
 20年間、日本全国の観光旅行や数回の外国旅行を楽しみ、それなりに充実した人生を享受して来ました。また、近場の大学の公開講座なども幾つか受講したりしております。
  では皆様のご健康をお祈りしまして!!

 

Happy Birthday (2016年3月掲載)

Happy Birthday !


3月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
  竹中 理 さん、 木本 正二 さん、関口 栄 さん、
  景山 正さん、牛尾 哲久さん

 

 

1. 竹中  理 さん (3月7日生まれ)

遠きにありて


 ふるさとのことを少し書いてみます。「ふるさと」とは、一般的には、物心がついてから学童、生徒と成長していく、言わば感受性豊かな幼少の時期に暮らしていた場所をさしているのでしょう。しかし、単に地理的な場所だけでなく、当時の自分の周りの家々や、暮らしていた人々、日常の、あるいは四季折々のいろいろな動き、など、要するにスタティックなものとダイナミックなものをひっくるめて立体的にみると、ふるさとという言葉が生きてくると思います。
 組織の束縛を離れ身軽になって、自分中心の生活様態になったとき、時にはゆっくりと来し方を振り返ってみる余裕も出てきますが、その中には子供のころの懐かしい思い出も含まれます。
 私のふるさとは京都で、生まれ育ったのは四条烏丸から南と西にそれぞれ二筋入った、京都の古い家並みが残っている処です。京都をご存知の方ならお分かりいただけるかと思いますが、京都駅前から烏丸(カラスマルではなくカラスマと読む)通りが直線的に北へ伸びており、東西に走る七条通(京都駅の少し北)、六条通などを横切り四条通に至りさらに京都御所から北山のほうに向かっている、その四条烏丸の交差点のことで、ほぼ町の中心部になります。この辺りは大体が一町(約百米)四方の碁盤の目に区画が整理されており、公立の小・中・高校も区域制で徒歩通学ができるようになっていました。
 母校の小学校、中学校(元は小学校でしたが昭和23年6・3制実施で中学校になった)は、ともに維新直後の明治2年の創立ですが、小学校は平成4年、中学校は平成19年に閉校となりました。これは学童、生徒数が著しく減少したためです。
 私が育った辺りは昔から呉服・繊維関係の商家が多く、一時は繁栄したものの生活様式の変化で和服が廃れ、また、ウナギの寝床と呼ばれる間口が狭くて奥行きの深い旧式の京町屋での昔風の生活様式を好まぬ若い人たちの離散などが原因です。以前は京都へ行くと生まれ育った懐かしい場所を訪れていましたが、住民は入れ替わり町の様子もすっかり変わってしまい、子供のころの佇まいを半世紀以上も経過した今に見出すのは困難です。
 私の育った町内には菅原道真を祭神とする神社(菅大臣神社―道真とその父是善の邸宅(白梅殿)跡)があり、境内は格好の遊び場でしたが今は駐車場となり、かつての雰囲気は全くありまん。小学校の通学区域内には、祇園祭の山・鉾をもつ町内が10以上あり、7月に入ると鉾のお囃子の稽古を遠く耳にしながら一学期の期末テストの勉強をしていたこと、梅雨明けの激しい雨音と祗園囃子の音色がダブって記憶に残っています。京都の祇園祭は観光ショーとなりましたが、当時は山鉾巡行の道順も違っており八坂神社の氏子の町々を鉾が町屋の屋根すれすれに通り、厄除けの粽を鉾から直接家の中に投げ入れてくれるというような身近な祭りでした。
 古希を過ぎて同窓会の開催が盛んになりましたが、ふるさとを最も懐かしく感じるのは小学校の同窓会だと思います。思い出を共有する同窓会での会話から記憶にあるふるさとをバーチャルに蘇らせることができるからです。
 ふるさとを立体的、多次元的に見ると、「ふるさと」は非現実で時空を超えたものであり、各人各様に心の中に描き懐かしむもののような気がします。ふるさととは帰るところではないと読んだ詩人がいましたが、私は京都で開催される同窓会には必ず出て、そこにふるさとを見つけ出しています。

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:


横井 寛さんからのコメント

2016/03/16 17:41:07    



私は京都の古い町が好きで、竹中さんの今回の記事をとても楽しく読ませて頂きました。有難うございます。
歳をとると、幼少の時期を過ごした「ふるさと」が特に懐かしく、しかも鮮明に思い出されるものです。
私の「ふるさと」は讃岐の片田舎ですが、両親は勿論のこと、兄を始め、親しくしていた多くの友人も亡くなって、いまは「遠いふるさと」になりました。

横井 寛    


 
 

 


 

2. 木本 正二 さん (3月10日生まれ)

Happy Birthday


 私の誕生日は3月10日です。近年、この日は戦時中の東京大空襲があった日として記憶されていますが、昭和一桁生まれの私が子供の頃は、陸軍記念日という輝かしい日でした。当時の日本は中国との戦争が始まり、戦時体制に突き進む時期でしたから国威発揚が喧伝され、この日の小学校の朝礼では校長先生から「日露戦争の奉天大会戦で勝利した栄えある記念日」と説明があり、さらに当日生まれの生徒には励ましの言葉が掛けられて誇らしく思ったものでした。
 話は逸れますが、成長期である小学生時代の3月生まれは4月生まれの同級生とほぼ1年の違いがありますから、体力的に大きな差がでます。特に運動神経の乏しかった私は体育の時間が苦手で、徒競走などでビリになると先生から「軍人になれないぞ」と叱られるので、誕生日を疎ましく思ったりもしました。ちなみに、海軍記念日は日本海海戦のあった5月27日でした。
 それから3/4世紀、時代は大きく変って平和が国是となった日本に、最近は何やら騒がしい風が吹いています。再びこうした記念日が復活することがないよう願うばかりです。
 

 


 

3. 関口  栄 さん (3月12日生まれ)

一冊のノート


 1冊のノートが出てきました。2年間の、ネパールでの日記とも記録とも言えない書きなぐりのメモです。退職して3年の間、溜まった写真や記録やその他の雑品の整理に手をつけ、少しずつデジタル化したものは日付、場所順に膨大なファイルになりましたが、未だに整理しきれません。ノートと、一緒に出てきた領収書やチケット、パンフレット、メモ書き等々を引っかき回すと、当時のネパールを思い出す方が面白くなり、写真はそっちのけ、所謂ドツボに嵌ります。
 生まれて初めての海外は、昭和50年8月14日、12時45分発が5時間遅れたインディアン・エアーAI309便で羽田を立ち、香港、バンコクで経由、15日05:00ニューデリー着、翌16日にニューデリーからロイヤルネパール航空RA208便1時間半で15:00にカトマンズはトリブバン空港着、ちなみに航空運賃170,600円、で始まっています。 結局2日もかかり、運賃も高かったんですね。このAI309便は、今ではメルボルン - ニューデリー間の便になり、RA208便はどうなったことやら。
 八俣送信所から東京国際回線統制局テレックス試験課に勤務し、入社して5年目の夜勤に、長谷川主任から青年海外協力隊(JOCV)募集の周知がありました。これからの若い人はこうゆう機会に海外へ、と余計なことをつぶやいてくれたばかりに、ネパール、エジプト、スイス、中国での生活、国際協力業務を担当してあちらこちらへ出張、と海外業務に長く携わることになったなぁ、と思い出します。つぶやきに感謝です。
 KDDでは、昭和41年に最初のJOCV隊員として吉武さんが、続いて43年に加藤さん、45年に大森さんがいずれもラオスに派遣されており、49年当時には鳥谷さんがタンザニア、林さんがネパール、永田さんがザンビアにと派遣が決定されていました。50年の募集では、他に佐藤さんがネパール、山口さんがザンビアに応募し、この3名が派遣されることになりました。今では、その数60人を超える人数になっていると聞いています。
 昭和52年9月5日に帰着しましたが、記録は5月26日で途絶えていました。帰国前にいろいろ忙しかったよな、としか記憶がありません。記述は、お祭り、食事、友人、旅行、職場、同僚、物価、バイク、下宿、家、ホテル、ネパール単語等々雑然としており、記憶の引き出しばかりです。が、一向写真とは結びつきません。で、写真は未だハードディスクに眠ったまま、こんな覚え皆様にもないでしょうか。
 その後、平成12年、14年と20数年ぶりに再訪、一昨年には3カ月間を同国で無為に過ごし、これぞ退職者の醍醐味、味わってきました。近代化とも言えない、ひたすら増加した家屋、車両、人間、物価高騰に驚愕させられましたが、錆びついたネパール語を駆使し、当時お世話になった同僚、大家、下宿先、土産物店等々、訪ね歩きには、このノート、大いに役立った次第です。
 昨年4月にネパール大地震がありました。政府系の復興活動は、ネパールの特殊事情で遅々として進まず、住民に援助が行届かず、頼みの観光客も激減したそうです。在日ネパール人や協力隊OB等々、様々な団体がより直接的な援助活動のために募金等を行っています。そういった活動をお見かけの節には、ご協力いただけると幸いです。

1975年ポカラ村の下宿の庭先にて家族と


2000年全く同じ庭先。上の真ん中に立っていた長男が、
また、真ん中で子供と。右のドアが住んでいた2畳位の部屋。


マリーゴールドの花輪と額にティカをしてもらい、カジャ(練 った
小麦粉を揚げたおやつ、おつまみ)のおぼんを受け取る。男性からは
お返しに、子供から大人まで女性全員に、それぞれお金を。見栄を 
張ったら結構バカにならない額が必要。             


2013年暮、女性が主役のヒンズー教のお祭り(ティハール)
で長男の家で宴会。その家の主婦の男性親族達が女性の接待を
受ける。年齢順で最上位(左側の席)に座らせてもらう。 

 

 


 

4. 景山 正 さん (3月22日生まれ)

80翁の挑戦


 昨年春に80才を迎えた。退職後、暇に任せて、色々なことをやってきたが、それらも、歳とともに次第に継続が難しくなってきている。
 一番熱心にやってきたのは、30年来の友達であった、Boston在住の元NY大学通信学教授・Dr. J Kochevar との毎日のコレポンで、そのやり取りを一週間分まとめたものを、“CCC”(Cross Culture Communications)とのタイトルの下に、英語練達の士30名ばかりに配布、極めて賑わっていたが、私より十歳も若い先方の方が、先に草臥れてしまい、3年ほど前から、遂に自然消滅となってしまった。
 料理も、未だに続いている捨てがたい趣味である。大量に作って、周りに配りまわるのが基本のスタイルで、まあまあ、そこそこの出来の所為か、未だ苦情を受けたことはない。左の写真は、”市場にて“と題する、私の食材物色の姿を、さる同郷の女流彫刻家がいとも見事に作り上げたものである。
 歌の方も、地元の男声四部合唱団のトップテナーとして、10年近く続けてきたが、未だ、声は出るものの、長時間立っているのが難しい状態になってきた為、そろそろ、ソロのシンガーに鞍替えをと、来る、3月2日に、近くの青葉台のフィリア・ホールというところで、デビューをすることとなっているが、本稿での宣伝は、残念ながら、間に合わないようだ。
 

 


 

5. 牛尾 哲久 さん (3月27日生まれ)

私の健康法と趣味について


 退職後はひたすら健康で心豊かに過ごしたいと願いいろいろなことにチャレンジしてみましたのでその一端を披露させていただきます。

<札所巡り>

健康増進と健康祈願を兼ねて夫婦で坂東33か所札所巡りを7年がかりで結願しました。 巷には数回のバスツアーで済ませるプログラムもありますが私たちは基本的に電車とバスを乗り継いで徒歩で巡礼しました。1日数本しかない村営バスやローカル線を乗り継いだりの健康旅行です。気候のいい時にガイドブックを手に初めて訪れる田舎の路傍の草花を愛でながらの古刹巡りは何にも代えがたい心休まる巡礼の旅でした。現在は秩父34か所札所巡りに取り組んでいて来年には結願したいと思っています。



<太極拳>

10年あまり地元の武道館で太極拳を練習しています。練功18法、簡化24式、48式、陳式48式などです。慣れてくると重心を低く保ちゆっくり四肢を動かす動作は心地よく無理なく自然に各種の筋肉が鍛えられるようでまさに高齢者むけの健康体操です。数年前にはあの代々木のオリンピック体育館で参加者4,000人規模の全国交流大会に100人の団体の一人として参加し表演しました。わが人生でこんな大観衆の前での演技は後にも先にもありません。


<ゴルフ>

20代に始めたゴルフですが現在は地域や学校同期の仲間やKDD以来の友人たちと月2~4回程度「健康ゴルフ」を楽しんでいます。


<ラジオ体操>
私の健康法の極めつけは毎朝欠かさずのラジオ体操です。小金井公園ラジオ体操会(会員約300名)に所属し、雨天を除き毎朝6時半のNHKラジオに合わせリーダーを前に公園の広場で第一、第二を含む5種類の体操をします。真冬などはまだ薄暗いうちに始まり体操が終わるころ夜が明けます。朝6時に起床、身支度を整えて公園の中を広場まで徒歩20分、体操を終えて帰宅し朝食の準備。私の1日が始まります。

<水彩画・油彩画>

子供のころから絵を描くことが好きでしたので地元の公民館の水彩画と油彩画のサークルに参加してマイペースで絵を描いております。水彩画、油彩画それぞれに良さがあるのでどちらも捨てきれずいまだに二刀流を続けています。画才はまったくありませんが絵を描いているときはすべてを忘れ無心になれるのが取り柄です。


<アマチュア無線>

小平市のアマチュア無線クラブに所属し市民祭りでの公開運用、防災訓練での非常通信訓練、山頂からの移動運用などの活動に参加しています。無線をやっていると国内外の思いがけない人々との出会いがあり人生の糧となることもあります。KDDハムクラブにも所属していて懇親会などでの交流を楽しみにしています。


◆<囲碁>

囲碁は退職後に始めましたが奥が深くとても難しいです。最近ようやく少し面白さがわかってきたという程度です。毎週1回公民館でのクラス別リーグ戦に参加して少しずつ上達はしているようですが何しろ頭が固くなっていますので若いころ覚えた人にはとてもかないません。それでもボケ防止と暇つぶしには最高の楽しいゲームだと認識しています。

 
ともあれ寿命を全うするまでは可能な限り健康で楽しく過ごしたいと思っています。 

 

Happy Birthday (2016年2月掲載)

Happy Birthday !


2月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員: 峰村 桂子 さん

 

 

1. 峰村 桂子 さん (2月18日)

キャンパスの植物をカメラで追って


◆ KDD退社

 1969年1月に長女出産のため、KDDを退社。当時の井本東話局長から辞令を受け取るときは涙が溢れた。何が何でも定年までという強い決意があった訳ではないが、5年で会社を去るのは残念だった。女性も経済力をつけ自立すべきと、田舎から東京の大学へ私を送り出した母は、近くに居たら手伝えるのに、と私以上に残念がった。 それ以前に、同居していた夫の両親からは嫁が働いているのは恥ずかしい、まして子供ができてまで・・・とずっと圧力がかかっていた。若かった私にはそれを跳ね返すだけの強さはなかった。しかし、2人の子供の成長をつぶさに観察できたことは新鮮で楽しかった。悔いはない。


◆ 再就職 / 花や木を撮る

 1991年49歳の時、人生の転機が訪れた。母校に新設された学長事務室のスタッフとして採用され、秘書的な仕事も含め、大学新聞創刊、大学広報活動が主な仕事だった。 ニュース集めの必要から著名卒業生や教職員、学生の話題にアンテナを張り、インタビューもした。 キャンパスの写真も撮った。 27年ぶりに戻った母校のキャンパスは眩しいほどに輝いていた。敷地3万坪のキャンパスの佇まいの美しさに魅せられた。なぜ学生時代には感じ取れなかったのか。足元の野草にも日々新しい発見があり、心が躍った。 武蔵野の面影を残すキャンパスでは早春の梅、シュンラン、桜に始まり、四季を通して草花がキャンパスを彩っていた。キンラン、ギンランの絶滅危惧種もあった。新校舎建築のために最小限の伐採が行われたが木々が大きく成長し、その分、葉数が増え茂ったことにより、むしろ木が増えたかの印象だった。

5月のキャンパスは若葉で覆われ、森の中で仕事をしているような幸福感に浸った。初冬が盛りのモミジは圧巻。朱に染まったキャンパスは文字通り燃えていた。どれくらいの数のモミジがキャンパスにあるのかと昼休みに数えたことがある。ゆうに100本は超えていた。 きれいな花を見つけては何気なくカメラに収めていた。数年経つと写真はかなりの数に達した。年間を通してキャンパスの木や花を意識的に撮ってみようと思いたったのは、2001年に、同期生が作っていた「花通信」(写真にコメントを添えた冊子)に誘われたことがきっかけだった。「キャンパス便り」と題して母校の様子を毎月書き送った。編集者の体調不良で中断するまでの6年間余に集中的にキャンパスの木と花を追った。特に2006年のモミジは見事で、手元にあるモミジの大半はその年に撮影している。 この「花通信」への投稿を機に花の名前を調べる必要が生じたが、私にはほとんど名前がわからない。図書館の植物図鑑で調べる、「花通信」の仲間に訊く、そしてネット検索も大いに利用した。お陰で今ではいくらか名前が言えるようになった。


◆ 写真展と絵葉書

 2007年の定年退職を前に周囲の勧めがあって、前年の春と秋に構内で写真展を開いた。写真の選択、印刷、案内状、ポスター、展示など全てを日常業務の後で一人で行った。額1枚持たないゼロからの展示会場作りに未経験者は大いに戸惑い、自分の甘さに困惑した。何から手を付けたらいいのか壁に向かって茫然と立ち尽くしていた。会場設営にはセンスが必要と気がついても今更遅い。走り出した以上進まざるを得なかった。お陰で2回目の秋には少し手際よくやれたとは思うが2度とやる気はない。その時に買った30枚ほどの安物の額は我が家の天袋に眠っている。 技術もないずぶの素人がただシャッターを押しただけの写真は稚拙なものだが、卒業生や大学関係者には珍しさと懐かしさもあって、関心を寄せる人が少なくなかった。写真展を開いたことにより、キャンパスにいる人達、特に同窓生教職員の意識が変わった。身近にこれほど多くの草花が美しく咲き、訴えかけているのに気付かなかったことを嘆き、改めてキャンパスの自然に目を向ける人が増えたことは嬉しかった。 市の広報紙にも私の写真展の案内が載った。一般市民の参加もあり、予想を上回る入場者を数えた。小さな普通のデジカメ(フィルム時代の写真もあるが)で撮った素人写真を観に来て下さる方々に感謝の印としてお土産を考え、「キャンパスを彩る春夏の花たち」「秋の花たち」「モミジ」の3種類の手製の絵葉書を作った。学長はじめ教職員にも差し上げ、この絵葉書がじわじわと同窓生の間で知られるようになった。


◆ 花カルタ

 たまたま、1年を通してキャンパスの四季を撮り続けた人が他にいなかったことから、私の写真がいくらか役に立っている。「継続は力なり」「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」と言うこと。 確たる目的もなくただ美しさ愛らしさに魅かれて、無心に被写体と対峙していたからこそ、飽きることなく続けることができたのだと思う。  前から、撮り溜めた写真を基に「脳トレ」を兼ねた花カルタを作りたいと思っていた。いろはかるたの要領で正しい花のカードを取るという遊び。楽しみながら物忘れを防止する一助になればいいと、この構想を自画自賛しているがまだ着手していない。 かるたの「ことわざ」の代わりに花言葉を使うのも一興。 絵葉書は肩書のない私のために名刺以上の役割を果たしてくれる。花を撮ることを通じて多くの素晴らしい縁にも恵まれた。幸せなことである。果報は寝ていてはやってこない。

Happy Birthday (2016年1月掲載)

Happy Birthday !


1月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
  星山 文雄 さん、吉田 和男 さん、梅村 民男 さん、城下 征治 さん

 

 

1. 星山 文雄 さん (1月4日生まれ)

ある呆け老人の近況報告書


何時の間にか、齢80台の半ばを過ぎる頃となりました。年相応の病気やら、体力の劣い、なども人並みに経験して来ました。色々の失敗も沢山あり。また最近は、物忘れなども発生しています。少し呆けても来ました。同級生(国際無線通信科など)も半数が亡くなりました。毎日、平々凡々の生活を送っています。こんな雑文の近況報告ですが宜しかったらご笑覧下さい。

◎お医者関係
1. 小出クリニック

月1回の診察で薬は3種類投与(降圧剤、気管支、ほか)血圧の薬は在職中からですからもう20余年のキャリアですね。

2. 町田胃腸病院

月1回の診察で血液検査と薬は胃腸薬など3種類の投与です。異状なしで油断しての6年間の検査の空白。胃カメラで引っ掛かり手術までしました。もう2年の月日が経ったが再発したら終わりですね。大腸カメラ,胃カメラは必要ですね。

3. 永田整形医

加齢による老人性膝関節変形症(週1~2回、電気治療)の診断。気長に旨く付き合ってゆくしかないと思っている。


◎お遊び関係・1

1. ダンスは週3回(週に、レッスン2回、パーティー1回)で20年も経歴です。俗にいうダンススポーツですが。前日呑み過ぎると酒臭いを叱られる。お風呂に入らないと汗臭いと言われる。雨でも休む訳にも行かない。それが良い刺激です。でも大勢の男性、女性の良き仲間が出来ましたよ。

2. メガロススポーツセンター(週3~4回 水中歩行、サウナ、お風呂など)昔は泳ぐのが主だったが、最近は水中ウオーキングとサウナ、お風呂が主となった。メガロスで水中ウオーキング40分すると、膝の調子もストレスも少しは良くなり、健康を頂いて帰ります。もう毎日の習慣となって来ました。

3. お昼は街の喫茶ベローチで410円(コーヒー190円、卵・野彩サンド220円)で過ごす。家にいるとどうも体の調子が可笑しくなってくるので、出来るだけ外へと出かけます。ストレスは筋肉に蓄積されるとか、ストレス解消のため出来るだけ動き回っています。


◎お遊び関係・2

4. 朝のダンベル1kgを片手交互に持って30分の歩行は、6時45分頃から歩行開始する。最近は何でも30分刻みだ。昔は60分の散歩だったが、今は30分になった。30分で十分です。2年間続いています。「継続は力なり」ですか。

5. 朝食後に犬の散歩は30分(小型犬)です。昔は、犬2匹の朝と夕方でしたが、小型犬の1匹ですので大分楽です。なお、朝だけの散歩で勘弁して貰っています。

6. 購読している雑誌類 文芸春秋、週刊文春 朝日新聞、日刊スポーツなど


◎昭和会関係

1. 昭和会については、創設の頃から係わって来ました。現在では、昭和会ゴルフ(4ヶ所)、昭和会各地区呑み会(9ヶ所)、春の懇親会と夏の懇親会が常設されています。何れも20余年続いて来ました。(詳細はホームページ参照)貴重な財産ですね。 なお、昭和会は、何時でも、何処でも、誰でも、参加は自由です。

2. 昭和会呑み会は、・横浜地区呑み会、・小田急相模大野地区呑み会、・三鷹地区呑み会(稀に)に参加しています。無理の無い範囲で参加しています。懐かしい仲間との出会いが、活力倍増の源泉です。なお、ゴルフは、体力の減少から暫くお休みが続いています。

3. 昭和会の想い出は、会社の神鳥谷での昭和会ゴルフの全国大会を10回開催、沖縄ゴルフと観光ツアー、青森ゴルフと十和田観光ツアー、昭和の森ゴルフ150回開催、昭和会韓国観光旅行、昭和会台湾観光旅行など、色々な想い出が沢山、沢山あります。懐かしい皆さんどうも有難う御座いました。 特に、女性の皆さんには大きく感謝致します。


<追記>

 辿りつき 振り返り見れば山河を 越えては越えて 来つるものかな (河上 肇)


:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:



樫村 慶一 さんからのコメント

2016/01/26 14:12:35    


星山文雄さんは、私と同い年だからことしの誕生日で86歳になるはずだ。 生来の世話好きのため、いまだに、ミニ同友会ともいうべき「昭和会」なる親睦会を主催し、ゴルフに飲み会に持ち前のリーダーシップを発揮している。 各地に支部をつくり、アフリカの草原の動物が水場に集まるが如く、懐かしい顔ぶれが集まってくる。 旧KDDの人間の唯一の交流の場だ。 もう一昨年になるか、胃癌で3分の2を切り取っている。 84歳でこの手の手術をする本人も本人なら、医者も医者だ。 相当な勇気が要ったろうと思う。 同友会メンバーも坂を転げ落ちるように、訃報が相次ぐが、昭和会は最期の2人なるまで続けて欲しいものだ、そして同友会の最期を飾ってほしい。 いるはずがないと信じている神仏に勝手なときだけいのっている。
 

 


 

2. 吉田 和男 さん (1月18日生まれ)

60年余の仕事人生を振り返って


◆ KDDでの37年
79歳の誕生日を迎えるのに際してこれまでの仕事人生を振り返ってみたいと思います。22歳でKDDに入社して59歳で退社するまでの37年についての感想は、良い会社に入って良い仕事をさせてもらった年月だったということです。KDDという会社は何といっても「官」の会社、良しにつけ悪しきにつけ、そのことが基になっています。「官」でなければできない大きな仕事に加われたことや、協力関係にあった諸会社との協議など、私にとってやりがいのある仕事が多くあり、ありがたいことだったと思います。一方で元々発想が「民」の私には違和感がいつもあり、住みにくさも感じていました。ただし後年には、競争の激化で私にとっても出番が多くなったように思います。

◆ 転職に踏み切る
58歳で国際合弁会社会長の仕事が終わったとき、KDDの状況を見ると事業基盤の縮小傾向は明らかで、そのままでの存続は難しいと感じました。KDDグループにいても役立つことは少なく、いることは却って迷惑であろうと思いました。そこで国際的なリクルート会社に登録して求職活動を始めました。この年齢での求職活動は困難でしたが、幸い米国のモトローラ社に仕事が見つかり、61歳で第2の仕事人生を始めることになりました。 その後KDDとDDIの合併が実現し、多くの職員の活動の場が確保され、私たちの年金も確保されたことは、大変喜ばしく、これに尽力された方々に対して深い敬意と謝意を表します。

◆ モトローラでの仕事
仕事は新事業の開発でしたが、就職後6カ月で事業の中止が決定され、3カ月以内に社内転職先を見つけなければ即退職ということでした。幸いそのときの上司が私をつれて社内転職をしてくれました。その仕事を1年余りやったところでまた事業中止で社内求職となりました。このときは期限切れ直前に新しい仕事のオファーがあり、この仕事は67歳まで続けることができました。
モトローラでの仕事は目標管理が厳しく、常に適切な目標を設定することと、それを着実に達成することが求められ、大きなプレッシャーを感じるものでした。また、部隊を率いるのではなく、個人で関係先との協議説得を通じて仕事を前進させるという仕事も独特の緊張を強いるものでした。それでも社内に多くの仕事仲間を得て、その人々の助けでどうやら仕事ができたと、うれしく振り返っています。

◆ 地域での仕事
第3の仕事人生のためにと67歳で中小企業診断士の資格を取りました。この資格で松戸市の相談員の仕事を77歳までやりました。仕事は月2回程度、相談室で創業希望者などの相談に応じるというものでしたが、相談者が少なくて待ち時間が長いのには閉口しました。
地域では町会の仕事をしました。役員を2年、会長を6年やりました。 ボランティアで仕事をするのは初めてでしたが、地域の人々と力を合わせて何かをやるというのはなかなか面白く、手ごたえを感じた8年でした。今は地域の社会福祉協議会の仕事をやっていますが、余り負担を感じないでやれるので、年相応と感じています。
 

 


 

3. 梅村 民男 さん (1月22日生まれ)

齢78歳となりました。KDDを退職して早20年となりました。退職後は地域での町内会や老人会の役員など行うとともに知人から借りた畑での野菜作り、健康維持のためスポーツジム通いと大好きなゴルフを行いながらの生活を楽しんでおります。畑は10数年ほど前に約50坪ほどを借りで春夏秋冬いろいろな野菜を作っております。昔ながらの農具を使っての全くの手作業です。台所で出るごみを畑に埋めて肥やしとし、春にはインゲン、オクラ 、キュウリ、小松菜、トウモロコシ、ニンジンの種まき、4~5月ごろには山芋、トマト、サツマイモ、ナスの植え付け、秋にはエンドウ、キャベツ、ハクサイ、大根、春菊の種まき、玉ねぎ、ブロッコリーの植え付けなどなど、できたものは夫婦二人だけで消化することはできず、友人や子供たちに送ったりしております。また、ゴルフは町内で同好の志を募りながらときには、大阪南部地域にいるKDD-OBや高校の同級生で作る「丑寅会」なる同好会で愛知県犬山などでプレーを楽しんでおります。85歳ぐらいまでは楽しみたいと思っております。


 

 


 

4. 城下 征治 さん (1月27日生まれ)

生 活 の 近 況


 k-unet運営委員の皆様には日頃より有用な情報や動向等を提供して頂きまして有難うございます。先ずは、お礼のほどを。
 いよいよ高齢者75歳へ到達、変わりなく元気で過ごしている日常生活の近況を述べることにします。私は2002年から健康趣向の一つとして有機栽培で安心、かつ、美味しい野菜づくりに取組み始め、現在も挑戦中です。最初は地元市農業振興会のレジャ-農園に応募して耕作面積も24㎡(7坪)からスタート、自由かつ気楽に作業していたがその後多種多様の新鮮な野菜を無農薬栽培で育成して、旬の食材を味覚してみたい思いが強まりました。そこで、農家の遊休地を借用して耕作地の面積は76㎡ (23坪)、そして現在の150㎡ (45坪)へ順次拡張していきました。
 菜園プランとしては、土壌づくり⇒種・苗の入植⇒作物の育成長⇒収穫の周期で動いている。これらを実践する過程の中で
1. 四季・天候条件下での対応
2. 病・害虫対策
3. 効果的な肥料散布
4. 良い農地環境維持
5. 資材・用具の配備等
を細かく配慮していく事が重要である。特に、高齢者になり記憶力の薄れを補う為、農事の目安に便利な二十四節気や自分自身の雑記帳の活用は作業予定、栽培ポイント、連作障害の防止への応用に役立っています。
 また、就労時間、肉体的疲労、必要経費等を勘案した場合、あまり欲を出さずに現行の耕作面積により野菜づくりを継続していくのが適当であろうと励んでいます。 当農地にはほゞ同耕作面積を有して、同世代高齢者の農園仲間達が10数名居り、常に何人かと顔を会わせ畑作の状況、野菜の成長度合い、そして体調の具合等について情報交換を行ない乍ら互助、互恵のもとで連携を図り「和気あいあい」の菜園生活を自然とともに愉しんでいます。
 現在、元KDD関係者とは趣味を兼ねた野外活動を通じて「友歩会・ハイキング散策」「昭和会・昭和の森ゴルフ」「同年輩の仲間同士が集うつれづれ会・散策会」等の開催時には可能な限り毎月参加し、自由闊達にして元気溌剌な先輩・同輩の方々と交流親睦を深め愉快にやっています。これからも、人との交流と対話を大切にしていくと共に普段から快眠快便に繋がる体調管理に留意して「自己最高齢」を更新しながら素直に活きていこうと思っています。


Happy Birthday (2015年12月掲載)

Happy Birthday !


12月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
  新納 郁江 さん、 織間 政美さん、  横尾 常男さん

 

 

1. 新納 郁江 さん (12月3日)

 50歳でKDDを退職と同時に長年住んでいた横浜から東京の夫の生まれ育ったエリア、目黒に移り住んで20年になる。 退職後始めた趣味、活動はいくつかあるが、その一つに地域の活動に参加したいと調べ、外国人の方たちへのサポート活動である日本語ボランティアに組織立ち上げの時から関わり、今や私のライフワークの一つとなっている。 今回 k-unet のコラム「Happy Birthday」にその日本語ボランティアで毎年発行の機関紙に先日掲載した原稿を皆様にもご紹介させていただきます。 原稿は外国人の方も読めるようにルビがふってあります。

119 ( ばん ) 緊急 ( きんきゅう ) 通報用 ( つうほうよう ) 番号 ( ばんごう )


犯罪 ( はんざい ) 災害 ( さいがい ) 発生 ( はっせい ) ( など ) 緊急 ( きんきゅう ) 対応 ( たいおう ) 機関 ( きかん ) 通報 ( つうほう ) するための 番号 ( ばんごう ) として、 日本 ( にほん ) では110 ( ばん ) 警察 ( けいさつ ) に、119 ( ばん ) 消防 ( しょうぼう ) 救急 ( きゅうきゅう ) に118 ( ばん ) 海上 ( かいじょう ) 事故 ( じこ ) ( ) ( ) てている。  番号 ( ばんごう ) ( くに ) によって ( こと ) なり、 消防 ( しょうぼう ) 救急 ( きゅうきゅう ) においてはお ( となり ) 韓国 ( かんこく ) 台湾 ( たいわん ) では ( おな ) じ119 ( ばん ) 中国 ( ちゅうごく ) では 救急 ( きゅうきゅう ) は120 ( ばん ) 消防 ( しょうぼう ) ( おな ) じ119 番 (ばん)、 アメリカ ( あめりか ) カナダ ( かなだ ) では911 ( ばん ) ( もち ) いられている。
( わたし ) ( ) んでいる 目黒区 ( めぐろく ) ( みどり ) ( おか ) 自宅 ( <じたく ) から ( ある ) いて2~3 ( ぷん ) ( ところ ) 東京 ( とうきょう ) 消防庁 ( しょうぼうちょう ) 目黒 ( めぐろ ) 消防所 ( しょうぼうしょ ) 大岡山 ( おおおかやま ) 出張所 ( しゅっちょうじょ ) があります。  ( さくら ) 並木 ( なみき ) ( うつく ) しい ( のみ ) ( がわ ) ( りょく ) ( どう ) ( そば ) なので、 ( いぬ ) 散歩 ( さんぽ ) 途中 ( とちゅう ) ( まご ) ( ) れて 見学 ( けんがく ) ( ) った ( こと ) もあった。 3 ( がい ) ( だて ) ビル ( びる ) には ( おお ) きな 消防車 ( しょうぼうしゃ ) が2 ( だい ) 、そして 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) が1 ( だい ) 配置 ( はいち ) されていて、 隊員 ( たいいん ) ( かた ) がよく 訓練 ( くんれん ) をなさっている。  救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) には20 ( だい ) ( ころ ) 一緒 ( いっしょ ) に 歩 (ある)いていた 友人 ( ゆうじん ) 自転車 ( じてんしゃ ) とぶつかり 転倒 ( てんとう ) 後頭部 ( こうとうぶ ) 打撲 ( だぼく ) 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) ( ) 一緒 ( いっしょ ) ( ) ( <こ ) んだ 経験 ( けいけん ) が1 ( ) あるだけだった。 その ( わたし ) がまさか 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) のお 世話 ( せわ ) になるとは? 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) のお 世話 ( せわ ) になった ( ) 、2013 ( ねん ) 11 ( がつ ) 20 ( はつか ) ( )
シャンソン ( しゃんそん ) コンサート ( こんさーと ) 数日後 ( すうじつご ) ( ひか )>/rp> え、その ( ため ) 準備 ( じゅんび ) ( ) われ、 翌日 ( よくじつ ) ヘアサロン ( へあさろん ) 予約 ( よやく ) 、この ( ) ドレス ( どれす )(/rp> マッチ ( まっち ) させた 派手 ( はで ) ネイル ( ねいる ) をしてもらったところだった。 その ( ) 夕方 ( ゆうがた ) ( なん ) 前触 ( まえぶ ) れもなく、 自宅 ( じたく ) ( わたし ) 突然 ( とつぜん ) ( たお ) れ、119 ( ばん ) ( ) んで ( いのち ) ( たす ) けてもらった。  ( からだ ) はみるみる ( ) え、 意識 ( いしき ) はもうろうとなっていく、それでも 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) ( ) ぶのは ( ) ずかしく 抵抗 ( ていこう ) があり、 ( いや ) だと ( ) ( ) っていた ( よう ) だ。  ( おっと ) 記録 ( きろく ) した メモ ( めも ) によると、 ( ) ( ) わせをした 国立 ( こくりつ ) 医療 ( いりょう ) センター ( せんたー ) 医師 ( いし ) 指示 ( しじ ) で119 ( ばん ) にかけるや、その5 分後 ( ふんご ) には 隊員 ( たいいん ) 4 ( にん ) ( ) せた ( おお ) きな 消防車 ( しょうぼうしゃ ) 1 ( だい ) ( つづ ) いて 数分後 ( すうふんご ) に3 ( にん ) ( ) せた 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) 到着 ( とうちゃく ) 、7 ( にん ) 隊員 ( たいいん ) ( かた ) がたの 迅速 ( じんそく ) 的確 ( てっかく ) 判断 ( はんだん ) 対応 ( たいおう ) 措置 ( そち ) により、 出発 ( しゅっぱつ ) して10 分後 ( ぷんご ) には 昭和 ( しょうわ ) 大学 ( だいがく ) 病院 ( びょういん ) 到着 ( とうちゃく ) する ( こと ) 出来 ( でき ) た。  病院 ( びょういん ) では ( ただ ) ちに 造影 ( ぞうえい ) CT ( など ) などの 検査 ( けんさ ) がされ、その 結果 ( けっか ) 急性 ( きゅうせい ) 大動脈 ( だいどうみゃく ) 解離 ( かいり ) という ( こわ ) 病気 ( びょうき ) 判明 ( はんめい ) ( そく ) 手術 ( しゅじゅつ ) となった。  手術 ( しゅじゅつ ) そのものも 大変 ( たいへん ) 危険 ( きけん ) であり、 手術 ( しゅじゅつ ) ( ) 48 時間 ( じかん ) 以内 ( いない ) 半数 ( はんすう ) ( ひと ) ( いのち ) ( ) とす 重篤 ( じゅうとく ) 病気 ( びょうき ) ( ) らされ、 ( おっと ) は5 ( つう ) もの 同意 ( どうい ) ( しょ ) サイン ( さいん ) をしていた。  手術 ( しゅじゅつ ) 無事 ( ぶじ ) 終了 ( しゅうりょう ) 、しかし 手術後 ( しゅじゅつご ) 予断 ( よだん ) ( ゆる ) さず ( やく ) 1 週間 ( しゅうかん ) のICU( 集中 ( しゅうちゅう ) 治療室 ( ちりょうしつ ) ( ) めとなった。  ( かお ) には 酸素 ( さんそ ) マスク ( ますく ) 体中 ( からだじゅう ) ( くだ ) だらけで 機械 ( きかい ) ( かこ ) まれたICUでの 治療 ( ちりょう ) 何度 ( なんど ) かきれいなお 花畑 ( はなばたけ ) ( ) たが ( つら ) ( くる ) しい 過酷 ( かこく ) なものだった。 1 週間後 ( しゅうかんご ) ( くだ ) 機械 ( きかい ) から 解放 ( かいほう ) され ( まど ) のある 病棟 ( びょうとう ) 個室 ( こしつ) ( うつ ) れた ( ) ( よろこ ) びと 感動 ( かんどう ) 。  最上階 ( さいじょうかい ) にある ( わたし ) 部屋 ( へや ) ( まど ) から ( ) 正面 ( しょうめん ) 富士山 ( ふじさん ) ( ) えた。  ( しず ) みゆく 夕日 ( ゆうひ ) ( ) らされて ( うつく ) しく、 ( なみだ ) がとめども ( ) くあふれ、 ( こえ ) ( ) して ( ) いていた。  懸念 ( けねん ) された 合併症 ( がっぺいしょう ) ( など ) ( ) こらず 順調 ( じゅんちょう ) 回復 ( かいふく ) し、1か 月後 ( げつご ) には 退院 ( たいいん ) する ( こと ) ができた。  退院 ( たいいん ) したとは ( ) え、まだまだ 規制 ( きせい ) ( <rt<おお< rt=""> ) 普通 ( ふつう ) 生活 ( せいかつ ) とは 程遠 ( ほどとお ) い。  ( やく ) 半年 ( はんとし ) ( あいだ ) ( しゅう ) に3 ( かい ) リハビリ ( りはびり ) ( かよ ) わねばならなかった。  心肺 ( しんぱい ) 機能 ( きのう ) アップ ( あっぷ ) のための リハビリ ( りはびり ) ストレッチ ( すとれっち ) エアロバイク ( えあろばいく ) ( ) ( こと ) メイン ( めいん ) であったが、 ( かい ) ( かさ ) ねる ( ごと ) ( からだ ) 回復 ( かいふく ) 実感 ( じっかん ) でき、 ( おっと ) ( くるま ) での 送迎 ( そうげい ) ( ささ ) えられ 頑張 ( がんば ) れたように ( おも ) う。  ( からだ ) 回復 ( かいふく ) 比例 ( ひれい ) して 規制 ( きせい ) ( ) かれ、お 料理 ( りょうり ) ( など ) 家事 ( かじ ) ( いぬ ) 散歩 ( さんぽ ) ( など ) ( ゆる ) される、ささやかな ( こと ) だが、 普通 ( ふつう ) ( ) らしができる ( よろこ ) びを ( おも ) ( ) りかみしめた。  半年後 ( はんとしご ) には 年齢 ( ねんれい ) 相応 ( そうおう ) ( からだ ) 回復 ( かいふく ) リハビリ ( りはびり ) 卒業 ( そつぎょう ) ゴルフ ( ごるふ ) 旅行 ( りょこう ) もOKと ( ) われた。 ( うれ ) しかった。  ( また ) 大好 ( だいす ) きな ( うた ) レッスン ( れっすん ) とくれよんに ( かよ ) える。  仲間 ( なかま ) ( ) えるという ( こと ) がすぐに ( あたま ) ( ) かんだ。
先日 ( せんじつ ) ( ) ( ) ( まえ ) マンション ( まんしょん ) 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) ( ) まった。  男性 ( だんせい ) のご 老人 ( ろうじん ) ( はこ ) ( ) まれたものの、 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) ( うご ) かない。 1 時間半 ( じかんはん ) ( ) まったまま。 あまりに ( なが ) いので ( うかが ) ったところ、 受入先 ( うけいれさき ) 病院 ( びょういん ) ( ) い、 ( ) まらないので 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) ( うご ) けないと ( ) らされた。  救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) ( ただち ) ちに ( ) けつけても、その ( ) 救急 ( きゅうきゅう ) 医療 ( いりょう ) 体制 ( たいせい ) 問題 ( もんだい ) 現実 ( げんじつ ) ( ) ( ) たりにし 大変 ( たいへん ) ショック ( しょっく ) ( ) けた。
4/1 ( づけ ) 日経 ( にっけい ) 新聞 ( しんぶん ) 救急 ( きゅうきゅう ) 出動 ( しゅつどう ) 記事 ( きじ ) ( ) にした。 2014 ( ねん ) 全国 ( ぜんこく ) 救急 ( きゅうきゅう ) 出動 ( しゅつどう ) 件数 ( けんすう ) は598 万件 ( まんけん ) 過去 ( かこ ) 最多 ( さいた ) 更新 ( こうしん<,/rt> ) 高齢化 ( こうれいか ) ( ともな ) い、お 年寄 ( としよ ) りのけが ( にん ) 病人 ( びょうにん ) ( ) えた ( こと ) 要因 ( よういん ) 高齢 ( こうれい ) 傷病者 ( しょうびょうしゃ ) 増加 ( ぞうか ) が76.8%、 急病人 ( きゅうびょうにん ) 増加 ( ぞうか ) が65.7%。 そして、 ( あき ) らかに 軽傷 ( けいしょう ) なのに 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) ( ) ぶ、 タクシー ( たくしー ) ( ) わりに 使 ( つか ) ( など ) 不適正 ( ふてきせい ) 利用 ( りよう ) ( ) えている ( こと ) があげられ19.8%もあった。
消防庁 ( しょうぼうちょう ) 出動 ( しゅつどう ) 増加 ( ぞうか ) 搬送 ( はんそう ) ( おく ) れを ( まね ) きかねない、 不適正 ( ふてきせい ) 救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) 利用 ( りよう ) ( ひか ) えて ( ) しい、と ( ほう ) じていた。  救急車 ( きゅうきゅうしゃ ) にお 世話 ( rせわ ) になった、 ( また ) なるかもしれない ( もの ) としていろいろ ( かんが ) えさせられている。
 

 


 

2.織間 政美 さん (12月5日生まれ)

田中首相訪中のテレビ伝送の思い出

 

□ しくじれば辞職も覚悟して
1972年夏のある日、課員が、米国の大統領が訪中する際に可搬型地球局を持参し、テレビ伝送するとの情報を得た。日本も負けていられないな、などと話していた時、部長に呼ばれた。日中国交正常化で田中首相が中国を訪問される。日本から可搬型地球局を中国に送って訪問時の映像を日本に伝送する計画が進められている。この可搬型地球局を準備し発送する業務は、衛星通信課では出来ないので、無線課が担当してくれと言われた。無線課の職務権限に他課に属さざる伝送設備の手配の項目があり、アメリカに負けられないと衛星通信課、回線統制部から社員の応援を得て実施すると引き受けたが、地球局の準備を短期間で実施するのは、通常では実現不可能な難しい問題があるので、くじれば辞職ものと覚悟した。

□ 可搬型地球局のインテルサット承認テスト
可搬型地球局設備は、NECが所有し、直径10mのカセグレンアンテナと送受信機、端局で構成しているが、シートが歯抜けの状態だった。不足部分をKDDが所有するシートで補充して調整し、KDDがこれを借用して電波検査を受ける。可搬型地球局の電波検査は、初めてで、国内法に適合出来るか不明であった。検査合格後、インテルサット衛星に接続してテストし、地球局の承認を得て、北京に送る手筈であった。

郵政省、NTT、NEC、KDDの関係者打ち合わせで、この検査、テストは、期間短縮のため、NECの構内での実施が検討された。茨城衛星通信所で実施すれば問題はないが、関東のほぼ真ん中のNEC構内に地球局を置くと、その電波が関東地区のNTTマイクロ波回線を干渉妨害し、NTT中継局の電波で可搬型地球局が干渉妨害を受け、検査、テストに合格しないおそれが多分にあった。これに対しNTT側からトラフィックの少ない夜間であれば、回線を同軸ケーブルに切り替え、検査、テストに支障を与える無線局を停波すると有難い提案があり、また電波監理局から夜間での電波検査が了承され、検査、インテルサットの地球局テストは、1日限りの夜間での実施が決定した。

□ テスト成功の日にみた朝やけ
社員が突貫で電波申請書を作成し、電波監理局では極めて短期間に審査を完了し、設備の整備は社員立ち会いのもと精力的に進められ、スケジュール通り進行し、検査、テストの当日になった。夜になりNTTから、マイクロ波の送信を停止したとの連絡があり、若手社員がてきぱきと、電波検査を受け、衛星経由でKDD茨城衛星通信所に接続してインテルサットのテストを進めた。TV映像、音声伝送共にOKだが不要波が出ていると連絡があり、背筋が寒くなった。インテルサットに確認したところ、不要波は、割り当て周波数帯域内であり支障ないとの連絡を受けた。この連絡で電波検査は、合格し、引き続き、インテルサットの地球局承認の連絡が得られた頃には、夜はほのぼのと明けつつあった。NTTから回線を復旧させたと連絡があり、心からのお礼を申しあげた。東の空は、朝やけで、こよなく美しかった。 地球局が北京で稼働し、田中首相が飛行機のタラップを降り,周首相と握手する美しい映像がTVに映った時、日中友好に役だったと喜び、これで辞職はないなと肩の荷を下ろし、KDDを当事者として、郵政省、NTTおよびNECによる国家的事業が成功したなと思った。

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-



横井 寛さんからのコメント

2015/12/27 12:08:35    



織間さんの誕生月のお話、大変興味深く拝読しました。 私もKDD時代に長らく衛星通信の仕事に携わっていましたので、日中間の国交復興に際して、KDDが、田中首相、大平外相が訪中した時、可搬型の衛星通信地球局を中国に持ち込んだことは知っていましたが、その裏に、このようなエピソードがあったとは知りませんでした 。
 今更ながら織間様始め関係各位に「有難う、ご苦労様でした」と申し上げます。

横井 寛    

 

:-:+:-:+  横井さんへの返事 +:-:+:-:

2015/08/27 11:32:13    


極超短波課時代、横井さんにパラボラアンテナの改良をお願いし、成果を修めた事があります。その横井さんから感想とねぎらいのコメントを頂き、有難く、楽しい気分になりました。

織間政美    

 

 


 

3. 横尾 常男 さん (12月5日生まれ)

84歳の誕生日に思うこと (I like No.1)

 

 KDDが設立した当初は大報の外信科に所属して輪番をやらせて貰った。36歳に田尻町議会議員に当選し、仕事の傍ら4年・6期も務めさせていただいた。そして、定年の2年前にKDDを退社し、町長選に立候補した。田尻町生まれでないよそ者が初めて当選を果たし、周囲から驚かれた。町長選に際してはNTT・KDDの労組の皆さんに大いなる支援をいただき、町長在任中も長年にわたり多大なご支援をいただきました。ありがとうございます。
 田尻町は町域が2キロ平方の広さで、紡績工場の多い町のため財政が豊かであった。豊富な財政によって、田圃の畦道まで舗装したためか、野ネズミの足裏を守って動物を愛護していると周辺地域から揶揄されていました。

次に関西国際空港のことを話します。伊丹空港は街なかの飛行場のため公害が問題視されていた。また、関西に24時間利用できる空港建設が必要であるとして、府や国が検討した結果、泉佐野・田尻・泉南地区の沖合5キロの海上に空港を建設することを府や国が指定した。紆余曲折の末に世界初の海上空港が平成6年9月に開港した。湾岸地域には「りんくうタウン」や「湾岸線」もでき、その中心部には私が命名した橋「田尻スカイブリッジ」も完成。

 3年後、それに隣接して「関西国際センター」を誘致した。当初、知事から国の施設なので課税出来ないと言われた。その施設は、外交官になる外国のエリート達に日本語を教える唯一の研修所ですから、外国との交流の窓口になるだろうと考えました。
 また関西繊維業界中枢を担った谷口房蔵氏(後の東洋紡績の社長)の別荘を空港開港の記念として買収し、「田尻歴史館(府の文化財)」としました。

 国際空港の中心の町ともなれば都市基盤整備が急務だとして、 PHOTO 下水道敷設率約100%を達成し、全国一にしました。町内の狭い路地の下水道の敷設工事に堺市が強い関心を寄せられた。堺市からの要請を受け、堺市職員を長期間受け入れて技術協力をしました。
 また、洪水から町民を守るために雨水路も町域の中心に径約3米の土管を950米に敷設しました。そして空港連絡道路に府の55階建のゲートタワービルができた為に田尻町全域が電波障害の区域になってしまった。電波障害対策として府の経費で全町にケーブルが敷設されました。これは別の効果をもたらせてくれた。それまで数年に一回の頻度で塩害のためテレビアンテナを交換していたが、ケーブルができたお蔭で、アンテナ交換が不要になった。

 新しい事業を起こすために為に町の税収入を増やす必要があった。町長のわたしが税務課長と相談して、関空内のタバコ自動販売機を田尻町のタバコ販売店として指定し、関空内のすべてのタバコ税が田尻町に入る仕組みを作った。これで関空全体のタバコ税17億7千万余が町の税収となる望外の喜びでした。その後、あまりにも税収が多いという事で今では国に召し上げられてしまい、現在は約一割に減額されています。それでも、財政は府下No.1の黒字の町です。

 最後になりますが、山田・佐賀さん等、その当時の労組役員のご尽力により、立派なKDD企業年金制度の恩恵を受けております。そのお蔭で孫等からも「爺ちゃんの会社はいいね」と喜ばれています。
感謝・感謝です。

 

 

 

 

Happy Birthday (2015年11月掲載)

Happy Birthday !


10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
  瀧本 直孝 さん、甲斐野 幸一 さん、 石垣 英明 さん

 

 

1. 瀧本 直孝 さん (11月7日生まれ)

通信へのあこがれからKDDへ入社そして定年、
あっという間に古希!


 定年まで健康で働くことが出来ました、皆様に感謝しております。あっという間に10年、「古希」です! 私の趣味のアマチュア無線(ハム)とパソコンについて紹介させていただきたいと思います。
 ハムでは一般的なパソコンの使い方だけでなく、信号、符号を作成して無線機に送る、受けるというツールにもなっています。(もちろん、一般的なメール送受、WEBの検索等もします)

(1) 電話モードでのアマチュア無線(ハム)時代と一般的なパソコン活用

15年ほど前、KDD東京ハムクラブの先輩に誘われ長年休んでいたハムを再開しました。 再開当初、私は、音声による交信のみで、パソコンは交信記録を入れるだけの一般的なパソコンのデータベース利用でした。

 

(2) モールス通信とパソコン活用

ハム再開から2,3年過ぎた頃、モールス通信をやってみようとしたのですが、私の技量が速いモールス信号にはついていけず、お世話になったのがパソコンでした。 信号の受信はパソコンでモールス解読フリーソフトを活用、(日常の運用では自分の耳とパソコンを併用してモールス信号を解読しています。) 一方モールスの送信ですが高校生の時、無線従事者免許を取るために我流で習得した素人で、かつ久しぶりでした。しかし加齢のせいか早く打てないという難題にぶつかりました、そこで、これもパソコンにお世話になることにしました。今では欧米の高速モールス信号に負けない速度でパソコンによるモールス通信を楽しんでいます。

 

(3) 各種電波形式と作成ツールとしてのパソコン

その後、ハムクラブ先輩の指導により、モールス通信以外に、パソコンによる符号信号交信(プリンター信号)を各種電波方式での通信(PSK31,63,125 RTTY JT65など)にも拡張しました。これら通信は各種送信信号をパソコンで作成して無線機で電波で送出、無線機からの受信信号をパソコンで解読して通信を行います。(パソコンがプリンターの代わり) なお、パソコンと無線機はUSB、サウンドカードなどで接続しています。


(4) その他ハムの一般的なパソコン活用

一方、交信証(QSL)も紙に印刷して交換する方式から、欧米をはじめ世界規模で提供されている電子交信証交換サービスが有りこれに参加しています。(右は友人の高宮さんに書いていただいた似顔絵です。 ハムの交信証(QSL)にもいれています)また、無線局免許も総務省WEBから設備や住所変更や免許更新も行っています。


 最近のアマチュア無線はパソコン無しでは考えられない世界になっています。パソコンとハムは末永くIN-DOORの趣味として続けていきたいと思っています。現行、22インチの一体型PCをWINDOWS 7で使っています。 k-unet講習会で教えていただいた内容を基に、冬にもWINDOWS 10に入れ替えようと考えています。

 

 


 

2. 甲斐野 幸一 さん (11月11日生まれ)

これから歩く道へ


 退職後17年目の誕生日を迎え振り返ると、これまでの社会とのつながりで良かったのか、他に道が在ったのではないかと思い悩む日がありますが、勿論過去は戻らないから、前へ進むことで解決すべき課題ととらえ、自分の生活環境に合った範囲で夢を少しでも叶えることとしました。(自分自身への宣言でもあります)退職直前に関西自然学校にて自然環境を学ぶ機会があり、ここでの学習から私は樹木への関心を強め、以降、樹木観察インストラクターを目指す活動に生活の軸を展開してまいりました。
 樹木でも、現在も数百年~千年間を生き続けている巨木や巨樹と出会い胸打つ感動や、畏敬の念から巨木に特化した普及活動を手掛けることとし、ボランティア事業の立ち上げを行い今に至っている次第です。
 目下、奈良県の巨木調査、市民や児童を対象の観察会、奈良春日山原始林をまもる作業、巨木案内ツアーや小冊子の発行など、日々これらの対応にバタバタした時間を過ごしておりますが、いつの日か日本中の巨木を訪れて紀行文などを制作できれば、一度きりの人生としても、まずまず良しとすべしでしょうか。


「グリーンあすなら 巨樹巨木の会」のサイトをご覧ください。
  http://www.kyoboku.jp/

 

 


 

3. 石垣 英明 さん (11月14日生まれ)

日ロ合弁会社ボストークテレコムの思い出


 ロシアの極東地域の通信事情を改善するため、ウラジオストクに設立された日ロ合弁会社の立ち上げ、地球局の建設等の現地工事そしてボストークテレコム(極東通信会社)の事業運営の3年間は,私にとって、人生の宝物になっています。
 極寒の時期に地球局と国際交換施設の建設工事を行い、1993年1月8日開通試験、そして1月15日直通国際電話18回線のサービスインを行った感激は、22年たったいまも鮮明に記憶に残っている。小さい社屋の社長室で、故ゼーマー社長と机をならべて事業運営について話し合った日々、アパートで一人住まいをした日々、アメリカ、韓国との直通回線、国際テレビジョン伝送サービスを開始するため、毎日のように地球局に出向きロシア人スタッフを指導したこと、ハバロフスク、ユージノサハリン、イルクーツクを訪問し、交換局の回線運用を指導したこと等、苦しくもあり、楽しくもあり、我が人生の中で最も充実した3年間だった。
 Happy Birthdayの思い出は、ボストークテレコムでは、社員の誕生月にみんなでお祝いをします。ある日、女性社員から声をかけられ、これから誕生日パーティをしますから出てくださいといわれ、食堂にでむくと、十五・六人のロシア人が大きなケーキを囲んで集まっていました。社長がお祝いの言葉を述べてプレゼントを渡し、花束を贈呈いたします。従業員を大切にしている会社だなと思いました。当初は50人たらずの会社で、非常に結束が強く、アットホームで和気あいあいとした会社でした。KDDからボストークテレコムのサポートのため、私のほかに関根勝昭さんと藤田徹さんが派遣されました。言葉の壁はあったものの、すぐにロシア人スタッフと仲良くなりました。

 今でも、ロシア人との親交があります。フェイスブックでメッセージを交換しています。2012年6月30日、ボストークテレコム創立20周年のBirthday Partyに招待されました。斎藤正範さん、関根勝昭さん、鈴木常春さん、金澤政和さんと私の計5人がウラジオストクを訪問しました。ロマン社長はじめロシア人スタッフから熱烈歓迎をうけました。設立時の仲間のビデオスピーチを流し百万本のバラのロシア民謡をうたいました。社長が功労のあったスタッフに記念品を手渡ししていたのが印象的でした。歌あり踊りあり数々の趣向をこらしたパーティで一生の思い出となる一日でした。写真は、パーティで故ゼーマ社長夫人と一緒に撮ったものです。

 

Happy Birthday (2015年10月掲載)

Happy Birthday !


10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
   舘野 孝 さん、太田 忠一 さん、 玉木 久光さん、武田 伸子 さん

 

 

1. 舘野 孝 さん (10月2日生まれ)

近況報告


 1997年9月に退社し、カナダ横断旅行をしている時にカナダに住むかな、と考えていたところ、急に北海道を思い出し、若い頃2度ほどスキーに行ったニセコに土地を購入。2000年4月に移住して15年半経過しました。1年目に家造りを行い、2年目に転職希望だった大工さんの見習いになりアルバイト。勤めだした3ヶ月後飲み過ぎか多忙かで身体を壊し3週間ほど入院。
 冬のニセコしか知らずに来て、春、夏、秋も素晴らしいことに気付き、団塊の世代を呼び込もうとして、2002年不動産屋を興し現在に至っています。団塊の世代は移住してきませんでしたが、その代わりパウダースノーに憧れ外国人が移住してきています。 通信業から未知の不動産業に転身しましたが今思うと怖いもの知らずでした。

 ニセコ町の人口は5000人弱です。隣町倶知安町のヒラフ地区を併せてニセコと呼んでいます。ヒラフ地区 は冬には公用語が英語になり、スキーヤー・ボーダーの80%以上は外国人でまさに異国で、海外のスキー場に行った気分です。夏には自転車が流行っています。
 ニセコは自然環境が素晴らしいところです。空気と水が美味しいし四季の移り変わりが刺激的でもあり魅力的です。スキーは勿論、ラフティング、ゴルフ、登山、フィッシング等、アウトドア・スポーツは何でも出来ます。多種多様な温泉も豊富です。会社時代には野球をやっておりましたが未だソフトボールをしています。 テニスの回数は減りました。年に1回羊蹄山を登っています。

スキーもシーズンでコンディションの良い日を選び15日ほど滑っています。ゴルフは半年で40ラウンド前後します。スキー場、ゴルフ場まで20分以内で恵まれています。 ニセコに来たら是非お立ち寄り下さい。
(元東報局、名古屋営業所、研修センター等)

 

 

 

 


 

2. 太田 忠一 さん (10月3日生まれ)

電信切手


 郵便切手を集めて60年、電信切手に興味を持って50年がたった。電信切手を集めているというと、切手収集家でも「それなに?」という返答が返ってくることがほとんどなので、一般の人には電信切手は全く認知されていないと思う。

 電信切手は電報料金の前納用に使用されたもので、ほとんどが19世紀の先進国で使用された。その使用はたかだか10年程度でその後は郵便切手が使用された。 日本でも明治時代に3年間ほど使用されている。図の切手は日本の電信切手で1銭から1円まで10種類ある。明治18年(1885年)7月に当時電信を所管していた工部省から発行され、約3年間使用された。その後は逓信省ができたこともあり、郵便切手が使用された。全世界で発行された電信切手は約3000種で、数十万種以上発行された郵便切手に比較すると極端に少ない。
 郵便では、郵便切手は封筒などに貼られ、そのまま受取人に届くのに反して、電報では、電信切手は電報の頼信紙に貼られ、発信人の電報局にとどまり、電文だけが電気信号で受信側に送信される。受信側の電報局からは受信人に送達紙が届くだけである。 今日使用済みの電信切手が我々の手に入るのは電報局から電信切手の払い下げがあるからである。

 当初は仕事の関連から、電気通信関係の郵便切手を中心に集めていた。電信切手に本格的に取り組むきっかけになったのは5年ほど前に地元の郵趣会での電信切手の講演依頼である。各国最低1枚の電信切手の現物を目標に世界各国の電信切手をリスト付きで紹介することにした。カタログと首っ引きで作業を始めたが、整理してみると必要な切手が足りないことがわかった。ネットオークションや欧米の切手商のオークションに入札し、入手した。その後も特にイギリスの電信切手を中心に集め続けた。国内の競争展にも出品し、上位入賞を果たした。

 今回縁あってイギリスの国内切手展展(STAMPEX 2015)に出品した。会期は2月17日(火)から21日(土)までロンドンで開催された。作品は「イギリス帝国の電信切手」で80ページ(5フレーム)に及ぶもので、郵送するのは問題があったので自分で持参し、展示して持ち帰った。そのためロンドン滞在は前後に余裕を見て9日間となった。幸い大金銀賞をいただいた。写真は出品作品の前での筆者である。会期中はほとんどイギリスの友人と一緒で、ロンドン在住の電信切手のコレクターのお宅を訪問したり、大英図書館の電信切手のコレクションを見たりした。オークショナーの店で電信切手のオークションの下見にも付き合った。ロンドンには9日間滞在したが、切手展関係のイベントもあり、いわゆる観光スポットにはほとんど行く時間がなかった。それでも訪英の目的は十分果たされたと思っている。なお、イギリスの切手展に出品した作品は、次のウェブサイトで見ることができます。

http://1drv.ms/1urfISF

 

 


 

3. 玉木 久光 さん (10月22日生まれ)

万事不如意


 会員の皆様お元気で毎日を送っておいでの事と存じます。今月は私の誕生月で、近況を書くようにご依頼をうけました。平素お世話ばかりになっていますので、せめてもの償いに快くおうけしました。この十月で私は92歳になります。2年前に卒壽を迎え、人生の卒業を晴れがましく思ったものでした。私に近い会員の皆さんは前代未聞の敗戦を経験し、皆夫々に苦難の歴史が詰まった経験をしたものです。
 10年位前当時大学生であった孫に余り話したくもないその頃のことを話しました所、是非もっと詳しく教えてくれと頼まれました。生来の不精でほったらかしにしておりましたが、卒壽を迎えおぼろげな記憶を思い出しながら、「生い立ちの記」「私のシベリア抑留記」を書き終えました。息子が製本をしてくれヤット肩の荷を下ろしました。 会社時代は大勢の皆さんに支えられ大過なく過ごす事ができました。中でもおもいでに残るのは、沢山の新入社員を迎えて、沢山の独身寮を造らされた事や企業年金規定など知識も経験も無い仕事をしたことでした。成立の過程では私だけが知る難しい事や、書き残すことのできない嫌なこともありましたが、其のことは墓場まで持っていくことにしています。

 80歳を過ぎた頃からは、万事不如意となりましたが、ことに帯状疱疹と脊椎管狭窄症を患い、いまだに、その後遺症に悩まされております。周囲の皆さんの善意に支えられながら、半人前ですが残りの人生を送って参りたいと思っています。この際少しでも恩がえしをしようと近くの老人ホームでの、デイサービスの方々に、ボランティアとして書道教室を月4回、手本を書き一緒に楽しいひと時を過ごしております。始めてから3年以上経ちましたので、この辺が引き所かなと、内々考えていますが、皆さんが、辞めないで下さいと懇願され、今少し頑張ってやりたいとおもっています。『権勢に依阿する者は満古に寂寥たり』を信条として生きてきましたが顧みて心の痛む思いもします。地震、水害と天災が続いていますが、会員の皆様のご健勝をお祈りして駄文をおわります

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:

 

玉木氏の記事を拝見して

堀 忠彦 2015/10/10 22:26:09     


 久し振りに、ホームページを開いて見た。10月は私の誕生月なので、誕生月の方の投稿を見たら、小野受信所時代お世話になつた玉木氏の記事を拝見、私も一言書いてみました。
 小野から大信調,支社、昭和50年JICAえ出向イランへ2年派遣され、帰国後大阪支社・大回統局と回り、昭和60年定年退職、以後趣味に生きる事とし、漆工芸を5年間山下正峰氏に師事して塗り・螺鈿・蒔絵と漆工芸全般の技法を習得、日本全国の主漆器産地を見て回り、各地の塗りの技法を研鑽、平成7年漆遊会を主宰、芦屋・吹田で教室を開き、漆工芸を教えた。今も芦屋の教室は続けている。
 そのほかゴルフも東条湖CCの福寿会(シニアーの会)月1回はプレイしている。
 車は55年間無事故、そのほかカラオケ・料理教室にも夫々20年間通った。
 定年後65歳の時心臓バイパス手術、74歳の時前立腺癌の手術と大病をしたが、長壽の家系、{私の父は94歳5代前の亀次郎は慶応3年86歳}のお蔭で長生きしている。 長生きの秘訣は時々聞かれるが、私は煙草は吸わない・酒は飲まない・6時起床11時就寝と規則正しい生活、食事にも注意し何でも食べる.歯も自分の歯、寝る前に歯間ブラシも使用して十分手入れ。
 夕方20分のダンベル体操、週2~3回の棒振り(庭にネツトが張ってある)を行っている。

以上    

1925年10月17日生れ 卒寿 堀 忠彦    

 

※ 堀さんの一言は「会員の声」のページにも掲載しております。

 

 


 

4. 武田 伸子さん (10月23日生まれ)

職場と私


◆こども時代

タヌキ囃子伝説の証城寺、歌舞伎の「お富・与三郎」の舞台の浜、漁師と芸者の港町。今では、潮干狩りと海苔の千葉県木更津市で、1944年に兄二人・姉二人の末っ子として生まれました。 旧姓は大日方。パラリンピック長野大会でのアルペン(チェア)スキーの金メダリスト大日方邦子さんと同じで、「おびなた」と読みます。 三代続く、内科医でクリスチャンの家庭です。正義感が強く、気も強い。弱い者いじめの男の子を丸太でぶん殴るなど、男まさりでした。伸「子」は、のぶ「こ」ではなく、のぶ「し」と読む、といわれたほどです。「謝りに行きなさい」と言われても、「私はわるくないもん」と強情を張り、いじめっ子の家に謝りに行くのは、いつも母代わりの姉。 母が病弱のため、長姉が母代わりだったのです。お祭り好き。 飼育にはすぐ飽きるくせに、動物好き。手仕事には興味津々、大工など職人さんの仕事ぶりをじっと見て飽きない子供でした。地元で高校を終え、青山学院へ進学しました。


◆ KDD生活

NHKのアナウンサーに憧れていました。港町育ちのせいか、「語気」が強すぎといわれ、諦めました。親は教員を勧めましたが、縁あってKDDの電話オペレーターに採用されました。大手町ビルでスタートし、KDDビルで終えた、輪番勤務。母の日・クリスマスの繁忙、夜食、モーニング、お茶、歓送迎会、忘年会、お正月の箱根駅伝、おりおりのレク行事、研修、などなど。そのころの写真をみるたびに、よき仲間・先輩・後輩に囲まれて過ごせた職場の日々がはっきりとよみがえってきます。育児休職や特別勤務の制度に後押しされ、自分にぴったりの仕事30年。ほんとうに幸運だったとしみじみ思います。


◆近況

昨年、命拾いをしました。お寺での集まりの後片付けでのこと。重い座卓を持ち上げたとき、畳の上ですべり、ころんで座卓の縁に喉を打ち付けました。次の日、息苦しさがひどくなり、急遽、気管切開手術を受け、10日ほど入院しました。運よく、一命はとりとめましたが、一年たった今なお、声帯に障害が残り、大きな声、高い声が出ず、困ることがあります。もともと難聴気味のところへ、声の劣化ですから、得意だった電話での受け答えが苦手になりました。お風呂で歌ったりして声帯のリハビリに努めています。


 転倒防止のためだけでなく、筋肉は免疫のもと。健康には大切なものと知り、30分間のストレッチと筋力トレーニングのプログラムに参加しています。おかげで、飛距離は短くなりましたが、好きなゴルフも続けられています。雑種ネコ3匹の面倒をみながら、ときおり、日帰りバス旅行に参加し、シャンソン・コンサート、演劇、落語などを聴きに出かけます。家事の合間の息抜きに、草木の手入れをし、テレビのスポーツ番組やドラマ(刑事もの)を見ています。
 習い事は、グラスリッツェン。ガラスの表面を専用の針で削り、模様を描いていくのです。昨年はじめて作品を出展しました。ここ3年で、五人兄弟姉妹が二人に減り、母代わりの姉も逝ってしまいました。さびしくなりましたが、やむをえないこと。私はとりとめた命を大切に、生きていこうと思っています。

 

 

Happy Birthday (2015年9月掲載)

Happy Birthday !


9月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
   坂本 令子 さん、大場 一則 さん、北田 勲 さん

 

 

1. 坂本 令子 さん (9月7日生まれ)

私の一週間


 私はKDDが合併する直前の8月末、早期退職しました。あれから15年。退職後はどんなに暇になってしまうだろうかと、少し不安でしたが思いの外楽しく過ごしています。趣味のこと等、日々の過ごし方をご紹介したいと思います。 


★月曜日の午前は月2回、マンションの集会室で「英語」の勉強会。英語の先生をされていた方を中心に、英語の本を読んでいます。ついおしゃべりに花が咲き、勉強時間は2/3位ですが。今は「赤毛のアン」を読んでいます。

 

★月曜日の午後は、毎週「コーラス」。明るく楽しい先生を中心に、近くの公共施設で行っています。年1回の発表会があり今年は金子みすゞの詩による歌曲などを練習しています。練習後は自由参加でテイータイムがあり、先生と生徒のコミュニケーションの場となっています。平均年齢は60代後半、歌声は30代です。

 

★水曜日の午前はボランテア。高齢者施設の書道クラブで、書道をされている方々のそばで、道具の準備、後片付けなどなんでも。時々お喋りもでき、先輩の皆様から人生も学べます。この施設はコーラス、カラオケ、生花、園芸、映写会、麻雀などの7クラブ活動の他に、月一回のランチ、年一回の温泉旅行でお出かけの機会もあります。

 

★水曜日の夜は「バレエ&ストレッチ」。バーレッスン・ストレッチ・フロアレッスンから成り、正しい姿勢を保つのに最適です。正しい姿勢はからだに負担をかけず、健康に良いそうです。音楽に合わせて身体を動かすことが出来、優雅なひと時です。

 

★金曜日は月2回、国立市のキルト教室に通っています。手先を使うのでボケ防止になるでしょうか?。色彩・柄の組み合わせ方で作品の印象が大きく変わってきます。 楽しくもあり難しくもあり、いつも宿題に追われています。


 この他に年1~2回、海外旅行・国内旅行・スキー・ハイキングを楽しんでいます。今年の春は中欧五か国の旅を楽しんできました。今後もk-unet会員の皆様からの情報や企画への参加を楽しみに、一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。

 

 


 

2. 大場 一則 さん (9月15日生まれ)

初めての海外生活・旅行


 初めての海外生活・旅行について書いてみたい。
 初めて海外に出たのは32年前、1983年の4月初め、青年海外協力隊で西アフリカ、ガーナ国に行ったのが初めてであった。それまで、海外には全く関心が無く、海外旅行にも特に行きたいと思うことは無かった。当時茨城衛星通信所に勤務しており、JICAの衛星通信技術コースの講師を務めていたので外国人と接する機会は多かったがどちらかといえば仕事とスポーツに夢中だったことを覚えている。ガーナ国に行くきっかけについてはここでは省略するが、海外にとりたてて行きたかったわけでは無かった。
 ここでは海外生活・旅行の話であるので続ける。さて、ガーナ国にて一年過ごした後、一か月の休暇旅行がもらえることになり、どこに行こうかと考えたところ、周辺の国かまたはイギリスに行っても良いことがわかり、休暇旅行としてイギリスを選ぶことにした。(周辺の国はフランス領だったので言葉も気になった)

 イギリスを選ぶにあたり、せっかくだからグーンヒリー地球局を訪問し、ガーナ地球局の送信キャリアーを実際に観察できないかと考えた。茨城地球局からガーナ地球局にボランティアで技術指導にいった者としてガーナ地球局は驚嘆といえる惨状であった。 ガーナ地球局は茨城地球局とは大違いで、多くの通信設備が故障しており技術指導は名ばかりで設備の修理に追われた。(LNA(注1)の電子冷却素子を交換したのを覚えている。茨城局のNEC製は密封してあるが、現地の米国製は密封してなかった)また運用もあやうい運用をしており、ESC(注2)は故障しており、マニュアルでIOC(注3)、他局とTTY(注4)の接続方法を考えたりした。また、電源事情も悪く、しばしば、停電があり、運用が中断することもあった。地球局への交通手段は車での送り迎えがあったが、時々ガソリンが無く地球局にいけないこともあった。さらに付け加えると、当時、発電所の有るアコソンボダムの貯水量の減少が続いておりアクラ(ガーナの首都)市内の計画停電が始まった。生活においても私の住んでいたアパート周辺も含まれており、夜8時以降電気が止まった。そのため、冷蔵庫もあったが、ほとんど役に立たなかった。ろうそくも品が少ないので9時にはベッドに入ることもあった。

 話をイギリス旅行に進める、イギリス休暇旅行は往復の航空券のみアクラで購入した。 後は、ロンドン到着後考えることにした。イギリス休暇旅行が初まった。 何も考えずロンドン到着後、早速ツーリストインフォメーションセンターを訪れ宿を予約した。金はあったが、節約するために主にB&Bを利用した。宿を確保後、KDDロンドン事務所を訪れ、グーンヒリー地球局見学申込みをしてもらった。 グーンヒリー局から連絡が有り見学できることになった。(事務所に事前連絡もせず行くことは当時無謀だったと思う)翌日、列車でHelstonに向かいグーンヒリー局を訪れた。周辺はほんとに田舎で田園風景が広がっておりきれいな景色であった。局では設備見学、ESCで茨城局に連絡したり、スペアナでガーナ局の受信キャリァーを見せてもらったりした。ガーナ局の送信キャリアーは想像していた通り、送信スペクトラムが不安定なことが確認できたのを覚えている。見学終了後、ホテルに行く。グーンヒリー局の近くに泊まったホテルはこぢんまりとした小さなホテルだったが、部屋はきれいで料金は安く、とても快適に過ごせた。 翌日ランドエンドまで足を延ばし英国の西の果てを見た。
 一足とびにロンドンに戻り、今度は北に向かうことにした。 列車でスコットランドまで行き、ヱジンバラを訪れた。当時日本人は珍しかったのだろうか車内でチケットチェックのとき、どこに行くのか日本人かと尋ねられた。スコットランドに着いて、ホテルを探し予約し、ネッシーで有名なネス湖を見たり、エジンバラのゴルフショップでセーターを購入した。そのセーターは30年以上経過した今でも着ることができる。

 その後、湖水地方を見たりしてロンドンに戻ってきた。当時西も北の地方も出会う人が少なく、街を歩いていてもあまり人に会わずとても静かだったことを覚えている。 ロンドンに戻り、しばらく滞在し大英博物館・美術館等を見て回った。宿は、地方とロンドンではB&Bを利用したが、地方では6~8ポンドで朝食付きの良質の部屋と調度品も良いイギリスの家に泊まれとても良かった。ロンドンのB&Bは値段が高く15ポンド位したが部屋もそまつであまり良くなかった。若かったし、ガーナでの生活に比較したらイギリスのB&B等でも天国であった。快適な旅行だった。
 休暇旅行も終わりに近づき、イギリス滞在に未練を覚えた。このままロンドンにいたかった。ガーナに戻るためガトイック空港でチェックインし、飛行機に乗り込むと周りは黒人だらけ、東洋人は私一人であった。日本から遠く離れた場所にいることをひしひしと感じたが寂しさを感じることより見知らぬ世界での生活に夢中だった。
 遠い昔の海外生活・旅行について書いてみましたがいかがでしょうか、振り返れば今まで語ることが無かった経験談です。遠い昔の話ですが若いときは無謀と思えるような行動をしたものですがとても懐かしい思い出です。
 

(注1) LNA : Low Noise Amplifier (低雑音増幅器)
(注2) ESC : Engineering Service Circuit (技術連絡用回線)
(注3) IOC : INTELSAT Operation Center (インテルサット運用センター)
(注4) TTY : Teletype (技術連絡用テレタイプ)

 

 


 

3. 北田 勲 さん (9月24日生まれ

古希を迎えて

 

 皆さん、こんにちは今月で古希を迎えます。人生70年を振り返ってみました。

◆子供の頃から電気いじりが好きで無線に興味を持ち、1964年に運良くKDDに入社。東京オリンピック開催、新幹線開業、TPC-1開通と心に残る年に入社できたことは幸運であった。
小山送信所に配属となり、送信所の運用・保守に携わりいろいろなことを経験させて頂いた。就業後には、「全国テニス大会に出場しよう!」を合言葉にテニスに没頭した青春時代を懐かしく思いだす。

◆東京へ来てからは、データ通信設備の建設・運用・保守を担当した。現在ではパケット通信という言葉は小さい子供でも知っているが、40年前にはこの様に身近になるとは誰も思ってもいなかったのではないだろうか?

◆研究所管理課・小山国際通信センター・KDD-NSで電力設備の管理業務を担当した。 この経験がKDD退職後大いに役立っている。現在は、「公益社団法人東京電気管理技術者協会」に所属し、個人事業主として電気管理事務所を開設して、太陽光発電設備及び中小ビル・工場・学校等の高圧受電設備の保安管理業務を受託し、毎月お客様の施設を訪問し、点検している。自営なので自分の裁量で決めることができ、楽しみながら仕事ができるのはありがたい。
 遠い所では、九十九里近くまで行き、竹馬の友が営む工場の設備を点検した後いろいろ話が弾む。協会会員の多くは強電の経験者が多いが、最近ではIT技術や通信技術も求められ、KDDで培った技術も役に立っている。3.11震災以降、再生可能エネルギーの普及が目覚ましく、発電出力が1,000KW以上となる大規模太陽光発電施設の「メガソーラ」の管理業務も受託している。 無人の施設なので遠隔監視制御装置が必須となり、KDDでの無線中継所や海底線中継所等の監視技術が役に立っている。
 電力経験者、電気管理技術者のKDDOB仲間も増え10名超になった。暑気払いと忘年会で情報交換を行っている。 昨年は北海道へ研修旅行に出かけ、函館山、五稜郭公園を回り間もなく開通する北海道新幹線工事の現場も視察した。健康第一に好きな仕事で生涯現役を貫きたい。

 

Happy Birthday (2015年8月掲載)

Happy Birthday !


8月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
   肥田 俊 さん、 小川 明 さん、杉原 裕俊 さん
   佐藤 軍吉 さん、堀井 勉 さん

 

 

1. 肥田  俊 さん (8月7日生まれ)

KDD時代の苦い思い出とその後


 給料に見合った仕事が出来ない不甲斐なさと併せ悠々自適の生活を夢見て、平成9年7月、56歳の手前でKDDを退職、電気通信業界に身を置いた証として執筆した専門書に添えた挨拶状か早期退社の挨拶状か忘れたが「種々の重要なプロジェクトに参画する機会を得て、得難い経験をさせて頂いた反面、世話になった皆様の期待に十分応えたと言い難いと思いますが、常に自分に正直に生きた人生だったと自負している」と記したのを見て、一部先輩から「お前は宮使い向きではないな」と言われたのを今回の執筆の依頼を受け、改めて思い出しました。

 まず、それに纏わる苦い経験を二つ紹介してKDD時代の思い出とさせて頂きます。
 一つ目は本社で数的に一番大きな課の課長を拝命した直後の身上調書、会社の事を思って書いた一節が人事部ないし上司に十分理解されず、課長職を解かれ技術本流から傍流、さらに業務傍流と一度も復権することなく転々と渡り歩いた事。
 二つ目はその業務畑で「札束をどぶに捨てるような」(と当時言われた)職場に配属された時代、周りが定年近く無事退職を迎えたいと言う管理者が多かったことも手伝い、誰も異議を唱えない中、只一人不正に無言の抵抗をし、職場全体からいびりの対象になり筆舌に尽くし難い苦労しながら、部外者の精神的応援を頂き耐え抜いた事。今では時効では有るが、仕事に行こうと家を出たものの足が新宿に向かずUターンして家に帰った事も! いずれも自己責任で有るが、二つ目は忘れがたい事例でもある。

 早期退職の理由としの一つ「脱サラと田舎暮らしによる悠々自適な生活」があるが、栃木県の片田舎にセカンドハウスの居を構えるも趣味が少ない人間にとって「毎日サンディ」は辛く、転身準備休暇を利用して執筆した専門書をもとに高専の講師をやる傍ら、造園、社会保険労務士、はたまた今はやりの「ウエアラブル端末」の権威者である大学教授と結託して起業にも挑戦、経済的に恵まれたKDD時代の蓄えが有ったからこそ出来た、男のロマンを追い求めた時代でもあった。
 60歳過ぎて仲間づくりのため地元のいきがい(老人)大学に入学、卒業後もその校友会の世話役(会長)として10年、とても趣味とは言えないかも知れないが、絵画、コーラス、ハイキング、グラウンドゴルフ等を通して大勢の仲間を得る一方、地元の皆さんと囲碁、陶芸と忙しく過ごしている。

 70歳を過ぎた現在は、以前から行っていた小中学生を対象とした科学ものづくりのボランティアに加え、地元中学校の業務員(昔で言う小遣いさん)として、若い先生、生徒からエネルギーを貰いながら、"You can get pocket money without any stress!"(納会の余興としての英語の挨拶から)と気楽な余生を送っている。

(原稿を書き終えて)
 今回、事務局から投稿の依頼を受け、「いろいろお世話になった方も大勢いますが、『不遇のKDD時代を送った身』として少々愚痴も入る投稿になるかも知れませんが」と言って受諾したが、原稿を読み返すとやはり愚痴ぽいなと感じた次第。 これも自分らしいところなのでご容赦を!

 

 


 

2. 小川  明 さん (8月15日生まれ)

父のこと

 

 私の誕生日は8月15日で、終戦記念日と同じです。
 1945年8月15日は私の8歳の誕生日でした。 その日の昼に天皇陛下の放送があるとのことで、父とラジオを聴いていました。そうしたら、父は日本が負けたので、その旨隣組に知らせてこいと母に言いました。というのは、うちのラジオは米国RCA製の高周波1段付スーパーで比較的高感度明瞭に聞き取り易かったからです。 当時私達家族は京都市伏見区に住んでいて、父は宇治の近くの大久保というところの飛行場で練習機の設計制作に携わっていました。
 当時京都は爆撃を受けず、比較的のんびりしていました。もっとも学校の帰りに機銃掃射を受けて、肝を冷やしたことをおぼえています。 また食料が不足して、芋の葉っぱや茎で作った団子ばかりを食べていました。戦時中の生活は言い出せばきりがないほどいろいろありますが、ここではやめておきます。
 父は殆ど時を移さず、出身地の名古屋に戻り、愛知高専機械工学科の教授になりました。もともと名古屋高専の教授だったのですが、戦争が始まって、飛行機作りに変わりました 多分給料が高かったのではないかと思います。物資不足で制作が思うにまかせなかったようで、結果として特攻隊員増加につながったかしらと想像しています。どうせやるなら名古屋でゼロ戦でも作った方がよかったのにと思いましたが、真相は聞かずじまいでした。 家族は、父が帰名してから数か月後に東海道線の有蓋貨車に乗って、東山と逢坂山の長いトンネルを煙にむせびながら通過し、やっとの思いで名古屋にたどり着きました。 そして、そこで焼け野原を見て仰天しました。
 名古屋では、中村区稲葉地というところで2階を間借した生活で、母は大変苦労したようです。 父は学生に機械工学を教えるより、学生達と畑仕事で、収穫物を抱えて帰宅するのが日常でした。 その後、私が中学生になったとき、千種区にある県営アパートに移ることができ、狭いながらもやっと人並みの生活ができるようになりました。 この頃から朝鮮戦争が始まり、その特需で生活レベルが上がり、朝鮮戦争が終った中学卒業の頃には、貧乏から少し抜け出たかなという気がしました。 韓国のお蔭ですね。 父も正常に教育をするようになりました。
 通っていた中学が愛知高専の一部を借りていて、授業をさぼって友達と遊んでいたら、そばの教室で父が講義をしているのが見えて驚いたことがありました。 なお、愛知高専は、名古屋高専と合併して、名古屋工業大学となり、父はそこの機械工学科教授になりました。 驚いたことといえば、KDDの研究所に勤めるようになって或る時、榎本さん(後の東工大教授、故人)から父の書いた機械設計の本を高専時代に教科書で使ったといわれたことです。 どうして私の父であることがわかったのでしょうか。 その本は上下2巻からなり、20年以上出版され続けたもので、私が見ても実例に富んでわかりやすい本と思いました。 父は図面を描くのが得意で、その本にある設計図面を全て自分で描いたとのことです。
 父は、私に勉強を教えたり、強いたりはしませんでしたが、1度大学教養時に図学の宿題があり、ばねの図を描いていたら、何と下手くそだと言って、あれこれ文句を付けられました。 そのため、専門課程では父が期待していた機械工学には進学しないで、電気工学に進むことにしました。 そして新しい所で生活したいとの気持ちもあって、名古屋に職場のないところとしてKDDを選びました。 親不孝者でした。

 最後に、父は写真や絵に趣味があり、若い頃からよく軍艦の絵を描いていました。 そこで、その1枚をここに載せさせて頂きます。

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:


軍 艦 名


町田 香子 2015/08/24 19:53:40    

小川さん
町田です。
「ハッピーバースデーのお便り」拝読しました。
お父様がお描きになった絵の軍艦名は、ご存知でしょうか。
去年、亡くなった私の父が、昔 海軍経理学校で軍艦に乗っていたようです。
軍艦「伊勢」の話しは聞いたことがあります。軍艦「武蔵」や「大和」に乗っていた知人もいたようです。もし、描かれた軍艦名がわかりましたら、父の同期で91歳のお元気な方もおられますので聞いてみたいと思います。
町田 香子

:-:+:-:+  小川さんからの返信 +:-:+:-:



Re: 軍艦名  小川 明  2015/08/27 11:32:13

町田さん
コメント有難うございました。
絵の軍艦名は残念ながらわかりません。 ただ、艦の形から戦艦ではなくて巡洋艦のようです。 他にも巡洋艦の絵を描いていましたので。

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:



軍 艦 名


樫村 慶一 2015/09/01 22:11:16     


 誕生日のメッセージ8月生まれの中に、小川明さんの投稿で、軍艦名が知りたいというのがありました。それに対して、町田香子さんが回答しています。これらについて私の知るところを申し上げます。

 この絵の軍艦は、日露戦争のときの東郷平八郎元帥が率いた連合艦隊の威風堂々たる威容です。最後尾の軍艦ですが、マストの間に2本煙突は、旗艦戦艦、三笠、戦艦富士。戦艦朝日、装甲巡洋艦、常盤、浅間などでしょう。煙突の煙の向きや、船の形態からみて艦隊は絵の左に進んでいます。つまり北に向かっているわけで、最後尾は三笠だと思います。
 この状態は、連合艦隊が有名は”敵前回頭”をしているところと思われます。つまり、通常の進行ではこの絵の最後尾は先頭になっているわけで、其の場合の最後尾は、アルゼンチンが供与してくれた装甲巡洋艦「リバダビア」で日本に来て春日と命名されました。しかし春日はマストが1本で両側に煙突がありますすから春日ではありません。これらの状況から推測して、この軍艦は、恐らく旗艦三笠だと思われます。

 絵にするには、はっぱり、有名な状況をモデルにするのが普通ですから、意味のない状態の絵ではないと思います。マストの人カ型ですが、これはマストを支えるロープを太く書いたものでしょう。余談ですが、このときに先頭になった春日は集中砲火を浴びて、大分やられました。この辺のことは私のホームページ 「ラテン・アメリカと私」をキーワードにしてグーグルででも検索してみて下さい。開いた目次の中の「春日のピアノ」の中に色々書いてあります。
 

 


 

3. 杉原 裕俊 さん (8月19日生まれ)

 57歳で早期退職して以来、15年になります。愛知県の郷里で天候に左右されながら有機農業の日々を送っています。その傍ら町内会・自主防災会での担務、地元神社の氏子総代また市役所の環境インストラクターなどを務め、市民の方々のエコ活動を応援し、その普及を図っています。そんなこともありまして私自身、自然エネルギー(ソーラーエネルギー・バイオマスエネルギー)を利用し、その自給率は、年により異なりますが年間150%前後を推移しています。 さて、エコ・エネルギーのことは、別の機会に譲るこことして、今回は、会員の皆様方にも関心をお持ちの方もいらっしゃるのではないかと思い「ガンの予防と再発・転移を防ぐ」をテーマに私の経験から記させていただくこととしまた。
 今から6年ほど前になりますが、毎年受けている自治体のガン検診で胃にガン細胞が見つかりました。幸い発見が早くステージ1にも満たないものでした。 主治医として担当されるDrに「EMRで取りますか?ESDで取りますか?」と訊ねますと[ESDで取ります。]そして「先生のESDの実績は?」と尋ねますと「年間40件ほどです。」との答えが返ってきましたので即刻お願いしました。

(注)ESDはとは、内視鏡での電気メスによる粘膜剥離手術です。また、EMRは高周波電流を流した金属の「輪っか」で切り採る内視鏡手術で、大腸ポリープなどの除去ではこれが用いられることがあります。

 手術中は、めったに無い機会でもあり、ずっとモニター画面を見ていようと思っていましたが、点滴液の中に睡眠剤を入れられ不覚にも眠ってしまい、その過程を見ることは叶いませんでした。「杉原さん、終わりましたよ。」の声で眠りから覚めました。 私のガン体質改善は、このガン細胞が見つかった、まさにその日から直ちに始まりました。一連の経験から良い勉強をさせていただいたと思い、一人でも多くの方々にお話していくことが私の務めだと解釈し、「ガンと正しく向き合うための11ヶ条」を書き、いろいろな機会を通してお話し、私の思いをお伝えすることが、新たな仕事に加わりました。

ちょっとひと言・・・(ガンと正しく向き合うための11ヶ条について)

1 ここでの大切なことは、毎日、数千個も生まれているというガン細胞を消滅させるために、ひとり一人の免疫細胞を活性化させ、併せてDNAの修復・細胞の抗酸化・有害物質の解毒を図ることです。そのための項目を記しています。

2 トランス脂肪酸については、この6月、米国のFDAが健康リスクを理由に使用禁止を発表しましたので、記憶に新しい方もいらっしゃるかと思います。

3 ゲルソン・ジュース。ドイツの医学者マックス・ゲルソン博士が提唱するガン対策野菜ジュースです。その用法は本来極めて厳格なものですが日本では、日常手に入れられる食材で組み直されています。目的は免疫細胞をバックアップするために必要な栄養素と「生きた酵素」を摂るためです。それ故、出来上がった野菜ジュースは、その場で飲まれるようお勧めします。予防には目安として、400ミリリットルを1日3回、治療時には同量を5回飲用するとされています。

4 ほうれん草は、有用な野菜ですがシュウ酸があり生食はお勧めできません。湯掻いて、シュウ酸を湯に溶かし、カルシウムと一緒に摂ることでシュウ酸の害を抑制できます。「鰹節」や「ジャコ」を載せた「お浸し」は、その意味で極めて理にかなっていると言えましょう。先人の知恵に驚くばかりです。

5 ヨーグルトは、無脂肪のプレーンヨーグルトをお勧めします。私は、温度と時間を任意に設定できるヨーグルトメーカーで自家製の豆乳ヨーグルトを作り食しています。

6 身体の修復は「成長ホルモン」により睡眠中に行われます。よって深い睡眠が求められます。

7 第11条はメンタル面から免疫細胞を活性化しようというのが目的です。

8 最近、女性の大腸ガンが増加しています。肉類や脂肪を摂ると、消化のため胆のうから胆汁が分泌されることは皆様方ご承知のとおりです。この胆汁が便秘などで腸内に滞留し酸化しますと二次胆汁酸となり、発がん性を帯びることとなります。食物繊維を十分に摂り腸管活動を活発にして便秘の解消に努めましょう。免疫力の向上にもつながります。

9 免疫力低下の原因は、主として、ストレスや食生活の不摂生、粘液(唾液や鼻水)の低下、腸内環境の悪化などです。 より良い生活習慣を心がけましょう。


 森羅万象、宇宙の果てのそのまた果てまで、すべての事象・物事には「道理」があります。それを無視しては、全ての事柄は前には進みません。
  今後も多少なりとも意義ある道を歩いて行きたいと思っています。

ガンと正しく向き合うための11ヶ条

(ガンの予防と・再発・転移を防ぐ)


 癌は生活習慣病の最たるものです。従って「手術で切り取ったからもう安心です。」というものではなく、退院してからがご自身による本当の治療になります。 正しく癌体質の改善をすることにより必ず道が開かれます。

1 限りなく無塩に近い食生活

出汁・下味以外塩分は使わず、個々の食材が持つ味を楽しむ。

2 動物性たんぱく質・脂肪、アルコール、タバコ、白砂糖、揚げ物等カロリーの高い食品、マーガリン・ショートニング・プロセスチーズ等トランス脂肪酸、また、食品添加物を含む食品を控える。だだし、ヨーグルトを除く。(乳脂肪”0”のものがお勧め)

3 新鮮な野菜と果物の大量摂取

カリウムを始めとする各種栄養素と生きた酵素を大量に摂取する。ゲルソン療法による野菜ジュースを飲用。 ⇒別稿

4 乳酸菌、海藻、キノコ、豆腐・納豆を始めとする大豆製品・豆類、イモ類、未精白の穀物(玄米・胚芽米・全粒粉)の摂取

5 レモン・ハチミツの摂取

6 主食は天然の抗ガン剤を生み出す「玄米」を常食とする120℃以上で空炒し、抗癌成分(RBA・RBF)を現出させる。

7 食物繊維の摂取

大量の食物繊維を摂取して腸管活動を活発にし、副交感神経を優位に立たせ、体温の上昇と免疫力の強化を図る。

8 よく噛む

ひと口50~60回、最低でも30回は噛む。豆乳・野菜ジュース等液体の食品も同様。

9 オリーブ油・ごま油の活用

加熱料理には、酸化しにくいオリーブ油・ごま油を使う。

10 睡眠は午後11時から午前6時までの7時間(午前0時~5時は熟睡すること)

11 感謝の心と勤労奉仕

日々、生かされていることに感謝し、人々に役立つこと・世の中に役立つことを実践する。

 
参 考


副交感神経が優位の時は、リンパ球が増加しガン退治には、さらに有利に働きます。

 

 


 

4. 佐藤 軍吉 さん (8月27日生まれ)

KDDと私のマドンナ

 

◆ 上京からKDD退職まで
私の生家は宮城県の南端に位置する丸森町で、阿武隈川に沿った米作を主とする農業地帯です。1941年8月に丸森町で生まれ、中学卒業後に地元の普通高校に入学しましたが、海に憧れて船舶通信士として海洋船に乗るべく、高校を中退して通信士養成校の国立仙台電波高等学校に入学しました。 通信士にはモールス信号の送受信技術が必要ですが、入学後のトン・ツーの実技授業で私には素養が無いことが分かり、通信士への道は入学早々に諦めました。
電波高卒業後、KDDからの採用が2~3年無いため不採用になると思い、父の手前、一度入社試験を受けてから法学部への進学を目指すことを秘かに決めました。 しかし、KDDから想定外の採用電報が届き、入社することになってしまいました。 KDD入社のため、1961年3月末に夜行列車で上京し、4月1日(土)の入社式に臨みました。社内訓練等で2ヶ月が経過し、6月1日に、研究所通信研究部受信課勤務の辞令が出ました。受信課配属後、上司からマイクロ波や電子回路の本を読む様に渡されましたが、内容を理解するのに精一杯でした。電波校では文系の大学受験に必要な授業は数学と英語以外は殆んど無く、下宿での受験勉強はあまり進みませんでした。上京早々の失恋もあり、いろいろと迷った末にKDDに勤めることを決意し、2年後に芝浦工大の2部に進みました。 研究所に配属されてから、恵比須の目黒研究所で27年間、上福岡研究所での10年間と併せて37年間の研究所一筋の勤務になりました。 研究所で開発に関与した主な装置関係は、衛星通信用低雑音増幅器、FM-TVの高感度復調器、マイクロ波帯電力増幅器の効率化を図った非線形補償回路(リニアライザイー)、誘電体共振器を用いたフィルターや高安定固体発振器等です。 また、通信方式としては、日韓間のダイバシチイ通信、TDMA通信、国際間デジタTV伝送方式、加入者無線、光りアナログ伝送方式等になります。 これらの開発には、研究所、本社部門および関連メーカーの方々の指導と協力を得て、常に興味のある事柄に携わる事が出来たのは幸いでした。

◆ KDD退社以降
東京デジタルホン、ジェイフォンと携帯電話関連企業で、関東地区全体の無線基地局やネットワークセンター等の建設・保守に携わり、KDD研究所時代とは一変した競争社会を経験することが出来ました。
電波高では海洋部に入り松島でヨットに出会い、以来、8年前に横浜港で脊椎圧迫骨折事故を起こすまで、50年間に亘り江の島、鎌倉、横浜でヨット、クルーザー等を楽しみました。
現在は、自宅近くで100坪余の畑を作っています。 今春は、ジャガイモ、インゲン、ナス、トマト、ピーマン等が収穫出来ました。 8月末から秋野菜の栽培に入ります。

◆ 私のマドンナ
電波高3年の夏、仙台で憧れだった中学同級生のマドンナに会い、上京するまでの半年弱、映画を観たり石巻・金華山へのハイキング等と楽しく過ごし、将来を夢見た交際を期待していました。 ところが、上京直後から突然連絡が途絶えてしまい、かなり落ち込み寂しい成人式を迎えた苦い思い出があります。 後年、再会してそれなりの事情があったことが分かりましたが、この頃から私のマドンナ(女性)に対する尊敬と畏怖の念が混在し、KDD入社以降の私のマドンナに対しても積極的に行動出来ませんでした。
なお、現在の私のマドンナは、小学3年生と4年生の孫娘二人(写真参照)です。 彼女たちも自我が芽生えてきて、以前ほど無心に遊んで貰えなくなってきています。
私のマドンナの結論としては、秘めた片思いといったところです。

 

 


 

5. 堀井 勉 さん (8月28日生まれ)

香港今むかし

 

 筆者は1990年8月から1995年8月まで5年間、KDD香港有限公司および国際テレコメット香港有限公司に勤務しました。
 さて、2015年4月、6年ぶりに香港を訪れました。
 香港は相変わらず、ものすごいスピードで発展中でした。 真新しい超高層のオフィスビルやマンションが次々と増えていました。 恐ろしいほどのパワーを感じました。
 若い人の比率が多いのも驚きでした。 東京では新宿といえども街を歩く人の高齢者比率は半々程度だと思いますが、香港は8割方が20~30歳代に感じました。
 また、料理の味付けですが、日本の中華料理に慣れて来ると、香港の中華料理は大雑把・大味に感じました。 年のせいかもしれません・・・。
 また、日本のスロースピードに慣れていると、疲れてしまうほどハイスピードです。 銅鑼湾の「そごう」は昔と変わりませんが、「三越」や「日本人倶楽部」のあったビルはHysan Placeという真新しい超高層複合ビルに変身していました。

 スターフェリー(尖沙咀行き)はセントラル側の乗り場が、以前の郵政総局前からセントラル寄りとなり、また埋め立てにより前方に引っ越しておりました。
 また、以前の地下鉄用ICカード「オクトパス」は、現在ではバス、2階建てトラム、ピークトラム、スターフェリーなど、ほぼすべての乗り物で使えるようになったので、小銭のコインがほとんど不要になりました。
 今も昔も変わらないところと、大きく変貌しているところのモザイク模様が非常に楽しく、慣れ親しんだ外国へたまに行く新鮮さは何事にも代えがたい魅力があります。
 次回はもっとゆっくり1ヶ月ぐらい滞在して、今回回れなかったところも見てきたいと思いました。

 

Happy Birthday (2015年7月掲載)

Happy Birthday !


7月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
   横山 喜明 さん、 関根 勝昭さん、若原 恭 さん、島田 常五郎 さん

 

 

1. 横山 喜明 さん (7月4日生まれ)

筆道中


 この7月に齢80才をむかえます。一休流に表現すれば、傘寿とは「冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」の心境です。
 56歳のとき、会社の仕事のからみで書道を始めることになりました。たまたま出会った師匠の書作品の深淵に吸い込まれるような線の深さにこれまで味わったことのない衝撃的な感銘を受けました。たちまちその魔力に籠絡され、師の線質に少しでも近づくことこそ私の書道の生涯目標であらねばならないと思うようになりました。以来、盲追すること24年。
 その間、師の意向もあって年6回くらい書道展覧会に出品するようになりました。作品は主に幅53㎝、長さ235㎝の画仙紙に漢詩を2行か3行、行草体で書く形です。一出品の準備に2~3か月はかかりますので、これを年6回繰り返すためには時間の許す限り筆を動かさなければ追いつかない状態になりました。のめり込み易い自分の性分も手伝って無我夢中で運筆を続けましたが、求める線質ははるかに遠く、やがて書の世界の宏遠さに気づき、抜き差しならない無力感におそわれました。
 寡黙な師匠から稀に、「この線はいいね」と言われる一言が唯一の励みになって悪戦苦闘を続けておりましたが、20年ほど経った頃、「未だに一文字も満足な字が書けたことがない」とふともらしたところ、書歴70年の師匠からすかさず「私もそうです」と返されて絶句。書の世界はそのように浅薄なものではない、と諭されているようで、冷汗三斗の思いでした。

 3年前、師匠が亡くなられ、かけがえのない羅針盤を失って私のマインドは漂流状態となり、書道生活は大きな壁に突き当たりました。しかし、それでいて煩悶を続けながらも筆は止められない。何故か。一般的に書道を続ける人々の目標となっている展覧会での受賞、資格の取得、塾経営、書壇活動、名声、ステータス等の利得に私自身は関心がなく、一方、少なくない経済的負担、時間的拘束、身体的負担、錬成の厳しさ等に耐えながら、何が私を書作に駆り立てるのか。
 確かに運筆に集中できた一瞬の充実感、作品を仕上げた時の達成感、素晴らしい作品を目の前にしたときの感動、心和む書友との交流等にそれなりの快感はありますが、そのことが、私が書を続ける理由の本質とは受け止められません。
 高名な登山家が登山の理由を尋ねられ、「そこに山があるから」と答えた有名な言葉がありますが、キザを怖れず言い表すとすれば、私が書道を続ける理由は「そこに書道があるから」とするのが一番近い感じがしており、この後も残り少ない余命の限り、かなたに聳える師の線質を追って筆道中を続ける心積もりです。 余談ながら、書にまつわる不思議なおはなしを一つ。

 毛筆で書かれた文字の墨痕を電子顕微鏡で観察すると、普通は墨の粒子が不規則でばらばらに散らばっていますが、超絶した書家が全精神を傾注して書いた場合に限り墨の粒子は整然と並んでいる事実が、科学的に証明されています。
 一見不条理とも思えるこのような現象がどうして起きるのか。気功の「気」の力になぞらえて原因説明を試みた事例はありますが、納得できるような合理性はくみ取れません。
 KDD出身者には博識の方が多くいらっしゃるので、どなたかこの原因究明の鍵をご教示いただけませんか。

 

 


 

2. 関根 勝昭 さん (7月9日生まれ)

うれしいこと、そして少し心配なこと


① 3年ほど前人間ドックで、PSA値が高い!と言われ、定期的に検査していたが、ついに昨年「前立腺ガン」との診断。元KDDの人が、「手術したが後が大変」という経験を聞き、悩んだ末〝放射線治療〟にした。治療は入院でなく通院で、しかも38回毎日「千葉県がんセンター」に通った。終わった結果はPSA値がガクッと落ちた。 しばらく(5年間ほど)様子見となるが、とりあえず後遺症もなく楽しくすごしています。(「放射線治療」についてお知りになりたい方は直接メールをどうぞ。)


② 娘に3月下旬、男子誕生(つまり私の孫)。娘も結構な年で半分あきらめていたが、思わぬ褒美で毎日好々爺をやっている(でもこの子には「カッチャン」と呼ぶよう教育中!)。孫誕生はうれしいのだが、ちょっと心配は、今国会で議論している「安保法案」なる、自衛隊を海外で戦争させる法律案だ。この子が自衛隊に入るとは思いたくないが、その先「徴兵制」にでもなったら大変、というのが実感です。

 

 


 

3. 若原 恭 さん (7月25日生まれ)

退職後の15年を振り返って

 

 1999年10月末にKDDを退職してから15年経ちました。その間、東京大学の情報基盤センターに勤務し、学内LAN(UTnet:University of Tokyo network system)のバックボーン部分の運用と、大学院学生指導を含む研究等に取り組み、今年の3月末に定年で退職しました。
 東大の運営組織は、自律・分散・協調系と言われることもあるように、その構成要素である学部、大学院、附属研究所、センター等の部局の自治を尊重しながら、全体の調和を図った協調連携に特徴があります。UTnetは、各建物内の支線部、及び、各支線の相互接続と学外との接続を担う基幹(バックボーン)部とから構成され、自律・分散・協調系の精神に基づき、支線部は、その建物を管理する部局の責任と権限で運用されており、基幹部は全学的なポリシーによって情報基盤センターが一括して運用しています。
 UTnet基幹部は、セキュリティ対応を含む機能、トラフィック処理に係わる性能や品質等UTnetの要となることから、規模は大きく、機能的にも複雑となります。しかし、財政は厳しいものがあり、高信頼度化や安全対策は完全とは言えません。運用のための教職員もかなり限られています。基幹部の大きな特徴の一つは、支線部との接続の仕方の変更が非常に多く頻度が高いことです。例えば、学内では常に建物の新設や改修の工事が行われており、2014年度1年間に本郷キャンパスでは、安田講堂の改修、法文学部1号館・2号館の改修、学術研究館の新設等があり、加えて組織変更や人事異動に伴うUTnet構成変更は非常に多く毎日のように対応が必要でした。基幹部に関するルーチン的な業務はほぼ職員が対応していますが、新しい要求やトラブル等については、教員を含む全関係者で相談しながら解決にあたっています。幸い、15年間でキャンパスレベルでの大トラブルはなく、実質的な責任者としてはホッとして退職できました。しかし、セキュリティインシデントは日常茶飯事レベルにあり、不正侵入や情報漏えいだけでなく、学外組織への加害の可能性も含め、常に緊張感を持って取り組むことが必要でした。

 

外見は改修前とあまり変わらないのですが、耐震強化やエレベータ設置等が実現し安全で使いやすくなりました。東大のシンボルであるとともに、東京都の登録有形文化財第1号でもあります。


 一方、世の中のネットワークと同様、UTnetに対するサービスや機能の要求も着実に変化し多様化してきました。15年の間に、高速化と広帯域化に加え、不正アクセスへの対策、スパム(迷惑メール)の隔離/削除、無線LAN、ハウジング、ソフトウェアライセンス配布等の新サービスを企画し実現しました。中には、全学無線LANのように、学内各部局との連携と協力が必須のものもあり、そのとりまとめには多くの労力と時間を要しましたが、やりがいのある結果が得られました。
 UTnetへの需要の更なる拡大への対応や学外との接続先ネットワークSINETの運用ポリシー変更への対応を実現するため、現在UTnet基幹部は再構築・更改の時期を迎えています。その立ち上げ段階で大学を離れることになったのは非常に残念ですが、幸い間断なく後任者が着任されたので、問題を抱えつつも大過なく乗り切れるものと期待しています。
 研究に関しては、指導を含め大学院学生との共同で取り組むという形態で主に取り組みました。主要なテーマは、無線ネットワークのトラフィック転送能力や転送品質に係わる技術で、無線ネットワークの応用システムやネットワークセキュリティ技術等にも及びました。研究成果が実用化されるには至りませんでしたが、優秀な学生が多く、毎年のように学生が表彰を受けたのは、望外の喜びでした。昔と異なり、最近は海外からの留学生が非常に多くなっていますが、学生は極めて多様だと感じます。猛烈に勉強し研究に励む学生から、卒業・修了と就職だけを目指しているようにも伺える学生まで非常に幅が広い気がします。まったく日本語が話せないまま入学したものの、日本で就職することを決意した後は馬車馬のごとく日本語に取り組み、1年後には打ち合わせで日本語を使いたいと希望し、2年後には希望通りの日本企業に入った学生もいます。総じて、東大生の情報の収集能力は極めて高く、理解力・整理力にも優れていますが、創造力・企画力は決して高いとは言えない気がします。例えば、新研究課題の発見や開拓を苦手とする学生が少なくありません。しかし、いったん研究課題を設定できると、その後は解決に向け能力を磨きながら秀逸な結果を出していく学生も少なくありません。 一方、協調性やコミュニケーション能力が十分でないと判断される学生もあり、就活で失敗する一つの理由になっているようです。いずれにせよ、潜在的能力は素晴らしく、社会に出て大いに活躍して欲しいと常に願っていました。
 東大では、様々な基本能力を高め、よりグローバルで、よりタフな人材の輩出を目指した総合的な教育改革が始まり、例えば、これまでの2学期制に代わり、今年度から4ターム制が学部に導入されました。来年度からは大学院にも導入される見込みです。 東大を離れた昨今、このような改革の成果を大いに期待しています。

 

写真2 教壇に立った教室がある工学部2号館

歴史あるレトロな旧館の上に近代的な高層新館が覆いかぶさったユニークな構造となっています。遠方からみると(左写真)違和感があるかもしれませんが、近づいて少し横から観察すると(右写真)太い丸柱で支えている構造が分かり興味を覚えます。

 

写真3 最終講義の一コマ

2015年2月の最終講義では、大学勤務時代だけでなくKDD勤務時代の研究についても言及しました。

 

 東大を退職した後については、既に大病を経験し、視力や記憶力等も衰え始めた中、男性の健康寿命が70歳程度であることを考慮し、今後、やらなければいけないこと・やりたいこと等を現在整理中で、可能な範囲で順次取り組んでいきたいと考えています。例えば、国家試験のお手伝い、学会の活動、依頼原稿の執筆等に加え、自宅の整理、実家の後片付け、家庭菜園、植木の整姿・剪定、私的旅行、楽器演奏、料理、囲碁等を候補に考えています。今後とも、引き続きよろしくお願いいたします。

 

 


 

4. 島田 常五郎 さん (7月27日生まれ)

KDDを退職から20年

 

 皆さん、今日は、私はこの7月で80歳になります。「 光陰矢の如し」の言葉が実感しています。

◆ 20年前にKDDを退職した年は、私にとって忘れられない阪神淡路大震災に遭遇した年でした。幸か不幸か、自宅は屋根瓦が30枚ほど破損し落下、浴室の壁面タイルが亀裂し、家具の一部が倒壊した程度で、大きな被害は免れました。しかし、阪神間の旧市街はビル、マンションや家屋の倒壊・焼失が多く、そのうえ道路・鉄道の破損が大きく、公共交通機関が不通状態となりました。そのため、バスや他社鉄道に代替えしての出社が約4カ月続きました(この期間の1週間・1カ月が大変長い1週間・1カ月であったと思いました)。その後、道路・鉄道の回復により、平常通勤ができることになり、5カ月後にKDDを退職しました。

◆ KDD退職の翌年に私は「木彫教室」に入り、趣味としての木彫を始めました。7年間教室に通った後、同好の仲間7人と月1回(毎月第3水曜日の午後に北須磨文化センターの一室を借りる)集まって木彫りを続けていました。しかし、昨年10月に仲間のうち2人が病気入院したため、この同好会を解散することになりました。

◆ 1997年には、私は神戸シルバーカレッジ(3年間、週2日制の老人生涯学習学校)に入学しました。そこでは学校の授業以外に、課外活動として、書道、陶芸、ゴルフ、コーラス、社交ダンス等、十数種類のクラブがあり、私は「歴史探訪クラブ」に加入しました。このクラブは他のクラブと違って同期の者だけの集まりではなく、学年の違うOBも一緒になって、年3回観光バス2~3台に分乗して日帰りの「歴史探訪旅行」をしました。 行先は主として近畿圏でしたが、なかには福井県の永平寺や岐阜県の関ヶ原にも行きました。バスでは歴史解説をしてくれる先生が乗り、走行中に色々と説明してくれるなど有意義な楽しいクラブでしたが、約20ケ所を巡ったことを期に、我々同期の者は退会しました。

◆ 4年前のKDD同友会の解散までは、私は関西地区ハイキング同好会に加入し、年4回のハイキングには皆勤し、高校時代からの友とは月1回20kmのウオーキングをしてきました。しかし、私は昨年11月に変形性股関節症と言われ、現在歩行には杖が必要な状態になり、整形外科のリハビリに通っていまして・・・。何とか杖が不要な状態に戻るように努力していますが・・・、皆さん、くれぐれも健康にご留意ください。

 

Happy Byrthday (2015年6月掲載)

Happy Birthday !


6月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
   岡田 哲也さん、町田 香子 さん

 

 

1. 岡田 哲也 さん (6月2日生まれ)

外敵は自分で守る


 鎌倉の谷戸深く住みついてから40年ほど経ちました。蛙の鳴き声うるさかった土地も、今では周囲ぎっしりの住宅です。しかし、犬の無駄吠えさえなければ、依然として鳥のさえずりだけが聞こえる静かな環境です。なにしろ、バス停まで徒歩15分。食品を買える店までは20数分。鎌倉駅までは3キロある僻地です。そんな環境ですから、自然の生き物も跋扈しています。
 私は、どちらかと言えば寒い冬より暑い夏の方が好きなんですが、その季節になると悩まされるのが、ムカデとスズメバチの存在です。ムカデはどこから侵入してくるのか、夏になるとよく10センチを超えるような奴が潜んでいます。人間の匂いが好きらしく、洗濯物の中、浴室にもいることがあります。わが家では靴を履くときは、かならずいちど蹴飛ばします。初夏には、2~3センチほどの子供のムカデが枕の横を這いずっていたりします。子供だと馬鹿にしていると、とんでもなく腫れ上がって酷い目に遇います。

 この防衛には家の周囲に薬の散布しか手がありません。スズメバチの方はもっと怖い存在です。昔はほとんど見かけなかったのですが、この10年ほど激増しています。どういうわけか、向こう三軒両隣どこの家も大丈夫なのに、わが家だけ毎年スズメバチに巣を作られます。私はもう2回刺されているから今度刺されるとアナフラスキーショックが怖いと医者に脅かされています。少し暖かくなると、巣を作りそうなところに蜂退治の薬を噴霧してまわりますが、防ぎきれません。スズメバチの巣の撤去は素人には困難です。市役所に頼めば無料で撤去してくれますが条件があり、作業員の手の届くところの巣だけです。例えば、高いハシゴをかけなければならないとか、羽目板を剥がさねばならない場合は取ってくれません。代わりに専門業者を紹介してくれますが、喜んではいけません、撤去費が通常4~5万とべらぼうに高いのです。3回も頼んだ夏があって参りました。そこで、春先からスズメバチ捕獲用のトラップを作って軒下や植木の枝にぶら下げて置くのです。暖かくなるとまず越冬した女王蜂が巣作りを始めます。その段階で女王蜂を一匹殺せば、大きな巣を一個消滅させたことになります。巣作りをした女王蜂が産卵して、育った働き蜂が活動し始めたらもう援軍を頼むしかありません。

 捕獲トラップの作り方簡単です。2リットルのペットボトルの四方の肩の辺りに、2cm平方ぐらいの小窓を4個空けます。中に酒300ml 酢100ml 砂糖125gを入れたものを4~5個作って家の周りの適所に吊して置くのです。蜂が匂いにつられてトラップの窓から中に入るともう出られなくなり溺死するという仕組みです。真夏になり働き蜂がボトル一杯になるぐらい捕まても全体としてたいした効果になりません。それより春から初夏にかけて女王蜂が沢山捕まって欲しいのですが、なかなか思うようにはなりません。その挙げ句が大きな巣の発見騒ぎです。専門家の援助を待つのみです。トラップ作りは簡単ですが、費用がバカになりません。2ヶ月もすると蒸発して中味が少なくなるから作り替えが必要なのです。その都度、酒一升、酢一瓶、砂糖一袋がなくなります。
 私の誕生日は6月2日です。なので、横浜市が開港記念日と兼ねて私のため花火で祝ってくれますが、その頃になると、昔の防空演習よろしく空を睨んでスズメバチの来襲に備えます。庭に飛んでいればかならず近くに巣があるのです。これって、日米安保の話に似ていると思いませんか。そんな84回目の夏が今年もやってこようとしています。 

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:

 

お久しぶりです


織間 政美 2015/06/23 10:00:08 &nbsp:   

お久しぶり織間です。 誕生日おめでとうございます。 昔を思い出し、懐かしく思ってます。
自然に近い環境で元気でお過ごしの様子が記事で分かり、とても嬉しいです。 これからも幸せでお過ごし出来るよう祈っています。

 

 


 

2. 町田 香子 さん (6月8日生まれ)

窓口あれこれ


 昭和56年入社、中目黒の研究所で経理係の契約担当者として、一階玄関に近い窓口に座っておりました。35年後の現在は、地元の新聞にボランティア記事の取材・掲載をしたり、市民活動センターの活動相談員として窓口に座っております。ここでは、ボランティア活動に関する相談者に地域の資料などで、できる限りニーズに沿ってお答えしています。中学生や高校生からは、夏休みの宿題のボランティア活動、シニアの方からは定年退職後に何かやってみたいという活動相談を、また最近は、就活に有利な奉仕活動は何かという本来のボランティアとはちょっと違うかなと思う大学生もやってきます。

 相談員として5年目になりますが、いろいろな相談者との出会いがありました。留学生が「帰国が迫っているが留学条件のボランティア活動がバイトでできなかった、どうしよう?」と飛び込んできたときは、こちらのほうが焦りました。たまたまサッカー好きということから、競技場のボランティア活動と繋ぎ、事無きを得ました。あるときは、「特に趣味もなければボランティアも経験無し。でも、このままではいけないと思って、ネットで探して思いきって来た」と言う青白い 顔の女子大生がいました。

その寂しそうでおとなしい表情から、もしかしてこの子は、小さな子どもとなら同じ目線で遊べるかなと思い、「小さな子の障がい者施設のお手伝いをしてみない?」と勧めてみました。すると、彼 女は1週間後に頬をピンクに染めて、報告に来てくれました。「小さな子が、私の膝にチョコンと座って、『お姉ちゃん』と言ってくれたんです!」と明るくしゃべり出しました。結局この子はその後、大学の文化祭委員を担い、就職は彼女をとても必要としている施設に決めたと聞きました。
 私はこのことで、自分にマッチングした活動に出会ったら、人生を変えるくらいの世界が広がり、飛び立てるのだなあと思いました。私に活動力の驚異を教えてくれた人たちに感謝しています。

 

Happy Birthday (2015年5月掲載)

Happy Birthday !


5月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  林  雅和 さん、 佐藤 敏雄さん

 

 

1. 林  雅和 さん (5月8日生まれ)

城址巡り1,000


 皆さん、今日は。私は、KDD退職後の凡そ20年間を中心に、日本の城址巡りを続けています。
  半分は歩くことが目的で、北は北海道の五稜郭、松前から南は沖縄の首里、今帰仁、座喜味まで、昨年10月に1,000城を越え、本年4月末現在1,030城に達しています。そのお陰か、今の所、幸い足腰は元気です。
城址の定義: 広義のもので、陣屋跡、館跡、代官所跡等も含みます。但し、観光施設の熱海城とか、両国で見られる逸ノ城などは含みません。

◆ 無駄足覚悟: 初めは、天守閣が現存する12城(姫路、伊予松山、松江、備中松山等)から始まりますが、1,000城位になると、遺構などはなく、石碑、標柱、解説板程度しかない、まさに「兵どもが夢の跡」を訪れることになります。時には、本に紹介されているので行ってみたら全く何も見当たらず、地元の人に聞いても分りません、なんて云うこともありますが、半分は歩くことが目的ですから、今日は収穫がなかったけれど1万歩歩いたからマアいいかと、半分満足して帰って来ます。


◆ お勧めどころ: 桜の頃の弘前です。天守閣(現存)は小ぶりですが、清楚な感じが良く、また、桜の散り花でお濠全面が覆われているのは壮観です。お城ファンでない人でもお勧めです。

◆ 天空の城: 今人気の出ている兵庫県の竹田城は、凡そ20年前に行きましたが、今ほど道が整備されてなく、前夜の雨でぬかるみ、本丸跡まで登るのが大変。手前の解説板を読んで引き返し、麓から石垣を眺めるだけでした。これは何時か再トライの要。でも、同じような天空の城、津和野、越前大野も良かったです。


( http://www.city.asago.hyogo.jp/0000001275.html


◆ 車で登城: 山城で本丸跡まで、車で登れる所もあります。但し、幅が狭く未舗装で片側崖みたいな道を行くのでヒヤヒヤです。周防若山(山口県。陶氏の居城)、横地、天方(両者とも静岡県。駿河今川氏関連)等

◆ 城址が学校: 登城するのが、一寸 厄介です。先ず事務室で許可を貰って、石垣、土塁、石碑、解説板等を見せて貰います。歴史の先生呼んで来ますと言って呉れる所(愛宕山塁:練馬区。太田道灌の陣城)もありますが、一方、女子校はムクツケキ男が行くと駄目で入れさせて呉れません。ガッカリ。(狛江入道館:調布市。現在の狛江市本拠の豪族の館)

◆ 戦国大名発祥の地: 結構意外な所が多くて勉強になります。徳川氏発祥の地は群馬県の世良田(東武鉄道世良田駅前に大きな看板があります。徳川義季館)、中国地方の毛利氏は神奈川県の厚木(毛利季光館)、房総里見氏は群馬県の榛名(里見城)、徳島蜂須賀氏は名古屋近郊(蜂須賀城)等

◆ ドラマ黒田官兵衛: 毎回ドラマの最後に官兵衛関連の城址が紹介されていました。 その殆どは既に行っていましたが、未登城の城址が3城ありました。日帰りで姫路近辺まで行ってきました(御着、英賀、加古川)が、新幹線代等で1城1万円と高くつきました。バカ見たいですネ。それでも行って大満足です。

私の登城はまだまだ続きます。退職後の愉しみにご参考になれば幸甚です。

(注) 姫路市広報 姫路城(改修後)写真集
  http://www.city.himeji.lg.jp/topic/photobank/_32629.html より引用

:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:

 

城址巡り1000

鎌田 光恵 2015/05/03 17:27:49    

「両国の逸の城」とは飛びっきりのユーモアですね。 一度読んだ時は無感動に通過してしまい、二度目に読み直して「フフツ」とつぶやいた次第です。 面白い。


1000城址踏破とは驚き

來山 征士  2015/05/25 23:02:43    

日本には1000城があるんですね。 それらを回られたご健脚に敬服です。現存の天守は少ないんですね。
去る5月19日に、KDD同期入社4人と、天守が国宝指定となる松江城と、山城で天守が最も高こといといわれている備中松山城を訪れました。 双方とも素晴らしいお城でした。

 

 


 

2. 佐藤 敏雄 さん (5月21日生まれ)

もう今年で83歳

 

 この5月で83歳となる。母親は54歳で亡くなった。胃がんだった。今ならもっと良い治療を受けて長生きできただろうに。父親は「もう80だ」と言いながら、1年早く旅立ってしまった。今で言う認知症だったようだ。その父の年齢をいつの間にか超えてしまった。そう言えば今日3月26日は母の命日。こんな記事を書こうと思い立ったのも母の引き合わせか。

 生まれ育ちは新潟県長岡市。元々、星や宇宙、更には無線が好きだったが、高校に講演に来られた大先輩、宮憲一さんに憧れてKDDに入った。八俣送信所に2年在職した後、研究所で衛星通信の仕事をした。史上初の宇宙中継テレビ伝送実験では直径20mのカセグレンアンテナ開発に携わった。これが偶然にもケネディ暗殺を伝えるという歴史に残るイベントになったのだが、若手の自分はアンテナ制御室に籠り、アンテナが無事動くかどうか臨戦態勢で監視していており、映像を見ることはできなかった。
 1971年から73年にかけ、ワシントンのCOMSAT研究所にインテルサット派遣職員として勤務した。この間、KDD研究所時代に開発した「誘電体装荷ホーンアンテナ」を、衛星メーカーのヒューズ社が2基のインテルサットIV-A衛星に「グローバルビーム・アンテナ」として無断で搭載していることが分かった。このアンテナは交差偏波の利用により回線数が2倍となるため、全世界の地球局の性能確認に利用され、その後、多くのインテルサットVI号衛星にも搭載され、国際テレビ伝送で活躍した。
 今年は東京大空襲70年と喧伝されるが、我が長岡は終戦2週間前の8月1日夜半、B29の焼夷弾攻撃を受けて全市が焼け野原となった。当時は中学1年生。父母と妹と4人、猛火に追われて近くの神社の境内へ。なおも追われて境内裏にあった川に飛び込んだ。 これが幸いし、火と煙で息が詰まりそうになりながら川の水のおかげで何とか命拾いした。長時間水に浸かっていたため真夏なのに寒い。焼けて熱くなった護岸の石垣にへばりついて体を温めた。見渡す限りの焼け野原。黒焦げの死体を横目に10キロほど先の父の実家まで歩いて避難した。あの惨劇の経験は生涯忘れることができないだろう。

長岡が燃えた日 (写真は、長岡市発行 「長岡の空襲」 より)

  長岡が燃えた日(写真は、長岡市発行 「長岡の空襲」より)
 長岡と言えば夏の花火大会。信濃川の中州から三尺玉などが賑やかに打ち上げられる。8月1日では焼夷弾を思い出すから、2日と3日になったと言われる鎮魂のイベント。
 長岡中学では戦時中でも英語の授業が行われていた。その英語教師が金井朋和先生。一等通訳の免状を持っていたという本場仕込み?のKing's English。発音を含め、極めて厳しい先生で綽名は「ガチ」。下手をするとすぐにチョークが飛んでくる。でも何故か指名されるのが楽しみで、おかげで英語が大好きになった。インテルサット、インマルサットと、永年、国際関係の仕事をすることができたのもこの「ガチ」先生のおかげだと感謝している。
 1970年後半、インマルサットが設立されるに当たり、遠藤栄造大先輩のもとIMCO(現在のIMO)主催の設立準備会議などに出席。更にインテルサットの技術諮問委員会(BG-T)など、多くの国際会議に出席した。1977年、夏休みに家族連れで海水浴を楽しんでいたところに遠藤さんから電話があり、インマルサット技術運用諮問委員会(Advisory Committee on Technical & Operational Matters )の議長になれとのご命令。やむなく引き受けたが、この長ったらしい名前の委員会の略称は「ACTO」。 議長就任最初の会合で、この略称は日本流で読むと「悪党」になる。私は「ギャング」のChairmanにはなりたくないから、「Matters」のMを入れて、「ACTOM」に改名しようと提案し了承された経緯がある。世界各国代表の種々雑多な英語に苦労しながら、3年間議長を務めた。1981年、第7回のACTOM会合は東京で開催された。
 2005年から2011年までk-unet代表として皆様のために奉仕した。現在は顧問としてささやかながらご協力申し上げている。うるさがられないよう気を付けながら!
 同友会も解散した現在、k-unetはKDD OB達の重要な情報交換の場になっている。今後共、この会が大きく発展し機能していくことを期待している。

 

Happy Birthday (2015年4月掲載)

Happy Birthday !


4月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  樫村 慶一 さん、嶋田 英一 さん、松浪 鋭四郎 さん、磯村 栄一 さん

 

 

1. 樫村 慶一 さん (4月1日生まれ)

85回目の4月


 私は、今から85年前、1930年、昭和5年4月1日に生まれた。ということになっているが、実際は5月生まれらしい。変な言い方だが、エープリル・フールの走りのようなものである。昔は戸籍法なんていい加減で、子供が生まれてもすぐ届けなくてもよかったようだ。届けたのは、大分後(2~3年後)で、親は体が大きいのをみて、早生まれぎりぎりの4月1日にしたと聞いた。4月1日までが早生まれなのは、3月31日の夜中に生まれた子は午前0時前とそれ以後の子では差別ができるので、これを防ぐためだと聞いたことがあったが、本当かどうか眉唾だ、だって4月1日の夜中の12時までは早生まれなのか、疑問は尽きない。まあーそれはとにかく、早生まれにすれば前年に生まれた子供と同じ学年になり、その後の人生全てが、遅生まれの子よりも1年先行することになり、何事も得をする、と親は思ったようだ。定年が誕生日になっていた頃は、4月1日生まれは、昇給して退職なので得したな、と言われたことがある。しかし、それも何時のまにかに変ってしまった。結局ちっとも人生得をしたと思ったことはなかった。そう言えば、昔KDD社内に11歳も年をごまかしている人がいた。幼年期は、周りの目にどう見られたんだろうか。
  私の番は来ないだろう、と思っていた「誕生月のエッセイ」を書く役目が、とうとう回ってきた。なにを書くか頭をひねった。昭和28年にKDDができたとき、当時の電電公社の中央電報局の外信課にいた者は、私を含めてほぼ自動的にKDDに入った。それ以来37年、振り返ってみれば、死にたくなるほどの苦労もなく、世に言う"お公家さま集団"の中の年功序列体制の中で、大きな実績もなく、ぼおっと過ごしてきたように思う。だから、現役時代のことなんて書いたって、まだ知っている人が大勢元気で過ごしているので、新鮮味がなかろうと思って、この機会に、自分の歴史をうーんと戻して、古い記憶を広げてみようと思った。
 私が生まれたのは中野区の上高田で、西武線の新井薬師駅前から哲学堂方面に向かってほんの数分の所だった。今の東亜学園のすぐ奥である。午後になるとトタンのなめこ塀が、がらがら音を立てる。東亜の生徒が塀を三角定規とかなにかでこすりながら歩くためだ。母がよく、うるさいと怒鳴っていたのが、かすかに頭の隅ある。当時 "東亜しょうぎ" は、今で言う落ちこぼれの子供の集まりだったと、親は言っていた。
 3歳位の頃、新井薬師駅の反対側に引っ越した。三輪車をこいで自分で移動した思い出が、私にとって最古の明確な記憶である。童謡"たきび"の発祥の、大きなケヤキが立ち並ぶ道のすぐ近くだった。その頃は、新井薬師駅の前、線路に沿って法政大学の野球部のグラウンドがあり、選手の中にはプロ野球の南海の名二塁手で、後監督になった鶴岡一人さんがいたという。線路に沿って下り坂になっていて下に野方刑務所の塀が見えた。その頃の男の子の遊びは、50坪くらいの空き地があると三角ベース野球、相手の尻に頭をつけて並び、馬を作って走って飛び乗る遊び、水雷ごっこ(ルールは忘れた)、とんぼとり、ばったとり、木登り、などなどだが、お小使いをもらうと、模型飛行機を作った。妙正寺川の土手を登って哲学堂の垣根の下をくぐって園内に入るのが大冒険で、鮮やかに記憶に残っている。(当時は入園料をとっていた)。東洋大学の創始者で哲学者井上円了が建てた、奇形なお堂のような建物に入り込み、番人に怒鳴られて追っかけられた。妙正寺川沿いのKDDの落合社宅があった敷地の隣、今は少年野球場になっている場所は湿地帯で、やもりやおたまじゃくしが沢山いた。東京山の手の中野の里には、平穏な時代の、のどかさを絵に書いたような風情が漂っていた。

 西武線の新井薬師前から中井に向かっては低地になっていて、粘土質で草が少ない"ばっけが原"と言って、とんぼやばった捕りの絶好の場所だった。上高田国民学校3年になると、新井国民学校が新設され、上高田から多くの生徒がそちらへ移った。親友がいなくなったのが寂しくて、今で言う登校拒否に近い心境になったのも遠い思い出の一つだ。在学中に奉安殿とプール建設が行われ、生徒がバケツ・リレーの泥運びに動員された。豊島園まで歩く遠足があった。砂利を敷いた工事中の道を歩かされたが、今にして思い出せば、あれは、建設中の十三間通り、今の目白通りである。子供の目には物凄く広い道に見えたものだ。
 戦争の足音が忍び寄ってきた時代とは言っても、市井は平和だった。だから、たまに起きた強盗や殺人事件は歴史に残っている。昭和4年の説教強盗事件は家の近所一帯に被害が多く、怖かったと母がよく言っていた。7年の玉の井のおはぐろどぶのばらばら事件も、世間は大騒ぎをしたらしい。11年の阿部お定事件の定さんが勤めていた小料理やは、新井薬師前の通りにあり、家から近く、通りかかると指をさしたものだ。同じ年の2.26事件の日は大雪が積もってた日で、やたらに飛行機が飛んで、なんだか騒がしい日だったことを思い出す。何故だか分らないが事件のことはずっと後になって知った。 2.26事件を除けば、今なら日常茶飯事なことばかりである。僅か8、9歳くらいのときに、友達と「日独伊防共協定を結んだんだってね、日本は凄いね」、なんて話をしたことが、はっきりと瞼の裏に焼きついている。戦時教育の恐ろしさの一片かもしれない。双葉山の70連勝を安芸の海が阻んだ相撲を、ラッパのラジオにかじりついて聴いたのも、強く懐かしい記憶の一つである。

 昭和16年の12月8日の朝、前日は雨だったと思う、なぜならば、校庭に水溜りが出来ていたからだ、それほど寒さは感じなかったが、整列させられ、ボリュームをやたらに大きくしたため声が割れて、なんだかさっぱり分らない放送を聴かされた。 ・・・大本営発表、帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において・・・例の、日本崩壊の始まりの日である。国民学校最後の冬であった。
 この頃までの出来事が色々頭の中にあるのだが、実際にはどうやって記憶したのか分らない。学校の先生に聞いたか親に聞いたのか、友達同士で話あったのかもしれない。新聞はほとんど読んでなかったし、ニュースなんかほとんど聞いてなかったのだから。覚えていることが沢山あるのに父親の思い出がほとんどない。昔は父親は怖いものと言うのが普通の感覚で、どこの家もそんな環境だったように思う。反動的に母親の存在は濃かった。その父親が私が府立中学3年のとき死んだ。そして、3月10日の東京大空襲で学校は丸焼け、生徒は呆然自失でちりちりばらばらになった。私の人生の下り坂の始まりである。
 その後の終戦を挟んだ数年間、思い出したくもない私の思春期は、原発の核の廃棄穴よりも深い深い闇に包みこんだ。有為転変を経てKDDに入った。そして結婚、人生は上向きに変わり、話は初めの部分に戻る。小さい頃のことを文字にしたのは初めて、よい機会を下さったと感謝している。読む人には面白くもなんともないだろうけど。 せいぜい四季雑感を読んで頂きたい。これには比較的現代のことを書いているつもりである。
 今、ここに85回目の4月を迎えるわけだけど、頭の中の演算機は歳ほど古くなっているとは思わないが、周辺機器が皆陳腐化して、特に歩くのが弱くなり速度が落ちた。 後、何回4月を迎えることができるだろうか。妻が肺がんに冒されたけど、最新の分子標的抗がん剤の驚異的効果で元気を回復している。妻の天寿をしっかり見届けるまでは、私は、この世に幕を下ろすわけにはいかない。 次の、その次の、また次の4月も・・・・・      この辺で   (2015.3.12記)

 

 


 

2. 嶋田 英一 さん (4月16日生まれ)

近 況


 k-unetの会員の皆さん ご機嫌如何ですか。現在、埼玉県坂戸市で暮らしています。4月で86歳になります。無駄な抵抗かも知れませんが、健康の維持に努めています。

1. 早寝・早起き、毎朝のラジオ体操第1・第2(録音したCD使用して)をやってます。

2. 毎日午後、太陽の下、携帯音楽プレーヤー(ipod nano 8)で音楽を聴きながら、近くの高麗川の堤防を約1時間歩き(約6,000歩)、軽く汗を流しています。

 今のところ特に病気はしていませんが、右の目が「加齢黄斑変性」になりました。直線が曲線に見える症状です。埼玉医大の眼科へ1年ほど通って、レーザー光線の照射、注射を3回しましたが、ただ進行を止めるだけの治療です。現在0.9の視力があり、不自由はしておりません。皆さん、目の健康には十分注意しましょう。呆け防止に役立つかと、パソコンを次のように使っています。

1. 日誌の記載とワープロ機能の利用。手書きでは、文字が直ぐ頭に浮かばなってきたので、これで助けてもらってます。

2. メールによる親族間の交信、知人との情報交換(パソコンの利用を止める方が増えて残念。)

3. インターネットによる情報検索(Google Chromeなど)

4. FM放送の音楽番組(クラシック音楽、歌謡曲、民謡)の録音、 テレビ番組の録画などUSB接続の外付けハードディスクに保存して、寝たきりになったときは、枕元のノートパソコンで再生しようと思っています。

5. その他の楽しみとして、もっぱら自宅でテレビを観ることです。kddiの関連会社 J:COM関東のケーブルテレビに加入して、日本映画、外国の映画、時代劇など古い映画などを観て、昔を思い返し、「毎日が日曜日」を十分楽しんでいます。

 

 


 

3. 松浪 鋭四郎 さん (4月23日生まれ)

近 況


 私は退職してもう20年近くになります。職歴は大阪で入社し東京に転勤、国際電報のシステム化、営業部、テレコメット、研修所、ゴルフ練習所等いろんな職場を経験しました。仕事よりもバドミントンに熱を上げまして、会社のチームを作り東京都から全国大会に出場できるチームを作り上げました。その関係で国体の東京都監督、日本実業団、日本リーグ、日本協会の役員まで務めさせてもらい全国に友人ができいい経験をさせてもらいました。

 退職後、家内は10年以上前に亡くしましたが毎日ボランティアで小学生の送迎、地域の防犯パトロール、趣味としてはゴルフ、グランドゴルフ、ステンドグラスの作成等で毎日忙しく余生を送っております。K-UNETには何の協力もできませんが皆様によろしくお伝えください。
 

 


 

4. 磯村 栄一 さん (4月25日生まれ)

あれやこれや …


◇ k-unet との係わり
 パソコンに触れあれこれ楽しんでいた頃、もう亡くなられた石田さんに誘われ入会しました。今のような規模ではなく、何方がおられたか記憶が無いほど昔のことです。 昨年、娘に傘寿とやらに辿り着きました。
 会の規模も大きくってあれこれが活動し「運営委員会」なるものが有りました。今のようなネットやアプリも無かった頃です。ホームページの作成、管理など担当していました。写真は、今は当り前になったデジカメではなくスキャナーの世話になっていました。
 自分自身のホームページを立ち上げています。「会員ページ」に小生のページの url を載せて頂いています。趣味の「野鳥観察」や「天体観測」です。が、殆ど未更新!


天体観測(写真はプレアデス星団) 左の写真は、数年前まで町田に住んでいた頃、自宅ベランダで撮ったものです。 市街地からの燈火が少ない場所でした。直ぐ傍の街灯光がレンズに入らぬようフードを付け撮影。追尾機能付き赤道儀にカメラを載せベランダで撮ったものです。好きな写真です。
http://members3.jcom.home.ne.jp/eisomura/w33/astro_w/m45/m45.html (ネット上で撮影条件など)

 機動力を召上げられ、部屋の狭い窓からの撮影環境は劣悪です。そこを何とかしようと能トレです。短時間露出の画像を「重ね合せ」で「追尾撮影」並みの狙いを画策しています。使える機材が少ない上、町田に比べ街の空が明るいなどのマイナス要素が行く手に立ちはだかります。

◇ 流星観測
晴雨時刻を問わず観測出来ます。観るのではなく、流星で散乱された電波を受信。 発生からの消長の様子が判ります。老人住宅で受信アンテナをどう設けるか悩んでいます。受信画像から、その流星の流れ具合を想像?!   http://members3.jcom.home.ne.jp/eisomura/w33/astro_w/meteor/pattern/extended.html

◇ StreetViewとPlateTechtonics 
最近、google がStreet Viewをネット上で提供してくれます。撮影車輌が世界中を駆け巡っています。お陰で、世界漫遊が出来ます。昔 、駐在したアメリカ事情もチェック。<br />
 大昔、大手町時代、図書室整理で廃品図書に「PlateTechtonics」。その冊子で得た知識が蘇りました。切り通しの山肌に刻み込まれた脈動の痕跡を追います。三浦半島南の入り組んだ入江に地肌に左側に沈み込むように傾斜した襞層をgoogleで発見。写真は、googleで視た状態です。岩肌が左下に傾斜 … 。
  …と、こんな調子で過ごしています。  (2015/3/5記)

 

 

Happy Birthday (2015年3月掲載)

Happy Birthday !


3月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  庄司 竹夫 さん、小野 欽司 さん、金城 晴八 さん

 

 

1. 庄司 竹夫 さん (3月7日生まれ)

近 況


 ハッピーバースデイの原稿を!とのことですが、原稿としてお出しできるほどの私ではありません。でも、元気に79歳の誕生日を迎えることができそうで、ハッピーなのでしょう。
 私、定年を機にお絵描き(水彩)を始めました。また、以前から楽しんでいる下手なテニスも続けております。テニスは週2回、お絵描きも週2回程度です。目標としては、80歳までテニスを続け、90歳までお絵描きを楽しむことです。

テニスは楽しんだだけ疲れが残るだけですが、お絵描きでは、楽しんだだけ悩みが残りますね。随分沢山の紙屑を作りました。適当に破棄しておりますが、 人生あとが少なくなり、悩みのタネですね。 でも、私の誕生日、やはり元気でハッピーと言えるかも・・・

 

 

 

 

 


 

2. 小野 欽司 さん (3月9日生まれ)

シルクロードの旅


ディジタルシルクロード

 シルクロードはドイツの地理学者リヒトホーフェンが名付けたユーラシア大陸を縦横に走る交易路で、また文化交流の道でもありました。私は国立情報学研究所(NII)の教授をしていた2001年にUNESCOと共同でディジタルシルクロード・プロジェクトを立ち上げました。プロジェクトの主目的はシルクロードの文化遺産等のディジタルアーカイブで、インターネットを通して広く世界に公開しています。(  http://dsr.nii.ac.jp/
 プロジェクトではシルクロードに関わる国内外の大学、研究所、歴史家、画家、音楽家、写真家いろいろな方々の協力のもとに様々なテーマについてディジタルアーカイブを進めています。特に、東洋文庫にはシルクロードと関連する貴重書が豊富にあり、この貴重書ディジタル化( http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/ )を最初に行いました。

 プロジェクトを開始して間もなく、イランのテヘラン大学でキャラバンサライ(シルクロードの隊商宿)の研究をしていた女性がこのプロジェクトへの参加を希望し博士課程の学生として受け入れ指導しました。来日間もない2003 年12月、イランで大地震があり世界遺産Bam城塞が崩壊し、彼女の強い要望で破壊されたBam城塞のディジタル復元に取り組みました。これには破壊前の写真やビデオが必要でNHKをはじめ、世界中の多くの人たちが提供してくれました。 ( http://dsr.nii.ac.jp/bam/  )  昨年、テヘラン大学でディジタルシルクロードのシンポジウムが開催されました。Bamのディジタル復元は相当進み、バーチャルに昔のBamの姿を再現しています。この成果はイランの文化遺産観光庁(ICHTO)で実際の復元の貴重な参照データとして重用されています。  広大なシルクロードのほんの一部分しか私は訪問していませんが、ディジタルシルクロードのWebサイトでヴァーチャルなシルクロードの旅を楽しんでいます。皆様も是非ご訪問されたシルクロードの写真やビデオなどを投稿してみてください。 ( http://dsr.nii.ac.jp/imdsr/ )  

一期一会
 振り返ってみると、自分の人生で人との出会いが私の人生まで変えることになっていることに気が付きました。KDDへの入社もたまたま科学雑誌での難波捷吾さんの「KDDが宇宙通信の研究を始める」という記事を見つけ、それがどういうことか調べようとKDDの研究所を訪ねてお会いした宮憲一さんの勧めで入社を決めたこと、私がKDDの研究所長をしていた平成3年、東大名誉教授の猪瀬博先生からの懇請で学術情報センターへ移り、大学教授としての教育・研究と新しい情報学の研究所設立のお手伝いをすることになったことなど色々あります。また、ディジタルシルクロードには現在も名誉教授の立場で関与し、様々な方々のご協力を得てプロジェクトは広く、深く進展しています。

 KDDの皆様には、色々な場面で大変お世話になりました。思いもかけず、平成14年には紫綬褒章、昨年は瑞宝中綬章受章の栄に浴し、祝賀会では多くのKDD(KDDI)のOB,現役の方々にも祝っていただきました。深く感謝しております。

 

 


 

3. 金城 晴八 さん (3月13日生まれ)

沖縄の田舎に伝わる伝統演武・棒術


 誕生日投稿の依頼を受けた時は軽い気持ちでお引き受けしたのですが、なにを書けばよいのか考え始めて、はたっと困りました。在職中の思い出を書くのも良いのですが、沖縄に出自のある名前を持つ私が沖縄のことを書くことは、k-unetの諸兄へこれまでと違った趣の話ができるのではないかと思い、『=沖縄の田舎に伝わる伝統演武・棒術=』としました。ちなみに、沖縄の田舎とは沖縄県島尻郡東風平村字小城(こちんだそん・あざ・こぐすく)です。このような棒術が昔から連綿と伝えられていることをお知りいただければ幸甚です。文中でてくる方言にはルビの代わりに( )内に読み方を示しました。

 小城(こぐすく)は那覇からKDDI沖縄海底線中継所への途中にあり、沖縄には珍しい海に面しない東風平(こちんだ)にある両親の故郷である。居間から糸満(いとまん)の輝く海が見え、その沖合に慶良間(けらま)列島が見渡せる山間の農村地帯である。沖縄と言えば、コバルトブルーの海と白砂の浜辺がイメージされるが、ここ東風平はそれとは縁のない地帯である。
 さて、村には古くから伝わる棒術がある。それは旧暦八月の豊年祭の中で演じられる。この棒術は百八十年余り前、先人達や首里奉公人等が護身術として習得し、村人に広めたのが始まりと伝わる。その後、二百余名で演じる集団棒巻(たかまち)が創作されて今日に継承されてきた。豊年祭の時期が近付くと、村芝居や棒術の練習で村中が慌しくなり、練習に明け暮れる亭主との夫婦喧嘩が絶えないと聞く。

 祭の当日、早朝から旗頭を先頭に行列が練り歩く。辻々では老若男女が演技を披露する。村を一巡した後、村発祥の地や南山王(なんざんおう)縁の拝所で勇壮な武術や優雅な踊りを奉納する。行列が馬場に入ると棒術が始まる。若者の迫力のある演武、長老の円熟した演武が続く。そして勇壮な集団棒巻(たかまち)の始まりである。

上手と下手から百名余の壮年・青年が雌雄の棒を各々抱えて現れる。馬場中央に進むと各々の棒が渦を巻き始める。巻き終わると、二組の棒巻(たかまち)が大きな掛け声に乗せられて天に突き上げられる。そして蛇がとぐろを解くように棒もちの頭が渦の中から姿を現す。二組の棒巻が解き終えると、次に合体して二百名余の大きな渦を描くと、豊年を祝う勇壮な掛け声と共に棒巻が沖縄の空に舞う。

そして、雌雄の棒が元の隊列に戻ると、小城の棒巻が終わる。この棒巻(たかまち)は五穀豊穣を祈願する蛇の舞とも、大空高く悠然と飛ぶ鷹になぞらえた若武者の舞とも言われている。残しておきたい故郷の伝統演武である。次の豊年祭は平成二十九年である。

<追伸>近況は次の通りです。
◇大阪府高齢者大学校関連
  平成25年度エッセー文学科終了
  平成26年度古典文学を楽しむ科修了
  平成26年度自然文化研究科修了
  平成27年度 未定
◇ボランティア関連
  大阪市城東区おもちゃ病院勤務(平成25年8月~)
◇自主研究について
     明治10年頃の東風平村字小城の状

 

Happy Birthday (2015年2月掲載)

Happy Birthday !


2月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  川添  質 さん、松田 隆治さん

 

 

1. 川添  質 さん (2月3日生まれ)

退職直後のベンチャ企業の経営と苦難について


 私はKDD退職後縁あって今で言うベンンチャ企業の或る介護関係のソフト開発会社の経営に携わりました。その会社は某有名国立大学の医学部の若手研究者との間で介護ソフトを共同開発しており、そのソフトが当時は非常に画期的な物でしたので一時は全国的に広く売れ、大手監査法人の指導のもと2-3年後には株式上場が出来そうなところまで急成成長したのですが、それ迄一手に委託販売契約をしていた業界大手の或る販売会社が社内抗争から任期途中の社長、専務の引退と言う不測の事態を引き起こしたため、それまでの同社との提携販売契約が崩れたのと時を同じくして、私の関係する会社でも最も信頼していた優秀な技術開発部長の莫大な背信横領事件が発覚し、意図空しく会社を整理せざるを得ないと言う正に晴天の霹靂の様な大変な事態に遭遇しました。
  それは規模こそ違い、まさに、あの忌まわしいKDD事件を思いださせられる様なものでした。その時はじめて実社会でも醜い派閥抗争ガあることを再確認させられ、一時は人間不信に陥り疑心暗鬼になりました。以後の何日間は社長と二人で主たる出資会社や出資者への事情説明と謝りで、時には怒鳴られたり、罵声をあびせられたりしましたが、最後は誠意を汲んでくれて、逆に励まし、やアドバイスを頂いたりして、折に触れつくづく人の情を感じるとともにKDD時代はよかったなあーと回想させられました。
 この様な事があって其の後一時体調をくずし急性心筋梗塞を併発しましたが、今は亡き妻の臨機応変による救急車手配で九死に一生を得てなんとか健康を取り戻しました。その時こそしみじみKDDは恵まれた本当に良い会社だったと痛感した次第です。
 

現況について

 

 現在は町内会のシニア倶楽部に入っており、毎月2回の囲碁教室と同じく月2回の麻雀同好会に参加し、地域の人達との友好交関係を深めています。また、或る人の紹介で数年前から三井物産OBの毎月の麻雀大会に特別会員として参加させてもらっていますが、この会はさすが海千山千のエリート商社マンの集まりだけに、当初は緊張し、時には大敗したりカモラレたりしましたが、今では楽しみながら気軽に対戦し、これ迄に3回程優勝もしました。KDD時代に覚えた麻雀とは段違いにハイレベルの厳しい対戦相手ばかりですが、人柄がよく、かつ、紳士的で対戦後の場所を変えての銀座のクラブでの夜の懇親会では、政治、経済、海外事情等の話題に花が咲きいつも勉強させてもらっており、それも楽しみの一つになっています。その他春、秋2回のゴルフコンペもあり、お陰様でKDD時代には経験できなかった異業種の人達との交流が出来、見聞を広め、ある意味では生き甲斐を感じています。
  私は昨年妻を亡くしてからは一時落ち込みましたが気晴らしも兼ね、家での読書のほかは、以上の様な交友関係の広まりのお蔭で今はなんとか年相応に元気でやっています。 [人生は只一度の招待です]ので今は残り少ない人生を日々悔いの無いように生きたいと念願しています。
  写真は、例年12月第一土曜日に銀座で開催しているKDDの同期会(1964年入社時のデンデン虫をなぞった、かたつむり会)の今年の写真です。

 
 

 


 

2. 松田 隆治 さん (2月11日生まれ)

近況報告


 私は昭和12年2月11日の生まれで、この日は当時紀元節、現在建国記念の日とされていて誕生日はいつも祝日です。生まれた年に日中戦争がはじまり、戦中戦後の大変な激動期に私は幼少年時代を過ごしました。そして平成27年2月に私は78歳の誕生日を、4月に私たち夫婦は金婚式の結婚記念日を、お蔭様で元気に迎えようとしています。

 平成9年3月末に会社を退職した後、私はすぐにKDD友歩会に入会し、会社にいた多くの人たちと親しく交友を続けてきました。昭和62年に発足した友歩会は、私が入会した頃はその最盛期で、奥様を同伴したりして100名を超える参加者が長い列をつくって12Km以上の距離や山登りも平気で皆元気に歩いていました。入会の翌年から私は世話人としてずっと会の企画や運営に携わってきて、2年前に石川恭久さんの後を継いで3代目の会長を務めています。
 しかし、友歩会はKDD退職者の会であるため、KDDの合併後は新たに入会する人が断たれてしまい、お蔭で会員の高齢化とともに参加者は減る一方です。k-unetのようにメールでも参加できる会とは違い友歩会では実際に集合場所に集合して一定の距離を歩かねばなりませんので、足腰が痛いなどと参加を取り止める方が出てきます。高齢化は本人だけでなくその配偶者にも同時に訪れるため、影響はわれわれの予想以上に速く、参加者は年々確実に減少しています。そのため世話人会ではバスや電車を利用して歩く距離を短くしたりして昨年11月には神楽坂の街を一巡りした後、第350回の記念大会を別亭鳥茶屋で開催し、そこで今後もできる限り長く会を続けたいと皆で話し合いました。 私は友歩会で退職後もこのように長年にわたってKDDにいた人たちと山や川や海岸、所旧跡などをともに巡り歩いて親しく語り合い、楽しく人生を過ごせたことをとても幸せに思っていますし、歩くことによって健康な体を保持できたことにも感謝しています。

 友歩会以外では、私は現役の頃からずっと庭でバラを栽培し、盆栽や鉢植えを数多く育て心が癒されてきましたので、この趣味はこれからも生涯続くことでしょう。数年前に急に夫に先立たれた私の姉から「夫婦とも元気なうちに行きたいところへ行っておきなさいよ」とアドバイスを受けて、私たち夫婦は最近あちこちへ一緒に出掛けています。行き先は2人が若い頃から好きだった山が主ですが、最近では登りに若い人の2倍も時間がかかってしまうため、これからの山行は、新穂高、乗鞍岳、立山、筑波山のようにバスやロープウエー、リフト、ケーブルカーで山の中腹や頂上近くまで楽に行ける山が、調べれば他にもいくつもあると思われるのでそういうところにしようと考えています。これも友歩会と同様の高齢化対応です。

私は富士山の写真を撮影することも趣味にしてきましたので、週間天気予報で晴の日を選び周辺の撮影ポイントにも2人でよく出掛けています。また私たち夫婦は大阪生まれの熱心な阪神フアンで、阪神タイガースの殆ど全試合CATVの実況中継で観戦しており、毎年西武・阪神2連戦には西武ドームまで応援グッズ持参で応援に行っています。その他JAF(日本自動車連盟)が東京で開催する新日本フィルや東響のコンサートには毎回必ず応募して入場券が入手できると一緒に出掛け、素晴らしいクラシック音楽の演奏を楽しんでいます。
 以上述べたように私の近況は、友歩会と趣味に生きる毎日です。 

 

Happy Birthday (2015年1月掲載)

Happy Birthday !


1月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  真田 一郎 さん、 西澤 太郎さん

 

 

1. 真田 一郎 さん (1月14日生まれ)

快汗快眠が体に一番


 昨年1月にKDD退職から14年が経過して古希を迎えました。生来のネクラにも拘らず大きな支障もなく健やかに過ごせるのはどうやら運動好きの女房の影響があるように思います。恐縮ですが、これといった健康法は意識していませんが「気持ちよく発汗する」と良い生活サイクルに入れるという単純なものです。
   現役時代は主に近隣のテニス好きの人達とファミリーテニスを、退職後はこれに加えて主に京都の禅寺巡りとか地元に近い大峰山系などの軽登山・ハイキングがこれに加わり現在の健康に繋がっているのかと思います。数回でしたがOBテニス東西交流会に参加して懐かしい愛好家のメンバ-とご一緒したのが良い思い出になりました。
 冬季は週に数回は低目の温度に調整された露天風呂を選んで2時間近く温まります。  一回当たり 2kg 弱のウエイトコントロ?ルをすると具合は良くて、ほぼ若い頃の体重に維持しています。ちょっとこれは筋肉量の減退分を考慮しないとまずいのですが。湯温 38 央ぐらいの温浴です。ぬるま湯なので、読書する人も見かけます。30分を過ぎるあたりから湯温が沁み始め、1時間経過すると上半身を出して心臓の負担を軽くします。体調を見てさらにもう1時間の半身浴です。その結果、夜は「素晴らしい睡眠」が得られます。翌朝は体がポカポカしており、これを数度経験すると止められなくなりました。ここ暫く腰痛でテニスは控えていたのですが、温浴効果なのでしょうか小康状態になり、今はさらに良くなってきました。車で南に約20分のところに古くは「阿騎野(あきの)」と呼ばれていた狩場だった自然の中で湯煙に酔いながら世俗を超越した気持ちになれるのが気に入りです。
 食の方では、香り豊かな蕎麦に憧れて50才台後半に蕎麦教室へ通い始めたことでしょか。毎年11月末頃に新しい蕎麦粉が届く頃、今年の出来具合はどんなんやろか、香りはどうか、などとソワソワします。我が家のクライアント以外に菜園の友を招いて試食をしてもらったりしています。新蕎麦を食べ始めて数週間すると体が軽くなったように感じます。蕎麦湯も食するもので、血管のごみ掃除に役立っているのでは...などと勝手に思い込んだりしています。
 このような日常に加え、現役時代に思いが実現できなかった10日ほどの海外旅行を数年毎に楽しんでいます。窮屈な機内に閉じ込められる10時間余の飛行に耐えられる体を維持していたいのです。
 第二の青春をいつまで楽しめるのか...これは「神のみぞ知る領域」です、先輩諸氏のご投稿を拝読させていただき参考にさせていただきたいと存じます。

<写真説明>
瑞西マインフェルト オ-バ-デルフリガッセという場所にあるハイジ村(おなじみのアニメ映画ロケ地)の入り口付近の公園です。 サンモリッツの宿泊場所に向かう途上で立ち寄り散歩しました、空気は美味かったです。

 

 


 

2. 西澤 太郎 さん (1月26日生まれ)

ポカラ(ネパール)の思い出


 ポカラは、ネパールの首都カトマンズから「西北西」に約200kmにあるヒマラヤ登山の入り口としてとても有名な地域です。私がポカラを訪れたのは、今から40年弱前のことで確か35歳頃のことでした。当時の日本とネパール間の通信手段は、短波によるものでした。数年前に日本(KDD)が供与した短波の送受信設備による通信状況が安定しない時間が多くなって来たため原因の調査をすることになり、私が短波の受信設備の担当として調査団の一員として出張することになりました。
 当時のネパールは、電源の状況が著しく悪く、頻繁に停電するのは当たり前のことでした。電源のルートを見てみると、一般の商用と通信用の電源が入り混じっていて、停電即通信断につながる状況でした。従って、通信が頻繁に途絶える原因の一つに停電があることが現地に入って直ぐ解りました。 

◆ 短波送受信設備の点検・修理
 私は、受信設備の調整・修理に取り掛かりましたが、大きな問題はありませんでした。急遽、中央局の設備(LINCONPEX方式)がうまく動作しないので見てほしいとの要請が出され、私の専門外でしたがこの設備の基本的な方式について知っていましたので早速とりかかることにしました。ところが、この方式は非常に細かな周波数調整を必要とするもので、調整には周波数カウンターが必須です。持ち込まれた周波数カウンターで調整を始めたところ、どうもこのカウンターの表示がおかしいことに気づきました。途方にくれたのですが、このカウンターを使う他に方法が無いので、まずカウンターの校正から手がけた次第ですが、表示のおかしい桁を運良く見つけることに成功し、無事調整を完了できました。 

◆ ポカラへの旅
 ネパールの通信の主管庁により我々調査団にポカラへの視察が1泊2日で設定せれ、同行することになりました。ポカラには、国内通信の無線基地があるということで興味を引かれました。
  当時の国内通信の手段としては、無線周波数帯としてVHF帯(アナログTV時代のTV放送で使っていた周波数帯付近)を使っていました。非常に過疎な地域の通信としては、無線通信は、効率的かもしれません。(カトマンズからポカラへのルート: http://goo.gl/xXcYV0  )カトマンズを車で後にしてポカラまであと40乃至50kmに達した時、あるはずの橋が洪水により流出していました。水の流れる川を車で渡らざるを得なくなりました。目の前でバスが川を渡っていくのを見ていましたが、運転手が躊躇していると、現地の親切な人が、川の中に石を投げてここを通れば渡れるとルートを示してくれました。お陰で無事に渡ることができポカラに到着しました。ポカラはとても景色の良いところで、ヒマラヤの山々を臨めるところです。 特に魚の尾という意味を持つマチャプチャレという山は、マッターホルンを思わせる鋭い山頂をもち、当時は信仰上の理由からネパール政府がまだ登頂を許可していなかったそうです。幸運なことにこの山並みが私達の到着に合わせてベールを脱いだのです。 

◆ 本場のカレーの辛さ
 夕食にインド風の料理がでてきましたが、一口くちにしてびっくりです、口を閉じることが出来ないほとの激辛です。また、薬味のように付いてきた緑色のものを、振りかけたところ更に辛さが増したのです。ネパールに滞在中、この辛さに馴染んでしまい、今でも辛いものが好きになってしまいました。 

◆ 行きは、良い良い帰りは怖い
 往路は簡単に川を車で渡れましたが、帰りは安易に考えたのか? 躊躇なく車は川に入っていったのです。川のほぼ中央で少し大きな石に当たったようでエンストとなりました。私達は、後部座席に座っていましたが、次第に車内の水嵩が増え、ついに膝のあたりを水が流れる様になったため書類やカメラを持って脱出することになりました。川の水は腰の下ぐらいあり、何とか川岸にたどり着きましたが、問題はカトマンズまであと200km弱をどのようにして帰るかでした。車は、川の真ん中に止まったままです。そこで異様な光景を目にしたのです。現地人が20名ほど土手の上に現れ見物しているではありませんか。すると運転手は、彼らと交渉して金を払い車を川岸まで押出しました。

 ここからがさらに感心したことです。運転手は、水が入ってしまったエンジンオイルを全て抜き取り、新しいオイルに交換したのです。作業が完了するまで約2時間、エンジンは見事にかかったのです。ガソリンスタンドや自動車整備工場のないようなところで車に乗るには、入念な準備と技術が必要なことを痛感させられました。しかし、車の座席には、スポンジが入っていて水をタップり吸い込んでいました。カトマンズまでの約4時間強の間、座席からの水がズボンを濡らし続けていました。お陰で帰国後ひどい風邪を引いてしまいました。その後ネパールの国際通信は、CW (Cable & wireless) からの地球局の供与により衛星通信に移行しました。 

◆ 最後にちょっとおもしろい話
 Yes は、「首を横に振る」。これは、イエス・キリストのことではなく、インド系の多くの方が Yes という返事をする時のことです ニコニコしながら Yes といい、首を横に振る仕草に最初はとても戸惑いました。でも慣れるととても親密感を抱くようになりました。ネットで調べたところ、この仕草に戸惑った日本人は、少なくないようです。
   懐かしい昔の話です。

:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:

 

ネパールでの思い出

織間 政美 2015/01/07 00:33:02    


私は当時の有竹常務と市原回線統制部長の御供をしてビルマからネパールに入りました。ビルマで出された干しブドウが乗った1口サイズのケーキを食べようとしたら動くので、良く見たら蝿取紙から落ちてきた蝿でした。止めると失礼なのでそのまま食べました。翌朝から下痢がはじまり次のネパールに行き、送受信所の視察をおえてホテルに入った頃はかなりひどい状態でした。翌日ポカラ観光を誘われたが、ひどい状態なので、ホテルで休ませてもらいました。ベットの上で、視察した内容をまとめ、ネパールにあったHFシステム構成と必要な機材を図表にしておきました。翌日会議の日カトマンズの官庁が火事で、ホテルの中で会議し、この図表が承認され、必要な機材をKDDが供与し、設置することになりました。この工事には、懐かしい亡き浪間さん田尻さんが行き、無事回線が出来ました。その後西沢さんが保守に行ったことを知り、浪間さん田尻さんを思い出して、我が仲間がネパールに関与したと大変嬉しく懐かしく思っています。

 

Happy Birthday (2014年12月掲載)

Happy Birthday !


12月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  中島 薫 さん、松平 恒和 さん、古澤 嘉平 さん、

 

 

1. 中島 薫 さん (12月9日生まれ)

近私の健康法


 (株)テレサーブを定年退職して早や23年。12月で齢83歳を迎えます。この間あっという間に歳月が過ぎ去ったように感じます。今は、ただ健康に注意してこれからの余生を過ごしたいと思っています。そこで、現在の私なりの健康法について紹介してみたいと思います。

● 先ず一つは、体を動かすことです。家の近くに生命の森リゾート(千葉県長生郡長柄町)という広大な自然の中で本格的なスポーツができる施設があります。そして、体力アップのための多彩なプログラムと設備があり家内ともども主に水泳を中心に運動をしています。10年前は全くの金槌でしたが。他に、各種マシンによる筋力アップにも挑戦しています。
● 二つには、声を出すことです。

● 運動を通していろんな人と知り合い世間話に花を咲かせます。殆ど定年者の集まりなので屈託がなく楽しいですよ。また、自治会の有志でカラオケサークルをつくっています。私も地域の代表として時たま市民センターなどで喉を競いますが入選しません。目標は県大会出場ですが。

● 三つには、体調の検査をすることです。この施設に付属する診療所で年一回の人間ドックを行って、健康状態を見てもらっています。今のところ、健康には大きな問題はなさそうです。まずは安心。また、歯は健康の元とも言いまので、年二回の歯の検診をしています。虫歯が見つかっても即その場で治療してくれます。お蔭で、8020を維持しています。


以上ですが、ゆるやかな生活を送れるのも健康と会社あってのお蔭と感謝しています。

 

 


 

2. 松平 恒和 さん (12月15日生まれ)

グローバル人材育成しながらジャズミュージシャン


 合併の翌年KDDIを退任してから既に10余年が経過しました。KDDにお世話になった32年のうち約28年を国際部、その前身の部門もしくは海外で過ごし、数知れぬ国際会議や国際交渉を経験。その中で身につけた技術やノウハウを若い世代に少しでも伝えようと、早稲田大学や日本ITU協会などのお手伝いをし、また4年前には様々なバックグラウンドを有する同志達と今はやりのグローバル人材育成のNPO法人を立ち上げ、ほぼ毎月講を催すなどの活動を行っています。
 一方、最近では私と英国の古い縁から、神田外語グループが福島県天栄村に展開しているリゾート型研修施設 "British Hills"の非常勤の館長に就任しました。海抜1千メートルの羽鳥高原に7万3千坪の「英国村」が出現して満20年。

日本に居ながら純英国風環境の中で、英国もしくは英連邦から来ている教師陣(間違ってもアメリカ人はいない!)から英語を学び、異文化体験をするというユニークな世界です。もちろん一般のお客様もホテルや結婚式場として(日本語で)ご利用になれます。私の役割はここが「純英国風」であり続けるよう監視し、また上述のグローバル人材育成に助力することです。

 そんな訳で、お蔭さまでKDD時代に培った経験を活かして日々を過ごしている一方、実はもっとも時間と労力をかけているのはジャズクラリネット奏者としてのミュージシャン活動です。学生時代に熱中した音楽(管弦楽とジャズ)でしたがサラリーマン時代はほとんど封殺されていました。今はその反動か、月に10回、ひどい時は15回以上のジャズライブを銀座、赤坂、六本木、新宿などのライブハウス等で行っています。ジャズといっても古いディキシーランドやスウィング系のスタイルで すが、最近ではこれらライブの半分以上がその方面のトッププロのジャズメン達との共演で、KDDのOB・OGの皆様にもよく聴きに来ていただいています。
 プライベートの方では二人の息子からそれぞれ3人ずつ、計6人の孫ができました。 目下小6から5歳までの5女1男ですが、私に似ず全員スポーツが得意なのは何故でしょうか。

以上にご紹介した活動について、ご興味があれば次をご覧ください。
● 特定非営利活動法人 国際人材創出支援センター:
  http://icbjapan.org/ 
● ブリティッシュヒルズ:
  http://www.british-hills.co.jp/ 
● ミュージシャン:
  https://www.youtube.com/watch?v=z4eepA2eG_w 

 (その他、YouTubeを私の名前で検索していただくと多数出てきます!)

:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:

 

クラリネットの響き

 

鎌田 光恵 2014/12/04 10:26:21    

殿のニックネームに相応しい風格あふれるセカンドライフ!  そして遊び心満喫のクラリネットの響き! 今後はジャズの音が聴きたいときはいつも Happy Birthday! のこのページを開くことにします。 (鎌田光恵)

 

 


 

3. 古澤 嘉平 さん (12月17日)

シニア世代を元気に生きる・・・私の健康法


 私のモットーは、「心身ともに毎日を元気で、健康に過ごす」ことです。毎日、何もせずにボーット過ごすと、身体機能が低下し、気力がなえ、「ぼけ」が進行することにもなります。
 以前、「天声人語」の欄に、アンチエージングのボケ防止には「教養」と「教育」が、「今日用があり、今日行くところがある」 ことが大切との記事がありました。年齢を重ねると体を動かしたり、考えたり、外出するのが次第におっくうになり、家に閉じこもりがちになります。このことが体や脳の機能低下・やる気をなくし、急速に老化が進むことになります。
 ある健康誌によると、体力は年齢によって違ってきても、脳については、「もう歳だから」という言葉は当てはまらず、常に頭を使って脳を上手に刺激することによって、幾つになっても脳は育ち 「脳は、年齢よりも、使い方 で変わる」 とのことです。脳を活性化するためには、脳内の血液のめぐりを良くすること、手と脚、口を積極的に動かすことにより、脳全体の血液のめぐりが良くなり、それに呼応して司令塔の前頭葉が育てられるとのことです。私も残された人生を「生き生き」と元気に過ごすために、次のようなことを心がけています。

 

● 大学や県・市の教養講座を積極的に利用して知識を吸収し、頭の活性化を図る。また、地域の人々との会合、クラブ活動等を通して、仲間たちとの交流・親睦を図り、絆を深める。

● 何事も年相応、無理をしない。

● 定期的な健診により健康状態をチェックし、バランスのとれた食事・腹八分、医食同源。

● 趣味を持ち、心を豊かにする。仲間たちと歌やコーラス、オカリナ演奏など、音楽を楽しむ。

● 骨や関節、筋肉などの運動機能を維持するため、できるだけ体を動かす。起床、就寝時の軽いストレッチ、ラジオ体操、ウォーキング、仲間たちとペタンクゲームやラケットテニスなどのスポーツを楽しむ。


 なお、現在の課題は、口腔内を手入れして食事をおいしく、楽しめるようにすることです。 私も12月で満83歳を迎えますが、これからも頭と体の健康を維持し、これまでの経験と知識を生かして 「人生をますます愉しく、味わい深いもの」 にしたいものと願っております。

 

 

Happy Birthday (2014年11月掲載)

Happy Birthday !


11月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
  鈴木 英昭 さん、 高橋 俊雄さん

 

 

1. 鈴木 英昭 さん (11月12日生まれ)

近 況


 1997年(平成9年)に退職以来、早いもので既に約17年が経過しました。リタイア直後、今後はまず「健康」が第1に重要であると思い、その健康維持のためには、規則正しい生活を送るように心掛け、特に食生活には好き嫌いなく栄養バランスのある食事をとるように留意しています。これに加えて「ピンピン、コロリ」の理想を目標に掲げ、そのためには肉体的、精神的な両面対策の必要性を強く感じたことから、まず「肉体的な体力低下の防止策」としては、運動が重要であり散歩やゴルフ等を行うこととし、「精神的なボケ予防策」としては、頭を使うことが重要で株式投資等を行うこととし、これら2点を心掛けて日常生活を送るよう実践しています。また生来の医者嫌い、薬嫌いによる自然治癒力まかせの生活は今も殆ど変わらず、老化現象が忍び寄るのを若干感じていますが、前述の健康維持の留意点などの生活対応にも助けられて、リタイア以降、幸い大病もなく、風邪をひくこともなく、極めて元気に日常生活を送っています。そして先述の「肉体的な体力低下の防止策」等の実践については、次に記述する「つれづれ会」活動の好影響に支えられて健康への効用が絶大であり、メンバー諸兄に大いに感謝しています。
 「つれづれ会」は、退職を目前に控えた同年輩の有志で結成され、リタイア後における情報不足を危惧して、気の合う仲間同士間で情報交換を行い、また親睦を図ることを目的に1997年(平成9年)4月に発足した会です。この会には明文化された会則もなく、また会長も置かず、入会・退会や休会は本人の自由意志に任せるというもので、まさに有志による本当に「自由な懇親会」です。これまでメンバーに若干変動はあったものの、2014年(平成26年)10月現在7名で、発足以来、小生が幹事役を務め、17年間以上の長きにわたり継続しています。

 写真は、平成26年10月16日(木)に「ぶらり旅」の記念に撮ったものです。場所は東京都港区白金台にある「八芳園」の中の庭園で、左から筆者、続いて城下征治、大場光男、橳島明、鈴木雄二、見城正幸です。月に1回、楽しいひとときを過ごすための月例会については、「1次会」と「2次会」があり、「1次会」は、旨い物を食べながら楽しく酒を酌み交わし、相互の近況や参考となる情報などを話す「情報交換の会」であり、また「2次会」は、スナック等で演歌などを楽しむ「ストレス解消の会」です。このほか、自由参加の海外旅行または国内旅行を楽しむ「旅行の会」が年1回あり、海外旅行は10年を区切りに現在休止中ですが、これまでに海外は台湾、タイ等のアジアや、イタリア、スペイン等のヨーロッパ、計20ヵ国の旅行を、また国内は北海道等の旅行を楽しんできました。
  さらに、2004年(平成16年)から新企画として、「健康の維持増進」を目的に東京都内の名所名跡などを巡って1日約6~9Km歩く、「ぶらり旅」を月例会当日の昼間に実施しています。この「ぶらり旅」は、橳島明氏が幹事役を務め、鈴木雄二氏が散策コース案の作成や案内役を務め、これまで約1年間の休止があったものの、約10年間続いています。これまでの散策範囲は、JR山手線の外側近傍と山手線の内側全域で、これらの区域に点在する由緒ある神社仏閣や著名な庭園・公園、著名人ゆかりの地のほか、著名人が眠る雑司ヶ谷霊園や青山霊園なども訪れました。このほか、品川や谷中の七福神巡りや、東大・早大・慶大、東京理科大、国学院大などの博物館や歴史的建物の見学、さらには国会議事堂内の見学も行ってきました。
 近年、日本列島は自然災害が多く秋晴れの毎日ばかりではありませんが、皆様方のご健康とご活躍をお祈りします。 

:+:-:+ 会員の皆様から一言 +:-:+:

 

7人の侍の「月一ぶらり旅」いいですね!

 

鎌田 光恵 2014/11/02 22:46:05    


会の幹事役、ぶらり旅を計画する役などうまく分担しておられるので会が17年間も維持できているのですね。うらやましいです。 家に籠もらず外に出かければ新しい発見もあり、長生きできますね。 一家のアルジ殿が元気で溌剌しているとみんなが幸せになります。 活動の様をk-unetのHappy Birthdayコーナーにご紹介下さいまして誠にありがとうございました。(鎌田光恵)

 

 


 

2. 高橋 俊雄 さん (11月26日生まれ)

近 況


 今年の誕生日で68才になります。昨年3月末にサラリーマンを卒業して、毎日が日曜日状態になりました。しばらくは、朝早く起きる必要もなく、ゆっくり新聞を読んだりテレビを見たりと、のんびりしていましたが、多趣味で情報通の友人(10年以上も前に某メーカーを早期退職)が、各種イベント(美術展、コンサート、演劇、文楽公演、科学/文化講演会、展示会など)を頻繁に紹介してくれる様になったので、出来るだけ出かけて、未体験ゾーンでの経験を楽しんでいます。
 また、「ボケ防止」、「健康維持」および「友人のアドバイス(ボランティア活動の勧め)」を念頭に、以下の活動を行っています。

◆囲碁

KDD研究所時代に囲碁を始めましたが、「ザル碁」を卒業できませんでした。そこで、一念発起し、今夏から囲碁の上達を目指して勉強(?)を始めました。日曜のNHK囲碁番組を欠かさず見るようにし、また、地元の囲碁同好会での対局(月、木の午後)で腕試しをしています。急な上達は望めませんが、考えて打つ様にしているので、脳の活性化には役立っていると思います。


◆観光ボランティアガイド


東京都の募集を知ったので、今年4月に、英語での観光ボランティアガイドに登録しました。登録者が多いためか、ガイド依頼は少ないのですが、勉強のために、折々に、都内の観光スポット、名所旧跡、庭園、博物館、歴史資料館を訪ね歩いています。一日に2万歩以上歩くので、足腰が鍛えられます。(普段も、1万歩を目標に歩いています。) 都内の観光コースをガイドする活動以外に、臨時の観光案内所でのコンシェルジェ的な活動依頼もあります。 写真は、外航客船「ミレニアム号」(9万トン、全長300m、乗組員1000名、乗客2100名)の東京港入港時の活動記念写真です。


 

Happy Birthday (2014年10月掲載)

Happy Birthday !


10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
  出石 昌三 さん、 小川 桂子さん、 相馬 良明 さん、豊川 修司 さん

 

 

1. 出石 昌三 さん (10月3日生まれ)

ミャンマー郵電公社(MPT)の思い出


 2014年7月1日17付けの日経新聞(電子版)は、「KDDIは住友商事と組んで、ミャンマーの携帯電話事業に参入し、約2,000億円を投じる」と伝えた。そして、KDDIの石川雄三取締役は「ミャンマーの情報化を牽引したい」と記者会見した。長い間、ミャンマー郵電公社(MPT)の国際部門の方々と付き合ってきたものとして、"ついにミャンマーとも新しい時代を迎えることになった"と、感無量の思いであり、うれしさでいっぱいである。総裁(ウータンタン)をはじめ、ウーセーウィン(国際部門トップ)、ウーソームーディー(伝送部門担当)、ウーゾーチン(交換部門担当)は今でも健在なのだろうかと若かりし頃の姿を思い出している。
 KDDは、両国間の疎通改善、ODA(政府開発援助)を使っての人材育成、円借款による衛星地球局、国際交換局の設置などを、国際協力の名のもとに推進してきたが、ミャンマーとの間では、1986年5月にMPTとコンサルティング契約を結び、ヤンゴン郊外に衛星地球局を、国際交換機をヤンゴンの中心地にある中央局に設置すべく、現地調査などを行い、その入札仕様書を作成した。もう28年前のことである。

 しかし、ミャンマーでの民主化運動のうねりのなか、軍事政権が1990年の選挙結果を否定したため、日本政府は、ミャンマーにたいして、厳しい姿勢を取るところとなり、経済協力は、大幅に削減され、毎年300億円から400億円のレベルを維持していた円借款はストップされ、また、100億円近くあった無償資金協力も停止され、われわれの国際通信改善プロジェクトは頓挫した。
 その当時、MPTはNECが商業ベースで納入したNO.5国際交換機を中央局に、また、スタンダードB地球局(コンテナ型)を短波送信所エリアに設置して、国際通信を疎通していたが、その規模が小さく、需要に応じた国際回線を増設することが、はなはだ難しく、さらには、MPTには回線増設パネル(SCPC)を購入する資金に余裕がなく、KDDは、これらのパネルを現地に持参し、MPTの回線増設を支援した。 回線増設では、回統部の古賀君が大活躍してくれたし、円借款プロジェクトでは、衛星伝送部の小野君、近藤君、山根君、国際部では、木本先輩、菅田君、小池君などが、度々ミャンマーに出向き、活躍してくれた。
 当時は、外国人が泊れるようなホテルはほとんどなく、ヤンゴンの中心地から北の郊外に位置する、インヤー湖湖畔にロシアの援助で建設された「インヤー・レイク・ホテル」を利用したが、トイレット・ペーパーや蚊取り線香の携行は必須であり、夜は明りが十分でない部屋で、蚊取り線香をたきながら、仕事をした。 ホテルには、地ビール(マンダレー)があったが、7時ごろにレストランに行くと、もう「売り切れ」で、ここでの唯一の楽しみを取り上げられ、がっかりしたことを思い出す。

 住商の事務所は、スーレー・パヤ(仏塔)近くにあったが、MPTのオフィスに近かったことから、資料つくりなどでよく使わせてもらった。 ロンジー(腰巻)をいつもはいていた滝田さんには大変お世話になったが、今はどうしておられるだろうか。
 2011年3月、ミャンマーは新しい憲法のもと、新しい大統領を選び、新政府を誕生させた。この新政府は、民主勢力のリーダー、アウンサンスーチーをも取り込み、本気でこの国を変えようとしている。2013年6月7日、日本政府は、510億円の円借款を決め、貸付契約に署名した。
 KDDIは、今回の携帯電話事業への参入により、モンゴルやロシアでのプロジェクトのごとく、本格的、かつ、長期にわたり、ミャンマーでのビジネスを展開していくことになろう。日本とミャンマーとの過去の歴史を見れば、多数の日本人を太平洋戦争(インパール)で失うとともに、ミャンマー国民に多大な迷惑をかけてきた。時間はかかったが、歴史は動き、少なからずのお返しができる時期が到来した。お互い、仏教徒であり、東洋民族でもある。KDDIおよび住友商事の関係者のみなさんの奮闘を心から願っている。

:+:-:+ 会員の皆様から一言+:-:+:-


私もヤンゴンに行きました

吉澤 生雄 2014/10/04 11:36:58    


 出石さん、ミャンマーの思い出面白く読ませて頂きました。ちょうど、今週か来週辺り(10月の初め頃)、KDDI財団の人達がヤンゴンを訪問し、児童向けの美術教室を開くと聞いています。私も、この7月にミャンマーへ行きました。仏教が人々の生活の中に溶け込んでいましたね。
 同行した知人も30年前にインヤ-レイクホテルに泊まったといってました。当時は、ロシア系だから最も安全だったそうです。でも、現在は当時と比べて様変わりだとか。街は日本車が溢れていました。でも、バンコクやジャカルタと比べるとまだまだ渋滞は少ない。
 通信も東南アジア諸国の中では最低レベル。回線が細く、一般のインターネットではYoutubeの動画が見られない状態。私のブログでヤンゴン訪問記を書いています。お時間があるときにでも覗いて見て下さい。
 「一燈照隅的なお話」 ヤンゴン訪問記
  その1( http://light4you.blog.fc2.com/blog-entry-171.html )

 

 


 

2. 小川 桂子 さん (10月9日生まれ)

小野受信所


 私は小野受信所で生まれ その後引っ越しと疎開の後 終戦の年に小野に戻り 小、中学校時代を過ごしました。食糧難でいつもお腹がすいていましたが自然と友達はいっぱい、楽しい日々でした。私の人生の基礎を作った時でした。受信所は田んぼと山に囲まれ、田んぼの中には空中線、山には鉄塔があちこちに立ち独特の景色でした。夏、ムセンの子供たちは連れだって山の中の溜池に行き、木が池にせり出しているところから水に飛び込んで遊びました。トロンとした緑色の水の表面は生暖かく、水底は冷たく水草などが脚に触り気味悪かったのですが夢中で遊びました。
 ある日そろそろ帰ろうかという時、鉄塔に登ろうという子がいて、7,8人の女の子たちは山の中の鉄塔に向かいました。鉄塔は真下から見上げるとてっぺんが空で泳いでいるようでした。始めにリーダー格の女の子が鉄のはしごに手をかけ、私ともう一人の女の子が続きました。時折周りを見る以外ひたすら上を見て登りました。舟形をしたてっぺんは3人の女の子が動き回れるくらいの十分なスペースがありましたが、床の隙間から豆粒のような下にいる子達の頭が見え、てっぺんが揺れているのがわかり始めて怖さを感じました。それでも遠くの景色を目に焼き付けてから、はしごを降りたのです。こわばる手ではしごをしっかり握りしめ、足を踏み外さないよう自分に言い聞かせながら降りました。その時が一番緊張しました。
 小野受信所の施設、空中線、鉄塔は撤去され今はありません。今は昔の話。

 

 


 

3. 相馬 良明 さん (10月21日生まれ)

近況(ウォーキングにハマっています)


 2007年3月末に退職する前は、妻とほぼ毎週のようにワゴン車で出掛けておりました。日帰りまたは1泊で、行き先は関東・中部・東北が中心でした。退職を機に、キャンピングカーを購入し、その行動範囲は北海道・近畿・四国・九州地方へと広がりました。日数も長い時には10日~2週間位となりました。そうなると毎週というわけにはいきません。先立つものが続かないからです。
 旅に出掛ける以外は、家でごろごろして、身体を持て余しておりました。そんな私を見かねたのか、退職した年の誕生日に、妻から「万歩計」のプレゼント。早速身につけて、妻と一緒に家の近所を歩くことを日課にするようになりました。
 退職して1年ほど経ったある日、新聞折込の地方版に、県のある団体が主催する「歩く会」のハイキング記事を妻が見つけ、『行ってみたら?』と勧められ、参加してみることにしました。入会してちょうど1年経った頃に、運営を巡ってのもめごとがあったらしく、「歩く会」は突然閉会となってしまいました。この先どうしようかと考えていたところに、「歩く会」を担当していた方から、『毎週1回地元周辺を歩く私的な会だけど、どうですか?』とのお誘いがありました。

 主催する方は、何と同じ町内会の方でした。迷わずに入会しました。2009年4月のことです。以来6年半になりますが、1カ月ほどの夏休みを除いて、ほぼ毎週歩き続けております。今では、年間スケジュールの企画とコース地図の作成を任されるようになりました。年に5~6回バスハイクを実施していますが、参加者の確認・連絡の他、バス・弁当の手配から、入浴施設の確認・交渉など全般をやらせていただいております。 また、例会の様子を写真に撮り、ブログへのアップなどで、多忙な日々を送っているこの頃です。
 毎週の歩きに飽き足らない訳ではありませんが、「関東ふれあいの道」を企画して、前述の「歩く会」を通じて知り合った別の仲間と、毎月1回関東の山々を歩いています。 これまで、茨城県・東京都・神奈川県の「関東ふれあいの道」を歩きました。 この9月からは、新たに埼玉県の「関東ふれあいの道」に挑戦しています。 各県が発行する「踏破認定証」を受領することが"モチベーション"に繋がっているのかもしれません。

 さらに、「関東ふれあいの道」とほぼ同じ仲間ですが、「旧街道を歩く」と称して、旧水戸街道・旧成田街道・旧日光街道を歩き終えました。 現在、旧東海道を三島宿へ向けて歩いている最中です。 今回の誕生日を迎える頃には、とりあえずのゴール三島宿へ到着して、仲間と一緒に美味しいお酒でも酌み交わしていることを 想像しております。 三島宿から先(京都三条)へは、具体的な計画は未だですが、気の向いた時に皆さんにも声を掛けて、一緒に歩こうかなと思っています。
 一時は「KDD遊歩会」にも参加していて、KDD-OBの皆さんとも、首都圏各地を歩いておりましたが、前述のような忙しい状況で、やや足が遠のいているこの頃です。 故障や破損で買い代えた「万歩計」は、4代目となりますが、今でも肌身離さず毎日身に着けています。 買って貰ったその日から記録し始めた"歩数"は、この誕生日で丸7年になります。

 数年前から、妻から『最近、あまり一緒に出掛けなくなったね』との声が漏れるようになってきました。 『これはまずいっ』と思い、共通の目的として「道の駅」スタンプラリーを始めました。 道の駅を回って、スタンプを押すというものです。「道の駅」では産直野菜などの買い物も欠かしません。 一応関東地方は全て回り、中部・東北地方の「道の駅」もかなりの数スタンプを押しました。 そんな中、2010年7月に上田市の観光センターで、たまたま妻が「日本100名城」の本を見つけました。 歩くことには全く興味を示さない妻も、『これだったら、一緒に行っても良い』と言うので、早速買い求め、「日本100名城」を巡ることにしました。 お城を回って、台帳にスタンプを押すだけですが、47都道府県に散らばっている全てのお城を回るというのは、なかなか大変なことです。 お金も時間もかかりますが、妻と共通の目的を持つことは大切なことと考え、続けている次第です。 主にキャンピングカーを利用して、各地の観光地も併せて訪ねていますが、長野県の上田城から始めたお城巡りは、現在までに89城に登城しました。 残り11城は、北海道・九州・沖縄などと家から遠い所ばかりですが、ここまで来たからには、何としても全ての城のスタンプを押そうと妻と励まし合っているところです。
 会社勤務の頃から釣りが好きで、今でも元会社仲間と房総・鹿島方面へはよく出かけています。 かつては、遠く新潟や佐渡にも遠征していました。 多い時は年に20回以上も釣行していましたが、最近は、ウォーキングで時間が割けないこともあり、釣行回数はめっきり減ってきました。 しかし、現役も含めた元会社仲間との釣行は欠かさず行っております。釣りの合間に一杯飲みながら、昔話に花を咲かせるのが楽しみのひとつとなっているのです。

 前述のように、近況としては、年中ウォーキングやハイキング、城巡りで歩き回っている状況です。 ウォーキングは、健康を保つために始めたことですが、今では私の生活の一部であるとともに、地域の皆さんと過ごす大事な手段となっています。体力と気力が続く限り、続けて行きたいと願っている所存です。 また、日記代わりに始めたブログですが、最近はウォーキング一色となってややマンネリ化の傾向になっていると、自分でも感じていますが、今後も続けていきたいと思っています。 このブログを続けるということが、健康であるという証明になると思うのですが・・・。「日本100名城巡り」もブログで紹介しております。 興味のある方はご覧いただければと思います。

「ウマさんの気ままな行動日記」

 http://blog.goo.ne.jp/umasan1828/e/867f93f4c28b7307be42f4a08a796feb 

 K-unet会員の皆様、本コラムまたはマイブログへのコメントお待ちしております。

:+:-:+ 会員の皆様から一言+:-:+:

 

誕生日、おめでとうございます

金坂 祐爾 2014/10/21 09:22:43    


4代目の万歩計、釣り、古城めぐりそして奥様との共通の目的が健康の秘訣とお見受けしました。花言葉の「聡明」とお名前の良明さん、よく響きます。当方上欄写真の川越在住です。

 

 


 

4. 豊川 修司 さん(10月24日生まれ)

会社の皆さんに感謝
―培われた国際性と行動性、今なお健在―

 

1.名前も知らない会社へ

 皆さん、こんにちは。豊川修司と申します。1997年3月、牧師になるため52才で会社を早期退職してから、既に18年が経ちました。この10月で丁度70才になりますので、会社時代を振り返りつつ、現況を手短に報告したいと思います。初めは会社との不思議な出会いのことです。工業高校の入試合格発表を見に行くと、受験した科には名前が無く、受験しない「電気通信科」に名前がありました。更に、高校3年の就職の時期に、早い段階で大手電気メーカに内定したものの、11月に行われた健康診断で異常ありとのことで内定を取り消されました。就職の先生は、落胆している少年に「豊川、こんな会社から求人が来ている。おそらく外国へ沢山行けるぞ、行くか?」との問いかけに、迷わず「はい!」と答えたのを覚えています。こうして「名前も知らなかった会社(KDD)」に。この不思議な導きは神様が用意されたのかな。

2.世界を相手に、この会社は凄い!

 入社して現場に配属された職場は、短波通信業務の衰退で、事業所は廃局を余儀なくされていました。残務整理の独身者は私一人、最後まで残りました。連日、書類の焼却や撤去設備の片づけで、「くじけるな!」と言われても無理でした。最後は局舎に鍵をかけ、たき火で沸かした熱かんで、互いに労をねぎらいました。翌日、上司は、私を本社に連れて行き、役員一人一人に「最後まで頑張ってくれた豊川君です」と紹介しました。「ああ!最後まで諦めないでよかったなー。」当時は、これが感激だったのです。
 東京での新しい職場は、伝送路や電話回線を作る部門でした。先輩は、韓国との電話回線設定作業の時、私に「ヨ・ボ・セ・ヨ、ソウル、ヨ・ボ・セ・ヨ、ソウル」と言いなさいと教えました。外国語すらろくに話しできなかった者が、外国人と話会うなんて、なんて凄い会社だろうと驚きました。それから通信ネットワーク構築にひた走りです。


3.大好きな会社に別れを告げる

 このような中、30代半ばで最初の人事部、40代で2度目の人事部、40代後半で3度目の人事部を経験しました。真夜中に職場を廻り、遅くまで仕事をしている人に声をかけ、会社を支えている人材がいかに大切かを知りました。でも当時は、本当に忙しい会社生活でした。当時、小学2年の長男は、その様子を日記にこう書いています。「今日、お父さんが休みだと思っていたら、11時にまた会社に行くというのでかわいそうな気がしました。お父さんはまだ、きのうの疲れがとれていないようでした。これからもおとうさんがんばってください。」(原文のまま)。子どもと家庭は妻に任せ、子どもがどう大きくなったかも分からず、ただひたすら仕事に打ち込む企業戦士でした。
 しかし、3度目の人事部を経験する中で、将来に対して、もっとなすべきことがあるのでないかと自問自答した結果、牧師になろうと決め、52才で会社を辞めました。 この時が「時」だったのです。それから神学校に3年半通い、牧師試験に合格して東京高島平にある教会に招聘されました(56才)。早期退職して既に18年が経ちました。今年の10月24日が満70才誕生日で定年ですが、働きの継続を要請されています。


4.80才に向けて、これからを生きる

 さて、70才になって、前述のように振り返ると、KDD時代に培われた外国人との付き合い、スピーディーな行動、幅広く人を知る知恵は、牧師になっても基本スタンスは同じです。これからも生涯現役で80才を目標に、国際性を持ちつつ、人と関わる仕事を継続していきたいと思います。東日本大震災で今なお仮設住宅で暮らす人たちの支援や、高齢者の社会福祉法人施設評議員や高齢者へのお話し、認知症サポーター、人生相談など連日舞い込んできますが、「喜ぶ人と共に、悲しむ人と共に寄り添う人生」は、何にも代えがたい価値ある生き方だと思っています。しかし、忘れてならないことは、好きなようにひたすら走れたのは、妻の理解と協力があったからです。これからはどちらが先に天に召されるか分かりませんが、妻には感謝をし続けたいと思います。
 70才を機に、改めてKDDという素晴らしい会社で働いたことと皆さんにお世話になったことに感謝します。一方、当時、会社を突然辞めて挨拶する余裕すらなかった無礼をお許しください。皆様方の人生が、これからますます喜びと希望に溢れ、充実した日々を送られますようにお祈りしています。

:+:-:+ 会員の皆様から一言+:-:+:

古希、おめでとうございます

金坂 祐爾 2014/10/21 09:23:19   

>この会社は凄い!-----まさしく同感! 本当にありがたい会社でした。 仕事・待遇・ひと・etc.
>80歳に向けて-----宮仕えから信仰の道への転身。 困窮者への奉仕。誕生日の花言葉の「公平」プラス、トヨさんの場合は「博愛」がぴったり。 トヨさんであればこそ、更に奥様の絶大なる支えがあったればこそ歩めた、そしてこれからも歩む道! 古稀といっても、K-unet会員の年齢構成を見ると互いにまだまだ若輩。 生涯現役。 ますますのご発展を!

 

Happy Birthday (2014年9月掲載)

Happy Birthday !


9月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  青木 丈夫 さん、矢部 靜樹 さん、 矢島 勇夫 さん

 

 

1. 青木 丈夫 さん (9月13日生まれ)

70翁ボランティア奮闘記


 数年前から、地域の小学校のパソコン授業をサポートするボランティア活動に参加している。ボランティア活動の要請は学校側から来るが、夫々の学校のパソコン教育に対する考え方が一律ではないので、事前に授業の目的や方法について学校側との打ち合わせが必要だ。
 私達ボランティアの原則は、小学校低学年(1~3年)のパソコン授業を円滑にすすめるため教師を補助することにあるが、例外的に教師のパソコン・スキルによっては、更に踏み込んだサポートを頼まれることもある。ボランティア活動は4人一組で行っている。
 各小学校にはパソコン授業の特別教室があって、生徒用の約40台のノートパソコンと、教師用のパソコンとで教室内LANが組まれている。
 当日は8時30分までに登校し、職員室で挨拶してパソコン教室の鍵を受け取る。先ず、生徒機の点検、先生機と生徒機との間の送受信のチェック及びプロジェクターとの接続を行う。そうこうするうちに、担任の先生に引率されて子どもたちがやって来て授業の開始となる。初めてパソコンに触る子供も多いので、マウスの握り方から始めて基本操作の説明を行う。

 授業は予めインストールされているキューブキッズ4(スズキ)やポケモン(PokemonCo.)の教育用ソフトを使う。これらの教育用ソフトはゲーム仕立てになっているので、こども達は楽しみながらパソコンの基本操作を修得することができる。 授業の最後に、お絵かきソフトや名刺作りソフトで作った作品を印刷すると、受け取った子供たちは大喜びだ。お絵かきソフトを使って作った作品を掲げる子どもたち作品にはお絵かきソフトのスタンプ機能を使って各人の名前を書くが、子どもたちに「お名前は?」と聞いても、シニアが多いボランティア達にはどんな漢字を書くのか想像できない。
 写真の前列の子が「いぬいあいか」と名前をスタンプした絵を掲げているが、苗字は想像できても「あいか」の方はどんな漢字を充てるのだろうか(聞くところによると、これをキラキラ・ネームと言うらしいが・・)。授業が終わると、教室に戻って子ども達の給食のお相伴に預かる。 この時どんな話題を持ち出すか苦労するところだが、何の事はない子供たちの方で気を使ってくれる。

 このボランティア活動は、子どもたちに楽しみながらパソコンの基礎を理解してもらうことにある。一方私達シニアにとっても、若い友人達に元気を頂ける貴重な機会になっている。しかし、この9月に73才になる爺にとっては、長い時間40人近い子どもたちの相手をするのがだんだんシンドク感じられるようになってきた。頭の隅には、そろそろ引け時かなという思いもよぎる。
  私は、川崎創造プロジェクト(KCP)というNPO法人に所属して、ボランティア活動をしている。学校からの要請はこの団体( http://kawasaki-sozo.net/  )宛に来る。KCPは色々な事業を展開しているが、私が担当しているのはシニア向けのパソコン教室と小学校のパソコン授業の応援、それにシニア向け講演会の設定である。

 

 


 

2. 矢部 靜樹 さん  (9月19日生まれ)

近況と最近のつぶやき


 2年前ひょんなことから、フランスの運河を旅する人々に船を提供するフランスの船会社Canalous社の日本代理店になった。(  http://canal.advantis-jp.net  ) ヨーロッパには5万キロにも及ぶ水路(運河及び航行可能な河川・湖)があるといわれており、その中心的存在となるフランスの運河網は約9,000Kmにもなる。10年ほど前からこの運河を水上のコンドミニアムとも言えるボートに乗りフランスの田舎をゆっくりノンビリ旅する運河の旅にはまっている。今年は偶々、12名のお客様が同時期に集まったので我々夫婦ともども14名で3隻のボートに分乗し、5月下旬、フランス南西部のミディ運河を1週間クルーズした。17世紀後半に造られたミディ運河はヨーロッパ最古の現役運河であり、ユネスコの世界遺産ともなっているが、4万5千本植えたとされる両岸のプラタナスの並木が作る木陰を時速8km以下の速度で12~13m長のクルーザーを運転し、36個の閘門(ロック)を越え、126Kmを7泊8日でクルーズする。

日本のような船舶操縦免許は不要であり、出港前に受講する30分ほどの運転講習でクルーズ期間中だけ有効な仮免許が交付される。フランスはもとより、ヨーロッパ、アメリカなど世界中から家族連れや、友人・仲間連れが訪れている。(クルーズの様子はお客様のHP、http://homepage1.nifty.com/okharry/   をご覧ください)

  KDD時代にチャンスを得、1年ほどパリ大学VIに留学した。この時、お世話になったのが大学構内やパリ市内何箇所かにある学食であった。1.5Fr(フラン)でレバーステーキのコースが食べられた。聞いたとこで はフランス政府が倍の金額を払っており、実際には4.5Fr(1974年当時の換算で350円ほど)の食事であったようだ。40年近く経った現在でも一宿一飯の恩義は忘れず覚えているようだ。

2年前偶々借りたボートの船会社のディレクターに代理店をやらないかと言われOKと返事をしたのは、この一飯の恩を返せればと思ったのかも知れない。パリ以外のフランスの地方を旅する運河の旅は、どうも誤解を受けやすい様に思われるフランス人を知ってもらう良いチャンスを提供するのではと考えた。だから今年になりフランス観光開発機構から御社のホームページをメルマガで紹介したいがとの電話を受けた時はしてやったりと思った。

 若者の海外留学熱が冷めたと言われ久しいが、周りの留学経験者や自身の経験からすると、今はむしろより多く 海外からの留学生を招聘したら良いのではと思う。知る努力と同じ程度に知ってもらう努力も必要かもしれない。留学生会館を設置する候補地は広島、長崎、福島、沖縄など多くあるが、中でも県知事でさえ有史以来の立派な内容と驚いた( http://www.j-cast.com/2013/12/26193106.html?p=all  )、今後7年間毎年3000億円の振興予算のある沖縄が最適か。もはやコンクリート造りの町村役場も、舗装が必要な村道も無いだろうから、摩文仁の丘辺りに学園都市を作り、主にベトナム、タイ、カンボジア、フィリピン、マレーシア、インドネシアなど距離的にも近い東南アジアの若者を招聘し、ITでも、アニメでも好きなものを日本、沖縄の若者と一緒に学んでもらう。もし米国の若者が望むなら彼らも招聘しよう。

日常生活の中で日米地位協定がいかに理不尽か知ってもらう機会が有るだろう。彼ら留学生が国に戻り親日派になるかはわからないが少なくとも知日派にはなるだろう。それでも20年後、30年後には集団的自衛権より有効な存在になっているだろう。
 近況と最近のつぶやきでした。 

PS: この文章を書いている最中に、TBSが世界遺産ミディ運河を放映した(8月10日)。
運河の旅の資料請求のメールが多数寄せられうれしい悲鳴を上げている。

 

 


 

3. 矢島 勇夫 さん  (9月29日生まれ)

趣味雑感ー写真とファイターズ


 今趣味として何に多くの時間を割いているかと考えると写真かと思われる。月に2回ほど集まり、自分で写した写真を一人4~5枚(A4版)提出し、先生に批評してもらうと同時に、仲間の写真を鑑賞し、参考にしている。月に2回くらいなら大したことはないと思っていると、これが中々大変で、ストックが忽ちなくなり、手当てに走ることとなる。年に1回六本木で皆で協力して写真展を催していたが、現在は都合で休んでいる。 最近は撮影に赴くと女性カメラマンが増え、写ガールもしくは写マダムを良く眼にする。写真も近年フイルムからデジタルへと技術革新が進み、コダック、アグファ、コニカとフイルムの分野から消え、カメラ本体でもペンタックス、ミノルタ等は他社に吸収されてしまった。
 もうひとつの趣味であるプロ野球について言えば、小学生の頃から現在の北海道日本ハムファイターズのファンで東急フラーヤーズ、急映、東映等々色々球団名が変わった中、昔の大下、櫟、長持、白木、黒尾といった選手の名前も懐かしい。日本ハムは、一昨年はリーグ優勝、昨年は最下位、今年は3位(今のところ)と動きは激しいが昨年糸井選手をオリックスへトレードしてしまったのは、何といってももったいなかった。少々我侭をいっても受け止める度量があっても良かったのにと思わざるを得ない。稲葉選手がフリーエージェントで米国へ行く夢が破れた際、待っていて受け入れたこともある球団としては、如何なものかと今でも残念でならない。若手選手の成長が上手くかみ合って、戦績が上がるかどうかファンとして心配でならない。3位を確保して、クライマックスシリーズに進出することを願って止まない今日この頃である。

 

Happy Birthday (2014年8月掲載)

Happy Birthday !


8月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  橳島  明 さん、前田 昭男 さん、 小川 明義 さん

 

 

1. 橳島  明 さん (8月11日生まれ)

古代ロマンが世界遺産へ


 親しく接して頂いた職場のみなさまに会う機会も減りその思い出を追う日々も増す。さて、限られたスペースを埋めるとすれば先ずは話題の世界遺産とその古代ロマンに触れさせて頂きたい。
 私の故郷、高崎市吉井町には清流鏑川が流れ、そこにかかる鏑川橋がある。この橋から眺める妙義山の夕焼けは絶景で、また、この橋の前面に拡がる景色は奈良明日香の地に酷似していると私には思えてならない。そんなことから、大好きな奈良明日香の地にも何度となく足を運んだ。藤原京が栄えていた頃、絹の大生産の可能な地を探すことが重要な国策となり、帰化人による技術指導も受けこの辺一帯が選定された歴史があり、絹生産が脈々と育まれてきた。やがて、1300年余の時を経て、この橋より10数キロ上流の地にあの富岡製糸所が世界遺産として登録された。

 大昔、国命を受けた人々が豊かに暮らした都をしのびつつ、はるばるこの辺境な地にたどり着いた先人達に想いを馳せるのも"自分流ロマンのひとつ"として大切にしています。
   また、骨董に興味があり、そう金もかけられないが、実家に少々眠っていた素材をベースに、日本刀、薙刀、やりなどと共に刀の鍔、古銭などの収集整理も進めてきま した。 が、少々淋しいのは見てくれる仲間もあまりいないことだ。
   まあ、冥途に迎へられる頃には伝来の武士道の掛け軸を床の間にかけ、その精神に一歩なりとも近づけることを心がけたいが、当面はチョイ悪老人位で許してもらいたいと思っています。重ねて、健康趣向のひとつとして同輩たちのお世話になり、江戸情緒を探る旅として数年以上にわたる都内散策が進み、終点品川が見えております。
   最後になりましたがみなさまのご多幸ご健勝をお祈りしております。


 

 


 

2. 前田 昭男 さん (8月19日生まれ)

人の話を聴くことの大切さ


 退職してから7年程になりますが、自分から話すのは慣れているのに他人の話を聴くのは難しいと、今感じております。人の話をじっと、あたたかく、無心に、相手が言ったとおりにきく、会社時代ではなかなかできなかったことでした。「私の話をきいていただいてありがとう、ホッとしました」と笑顔でいわれたお年寄り、「自分のできないことを責めてもダメですよね、責めても先へ進めないもの」と自分を受け入れ始めた自閉スペクトラム症の失職者、そういう方々に接していると、話を聴くことはとても大切だということを実感しています。 話を聴くということは、「その人は大事な人だと思う」「その人自身の成長力を信頼する」ことか、と思っています。
 退職の3年ほど前に「社員力強化本部」でカウンセリングにかかわることになってから、なにか人の相談にのれたら、と思ってカウンセリングの勉強をしていました。退職後、幸いにも50年以上カウンセリングを実践されている先生にめぐり逢い、カウンセリングを習ってきました。その間、「人間尊重」「人間の成長力」「自己実現」「傾聴」「The way to do is to be」「無心」「こだわらずに」「あるがままの自分」「誠実」「裏表がない」等々、それらの言葉は私の生きざまを考えるうえでとても魅力的でした。幸運にも、仲間の紹介で今の心理相談所でカウンセリング業務に携わることができ、こころの悩みをもった人達の相談にのっています。

(NPO法人はぐくみ心理相談所・所属) 

 

 


 

3. 小川 明義 さん(8月20日生まれ)

リタイア後に好まれる趣味って何?


○ 多摩版"シルクロード" - 私の散歩道 -
 先々月6月、当時としては世界最大級の規模を誇る器機製糸工場として明治5年に操業を開始した群馬県富岡製糸場と、それを中心とする絹産業遺産群がユネスコ世界文化遺産に登録されました。広く知られておりますように、明治から昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出の主要品目であり国の近代化を大きく支えてきました。富岡製糸場はその第一立役者ですが、官営の同製糸場よりやや遅れて八王子にも民営ではありますが器機製糸工場が生まれ明治の中頃には全国屈指の大きな工場にまで発展(1)しました。 (注1) 残念なことに、八王子の製糸工場は明治33年の大恐慌の影響を受けて人手に渡ってしまいました。
 もともと八王子は江戸中期頃より生糸の集積と絹産業が盛んな土地柄であり、特に横浜開港以降は近県近郊から八王子に集められた生糸を横浜に輸送して明治・大正期と大いに繁栄したことから、今もって『桑都』の美称を冠されています。富岡製糸場で生産された生糸は利根川と江戸川の水運を利用して東京や横浜に運ばれたようですが、八王子に集められた生糸は人に背負われ、或いは馬の背に乗せられて陸路横浜まで運ばれました。その陸路とは八王子から南へ多摩丘陵大塚山を越えて麓の鑓水集落を経て境川(2)沿いに原町田に至り、更に南下して横浜まで続く路程50kmほどの道で、当時は「浜街道」と呼ばれていました。
(注2) 武州と相州の境界を成したことに因んだ古くからの名称で、現在も東京都と神奈川県の県境にほぼ沿って流れています。
 浜街道の八王子寄りの僅かな一部、大塚山山頂近くから鑓水に至る1.5km程の山道は生糸の運搬が隆盛だった当時を懐かしんで、戦後「絹の道」と名付けられました。この山道は今では綺麗に整備されて良い散歩道(写真1)となっています。また、大塚山山頂付近には絹の道の碑(写真2)が建っています。
 麓の鑓水地区の商人達は生糸の仲買で幕末から明治中期にかけて大いに財を成し「遣水商人」として名を馳せましたが、その後の鉄道の開通(甲武鉄道〔現JR中央線〕や横浜鉄道〔現JR横浜線〕)により浜街道が衰退すると共に急速に凋落していきました。鑓水の絹の道沿いには、八王子の絹製糸産業と鑓水商人隆盛の頃の歴史を語る「絹の道資料館」(写真3)が一豪商の広大な屋敷跡地に建てられています。
 健康維持のため、天気の良い日にはこの絹の道からいま少し足を延ばして往復1時間ほどの散策を良くしますが、春秋気候の良い時には年配の方々のグループが幾つも絹の道コースの散歩を楽しんでいます。標高200m少々と云えども大塚山は多摩丘陵の中では高い方なので、快晴だと東に視界が開けている登り坂に立って振り返ると肉眼で新宿のビル群、そしてその向こうに(小さく霞む)スカイツリーをも望むことができます。
 健脚向きには、鑓水を過ぎて多摩美大近くの小山内裏公園まで行くと更に東南に向かう多摩丘陵の尾根道、通称「戦車道」が長く続いています。戦車道、これは戦前の相模陸軍造兵廠(今はアメリカ在日陸軍相模総合補給廠になっています)において建造された戦車の走行性能試験を行った山道で、これまた其処ここに桜並木の残る散歩に最適なところです。
 皆さんも、新緑輝く頃や秋風薫る頃にのんびりとした多摩丘陵の歴史散歩道に是非お出掛けください。

○ リタイア後に好まれる趣味って何? と自身の趣味
 過日、何気なくTVのクイズ番組を観ていたら、「リタイア後に好まれる趣味のランキングは?」との問が出されていました。 多くのリタイア前後の人達から聴取した結果として、1位は旅行で他のランキングは既に記憶に定かではないですが、10位ほどまでには写真、登山、散歩、囲碁・将棋、絵画、パソコン、ゴルフ、料理、ボランティア等が挙がっていました。
 確かに、例えば写真、最近は何処へ行ってもカメラを構えている年配の方、それも女性を多く見掛けます。また、皆さん随分と高級な一眼レフのカメラばかりお持ちです。 山登り、これも近頃は高齢の愛好家が頗る多いようです。TVで山のニュースを観ても元気な高齢の山男や山ガールの皆さんが一際目立っています。
 これら年配の方々に写真や山の愛好家が多いのは、世の高齢化が進んだことによる相対的な増加ばかりではなく年配の方々の好む趣味嗜好がより広く深く拡がったことに依ると言えそうです。上記、他のどの趣味を採っても成程近頃は年配の方々の中で随分と流行っているなあと思えるものばかりです。
 そこで、我が趣味は?と自問してみると、以前は上記項目の幾つかを広く浅く嗜んでいましたが近頃ではその殆どがすっかり後退してしまい、今では誰もが好む旅行の他には高々1000m程度以下の決して高くはない山をトレッキングすることや、近くの自然の中とか時には街中散歩・散策を楽しむ程度のみとなってしまいました。
 でも、ランキング外となると電氣工作とDIYだけは随分古くからの趣味です。馴染みのない方からは「鉱石って何? ST管って何の事?」と言われそうですが、小学生の頃に小遣いを貯めて買った鉱石ラジオのキット組立に始まり、次いでST管を使っての並3や高一ラジオの制作に嵌り、中学の頃にはゲルマニウムダイオード検波後をトランジスタ1石で低周波増幅するラジオ・・・などなど。因みに、昭和32年頃、トランジスタ(NEC製のST3A)は1個400円程度で京都寺町通りの小さな電気街でも何とか購入できるようになっていました。
 その後、好きな電氣工作もリタイアするまですっかり中断状態にありましたが、暇の出来た今は再び半田鏝を手にこまごまとした物作りを楽しんでいます。なので、都内に出向いた折には秋葉原に寄って、何を買うでもなくパーツ屋やジャンク屋を覗いて廻ることも今再び楽しみの一つとなっています。でも近頃では古くからのジャンク屋等が次々と姿を消して、代わりに秋葉原らしくない店がどんどん増えており淋しい限りです。

○ 遅蒔きの趣味
 もう30年以上も前の事になりますが、私はアメリカのWashington D.C.にあったINTELSAT(国際電気通信衛星機構 : 当時は商用通信衛星を調達・運用する国際機関でしたが、現在は民営化されています)の研究開発部門に3年間在籍しました。
 その時のセクションチーフはフライフィッシングが大好きで、春から秋の釣りの季節にはINTELSATや彼の前職場であるCOMSAT研究所の釣り仲間とキャンプ兼釣りによく出掛けており、私も誘われて何度か同行しました。行先はペンシルバニア州の中央山間部で、大きな川がゆったりと流れている雄大な自然の中にテントを張りアウトドア生活とフライフィッシング(狙うのは鱒で種類はRainbowやBrown)で過ごす2~3泊の釣行は頗る楽しく、私もそんなアウトドアライフとフィッシングがすっかり好きになりました。
 フライフィッシングは、帰国した直後の国内においては未だ殆ど流行ってはいなかったのですが、1992年にBrad Pitt主演のアメリカ映画 "A river runs through it" が公開されてのち爆発的に広まりました。勿論、私も映画を観ましたがスクリーンに映し出されるモンタナの広大な自然の中で川面にフライを飛ばす主人公と兄と父親。寛と流れるペンシルバニアの似たような川辺、夕靄のやや赤みがかった景色に溶け込んでの釣りの思い出は映画の中の幾つものシーンと完全に重なりました。
 現役時代は余り行かなかったフライフィッシングもリタイア後は年に数回奥多摩等へ出かけており、今、遅まきの趣味となっています。釣果は常に二の次ですが。
 そうそう、近頃、写真も楽しそうだなあと思い始め、コンパクトデジカメではやや物足りないので超遅蒔きスタートになりますが一眼レフのデジカメも買おうかと目下思案中です。

○ 以上、取留めもなく家の近くの散策好適地の紹介を兼ねて趣味の話しにて大変失礼しました。

 

Happy Birthday (2014年7月掲載)

Happy Birthday !


7月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  佐賀 健二 さん、小室 圭吾 さん、小田 洋幸 さん

 

 

1. 佐賀 健二 さん (7月4日生まれ)

「生涯現役」からの引退と今後の生活


 7月4日に83歳を迎える。これを機に「生涯現役」からの引退を実現したい。正確には、8月4日のJICA海外研修での「開発途上国のICT政策担当者」への講義をもって私の国際協力活動を終了することを考えている。
 KDD経営調査部で海外調査活動を本格化し、国際部で国際協力活動を始めて以来、30年を超える国際活動への終止符である。KDD時代に約10年、亜細亜大学での12年に続いて、NICT(情報通信研究機構)での12年とつづいてきた私の国際協力活動の内容は、電気通信インフラの整備に始まって、時代の変遷とともに大きな変化を遂げてきた。いまや「SNS」、「クラウドコンピューティング」、「ビッグデータ革命」、「3Dプリンターによる生産プロセスの大変革」など、30年前には想像することもできなかった課題が国際協力活動の中心課題として登場するような時代を迎えようとしている。
 初めは「ボケ防止」などと冗談を言いながら、情報通信技術の進化に挑戦してきたのだが、「老害」をまき散らす前に引退をしようと考えた次第である。この間、郵政省の国際部、通産省の機械情報産業局、総務省の情報通信国際戦略局、外務省の経済協力局、JICAなどの政府機関、さらには、PECC、APEC、APT、 PTC等の国際機関への政策提言や国際協力活動を行ってきたが、それらの内容については、別の機会に譲りたい。
 さて、これからの生活をどうするのか、ということであるが、「ボケ防止」のためにパソコンいじりを続けながら、健康が許せば、海外旅行、国内旅行、ゴルフとワインとシーフードを楽しむツアーに出かけたいと考えている。しかし、残された人生は長くないので、子供たちにエンディング・ノートを書き残し、1年・1年を大切に人生のラースト・ステージを楽しみたいと考えているところである。

 皆さん、一緒に残された人生を楽しみましょう!

 

 


 

2. 小室 圭五 さん (7月9日生まれ)

実験用静止通信衛星「さくら(CS)」


 私は昭和1960年KDD入社、半年の新入社員研修を終えて、新築の研究所の調査課へ配属になりました。その後、電子回路課、材料部品研究室と移りましたが、1972年に宇宙開発事業団(NASDA)(現、宇宙航空研究開発機構、JAXA)に出向となりました。最初に「筑波宇宙センター計画」、次に「NASDA追跡管制計画」の作成とその実施に従事して二年余が経ち計画も順調に進展していました。これでKDDへ復帰だと思っていましたが、国産初の通信衛星開発に残って欲しいとの強い要望で残留し1974年に「人工衛星開発グループ」に移りました。

 この開発グループには、気象衛星、放送衛星、通信衛星の三つの開発準備室があり、郵政省の電波研究所からの出向者を核に、気象庁、NHK、NTTからの要員がそれぞれの衛星チームに配置されました。ここにKDDから、私が通信衛星グループに、そして放送衛星グループに久保勝一さんが加わったのです。
 国の「宇宙開発計画」では、これら三つの衛星は、いずれもそのサイズから純国産とは行かず、また打ち上げも国産ロケットの能力不足から米国によることとなっていました。

 人工衛星の開発には、設計、審査、製作、試験が幾つもの段階で行われます。それらの殆どが米国で実施されたので、年に数回メーカーの人と外国出張をしていました。当時はまだ海外渡航が珍しい時代で、最初の出張の時には、羽田まで皆の家族が見送りに来たほどです。  それからの数多くの経験は割愛しますが、日米協力の通信衛星「さくら(CS)」は、1977年12月にケネディ宇宙センターから成功裡に打ち上げられました。私はその前の4月にKDDへ帰ったので、仲間からは「敵前逃亡」とからかわれたものです。でも3月に、打上センターでの最終審査に参加して全ての段取りを終えてありましたので、責任は十分果たしたと自負しています。  実験用静止通信衛星「さくら(CS)」は、各種の実験による成果をあげ、それに続くNTTの通信衛星CS2号、CS3号へと花開いて行きました。
 

 


 

3. 小田 洋之 さん (7月18日生まれ)

私の趣味


 日本ではボウリングと言えば10本のピンを倒すあのボウリングがイメージされるのではないでしょうか。ところがオーストラリアやNZではローンボウルズを意味します。 ボウルズは13世紀イギリスの発祥でその後スポーツとして体系化され、いま世界では200万人以上の愛好者がいるのです。
 私はシドニーに住んでいた或る日、オージーの友人に誘われ地区の大会を観戦したのがボウルズとの出会いでした。競技は芝生のコート(グリーンと呼ぶ)上で目標球のジャックに向かって偏心球のボウルを転がし、対戦相手とその距離を競い合います。

 初めはただボウルを転がすだけと思ったのが、実際は芝目を読み風向きやボウルの曲がる角度と強弱を頭におき、集中力、持続力、技術力に加えて戦略や駆け引きなどが要求され大変奥深いものがあり、たちまち引き込まれ、はまってしまいました。この競技の特徴は年齢や性別に関係なく幅広い年代層で障がい者を含め、同じルールで競技を行うことのできる他に例をみない生涯スポーツであると言う事です。ボウルズは単に勝敗を競うだけでなくゲームの楽しみ、人に会う楽しみ、ゲームの後でビールや食事をする楽しみなど社交の場でもあります。

 日本に帰国後も本場で培った経験を生かし、普及活動を行う一方で福祉施設において利用者を対象にボウルズのボランティア活動を行っております。日本国内ではボウルズ施設の環境が整っていないためマイナースポーツに甘んじていることが残念です。  嘗て国際大会をはじめ各種大会に日本選手団の一員として出場する機会を得たお蔭で、喜寿を迎えた今なお共通の趣味を持つ国内外の仲間とボウルズを通じ交流を続けています。
 過ぎし日の想い出に浸ることなく、きのうより今日、今日より明日を有意義に過ごす努力を続けたいと願う今日この頃です。

 追記: 過日、ローンボウルズの海外取材があり、日本テレの番組で放映されました。    http://www.ntv.co.jp/cork/intro/index.html 

 番組:

「コルクを抜く瞬間」click → バックナンバーclick → #6clickで映像が出ます。

 

Happy Birthday (2014年6月掲載)

Happy Birthday !


6月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
  北田 聖明 さん、堀 正夫 さん、衣畑 晃治 さん、松本 潤 さん

 

 


 

1. 北田 聖明 さん (6月1日生まれ)

健康と趣味 ― 少しでも皆さんのお役にたてる日々を ―


 定年後早いもので20年が経ちました。誠に幸いなことに、家内共々元気にそして充実した毎日を過ごさせてもらっています。このような現在を迎える事が出来たのも、健康のこと、生きがいのこと、そして年金など極めて恵まれた状況にあったためと感謝しつつ、少しでも皆さんの参考になればと思い近況を振り返ってみました。

☆ 健康について ☆

40歳のころ十二指腸潰瘍を患い手術を受けたのですが、運悪く執刀医が下手で術後の経過が悪く、このままでは余命10年と宣告されました。そして再手術、幸い今度は上手いドクターで、人並みの生活が出来るようになりました。そして10年前血圧の管理をしてもらっているホームドクターに、運動不足を指摘され歩くことを進められました。それがきっかけで、今日まで「ウオーキング」を続けています。
 自宅から15分の所に「服部緑地」という恰好の公園があり(面積・甲子園球場33個分)利用させてもらっています。ただし最初の頃は、ただ漫然と散歩していたのですが、ある時、これだけでは勿体ないと気が付き、8キロ90分をもっと有効に使うべく、文献などを参考にしながら、「有酸素運動・副交感神経をより働かす・腕の運動・掌のグーパー」などをやっています。

 時間帯は朝食後ですが、専門家によりますと、夕食後が生理的に良いと言っています。そこで夕食後も何回か歩いてみましたが、これは不採用でした。自然に触れ合い移ろいを感じながら行動するのが一番だと思うのですが、夜の暗闇の中ではそれが出来ません。 同じ理由で友達も出来ません。そして我々高齢者にとって一番の問題は危険が潜んでいるということです。明るい所でも、ともすれば躓いたりすることがある年頃ですが、暗い所ではその危険性は更に大きくなりますし、もし万が一倒れたりしたら、発見が遅れて取り返しがつかないことも容易に想定されます(夜の散歩でのメリットはゴミが目につかないくらいかな)。この「ウオーキング」を活用出来ているので、毎日が元気に過ごせているのだと確信しています。

(参考文献)

「なぜ、これは健康にいいのか?」  小林弘幸 著  サンマーク出版
「60歳からはじめる認知症にならない脳にいいこと」 周東寛 著 日経印刷
「やめてみるだけで病気は自分で治せる」 安保徹 著 永岡書店
「生き方上手」 日野原重明 著 ユーリーグ株
「歩く人はなぜ脳年齢がわかいか」 大島清 著 新講社


☆ 趣味について ☆

 60年来付き合っている趣味に「音楽鑑賞と囲碁」があります。音楽は自分だけの世界ですからさておいて、囲碁についてお話したいと思います。囲碁は勝敗を競うゲームですが、それだけではありません。囲碁は昔から別の呼び名を「手談」とも呼ばれ、ゲームを通じて対戦相手と「お話」をする、またお付き合いをするものとも、言われています。

 

 さて、60年付き合ってきたおかげで、それなりに力も付き、先般日本棋院から「普及指導員」に認定していただきました。自分が楽しむだけでなく、それを生かしながら、普及活動にも力を入れ、少しでもお返しをしたいものと日頃心掛けています。 以前、高校の囲碁部のお手伝いをさせてもらったこともあります(部活休止中)。 またプロのお手伝いでインストラクターとして、初級・中級クラスの指導もやっています。勿論いろいろなグループ(KDDのOB会も)での楽しい交流含めて。
  このように月の内半部以上を囲碁三昧で、多数の方々と交流を深めた充実した日々を過ごさせてもらっています。囲碁に親しんでおられる方は勿論益々楽しんで頂きたいと思いますし、もし今からでもとお考えの方がいらっしゃいましたら、ぜひ一声お掛けください。


☆ 終わりに ☆

 これからお迎えが来るまで、元気で楽しく、そして少しでも皆さんのお役に立てる日々でありますように思っています。こんな自分勝手な亭主を許してくれる家内に感謝しつつ。

 

 


 

2. 堀 正夫 さん (6月15日生まれ)

近 況


 私は、岡山県の山村に生まれ、昭和39年4月KDDに入社、早期退職制度を活用して退職しました。その後、ベルシステム24(株)で約4年間働き、60歳で最終的に退職しました。退職を迎えるに当たり、この当時 男性の平均寿命は78歳程度だったと記憶していますが、約20年の余生が有りますので、この間の生き方によっては更に充実した人生が送れると考え、今後行っていく趣味は何が良いか少し考えました。これまで、スポーツ(テニス)を中心に活動してきましたので、静かな趣味を選択する事とし、近くにありましたNHK趣味講座(ピアノ教室)に通う事としました。と同時に、退職者支援雇用促進制度の介護研修で障がい者、特にろうあ者の生活を知り、関係を持ちたいと思い『手話』の勉強も始める事としました。以後、9年に成ろうとしていますが、『継続は力なり』を頼りに続けています。

 ピアノは、過去全く経験のない分野でしたが、練習により少しずつ上達しており、ピアノを趣味として選択した事に満足しています。現在、暗譜して演奏できる曲は、ベートーベンの月光(第一楽章のみ)ですが、第二楽章、第三楽章を演奏できる様にしたいと思っています。
 手話は、手話講座を約一年間受講した後手話サークルに通い、ろうあ者の方々と話し合いゲームをしたりして楽しく続けています。手話表現は、世界でも日本でも地域でも個人でも違いがあり、手話表現も難しいのですが、それ以上にろうあ者の手話を読み取る事はもっと大変な事です。 ろうあ者と一対一で会話を続け、ろうあ者の癖を理解し、一歩一歩上達していく以外に方法はありません。勿論、テニスは、KDD・OBの方々と年一回の全国交流会、関西地域では一般の方を交えKDD・OBの方との交流会等、動ける範囲内で無理をせず楽しんでいます。『健康が一番』ですので、お酒を飲みすぎず、適度な運動を行い、適当に外出し、おしゃべりをする事に努めています。


 

 


 

3. 衣畑 晃治 さん (6月24日生まれ)

近 況


 皆様ご無沙汰しています。若葉の季節、乾いた風が心地よい日が続きますが、梅雨もすぐそこに。KDDを退職以来はや17年、大過なく過ごしていますが、それにしても時間の過ぎるのが早いこと。いささかあせっています。
 5月19日から6月初めまで、ドイツ、イギリスを旅行、KDDやINTELSAT時代の友人を訪ねます。機会があれば、旅の中の体験を投稿出来ればと考えています。
 写真は去年我家に来た愛犬チェロを描いた私の油絵。


◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇

来山 征士 >>

衣畑さん、グループ展等で作品をみせてもらっています。 2014/06/07 23:35:43

 

 

 


 

4. 松本 潤 さん (6月29日生まれ)

5年間を振り返って


 退職してから最初の節目となる5年間が過ぎてしまいました。瞬く間の出来事でした。最初の2年間はNICT(独立行政法人情報通信研究機構)の特別招聘専門員としてネットワーク型音声翻訳システム標準化の仕事をお手伝いしました。ITU-T 会合出席のため、約20年ぶりにジュネーブを訪問しました。ジュネーブの空気は昔の儘で懐かしい限りでしたが、ITU-Tの方は、当時のサロン的な雰囲気は消え、さすがに審議の スピード感が増しているように感じました。何よりも驚いたのが、出席者の様変わりでした。 NTTはまだそれなりに頑張っているようでしたが、当時のAT&T、BTと言った欧米の通信キャリヤは全く存在感がなく、フアウェイやZTE等からの中国勢が闊歩していました。時代の流れを強く実感しました。NICTの担当者は、とても優秀なリケジョのはしりのような方で、その大活躍もあって、信じられないことに、たったの2年間で標準化を達成してしまいました。その働きぶりが高く評価されて、日本ITU協会から国際協力賞が授与されました。恥ずかしながら、私もそのご相伴にあずかる結果となりました。

 私は、長い間人知れず、楽譜が読めなくて楽器も何一つ演奏できないことに強いコンプレックスを抱いていました。 そこで時間もできたことだし、この際と思い、一念発起して、クラシック・ギターを始めました。ギターを選んだのは、ただ最も簡単そうだと思ったからでしたが、結果としては、無謀なチャレンジであったことを思い知らされています。ギターの演奏は、要は、五線譜をドレミに翻訳し、それをさらに弦を抑える左指の動きと、弦を弾く右指の動きに展開すれば良いわけですが、曲の速度に、脳・神経系の情報処理速度がなかなか追いつきません。ギターは弦から左指を離してしまうと音が消えてしまいますから、一つの音符から次に進むときには、ぎりぎりまで左指は弦から離さずにいて、瞬時に左指の抑える弦を切り替え、それと同期をとって右指で弦を弾く必要があります。これがなかなか上手くできなくて、どうしてもスタッカート奏法になってしまいます。ギターを始めてから約3年が経ちますが、遅々として、上達しません。この歳で、上手くなる野心もなく、脳トレとボケ防止にでもなれば満足ですから、練習方法だけは分かりましたので、ひとまずは音楽教室の方はお休みして、今後はのんびりと独学を楽しんで行こうと考えています。
 こんな調子で、最初の5年は終わってしまいました。目下、次の5年後に向けて、新たな目標を設定すべく考慮中です。

◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇


来山 征士 >>

松本さん、KDD, KDDI, NICT でのご活躍ご苦労様です。 2014/06/07 23:32:47

 

 

 

Happy Birthday (2014年5月掲載)

Happy Birthday !


5月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
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今月のお誕生会員:
  山本 英雄 さん、齊藤 秀樹 さん、金澤 徹郎 さん、大橋 正良 さん

 

 


 

1. 山本 英雄 さん (5月9日生れ)

JAL 747の最初のフライト搭乗と初めての外国出張


 この3月末で日本ではジャンボジェット747の飛行が終了したとのニュ-スを聞き、その最初のフライトに乗ったことが思い出されました。それは1970年7月1日午前11時30分ホノルル発の羽田行きです。搭乗した時、機内の広大さと快適さに感激し、科学技術の将来に大きな確信を感じたものです。しかし747がそれ以後40年以上も働き続けるとは当時は想いもしませんでした。この時の米国出張が私の最初の海外経験でこれまでの人生で最も感激多く楽しかった出来事の1つです。
 私は1965年にKDD入社、研究所情報処理課に配属になりました。直接の上司が当時主任であった井上誠一さんでした。衛星通信の仕事がしたくてKDDを希望したのですが、当時の新川研究所長かあるいは大島研究部長だったか、村谷拓郎さんをはじめ衛星通信のための人材は十分足りているので君はコンピュ-タをやれと、井上さんの配下に付けられた訳です。具体的には、研究所で開発したリアクトロン素子による大型(当時としては)コンピュ-タKR-2を使って当時の基幹業務であった国際電報の中継・交換作業を自動化することでした。井上さんはこのKR-2の論理設計に中心的な役割を果たされたようです。その井上さんの指導下、システム制御ソフト開発担当として清水宏さん、それに新入社員の私と森弘道さんの3人が集められました。私自身はリアルタイムモニタの開発を担当しました。それまでKDDにおける唯一のコンピュ-タ利用は茨城衛星通信実験所でのアンテナの衛星追尾でしたから、基幹業務へのコンピュ-タ採用はこれが最初です。2年ほどでこの仕事を完成させて、その後この成果がTASの商用化に引き継がれました。
 それから2-3年は割合自由な時間が与えられて、渡辺昭治さんの指導で高信頼化技術の研究を始めました。ある時自らAlternating Logic と名づけた計算機回路を思いつきました。おおざっぱに言うとこれは時間的な2重系で、回路に故障が発生した場合に自律的に故障表示信号を発生できるものです。思いついた時はこれはやったぞと大いに興奮しました。アイデアをまとめてゆくと、渡辺さんからIEEEの国際コンピュ-タ会議に出してみるよう激励されて、論文投稿したところ採択されたのです。このおかげで初めての外国出張の機会に恵まれることになりました。井上さん、渡辺さんに相談し4週間の調査計画を作り以下のような日程を組みました:


 今から思うとよく段取りをつけたものです。
RCAだけはKDDのつてでしたが 多くは論文で名前をみただけの方に手紙を書いて訪問許可をもらいました。なお、出張のほとんどの期間を、同じIEEE会議で高密度磁気メモリに関する論文発表を行った天野橘太郎さんとご一緒しています。またワシントンでは別の国際会議に参加されていた(?)深田康夫さんと一緒になり経費節減のため天野さんと3人でホテルの1部屋で泊まったことがあります。
 6月11日のIBM研究センタ訪問は 論文発表のセッション座長であったIBMシステム開発部のR. J. Preiss氏からの、セッションのリハ-サルをするので事前に来てほしいという指示によるものでした。このセッションでは計算機回路の故障診断技術に関連する6件の発表があり、そのうち4件は米国人の発表、残り2件の一つが私で、もう一人がインド人のSarni氏でした。この外国人2人が発表練習に呼ばれたというわけです。Sarni氏のインド英語は私にはとんでもない発音のように思え、自分の方がはるかにましだと感じたのですが、彼のスピ-チは問題ないと1回の練習でOKが出ました。ところが私の方は、研究所の英会話クラブの米国人講師に発音チェックしてもらい、数十回の練習も行いかなり自信を持っていたのですが、2回発表を繰り返してもOKがでません。特に論文に頻繁に出てくる "circuit" の発音が聞き取れないと指摘されました。何回言い直してもダメで、最後にPreiss氏からSarni氏の発音"シルキット"をまねてみろと言われてしまいました。Sarni氏の練習中に"シルキット"は何度も耳にしましたがそれがcircuitであることには全く気が付かなかったですね。"シルキット"と発音するとそれなら分かると言われ、その発音で3回目の練習をしてなんとかOKがでました。


 最後に訪ねたハワイ大学には天野さんと親しかった大阪大学の嵩忠雄教授(符号理論と形式言語理論の権威)が客員教授として滞在されていて、先生の紹介でアロハ計画で有名だったAbramson教授と誤り訂正符号の権威Peterson教授を訪ねました(写真右:ハワイ大学 Abramson, Peterson, 嵩 各教授)。アロハ計画の印象がいまでも強く残っています。これはハワイ州の島々を中央制御なしで結ぶ無線ネットワ-クを開発するものでランダムアクセス方式と呼んでいました。数年後これがRAND CorporationでLANのイーサネットの通信方式として実用化されて現在まで続いています。Peterson教授からはハワイ大学の計算機センタ-の機能・設備の紹介を受けたようですが、覚えているのはサ-フィンのレッスンです。サ-フィンが好きでMITからそれが自由にできるハワイ大学に移ったのだと聞いています。研究室訪問の後 Peterson先生のじきじきの指導で午後2-3時間ワイキキ近辺の浜辺でサ-フィンを習い、小さい波の上ですが立ち上がれるようになりました。サ-フィンはこれが唯一の経験です。


 出張中、一晩、天野さんと一緒に大山さんのお宅に夕食に呼ばれましたが、その時には元社長の増田さんとご一緒しました(写真左:大山さん宅 増田さん 天野さん)。 当時は外貨持ち出し制限があり、現金に乏しく事務所で食事に招かれることは本当にありがたかった。
 さて出張の後半どこかでJALが7月1日に747の最初の便をホノルルから開始するというニュ-スを目にしました。当初予定の帰国便は6月30日ホノルル発でしたが、滞在1日延期の用件を急遽つくって、研究所に連絡を取りなんとか承認してもらい、ホノルル発7月1日、羽田着7月2日としたわけであります。
 最後にお土産の話、私も定番のウィスキ-2本とハーフボトルのナポレオン2本など用意しましたが、そのほか15ドルで8mmフィルム一巻を入手、羽田到着時この持ち込みに一苦労ありました。背広の下、ズボンベルトの背中側に挟んで歩いていましたが 入国審査口近くでベルトから外れズボンの中にずり落ちました。あわてて近くのトイレに駆け込みベルトを締めなおしてなんとか無事持ち帰ることができました。この評判は良かったですね。しばらく研究所や本社の所々を巡り、やがて主管庁方面へ移動したようだという噂を聞きましたが、その後行方不明になったままです。
 ところで、Alternating Logicについてですが、論文の採否審査中に同じようなアイデアが米国でその十年ほど前に提案されていたこと また後日、日本でもパラメトロンの発明者後藤英一さんによる同様の提案があることが判明しました。とは言え私自身のアイデアにもオリジナリティがあることが認められて発表論文に採択されたようです。 しばらくこの研究を続けていましたが、そのうちこれには発展に限界がありKDDには役立ちそうにないと私自身で見切りをつけ、まもなくデジタル映像通信技術の研究に転向しました。しかしAlternating Logicにより、初めての海外旅行の機会に恵まれ、さらに後日この論文を基に工学博士の学位を得ることができたことで個人的には大きな成果になりました。 

以上     

 

◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇

 
大橋 正良 >>

Abramsonの情報理論の教科書は名著ですね。 今でも情報理論の授業スライド作成に参照しています。大橋 2014/05/02 10:22:53


鎌田 光恵 >>

日本人の私達にとってインドやシンガポールから来られた方々の英語は奇妙に聞えるのですがネイティブにとってはどういうわけか日本人のそれよりスムースに理解されるのがいつも不思議でした。 山本さんの国際学会デビューの苦労話面白く読ませていただきました。 2014/05/06 16:25:52


小川 明 >>

山本さんは、上記初海外出張の人生への大きなな影響を書いておられますが、全く同感です。私も1969年にコロラド大学で開かれた国際会議ICCでの発表のため太田忠一さんと初の海外出張をさせてもらい、約2週間アメリカの各所を訪問しました。 そのとき得た様々な経験は、自分の人生に大きな影響を与えてくれたと思っています。 若い人たちにこの様な経験をしてもらいたいと大学勤務になってから、自分の研究室の学生たちに海外での研究発表を勧め、それと同時に学会発表の後、2週間程度の旅行をしてもよいことにしました。 このような経験をした学生は、100人近くになりましたが、一様にその時得た経験の何物にも代え難い印象深さを感じているようです。

2014/05/25 11:42:36

 

 


 

2. 齊藤 秀樹 さん ( 5月21日生まれ)

私の里山活動(近況報告に代えて)

 

 青森県下北生まれの北海道育ちで小さい頃から自然好きであったが、在職時は時間や心の余裕が無く特に後半はそうであった。退職後、トトロの森や多摩湖・狭山湖のある狭山丘陵の尾根道を散策していたとある日、「雑木林マイスター講座」開催ポスターが目に入り、雑木林の響きに田舎育ちのDNAが共鳴即受講、翌年の平成20年から、家から車で20分程の都立野山北・六道山公園(注1)のボランティアとして活動を始めました。
   本公園は都立公園で一番広大な公園で、ボランティアは約370名、里山の美しい景観・豊かな環境・文化を次代に残すため、活動分野は田んぼ、雑木林、湿地ビオトープ、生き物調査、野の花保護と伝統食保存と多岐に亘っています。活動を進めて行くうちに自然を系統的にもっと知りたいと思い、森林インストラクター資格試験に挑戦、平成22年に取得(登録番号3257号)、現在森林インストラクター東京会(FIT)(注2)に所属、森林・里山・雑木林の保全活動(伐倒、下草刈、林床整理等)や高尾山での親子自然観察会などのお手伝いをしています。

   都立公園では世話役として、ガタの出始めた心身の健康のため週2回の定例活動と春・秋祭り、収穫祭等のイベント、講座のサポートをやっています。「春山笑う、夏山滴る、秋山粧う、冬山眠る」という表現にあるように里山には四季折々の風情があります。どうぞ皆様近くへお越しの際は足をお運び下さい(平素のご無沙汰をお詫びしご報告まで)。

 

 


注1: 野山北・六道山公園HP
   http://www.sayamaparks.com/noyama

注2: 森林インストラクター東京会(FIT)HP
    http://forest-tokyo.org/index.html

◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇

小川 明 >>

齊藤さんはスキーがすごく上手でした。そのこととインテルサットの研究契約で一緒に仕事をした時のことを思い出しました。 2014/05/25 11:55:10

 

 


 

3. 金澤 徹郎 さん (5月27日生まれ)

近 況

 

 60歳の定年後、自然の美しさと健康的なスポーツに魅せられ、中高年スキークラブで楽しんでいます。ウインタースポーツのスピードスケートを経験していることからか、スキー滑走に慣れることも比較的容易でした。雪の上をスケートに乗っている感じで滑る体感です。
 スキーシーズンには、4~5回位、上信越、東北、及び北海道などで、講師の指導を受けながらスキーを行い、中高年の交流を図っています。スキー道具もゴルフと同じで進化されており、スキー板に体重を乗せるだけで曲がってくれます。私は、今月で喜寿ですが、年々上達するので楽しくてしょうがない。何歳になっても向上心は大切にしております。
 一方、山の頂にリフトで気軽に登れ、時には山頂から360度の美しい景色とすがすがしい空気に感動する。また、疲れた身体を癒す温泉も素晴らしい。
 そして、出会いも良い。野沢温泉で「元KDDオリンピック選手・川端絵美さん」に会い、私がスキーをやっていることにびっくりしておりました。また、富良野スキー場で「元オリンピック選手・木村公宣さん」、札幌テイネスキー場で「80歳でエベレスト登山の三浦雄一郎さん」に会い、一緒にスキーを楽しみました。
 若者より体力の衰えを感じる私ども中高年は、「無理しない、頑張らない、競い合わない」を基本とし、目標は素敵な仲間と生涯スキーを楽しむことです。


 

 


 

4. 大橋 正良 さん (5月30日生まれ)

福岡に移り住んで

 

 先日KDDI研究所新旧懇話会の場で佐藤敏雄さんよりお誘いを受けてk-unet会に入会しました、S58年入社の大橋正良です。2013年4月にKDDIを退職し、福岡大学に参りました。最後の5年は出向し、「京都けいはんな」にあるATRでメディア情報科学研究所所長を3年、適応コミュニケーション研究所長を1年半勤めました。以下近況を報告します。

1.大学生活
大学教員というのはもっと暇かと思ってましたが、思ったより忙しいものです。私立大学故、教える人数も多く、昨年度は前期2コマ+後期は4コマ&実験&3年生への卒論準備指導で、授業を準備してスライド作るだけで一週間があっという間に過ぎてゆきました。本年度は少し落ち着くかとも思っているものの、卒論指導は始まる上に、学外委員なども入り、なかなか思うようには時間を与えてくれません。昨年度は静岡大学と東京大学空間情報科学研究センターの客員教授も務め、境界領域で普段話できない方々とも議論する機会を得ました。

2.福岡での暮らし
福岡は生まれて初めてきましたが、とても住みやすいです。食べ物、特に魚が安く美味しく、魚以外にも肉野菜も豊富です。毎日糠床で漬物を作り、長崎のいりこで味噌汁を入れ、自炊を楽しんでいます。福岡にはKDDIのOBの方も何名もおられます。研究所におられた遠藤俊明さんは、今唐津の家業を継がれ、福岡にお住まいです。また早稲田に移られた宇高さんも最近唐津にある早稲田佐賀中学校・高等学校の校長先生に兼任で着任され、しばしば来福されます。九州総支社長の澤田さんも含め定期的に楽しく会食をしています。

3.趣味
ATR時代には週末京都の山を良く歩き回っていました。また鯖街道の終点である出町に住んでいたことから、夏になるとロードレーサで、鯖街道を、起点の若狭小浜まで走って海水浴したり、春秋には琵琶湖をぐるりと一周したりしていました。90年代後半にNYに出張した際、セントラルパークで楽しそうに多くの人が滑っているのを見て、思わずインラインスケートを衝動買いして始め、それ以来15年ほど機会あるごとに滑り続けています。今も福岡では大濠公園で夕方気分転換に滑ってます。
  福岡に来てから何をしようかと思っていたところ、たまたまエントリーした京都マラソンに当選してしまいました。フルマラソンは未だ走ったことなく、これはえらいことだと靴・ウェアを新調し、この数か月暇があればジョギングを続けました。おかげで2月の本番では5時間を切って完走できました。大谷大学の池田先生が応援に来てくださり、写真を撮っていただきました(写真1)。

4.PC
k-unetということでPCの話題も触れます。近年、GPGPUを搭載したグラフィックボードが充実し、飛躍的に向上した処理能力を駆使して、昔ならできなかったCGが個人でも楽しめるようになってきました 先日、思い切ってGeforce GTX780Tiを購入し、32GBのメモリを積んだPCを組みました。極めてリアリスティックなCGが作れます。 数年前ならできかった、いまどきならではの趣味ではないかと思います。図1は日本庭園のキットを購入して、自分で構図や光を作ってレンダリングした例です。

◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇

山本 英雄 >>

大学教授は忙しいですね。 私も経験しました。 なにもかも一人でしなければいけない。 健闘ください。 山本 2014/05/08 17:17:32

 

Happy Birthday (2014年4月掲載)

Happy Birthday !


 

4月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
  山本 英雄 さん、 齊藤 秀樹さん、 金澤 徹郎 さん、大橋 正良 さん

 

 


 

1. 池田 佳和 さん (4月1日生まれ)

京都を楽しむ


 2000年6月にKDDを離れてから、もう14年も経過しました。その後、ADSLベンチャー企業「アッカネットワークス」に3年、東京工業大学に教員として4年、国立情報学研究所に1年勤務して、2008年4月から京都にある大谷大学文学部に転職しました。今は神社仏閣の四季や和食の食べあるきを楽しんでいます。 KDD出身教員の方々はほぼ理工系大学に転職されていますが、私の場合は人文系大学で情報学を教えています。勉強することがあまり得意ではない学生も多い大学ですが、これからは情報通信技術(ICT)を身につけて社会で活躍してほしいと思い、授業をしています。ゼミでは3年生と4年生の各々十数人を受け持って(文系なので人数が多い)、ICT応用の調査研究をさせ、卒業論文を書かせています。この3月にはゼミから12人を卒業させたばかりです。

 ITU-Tが主催する「カレイドスコープ学術会議」の組織委員を仰せつかったので、ジュネーブ(スイス)、マル・デル・プラタ(アルゼンチン)、ケープタウン(南アフリカ)、京都で開催された学会にセッション議長で参加しました。大学で担当しているのは学部教育ですから、夏季休暇などもゆっくり取れるので夏は八ヶ岳山麓にある山荘にて、素朴なソバを食べ友人たちと山歩きやBBQをしています。

 

http://www.otani.ac.jp/nyushi/article2013_05.html

 KDD在職時に誘っていただいて始めた水彩スケッチと油彩絵画も、ほそぼそと続けており日本ITU協会月刊機関誌の表紙絵を描かせてもらっています。 いま大学で若い学生に知識や経験を伝える仕事を通じて社会に貢献できることは、KDDにて国際通信システムの研究と商用化に従事できたお陰です。また標準化活動や外国キャリアとの交渉を通じて諸外国の文化や生活を体験する機会があり、現代の若い人たちの内向き志向を少しでも変えさせたいと思う原動力になっています。ICTベンチャー企業で競合会社との軋轢や、米国式経営マネジメントに翻弄されたことも、授業の大切なネタになっています。

  備考:学生たちにも読んでもらうためにブログをほぼ毎日書いています。そのリンクを参考までに書いておきます:
  http://blog.goo.ne.jp/geneve1992

 

 


 

2. 横山 幹雄 さん (4月2日生まれ)

デジタル化余話


 平成14年に早期退職し、IT関連の技術コンサルティング会社の設立に参画して、仕事上もっぱらパソコンと向き合ってきました。振り返ってみると、この10年余りのパソコンの進化は驚異的というほかはありません。ヤフオクで買い集めたIBMの(当時は垂涎の)ハイエンドモデルが埃をかぶって積みあがっています。かたや我が愛車は12年落ちでも元気いっぱいで、古さを感じさせないのは何とも対照的です。
 最近目を見張るのはスマホです。ネットワークの高速化も手伝って、向かうところ敵なし。小生は不本意ながら半島の某国製ファブレット(大画面スマホ)の虜になっています。そんな中で趣味の世界にまだ残っている「アナログ」なものを何とかしたいという話です。

 古書、フィルム写真、レコード盤などのデジタル化は、どなたも関心のある話題ではないかと思います。 かなり前ですが、藤沢周平の文庫本を探して都内のブックオフを渡り歩いたことがあります。1年ほどかけて買い集めた藤沢は、およそ70冊になります。最近は人気作家も電子書籍化に前向きになっており、浅田次郎や池井戸潤など(なぜか直木賞作家ばかりですが)電子書籍で読んでいます。電子書籍は文字の大きさが変えられるので助かります。最近は目の衰えもあって、文庫本の文字がこんなに小さかったかと驚くほどで、藤沢を読み返すのが苦痛になっていたところです。紙の書籍の電子化には自炊という方法もあるようですが、幸いなことに、最近ようやく藤沢作品も電子化されました。早速、読み返したい作品からダウンロードしているところです。件の70冊は自炊されることなく本棚に眠っています。
 電子書籍としてはスマホやタブレットは機能が高く、雑誌にも対応できるメリットはあるのですが、目に優しい電子ペーパーをもっぱら愛用しています。次は、フィルム写真のデジタル化です。デジカメ以前に趣味で撮った膨大なフィルムを長期保存したいというのが動機です。スキャナーを使って、退色補正が必要になるかもしれない気の遠くなる作業ですが、デジタル化後の記録メディアが壁になりました。作業は何年も前に頓挫したままです。長期保存となるとDVD、BDはまずNG です。HDDや半導体メモリーにしても何十年か後に読み出せる保証はありません。定期的に新しいメディアに書き換えていくのが唯一の方法かもしれませんが、そこまでやるかということです。ということで残念ながらフィルムに関してはそのまま保存するのが無難というのが今のところの結論です。最後はLPレコードのデジタル音源化です。ターンテーブルなどは大昔に処分してしまったので、業者を探すことにしました。ネットで調べたところ、いくつか見つかりました。そこで初めて知ったのですが、針で摩耗した部分を避けて溝の奥からレーザー光で再生する方法もあるようです。これはさすがに値が張ります。クラシックのビンテージ盤ならこれもありでしょう。たまたま近くのマンションの一室で商売する業者を見つけ、普通の方法でCDに焼いてもらいました。LPレコードの落札とデジタル音源化でかなりの出費になりましたが、無事にファブレットに収めることができました。
 ここからは演歌ファンの余談になります。YouTubeで、たまたま聴いた知らない演歌歌手の上手さに惹かれてしまったのが事の発端です。ネットの情報によれば、演歌の大御所にスカウトされて弟子入りし、17歳で華々しくデビュー、当時はかなり注目された天才少女だったとか。早速ヤフオクで掘り出したのが1984年発売の件のLPレコードで、デビューしたばかりの初々しい歌声です。不運なことに女盛りの30歳過ぎに声が出なくなる病気を患って休業し、10年以上も「焦らず、諦めず」(本人のモットーのようです)リハビリに耐え、数年前に奇跡的に復帰しました。さらに余談ですが、本人のブログによれば、なんと70台でラウンドする腕前というおまけ付き。足を痛めてゴルフから遠ざかること4年、リハビリ中の小生にはなんとも刺激的です。 

 

 


 

3. 川角 靖彦 さん (4月23日生まれ)

2014年

 

 誕生月の順番で本欄に投稿して欲しいと幹事から依頼がありましたので駄文を書いています。昔から文才がないので、KDD時代には社内の決裁文書など上司に真っ赤かに直されていました。
 まず、私の誕生日は、4月23日ですが、この日はかの有名な英国の劇作家ウィリアム・シェークスピアの誕生日と命日であると覚えています。生まれた年は、1564年(人殺し)で、亡くなったのが1612年の4月23日と云われています。誕生日は当時出生証明書と云う制度がなかったので、通例三日後に行われる洗礼の記録が4月26日となっていることから、誕生日が4月23日と云われているそうです。これがシェークスピアは誕生日と命日が同じ4月23日として後世の人達によく知られています。日本語のゴロ合わせから生誕が「人殺し(1564年)」と云うのも覚えやすく、ご存知の方がおられると思います。
 KDDに入社(1961年)して間もない1964年には、シェークスピアの生誕400年を祝う行事が多く行われたので上述のシェークスピアの誕生日、命日にまつわるお話を知りました。今年はその1964年から50年に当たりますが、1964年と云う年は我が国の経済が大きく発展していた時期なので、東京オリンピックやそれに合わせて東海道新幹線の開通、首都高速環状線完成等いろんなエポックメーキングな出来事がありました。

 我々の国際通信の関係では1964年6月19日、日米間第一太平洋横断同軸海底ケーブル(TPC-1)が開通。 米国ホワイトハウスと日本の官邸を結んで、当時のジョンソン米大統領、池田勇人首相との間で記念通話が行われました。TPC-1は二宮からグアム、ウェーキ島、ミッドウェイ島、ハワイオアフ島、カリフォルニアのポイントアリナ、サンルイスオビスポを経由して米本土と接続されました。この時、日米のオペレータがそれぞれ相手国の加入者にダイヤルすると云う半自動電話サービスが開始されました。このサービスのためにはITUで電話の国番号が決められ、米国は+1、日本は+81になりになりました。その後、まもなく加入者が直接相手国の加入者をダイヤルする国際電話全自動サービスが開始されました。これは同軸海底ケーブルにより安定した回線が提供されて初めて可能となったものです。それまでは日米間に東京―オークランド8回戦の短波回線がありましたが電波伝搬の状態が悪いとアウトオブサービスとなることが多かったようです。海底ケーブルにより安定な電話回線128回線が提供できるようになりました。短波時代の電話料金は3分間4320円(12ドル)と当時の物価に照らしても破格の値段でありました。全自動回線になって6秒毎の課金方法が導入され、通話が短ければ安く、きめ細かな課金が行われるようになりました。その後、電話料金は順次値下げされていきました。

 目下、AT&T、ハワイアン・テルコム、KDDIの関係者が協力して、米国に本部を待つ電気・電子の学会であるIEEE(アイトリプルイー:The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)のGlobal History Networkというカテゴリーのマイルストーン認定を申請しています。大西洋に敷設され、1956年に開通した第一大西洋海底同軸ケーブル(TAT-1)はすでに マイルストーンに認定されています。マイルストーンに認定されたら、関係者でTPC-1開通50周年を記念するイベントを開催すべく話し合っているところです。KDD(I)のLegacyと云えるのではないでしょうか。
 ジョージ・オーウェルの「1984年」と云う小説(スターリン体制の全体主義に対する警告の反ユートピア小説)は1948年に執筆されましたが4と8を入れ替えて「1984」としたと云われています。1984年当時ジョージ・オーウェルの予言通りになるかと騒がれたのを憶えています。村上春樹の1Q84はこれをパロディ化した題名かと思われますが、オーム真理教と思われる新興宗教とおぼしき集団と戦う女性が描かれています。これをもじって2014という題で書いてみたのですが、あまり面白い話はかけませんでした。いずれにしても2014年を契機として1964年のように日本が元気になるように祈っています。

 

Happy Birthday (2014年3月掲載)

Happy Birthday !


 

3月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
 金城 晴八 さん、吉田 京子 さん、小畑  富宥 さん、高倉  保 さん

 

 


 

1. 金城 晴八 さん (3月13日生まれ)

菊池堅城さんへの感謝の思い


 昭和45年3月下旬、リンゴ箱に詰め込んだ引っ越し荷物を大宮駅から不夜城と言われた大宮寮に運び込んだのが、私の国際電々生活の始まりでした。庭を接する大宮社宅には東京電報局訓練課の菊池堅城さん(故人)が住まわれていました。私の人生の師と言える先輩です。会社への行き帰りには社会・人生のありようについて教わったり、君はもっと勉強しなさいと言う激励もありました。神田駅から大手町まで短い脚をフル回転して、私を置いてきぼりにしたことも懐かしい思い出です。
 今、国際電報は堅調だが、通信技術は日々進歩する。頼信紙の語数計算を人手でやっているが、自動化の時代が必ずやってくる。その時、君は何するのか、君は何ができるようになっていなければならないのかを今から考えなさい。毎日が勉強だ、と育てられました。それはTAS前夜、大量入社の時代でした。

 新入社員の私と言うより、全ての新入社員に共通していることだが、地方から出て来た私にとっては東京での仕事は不安だけしかありませんでした。その不安の中、菊池さんから頂いた言葉の数々は私に力を与えてくれました。この感謝の気持ちをどのようにして伝えればよいか計り知れません。ところが、感謝を申し上げる前に、菊池さんは遠い国に旅立たれました。残念でなりません。感謝の言葉と共に、菊池さんのご冥福をお祈り申し上げます。
 さて、平成24年、再雇用のお誘いを振り切り、目出度く会社人生を卒業させて頂きました。これまでお世話になりました諸先輩の皆様に、紙面をお借りしまして、お礼申し上げます。ありがとうございました。
 今後とも宜しくお願い申し上げます。

 <追伸> 近況は次の通りです。
  ・大阪府高齢者大学校関連
   平成25年度エッセー文学科
   平成26年度古典文学を楽しむ科進学
   平成26年度自然文化研究科進学
  ・ボランティア関連
   大阪市城東区おもちゃ病院勤務(平成25年8月~)

 

 


 

2. 吉田 京子 さん (3月17日生まれ)

今回の東京マラソン完走!


 「あの達成感を私も味わいたい!」と思ったのは、KDD名古屋支社勤務時代の同僚が、木曽川沿いを走る「犬山マラソン」の応援に行った時のことでした。それまで、マラソン=苦痛とのイメージしかなかった私は、何も考えず「来年は私もでる!」と周りに宣言し10kmにエントリー、約3か月間のトレーニングの後、1時間かけて完走したのが約20年前。これで私のマラソン人生は終わるはずでした。
 そして、ついに2月23日、東京マラソン当日、ランナー36,000人、スタッフ10,000人の大イベントが始まったのです。「日頃東京のど真ん中を走るなんてとてもできる事ではないし楽しもう」と思ってもそんな気持ちの余裕があるはずもなく、どんよりとした曇り空の下スタートしたのは朝9時過ぎでした>。

  沿道には応援の人の列が絶えることなく、皆がハイタッチで、また声を嗄らして「がんばれ!」と応援してくれる。これにはいやがうえにも私の気持ちも高揚し、感動。横には、ピカチュウやフナッシーの仮装をした人、マラソンをしながら結婚式を挙げるカップル、ホルンや三味線を演奏しながら走る人、「がんばれ日本、がんばれ東北、がんばれ私!」と書かれたTシャツを着て走る女性。 本当に様々な人達が、様々な思いを胸に走っているのだと思うとこれまた感動。 沿道には「苦しい?足が痛い?それは気のせい!」、「そこで走れるだけ、君は幸せ者!」、「You can do it!」等のプラカードが見える。その中でひときわ大きな友人達からの声、これには大感動! 30kmを過ぎた頃には、太陽が顔を出すとともに、私の気持ちも晴れやかに。そして遂にゴール! やった! タイムは5時間49分! 上出来!!
 マラソンを走り終わった今は、まるで映画を一本見終わったような気分です。この経験を通じて得たのは、達成感よりも、何十倍も大きな人の暖かさそして友人のありがたさでした。今は、その余韻に浸りながら、次の目標を立てようと思っているところです。

◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇

吉澤 生雄 :

完走おめでとうございます。 ご立派、ご立派。 次の目標は、「キリスト」よりも早く走るというのはどう? 十字架を背負って走ったキリストさん、5:13;51あるいは5:11;50ぐらいで走ったみたいだ。 浅学立志 2014/03/07 10:15:06

 

 


 

3. 小畑 富宥 さん (3月21日生まれ)

サンフランシスコ追想記


 2013年7月末に、1974年から約3年間KDD駐在員として勤務したサンフランシスコに30年振りに里帰りしました。赴任中は、旧AT&Tビルの一角にデスクを構え、同社の国際部門の方々と机を並べて執務した。おかげで、米国式の仕事のやり方をつぶさに見ることが出来ました。また、1976年の米国建国200年の祝賀行事にも参加する機会にも恵まれました。住まいは、ゴールデンゲート公園の近くで、よく同公園への散歩や近場の市営ゴルフ場へ通った。(プレー代 約2~3ドル)

 気候は太平洋から押し寄せる霧のおかげで、夏は涼しく、1年中過ごしやすい土地柄で、いまでも全米の諸会議が数多く開催され、合わせて観光客も押しよせ、ケーブル・カーは約1時間待ちの行列ができています。日本からは、7月~8月の涼しく、夕方の9時頃まで明るい当地へのお出かけがお勧めです。その際、寒さしのぎのセーターや、薄手のジャンパーやコートを持参されることをお忘れなく。

 

 


 

4. 高倉 保 さん (3月21日生まれ)

近 況


 16才から68才までの52年間、電気通信事業とかかわってきました。まず、昭和24年6月、熊本電気通信学園(電気通信省)に入学しました。モールス通信の通信士を養成するためのコースでした。昭和27年8月電電公社になり、昭和28年4月、国際電信電話株式会社(KDD)が発足しました。その少し前に国際部門に移るための訓練が終わって大阪国際電報局に配属されていた私は、なにも分からぬまま、KDD社員になりました。

 平成4年3月、定年まで1年と少しを残してKDDを退職し、第二電電(DDI)に移りました。 以後、現役1年、嘱託3年、非常勤嘱託5年で業界を卒業しました。非常勤嘱託のときにKDDとDDIが合併しKDDIになりました。
 平成13年3月末、KDDビル26階で、電気通信事業にかかわることに終止符を打ちました。通勤電車のつり革を持たなくなって13年になります。非常勤嘱託になった平成8年から始めたwalking、平成11年に再開した卓球、写真(主として風景の撮影とパソコンでの処理)などが現在の生活のすべてです。
 おかげさまで、元気に、あまり退屈することもなく、無職の境涯を楽しんでいます。

 

Happy Birthday (2014年2月掲載)

Happy Birthday !


 

2月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
 後藤 節子 さん、平井 富子 さん、祢津 信夫 さん、
 山本 隆臣 さん、伊原 昭男 さん

 

 


 

1. 後藤 節子 さん (2月1日生まれ)

エニアグラムと私


 私がエニアグラムに出合ったのは、KDDアカデミーに出向していた1990年頃のことです。エニアグラムは「9つの性格」とか「自分探しの旅」といわれますが、当時、聖心女子大学の鈴木秀子教授によって日本に紹介されたばかりでした。KDDアカデミーでは、いちはやく鈴木先生を講師に招いて公開セミナーを開催したり、新入社員訓練の一環として取り入れたりしました。
 私は56歳で早期退職したあと、鈴木先生のもとでエニアグラムの資格をとり、以後、カルチャーセンターや企業などで講師を勤めてきました。アメリカのへレン・パーマーのワークショップにも参加し、ここでも資格を取得しました。アメリカでの経験は、逆に、日本人のメンタリティを理解する上で大変役に立ちました。

  一例をあげると、昨年、私がある企業の管理職にエニアグラム研修をしたときのことです。 最初に紙を配って、「10分間で自分の良さを10個以上書いてください」といいました。 すると、大半の人が困ったような顔をして、2、3個書くのがやっとでした。「欠点ならいくらでもでてくるんですが」という人もいました。
 「自分の良さもわからないで、部下の良さがわかりますか?」日本ではこんなやりとりが導入になります。自分の個性を尊重し、個性の違う人たちを理解することは、エニアグラムの目的でもあります。自分自身を振り返ってみると、20年以上も学んできたので、自分の嫌なところは改まってもよさそうなものですが、残念ながら、生まれもった性格は変りません。しかし、「自分の中のいちばん嫌な点こそ、私たちが変容する転換点である」といわれます。 ここに希望があると思います。
 いま私が興味をもっているのは、高齢が「9つの性格」にどのように影響するかということです。私も今年は後期高齢者になるので、自分を実験台にしながら、気づきを深めてきたいと考えます。KDD在職中に仕事で出合ったエニアグラムが、退職後の活動のきっかけを与えてくれたことを改めて思い起こし、ありがたく思っています。 

 

 


 

2. 平井 富子 さん (2月3日生まれ)

心に残る二つの仕事とアンシャンテ


 「あなた、今、何してるの? うち、2次募集してるよ、受けてみる?」高校先輩のこの一言は、進路未定であった私に幸運の女神が舞い降りた瞬間でした。こうして、昭和44年7月、東京国際電話のオペレータとして、KDDに入社しました。
◆心に残る二つの仕事
 一つは「世界の声の交差点で」というKDD東話局の沿革史の発刊です。昭和62年、大手町ビルにあった東話局が30余年の歴史に幕を閉じ、KDDビル1ヶ所に移行するに伴い、東話局の沿革史作成プロジェクトが生まれ、メンバー8人の1人になりました。 一般の沿革史とは趣を変え、東話局らしく、読みやすく親しみやすいものをと考え、当時、人気だったドラマ「スチュワーデス物語」にならい、「オペレータ物語」というイメージを意識しました。

 国際電話の歴史と秘話をメインに、お客様と声だけで接するオペレータの知られざる素顔や人間性等を紹介した内容です。先輩への聞き取りは、初めて耳にする話ばかりで、歴史の重みを肌で感じながらも新鮮で、感激することもしばしばでした。たくさんの方の協力、励ましを得て、約10ヶ月間、全員で取材し、何度も編集会議を重ねながら原稿を書き上げ、発刊した時は達成感でいっぱいでした。沿革史は、オペレータたちに販売され、また、図書館等にも寄贈されたと聞いています。なお、昨年、OGで組織する「109の会」で知り合った大先輩に、是非読んで頂きたいと差し上げたところ大感激したと喜びの手紙を頂きました。時は経ても、みんなの心に東話局の歴史が刻まれているんだと実感しました。 

◆「仕事場は宇宙」と宇宙飛行士、向井千秋さん講演
 もう一つは、日本女性で初めてスペースシャトル「コロンビア」で宇宙に飛び立つ宇宙飛行士、向井千秋さんが、米国ヒューストンから、東京会場と熊本会場にいる子供達に衛星中継で宇宙への抱負を語る科技庁のイベントを担当したことです。1994年4月24日でした。東話局からKDDテレサーブの映像事業部に異動して1年、イベントも担当するようになり、海外での2回目の仕事でした。東京会場には、当時の江田科技庁長官、毛利衛宇宙飛行士も出席されており、当初、緊張しましたが、向井さんは、とても気さくな方で、直ぐに打ち解け、講演は和やかに進行し無事終了することが出来ました。その様子は、各新聞社やテレビ局で報道されました。 また、現地スタッフの配慮で、NASAを見学するチャンスにも恵まれ、とても貴重な体験をしました。このイベントが縁となり、退職後、米国の宇宙飛行士達が来日し、相撲協会に表敬訪問され、大相撲を見学された際、アテンドさせて頂いたことも良い思い出となっています。 

◆KDDから「アンシャンテ」へ
 人生は一度きり、次は何をと考えた時、実家が洋裁店でファッション雑誌を見て育った私は、母は洋裁の先生、姉はデザイナーという環境で、やっぱり私はファッション好きと痛感し、1999年早期退職をして、この世界に飛び込みました。オリジナルのアクセサリーをデザインし、ウェアやバッグをフランスから輸入し、2002年、代官山でショップをオープン、2005年に表参道の小さなスペース(店名 アンシャンテ)に移転してから、今年で10年目になりました。 また、2年程前から、東日本大震災後、仮設住宅での高齢者の孤立を防ぎ、自立へのきっかけを促すよう、福島や気仙沼の被災者の方々が作っているアクリルたわしをボランティアで販売協力しています。結婚式の引き出物やバザー、プレゼント等に購入されており、今まで1000個ほど販売し、今後も継続して支援したいと思っています。 


◆毎日を楽しく
 店は年中無休なので、仕入れ、販売、卸等忙しい日々ですが、多様な年代、職種の方々に接する機会が多く、友達も増え、楽しい毎日を過ごしています。 この仕事を、出来るだけ長く続けたいと思うとともに、KDDに居たからこそ今があると感謝しています。

 

 


 

3. 祢津 信夫 さん (2月3日生まれ)

昨年一番時間を割いたこと

 

 早いものでKDDIを辞めて2年半が経ってしまいました。当初は会社を辞めてから3年以内には人生最後の残り20年のおおまかな予定を立てようと思っておりましたが残りの時間は6か月となってしまいました。なんとか6月末までに方向性を出したいと思っているこの頃であります。そこで幹事様からのご依頼もあり何を書こうかと迷いましたが昨年最も時間を割いた事柄について近況として書いてみることにいたしました。
 たまたまKDDIを辞めた年に父の身体の調子が悪くなりその年の11月に98歳で亡くなりました。私の実家は代々社家で私が17代目となります。おまけに私は長男です。今や神社も世襲制ではないので私の代で辞めてしまおうかとずいぶん悩みましたがまあ私の代で辞めてしまう勇気もなく次の世代まで取りあえず引き継ぐことにいたしました。父がご奉仕していた常勤が必要な甲府の穴切大神社は我が実家の世襲制神社でないことから若手の神官に宮司をお願いし、代々ご奉仕して来た甲斐市の小さい神社3つを一昨年2月から引き継ぎました。そしてそれから2年間は出来るだけ神社界の世界を知るために山梨県神社庁が開催する行事に出来るだけ参加して来ました。
 参加して分かったことですが神社庁の行事もたくさんあり、とても全部参加できずまさに集中と選択が必要であるとの認識に至っています。特に昨年は神社界に於いては特異な年でした。5月には出雲大社が60年に一度の平成の遷宮また伊勢神宮は20年に一度の式年遷宮でした。20年後の式年遷宮の際は私も88歳の米寿です。次の式年遷宮の行事に参加できるのは大変難しいと思われます。そこで昨年は絶好の機会と捉え出雲大社に特別参拝を行うと共に式年遷宮お白石持ち行事に参加し、また秋には式年遷宮新穀感謝祭にも参加いたしました。出雲大社を参拝するに当たり、古事記を読んでみることにいたしました。皆様ご承知の通り出雲大社のご祭神は伊勢神宮のご祭神天照大神の弟、素戔嗚尊の子孫大国主命です。
 私のご奉仕する神社のご祭神は大国主命の子供の建御名方命です。大国主命の国譲りの際最後まで国譲りに反抗し戦いに敗れ信濃の諏訪湖近くに追い詰められ降参した神様で諏訪大社のご祭神です。昨年は改めて新たな気持ちで諏訪大社本宮にも参拝いたしました。
 こんなことが分かりますと出雲大社も諏訪大社も大変身近な存在になりました。8月には第62回神宮式年遷宮お白石持ち行事に参りました。ご奉献の前日、伊勢市二見浦の興玉神社に於いて禊の浜参宮をいたしました。浜参宮は神宮に参拝する前に二見浦で禊を行うという古儀に基づくものでお白石持ち行事、お木曳行事の奉仕者は心身を清めるためにおこなうのが通例となっております。8月10日(土)朝5時に起床し、酷暑のなか特別神領民として「おはらい町」端から宇治橋まで奉献車の一番車を奉曳しました。

「エンヤー」「エンヤー」の掛け声に合わせて内宮に向いました。宇治橋を渡り、神域からは白布に包んだお白石を持ち、新宮のお垣内に参進し奉献しました。新宮を身近に見る感動は大変なものでした。西行の歌「何ごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」がまさに実感でき何とも言えない気持ちになりました。これが聖地なんでしょうか。それともやはり私めも日本人なのでしょうか。11月には神宮新穀感謝祭に参加いたしました。今度は外宮の新宮に御玉垣内参拝をした後、旧正宮の拝観をいたしました。これで内宮・外宮の新旧正宮を拝観できたことになります。これが庶民で体験出来るのはまた20年後です。20年経った旧正宮は新鮮さがなくなって大変古く感じましたが日本の伝統に導かれた古き良さが漂っておりました。旧正宮の建材は全国の著名な神社に奉納され新たな部材として活用されるそうです。ECOの観点からも伝統のある日本文化のすばらしさが継承されております。
 国際電信電話株式会社に入社し、日本古来のすばらしい文化に余り接してこなかった会社生活を無事に終え、OBとなってからは日本の伝統に感動する毎日です。今後も出来るだけ日本文化の神髄に触れるよう努力してゆきたいと思っております。そしてさらに他の宗教を理解するためにも70歳までに訪れたかったキリスト教の三大聖地の内まだ訪れていないエルサレムとサンテイアゴ・デ・コンポステラを訪問すると共に旧約聖書と新約聖書を理解し日本の神道との比較にも挑戦してみたいと思っております。

 

 


 

4. 山本 隆臣 さん (2月21日生まれ)

平日は遠距離通勤、週末はウォーキング三昧

 

 1966年(昭和41年)入社の山本隆臣です。この度、古希を迎えました。「41会」という同期会で業務系担当の幹事をしています。 この会の活動については「会員の動向/同期会」の欄に写真入りで詳しく書かれていますので、ご覧頂けたら幸いです。
 旧KDDとDDIが合併して数年はどうにも社内が落ち着かない状況が続きましたが、そんな中で幸運にも旧知の友人から誘いを受け、59歳の時にITベンチャーの常勤監査役に転職しました。既に11年が経過し、節目のゴールまであと1年ちょっとというところまで来ております。同社は、小生の就任時からしばらくは携帯電話 用のブラウザやメール等のソフト開発が好評で急成長していたのですが、その後オープンソースソフトウェアの普及や、Apple、Googleなどからのスマートフォン攻勢によって市場の情勢が様変わりし、ここ数年事業環境が非常に厳しくなっています。ビジネスモデルの転換を図ったり、サービス系の新規事業を立ち上げたりして、何とか再び成長軌道に乗せたいものと全社一丸となって頑張っているところです。

 営業用のオフィスは水道橋にあるのですが、海浜幕張駅近くにある研究開発センターと本社管理部門のオフィス統合が3年前に実施されたため、平日は杉並から京王線、新宿線、有楽町線、京葉線を乗り継ぐ片道1時間50分の遠距離通勤を余儀なくされており、かなりヘロヘロ気味です。週末のウォーキングで何とか心身をリフレッシュして、また月曜から仕事に励むという生活パターンを繰り返しています。
 土曜、日曜のウォーキングはかれこれ30年近く続けています。各種ガイドブックの情報や鉄道各社の推奨コースを参考にして、花鳥風月を愛でつつ自然との一体感や季節の変化を肌で感じながら、関東各地の地域探訪をのんびりと楽しんでおります。太陽を浴びて歩いていると、神経伝達物質のセロトニンを増やす効能もあるようですし、足が第2の心臓として機能して血流をスムーズにするようなので、健康維持に大きな効果があると信じています。また、歩いているうちに良いアイデアが湧いてくることも度々経験しており、密かに「歩キ芽出スの原理」と呼んでいます。
 最後に好きな言葉を一つ、「念ずれば、花開く」。英語では"If you can dream it, you can do it."でしょうか。今後年齢を重ねていく中で、ささやかなことにせよ、何らかの夢は持ち続けていきたいと思う次第です。

 

 


 

5. 伊原 昭男 さん (2月28日生まれ)

『僕の村』 in セブ島

 

 合併前のKDDを50歳で退社し、55歳で「サラリーマン」を辞めてスキューバ・ダイブに浸かり、57歳で(体力を絞って)「ダイブマスター」の資格を取った。今はフィリピンのセブ島で「プロ」ダイバーとして、年の1/3を潜っている。

◆なぜ、フィリピンなのか??
 退職後、たまたま潜りに来たセブ島のこの「素朴な村」が余りにも気に入り、それ以来、年2回、各2ヵ月間ずつ「住む」ようになった。(村の名前は申し上げません。『僕の村』と表現させていただきます。)先日第16回目から帰国したばかりだが、毎回2ヶ月間となると、もう通算2年半以上『僕の村』に「住んで」いることになる。この原稿がK-unet にアップされる頃には、また『僕の村』に「住んで」いることだろう。

◆何が気に入ったのか??
 答えは「たくさん」ある。先ずは、沖縄にもない「自然」だ。透明度抜群の澄み切った海、生きた珊瑚に住む無数の大型・小型の魚、どこまでも落ちる断崖絶壁の海底地形、そして日本の夏より過ごしやすい常夏。南国だが東京の地獄のような猛暑はない。心地よい夏が一年中続いている。見たこともないフルーツもたくさんにある。

◆次に「治安」
 マスコミはフィリピンの治安の悪さばかりを煽っているが、『僕の村』に犯罪はない。村人はとても純粋・素朴で、旅行者に対する「ぼったくり」や「外人向け値段」もない。お客さんは、半分以上がヨーロッパからのリピータだ。アメリカ人や日本人は非常に少ない。というのも、過酷な競争社会で働く人間達は長期休暇が取れないからだ。 『僕の村』に来るヨーロッパ人は最低でも2週間、長期に至っては3・4ヶ月も滞在している。僕が一旦日本に帰り数か月後に来たら「まだ居た」なんてことは1度や2度ではない。そんな長期バカンスで来るヨーロッパ人は治安が悪いと絶対に寄り付かないのである。長期リピータが集まるところに犯罪なし。」である。

◆そして「物価」
 公定レートはあるが、お金の使い勝手(価値)は日本の10倍、すなわち物価は1/10だ。いくら説明しても信用しない友達が、雑貨屋に百円ライターを買いに行った。そこで「1個10円」の実体験をしてやっと納得した。「懐」の心配が要らないのは実にありがたい。『僕の村』では何をしても怖くない。ところが、旅行会社が案内する日本人向けリゾートではそうは行かない。330mlの小瓶ビールが800円もする。同じビールが『僕の村』では50円、これが地元の通常価格だ。日本人は(上司に掛け合って)やっと獲得した4泊5日の「特別」休暇を楽しむことの方が大事らしい。「ぼったくり」でも平然と支払う。「わーっ、安ーっ! 日本の半額だあ!」との声をよく聞くが、実は通常価格の5倍もぼったくられている・・・。この手の話は枚挙に暇がない。『僕の村』は日本人リゾートから100kmも離れている素朴な村だ。「治安」の項でも述べたように、長期滞在のヨーロッパ人は物価が高いリゾートには寄り付かない。「長期リピータが集まるところは超・安い。」である。

◆そして最後に、「仲間との『再会』」だ
 命を託し合うスタッフ仲間、その家族、長期リピータ達との「再会」である。僕がこの『僕の村』に来る本当の理由、最大の楽しみはこれである!! 今までにない、全く異なる『世界』、海外留学や海外駐在とも異なる『世界』で、仲間との再会だ。まず、『僕の村』に到着すると、毎回、仲間や長期リピータとのhug & hugが始まる。大柄のドイツ人おばあさん、ベアッテは僕を見つけると駆け寄ってきて、汗だくのままhug & kissをしてくれる。そして曰く、「あらっ、メガネがベトベトになっちゃったわね、Akio。後で自分で拭いてね」と こちらも最近は、ベアッテを見つけると、僕はメガネを外すことにしている。それを見て、また曰く、「そう、いい心がけね、Akio。私のhugはそうよ。」と言って、苦しいくらい抱きしめてくる。
 毎夕、ダイビングの後も出番が多い。「マグロ」を刺身に下ろし、ビールのつまみに出したり、向かいのバーを借りて「日本のカレーライス」や「てんぷら」パーティをやったり、「もち」パーティも時々やる。仲間を僕のコテッジのテラスに招いて「うどん」パーティはしょっちゅうやるし、仲間の家の庭先で4kgもある「ふぐ」を(ライセンスのない)シェフがココナッツ・ミルクで和えた「てっちり」パーティも乙なものである。3月は、特に「ふぐ」シーズンだ。 『僕の村』には「ふぐ」シェフが3人も居る。
 地域の活動として、小学校でクリスマス・コンサートを開いたり、乳児の洗礼式にGod Father を頼まれたり、結婚式でGod Fatherになったり、…社会的な催しには率先して参加するよう心掛けている。お葬式も2回呼ばれた。今では女の子二人(4歳と5歳)のGod Fatherであるし、若い仲間、Larry夫婦のGod Father でもある。2010年には小学校での活動で、教育委員長・校長・PTA会長の3人の連名で表彰を受けた。面白いのは、この賞状がフィリピン大使館のViSA申請や 現地空港の通関手続きに役立つのだ。「君は、こんなにフィリピンに貢献しているのか」と、審査もほどほどに握手をして通してくれる。
 この2月の訪問で、もう第17回目になる。潜水回数も通算1,300本も超えると、何が何でも潜りたいという心境は通り越してしまった。友達のライセンス講習にはアシストするが、友達が帰国した後は1日1本で上がることも多い。今では、旅行者としての新鮮な思いはなくなったが、『僕の村』には何か貢献をしたいと思っている。

 最後に、前回滞在中に襲来した超大型台風"Yolanda"(日本では「台風30号」)ついて一言。 これは「人間が作った台風」と言われている。人間が地球を暖めて引き起こした超大型台風だ。 今後、この手の超大型台風はドンドン増えるらしい。その内日本にも襲来するだろう。 『僕の村』は幸いにもセブ島の南部に位置するので今回難を逃れたが、セブ島北部はレイテ島と同様Yolanda をまともに受けた。暴風雨被害というより、まさに「津波」被害という感じだ。大型船舶が陸に押し上げられ横転し、電柱やココナッツの木は根こそぎ倒され、家の屋根や壁は跡形もない、ただの広場になった。 僕のショップ仲間にレイテ出身者がいるが、彼は実家の家族を引き連れてセブ島南部に引っ越してきた。というより、難民移動してきた。レイテの港には、家を失い食べ物を求める一族郎党があふれ長蛇の列をなしている。いつ船に乗れるのか分からない。彼の親戚一族はフィリピン海軍が派遣した軍艦の「甲板」に乗り、定期便で2時間のところ、深夜に10時間もかけて渡ってきたのだ。 速度を上げると水しぶき受けるし、甲板の避難民を落とさないように、のろのろ航海して来たという。
 みなさんは、「こんな超大型台風、日本から遠く離れた南の島のこと、日本に来ることはない。」と思っているかも知れませんが、そもそも台風がセブ島に来ることはほとんどない、日本よりも台風は少ない」のです。普段はこの辺りで「赤ちゃん台風」が発生し、それが暖かい海面で成長しながら移動してマニラや香港、日本を襲うというのが定番なのだが・・・、ところが今回の超大型台風Yolandaはフィリピンの東、赤道近くで発生し、貿易風に乗って西進する間に異常に暖かい海水面で急速に発達して勢力を増し、サマール島、レイテ島、セブ島北部を襲ったのである。幸運なことに南部の『僕の村』では、ほとんど被害はなく、僕のコテッジの入口のバナナの枝(葉っぱ)が二本折れただけだった。ただただ「幸運」であった。まかり間違えば、僕のコテッジなんぞ、ひとったまりもなかっただろう。恐ろしいことだ。こんな超大型台風が日本を襲う日が来るかもしれない、自然に悪さをしたくないものだ。

 毎日毎日、海の中で「大自然」に接していると、人は「自然尊重派」になる。僕も例外ではない。大自然、地球を心より大事にしていきたいと常々思っている。捕鯨も、原発も、反対だ。捕鯨反対に傾いたのは、計画停電の中、ろうそくの下で、隣にいた英国人のインテリ・プロカメラマン、トニーと生ぬるいビールを飲みながら話した時だ。捕鯨反対派が決してムードや感情で反対しているのでないことを思い知らされた。彼らは、非常に勉強しているし、実によくデータを調べている。むしろ、日本政府の主張、「反対派は、クジラは頭がいい高等動物だから殺してはいけない、と感情論で反対している」とか、「日本はクジラの皮から骨まで有効利用しているから許されるべきだ」とか、「クジラの数は回復している」とか言う論調である。どれも日本の水産庁が「論理のすり替え」のために誘導する、根拠のない、ヘリクツではないか。数が回復している証拠はどこにあるの?? そもそも生態調査をするのになぜ殺すの? 反対派は実によく生態を研究している(しかも殺さずに)。日本政府の主張の方が主観的ではなかろうか。
 原発もしかり、我々は東電や原子力村のおじさん達に「安い」と言われ、過度に電気を使わされているのではなかろうか。もっと、もっと、ケチケチ、効率的に使うべきじゃあない?? 電気をもっと大事に使おうよ。地球をもっと大切にしませんか。
 皆さん、続きは『僕の村』でビールを飲みながら、マグロの刺身を突っつきながら話しましょう。僕が居る間に是非いらしてください。(ご興味のある方は事務局にご連絡ください。)僕が居ない時に訪ねて来ても、「ただの客」ですよ。

 

 

Happy Birthday (2014年1月掲載)

Happy Birthday !


 

1月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
 久保 勝一 さん、佐藤 正武 さん、來山 征士 さん、柴田 清栄 さん

 

 


 

1. 久保 勝一 さん (1月1日生まれ)

老楽 (オイラク) の昨今


 本年は喜寿、生誕27,759日目の朝を迎えました。 今年も煩悩に煩わされないよう心身ともに健 やかに過ごしたいと願いをこめました。
 社会人として初めて巣立った最初の赴任地は、東北線とバスを乗り継いで辿り着いた地、田圃や畑 ばかりで周囲に建物らしきものが見当たらない、当時"KDDの孤島"と呼ばれた「名崎送信所」でした。
 ここでは僅か1ケ年の勤務でしたが、回線課・運用各課・保全1課(送信機担当)および3課 (空中線担当)と短 波通信全盛時代の送信所の主要業務を担当さしていただきました。 この経験は、社 会人としてスタートしたばかりの私にとって大き な一歩となりました。 外国向けの国際電話回線が、 ここの送信機やアンテナから世界各国へ届いてい るのだと仕事の重要さを痛切に感じた職務でした。
 また、同所では、先輩や同僚たちとのスキー やアイススケート、クラブ食堂でのビリヤードな ども私のとっては初めての体験でした。

 本社へ転属後は、長中期計画書の作成(技術 部)・無線局開設免許申請業務・海底線ケーブル システムの保守(保全部)・地元漁業組合とのケー ブル保護活動に関する対応・KDD丸の運行管理、短波送受信所や茨城・山口両衛星通信地球局、海底 ケーブル陸揚げ局など全国の国境局の管理・保守業務、また東施局では伝送設備・専用線・電話交換・ 電信/テレックス交換・データ交換・電力設備の管理・保守業務も経験してまいりました。現業事業所 として発足時の茨城衛星通信所(臨時衛星通信建設部)にも在籍、宇宙通信から衛星通信への幕開けにも 参加できました。 このように多数の部門に配属され、空・海・陸に亘る幅広い職場を経験できたことは 大変幸いでした。

 一方、出向先では、実験用中型放送衛星(BSE)の開発・設計審査・製 造立会い・検査・デルタ2914ロケット140号機でケープ・ケネディ宇 宙センター(ETR)から打上げらえられた同衛星の管制/運用を宇宙開発事 業団(NASDA)で担当、同衛星のメーカーであるアメリカ・ペンシルバニ ア州フィラデルフィア・ ヴァレー フォージ(Valley Forge)にある Gneneral Electric(GE)社宇宙部門へも製造時の立会い検査/各種審査の ため延べ約8か月間も出張しました。 また、インマルサット船舶地球局 (SES)の無線局免許の監理(KTI社)、国産技術試験衛星(ETS)VIII号の 概念設計(ASC社)などや、インターネット プロバイダ事業(Rimnet社) を経験しました。 丁度30回の配置換え辞令を拝領したことになります。
 振り返ってみると、KDD在職中は、いずれの職場でも、すばらしい 上司や先輩・同僚に恵まれ、在職37年目に定年退職いたしました。 数多く経験した中でも特筆すべき ものは、① 日中間海底ケーブルの数度にわたる障害修理の対応とケーブル保護活動、② 田中角栄首相 の中国訪問と日中国交正常化に関する現地北京での可搬型臨時地球局の建設・テレビ中継の成功、③ 実験用中型放送衛星の開発と打上げの成功、などでしょうか。
 一方、1998/3/31に設立されたKDD同友会パソコンクラブ "k-unet" には設立時から参加し、 初代研修担当世話人として7年間勤めてまいりました。 現在は、エキスパートとして協力さしていた だいております。
 自分史年表を作り終えた昨年の秋、"k-unet" では「KDD創立60周年記念企画」を発表しまし た。 今や幻の会社となった"KDD"の素晴らしい業務実績を大切に記録に残さなければならいと思って いたのと合致しました。 幾多の貴重な資料も散逸し、纏まっているものが見受けられない、何とか業務 実績を整理して残したい。 やるとすれば、"今でしょ! (It's now or never)"。逸機に大挑戦にチャレ ンジしてみようと試みました。 つたない能力しかありませんが、精いっぱい頑張ります。会員の皆さま 方のご支援をいただければ幸いです。 ご協力、よろしくお願い致します。

 さて、話題は一変しますが、日頃から、"足腰を鍛える"ためと"肥満解消"を意図して、ウォーキ ングには励んできました。定年退職時は、若 干肥満体型でした。 現役当時はあまり運動も しなかった私が、新規一転、毎日のウォーキ ングに加え、スポーツ・ジム通いを始めるこ とになりました。この習慣が今も続いていま す。
 ウォ-キングは、18,171歩(11.80km/ 151分/758.3Kcal)が日課の成績です。ス ポ-ツ・ジム通いは、週4回のペースで通っ ています。 運動しない日は、何か物足りない 落ち着きのない時を感じています。 最近の運 動量は、右表に示すようなものです。 男性の 皆さんには参考になるのでは?これらのせい か、肩こり・腰痛・肘や膝の痛みは全くあり ません。最近はActive 80を心掛けて、こ れらの他、ラジオ体操も加えました。 平日の 午後は、読書、また、認知症防止を目的とし て、指先を使うパソコン操作に時間を費やすことも多いです。 N88 Basic、MS-DOS時 代を経て Macintosh や Windows と、かれこれ四半世紀になります。
 さらに、国内旅行・海外旅行も大好きで、海外へは夫婦で出かけ今までに15回行って来たことに なります。 印象深いところとしてはいくつかありま すが、敢えて挙げれば① オーストリア・チロル地 方のハイキング登山、インスブルグ、ウィーン、ザ ルツブルグ、② ロシア・ヴォルガ河リヴァー・ク ルーズ(モスクワ→サンクト・ペテルブルグ間)とク レムリン、エルミタージュ美術館・小劇場、③ ア メリカ大陸西海岸のカナディアン・ロッキー・ドラ イブ(バンクーバー→カルガリー→バンフ→コロンビ ア大氷原→レイク・ルイズ→ジャスパー)などです。


 世の中に生を受けて2,398,381,200 秒と計算できます。 "人生まだまだ、健康に気をつけ30億 秒だ!"を目指して、今後の自分を探し求め、老いを楽しむべく、健康に留意して行きたいと思う昨今 です。

 

 


 

2. 佐藤 正武 さん (1月4日生まれ)

パソコンとジャズヴォーカル


 パソコンを使い始めたのは、KDD退職後だから、十数年になる。私にとって、PCは趣味とは言えないが、極めて優れた道具で、今ではPC依存症になってしまった。用途は、メール、ネット検索、家計管理、外国旅行時のホテル予約、レストランのメニュー調べ、ネット通販、今がその時期の所得税確定申告、等々。
■ジャズヴォーカル
 話は変わって、高校生のころから、趣味の一つとして、ジャズおよびジャズヴォーカルを聞いてきた。(ジャズヴォーカルの例:Stardust, Smoke Gets in Your Eyes)人生を締める前に、聞く方から、演ずる方へ回ってみたいと考えた。ただ、自慢じゃないが、小学生のころから音楽と体育の成績は劣悪だ。楽譜も読めない。楽器をマスターするには遅すぎるが、ヴォーカルなら少しは形になるだろう。そこで、6年前から、グループレッスンと、時々個人レッスンを受けている。全くの素人から始めたから、進歩は遅々としているが、自分で歌うようになると、聞き方まで変わってくる。今まで聞き逃していた、曲の特徴や、歌手の個性、歌唱法などがわかるようになり、趣味が深まった感じがする。

 ただ、最近感じるのは、一部の人達を除いて、生まれ変わらない限り日本人には英語のヴォーカルは無理なのではないかという疑問だ。問題は歌詞で、たいていは、簡単明瞭で、紋切型で、暗記は容易なのだが、歌っていてどうも身についた感じがしない。なかなか歌詞に入り込めないのだ。始める前から危惧していたことで、非母国語のせいだと思われる(器楽ではこの問題は生じない)。でも、プロになってお金をもらうつもりではないので、これでよいと思って続けている。この趣味を追及するうえで、PCは不可欠の存在だ。
■ヴォーカル・データベース
 ヴォーカルのおけいこには、どうしてもお手本、つまりコピー元が必要になる。いわゆるマニアックなコレクターではないが、聞き始めのころから買い求めてきたLPやCDはかなりの数になり、これを利用すればよい。ただ、聞きたい曲がどこにあるのか、探すのに大変手間がかかる。そこで、曲単位のデータベースをエクセルで作った。入力が大変で、躊躇したが、片手間で、3~4箇月で完成した。重複もあるが、約4700曲。探している曲が、どのアルバムにあるか、一発でわかる。 
■楽譜作成ソフト
 個人レッスンを受けるときは、自分のキーの楽譜が必要になる。市販の楽譜を見て作成する。殆どがA41枚に収まる簡単なものなので、手書きでも構わないのだが、その方面の知識がないので、楽譜作成ソフトを使用している。これは演奏機能を備えているので、カラオケ代わりになり、便利だ。 
■PCオーディオ
 いわゆる終活の一環として、いろいろな面でダウンサイズを心掛けているが、溜まったLP, CDをどうするか悩んだ。とっておいても一度も聞かないかもしれないのに、所有欲は捨てきれない。解決策として、PC(外付けHDD)に蓄積することとし、現在その作業が続いている。専用のソフトと接続機器を使用しているが、CDの場合はディジタルからディジタルへ変換するので簡単だが、LPはアナログ・ディジタル変換なので、手間と時間がかかる。LP, CDは全部中古屋へ持ってゆき、先々は、PC, 外付けHDD, DAコンバーター、質の良いヘッドフォンで音楽を楽しむつもりだ。

 
 

 


 

3. 來山 征士 さん (1月19日生まれ)

近況と雑感


 KDDを退職して15年になります。1998年から10年間,徳島に単身赴任して大学で教鞭をとりました。徳島は魚や野菜が新鮮で手料理を作り,食を満喫しました。また,3度の四国霊場八十八ヵ所めぐりも経験しました。徳島はなんといっても「阿波踊り」です。8月12日から4日間盛大に開催されます。一見の価値はあります。絵画の好きな方には大塚国際美術館に足を運ばれるのもいいと思います。1000点を超える世界の名画が見られます。
 徳島大学を退職した後も高知工科大学の非常勤講師を続けています。この授業ではKDDIの関係者に来ていただき,講義をしていただいております。最近では松平恒和さん,小西和憲さん,安田豊さん,松本修一さん,大橋正良さん,そのほか若い方で,お話は新鮮で学生たちにたいへん喜ばれています。講義終了後,講師のみなさんと高知の郷土料理である「皿鉢料理」を楽しんでいます。

 さて,東京での生活は,旅行に出かけるほか,1日1万歩を目標に散歩し,また誘われると断ることなく飲み会に参加しております。この秋は山形地方に出かけ,真っ盛りの紅葉と温泉を満喫してきました。そのほか,「迎賓館赤坂離宮」のボランティア説明員をしております。ここで迎賓館赤坂離宮について少し説明させていただきます。
 1906年に四ツ谷駅近くの紀州徳川家の中屋敷跡地に,ジョサイア・コンドルの弟子である,片山東熊の設計により東宮御所として完成しました。国内唯一の洋風宮殿で,明治の建築としては初めての国宝に指定されています。ベルサイユ宮殿などの西欧の宮殿と比較すると,規模など見劣りしますが,日露戦争中に着工し欧米に追い付かんとばかりにかなり無理して建設したものです。1967年に迎賓館として改修され,これまで多くの国賓の方々により使用されています。

みなさまの中には既に見学をされている方もあると思いますが,見学は8月下旬から10日間のみで,応募申し込みは6月中で,迎賓館赤坂離宮のWEBから可能です。国賓の来日の関係で若干変更されることもありますから注意して下さい。女性の方に人気です。女性同士,ご主人同伴,ご婦人同伴でどうぞ出かけて下さい。
 釈尊は「思い煩うな,なるようにしかならんから今を切に生きよ。」と説かれています。KDDI健康保険組合の健康指導員はピンピンコロリ(PPK)には「ストレス大敵」とおっしゃいます。会員のみなさん,ゆったりと構えて健康を維持しましょう。写真は築地本願寺宗務長不二川公勝師にお会いし,宗教についてお話を伺った時のものです。 なかなかいいお話しでした。
 趣味の会がありましたら,参加しますのでお知らせ下さい

 

 


 

4. 柴田 清栄 さん (1月26日生まれ)

七十七の手習い


 俳句との最初の出会いは50歳頃にあった。新宿KDDビル本社には俳句部があり、毎月、廊下の掲示板にその月の句会の結果が貼り出された。それを時々眺めてはなんと優雅な世界があるのだろうと感心したものだった。 自分もやってみたいと思ったが何となく踏ん切りがつかずにいた。
 それから数年後、通勤でいつものように家から地下鉄の駅まで神田川沿いの道を歩いていた。ふと、川をみると散り始めたさくらの花びらが川面を流れていた。当時まだ水が汚れていたが、連なって流れる花びらが美しい。これは俳句になると思い、数日かけて何句か作った。そして、よし俳句をやろうと決心し、歳時記を買い、俳句ノートも作った。 しかし一人での句づくりは難しく、続けることは出来なかった。
   次の機会はすべての職を辞めた64歳の秋のこと。朝日カルチュアセンターに行きタイ語と俳句の講座に申し込みしようとした。しかし受講料が思ったより高く止むなく俳句を断念した 今考えれば惜しいことをしたと思う。 15年も前のことだから続けていればと残念である。
 そして、実際に俳句を始めたのは77歳の時、「きさらぎ」に参加させていただいた。まさに遅かりしスタートである。当時すでに10年位の句歴のあった家内の勧めであり、会員増加のキャンペーンに乗せられた形であったが、甘受することとした。入会して3年近くなるが、今は俳句を始めて良かったとつくづく感じている。その理由はいろいろあるが、その第一は病気の時に助けになったということである。

 入会して間もなく2回ほど入院した。大手術のあとベッドで呻吟する毎日。このとき俳句を考えることで辛うじて苦しみに耐えることが出来た。俳句がなかったらどうなっていたか考えるだけでぞっとする。
 やっと始めることが出来た俳句である。これからも大事にしたい。今はまだ夢中で作句しているだけの状態であるが、句会の楽しさとかも少し分かってきた。やはり、俳句はグループで楽しむ文芸と言えると思う。一人でこつこつでは楽しさも半減する。
 しかし会を運営維持する先生方、幹事の方々のご苦労は大変なものであり、頭の下がる思いがする。これからも良き先生方、良き諸先輩の励ましとご指導により少しづつレベルアップを図りたいと思う。
 下の2句は句会で比較的良い評価を得たものである。

  「入院も旅寝の一つ冬の月」
  「争はず己が空飛ぶ赤とんぼ」

 

自分で傑作と思えるものはまだできていない。(写真は2012年タイ ホアヒンで撮ったものです)

 

Happy Birthday (2013年12月掲載)

Happy Birthday !


 

11月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員: 柏原 修一さん
 

 


 

1. 柏原 修一 さん (12月15日生まれ)

通信の世界から東洋医学の世界へ


◆自己紹介
 昭和46年入社の柏原修一です。昨年還暦を迎えたのでk-unetではまだまだ若輩の部類に入ると思います。今回この原稿を書くにあたり、初めて本コーナーを拝見させて頂き、諸先輩方の近況を懐かしく読ませていただきました。
 以下、私の近況を簡単にお伝えしたいと思います。私は現在故郷の福島県いわき市で鍼灸師として働いております。2006年3月に53歳で早期退職し、かねてから計画中であった鍼灸師の国家資格を取得するために新宿の鍼灸専門学校に入学。2009年3月に念願の国家試験を取得し、その後故郷の福島県いわき市に戻り、鍼灸院を開業して現在に至っております。

 

 


 KDDでは最初の東回統を除き、ほとんどが衛星通信一筋でしたが、第二の人生として選んだのは最先端の通信技術とは対極にある2000年の歴史を持つ東洋医学の世界でした。これは20代の頃に鍼灸治療によりギックリ腰を治してもらったのが契機になっています。鍼灸師は定年のない職業なので、自分の体が続く限りは生涯現役の気持ちで出来るだけ多くの人を楽にしてあげたいと思っています。

◆東日本大震災
 私はまさしく被災地で地震を経験しましたので当時の模様をお話したいと思います。
 2010年11月に開業して四カ月後の3月11日に東日本大震災が発生。新築まもない治療院は何とか無事だったものの、築38年の自宅は屋根瓦が崩落し、室内はひびだらけと全壊一歩手前の大規模半壊でした。断水、放射能の恐怖、食料不足そしてガソリン不足の悪夢は今でも忘れられません。幸運にも当時の気象条件により、いわき市は高濃度の放射能汚染からは免れられました。震災から1年半もの間、ブルーシートに覆われていた屋根の修理もやっと昨年6月に終わってほっと一息ついているところです。 それ以来「備えあれば憂いなし」のことわざどおり、水、食料、ガソリン等は常に準備しておくようにしています。


◆鍼灸師としての日常
 お陰さまで震災も無事に乗り越え、本年11月に開業三年目を迎えました。経営的にはまだ目標の7割程度ですが、スタートとしてはまずまずだと思います。

 経営理念は地域密着型の治療院なので、通院できない高齢者のために出張治療も取り入れています。患者は時代を反映して高齢者の比率が多いです。加齢による疾患が多いので、食事指導、運動指導も必須ですね。多くの高齢者の患者を治療していて感じるのは病気は生活習慣から引き起こされるということです。長年の生活習慣を変えるのは大変ですが、勇気を持ってチャレンジした人は薬に頼らず改善しているようです。
 食事は高血糖になりやすい炭水化物(米、パン、うどん等)を控えて、肉類、野菜類の摂取を多く、そして下半身の筋トレが大事です。「老化は足から」というのは真実です。

◆ぺルー 還暦男一人旅

 本年9月末に還暦記念と称してペルーに行き、マチュピチュ遺跡とナスカの地上絵を見てきました。これはかねてより計画していたもので、体力のあるうちにと思い挙行しました。念願の遺跡に立ち、アンデスの風に吹かれながら古代の人々の暮らしに思いを馳せた幸せな時間でした。

ながながと書き連ねましたが、k-unetを通じて今後とも諸先輩との交流ができることを楽しみにしております。また最後に当治療院のHPを紹介させていただきますので、興味のある方は覗いてみてください。
(しゅう鍼灸院: http://shu-harikyu.com )   

 

 

Happy Birthday (2013年11月掲載)

Happy Birthday !


 

11月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
 梅田 昭夫 さん、見城 正幸 さん、横井 寛 さん

 

 


 

1. 梅田 昭夫 さん (11月4日生まれ)

すばらしい会社 - KDD


 東京への単身赴任も2度経験しながら、40年間勤めてきましたが、本当にすばらしい会社でした。昭和31年1月、酷い就職難のなか運よく会社から採用通知があり、書類を返送するため郵便局へ出向きました。伊勢神宮・外宮のすぐ前にある宇治山田(現伊勢市)郵便局です。宛先を見た局員さんにこの会社に入ったのかと聞かれうなずくと、給料の高いこと、ボーナスの多いことなど実に良い会社であること、それにここで働いていたTさんが大阪にいるはずだと話してくれました。そんなころ、なにかの経済誌で「KDD」がとりあげられており、渋沢社長のインタビュー記事が出ていました。記者が給与水準の高いことを指摘したのに対し、社長は「うちの社員は皆英語がペラペラですから...」と答えておられたのを今でも覚えています。
 当時短波放送に凝っていて、NHKの国際放送Radio JapanがKDDの送信所から送られていることも知っていましたし、国際電話も当時は短波しかなかったので、スケジュール開始前の呼び出しが聞こえたりしてましたので、KDDが極く身近に感じられるようになっていました。
 入社して「皆が英語ペラペラ」でもないことはすぐ分かりましたが、すばらしい会社に入社したとの思いは日に日に、年々強くなってゆきました。この思いは40年の間、一度も?がついたことはありません。
 良い想い出ばかりでもなく、苦情顧客に胸ぐらをつかまれて振り回されたこともありますが、まあまあ良い想い出いっぱいのKDDでした。なかでもいろんなイヴェントに参画できたことを懐かしく思い出しています。

 俄然盛り上がってきた2020東京オリンピック。1964年当時はまだTV中継などなく、各国の記者がテレックスで原稿を送っていました。国立競技場横のプレスセンターで、来る日も来る日もその原稿の鑽孔作業をやっていました。打っても打っても無くならない原稿の山。そんななか、自分の原稿をすこしでも早く打ってもらおうといろいろ工作をする記者がいたりして、文字通り目の回るような忙しさでした。
 万博がありました。電気通信館に皇太子ご夫妻(当時)がご訪問されることになりました。電気通信館のイヴェントの司会は宮城まり子さんがされてましたが、ご夫妻がお越しになる少し前に私たちの仕事場兼控室に来られてしばし談笑されていました。 「美智子様はプリマですから必ず白っぽい服をお召しになるはず。だから私は...」と言って上着をとったら下は肩口がほどけたようなドレス。「袖付けが間に合わなかったのよ...」と笑いながら会場へと出て行きました。たしかに美智子さまは白いスーツ姿でした。人気女優さんのまた違った一面を垣間見たようで、うれしくなったのを思い出します。
 1975年5月エリザベス女王が来日され、鳥羽をご訪問されました。ホテルの玄関前で従業員らと一緒にお待ちしてると、わざわざ玄関のかなり手前の緩やかな坂の途中で車を降りられ、にこやかに手を振りながら出迎えの人々の列の前を歩いてこられました。 ウグイス色のスーツをお召しになった女王を今も鮮明に覚えています。

想い出のお宝2題
 東話局から大話局へ帰るとき、サビ管のお姉さんから贈られたネクタイ 西陣織のしっかりしたタイで、40年近く経った今でも立派に当時の風合いを保っています。
  もう一つは大阪支社から本社へ転勤になったとき、当時の運用部の皆さんから贈られた掛け時計。田無社宅で2年半愛用したあと、自宅でず~っと使っていますが、30年経った今でも正確無比な時を刻んでくれています。現役時代は5分前精神とか、6秒課金、11秒以上の待呼などなど時間には神経を使う仕事をしていましたが、さすがに卒業後はさほど時刻を気にするようなことはありません。それでも正時に長針が少しずれていればやはり気になります。ところがこの時計、木製の薄いボードに長・短針がむきだしの状態で付いていて、裏にムーブメントのブラックボックスがあるだけのいたって簡単な作りですが、全く狂わないのです。おかげで電池を取り換えるとき以外、さわったことがありません。


 同友会がなくなり、こんな想い出話をする機会が無くなってしまいました。それでも現役時代から続いている月例の飲み会が2つと、これも30年以上続いている東西ハムクラブメンバーの定時交信などがあり、「KDD」との繋がりはいついつまでもなくなることはなかろうと思うとうれしくなります。幸い体もいたって元気です。
 この上は、KDDIのご発展をお祈りするばかりです。

 

 


 

2. 見城 正幸 さん (11月13日生まれ)

南極越冬記出版の顛末


 11月は毎年、南極観測隊が出発する月です。 今年も第55次日本南極地域観測隊が、昭和基地を目指して砕氷船「しらせ」に乗船し、東京港晴海ふ頭を出帆します。
  今から43年前の1970年11月25日、私も第12次南極地域観測隊の越冬隊員として、晴海ふ頭を出港しました。当時の砕氷船は、「宗谷」に次いで就航した「ふじ」で、出港時は、船上と岸壁の見送る人々の間で五色のテープが飛び交い、たいへん賑やかなものでした。岸壁を離れて間もなく、船内のテレビで三島由起夫の割腹自殺の報に接し、出港は忘れられない強い記憶として残っています。また、11月は第12次南極越冬隊の仲間が集合する「12次隊の会」の月でもあり、全国に住居が散らばる隊員が集まり、一晩、越冬当時の思い出話に浸ります。この集まりは毎年欠くことなく継続している楽しみの一つで、今年も伊豆の川奈に集うこととなっています。昨年、12次越冬隊の仲間の共著で、南極越冬記を出版しました。40年余も昔の事を、何でこの期に本にするのかといった疑問を皆さんお持ちになろうかと思いますが、ことの顛末は以下のとおりです。

 2008年11月の「12次隊の会」の席上、小口隊長から、越冬隊のことを纏めて本にするから、原稿を書くようにとの下命があったのが、そもそもの始まりです。私も、遠い昔の記憶を掘り起こし、担当したオーロラ観測のためのロケットの打ち上げについて、苦労してなんとか原稿を書きました。ところが2010年の暮れに隊長が他界されてしまったのです。そして葬儀に集まった隊員間で、「隊長の遺志を継ごう」ということになり、隊員の一人を編集長に仕立て、翌年の春先から隊長に替わり、編集作業が再開されました。編集やら校正やらと慣れない作業をこなし、途中、すったもんだもありましたが、編集長もそれなりに頑張り、この越冬記が「極地研ライブラリー」として、国立極地研究所のお墨付きをもらえることも決まり、8月には何とか出版の運びとなった次第です。

 12隊は、往路40日間、復路14日間、氷海に閉じ込められ、身動きできない状態に陥り、そのため出国から帰国までの期間は、歴代観測隊では最長となり、反面、昭和基地滞在期間は最も短い1年に満たない状況でした。ロケット打ち上げ観測プロジェクトの初年にあたり、また、日本の観測隊では初めて、南極大陸奥地の内陸基地で長期間滞在があり、その他昭和基地では火事騒ぎもあったりと多忙多事で、50数回に及ぶ南極観測隊の中では特異な隊であったことは否めません。この特異な隊のことを記録に残したかった隊長の遺志に、我々隊員が応えたのが、越冬記の出版でした。
 本のタイトルは、「氷海に閉ざされた1296時間」、副題は「第12次越冬隊の記録」、出版社は成山堂書店、値段は少々高く2,200円(税別)です。印税の分配を期待しているわけではありませんが、南極に興味がおありの方は是非ご購読願いたいと思います。

 

 


 

3. 横井 寛 さん (11月17日生まれ)

誕生月に寄せて――近況と昔の思い出――


 私は昭和5年(1930)11月17日の生まれであるから今年の誕生日で83歳になる。日本男子の平均寿命からみるとすでに3年余りも余分に生かせてもらったことになる。私は、昨年の5月に帯状疱疹を患って以来、今もその後遺症である神経痛に悩まされていて、痛み止めの薬を服用しているが,その為かいつも眠くなり、毎日の昼寝が日課となってしまった。そんなことで、いつお迎えが来ても恥ずかしくないように身辺の整理をしておかねばと考えるのだが、それも煩わしいと思う今日この頃である。
 さて、私が80歳になった翌年の3月11日に東日本大震災が起きた。これからの日本はどうなることかと心配になり、少しでも若い人たちのためにお役に立てばと考えて、インターネットでのブログ「短檠」を立ち上げた。
 ( http://yokokuwan.blogspot.com  )

■「昭和29年 KDD入社の学卒一期生」
 最初の2年余りを小室受信所で過ごした後、研究所で主にアンテナとか電波伝搬の研究に従事し、あのKDD事件の直後から伝送部、機器部、そして大阪支社などで勤務させてもらった。そして、(財)国際コミュニケーション基金での仕事を最後にKDDを退職し、KDD出身者としては全く異色の防衛大学校教授に就任した。その定年退官後、東京電機大学の非常勤講師として75歳まで勤務したが、それからは全くの自由人となった。

■「オフセットグレゴリアンアンテナ」
 KDDでとくにに印象に残っていることは、研究所時代に世界初の人工衛星スプートニーク1号の電波を受信したことと衛星通信用アンテナや電波に関する研究を行ったことである。

 初の衛星通信実験については今年で50周年になることからk-unetで特集が組まれるようだし、また黎明期の衛星通信についてはブログの随筆でも紹介しているのでここでは省略する。その後、私が水口芳彦君や赤川正孝君とともに開発したアンテナで今も広く使われているものに"オフセットグレゴリアンアンテナ"がある。これが地球局用として用いられているのは代々木のNHKで見ることができる。またTV取材の移動局から衛星に向けられるアンテナは世界中のものが殆どすべてこのアンテナである。
 電波の研究では衛星通信用の大気減衰のほか準ミリ波での降雨減衰研究では、今はすでに故人となった山田、福室の両君をはじめ小川明義君や古田治君とともに2周波レーダーを開発して、降雨の立体構造を明らかにした。
 これらの話は防大を定年退官した後、「宇宙通信よもやま話」として裳華房から1997年に出版された。
 このほかCCIR(国際無線通信諮問委員会)の電波部門では日本代表としてジュネーブでの国際会議に度々出席させてもらったが、英語が下手なため随分と苦労をした苦い経験がある。

■「大連海事大学での講義」
 本社に移ってからの仕事はさておき・・中国の大連海運学院(現在の大連海事大学)からの依頼で、度々同学院で衛星通信の講義を行っていたところ、1987年10月7日に同学院より名誉教授の称号を授与された・・。そしてこの日の夜の月見の宴で同学院の李教授から彼が作ったという次の漢詩を渡された。

鑑真昔曾東渡海
横井今又講学来
皎皎秋月歴千載
綿綿友誼傳万代

 白髪三千丈というようにオーバーな表現をする国であることは知っていたが、私を鑑真和尚と対比させたのはいくらなんでも面映ゆい限りであった。(鑑真和尚と私の名前の中国語の発音が似ていることにも因んでいるとのこと)なお、李教授も日本語が出来たが、この大連では年配者の多くが日本語を理解することができ、また日本語から中国語への通訳の方が英語よりも容易であるということから日本語で講義をすることができたのは有難かった。
 この翌年、私がコミュニケーション基金に移ってからのことであるが、李教授と会っていろいろ議論をしているうちに、「目前に迫りつつある21世紀の情報社会を、技術、経済、法律、通信、文化の多方面から日、中双方の学者で展望しては」ということになり、1989年の5月初旬に北京で「情報社会の建設と生活」と題した公開討論会が開催された。 あの天安門事件の1か月ほど前で、学生のデモが高まりを見せていた頃である。
 その時の日・中双方それぞれ7名の論文を筆者と李先生が編集したのが「情報社会への道――日・中の学者が語る理想と現実――」という本で、日本ではオーム社、中国では新時代出版社から夫々出版されている。

■「日本画、四国遍路、郷土史研究」
 趣味としての日本画はKDD時代からたしなんでいたが、防大時代からは全国展にも出品するようになり、また自衛隊の全国美術展では防衛庁長官賞を受賞した。ここに掲載した鯉の絵(120号)は(社)新興美術院の全国展に出品したものの一枚で、現在は防大の幹部食堂前に飾られている。

 70歳を過ぎてから4回に分けて行った四国遍路は、その紀行文が「準・歩き遍路のすすめ」として2005年に講談社のα新書として出版された。
 私のいま一つの趣味は郷土史の研究である。静御前については、私の郷里である讃岐に残る彼女の伝承と遺跡を訪ね歩いて「その後の静御前」の話をまとめるとともに、あの屋島合戦も静御前の母磯禅師の地縁血縁による協力があったことを明らかにした。次に、保元の乱に敗れて讃岐に配流となった崇徳上皇については、中央で書かれた保元物語や今鏡と讃岐に残る郷土史の話とで異なるところがあることに着目した。すなわち、戦記物は勝った方が都合の良いように書くものであり、捏造されることもあること、また第3者も、勝者に気兼ねして、事実を曲げて婉曲に書く場合が多いことなどに着目して、古典を読み直し、新しい視点に立って、郷土史と整合するような物語として発表した。これらは「西行と崇徳上皇・その後の静御前」として2012年に美巧社から出版された。この本は、朝日新聞の香川版において、これまでの定説を覆す崇徳上皇像として、筆者の写真入りで紹介された。


 紙面の制約もあり思いのほどを書くことができていないところはインターネットでの私のブログ「短檠」( http://yokokuwan.blogspot.com )をお読みいただき補完していただければ幸いである。

 

Happy Birthday (2013年10月掲載)

Happy Birthday !


 

10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
 石原 英雄 さん、長浜 剛毅 さん、稲尾 登志高 さん、岩本 喜直 さん
 岩本 喜直 さん、竹田 文子 さん

 

 


 

1. 石原 英雄 さん (10月12日生まれ)

『老い』が自分の年令を越さないよう、あがく?日々


 また、誕生日が来てしまった! 自覚せずとも満74歳と立派な、誇るべき?年齢になった。誰しも年は取りたくないが、それは不可能なので、せめて、年より老けてみえるのだけは避けたいと常々考えている。年を忘れたいと思っている。お幾つになられました?と聞かれるた場合は、「たしか・・少し前に還暦をすぎました」と応える事にしている。
 最近の研究で、人間だれしも長寿遺伝子(サーチュイン遺伝子)を持っているが眠っており、目覚めさせるには少食を維持し、体を飢餓状態に保てばよい、ということが判明している。しかし、1日1食にして人間の最大の欲望を封じ込める老化防止法は、意志の弱い私にはまず無理とあきらめた。代わりに、自分が少し貢献できることで若い人とともに身体を動かすプログラムに参加することに決めた。体にも若干の負荷がかかる作業を若い方々に引っ張られながら行うことにより、老骨に鞭打つ?ということである。
   現在、東北大震災支援活動として、私の住む団地の若手リーダー達が運営している、鎌倉七里ガ浜発宮城県七ヶ浜町復興支援隊に入り、ボランティア活動に連れていってもらっている。団地の中から大型バスを仕立てて七ヶ浜町に通うゼロ泊2日のボランティア活動は、震災発生直後から実施して現在24回を数えている。その間支援の内容も変遷し、現在私は仮設住宅の皆さまと園芸活動を行っている。特に若返りの野菜として有名なヤーコンを支援隊員で手分けして栽培し、ヤーコン茶を作って仮設住宅の皆さまにお配りして喜ばれている。毎回集合写真を撮影してお配りしているが、全員が前回の写真より若返って写っている!「ヤーコン茶は確かに効くね」というのが、全員の感想である。嬉しい事だ!(*^_^*)
 支援隊の活動にご興味がある方は支援隊のブログ等をご参照ください。
   http://bond7.sblo.jp/ http://bond7.sblo.jp/

(写真)集会所でヤーコン茶作りに励む、七ヶ浜中学校グランド仮設住宅にお住まいの方々と石原講師

 

 


 

2. 長浜 剛毅 さん (10月16日生まれ)

KDD時代の思い出


 お世話になった先輩たちが達者でいる間は大口をたたけないので、控えめな気持ちで書かせてもらう。
 千葉の田舎の高校を出て何もわからないうちにKDDに就職していた。というのは当時担任が会社案内か何だか持ってきてこれ受けろというものであった。後日談であるが、この担任も当時KDDを知らなかったとのことである。ただ流れのままに身を任せていたらこんなに良い会社に就職できた。自分は運が良い人間に違いないと、お世話になった35年間ずっと思いこんでいて、70歳になった今でもそう思っている。おまけに嫁さんまで世話してもらったのだから、KDDのほうには足を向けて寝てはいけないのかもしれない。
 こんな日本一のいい会社で過ごしながら、サラリーマン人生を振り返ると名古屋での4年間を除いて意外なほど楽しい思い出は出てこない。自分の至らなさから恥をかいたこと、失敗したこと、周りの人々に迷惑をかけたことなど、これらの場面が次から次へと浮かんできてしまう。
 35年のサラリーマン人生の思い出はブルーなことのほうが多かったが、名古屋で過ごした、たったの4年間がすべて明るく楽しい思い出に塗り替えてくれた。この4年間が、いい会社にはいい思い出という、あたりまえのピントに合わせてくれた。単身という身軽さもあってか自分がやりたいことはもちろん、当時サラリーマンが楽しんでいたすべてのことに首をつっこんだ。好きなことでやらなかったのは犬を飼うことぐらいか。自分がこれほど好奇心旺盛だったとは知らなかった。これは名古屋という地がナゴチョン(単身赴任者)に対して思いやりのある街で住みやすかったことも原因している。

 仕事面でも、源氏鶏太が小説の中で言っているように、サラリーマンの幸せとは、よい上司に出会う幸せ、よい部下に出会う幸せ、目標を成し遂げる幸せ等、4つ5つあげているが、これらの幸せをすべて味あわせてもらった。42歳ぐらいの時だったか、名古屋料金課長を命ずということで、新米の管理者が単身で名古屋へ。東京を出るとき、名古屋の問題点はこうだからそこを改善してくれなどとエライ人に言われて、やる気満々で名古屋へ向かったのを覚えている。家族との生活でも結構我がまま放題で、自由にさせてもらっていたが、これからは単身だからさらに自由が広がる、そう思うと胸がワクワクしてきたものだ。
 課員はみな地方出身の若者であり独身寮で生活していた。彼らに対しては時には兄貴に、時には父親がわりをするからそのつもりで、などと言ってお互い独身寮生活をエンジョイしていた。
 名古屋人特有の気質で、関東人にはなかなか心を開かないというのがあるが、お客様をはじめ名古屋の人たちが徐々に心を開いてゆくその過程も結構楽しかった。名古屋市内の他に、近いところに金津園、柳ヶ瀬、雄琴温泉など、夜になると昼よりも明るい場所が何か所かあるが楽しい思い出の一助となっている。
 何だか、名古屋では遊びばかりの印象の文章になってしまったが、通信の競争時代に突入し、料金課から営業に移って東海4県を汗水流して走り回っていた頃なので、そこには仕事のやりがい、仕事の充実感等で満ち溢れていた。このように仕事と遊びの両方がほどよくミックスされているからこそ、いまだにいい思い出として残っているのだろう。それまで、肩肘ばかり張って歩いてきた自分が、名古屋を契機にまわりの人たちに感謝するようになった。これは、仕事でも遊びでも一人では何もできないということを悟ったからであろう。
 この原稿を書いていてあれからもう25年も経つことに気が付いた。昨日の事のように思っていたが、月日の経つのは早いものだ。この度自分の頭の中に登場する多くの人たちに、改めて感謝すると同時にますますのご健康をお祈りする次第である。

 

 


 

3. 稲尾 登志高 さん (10月20日生まれ)

近 況


 私は、ICF事務局職を最後に平成8年3月に定年退職をしました。 それ以来早くも18年が経過、改めて月日のたつのは早いものだと実感しています。 定年に際しては実に多くの先輩、同輩、後輩の方々が心温まる歓送会を催してくださったことをつい先日のように思い出し、改めて厚くお礼申し上げるしだいです。 定年後大分県杵築市に移住し、両親を看取り、5年前から両親の故郷でもあり妻の故郷でもある別府に移住し現在を迎えています。 老後を楽しく過ごすには、まず健康と考え、次のスポーツをやっています。

1.月間100kmを目標に、1回10kmの海沿いのコースをゆっくり80分程度で走る。
2.毎週1回グループ仲間と室内で、ミニバレー、ソフトテニス。
3.ウォーキング倶楽部主催のウオーキングに参加(月1回)
4.月2~3回のゴルフ


 次に心の健康のため、週2回(月、木)のコーラス、月1回の(大分第九を歌う会)で歌っています。 コーラスは毎年10月に定期演奏会開催、ちなみに昨年はイタリア民謡5曲、会場の皆さんと(花によせて)を大合唱、組曲「別府鶴見火山」全6曲、間に楽団による軽音楽をはさんで、約2時間の演奏会でした。 今年は今のところ混声合唱組曲「海鳥の詩」全4曲と日本叙情歌曲集8曲を練習中です。 「第九」は毎年クリスマス前後に九州交響楽団の演奏で歌います。
 今住んでいるマンションは小高い丘の上にあって7階建てで、その6階に住んでいます。 窓の前には別府鶴見山(835m)を望み、反対側は別府湾を一望できます。 自宅の風呂は栓をひねれば温泉のお湯が出るし、小さいながらもプールもあり、出かけるのも便利が良いのでとても気に入っています。 幸いこれまで健康に生きて来られ、両親も見送り、子供たちもそれなりに何とかやってますので、夫婦二人仲良くこれからも楽しく過ごして行きたいと思っています。
 最後に、今こうしていられるのは、お世話になった会社の皆様方と現役の方々の頑張りと年金のお蔭様であると改めて御礼申し上げる次第です。
 

 


 

4. 岩本 喜直 さん (10月20日生まれ)

私のオリンピック


 私の誕生日は、恐れ多いのですが皇后陛下と同じ日なので、毎年祝って頂いている気がしています。今年で73回目となります。毎日、元気に出勤しています。
 さて、先月の8日(日)は楽しいニュースが1日中TVを賑わしました。2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催といううれしい、うれしいニュースです。
 私にとって、オリンピックにはいくつかの思い出があります。昭和39年(1964年)の東京オリンピックは、私のKDD入社の年でした。太平洋横断ケーブルTPC1や衛星通信の開通という広帯域時代に飛躍を遂げた年でした。新幹線の開通もありました。東名高速道路の建設が最終工程で、間もなく開通するという高速時代の幕開けで、日本全体が高揚感の中にありました。東洋の魔女が女子バレーで金メダルを取ったのはこの時のオリンピックでした。(上の写真は昨年のロンドンオリンピックを妻と訪れタワーブリッジ前でのスナップ)
 それからずっと下って、1992年のバルセローナオリンピックの現場に私は立ち会いました。KDDのスペイン事務所に駐在し、滞在足かけ6年目の夏に開催されたこの大会は、いささか苦い思い出と達成感を感じたイベントでした。この時期、日本では、モノクロからカラー写真が時々紙面に掲載される新聞に変わっていました。このカラー写真掲載ニーズを受けて、本格的な高速伝送を実現したのは、このバルセローナオリンピックが初めての大会だったのではないかと思います。1枚のカラー写真の伝送に30分近く要していたようですが、高速回線のお陰で、どの新聞にも、前日のゲームでの日本選手の活躍が翌日の朝刊をカラー写真で飾りました。

 しかしその裏では、今では全く驚くに値しない64kbpsや精々その数倍の伝送速度の回線を作るのに四苦八苦したのです。スペイン通信キャリアのTelefonicaではこのような回線は国際伝送路では初めての経験であったようです。特に3倍という半端な192kbpsについては、大会直前になって、お客様に速度の変更をしてもらってくれと、担当者から言われたときは青くなりました。結果的には事なきを得ましたが、なかなか伝送路開通に至らず、伝送試験も出来ないまま、だらだらと残りの日が少なくなり、連日、東京から、なんとかしろ、と厳しい注文があって、現場はまさに尻に火がついた状態でした。
 スペイン語で、「ウルティマ・モメント」という言葉があります。「最後の瞬間」という意味です。ウルティマ・モメント、つまり最後の瞬間にはきちっとやるよ、と担当者は言いますが、日本人の感覚からすると、これでははなはだ心もとない。大会直前になって、なんとか、やっと、日本の通信社、新聞社向きの全高速専用回線が開通し、事なきを得ました。
 この前年の秋に、米国のブッシュ大統領(先代)、ソ連のゴルバチョフ大統領(この年の暮にソ連崩壊)の呼びかけで、イスラエルとアラブ諸国(パレスチナやシリアなど数カ国が参加。会議につきものの国旗と握手の無かった会議として話題)の中東和平マドリード会議が、世界から大報道陣4,500人を集めて、呼びかけからわずか1ヶ月足らずで開催したという実績とその底力に、私自身は、本心では冷や冷やしていたものの、最後は何とかなるのではないかとの確信はありました。
 日本向けに数回線のTV回線もスペインの地球局の設備導入が遅れ、これも薄氷の思いでしたが、これも大会直前になんとか開通に漕ぎ着けることができました。ユーラシア大陸の西端のスペインと東端に位置する日本は、インド洋上のインテルサット衛星では多分一番遠い伝送路です。10数日の大会期間中に一度だけ大雨が数時間バルセローナ近郊に降りましたが、これには伝送路は抗しきれずTV回線はダウンしてしまいました。また、山口方面に巨大台風が接近しているとの情報に、アメリカ周りの回線を準備して待機しましたが、台風が逸れてくれたので事なきを得ました。モトローラ製の現在の端末形状に近い携帯電話が大ブレイクしたのもこの大会だったと思います。

 この準備作業の最中に、母親が亡くなり、身動きできない状態でしたので、会うことができなかったことが今でも辛い思い出の一つとなっています。
 オリンピック閉会式に招待を受け、モンジュイックの丘のメインスタジアムで数時間、全てをやり遂げたという安堵感に浸り、幸せの時間を過ごせたことがうれしい思い出の一つになっています。

 写真は昨年、Queen Elizabeth2世号でノルウエーのフィヨルド観光の時に立ち寄ったBergen(ベルゲン)郊外でのスナップ

 

 


 

5. 竹田 文子 さん (10月29日生まれ)

近 況


 私は、今、横浜市の区役所でカウンセリングの仕事をして8年目になります。 その前の2年間は、神奈川県主催の"よこはま若者就職支援センター"でした。
私がこの仕事をするきっかけを作ってくださったのは、退職時、相談室にいらっしゃった西田治子先輩が、日本産業カウンセラー協会の受講を勧めてくださったお陰です。資格も取ることができ、友人が紹介してくれた1枚の求人票が"よこはま若者就職支援センター"でした。
大学を卒業しても仕事が決まらない人、転職を希望する人、仕事をしたいが心の病気を抱えている人たちが、毎日多く詰め掛けました。千葉県や静岡県からも来ました。元気な若者は、履歴書の書き方や面接の練習を何度もしていくうちに、就職が決まっていきますが、問題は心の病を抱えている人たちでした。アイコンタクトもできない若者が多かったからです。それでもじっくり話していくうちに、目が輝き始め営業マンとして就職していく人もいました。多くの若者と毎日面接をしていき、そして皆さんが嬉しそうに就職していってくださるのが何よりの楽しみでした。

 今は、区民の皆様を対象に就職のお世話をさせていただいています。中学卒の若者から、60歳を過ぎた高齢者の方まで幅広いですが、やりがいのある仕事をさせていただいております。やはり、心を病んでいらっしゃる方が多いですが、お一人お一人がしっかり自立できるようにとの思いで面接させていただいております。 でも、そろそろ私の人生も考える時期だと思っています。 元KDDの皆様の退職後の記事を読ませていただきながら、残りの舞台をどう演じていこうかと楽しみです。

 

 

Happy Birthday (2013年9月掲載)

Happy Birthday !


 

9月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
 橋本 恵三 さん、塚田 一幸 さん、上村 新八 さん、福村 明 さん 

 

 


 

1. 橋本 恵三 さん (9月3日生まれ)

 近 況 


 会社卒業後、縁あってインターネットでの和雑貨販売ビジネスを立ち上げました。早いもので、今年7月で12年目を迎え、当初は商品数も20種類程度でしたが、今では800種類を超えています。現在は独自サイトのほか、超有名な2つの人気モール(Amazon、DeNA)からお声がかかり、それぞれ出店運営しています。
 小さな会社経営ですので、色々な種類の仕事を自力でこなす毎日です。例えば魅力的な商品選定。定番商品のほか季節にあわせた商品等をどれだけ仕入れるか、新商品の発掘と売れ筋商品の確保などマーケティング的な仕事は一番大切。じつは今、和物×音楽コラボとして「楽譜」を取り込んだオリジナル商品を企画していて、どの曲目が絵柄的にいいか、様々なクラシック音楽を聴いて曲の選定中です。
 また商品写真をHPにいかにうまく表現するか、撮影技術も重要な仕事。昔から一眼カメラが好きだったこともあり、カメラの新製品が出るとついつい手を伸ばしてしまうことがたびたび。そして扱っている商品を紹介するため、SNSやリスティング広告を駆使して、タイムリーに費用対効果を考えつつ広告を出し、数多く存在する商品の中からいかに検索にヒットさせられるか、頭をボケさせないよう知恵をふりしぼり酷使しています。


 さらに営業収支バランス、販売上の資産管理等の経理業務、商品の在庫管理なども大切な日常業務なのです。そして最後に、体力仕事の梱包発送業務や料金収納業務(もちろんKDDIの「auかんたん決済」も利用しています!)などなど、多岐にわたる仕事を日々こなしています。
 この10年間でインターネットのビジネス環境も様変わりとなり、Facebook、Twitter、ブログなどの利用者からのアクセスが増え、注文もハード的にはPCからスマートフォン・タブレット端末への移行が顕著となってきています。HP仕様も当然のことながらその時代の変化に柔軟に対応していかなくてはなりません。70代なのに、毎日が新しい未知の知識への挑戦ですが、楽しくやりがいがあります。人生で一番充実した仕事をこなしているのでないかと自負しています。いや、むしろ、自分の年齢を重ねた諸経験こそが、今の最新ITビジネスにも、ある立ち位置を見つけ、活かせている気がします。


 プライベートでも積極的に日本の良いものを観たり食べたり訪ねたりと楽しむようにしています。また、脳の働きをより活性化するため難度の高い「数独」にも挑戦しています。 そのような感性や刺激も仕事の充実に通じることがあると思っています。このようなタフな日々を過ごせるのも健康であってのこと。幸い大きな病気もせず元気に過ごしています。最近の血液検査の結果を見ながら同世代のホームドクターより「あなたは長生きするよ」言われています。今の最大の目標はちょっと早いですが「100歳を元気な状態で迎えたい」です。

 

 


 

2. 塚田 一幸 さん (9月14日生まれ)

ホールインワン 4度目


 リタイアー後の人生を豊かにする方法は人それぞれでありましょうが、もっとも一般的に言われているのは打ち込める趣味をもつことでしょう。私の場合、趣味は囲碁とゴルフです。 囲碁に関しては、定年後4年半ほど日本棋院の囲碁教室に通いましたが、3年ほどで講座担当のプロ棋士から入会時よりは一目昇段を認定されました。現在は近所の碁会所、KDD囲碁部例会、OBの集まりである「石友会」、学生時代の友人等と烏鷺を楽しんでいます。さすがにさらなる上達は難しいでしょうが、これからも囲碁を楽しむつもりです。



 ゴルフに関しては、定年後は回数が増え、年間30Rから50Rくらいプレイしています。スコアは60歳前後のころが今思えばベストであります。k-unet 会員の中にもゴルフを楽しんでおられる方は多くいらっしゃると思いますが、ホールインワンの経験者はどのくらいおられるでしょうか?
 私の場合、これまでに4回達成しました。記念すべき第一回はまだ現役時代の2004年2月29日(日)です。岡部チサンの美里コースアウト2番でした。2回目は2008年9月14日(日)、入間カントリー倶楽部イン13番、三回目が2012年9月15日(土)錦が原ゴルフ場さくらコースアウト2番、4回目は2012年11月7日(水)伊勢原カントリー倶楽部イン18番です。


 私がホールインワンを達成したのは奇しくもすべて閏(うるう)年というのも不思議なことです。4回のうち3回はキャディー付という幸運も重なり、ゴルフ場はから証明書を発行していただき、ずいぶん若い時から加入していたKSS(現KDDIエボルバ)のホールインワン保険から支払いをいただいています。掛け捨ての保険で元が取れたのは、唯一ホールインワン保険だけです。
 ホールインワン達成4回の話題出すと、私の腕前を良くご存知の方たちは訝しげな表情をされるのが愉快です。「どうしたらそう何回もできるの?」とよく尋ねられますが、その時は「あれは当然狙ってやるものです!」と、したり顔で答えることにしています。
 次の閏年の2016年まであと3年、その年にはま5度目のホールインワンを狙う?つもりです。達成したらまたこの欄で報告します。それまではもちろんそれ以後も健康を維持しゴルフを楽しむつもりです。

 

 


 

3. 上村 新八さん (9月28日生まれ)

子供のころからの趣味・アマチュア無線


 「JA1HOD」のコールサインを1961年以降更新し、53年目になる。自宅に建設した15メータ高の鉄塔や大型の八木アンテナは8年前に撤去したが、簡易のワイアーアンテナおよび高い周波数のビームアンテナで「KDD東京ハムクラブ」の会員の方々と交信する。サイパン島、ハワイ島、マウイ島、およびグアム島へ、沖縄の久米島、石垣島へ無線機およびアンテナを持参して個人、KDDクラブ員、NTT-TRCクラブ、および地元の与野アマチュア無線クラブの方々と無線および旅行を楽しんでいる。写真は本年2月に印刷したQSLカード(交信証)。2年前に「S・K:Silent Key」となった愛犬(Puppy)があたかも電鍵を叩いているようなことから「PUPPY IS ENJOYING DOG PILE UP」と注釈を入れて海外局からの関心を駆っている。
<高校野球の応援>
 現職の時代も結構興味を持っていたが高校野球の「追っかけ」は大変で地元の某高校を応援している。選抜大会で全国優勝して、今年こそは夏の大会で全国優勝をと期待していたが、延長戦とは云え1回戦で敗退してがっかり! 高校野球は夏の大会が終了すると直ぐに新人戦、秋の県大会、関東大会へと続く。秋の関東大会でべスト4に入ると翌年の選抜選手権大会への出場が出来る。春には県大会、関東大会等が開催され12月から2月迄がオフとなる。
 サンデー毎日の身分となってからは体調維持のため近所の「スポーツクラブ」に入会して、時間を見つけて、2時間程度ストレッチや水中歩行、その後のサウナを楽しんでいる。現役のころと比較して15キログラム以上スリムになったが、減量による「軽量感」は全く感じられない。前の晩に飲んだアルコールを24時間以内に消化するのが目的であるのでそれはそれで良いのではと思っている。
<「さいたま市シニアユニバーシティ」へ入学>
 1997年3月にKDDを早期退職し、出向先のKDD-SCSに入社、今迄の国際電話交換網から異なる海底ケーブルの業務に携わり、インドネシア、イタリアのナポリ勤務等経験後、KDDの先輩のお世話で2001年10月、新設の(株)メディアに入社、再度電話サービスを提供する技術業務を担当。2005年5月に同社を退職した。退職後、元の上司の勧めもあり、さいたま市長が学長をしている「さいたま市シニア・ユニバーシティ」へ入学した。大学、大学院を修了して、現在は同組織のOBで構成する校友会連合会で活動している。大学および大学院を通じて知り合った仲間と学習会、見学会や旅行会、クラブ活動としての史跡めぐり、自由散策、料理教室としての「ダンチュウ」およびカラオケ等を楽しんでいる。入学当時から「期」の会長を仰せつかり、所属協議会の理事、および校友会連合会の理事もしている。OB会員を含めて3,500名の組織で元KDD社員の方々も数名所属しておられる。
 我が埼玉は近い将来スポーツの若者、インテリジェンスのシニアの力で関東を席巻するのではないだろうか?
 

 


 

4. 福村 明さん (9月30日生まれ)

いちどきりの人生


 KDDビル1983年6月。冒険家 植村 直巳 さんが「自然と冒険」というテーマで「生きて帰ってくることが冒険だ」と、真摯な姿勢で語りかけてくれた講演会。その半年後、氏は厳冬期のアラスカ州マッキンリー山で消息を絶ってしまった。
 定年後、アメリカの国立公園巡りを始めた僕にとって植村直巳さんが消息を絶ったマッキンリー山を訪問することは夢の一つであり、66歳の夏にセスナ機からではあったが夢をかなえることができた。

 サンフランシスコからアンカレッヂまで5千キロ。さらにシカゴを経由して昔の駅馬車街道ルート66をロサンジェルスまで。文化も人種も言語も異なる国の広大な大自然の中を自らの意志でハンドルを握り、果てしない大地を駆け抜ける2万キロの旅は驚きの連続だったし、毎日が新たな発見であり自然の恵みに心から感謝する旅でもあった。残された一度切りの人生を、明るく、楽しく、活き活きと過ごしてみたい。そんなことから始めたアメリカドライブであったが、10年間で全50州も走り抜けてきた。
 皆さんも若いころからの夢に果敢に挑戦してみては如何でしょうか。いちどきりの人生をもっともっと楽しみましょうよ。
 なお、マッキンリーのことは次の私の拙いWebサイトに掲載してあります。

   http//www.ne.jp/asahi/93/xdriving/alaska/alaska/alaska701.html 

 

Happy Birthday (2013年8月掲載)

Happy Birthday !


 

8月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


今月のお誕生会員:
 宮内 美耶子 さん、柳澤 孝雄 さん、堀内 周樹 さん、田中 成欣 さん、
 原田 建夫 さん、 河野 洋三 さん、仲川 達雄 さん、田代 道彦 さん

 

 


 

1. 宮内 美耶子 さん (8月1日生まれ)

カメラ女子デビュー


 55歳で早期退職してから、はやくも15年たちました。当初は、仕事から解放されて日々の家事なども新鮮でしたが、そんな日常にもすぐに飽きてしまいました。そのころから、タイミングよくインターネットが手軽にできるようになり、ネット三昧が始まりました。今年4月、長年親しんで使用してきたWindows XP が不調でWindows 8 に買い換えました。使い勝手がXPとは異なり、戸惑いながらも、なんとかマスターしました。習うより慣れろですね。
 さて、表題の「カメラ女子デビュー」とは? 今まで、私にとって、写真は記録という認識しかありませんでした。旅先でも、フィルムの時代から、たくさんの写真を記録として残してきました。

 今年の春先3月ごろ画像サイト「フォト蔵」に出会い、写真はアートだ!~と、目からウロコ、衝撃を受けました。「フォト蔵」には、300万人が会員登録しており、日々作品をアップしています。使用されているカメラは、スマートフォンから一眼まで様々です。プロ級の作品から記録的な作品まで、ジャンルも様々です。私は、無謀にもコンデジ(コンパクトデジカメ)で撮影した稚拙な写真を投稿しました。次に素晴らしいと感動した作品の数々をお気に入りに登録しました。なんと言うことか~作品を通して会員の方たちとサイト上で交流が始まりました。私の投稿した稚拙な作品にコメントや、お気に入りマークがつき始めました。投稿された写真に使用したカメラ機種や撮影月日が自動的に表示されます。
 当然、こんな素晴らしい写真を撮影したカメラが欲しいと思いました。5月、美しい花々が咲き乱れ、撮影意欲がそそられる新緑の季節に、悩んだ末、ついに「一眼ミラレス」を購入しました。 ミラレスを選んだのは、軽くて携帯しやすい女性向きだからでした。以来、2ヶ月間、習うより慣れろ~の精神でカメラ女子デビューとなりました。 撮影した写真は、facebook にも投稿して友達に見てもらうオマケの楽しみも増えました。


プロのカメラマンの提言

・単焦点レンズでの撮影は、腕磨きになる。
・写真は、アートである。
・被写体に近づくこと、たいていの場合は、その方がいい写真が撮れる。
・撮れば撮るほど上手くなる。
・シンプルさが鍵。
・フォトグラフィーは、「光で描く」という意味。 光を撮ること。
・カメラを過保護に扱ってはいけない。 使い倒すこと。
・完璧な写真を撮ろうと必死になるより、その瞬間を楽しむこと。

 フィルム時代では、ネット上に画像を投稿するなんて、想像もできなかったことです。デジタル化により、画像の編集、データの保存、プリントなど自宅で手軽にできるようになりました。カメラのデジタル化は、まさに一大革命ですね。
 

 


 

2. 柳澤 孝雄 さん (8月6日生まれ)

近 況


 昭和37年4月に入社し、平成10年4月30日付で早期退職をしてから早いもので15年が過ぎました。 退職後4年程関連の会社のお世話になりその後フリーな状態が続いている時に埼玉県上尾市在住で幼稚園を運営している従姉が社会福祉法人の保育園を立ち上げるので、事務と行事カメラマンの仕事を手伝ってくれとの話がありました。神奈川の自宅から一都二県をまたがっての2時間強の通勤であり一寸ためらいましたが週数日とイベント時のみであればと引き受け現在に至っております。最初は0才から5才までの幼児相手に戸惑いながらも「爺ちゃん先生」として上尾詣では7年目にはいりました。

 カメラのファインダー越しに見える純粋な幼児の顔を見ているとサラリーマン時代のことは忘却の彼方に消え去り、今では登園をすると0,1才児の部屋に行き高い高いをしながらストレッチをしております、ただ4,5才児は少々重すぎて腰を痛めてしまいかねないので腕へのぶら下り程度で勘弁してもらってますが・・・。
 少子高齢化が騒がれる中で将来の日本を担っていく幼児をお預かりする保育園の存在は非常に重要に感じております。従姉もその重要性を認識して昨年4月に第2園、今年4月に学童保育と事業を拡大し、働く若い父親、母親への子育て支援を積極的に取り組んでいる姿勢は頭が下がる思いでおります。

 ただ私自身の仕事も膨らみ遠距離通勤も手伝だって、ややボデーブロー気味です。自分では若いつもりでいましたが、この誕生日で中国の詩人杜甫が詠んだ「人生70古来稀なり」の古稀となりました。65才から高齢者の仲間入りとの法律用語がありますが、人生スタートに立ったとの気持ちで幼児パワー(約120名)を全身に受けて頑張れるだけ頑張ろうと思っております。

 

 


 

3. 堀内 周樹 さん (8月9日生まれ)

私とスペイン・バスク


 私が1985年マドリード事務所駐在から始まったスペインのバスクと関わりは現在も続いており、この僅かな拙文が、バスクのご参考になれば幸いです。

 「スペイン」と言えば情熱の国、マドリード・バルセロナ・セビリア、ザビエル神父・支倉常長・ピカソ、イスラム史跡・闘牛・フラメンコ・スペイン料理等の歴史・観光・文化が挙げられる。「バスク」となると情報は少なく、スペイン・フランス国境ピレネー山脈の南側で独自のバスク語と封鎖性の強い地域である事や、スペインを二分した市民戦争とピカソの反戦画「ゲルニカ」やレジスタンスと治安警察との戦いの米国映画「日曜日には鼠を殺せ」等が思い出される。
 1975年にフランコ総統が没して後、スペインは一気に流れ込んだ世界のビジネスと共に近代化の道を歩み、1978年にKDDマドリード事務所が開設された。マドリード事務所の活動は、スペイン進出中の日系企業通信対応と通信監督主官庁、通信事業体CTNE:現Telefonica、郵電総局が主で、バスクは業務的にも感覚的にも遠い北の地であった。 1986年1月某日の午後、スペイン北半部で自動車道路標識製作・工事会社の営業課長職でカルロス・ヌーニェスと名乗るカントリー風情の男がマドリードの交通総局(運輸省)へ出向き、JETRO事務所訪問の後、同じビルのKDD事務所のドアを好奇心からノックした事から、私のバスクへの扉が開かれた。
 以降、カルロスは仕事仲間を伴ってマドリードへ現れ、広い分野のバスク・ビジネスマン達との交流へと広がり、通信省官報、CTNE情報とは別に、彼等から通信需要の動きや道路・公共施設・通信網構築、欧州物流等の情報が得られた。そのお返しとして、本来JETRO事務所で入手できる筈の日本企業名・国際テレックス・アドレス等を彼らに開示した。彼等こそ、15世紀に木造外洋帆船・鉄砲、世界地図、航海術等往時の最先端技術と情報を携えて世界へ雄飛したスペイン人DNAを持つ末裔であると思えた。

 バスク州はスペイン語でパイス・バスコ(País Vasco)、バスク語でエウスカディ (Euskadi) と呼ばれ、内陸部のアラバ県(ビトリア市)に州議会を置き、ビスケー湾岸部のビスカイア県(ビルバオ市)とギブスコア県(サンゼバスチャン市)の3県から成る。ピレネー山脈を駆け登ったバスク台地は、通年乾燥した中南部のラ・マンチャ、アンダルシア地方とは異なって、秋から春の湿風・降雨と雪が州旗に緑のクロスを染め込む程に草原・山林を潤し、ビスケー湾を豊かにする。
 彼等からのスペイン事情に理解を深めるうち、スペインが多言語・多民族の大小王・諸侯国の合従連衡、イスラム民族、世界に伸したヒスパニア帝国、ブルボン・パプスブルグ欧州王家の国盗り時代を生き抜いてきた証しとして、地方分立主義の根強さが見える。その最たるはバスク州かも知れない。 バスク州の民族的・言語的起源の定説が不明ながら、カタルーニャ地方・ガリシア地方と並んで、スペイン北部に商工業が発達し、大英帝国・仏国・和蘭・地中海諸国との交易・侵略・攻防の歴史を介して来た事が州内結束・自立気風を高め、1930年代・スペイン第二次共和制時代の中央政府に自治政府体制を認めさせた。現在、国内17自治州と2海外自治都市があり、外交的にはスペイン王国の傘下に収まりつつも、国の在外交館とは別に独自に海外事務所を構える等、各々独自路線を行く強い自立性が窺える。
 人気のフットボールも、他州チームの様に有名外国人選手を獲得せず、バスク州生まれの監督・コーチ・選手のみで地元チームの陣容を固めていて、ここにも彼等の封鎖性が見られる。
 その他、バスク民族独立運動(ETA)が、長い間スペイン中央政府と悲惨な抗争を繰り返した歴史から、スペインの危険地域とも報道されたが、現在は中央政府とETA間は10余年の和平プロセス協定上にあり平穏を取り戻しているかに見える。 州民約400万人は、歴史的にバスク人であり、公用語はバスク語とスペイン語で、小学校からバスク語が正科目で、州営TVのETBはバスク語で放送する。
 ラテン民族に属するバスク人だが、忍耐強く律儀で言葉少なめの働き者、頑固とも言える質実剛健と、常に備えの構えで州民の貯蓄意識が高く、経済的にはカタラン州(バルセロナ)と並んで古くから鉱業・製鉄・造船・金融・大陸・地中海交易等で栄えたスペインの経済先進地域であり、この2州の人口はスペイン総人口の20%ながら、同GDPの45%を占め、彼らの生産成果が中央交付税に消えて行く事への不満から独立意識が高まるのも頷ける。
 バスク農業は、スペイン中南部地方の様に外国人季節労働者を雇い入れない為、スペイン1番の安全都市を自負し、スペインの北欧とも称される街の整備・清掃を徹底する等、ビスケー湾の景観とグルメで多くの欧州人観光客を呼び込んでいる。世界で人気のあるスペイン料理人の6割がバスク出身者と言われ、愛想は少ないが彼等拘りの調理で、四季の豊かな食材は街角のバルやレストランの多彩なメニューとなり、リオーハ・ワインを添えてその味を引き立たせる。

 

 



 

4. 田中 成欣 さん (8月15日生まれ)

近 況


 私の誕生日は昭和18年8月15日で終戦の丁度2年前です。従って戦争の記憶は全くと言っていいほどありません。古稀を迎えた私でさえ記憶がないわけですから私より若い人は当然戦争というものを知らない訳です。そういう意味で今の若い人たちには戦争の怖さ、無意味さを伝えていく必要があろうかと思います。
 6月に旧ユーゴスラビアのスロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナに家内と行って来ました。世界遺産なども多く、見所満載の旅でした。ただ最後に訪れたサラエボ(ボスニアヘルツェゴビナ)は1991年ユーゴ解体の流れの中、民族・宗教紛争による激しい戦争があった場所ですが今でも至る所に銃弾の痕が残り、戦いのすさまじさを物語っておりました。町を走る路面電車は汚く戦争の影響がまだ残っているという感じで、戦争をしなければもっと発展し、市民も平和に暮らしていたことでしょうと言っていた現地ガイドの言葉が印象的でした。

 話は変わりますが、退職後は地域の活動に力を入れています。現役時代は地域のことは殆ど家内に任せきりでしたが、退職後は積極的に参加しようと思っておりました。町内会長、自治会長の後、現在は伊勢原市の人権擁護委員をやっております。人権擁護委員はあまりなじみのない委員ですが、法務大臣から委嘱され各市や町に数十人から数人おり、伊勢原市は6人で任期は一期3年です。私は二期目に入りました。主に市民からの人権相談に応じるものですが、人権相談といってもいろいろあり、近隣問題、家族の問題、子どものいじめ問題等を面談または電話相談で対応しています。関連の知識も必要なため研修も多く、また県連の広報啓発委員に任命され、機関紙の発行や啓発業務にも取り組んでおり結構忙しい日々を送っています。
 また趣味はゴルフと謡曲でゴルフは5分で行ける地元の伊勢原カントリークラブには旧KDDOBの川角さん、佐々木さん、三上さん、爪川さんらとよく行っていますし、昭和会ではやはり旧KDDの方々とプレーを楽しんでいます。謡曲は月2回ほどKDDI新宿ビルに赴き柳川さんの指導の下、稽古に励んでおりますが、謡曲は奥が深く一向に上達しません。でもKDDI宝生会の例会や官庁実業団連盟の会にも参加しており、昨年は「清経」のシテ役を無本でやらせていただきました。20分程度のものを憶えるのに大変苦労いたしましたが,謡い終わった時の達成感とビールの美味さは格別で楽しい思い出になりました。
 今回北野さんから「Happy Birthday」コーナーへの投稿依頼があり、これまでk-unetへは一度も投稿したことがなく、またk-unetからはいろいろな情報や会員の皆様の消息など知ることが出来るなど日頃大変お世話になっていることに鑑み投稿した次第です。 取り留めのないことを長々書きましたが拙文お許しいただければと思います。

 

 



 

5. 原田 建夫 さん (8月19日生まれ)

近 況


 ご無沙汰しています。日本のサラリーマンは会社のためには良く働くが、地域貢献をしないと言われています。私もKDD在職中は地域とは全く関わりのない生活でした。退職を機に、稲城市の緑化環境の保全とスポーツ施設の管理をする財団で仕事をすることにしました(趣味も兼ねて)。約4年間この活動をすることにより稲城市の様子をいろいろ知ることができました。この仕事を辞めてからも、地元の人たちとテニス、ゴルフ、水彩スケッチ画を楽しんでいます。地元での活動は時間的にも、経済的にも、精神的にも負担が軽く、また、いろんな経歴の人たちがおられ面白いです(時にはKDDの人たちは優秀だったなと思うこともありますが)。

 まず、テニスですが、週に1~2回やっています。最近は体力の衰えのため大会へは出場しなくなりましたが、40~50代の上手い人に相手をしてもらえるのは本当に嬉しいです。ゴルフは月に2~3回ラウンドします。約40名いる同好会の月例があり、仲間と競い合っています。テニスもゴルフも道具の進化と技術コーチングの進歩のおかげで、年配者にも無理なく良いパフォーマンスができるようになってきました。水彩スケッチ画は月に2回近郊へスケッチに出かけます。水彩絵の具の色彩と濃淡で風景や静物を描いています。 最近淡彩スケッチ画は中高年者に人気があり、ゴールデンウイークには復原された東京駅の周辺に100人以上の人が腰を下ろし、スケッチしていました。描いているときには対象をじっくり観察し、大きさ、傾き、バランス、色調等を悩みながら作業しますが、ひと段落した時に充実した時間を過ごせた喜びを感じることができます。

 お蔭様で楽しく日々を過ごさせてもらっていますが、最も大事なのは健康だと思います。歳をとるにつれ身体は劣化してきます。私も腰痛、膝痛に悩まされることがありますが、休養をとれば少し良くなるし、焦らず少しずつトレーニングすれば改善されると信じています。三浦雄一郎さんが教えてくれたとおりです。それから感謝の気持も大事だと感じています。テニスもゴルフも良い相手がいるからこそ楽しくできるものです。絵も自分一人で描くことはできますが、観てくれ批評してくれる友人がいると一層の励みになります。 付き合いのある皆さんに感謝です。 近況まで。
 

 



 

6. 河野 洋三 さん (8月20日生まれ)

近 況


 先日、1962年KDDに同期入社した鎌田さんにあることで電話したところ、最近 k-unet Monthlyに 「Happy Birthday」 というコラムを設けましたので是非投稿を、との依頼を受けましたので思いつくまま拙文を書いてみました。

■ 私の生まれた年
 私は昭和12年、盧溝橋事件-日中戦争が起きた激動の年に生まれました。正直言って自分の誕生日についてはあまり意識したことはなく、つい忘れてしまうことが多かったのですが、最近になり同居している孫から「今日はおじいちゃんの誕生日だよ」と言われて、ああそうか!と気がつくといった有様です。孫たちの真意は恐らくバースデー・ケーキが目的なのだと思われます(笑)。 しかし、いろいろな書類には必ず生年月日は書くことが多いのに、実際その日が来てもすっかり忘れてしまうというのは、まことに不思議です。6~8月は丁度夏休みの時期なので、しばしば自分の誕生日を忘れてしまうのも一因なのかもしれません。

 日本の職場では、誰かの誕生日であっても特段何もお祝いなどしませんが、私が10数年、政府専門家として派遣され、また(財)KECのコンサルティング業務を実施していた時にお世話になった南米パラグアイの電気通信庁(ANTELCO)では職員の誕生日リストが作ってあるのか、誰かの誕生日となると昼の休憩時間にその人の部の職員全員が集まり、シードラー(りんご酒)とパン・デゥルセ(ケーキ)をオフィスボーイが買ってきて、皆でワイワイ騒ぎながら誕生日を迎えた職員を「Cumpleano Feliz!」と言ってお祝いします。その日は家庭でもレストランに行って家族・親戚皆で祝ってもらうそうです。私も誕生日の8月20日にたまたまその職場に居たときは同様の扱いを受け、大変感激したものです。

■ 私のKDD歴  ところで私のKDD歴ですが、1962年4月に入社し、まず6ヶ月の研修期間(宿舎は由比ヶ浜保養所・新宿分室、職場は大手町本社・各送・受信所・中央局)、短い期間でしたが先輩達の訓練・指導を受けましたがとても熱心且つ親切で、この会社は人材育成に力を入れてることを最初に実感しました。ですが一方で、私の家族や親戚は"KDD"という名前もどんな仕事をする会社なのかも、誰も知りませんでした。説明しても電電公社(現NTT)の子会社くらいに思われていたようです。最近では新聞等マスコミで殆ど毎日KDDIに関する記事が出ることを考えると隔世の感があります。  研修期間の後、八俣送信所、本社無線課、衛星通信建設本部(後の衛星通信部)、政府専門家として南米パラグアイ電気通信庁へ派遣、帰国して再度衛星通信部、国際機構部、山口衛星通信所、国際部国際協力室、最後に(財)KECで定年になりました。残念ながら海底ケーブル(同軸,光)、中央局の経験はありません。仕事の関係でITU,インテルサット、インマルサット等の国際機関の会議への出席、各種調査団への参加等でいろいろな国に行かせていただいたこと、また国際部・国際協力室、(財)KECでの海外研修生の受入れ、覚書による職員交換等で、多くの国の方々と知己を得ることができたことは、私にとって大きな財産となりました。特に南米パラグアイ電気通信庁との関わりは、1971年に同国の国際通信部門の近代化計画作成のための政府調査団への参加に始まり、円借款の実現、それによる施設・設備の建設・増設、それらの保守運用を任せられるまでの技術コンサルティング業務の提供という仕事を与えられ、2002年に無事成し遂げるまで一貫して任せていただけました。これにつきましても影ながら支援して頂いたKDDに大変感謝しています。 そのほかのKDDでの思い出を挙げますれば、1971年、南米パラグアイに旧郵政省、NTT,NHK,KDDの合同政府調査団が派遣された時、1団員として参加し生まれてはじめて飛行機に乗り、地球の裏側の外国へ行けたこと、その折、くしくも私の誕生日8月20日の出発日直前の8月15日にいわゆるニクソンショックで円が1ドル360円から308円になったわけですがKDDの人だけ8月15日前に1ドル360円で換金したため約17%も出張費が目減りした苦い思い出がありよく覚えています。政府専門家時代の1978年6月には,南米パラグアイを訪問された皇太子殿下・皇太子妃殿下(現在の明仁天皇陛下、美智子皇后陛下)を完成したばかりのパラグアイ・アレグア地球局にご案内させていただいたこと、1979年10月のKDD事件、インマルサット・インテルサットの技術専門委員会にKDD(日本)代表として参加したこと、八俣送信所・山口衛星通信所という現場を経験しKDDを支えていることを実感したこと、(財)KEC時代に海外の多くの研修生にKDDの通信技術を提供してきたこと、一方KDDは早くから専門家を外国に派遣し、外国からは覚書協定により沢山の幹部職員を招聘していたので外国での会社の知名度は驚くほど高いものでした。 特に印象に残るのは劣悪であった南米パラグアイの国際通信を先進国並みに近代化し、同国の経済的・政治的独立に貢献できたことなどでしょうか。2000年に通信の自由化政策のもと普通の総合電気通信会社となったわけですがもともとKDDは法律でできた特殊会社で目的業務が決められており追加、変更がある場合はそのつど法改正が必要があること、また通信の秘密を漏らしてはいけないことは今でも義務で漏らせば刑罰の対象になるのではと思います。したがって南米パラグアイの通信プロジェクトをコンサルティング業務としてはじめるとき法改正をしたように、最近の話題の小山、八俣、北浦でメガソーラによる発電事業に参入することも法改正が必要になるのではと思います。

■ 定年退職後、現在は…  一昨年KDD同友会の解散でKDDとの関わりも少なくなり、今では企業年金の受給、k-unet会,サテライト会(故宮元副社長がつくられたKDD衛星通信関係者の会),三七和会(昭和37年入社の同期会)への出席くらいになりました。普通の総合電気通信会社になったとき、保養所もなくなり、評判の良かったいろいろな刊行物や小冊子、特に毎年世界各国の最新の国情のことを書いたものは必需品でしたが、いずれも廃止になり、OBとしてはちょっと寂しい限りです。ただKDDカレンダーだけは有料になったものの、今でも毎年購入し我が家のメインのKDDグッズとなっています。文字が大きいことと毎月の写真がとても綺麗だからです。 我が家のメモ書き、予定行事の記入におおいに役立っています。どうかスタイルを変えないで今後も続けていただきたいものです。KDDI株も今は手離してしまいました。また購入し株主総会にも出てみたいのですが、ちょっと高くて手が出ません(泣)。昔は額面に近かったのですが。

 通信の世界も、メインの仕事が設備中心のハードウェアからスマホに代表されるようにコンテンツ中心のソフトウェアとなり、KDDI,NTT,ソフトバンク3社もこの点での激しい競争時代になってきているようですが、1953年KDD創業時の理念を忘れず頑張ってほしいと願っております。我々が通信分野において世界で活躍できるのは日本の電気通信製造業者(日立,東芝,三菱電機,NEC,富士通など)の開発能力、優秀な製造技術、アフターケア等があることも忘れてはいけないことを書き添えたいと思います。 最後に楽しみと生きがいは2歳の孫(男の子)と近所を散歩することです。ときどき突飛な動きをするので目が離せません。これからの人生、doingもさることながらbeingに生きがいを感じるようになりたいものです。

「VIVA KDDI!」

参考文献:

「不死鳥物語~国際通信史~、2010年 遠藤 栄造著」、「KDD社史、2001年、KDDIクリエイティブ」、「海外ドキュメント 地球にケーブルをかける男たち 1981年 土屋 省三」、「国際協力と国際通信プロジェクト 1996年 河野 洋三著 (財)国際衛星通信協会発行」

 

 


 

7. 仲川 達雄 さん (8月26日生まれ)

近 況

 

 特段皆様にご報告するような生活を送ってはいません。 至って平々凡々たる毎日を過ごしています。月一回の昭和会ゴルフでは、KDD時代の先輩、同期、後輩の皆様との和気藹々のプレイを楽しんでいます。 気分が若返ります。

 

 

 

 


 

8. 田代 道彦 さん (8月31日生まれ)

タイ ホアヒン滞在記

 

 退職後は生活が単調にならないようにと海外旅行など考えてツアーに参加していた。そんなときに先輩の柴田清栄さんから冬の間タイのホアヒンでのゴルフにお誘い頂き二つ返事でご一緒した。 初回は慣れるため高級のヒルトンホテルに10泊して、この町での生活やゴルフの仕方を教えて頂いた。その後2年間は再就職で行かず、2004年から毎年続けて行きすっかり気に入ってしまった。長期滞在といってもここに来ているヨーロッパ人は通常3ヶ月間滞在し、自分はその半分程度だが最近は更に短く1ヶ月を2回に分けて行っている。
 ホアヒンは首都バンコクからタイ湾に沿って200km程南に下った町で国王の離宮があるので有名だ。主にドイツ人がリゾートとして利用していて北欧の人も多く日本人は稀だ。成田を昼前に立てば夕方バンコクに到着してタクシーを飛ばせば3時間で着く。

 あっという間に冬から真夏に変わって次の日からゴルフを開始する。初めの頃は平日5日間ゴルフをしていたが、最近は自分の歳も考えて2日プレー1日休みと減らしているが、もう今年で220回もプレーしてしまった。KDDの方は今年も3人来られている。今年参加された別の2人の方はもともとゴルフは上手だが、二百名の市民大会で共に70台のスコアで賞を取られたと喜んでいた。こちらでは集中してゴルフができるので上手な方は更に実力が上がり、そうでない方もそれなりにスコアもよくなるようで、これをホアヒン効果と呼んでいる。
 日本でのゴルフと違うのは日の出(6:30頃)からスタートしてスルーでアウト、インをプレーし10時前には終了することや、キャディが1人ずつ付くことだ。この時期は雨が降らないし朝の涼しいうちのプレーで疲労は少ない。 仏教国なのでキャディは8割程度が女性だ。ロイヤルホアヒンGCはタイで最初のゴルフ場というのが売りだが、最近はアメリカンスタイルのすばらしいコースが周辺に多く出来て、プロの競技はそちらでやっている。コースは距離も長くて難しく、1グリーンで芝は高麗風だ。カートもあるが利用していない。プレーが終わってクラブハウスの2階のオープンテラスでコースを眺めながらビールを飲むのは最高の一時だ。ホテルとゴルフ場は駅を挟んで歩いて5分、ホームと線路を突っ切って行ける。食事の後は部屋に戻ってシャワーを浴び、洗濯をして1時間ほど昼寝が心地よい。ホテルは二千円/泊で手頃な値段だ。昼間は暑いので部屋で読書などし、時々本場のタイマッサージに行き、筋肉をほぐして2時間で千円程度、女性には特に人気だ。我々男性にとってはかなりきつく痛いのでソフトプリーズとしつこく言わないとひどい目にあう。

 夕食の一時は楽しみで数軒の店を順に回っているが、炭火のシーフードタイスキ、豚足の蒸し煮など辛くなく旨い料理が多く、氷や水も問題ない屋台などの店だ。帰りはナイトマーケットに寄り果物を買う。マンゴー、マンゴスティン、パパイヤ、パイナップル等も甘くみずみずしくて旨い。今年はドリアンに挑戦してホテル内で影響はなく、旨いので病み付きになりそうだ。
 ゴルフのない日は海岸に行き砂浜を裸足で1時間程歩くと気分爽快だ。日中の砂浜はヨーロッパ人で一杯になり皆長椅子に横になりのんびりしている。海ではカイトサーフィンがはやっていて、アジアの国とは思えない風景だ。
 街中にはコンビニも多く、スーパーでは日本の納豆や蚊取線香まで買える便利さだ。こんな訳でホアヒンには70歳まではなんとか来られそうで、あと数年間続けられればと願っている。

 

Happy Birthday (2013年7月掲載)

Happy Birthday !


7月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
 森田 孝志 さん、 岩佐 裕司 さん、 藤森  正一さん、
 国府田 大 さん、 桑山 晶次 さん


 

 


 

1. 森田 孝志 さん (7月1日生まれ)

思い出あれこれ


 出生地は大阪堂島にあった旧・阪大附属病院にて、昭和13年7月1日生れ。 当年75歳。 KDDに入社するまで門真市(当時は 大阪府北河内郡門真町)にて遊び育ちました。 最寄駅は京阪電車・古川橋。 河内レンコンの産地で、生まれ育った実家の裏は蓮田でした。 松下電器(現在はパナソニック)の本社がある街ですが、実家から近すぎたのかもしれませんが、何故か、松下には入りたくなかったのです。 近くの親戚縁者が大勢松下にいたこともあってかも。 近くの村の出に、かつての第44代首相・幣原喜重郎氏の出身地だと聞いていますが、現在ではまったく生家などは無いようです。
 入社は昭和32年4月1日大阪支社に。 入社式は当時の旧大手町局舎でした。 大阪支社管内入社同期の桜は19名、大阪国際電話局の女性2名も、そのまま市ヶ谷・河田町にあった元豪邸跡の「河田町会館」で1週間ほど合宿し、関東地区入社組と大手町局舎で、東西合同の初期訓練を受けたのち、大阪電報局に配属となりました。 昭和46年4月1日大阪電報から本社付属機関の「事務サービスセンタ-・電子計算課」に転勤後、コンシス畑を12~3年、東話局料調・営業部・営業開発部・建築部・管財部と渡り歩いて、最後は KSSの新大手町ビル管理部にて平成8年3月を以て退職しました。 今から思えば 苦もあり楽もありでしたが ・・・  まったくの良き時代でした。
   k-unet との出会いは、平成10年 目黒研究所の一室での設立時から参加させて頂いています。 いわゆる一期生。 現役時代からコンピュ-タとの付き合いは長いのですが、なかなか深入りできなかったのですが、k-unet 設立者のお一人でおられる「久保 勝一氏」に誘われての出席だったと思っています。 年に数回開催される k-unet 研修会に たびたび参加して教え頂いたのでした。 私のパソコン生活は k-unet に育てられたものだと感謝しています。 設立以来15年とか。 これからもますますの発展を願っています。
 平成23年3月11日14時46分、日本国民すべての人が恐れ慄いた東日本大震災 。 町内の集会所にて囲碁大会の対局中に発生。 新築後すぐの鉄骨造り2階建ての集会所だったので、ここは大丈夫だろうと・・ 、館内の鉄柱の芯柱にしがみつき碁石も散乱のまま 頻繁にやってくる余震が静まるのを待って、家内を案じて帰宅を焦るも、マンション内エレベ-タ-は停止、8階まで駆け上がって様子見に。 築30年、昔のしっかりした構造なので大丈夫であったが、揺れは大変だったと家内。 食器棚内の器が飛びだした状態のまま一階駐車場に避難したとか。 小雪の降る寒--い一日でした。

   今年4月、ある旅行会社の『未来へつなげる「絆」三陸路 2泊三日のツア- 』に参加し、陸前高田、釜石と田老地区での「語り部」による説明を受け、被害の凄さと悲惨さを感じとって来ました。 特に田老地区での女性ボランティアが語る切々たるその時の状況なりを、聴いては涙したのでした。 帰途、久慈駅前書店にて、岩手日報社発行の「平成の三陸 大津波・岩手の記録」誌を、孫たちにと2冊ほど買い求めてお土産としたのでした。  これから 撮りだめした「震災被害ビデオ」を再視聴しようと。 各人様々な忘れられない「あのとき」があると思います。 昭和20年、あの玉音放送を聞いた場所も・・など。 忘れられない想い出、孫たちにも語り伝えていきたいと思っています。 地震その後もたびたび起こっていますが・・・ もう慣れっこに怖いもんです慣れは。
 当地取手市は、目下のところ放射能の影響が・・・ チョット心配。 郷関をいでしより42年、もうどっぷりの「茨城っぺ」になっています。 良き遊び仲間、飲み友達、OB会、そして町内の遊び仲間達に恵まれ・・時々ゴルフに!
 「元気がなにより 健康で遊べる内が 華!」を実践している今日この頃です。  「Happy Birthday ! 」 にお招き頂きありがとうございました。 毎月のように増え続けているこの投稿企画、拝読を楽しんでいます。 編集者、頑張って下さい。

 ※ 添付の写真は k-unet 第1回写真コンテストにて 受賞のもの。PC壁紙として使っています。

 

 


 

2. 岩佐 裕司 さん (7月2日生まれ)

六十の手習い、フルート


 フルートを習い始めて9年になります。 きっかけは、趣味で声楽を習っていた妻から、音楽教室主催のヨーロッパ三大音楽都市(ウィーン、ザルツブルク、ミュンヘン)巡りの旅に誘われ、生徒さん達に混じって特別参加したことでした。 ウィーン国立オペラ座でバレエ「ロミオとジュリエット」を鑑賞したり、ホーエンザルツブルク城で室内楽を聴いたり、楽しい旅でした。 途中、先生から「楽器でもお始めになられては?」と声をかけられました。 帰国後、私はその教室で、初めてフルートを習うことになったのでした。
 初めの数年間は、文字通り音が出なくて苦労しましたが、諦めずに練習を続けていくうちに低音から高音まで3オクターブの音を出せるようになり、やがて易しい小品なら演奏できるようになりました。 しかし、年に2回のソロの発表会は、何時まで経っても頭痛の種です。

 どうして、舞台ではいつものように演奏できないのか? 思いつく対策をしても、効果はそれ程表れません。 何事も1万 時間のトレーニングを積めば一流になれる、という説があるそうです。 音楽に限らず、スポーツ、芸術などの分野でも、一流と言われる人は、確かにそれ以上の努力をしているようです。 あがらずに、いつも通りの演奏が出来るようになるには、やはり、もっと練習するしかないということでしょう。
 4年前から、教室が社会奉仕として時々老人ホームで行っている、歌とフルートによる慰問コンサートに、20名程の仲間と一緒に参加しています。 フルートは、4~5名のアンサンブルで、クラシックから歌謡曲まで幅広く選曲されます。 昨年は「愛の挨拶」、「きよしのズンドコ節」(これは大受け)、この春はエノケンが歌ったヴェルディの「女心の歌」でした。昔を思い出されるのでしょうか、目頭を押さえながら聴いている人を時折見かけます。 アンサンブルには次第に慣れて、最近は楽しくなってきましたが、ソロにはまだ時間がかかりそうです。

 ところで、日本のフルートの半数以上が、私の住んでいる埼玉県で製作されていることを知りました。 フルート製作の世界シェアは、台湾、中国の追い上げはあるものの、日米の2国がほぼ占めていて、精巧な日本製のフルートは世界のフルート奏者の7割が愛用しているそうです。 近くのフルート工場には、ヨーロッパの有名なフルート奏者がよく訪れています。 私達には孫が4人いますが、将来、その結婚披露宴で、妻が歌い、私がフルートを演奏できればと、夢を描いています。 ピアノ伴奏も孫がしてくれれば言うことはありません。 実現には高いハードルが沢山あり、その一つは、勿論、老いということです。 新聞に、80歳の方が暗譜で80分間ピアノを弾き続けられるという記事がありました。 プロではありませんが、13歳から趣味として続けているそうです。 レベルの違いはありますが、私も夢が実現できるように、諦めずに頑張ってみようと思っています。

 

 


 

3. 藤森 正一 さん (7月14日生まれ)

近 況


 1941年(昭和16年)7月14日生まれの藤森正一です。 今年は当たり年なので早くも72歳になります。
 入社から退職までは概ね次のとおりです。 1960年(昭和35年)4月大阪採用で当時の国際電信電話株式会社に入社、最初は名古屋国際電報電話局に配属され約15年勤務した後電報の衰退に伴い、75年から東京国際電話局に転勤、途中小山の4年を含め東京方面で約15年間、いろいろ楽しませて頂きました。 1993年大阪転勤を機に、故郷の上野市(現在の伊賀市)の近くの名張市に居を構えることになり、大阪では電話局、ハローイン、料金センターなどで勤務し1998年国際電信電話株式会社を退職しました。
 その後、遊んで居るなら手伝って欲しいとの要請を受けて、伊賀市の自動車整備会社に勤務することになり、現在まだ月に2回お世話になっています。
 また、娘2人は東京方面でそれぞれ相手を見つけて独立してしまいましたので、現在は夫婦二人の生活が続いています。 ただし、孫が5人居ますので時々は東京にも出かけます。


 写真左:2010年 6月14日 ミュンヘン市役所前にて「受難劇鑑賞ドイツ・オーストラリアの旅 6月13日~20日」

 写真中:2011年10月31日 凱旋門前にて妻と現地の添乗員と「華麗なるフランス2011年10月27日~11月3日」

 写真右:2012年10月10日 マーライオンの前にて「ダイハツ招待シンガポールの旅2012年10月9日~13日」

 最近は海外旅行づいていて、2009年には高校の同級生が仕事をしているタイで下手なゴルフを楽しみ、2010年には10年毎にキリストの生涯をドイツの小さな村オーバーアマガウ挙げて行う劇を見に出かけ、2011年は三重県の老人会主催のフランス旅行に出かけ世界遺産巡りの旅をしました。 2012年には現在の会社のディーラーの招待でシンガポールに連れて行ってもらい、今年は済州島に行く予定です。
 k-unet で昔お会いした人の名前を見つけると懐かしんでいます。 どうかこれからもよろしくお願いします。 まだまだパソコンを使い切っていないので写真など上手く入れることが出来ません、また教えて下されば幸いです。

 

 


 

4. 国府田 大 さん (7月25日生まれ)

近 況


 71歳になりますが、週2回の体育館トレーニング室通いと共に一日7千歩のウオーキング、そして東武鉄道主催の健康ハイキングに参加し、12kmを月に2回ウオーキングするなど健康維持に努めていたが、最近はそれも儘ならず、体力が低下しているのを感じます。
 また読書が好きで月2回は図書館に通っています。 趣味の飛鳥学の勉強は30年続いており、NHKのラジオ「漢詩」は10年視聴している。 晴読雨読の毎日です。
   パソコンは苦手なのでメールは専ら妻の役目で娘たちとの連絡に使っています。 我が家の三姉妹は長女は結婚したが子供は生まれず、次女はキャリアウーマンで海外営業部に所属しアジアへの出張が多い。 三女は米国留学し、そのまま現地採用でTBSワシントン支局に報道カメラマンとして働いている。

 そんな理で夏休みは家族揃って日、米、と各年毎に過ごしている。 「赤毛のアン」の故郷カナダのプリンスエドワード島や「サウンドオブミュージック」のトラップフャミリー一家がその後過ごした米国バーモント州ストウなど訪ねたりと楽しい思い出を作ってきました。 この4月にはその娘が結婚したので夫婦で新居を訪ね、20日程バージニア州アレキサンドリアで過ごし、ワシントン初代大統領や南軍リー将軍の旧跡を見学などして過ごしてきました。

 

 


 

5. 桑山 晶次 さん (7月27日生まれ)

思い出ばなし


 k-unet の御担当者から、誕生日に際し、なにか一筆書けとのご案内があり、思い出話を載せていただくこととした。
  この7月27日で満70歳となる。実に長く生きてきたものである。もう充分である。昭和十八年オギャーと生まれた時は仏陀とは異なり全く自覚がないが、戦争の最中故、父母たちはさぞかし苦労をしたことだろう。小生は長野県の湯田中に疎開した。その記憶はほとんどないが、何故か今でも信州と言うと特別のノスタルジアみたいなものを感じる。その信州の雰囲気が心のどこかに残っているせいだろうか、中学のころから奥多摩、秩父等の山を歩き、キャンプをするのが大好きとなった。 キャンプと言っても野宿みたいなもので、たき火の煙にいぶされたり、炊きそこないの飯ごうの飯を食べたりしたものだ。


 大学に入ってからは、毎年北アルプスに出かけたりした。これもテントを持ち50キロ以上ものキスリングを担いで2週間 ほど、親しい学友4,5人と山々をホッツキ歩いたものだ。勿論我が母校成蹊が開拓した谷川岳の虹芝(こうし)寮にも出かけたものだ。 70年の人生の中でこの山歩きほど楽しい思い出として残っているものはない。 御蔭様で今でも頑健な体をしており、元気いっぱいではあるが、最早山歩きは無理。 日本の名山などのテレビを見て憂さ晴らしをしている毎日である。


 

Happy Birthday(2013年6月掲載)

Happy Birthday !


6月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
 安道 宰一郎 さん、 大場 光男 さん、 北村  秀二 さん、
 服部 尚彦 さん、 西宮 凞 さん


 

 


 

1. 安道 宰一郎 さん (6月2日生まれ)

近 況


 この度は Happy Birthday コラムにお誘い頂き有難うございます。 冒頭この場をお借りして、k-unet幹事皆様の日頃のお世話に深謝申し上げます。
 KDD時代は主に国際部門で、当初広帯域化の時代には関係の技術の方々から指導を受けつつ短波から衛星・ケーブルへ切替えて新規直通回線の開設交渉およびTV、専用線等の対地拡張とその認可取得手続き、その後国際計算料金改定、バイ、マルチのキャリア間交渉等に従事、大凡の世界各地を訪れる機会を与えられ、貴重な経験をさせて頂きました。
 現在、月~金フルに(08:30~17:30)働いております。青山一丁目駅近辺(近くにカナダ大使館)の外人用マンションの一括管理を任され、所長兼管理人兼苦情承り係のような仕事をしております。下手な英語と仏語を使う機会があり、また用向きで入居者宅内に伺うこともあり、居ながらにして異国の雰囲気を感じることがあります。
 適度な緊張感をもって規則正しい生活を送れば、心身共に健康を維持できるのではとの思いで日々過ごしております。宿泊も可能で、ここを第2の拠点として利用、夜の飲み会その他出歩くのに都合がよく、また家庭との適切な距離を保ち平穏を維持するのに役立っています。
 毎日数時間クラシック音楽を聴きながら執務、作曲の経緯、時代背景等を調べたり、時々オペラ鑑賞に出かけたりしております。いずれはこの西洋かぶれ状態を修正、最後は日本古来の楽曲に触れてみたいと思っております。またある時期年間60ラウンドを超えてプレーしていたゴルフも、ここ10年は年5~6回程度、現在駐在仲間、団地のゴルフ会のお世話役をしていますが、実際のプレーには参加出来ないこともあり、また平日のお誘いにも不義理状態が続いております。筋力・スキルともかなり落ちたため、これが今後の改善課題かと思っております。
 以上、とりとめのない私事にお付合い頂き有難うございました。
 末筆ながら、k-unetの今後益々のご発展並びに会員皆様のご健勝をお祈り申し上げま

 

 


 

2. 大場 光男 さん (6月2日生まれ)

石友会の歩みと共に

 

 k-unet会員の皆様にもう一つのサークルを紹介させていただきます。 それは石友会(KDDOBの囲碁愛好会の名称)です。
 私が石友会へ入会し、即幹事に任命されたのは平成7年4月定年の翌月からでした。当時、会運営の担当者は、会長の小熊栄一さん[注1](故人)、川口浩さん(故人)、そして清田訷久さん(故人)の3名でした。 すでに小熊さんは80代、川口さんも70代で、お二人は後継者を探していた様子で、清田さんも2年前に定年と同時に、幹事されたそうです。 私の場合も職場の先輩であった清田さんに誘われ、それから延々18年の月日がたってしまいました。 その頃石友会の活動は、春秋年2回の定期囲碁大会と年1回のKDD現役との対抗戦でしたが、対抗戦は私の記憶する限り、平成9年1月実施が最後かと思います。 
 一方定期大会は、私が始めて担当した平成7年の秋第38回から今日まで途切れることなく続いてます。 その当時の定期大会ですが、会員はほぼ60歳以上とゆうこともあって、参加者は40名程度ですが開催当日になって、「体調不良につき欠席」、「すっかり忘れてました」、等で必ず2~3名の欠席があり、なれないこともあってその対応に右往左往したことを記憶してます。 また、会場の設定ですが、KDDビル32階の会議室に地下の娯楽室から、20個強の碁盤とその倍の碁石を運び上げること、その後片付け等大変な重労働でした。 そんな訳で1年後定年を待って幹事を引き受けてくれると約束してくれた、先山昌人さんの加入が待遠しく感じたものです。 その他に組合せ表等大会準備は、同友会事務室を利用させていただき、大変便宜を図って頂いていました。
 石友会が最大のピンチを向かえたのは、KDDがKDDIに名称を変更した、平成12年でした。すでに小熊さん、川口さんも引退され、定期大会の会場やその準備する場所がまったく無くなったからです。 幸いこの非常事態にあっても、吹上伸輔さん、滝野幸則さんの協力を得て、清田新会長のもとその対策に当たることが出来ました。 その結果、大会会場は市谷にある日本棋院(当然有料)、準備、打ち合わせ等は席料を払って新宿棋院で行うことになりました。 これは現在も変わってません。
 調度その頃、渉外を任されていた私は、紅友会(東京でただ一つの女性だけの囲碁サークル、会員200名程度、本部を日本棋院に置き月1回の会報も発行。規模は日本一と聞いてます。)との年一回の対抗戦について交渉を進めていました。幸い先方の協力を得て毎年10月に日本棋院で行うことが決まりました。平成12年10月、第1回の対抗戦(各21名参加)が行われ、昨年10月で13回目となりました。 さらに、神奈川県湯河原の「杉の宿」で合同合宿も今年の2月で13回を数えます。
 石友会が次にピンチを向かえたのは平成15年ごろです。 大黒柱の清田会長、メールで大会通知等を一手に引き受けてくれた吹上さんが、ほぼ同時ぐらいに体調を壊され、さらに、滝野さんからは諸事情のためお手伝いが難しくなった旨の申し出があり、途方にくれたのを覚えてます。 しかし捨てる神あれば助ける神あり。 調度その頃、高野敏明さん、柿沼詔一さんの加入もあり即幹事を引き受けていただきました。 その後見城正幸さんの参加もあって、先山さんを会長に5名の新体制が整いました。
 新体制での何か新しい企画をと考えたのが、大阪地区との東西対抗戦でした。 平成16年10月第1回目が、紅友会との合同合宿と同じ「杉の宿」で行いました。 参加者は東京9名大阪7名でした。 しかし大阪側からの参加者が年々減少し、第3回目からは東西合同合宿と名称も変更しましたが、平成20年にはその開催も難しくなりました。 大阪の会長の話では、ここ2~3年入会者は誰も無く、会員の高齢化が進み会員数は減少の一途です、とのことでした。 石友会としても他人事ではありません。 私が幹事を引き受けた平成7年は会員数110名でしたが、60数名と40%も減少していたからです。 なお、平成24年時点では59名。
 早速その対策について考えましたが、結局はKDDI囲碁部からの受け入れしか思いつきませんでした。 平成20年の秋ごろでしたか、KDDI囲碁部で幹事をなさった加藤雅夫さんが来春定年を迎えると聞き、その受け入れに全力をあげることにしました。 たまたま幹事として中心的な存在であった高野さんが体調を崩され、代わりに安藤晴雄さんが幹事に就任した時期でしたので、先山会長と相談のうえ、若手中心の新人が入り易い雰囲気作りを心がけることにしました。 その結果、平成21年、柿沼会長、見城、安藤、加藤、の新体制が出来、先山さんと私がそのサポート役に廻ることになりました。
 さらに、KDDI囲碁部の顧問をされ、石友会の会員でもある塚田一幸さんと、加藤幹事のご尽力によりKDDI囲碁部との対抗戦も復活しました。 昨年の4月の第1回目に引き続き、今年の4月新宿の碁会所「天元」で第2回を実施しました。 また、KDDI囲碁部は毎年5月に合宿を行ってますが、昨年は7名今年も数名、石友会から特別参加の予定です。 特に嬉しかったのは、昨年春KDDI囲碁部から会へ2名の加入者が有った事です。 これからも何名かの加入者が予定されてます。 私も安心して幹事を卒業できそうです。

 その他石友会の行事は、トリプル碁[注2](3人一組で必ず女性か子供と級位者が入る)とペア碁[注3](男女一組)および実業団団体戦[注4](3名一組)への参加があります。トリプル碁は毎年12月23日に実施され、平成17年の第3回から参加して昨年12月で8回目となります。
 写真は昨年12月の大会でAクラスで準優勝の記念です。 男子2名女子1名が普通ですが、男子1名女子2名は異色。 私が舞い上がらなかったら優勝してたかも。 ペア碁は毎年4月29日に行われ、平成22年第2回から参加し今年の4月で4回目になります。 今年Bクラス参加した柿沼会長組みは見事優勝を果たしました。 実業団団体戦は年5回行われてますが、平成21年7月の第1回に2チーム参加しましたが、その後はその性格上KDDI現役組で欠員が生じた場合のみ補充要員として参加してます。 トリプル碁、ペア碁共女性が係わるため、紅友会の全面的な協力を得て参加してきました。 石友会の参加希望者全員が出場出来ないのがネックであり今後の課題です。
 今年の石友会行事は、2月、13回紅友会との合宿(実施済み)。 4月、KDDI現役との対抗戦(実施済み)、ペア碁参戦(実施済み) 5月、KDDI囲碁部合宿に特別参加、6月、 第73回定期大会、8月、石友会合宿、 10月、第14回紅友会対抗戦、 11月、 第74回定期大会、12月、トリプル碁参戦。となっています。
 73回定期大会は今のところ30名の応募がありました。 応募者での最高年齢は94歳、80歳以上も数名います。 今まで80歳以上の大会参加者には、記念品(有名プロ棋士のサイン入り扇子か、湯のみ茶碗。) を贈呈してきました。 (現在贈呈者は9名。) また、大会終了後は表彰式と懇親会を行ってますが、同友会無き今、旧友を暖める数少ない機会となりました。
 最後に石友会の宣伝をさせていただきます。 中国の寓話に「樵夫が山奥で童子達の碁を眺めているうちに、持っていた斧の柄が朽ち果てていた。」の例え通り、碁は面白く、あきない。 人は年とともに一日は長く一年は短いと言われてますが、その一日を楽しくしてくれる素敵なゲームです。
 もし石友会へ入会を希望される方は、柿沼会長のメールアドレス、  

  11-kakinuma@tcat.ne.jp へご一報ください。初心者も大歓迎です。

 [注1] 個人名は総て実名。 故人を除き本人の了承済み。
 [注2,3,4] 主催はいずれも「いずみ囲碁ジャパン」です。

 

 


 

3. 北村 秀二 さん (6月3日生まれ

近 況

 

 平成9年6月31日付で早期退職優遇制度の定年扱い55歳で退職しました。その後、小学校時代の友人が経営している「尼崎彫刻株式会社」に再就職し、60歳の還暦まで大阪高槻市にいて、平成15年6月に現在住んでいるつくば市に戻ってきました。
 その間、友人の会社を手伝いながら福祉有償運送ボランティア活動(自家用車で要介護者等を送迎)を学びました。その経験を生かし60歳になって地元つくば市でまた、福祉有償運送ボランティアの「NPO法人友の会たすけあい」を立ち上げ、地域住民の足として活動していまいた。それと同時にKDD時代に覚えた「合気道」を、諸先輩のご指導により東京板橋区の東板橋体育館武道場で、「東京合気道秀和会」という名の道場を、平成15年に設立したのは61歳の時でした。

 合気道は、昭和49年9月KDDビル地下3階にあった武道場で稽古をしているのを見学に行って初めて知り・・・これが私の合気道人生の始まりでした。「趣味が実益?」となり(ホンの僅かですが)今や、大阪、名古屋、三重県名張支部を持つ50数名の会員が当会で稽古をしています。
 ところが、合気道活動が順調に行っていた矢先!去年(平成24年2月)に血尿がでて、精密検査した結果、「浸潤性膀胱癌」と診断され、6ヶ月間に亘る闘病生活を余儀なくされました。抗癌剤(GC治療)が功を奏してか、癌が手術できる程に小さくなりました。 平成24年7月17日に膀胱、リンパ節、前立腺、尿道を全摘し10時間に亘る手術でした。満70歳と1ヶ月での大手術でした。6ヶ月に及ぶ入退院の生活で心身とも衰弱しましたが、家内、友人、知人等の激励のお蔭で回復し、感謝しています。この4月、9ヶ月検診では「癌転移」もなく順調に回復し、合気道の稽古も再び始めています。

 今まで風邪以外の病気はしなかった健康体でありましたが、ふとした日常生活の乱れから生活習慣病である「癌」となったことを反省しています。これからの残り少ない人生を人に迷惑をかけない程度にマイペースを守って過ごしたいと思っています。また、来年の誕生日(6月3日)を楽しく迎えるために「何事もほどほど」の生活をしたと思っています。

 

 


 

4. 服部 尚彦 さん(6月6日生まれ)

生まれる事と亡くなる事

 

 我が家は神徒です。お線香、菊ではなく、咽せ返る様な生花の香りに今は亡き身内を思い出します。70数回目の誕生日を迎える年齢になり、嘗ての童謡の「村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん」という節回しがふと浮かぶと、其の歳を遥かに越えることに今更ながらに驚きます。しかし、今の社会で御会いする方々の中では、まだ駆け出しで扱われるご時勢でもありますし、一方身の回りの親しい方々にも今まで想像も出来なかった事が多く起き始める歳頃でもあります。

 両親を送ると、もう2度と会うことが出来ないのかとか、喜んでいた物の一つも持ってあの世に行けないとか、死とはどのような状態になることか、生まれ変わるという事はあり得るのかとか、風の様に駆け巡るものなのかとか、常に身内の周りに存在しうるのかとか、宗教的な考えを巡らすことがあります。それなりに、自己の考えはありますが、 確かなものではありません。
 最近思う事は、命日より「誕生日」を祝うことに本当の意義があると感じています。

 

 個々の生誕は長い世代に亘り、全くの偶然の塊であり、筋書き一つ変われば、状況が少しでも変化していれば我々自身がこの世に存在しなかった訳です。また、此の天文学的な偶然が再現されることは、想像を越えます。この世に生を受けた誕生日こそ、本来末永く祝う価値があると思い始めています。
  皆様自身の存在に感謝して、価値ある人生を送られます様に祈念致します。

 

 


 

5. 西宮 凞 さん (6月29日生まれ)

奈良と私

 

 今年の6月29日で満82歳を迎えます。私の住宅は、奈良市帝塚山地区で40数前に奈良市の最西端矢田丘陵の東面に開発されたに住宅地で、現在では北には帝塚山大学・南に近畿大学農学部が隣接しています。矢田丘陵には紫陽花で有名な矢田寺(直線距離で南3km)や日本最古の厄除寺と云われる松尾寺(南5km)、そして南端には世界最古に木造建築として知られる世界遺産の法隆寺(南12km)があります。
 また、我が家から東(5km)の唐招提寺は、毎年6月誕生月5日 ~ 7日の3日間開祖・鑑真大和上を偲び、国宝鑑真和上坐像を収めた御影堂の厨子の扉が特別に開かれ、鑑真和上坐像を拝観することができます。また、それに合わせ東山魁夷画伯奉納の障壁画と襖絵も特別公開されます。 (今年の特別公開は鑑真和上1250年御諱とのことで特別に6月5日 ~9日迄の5日間だそうです)  鑑真和上坐像(国宝)が安置されている御影堂内には、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が10年を超える歳月をかけ、日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲」「濤声」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風」「黄山暁雲」「桂林月宵」の障壁画と襖絵も特別公開されます。坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光」も東山魁夷画伯の作だそうで、毎年多くの方々がこの日に合わせて全国から来られているようです。

 私事ですが数年前偶然に訪れた松本市安曇の「中の湯温泉旅館」が昔もっと下の方にあったとき東山魁夷画伯が当旅館で「山雲」を描かれたと女将から聞き、懐かしく襖絵「山雲」を拝観させていただきました。また唐招提寺の御影堂(非公開)の供華園に、鑑真和上の故郷である中国揚州から送られたという春の終わりを告げる花今年は4月25日(木)~5月6日(月)間、日本では皇居と唐招提寺しか咲いていないというガクアジサイに似た白い可憐な花・瓊花(けいか)が咲き乱れます。(左の写真はYahoo きっすいの奈良人:唐招提寺けいかより引用)
  襖絵や花はさておき、奈良の第一のお奨めは何といっても奈良公園内の阿修羅像でしょう。4年前の平成21年3月31日~6月7日に東京国立博物館で「国宝 阿修羅」が公開された際には94万人の拝観者があったといわれています。本来阿修羅はインド神話では軍の神で激しい怒りを表すのが一般的だそうですが、興福寺の像には激しさはどこにも見られず、この優しい面持ちの阿修羅像は、現代仏像界のアイドルと云われ、モナリザやスフィンクスと並ぶ美仏だそうです。現在、この阿修羅像は興福寺・国宝館でゆっくり拝観できます。

 さて、私ですが、22年前の定年退職後は健康管理のために、近くのスポーツクラブで軽い運動・水泳などで、のんびり過ごしておりましたが、ある機会から地域のボランティア活動を始めることとなりました。奈良西警察署管内の防犯委員(現在の地域安全推進委員)や奈良市交通安全指導委員を10数年間にわたり委嘱を受け・平成9年の神戸連続児童殺害事件を機に、地域の有志数名で校区内の主要交差点での安全誘導を開始しその後徐々に協力者も増え、平成16年11月には、すぐ北隣の校区に通学する小学1年生有山楓ちゃん誘拐殺人事件を機に学校教職員・PTA・地域のボランティア三者約100名構成による「富雄第3地区子供の安全を見守る会」を発足し組織だって活動を始めました。内容は、子供の通学路を主に、青パト5台による巡回、主要交差点10か所での安全誘導を開始しました。その間平成19年の奈良県警本部長表彰・平成23年の文部科学大臣表彰など受賞しました。

 しかし、3年前に心臓大動脈瘤が51mmと爆弾を抱えた状態との診断を受けたこと、あわせて両足共に膝の軟骨が減る変形性膝関節症を患ったことに伴い地域の防犯活動等の代表役は退くことにしました。現在は顧問としてお手伝いをしています。残念ながら最近は地域の防犯活動もボランティアの高齢化とメンバーの減少により地域安全活動が先細り傾向となっていることを憂えます。安全に強い地域にするために、横のつながりを強め、奈良の美味しく甘い空気・明るく大きな空を失いたくないと思っています。恵まれた地・古都奈良の少しでもお役にたてば、またそれが自分の健康法の一助になればと、今後も地域活動に取組みたいと思っています。

 

Happy Burthday (2013年5月掲載)

Happy Birthday !


5月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
 沖  和美 さん、川口 憲一 さん、 武村  俊平 さん、吉田 保夫さん、
 佐藤 正紀 さん、波多野 雅朗さん、大場 尚文 さん、水橋 量司さん、
 小川 忠弘さん

 

 


 

1. 沖 和美 さん (5月2日生まれ)

今は"和の街"がおもしろい


 最近は街の感じがとても変わりました。そして次々とできるあちらこちらのショッピング・モールはどこも似通ったもので街の個性も無くなった気がします。
 独特のステイタスを持っていた憧れの"銀座"もだいぶ変わりヨーロッパのブランドのビルが次々に出来てもその雰囲気は正直あまり好きになれません。以前は和の物と日本に入ってきた洋物がそのままの形でと言うよりうまく調和して日本に溶け込んだ形で、やはり最高の --- 日本の --- 東京の --- 究極の街銀座を形成していたような気がします。今は海外から上陸した物がストレートに入ってきていてバランスが馴染めないと思うことがあります。あの独特な雰囲気が薄れてしまったような気がして残念です。

 かつて若い頃は青山、原宿、赤坂そしてたまに銀座等へ好んで出かけていましたが、今は"和の街"が面白いと思うようになりました。過日、浅草橋の喫茶店でちょっとしたことで会話を交わした同年代のマダム(かつては洋風の街を好んでいたような)も同じことを言ってました。
 ちょっと範囲が広いのですが浅草 --- 昨年は長唄などによく登場する花魁道中を偲ばせる吉原界隈、隅田公園近くの待乳山等に江戸文化を偲び散策しました。
 "日本橋"、"人形町"、"湯島"、--- そして今は"神楽坂"にはまっています。

  先日NHKカルチャーのコースで、"神楽坂散策と料亭女将のちょっといい話"を聞きながらお昼を頂きました。かつて文豪の通った料亭など沢山の路地を巡り、次回来る時のためにと最初はメモを取ったのですがとても覚えきれずgive-up。そして知りませんでしたこの街にフランス料理のレストラン、カフェが多いことを --- 。 時々パリの街角に迷い込んだような錯覚を覚えるほど --- フランス人もかなり見かけました。
 そしてこの時知った"神楽坂をどり"を先日観に行きました。今や芸者さんの数も25名ほどとか --- 募集もしていました。次は"谷中"を目指そうと思います。

 

 


 

2. 川口 憲一 さん (5月3日生まれ)

私の家庭内自立

 

 会社勤めをやめて約2年がたち、ようやく新たな生活のリズムができてきたように思います。
 勤め時代は組織の目標を中心に毎日が動いてゆく生活でした。いまでもともすると目標を達成しようとしてる自分をみつけることがありますが、できるだけ何かしている時間を楽しむように心がけています。
 退職後、家で過ごす時間が増えて家内との間で適当な時間空間の距離を形成するまでに時間がかかりました。家の中にいても自分一人でできるだけ長く過ごせるようになることが第一の条件です。依存度の高いことの一つに食事があります。住宅街に住んでいますので毎日食事のためだけに出かけるのもおっくうでまた経済的でもありません。

 退職して半年くらいたったころ家内から男の料理教室にゆくように仕向けられ、 毎月1回の教室に通うようになりました。料理教室だけではなかなか身につかないのですが、家で復習をしたり、レシピーを検索して試してみたり、努力した結果はとても有意義なものとなりました。自分自身のために作るだけではなく、逆に料理を作ってあげれば辛口のコメントが多くてもまあ喜んでもらえる、息子や娘の家を訪問しても単なるお客様でなく調理人として重宝がられることが分かり、時間の使い方としては気にいってます。職場にいるころは急いで食べていた昼食も味わって食べるようにもなり、食事に対するこだわりも少し強くなったようです。いくつか得意の料理もできました。ドライカレー、ナスとひき肉のグラタンなどです。今年はケーキにも挑戦してゆきたいと思ってます。孫の節句の祝いにロールケーキでデビューしようと思って現在準備中です。

 

 


 

3. 武村 俊平 さん (5月4日生まれ)

Happy Birthday の贈り物

 

 皆様お元気にお過ごしのことと存じます。今年は小生の喜寿の年ですが、それを記念して、自分から自分への贈り物として南米イグアスの滝とペルーのマチュピチュ・ナスカを訪ねるツアーに参加しました。その観光旅行の感想を送ります。とにかく、ペルーまでの飛行時間が長くて、シスコ経由で20時間以上もかかり、少々、グッタリで、体力の衰えを思い知らされました。けれども、ナスカの地上絵は期待外れだったものの、イグアスの滝とマチュピチュ遺跡が素晴らしく、訪れた甲斐はありました。
 イグアスの滝は、幅が3キロにも及ぶ壮大なもので、水量も多く、世界の三大瀑布の一つと言われるのも、むべなるかなと思いました。面白かったのは、イグアスの空港でブラジルの女性係員からアンケートへの協力を依頼されたことです。 アンケートは、日本語で書かれており、サッカーのワールドカップとオリンピックの開催に備えて環境や物価などに対する意見を問うもので、ブラジルも努力しているのだなぁと思いました。
 マチュピチュ遺跡へは、クスコを経由してインカレイルで行きました。途中、4,000 m の高地を通るので高山病を心配しましたが、さほどでもなく、クスコの夜が寝苦しかったくらいで済みました。石造りの遺跡は美しく整備されており、インカの人たちの技術の高さと努力が偲ばれました。もっとも、なぜ、このような高地に住居を定めたのかは、あれこれの説明を聞いても、納得しがたいものがあります。また、マチュピチュ村では露天温泉に入ることも出来、カリフォルニアから来たという女性たちとも交流できました。彼女たちは親日家のようで、一度は日本を訪れたいと言っていました。さらに、訪れたペルーの街々は、意外に綺麗で、これまでに訪れたヨーロッパの街よりも好感がもてましたが、同時に、スペインの侵略のすさまじさも感じられ、心が痛みました。
   いずれにせよ、喜寿の祝いとしては最高で、世界遺産をみることに病みつきになりそうです。

 

 


 

4. 吉田 保夫さん (5月4日生まれ)

趣味に生きる

 

 5月4日の誕生日を迎えると、私は後期高齢者の仲間入りをします。1957年4月にKDDへ入社し1996年3月末に早期退職するまでの39年間を職場や仲間に恵まれ、可もなく不可もなく勤めてきました。また退職後も会社の仲間たちと麻雀に、旅行に、そして山登りなどに誘っていただき、楽しく平穏な人生を過ごすことができましたが、その仲間たちも歳を重ねるごとに少なくなり寂しい思いをしております。


  退職後は好きな登山に熱中できました。KDDに入社し日本橋国際電報局へ配属になり、職場の仲間と山登りを始めましたが、26歳頃には体力の限界を感じて山登りを止めましたが、1993年秋、福島県二本松市の菊人形展と一切経山(吾妻連峰の一つ)に登るツアーがあるが、行かないかと妻に誘われた。旅行好きの私は二本松市の菊人形展が観られると思い、一つ返事で行くことにしたのが、山に登るきっかけでした。
 旅行当日は天気も恵まれ、二本松市の菊人形展も、また山々の紅葉も素晴らしかった。この日の宿は吾妻連峰の山麓にある幕川温泉でした。内風呂もよし、露天風呂もよし、食事も山菜料理でよし、翌日の天気も快晴でよし、一切経山頂からの展望もよし、帰りに立ち寄った新野地温泉の野趣味に富んだ露天風呂がまたまた素晴らしかった。 数多くのラッキーが重なり快適で楽しい旅行であり山登りでした。
  これ以後、妻は山登りにのめりこんでいきました。妻はこの翌年から旅行社のツアー登山に積極的に参加するようになり、私も嫌々ついて行く羽目になりました。1996年頃、作家で登山家の深田久弥が選んだ日本百名山というものがあると知り本を買いました。またNHKBS放送で日本百名山の映像を見て感動を覚え、そして日本百名山完登を意識して積極的に山登りを始めました

 旅行社のツアー登山に参加するだけでなく、中学時代の同級生たちや会社の麻雀友達でもあり、山登り友達でもある先輩たち(細井敏夫、平出精一、落合正孟、梅田赫、横尾一郎)と一緒に登った木曽駒ケ岳、乗鞍岳、白山、蓼科山、奥白根山、西吾妻山、剣山、荒島岳等々は思い出深い山でした。特に細井敏夫さんとは長い付き合いで、私と妻と3人で会津駒ケ岳、初冠雪の焼岳、大雪山に登ったこともあり、今でも夫婦の間で話題になります。1999年7月29日の夕食時、槍ヶ岳山荘の食堂でKSSで一緒に仕事をしていた蕗田五男さんに偶然お会いしたのには驚きました。この後の同友会でお会いした時、体調を崩して山登りを止めたそうです。

 2005年10月22日、日本百名山最後の山は美ヶ原(王ヶ頭)でした。妻・子供・孫そして婿・嫁たちと一緒に登り、日本百名山完登を祝って貰いました。この後もしばらく登山を続けましたが、平成20年10月細井敏夫さんと二人で登った磐梯山・安達太良山が本格的な山登りの最後でした。日本百名山を完登して次は何をしようと考えた時、若い頃に一度行ってみたいと思っていた四国八十八か所めぐりが頭に浮かびました。2006年3月27日の夜、浜松町バスセンターから高速バス乗り、第1番札所の霊山寺へ向かいました。霊山寺の売店で巡拝用品一式を買い揃えました。白衣を着て、頭陀袋に納経帳、納め札、数珠、蝋燭、線香、遍路地図を入れ、菅笠をかぶり、金剛杖を持って霊山寺の仁王門を潜りました。本堂及び大師堂へ行き、灯明と線香をあげて般若心経を唱えた。般若心経は家で少し練習してきましたが、周りの人達が気になって大きな声が出ず、どうも上手く唱えることができませんでした。
 第2番極楽寺、第3番金泉寺・・・と歩き、第1日目は第6番安楽寺の宿坊に泊りました。第1番霊山寺から第88番大窪寺まで距離は1,200キロといわれています。この距離を一般的に45日ぐらい掛けて歩きます。1日平均26キロですので、歩き通すという気力と体力が必要となります。
 私は3月28日に発願して宿坊・民宿・旅館・ビジネスホテル等に泊りを重ねて40日目の 5月6日に第88番札所大窪寺へ到着し結願しました。そして更にお礼参りのため第10番札所の切幡寺を経て発願寺の霊山寺に戻り結願の報告をして、その日の内に高速バスで大坂難波へ行き、南海電車で高野山へ。高野山の宿坊に泊まり翌日弘法大師が祀られている奥之院を参拝しました。 四国遍路の道中記は「わいわいじーの部屋」から検索されるか、http://www.k4.dion.ne.jp/~yoshi-y/ からご覧ください。
 寺めぐりの楽しさが解り、坂東三十三観音めぐり、西国三十三観音めぐり、秩父三十四観音めぐり、江戸三十三観音めぐりもしました。四国遍路はこの後、2008年3月25日~4月30日と2012年9月21日~11月7日にも行って来ました。 四国遍路は辛いことも多いのですが、翌年になるとまた行きたいという気持ちが強くなりました。何か不思議な気持ちです。来年まで体力・気力がまだ残っていればもう一度歩いて見たいと思っています。

 KDDを退職の翌年に私が住んでいる所の町内会と老人会の役員を引き受けました。町会では文化部を担当し、文化祭の作品展示や映画会などの行事を主催しました。夏休みには盆踊りのやぐらの組み立て、秋は運動会等などの手伝いを行いました。老人会では春秋2回の旅行計画や毎月のウォーキングの企画・引率を行い、毎月一人でワープロを使い会報を作成していました。 ワープロが故障し修理不能となったためパソコンを購入しました。パソコンの操作を教えてくれる人が身近にいなかったので、メーカーへ問い合わせをしたり、本屋で立ち読みをして操作を勉強しておりましたが、地域の公民館にパソコンサークルがあると聞き入会しました。2006年頃にホームページ作成の基礎を習いました。会員一人ひとりが自己紹介のページを作り、それをインデックスとリンクさせる作業を私に一任されました。
 試行錯誤して会員の顔写真から自己紹介のページにリンクできるようにして先生に褒められました。 これが病みつきになり自分自身のホームページを立ち上げました。
 最初の頃は日本百名山と四国八十八か寺めぐりだけでしたが、趣味で撮った写真を残したいと思い、我が家の庭に咲く花や旅行先で撮った風景や鉄道の車両、そしてハイキングやウォーキングなどへ行った際に撮った写真を掲載して徐々に項目を増やしました。 現在は「私の日本百名山」「お遍路の旅」「鉄道の旅」「お出掛け情報」「写真館」「プロフィール」「3年6組」「バックナンバー」があります。毎月1日の更新作業は大変ですが、更新日を守るよう頑張っております。

2009年4月、ふなばし市民大学校いきいき学部陶芸学科に入学し1年間陶芸の基礎を学びました。 卒業後は船橋市の老人福祉センターにある陶芸クラブへ入会して月2回作陶しています。妻は陶芸学科の2年先輩で、曜日が違いますが同じ陶芸クラブにおります。夫婦で同じ趣味を持っているので話題には事欠きません。ふなばし市民大学校いきいき同窓会の「歩こう会」に入会し毎月1回県内外を歩いております。 「1年の計は元旦にあり」と言いますので、正月に今年の目標を何にしようかと考えております。今年の目標は気力・体力があるうちに旧東海道を歩こうと思っております。 また旅行回数が多くなっていますので各市町村のマンホールの蓋の写真を撮っております。枚数が増えましたらホームページに乗せようと思っております。5月で75歳になりますが、これまでに年齢を意識したり、過去を振り返ったりしたことはありませんでした。いつも前を見て歩いています。これからも健康に留意して命の続く限り好きなことに熱中していたいと思っております。

 

 


 

5. 佐藤 正紀 さん (5月12日生まれ)

近況報告

 

 k-unet事務局から、誕生月を迎えるにあたりホームページのhappy birthday のコーナーに何か投稿せよとのお話がありましたので、近況を報告することで責を果たしたいと思います。
 現在、東京都町田市に在住しています。昭和40年代にKDD共済会が斡旋した分譲地の一つで、昭和49年に転入してきました。同一自治会の中にKDDの関係者が他に4者(内一人はk-unetホームページのインタビュー欄に登場されている松本一夫氏)いらっしゃいます。交通アクセスは、小田急町田駅からバスで5番目の停留所の浄水場前下車、徒歩5分程度で、近くには町田市民病院があります。
 小生は今年の誕生日で73歳になりますが、6年前の平成19年3月末で現役を引退し、純・年金生活者となりました。若いころ、60歳が定年としても63歳くらいまでは現役でいたいなと漠然と思っていましたが、更に3年近く長く働けたことに、恵まれたなと感謝しております。
 家族は家内のほか娘と息子ですが、子供は二人とも独立し、老夫婦が残っています。家内は4年ほど前から首に痛みを訴え、変形性頚椎症との診断を受け、リハビリのため病院通いをしています。
 小生の健康上の問題としては、3年前の春ころより手が震えるようになり、検査の結果パーキンソン病と診断されました。現在、服薬とリハビリマッサージによる加療を行っていますが、動作のスロー化や筋拘縮の兆候が現れるなど、病状は徐々に進行しているようです。現役時代から近くのテニスクラブへ加入し、続けていたテニスも、ほとんどコートに立たなくなってしまったので、昨年6月をもってクラブを退会しました。医師の指示は、体を動かすための散歩の推奨と転倒しないよう気をつけることで、そのため杖の携帯・使用と禁酒が勧告されています。そのほか服薬している薬の副作用として突然眠り込むことがあるとの事で、服薬中の機械類(特に自動車)の運転が禁止され、行動範囲がせまくなってしまいました。

 社会的活動としては、前述の松本先輩に誘われて、平成17年から地域の「町田市少年少女発明クラブ」へボランティアの指導員として、原則各々月1回の講座及び役員会・企画委員会へ参加しています。会員は小学3年生から中学生まで、活動の中心はアイデアものづくりで、指導員は創作支援を行います。年度前半は工作技術の習得などの準備期間にあて、年度後半に各自がアイデアを形にして評価を競うものですが、指導員として、前述の健康上の問題から工作の実技支援が困難で、今後、どこまで務まるか、頭の痛いところです。発明クラブの対外活動としては、ゴムと電気モーターを動力源としたハイブリッドカーの性能を競う、発明協会のチャレンジ創造コンテスト全国大会に所属会員が参加し、一昨年度には文部科学大臣賞及び特許庁長官賞を、昨年度にはNHK会長賞及び発明協会会長賞を受賞したことが自慢になっています。
 k-unetの訃報にかつての知人のお名前を見出すことが増えてきたように感じます。 平均寿命まであと6年、平均余命はまだ10年以上あると推察していますが、そろそろ年貢の納め時を意識しなければならないところへ来ているようです。といいつつ、エンディングに向けて、まだ何も準備ができていないのが情けないところ。結局は準備不足で周りをあわてさせることになるのかな。

 

 


 

6. 波多野 雅朗 さん (5月17日生まれ)

喜寿を迎えて -感謝―

 

 今年喜寿を迎えるに当たり、想い浮かぶはあの日、あの時なのです。

  朝鮮に渡ったのは、大東亜戦争開戦の年、昭和16年4月。そしてあの日、昭和20年8月15日、国民学校3年生の私は、友達と夏休みに義務付けられていた軍馬の馬草用のアカシヤの葉っぱ取りに・・ 父の朝鮮での三番目の赴任地、黄海道・黄州(今の北朝鮮地域)の校長官舎である我が家に帰ると、居間には近所の日本の人々が集まり、ラジオの前で緊張しながら正午からの天皇陛下の重大放送を待っていた。やがて、玉音放送。 聞き取れぬような小さな擦れた天皇陛下の「・・耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」の放送が流れるや、集まった大人達が一斉に声を詰まらせ、泣き崩れた。負けたっ! その場の雰囲気から、これは大変なことが起こった・・と、子供心にも感じた。翌日には、もう町の中心をソ連兵が馬に乗り、銃を空に向け威嚇射撃をしながら、走り回った。そして、校長の父は警官2名に付き添われ、国民学校の奉安殿から取り出した御真影を抱き、警察署に納めに出掛けた。数日後には、自警団を称する2名が銃剣を手に、官舎に家宅捜索に来た。母は3才と生後6ヶ月の妹を抱え、官舎裏の林檎園に逃げ込み、父が捜索に立ち会い、私はその傍に・・ 自警団は、銃の後部で天井をとんとん突き、倉庫に保管の食糧などの束を剣先で突き刺す。 そして、奴らは引き上げた。

 やがて9月、父が親交のあった現地要人に「明日、日本人が集結させられる」と耳打ちされ、遂に米ソ国境線の38度線に向け,秘かに脱出する日が来た。近所の5家族と共に・・ ソ連兵に見つかれば銃殺必至の、決死の脱出である。我が家は、父が3才の、母が6ヶ月の妹を背負い、9歳の私が僅かばかりの食糧を背負い、ソ連兵に見つからぬよう、あの険しい朝鮮の山中を、樹の葉影で雨を凌ぎ、野宿を重ねながら、ひたすら38度線向うの米軍エリア目指して、南へ南へと歩く。約1ヶ月に亘る、道無き道の逃走。途中 一度ソ連兵の銃撃を受けたが、山奥に逃げ込み、10月半ば遂に38度線を突破、開城(ケソン)に辿り着く。(開城は38度線の南側で、当時米国の領域であったが、現在軍事境界線により、北朝鮮の領域となっている。)
 考えてみれば、この脱出も季節的な幸運があってのこと。あの寒い朝鮮で数ヶ月遅れていたならば、実現していない。その後の人生も、当然変わっていた。米軍に救われ、開城から無蓋貨車で京城(ソウル)に運ばれ、京城の米軍の収容所での生活が始まった。そして1ヶ月、11月半ばに釜山(プサン)から小さな引揚船で日本に向かった。
 母国が近づき、揺れる甲板から彼方に日本列島を眼にした父母が、激しく涙している姿が忘れられず、数年前の母の葬儀の挨拶で、無一文で帰国の我が家族を支えていただいたご近所の皆様に感謝を述べていた際、この時の光景が眼に浮かび、思わず涙してしまったのだ。島根松江港に着くや、進駐軍兵士に頭の先からパンツの中までDDTを撒かれ、全身真っ白。 それでも何とか支給された鉄道切符で実家へと向かう。

 当時一般家庭には電話など無く、何の連絡も無しにいきなり訪れた我が家族に、心配していた実家の驚きは凄かったらしい。らしい・・と云うのは、実は私はその時・その光景を全く覚えていないのだ。疲れていたのか、それとももう安心しきっていたのか・・その時その場に居た叔父は、今でも「Yちゃん(6ヶ月の妹)はガリガリで、息をしているのが不思議だった。」と云う。おそらく母の乳は出なかっただろう。何を飲んでいたのか。聞いていない。 何れにしても、あの状況の中で子供一人欠けることなく全員帰還出来たことは、正に奇跡以外のなにものでもない。両親に、感謝以外の言葉は無い。
 実は、これが私の大人になってからの大きな支えとなった。どんなに苦しいことがあっても、どんなに窮地に追い込まれても、あの時死んでいたかも知れないと思えば、何にでも耐えることが出来た。何があっても、怖くない・・
 帰国後の父は、今の自分にいきなり民主主義を教える資格は無い・・との念から、誘いに首を振り、教育界に戻らなかった。そして、初めての百姓。経験の無い父には、農業は過酷であった。戦時中小作に出していた実家の田畑は、戦後の農地改革でその一部を失ったが、可なり残った。当時田鋤きには牛を使った。全く経験の無い父は、近所の農家の方の教えを受けながら、牛を操り、必死に頑張った。母は、初めての田植え、稲刈り。共に体力の限界に耐えながら・・ しかし、現実はそんなに甘くない。5年で力尽きた。生活は苦しく、近づく子供たちの進学対策も、このままでは覚束ない。そして、父は再び教育界に。私が中学3年になった年である。
 その後の幾多を経て、KDD退職後は平穏にして楽しき日々を享受する今日この頃、この度本欄投稿をすすめられて、この喜寿の年に来し方を想う機会を得ました。あの時の光景がまざまざと目に浮かぶのです。あの日があって、そしてその後のKDD人生があって、今日がある。両親に感謝。そしてその後のサラリーマン人生において頂いた実に多くの方々のご指導、ご援助に、心から感謝です。

 

 


 

7. 大場 尚文 さん (5月21日生まれ)

- 近 況 -

 

 KDDを退職したのが18年前。 丁度、インターネットがNFSからビジネス界に出てきた年だ。 その後、2、3外資系を 経験して2000年のテレコム・バブルで自由の身になった。 変則的定年退職。 余り自由を謳歌すると老化の始まりになるので現在、 通信技術コンサルタント、通訳、 国際金融コンサルタントを行う傍ら、学会、研究会、フォーラム/セミナー、国際ビジネス交流会に所属/参加して忙しい日々を過ごしています。 しかしハイテク通信業界はDog Yearと言われ、7年後はLegacy、即ち、過去の遺物になってしまう。 これについて行くのは容易ではない。
   一方、全く異なる金融分野については六本木で会った英国ファンド・マネジャーから欧米の優れた投資技術を学び、今では毎月銀座でオフショア投資の講師をしている。 世 界の良いとこ取りの国際分散投資なので日本の数倍~数十杯程度のリターンがあるので大学教授まで勉強に来る。 この間、数年先を考 えて米加にRetirement Resort Communityを探しに行っ たりしたが貧乏暇無しの私は退屈すると思い数年先送りとした。 その内、観光ビザで3ヶ月毎にCalif. Arizona, NY, Costa del Sol, Cote d'Azurなど転々とする計画である。
   一方、住んでいる多摩市では日本語と英語のサイトで多摩パワーテニスを主催して毎週テニスを楽しんでいる。 加入条件は"中上級以上"、"パワーがあること"と"英語が喋れること"としている。 テニス・バカも英語バカも居らずなかなか知的なクラブである。 テニスコーチ、元教授、研究者、建築家など多士済々。 1995年、私は一生、同じ会社に働くのはおかしいと思っていたところに早期退職プログラム(出て行け)が出来たのでその数年前からハイエンドのHead-hunterに手を回していたのが功を奏し渡りに船で日本モトロー ラの移動通信部門に非華麗に転職。大型Cellの移動通信部門のヘッド。 一人の外人のためにメイルは総て英語。 部下の日本人の英語メイルが意味不明。 会議から外人が出て行くと突然、英語が日本語に急変し急にコミュニケーションが良くなる。 しかし、良くあるように優良外資系も浮き沈みが激しく止むなく退社し、イスラエルの会社、日本支社長になる。 キャリア・クラスのメーカー。 即ち、キャリア 型通 信機器をキャリアに売ってこい、と言う役目。

 しかし、世界的に通信圧縮技術に優れたこの会社もCapacity Glutと言われる 光ファイバーの出現で日本/世界撤退し、また人財市場に投げ出された。次はOne planet, One network のGobal Crossingの兄弟会社であるGlobal Access の副社長。雇用会社と水と油の子会社で四苦八苦。 そして2000年のTelecom Bubble, 現在のお遊び仕事、年金プータローとなった。
 一方、帰国子女の娘、紗論はしかるべきしてアメリカン・スクールから米国大学・院、そして GE中央研究所でバイオ・サイエンスの研究者。 米国が長く米国市民になった。 オーストラリア生まれの息子は Depression で今でもStruggle。 この間、私はCiudad de Mexico, Rio de Janeiro, Tonga, Zimbabwe, Egypt, Maldives, Aruba, Bahamas, Bali, Budapest, Prague, Mali 連邦など多くの国へ行って来た。 これから行きたいのはBaltic countries, Croatia, 中央アジア。
 しかし、4年前、眼癌(Aquamous Cell Carcinoma)になり大手術三回。 一命ならぬ一眼は取り止めたもののDouble Vision となり海外旅行も一時中止。 複視のため運転すると道が二つ、テニスをするとボールが二つ見える。 妻が二人、お金が2倍に見えるのは良いが・・・・。 仕方無 く、片目サングラスで一重に。
 しかし、距離感がかなり減少するので球をミスる。 即ち距離が時間の函数になるとRacketで Just meetするのは難しい。 しかしVirtualな道に車で突っ込んだことはない。 この複視は眼球裏にあり眼球を上下左右に動かす6本の外眼筋の一部が術後、癒着したためでこれ以上の手術は眼底の視神経を破壊し全盲になりかねないので一生、治癒されることはない。 日本では癌罹病率は5割、3人に一人は癌で亡くなる。 癌は60兆個細胞の1%の体細胞が1日に入れ替わるときのDNAのコピーミス、リンパ球の攻撃で生き残った死のない細胞として増殖する。 現在では慣れて車も運転、テニスもやり、通常の平和な生活を楽しみ5月,70歳を迎える。

 

 


 

8. 水橋 量司さん (5月24日生まれ)

私の掃苔

 

 東京に暮らすようになってから将軍、旗本、大名など武家の墓巡りを皮切りに、文化人から庶民に至るまで歴史に登場する人物の墓碑巡りを楽しみとしてきました。墓碑の前に佇(たたず)んで墓碑銘や記念碑を見詰めていると、その墓碑には故人の生前を偲んで遺(のこ)された方々が建てた心の丈づくしが伝わって来ます。 また、故人についての人物像が頭に浮かんできたときには、まるで故人にお目にかかっているような錯覚に陥ることさえあります。江戸の川柳に「墓参り叱られた恩を思い出す」があり、なかなか趣のある句だと思います。このような墓巡りは掃苔(そうたい)とも言います。もともと掃苔とは苔生(こけむ)して読めなくなった墓石の文字を掃いて読むことですが、転じて墓参りを意味すると言います。
 最近の掃苔からひとつ;太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女の墓碑を新宿区の西向天神社境内にある大聖院に見つけました。伝説とは、太田道灌が鷹狩りに来て俄雨に遭い、面影橋近くの農家に蓑を借りようと立ち寄ったところ、少女がものも言わずして山吹一枝を折り、差し出して蓑が無いことを伝えました。この奥ゆかしい仕種が分からず、後になって"七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき"を知った道灌は大いに恥じて歌道に精進しました。そしてこの少女を城に招いて歌の友としました。この少女は紅皿(べにざら)と言い、道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られています。この逸話は江戸中期、備前岡山藩の儒学者・湯浅常山が戦国から江戸初期の武士の逸話を集大成した「常山紀談」にあり、「太田持資歌道に志す」は広く知られています。

 掃苔いまひとつ;源頼朝の墓は江戸時代に薩摩八代藩主島津重豪(しげひさ)が大御堂(おおみどう)(勝(しょう)長寿院跡)から多層塔を幕府跡が見下ろせる法華堂跡の現在地に移し階段も設置して整備したものです。有力御家人の島津忠久(島津家祖)が頼朝の子であるとしての庶子説が薩摩では信じられていたようです。 重豪(しげひさ) は頼朝の墓整備に力が入るわけです。御香台には薩摩の家紋(丸に十字)がくっきりと見えます。その場から右手の小径を行くと順に、毛利季光(すえみつ)、大江広元、島津忠久と三つの五輪塔があります。忠久のは重豪(しげひさ)が先に整備し、大江広元(政所別当)とその四男毛利季光(すえみつ)(毛利家祖)のは後から毛利家の手により整備したものです。ところが十二所(じゅうにそ)にある明王院の裏山(胡桃山)に素朴な多層塔があり、当時の広元の墓ではないかと言われています。江戸時代、毛利家の家老と藩士達が広元の屋敷跡近くに墓探しに来たが、余りにも威張り散らすので地元民は教えなかったとの伝説があるのです。季光(すえみつ)のは大正時代に鶴ヶ岡八幡宮の西、鶯ヶ谷(扇谷)の山中にあったものが移されています。鎌倉を訪れる参拝者は、当時の墓碑かと思われがちですが、実は江戸や大正の頃に整備されているのです。
 さて、広元と季光(すえみつ)の墓の脇にはそれぞれ亀趺(きふ)があり、石碑を背負っています。亀趺(きふ)とは、亀の形に刻んだ石碑の台石のことを言います。大きくて重い石碑を甲羅の上に載せています。墓前に置く亀趺(きふ)は、もともと中国の貴族階級の風習であったのが、江戸時代に日本にも取り入れられました。亀趺(きふ)は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いが、墓石を載せるものもあります。亀趺(きふ)の亀は贔屓(ひいき)と言い、伝説上の龍が生んだ九頭のうち龍になれなかった一頭で、亀の形に似た想像上の霊獣だとされています。贔屓(ひいき)は重き物を背負うことを好むので使われます。山ノ内にある長寿寺(開基:足利尊氏)の門前にも亀趺(きふ)があります。足利尊氏の墓は京都等持院にありますが、長寿寺にもある尊氏の墓には遺髪が埋葬されています。
 このように墓碑を訪ねることによっていろいろなことが教えられ、気付くことが多いものです。
 かくして私の掃苔は墓碑を巡る漂泊の旅となるのです。



 

 


 

9. 小川 忠弘 さん (5月27日生まれ)

もう一人のヘレン・ケラーさん


 今から60年くらい前、日本の敗戦間もなくして、アメリカから三重苦で有名なヘレン・ケラーが来日して日本中の話題を賑わしたことがありました。映画"奇跡の人"の登場人物にもなった人ですから、皆さんも覚えておられる方も多いと思われます。今回私がここに紹介する方は同姓同名、もう一人のヘレン・ケラーさんのことです。ありがたいことに、私とかれこれ50年以上もの長きにわたって文通をしてきてくれているのです。
 彼女はスイス人です。そして、何年か前に小学校の先生を定年退職されました。今考えてみるとよくぞこんなに長く文通が続いたものと我ながら感心します。彼女の母国語はドイツ語です。でも、我々は英語で文通してきています。多分お互いに世界の共通語である英語を通じて文通を行うということが、かえってかくも長い間お付き合いが続いた要因の一つかもしれません。
 そもそも、彼女と知り合うきっかけとなったのは、私が購読していた高校生向け英語雑誌で"ペンパル求む"のコーナーに彼女の名前が載っていたのが始まりです。私がKDDに入社して数年後の22歳、彼女は17歳の高校生でした。スイスにもヘレン・ケラーと同姓同名の人がいるのだというような軽い気持で文通の申し込みをしました。失礼なような気がしますが、私にとっては文通が叶う人であれば誰でもよかったような気がします。
 文通開始後数年間はお互いの身近な関心事、たとえば彼女の方でいえば学園生活、スイスの自然の風景、祭りや風習の紹介、当方でいえば日本の四季折々の気候や行事などの話題で、月1~2回程度の手紙のやりとりが続きました。その後はご多分にもれず次第に回数が減り、お互いの誕生日のお祝いメッセージに添えての近況報告、そしてクリスマス・プレゼント交換といったような節目の度に意思疎通がなされてきました。 彼女の誕生日前には必ず到着するように心掛けました。一度たりともカードやプレゼントが遅れたりしたことが無かったのが幸いして、親密の度合いがより深まったものと思われます。
 彼女は学校を卒業後小学校の先生になりました。そしてその数年後には結婚しました。こうした場合に良くありうることは、結婚を契機にしてお互いの文通を止めましょうということになりそうです。ところが、彼女の方からは一度もこうした申し出ではありませんでした。二人の子供さんが生まれましたが、その時々にも何の申し出もありません。学校の先生として務めていながら、家庭を切り盛りしなければならないという、いわゆる共稼ぎの立場にあっても、文通中止の申し出がなされませんでした。
   そもそも、かくも長きにわたって文通が続いた要因の一つには彼女の持つ友愛精神の篤さ、あるいは義理人情の厚さであると思われます。世界有数の観光立国であるスイスには純朴で義理人情に厚い人が多いように見受けられます。なかでも彼女はとりわけ人一倍こうした友愛精神が強い持ち主のように思えます。一度友達になったら終生変わらぬ固い友情をもってお付き合いをするという信念が植え付けられているのでしょう。
 やはり親密の度合いが増すようになったのは、定年退職をしてお互いに夫婦そろって相手の国を訪ね合うことができるようになってからです。当方で言えば彼女のお宅(チューリッヒ郊外)に泊まり込みでお世話になったり、あるいはイタリア国境に近いルガーノ湖畔の温暖な雰囲気の漂う別荘に招待されたりで、大層楽しい時間を過ごすことができました。
 一方において、彼女たちが3週間に渡って日本を訪れた時は、埼玉東部にある我が家を根城にして日本各地を旅行されました。我々夫婦もガイド役をかねて一緒に付き添ったという次第です。関西方面へはゆったりと何日も時間をかけ、京都・奈良は勿論のこと姫路城まで足を伸ばして観光することができました。
 KDDを退職して10数年がたってしまった私ですが、一民間人としてかような形でささやかなりとも国際親善の一翼を担うことができているのは、本当に幸せなことだと思います。できるだけ長生きをして、これから先も末長く文通が続くことを願ってやみません。

日光中禅寺湖畔のイタリア大使館別邸にて(2008年)
左から筆者・ヘレンさん、エリックさん、家内

 

 
Happy Burthday (2013年4月掲載)

Happy Birthday !


4月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
 宿谷 将夫 さん、山本 昭男 さん、廣瀬  辰 さん、野村 幸男さん、
 佐野 智敏 さん、中村 宣洋 さん、山村 和臣 さん

 

 


 

1.宿谷 將夫 さん (4月7日生まれ)

私の健康法


 (生涯現役、生涯修行で周りの社会とかかわって働くことが健康を保つ方法です)

 1939年4月東京生まれ。今年は74回目の誕生日を現役のまま迎えます。昭和33年旧KDDに入社(同期入社で燦燦会に参加)し、モールスの時代からテレックスの全自動化まで30年間電信技術畑で一筋に歩み、昭和62年に早期退職し現在の自然良能、骨盤調整の治療師として26年間生涯現役を通しています。

 テレックスの世界通信ネットワークと人体の血管、神経のネットワークには共通点が多く、KDDでの経験が大いに役立ったことは事実です。血液と神経の働きによって人体は健康を維持しているのです。 血液循環と神経の働きを良くするには手足を使って働くことです。それとともに65歳を過ぎたら老齢期に入るので生活習慣を正しくすることです。

1)早寝、早起き(夜は寝ること)
2)3食の食事を良く噛んで食べる
3)昼間は太陽の下で良く働くこと(働の字は人が手足使って動くです)

健康を保つには生涯働くことです。

 

 


 

2. 山本 昭男 さん (4月8日生まれ)

健康第一
~ 九死に一生の再スタート ~


 平成16年6月30日付で私事都合により OCC を退職しましたが、なんとその翌日に心筋梗塞で倒れ、葉山ハートセンターでバイパス手術を受けました。その際、他に2つの心臓疾患が見つかり、心臓を止め、人工心肺に切り替えての長時間に亘る手術となり、まさに九死に一生を得た状態で退職後の人生が始まりました。リタイヤが1日でも遅れていたら今頃は・・・と思うとぞっとします。天の意思で生かされているのだと好いように解釈し、日々天に、家族に、執刀医に、・・・感謝しつつ過ごしています。術後3年ぐらいはかなり用心しながらの生活でしたが、その後は徐々に普通の生活に戻っております。しかし健康第一と考えノーストレスの超スローライフに徹することにしております。退職後の人生を家内といろいろ夢見ておりましたが、スタートから躓きました。健康にだけは自信がありました私ですが、今は健康の有難さを身にしみて感じております。
 最近は、コントラクトブリッジ、ゴルフ、ボランティア、パソコン、野菜作り、孫守等毎日退屈することなく過ごしております。特に今はコントラクトブリッジにはまっております。ニューヨークに赴任していた頃家内に「こんな遊びがあるよ」と言ってコントラクトブリッジを教えた(紹介した)ところ、興味を持った彼女はブリッジのスクールに行って基礎をマスターし、以来ブリッジ三昧の生活で、私が退職したときには、ブリッジの技量に格段の差がついている始末でした。

 それでこちらも発奮本格的にやり始めた次第です。当初はレベル差がありましたので2人で組んで出場することは、遠出する時以外はありませんでしたが、最近は近郊ででも2人で組んで楽しんでおります。近場のブリッジクラブでのプレイ以外に、ときどき北海道、仙台、茨城、金沢、富山等での競技会にも、家内と旅行を兼ねて参加しております。さらにたまには海外へのブリッジ旅行にも参加します。一昨年は台湾へのブリッジ旅行を楽しみました。
 ブリッジといえば故亀田様には厳しく教えていただいたことがあります。これから対等にお相手していただけると思っていた矢先だけに残念です。亀田様のご冥福をお祈りします。
 最後に、コントラクトブリッジに興味のある方、始めたいと思っている方はご一報ください。OB の仲間もいますので一緒にやりましょう。

 

 


 

3. 廣瀬 辰 さん (4月14日生まれ)

アラカン世代のワンちゃんライフ


 稚拙ながら我が家のワンちゃんライフを纏めてみました。
 我が家の愛犬は、陽気なポメラニアン(ドイツ原産の小型犬)、年長のメイちゃん16歳と年少レオ君12歳です。メイちゃんは人間でいえば80歳は超えている寂しがり屋で、ちょっぴり我儘な可愛いおばあちゃん。レオ君はアイフル顔が魅力の、とても愛嬌のある散歩が大好きなおじさんです。ふたり(2匹)とも元来元気に生まれてきたことに加え、毎日の散歩と健康管理の甲斐もあってか、今のところとても元気に過ごしています。とは言っても食事と散歩の時間以外はあらかた寝ているようで、イビキを掻いたり、寝言を言ったりもしていますが、どんな夢を見ているのでしょうか、興味津々です。
 ペットは癒しと言うのは実感で、可愛い顔で出迎えられるとどんな疲れもふっとんでしまいます。こちらが疲れて休んでいるとそっと寄り添ってきたりもしますし、もうふたりの居ない生活なんて考えられません。留守中のふたりの負担を考えると、海外旅行は勿論、泊りがけの名所旧跡巡りもずっとお預け状態ですが、歳が歳だけに日常生活でもそれなりに工夫が必要です。
 ワンちゃんとの散歩は良い運動になると言う話を聞きますが、それは若い時の話、高齢犬になると大した運動にもならないし、なんといっても時間がかかります。我が家では、年長メイちゃんが元気な午前中は、なるべくふたり一緒に散歩するようにしています。しかしながら歳のせいもあってか、カロリー消費ゼロに限りなく近いチンタラペース、年少レオくんがイラついているのが良くわかります。それもあって夕方の散歩は個別メニューにし、顔なじみのワンちゃんに会うとその日一日ご機嫌な、散歩大好きレオくんの不満解消を図っています。そんなこともあり、万歩計は日々8000歩を超えるものの、朝夕の散歩だけで3時間はかかってしまいます。しかも今年のように寒い冬は遅めのスタートにならざるを得ないので、朝の散歩が終わると昼近くになることもしばしば、夕方の散歩のスタートまで数時間しかないと言う日が少なくありません。

 また食事の方もそれなりに工夫が必要で、飼い主と同様、低脂肪、低カロリー、高タンパクの食事が必須となります。特にメイちゃんは食事むらがあって、一日4回に分けて与えていますが、偶ではありますが、深夜の徘徊もあり、まるで介護老人です。食事は治療食を主体に、卵の黄身(勿論白身は飼い主の口の中)、鳥のササミ、白身の魚、温野菜(かぼちゃ、インゲン、ブロッコリー、ニンジン等)をその日の体調に合わせて準備して与えています。まるでお犬さま、残り物をこちらが口にする感じです。
 さて問題は年長メイちゃんにいかにして薬を飲ませるかで、薄くなった頭を悩ませています。加齢による感度低下はあるものの、そこは動物、人間とは桁違いの嗅覚で、薬の匂いをすぐにかぎ分け、ポイッと捨ててしまいます。やむなく、医療用カプセルに薬を砕いて入れ、その日の好物に包んでやっと食べてくれる始末で、上手く行った時は思わず拍手したくなります。 毎月の検診結果に一喜一憂していますが、医学の進歩を考慮しても、どうやら17歳に大きな壁があるようです。我が家の周りの長寿犬はいずれも17歳で他界しており、この夏で17歳になる年長メイちゃんにとってはいよいよ一夏一冬が勝負の歳になります。
 当面の我が家の最大のリスク要因でもある、遠からず訪れるペット・ロスに如何に対応するかに悩みつつ、今日もお犬さまのケアで一日が慌ただしく過ぎてゆきます。

 

 


 

4. 野村 幸男 さん(4月20日生まれ)

お奨めの場所


 4月になると気候も良くなり心躍る時期となりますが、今年は3月が異常に暖かく、いずれ、また、寒くなるだろうと思いつつ過ごしている内に2週間も早く桜が咲き、満開となりました(3月22日)。 一方、伊豆河津の桜は例年より遅く、今年の3月はいつもと違う季節となったようです。 家の近くに都内でも屈指の桜の名所があり、しかも人混みは桜の時期は普段より多少多いものの、ただでゆっくり見物できるので皆さんに来年のためにご案内します。

写真は中野通りの桜並木と渋滞の様子

 場所はJR中野駅から中野通りを北に向かい新井町の交差点から哲学堂公園までの1.5km程、途中には新井薬師、哲学堂公園があり、さらに哲学堂から新青梅街道を西に向かい1km程道路沿いに主に染井吉野が植えられており、車は週末ともなると大渋滞となります。お寺の境内とそこに隣接する公園、また、哲学堂公園内に花見で一杯やる人たちで賑わいます。散歩には持ってこいなので、まだ、一度も来られていない方はハイキングがてら是非一度おでかけ下さい。

 

 


 

5. 佐野 智敏 さん (4月24日生まれ)

故郷と野菜つくり


 私は1943年福岡県の大宰府市に生まれ、水城小学校に通いました。水城小学校は創立138年の歴史を持つ由緒ある小学校です。近くに大宰府天満宮があります。学問の神様・菅原道真が祀られた神社です。合格祈願の参拝者が多く毎年初詣には全国から200万人以上の人が訪れるとのことです。国の重要文化財となっています。平安時代から現代まで連綿と伝えられた飛梅伝説・曲水の宴等多くの伝統行事や伝説が今に残されています。
 水城小学校では毎年6月10日、推古天皇のとき作られた由来の水時計が、都府楼の跡(太宰府政庁跡)の近くの小山に祭ってあることから、時の記念日に各地域単位で時計をもたないで都府楼の跡に朝6時丁度に集合する行事がありました。6時に一番近いチームが1位で、6時を1秒でも過ぎて到着すると失格となりますので腹時計で到着時間を予測して、歩く速さを調整していた記憶があります。
 天智天皇を祀る近江神宮では毎年6月10日に漏刻祭が行われます。漏刻とは、水時計のことで、水が一定の速度で水海とよばれる壷に貯まり、水海の水位から時刻を測ります。水の流入速度が一定になるように、夜天池、日天池、平壷、萬分壷の四個の壷を経て水海に流入し、水海の箭が浮上して人形が指差すところによって時刻がわかる仕組みです。水海の水位は現在の時計と同様に昼夜の長さに依らず一定の速度で変わりますのでこの時代は定時法を用いたとの説がありますが、箭により調整していたかもしれません。

 私は9人兄弟の8番目次男として生まれました。当時は肉などたべ食べることができませんでしたので、下関から来る鯨の赤肉、博多湾での干狩りで獲ったあさりやマテ貝等、また父が近くに100坪くらいの畑を借りていましたのでゴウヤ(九州では通称、ニガウリ)トマト、キュウリ、サヤエンドウ、サトイモ、カボチャ、ネギ、キャベツ等の野菜を作って食しました。その関係で野菜つくりのことは、少し記憶にありました。
 本格的に野菜つくりを始めたのは、平成23年3月11日に東北大震災が発生し、放射能の影響による風評被害などで、青物野菜やシイタケ等が余り出回わらなくなってからです。近くのホームセンターで野菜の種、培養土を買ってきて苗つくりを始めました。夏の電力の節電対策に南向きの窓の直射日光を遮光するゴウヤ、夏野菜類のキュウリ、トマト、スイカ、オクラ、レタス、ほうれん草、モロヘイヤ、クウシンサイ、トウモロコシなど作りました。種イモからジャガイモ、苗からナス、ブロッコリー等盛りだくさんの野菜をつくりました。 一番大変だったのは、苗を植え付けてからの病気対策、病原菌のカビ(ウドンコ病)、青枯病、モザイク病、炭素病等に注意し豆に対策を講じること、また害虫対策 アブラムシ、アズキノメイガ、コナジラミ、ヨトウガ、葉ダニ類等の対策が大変でした。

 野菜つくりについての学習は、毎週日NHK教育テレビで野菜の時間がありますのでビデオに収録してその都度、繰り返して視て憶えてきました。最近は秋冬野菜で人参、大根、白菜、キャベツ、ほうれん草、小松菜、ネギ、タマネギ、ゴボウなどを種から苗を栽培して植え付け収穫しています。美味しく、新鮮な野菜が収穫出来ますので家族から喜ばれています。
 野菜つくりの基本は、土壌改良、害虫対策、病原菌対策ですが、長時間の作業が伴いますので腰痛対策のため週2~3回トレーニングジムに通い足腰の筋肉を衰えないように鍛えています。また、健康のために、週3回近くの公園のまわりの芝生で6キロぐらいジョギングしています。後、楽しみは k-unet のサロン、パソコン教室に参加して皆さんと歓談することです。
 野菜の写真 と 福岡の大宰府の写真(インタネットでとった)ものを添えました。

 

 


 

6. 中村 宣洋 さん (4月25日生まれ)

近 況


 私は 4月25日の生まれで、古希(70才)の正月を迎えました。
 最近は五木寛之の「下山の思想」なる書物を読んで、同感するところあり人並みに山の頂に登れたかどうか疑問ですが、今は確かに下山の時で余生をいかに穏かに過ごすかを模索しています。
 書物の中に、平安末期から鎌倉初期の大変動期に歌われた[今様]が紹介されています。その中で「遊びをせんとや生まれけむ、たわぶれせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ動がるれ」という歌が今のわが身を表しているようで好感をもって読んでいます。

 現在KDD関係者とは「昭和会・昭和の森ゴルフコンペ」に参加し、現役時代の先輩・同輩・後輩40数名とフレンドリーなゴルフを楽しんでいます。昨年はエイジシュートを達成しましたが、ゴルフ暦30数年ですが未だホールインワンが出来ていません。
 何とか金と身体が持つ間にやり遂げたいものだと思っています。今となっては「古き良き時代」に仕込まれたゴルフの技術が数少ない趣味として生きています。k-unetに関しましては一方的にお世話になるばかりですが、関係する方々のご努力で末永く継続されることを祈ります。

 

 


 


7. 山村 和臣 さん (4月30日生まれ)


マラソンへの挑戦


 1990年に定年退職、この度の誕生日(4月)で80歳になります。
 近況ですが走ることへ挑戦中?です。挑戦は上を目指すのではなく目標は無理せぬように歳相応に下げています。
 毎年近くの三浦市主催(毎年恒例の3月第一日曜日開催)の市民国際マラソン大会のハーフマラソン(約21km)に参加していましたが、体力の低下、神経痛など人並みの問題があり、今年は一挙に目標を下げて5kmに参加しました。目標は制限時間内40分の完走でした。
 成績は添付の完走証のコピーの通り35分14秒、3566人中2651位でした。 当日はひな祭りの3日でした。三浦海岸駅前の川津桜が満開に近い状況で綺麗でした。完走を祝して若い人に交じって駅前の居酒屋で祝杯をあげました。

 



 

Happy Birthday (2013年3月掲載)

Happy Birthday !


3月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
 関 義信 さん、 三上 達郎 さん、 湯口 裕 さん

 

 


 

1. 関 義信 さん (3月7日生まれ)

地域で生かしていただく


 私は1995年(平成7年)3月末、56歳で多数の皆さんとともに早期退職しました。(前年末に早期退職の決断をした後、1月17日には単身赴任中の大阪で「阪神淡路大震災」を体験しました。) 退職後は、生活の拠点である「地域で生きる、生かしてもらう」ことを目標に、焦らずに少しずつ活動をしてきたつもりです。
 私の住んでいる「千葉県佐倉市八幡台1~3丁目」は昭和50年代に開発され、入居した団地で一戸建て住宅800世帯強(3000人強)でした。現在も世帯数はほぼ同じですが、子供たちが独立し住民は2200人程度となっています。
 地域活動の中心は自治会活動にあるので、3年を過ぎたころから自治会の事務局でお手伝いを始めました。その中で地域のいろいろな方々と知り合うことが出来ました。特に地域で活動をしている元気な女性(おばさん)達とも話しができるようになりました。 自治会事務局のお手伝いは3年ほどで交代しました。
 この間に知り合った皆さんと「地域の助け合い」のボランティア・グループを2000年(平成12年)5月に立ち上げました。「無理せず、明るく、楽しく、ほっとするような活動」をということで『ほっとくらぶ』とし会員は約60名でした。活動は地域限定(八幡台地区)とし、①助け合い活動は安否確認、話し相手(散歩)、育児支援、家事援助、庭の水やり・草取り、車イス介助、通院のお手伝いなどです。 ②ふれあいの活動として1か月に1回コミュニティサロン(名称:ふれあいほっと、参加費200円)を自治会館で開催しています。
 発足してほぼ13年、地域全体で高齢化が進み、ボランティア(活動をする方)も高齢化が進んでいます(現在会員数40名強)ので、これからの活動をどうするか、見直しや検討をする時期にきています。
 この地域では、防犯パトロールのボランティア、小学校の登下校を見守るボランティア、幼児を遊ばせるボランティアグループなどがあり、高齢者が多数参加しています。たいへん良いことだと自画自賛しています。
 以上地域での事を記述しましたが、KDD関係の想い出としては、2009年(平成21年)7月から2011年(平成23年)12月までの約2年半、KDD同友会の解散の仕事にかかわったことがあります。依田会長、新倉副会長の下、役員、協力会員とともに無事に解散にこぎつけました。これも忘れえぬ想い出です。

 

 


 

2. 三上 達郎 さん (1939年 3月14日生まれ)

誕生日に寄せて


 とうとう74歳になった。後期高齢者まであと1年である。 私は57歳でKDDを早期退職し、その後友人の助けもあって71歳まで仕事をすることができた。最近は皆、長寿になって男性も平均年齢は79歳である。しかし健康寿命というのがあって、それは75歳辺りだそうだ。平均ではあるが、それを超えると何らかの肉体的な障害が出てくるらしい。60代の後半、いつ会社を辞めるかを考えることはあったが、仕事をしている充実感とか、自由人になって、果たして何をするかとの事もあって一日延ばしにしていた。しかし健康なうちに色々やりたいとの思いがつのって、71歳の誕生日で仕事を辞めた。前年末に、辞めたら記念に屋久島の縄文杉を見に行こうと決め、準備を開始した。縄文杉までは往復25kmを歩き通さなければならない。そのために、休日に高尾山を始め、陣馬山に登ったり、近隣を20kmほど歩くとかして体力強化を図り、辞めてすぐの4月に登頂に成功した。今でも縄文杉の威容が目に浮かぶ。
 自由人になって、日々どのように過ごすかは重大な問題である。ボランティアや地域デビューなどの社会貢献は一つの方法であり、多くの方が貢献されている。しかし私は、健康なうちにできるだけ自分の楽しみに没頭しようと決心した。今やっている主なものは、ゴルフ、自転車及びエレクトーンである。現役時代はヨットをやっていて、それに若いうちは金も無かったのでゴルフはやらなかったが、50歳位からぼちぼち始めて、100を切るかどうかの状態であったのを、もっと本格的に90を切るとかに挑戦しようというものである。ゴルフでは、KDDの方とのお付き合いが多く、田中成欣さんや星山文雄さんに大変お世話になっている。しかしネットで調べて一人でオープンコンペに行くことも多い。知らない人と新しいゴルフ場でプレーをするのも刺激があって良いものである。自転車は学生時代にやっていたが、その後60歳を過ぎてから健康のためにまたやりだした。若い時代みたいにドロップハンドルのレーサーはキツイので、今はバーハンドルのクロスバイクとミニベロの2台を持っている。クロスと言っても重量は8kgくらいで非常に軽く、主に多摩川縁を走っている。昨年は、自転車を車に積んで、渡良瀬遊水地や佐渡、青森の十三湖にも遠征してきた。風を感じて、一人、自然の中を、自転車を転がす爽快感は何とも表現しがたい。時々、リュックを背負って、牛乳やヨーグルト、果物やワイン等、重い物を買って来る等、女房にも貢献している。最近、街中でも自転車が盛んだが、マナーが非常に悪い。若者だけでなく女性や子供も、もう勝手気ままである。要は、ルールを習っていないし、あるとも思っていないからである。最初は反発していたが、最近は全て譲ることにしている。Don't believe anybody! である。事故を起こしても結局自己責任だからである(昔の僕じゃ考えられない)。エレクトーンも既に10年近くなる。大して上達しないが、ずっとやろうと思っている。これの良さは、一人でオーケストラ演奏ができることにある。私は、主としてクラシックだけれど、例えば、平原綾香のネプチューンの原曲等、大迫力で演奏でき、一人で悦に入っている。また先生の助けを得て、編曲にもチャレンジしている。 今は、メリーウイドウをできるだけロマンチックに仕上げようと頑張っている。ただ上下鍵盤とフートペダルの操作はやはり難しい。特に、歳をとると、反射神経や記憶力が悪くなるので、相当苦労をする。
 最近、右腰が痛い。1年位リハビリに通っているが、なかなか治らない。これも老化現象である。ゴルフ、自転車、エレクトーンも身体や気力を維持するには良いがダメージもある。ゴルフは、腰の負担や腕への衝撃が半端でない。自転車も年中腕立て伏せをしているようなものだし、無理すると足がつったり、下手すると脱水症になる。エレクトーンだって片尻で支えるので腰に悪いし、腱鞘炎にだってなる。これに対処するには、結局ストレッチしかない。今、整形外科の療養士の指導を受けて、毎日ストレッチをやっている。長年の反り腰の影響で、それを治すには、腹筋とかの体幹を鍛えなければならないそうだ。毎日、少しずつやったお蔭で、体重も、特に腹囲も減って結構スマートになったが、肝心の腰はそれほど治らない。長年の悪い姿勢の結果らしい。ちょっとサボルと筋肉の衰えを感じるが、負けず身体を鍛え、一日でも長く、この貴重な、健康な日々を楽しみたいと思っている。
 末筆ながら、この機会を与えてくださった役員の皆様に感謝するとともに、会員の皆様のご健勝を祈念します。

 

 


 

3. 湯口 裕 さん (1941年3月27日生まれ)

退職後は福祉活動に携わっています


 Happy Birthdayコーナーへのご招待、ありがとうございます。このコーナーは懐かしい方々の近況がわかりいいですね。
 さて私は1997年にKDDを退職、以来、まったく畑違いの福祉の世界に身を置くこととしました。NPO法人福祉カフェテリア(発足当初は任意団体)という市民活動団体を仲間と一緒に立ち上げ、今も高齢者や心身に障がいのある人たちの生活を支える仕事を続けています。自分自身の生活のことをあまり気にせず、福祉の世界に飛び込めたのは会社が準備してくれた企業年金制度のおかげと今でも感謝しています。
 私が福祉に携わろうとした動機にはいろいろなことがありますが、その一つが、1988年から5年間滞在したドイツで、親が子に頼ることなく一人暮らしのできる社会があるのを知ったことです日本も年老いても、また身体に障がいがあっても周囲の人々の支えによって生活してゆける社会であればと思ったことです。
 一つの人生で2つのまったく異なる世界に身を置く機会を得たことはそれなりに楽しいものです。日々多くの高齢者と接し(かく申す私も3年後には後期高齢者)、その人たちの歩んでこられた道とそれを投影した今を見せていただき、私自身の日々の在り方を教えてもらっています。
 私たちの団体「福祉カフェテリア」は、高齢者が自宅生活を続けてゆく上で必要とする7つの福祉活動に取り組んでいます。ホームヘルパーの派遣、宅配給食サービス、通院のための送迎サービス、・・・。
 最もユニークなのは階段昇降支援サービスです。車いすに座ったまま階段の上り下りができるドイツ製の機械を10年ほど前に購入しました。これを使って、エレベーターのないアパートや道路に出るまでに階段のある家に住んでいるため病院通いもままならない人たちを支援しています。
 福祉系NPOを運営する上での課題はスタッフ集めと活動資金の調達です。
 スタッフには活動協力金という安い給料を払っていますが、残りはやりがいという名の報酬です。幸い福祉カフェテリアにはハートのある人が沢山参加してくれています。

 次に活動資金のことです。移送サービスは利用者にとっては電車・バス代わりですから、安い料金設定をしています。利用料だけでは必要経費も賄えません。不足分は介護保険サービス事業による利益や、協力者からの寄付に頼っています。
 移送サービス用の車両7台のうち4台は寄付金で購入したものです。これからも多くの人たちに寄付という形で応援していただくため、今「認定NPO法人」の資格取得をめざして準備を進めています。
 「認定NPO法人」というのは、多くの人が支援し、しっかりとした運営をしていることが実証できたNPO法人だけを特別に認定しようという制度です。認定NPO法人になると様々な税の優遇制度が適用されます。その一つが寄付者に対する税の減額です。所得税減額と住民税還付により最大で寄付金額のほぼ50%が還付されます。全国に5万近くのNPO法人がありますが、そのうち認定NPO法人はまだ300法人程度です。結構高いハードルですが、私たちの法人も資格要件の整う1年後に申請する予定です。
 最後は紙面を借りて厚かましいことではありますが、皆さんのご支援をお願いします。
 写真への説明: 福祉カフェテリアの事務局長の傍ら、「ひの市民活動団体連絡会」の会長としても微力を。

 

Happy Birthday (2013年2月掲載)

Happy Birthday !


2月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:
 清水 恍平さん、 森 弘道さん、 金澤 政和 さん、
 畑中 卓純 さん、 高橋 春雄 さん、

 

 


 

1. 清水 恍平 さん (2月5日生まれ)

k-unetとのかかわり、など


 ご存知の方も多いと思いますが、k-unetは会員50名余りのグループとして、1998年4月に発足しました。つまり今年4月には、発足15周年を迎えることになります。その設立総会で、私は諸先輩と共に石川会長から指名され、運営委員を務めることになりました。草創期のかかわりについては、2007年3月に企画された「k-unet10周年記念ネットインタビュー(後編)」(注1)で触れましたので、今回は、その後のかかわりについて振り返りたいと思います。
 運営委員は2001年に退任させてもらいましたが、その後の出来事で忘れがたいのは、k-unet内の迷惑メール騒動です。特に、2004年末から2005年初にかけて、Netsky.Dウイルス(注2)による迷惑メールが頻繁に登場、大きな問題となっていました。そこで、これをなんとか解決しようと思い、ボランティアとして発信源の探索を試みました。先ず、迷惑メールの着信記録を分析したところ、特定のプロバイダーを経由して発信されていることが分かったため、そのプロバイダーを利用している会員の方々にご協力をいただいて、ウイルス感染の有無を調べてもらいました。ウイルス対策をしていないという方には、セキュリティソフト・ベンダーの無料オンラインチェックサービスを活用してもらいましたが、使い慣れないこともあり、かなり難航するケースもありました。それでも、メールや電話で何度かやりとりを繰り返し、最終的に発信源を特定、問題を解決できたことは、ご当人は勿論のこと、k-unetにとっても幸いだったと思っています。
 ところで、昨年、いわゆる遠隔操作ウィルスによる "なりすまし" 事件が発生、関係機関のずさんな捜査の結果、無実の人々が逮捕・拘留されるという、とんでもない事態に発展したことをご記憶の方も多いと思います。近年、この種の手口は益々巧妙になり、残念なことには、今のところそれらを完全に防止する手立てがないというのが実情のようです。ただ、このようなウイルスに侵入され、遠隔操作を受けた場合でも、記録に残る(すなわち無実を証明できる)ようにする無料ソフト(注3)が筑波大学発のベンチャー企業から公開されたことは、朗報と言えるでしょう。このほかにも、オプティムなど数社から、やや手の込んだ対策ソフト(有料)が発表されています。このような事件に巻き込まれた場合のことを考えると不安になるという方は、万一の場合に備えて、とりあえず無料ソフトの利用を検討してみては如何でしょうか?

(注1)「旧k-unetサイトマップ」 < https://previous.k-unet.org/?page_id=1187 > →「スポットライト」下の「ネットインタ ビュー」から閲覧可能。

(注2) Netsky系ウイルスの一種で、2004年3月頃に登場。 感染すると、パソコンの電源を投入しただけで (メールの送受信をしなくても)発信者を詐称したウイルス付きメールを大量に送信。メーラーには記録が残らないため、ほとんどの場合、発信源の当人はまったく気がつかないという厄介な代物だった。
「旧k-unetサイトマップ」→「活動状況」下の「資料室」→ 3.(2)「ウィルスに注意しましょう」に当時の記録が保存されている。

(注3)「パケット警察 for Windows」
  < http://www.softether.co.jp/jp/packetpolice/ >

 <参考>「「遠隔操作ウイルス」から身を守るには?」
  < http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20121102/434543/ >

 

 


 

  2. 森 弘道 さん (2月9日生まれ)

パークシティとナパ・バレーの旅
~スキーとワインで至福の時を過ごしました~


 この20年ほど、海外スキーは私にとって最も楽しみな年中行事のひとつになっています。会社をリタイアした後は自然と同好の士が集まり、毎年1回ないし2回、10人ほどの仲間と一緒に、主にヨーロッパ・アルプスに出かけています。
 以下は、珍しくアメリカに出かけた昨シーズンの話です。今シーズンは、この2月下旬、オーストリアのチロル地方の小さな村サン・クリストフに出かけます。面白い話しができるようなら、別途投稿します。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 2012年2月11日、広大なソルトレイクを右手に眺めつつ機はぐんぐん高度を下げ、ソルトレイクシティの空港に着陸しました。この街は言わずとしれたモルモン教の本拠地。先ずは総本山であるテンプルを表敬した後、パークシティへ向かいました。私たちの一行は、総勢11名、平均年齢七十?歳のいつものメンバーと、スキーガイドのS氏です。パークシティは2002年冬季オリンピックの開催地で、界隈には四つのスキー場、キャニオンズ、パークシティ、ディアバレー、スノウバードがあります。翌日から6日間、これらのスキー場を渡り歩いて、時には厳しく、時には悠々と滑りまくりました。

 ヨーロッパと違って当地のスキー場は、標高3000メートルを超えても森林限界に達せず、ほとんどのスキーコースは木立に縁どられています。このため風が遮られ、雪面も柔らかめで、穏やかでゆったりしています。しかし、斜度はかなりあって快適な高速走行が自然にできます。よくグルーミングされたコースとオフピステ、林間コースがうまくリンクするように配置されており、足前と好みに応じていろいろなコース選択が可能です。
 私たちのお気に入りはパークシティで、ここでのロングランは忘れられません。圧巻はスノウバード。何と全コースの70~80パーセントが上級者向け黒コース。山頂近くはほとんど黒一色です。130人乗りの大型ロープウェイを下り立つと、眼下には急斜面のスキーコース、かなたには真っ白な雲海、その向うにロッキーの岩峰がそびえ立っていました。素晴らしい景色に囲まれて、快適さと厳しさを織り交ぜた変化に富んだ滑りを満喫しました。

《 ワインに堪能したナパの3日間 》
 パークシティの後、参加者のうち4名がスキーのみで帰国。残りのこじんまりしたグループで、ナパワインを極めるべく、先ずは名高いワイナリー オーパス・ワンからナパ・バレーの旅を始めました。
 旅のハイライトはワイン列車。先ずは駅の待合室でカリフォルニアワインについてのセミナがあり、いくつかのワインを試飲。その後列車に乗り込みましたが、これがまた驚き。ロココ調に内装された、まるでオリエントエクスプレスのようなアンティークなグルメ車両。1915~17年頃の車両を完全に復元したものだそうです。早速、車窓に広がる葡萄畑の眺めとワインを楽しみつつ、セレブな気分でフルコースの昼食。この季節の葡萄畑は、害虫駆除などのために植えた黄色いマスタードの花などの草花が咲き乱れ、葡萄の木と織り成す縞模様が大変印象的でした。
 列車はバレー入口のナパから奥のセント・ヘレナまで、葡萄畑の真っ只中を時速30キロ程度で悠然と走り、ワイナリーを見学して、ナパに戻ってくるという設定。ワイナリーの見学では、5種類ものワインの試飲があり、いい気持ちになって戻りの列車に乗り込みました。今度の車両はお茶とデザート付きの開放的なラウンジ風です。

  自席から離れて各車両を見物して回ることもでき、西部劇を思わせる素朴な車両、最後尾の展望車のデッキなど物珍しく見物。ワインの試飲ができる車両もあり、ここでもワインを4~5種試飲して、まさに上機嫌で列車の旅を終えることができました。
 終日車を貸し切ってのワイナリー巡り、これも忘れ得ぬ一日でした。ワイナリーを5カ所ほど訪問しましたが、その都度、4~5種類のワインを試飲。ナパのワインはどれも15度前後とアルコール度数がかなり高く、また、注いでくれるワインの量もたっぷりで、飲みごたえ十分。

  昼食や夕食でもワインが欠かせない雰囲気ですから、この日もまさにワイン漬けの幸せな一日となりました。この頃になると、ワイン、ワインでスキーのことはすっかり頭から消え去っていました。  ヨーロッパとは一味も二味も違うアメリカン・スキーとワイン、素晴らしい旅でした。

 

 


 

3. 金澤 政和 さん (2月15日生まれ)


 k-unet いつも興味深く拝見させて頂いております。 幹事の方のご苦労を感謝しております。2月誕生日ということで投稿依頼を受け、思いつくまま書いてみました。
 先日、の記事で「109の会」があることを知りました。そこで109の由来が書かれていましたが、私は入社当時から大手町の東京国際回線統制局で交換台の保守を行なっていたので興味深く拝見させて頂きました。50歳代以前の方はご存知ないかもしれませんが、「109」は都内23区内からの国際申し込み電話番号でKDDの大手町国際電話局に着信し、CLR接続という呼び返しなしの国際接続ができたものです。

 発信者の識別には「割込み」ボタンを押し、割込み出中継線から加入者に割り込み900HZ?のトーンがオペレータに返ってくることにより確認していました。当時はアナログ主流なので回線確認には1kHZ等のトーンを耳で確認することが多かったです。

 人間的ですね。
 割込み回線で思い出すのは、特定の交換台で非常に稀に割込みできないという障害がありました。調査したところ、割込み出中継トランクの中のあるロータリスイッチの一本だけ付線ミスだったことを見つけました。おそらく製造時のミスなので5~6年程たって発見できたので私事ながら、自分自身に自慢していたことを記憶しています。

 

  


 

 

4. 畑中 卓純 さん (2月16日生まれ)


 還暦を大過なく過ごして初めての年男になりました。この歳になると同期会が盛んになり、昨年は中学からKDDまで多くの旧友と会いました。一方、KDDでお世話になった先輩方のお名前をk-unetの訃報で知るのは悲しいことです。
 幸い心身ともに良好だと思う現在の体力と脳力を維持する生活を、東京の田舎・清瀬市でスポーツクラブにも通いながら続けています。
 畑や林が広がり緑の多い地元の「自然を守る会」で、市内にある全植物1000余種の調査や希少植物の保護、外来種の駆除などの作業に加わってます。

 また、林野の笹刈り、落ち葉掃き、枯草木の整理などの力仕事で、早春に咲く可憐な野生のカタクリの花で多くの人を笑顔にし、水辺の可愛いカワセミを見に来る人達にも喜んでもらう手伝いもしています。一方、50年も前に触っていたウクレレを再開しました。地元でサークルを立ち上げ、カルチャークラブで教えるなどいろいろな仲間と楽しみを共有しています。 弾き語りから独奏、合奏などで、日本や世界の歌からクラシックの曲まで弾きます。人前でカッコ良くはできませんが、いつでもどこでも楽しめる手軽な楽器なので、ずっとUKU001(ウクレレイチバン)の生活を続けていくつもりです。

 

 


 

 

5. 高橋 春雄 さん (2月21日生まれ)


KDD宝生会の思い出


 KDD宝生会とはKDDの職員で構成する宝生流謡曲のグループです。昭和29年4月、先輩、村本脩三氏の指導で秋元亮一、阿部理一、私の3名が、KDD本社のあった三菱21号館の一室で「竹生島」を教わったのが、今にして思うとKDD宝生会始まりとなりました。この時から早くも58年の歳月が経過しました。
 4名でスタートしたこの会も最盛期には77名となり、現在でも約20名の会員が柳川英夫、米永和人,山田清重の3名の指導をうけながら活溌に活動しています。
 この写真は昭和31年1月に開催された「KDDメンタルレク発表会」で謡曲「竹生島」を謡ったときのもので、私の手元にある謡曲関係の一番古いものです。後列左より永島健次、村本脩三、阿部理一、丸山乗一、前列左より長坂信一、秋元亮一、筆者ですが、長坂氏と私を除いて皆物故されてしまいました。

 KDDには私たちの宝生流の他に観世流のグループが本社、東報、大阪、名古屋にもあり、全国各地での合同の謡会(末広会)も良き思い出です。また、宝生流官庁実業団謡曲連合大会(官実連)に、41年間も連続出演し、しかも無本で通したのも当会の他にはないのではないでしょうか。
 このサークルで習った謡曲と、車の運転と、パソコンのおかげで、定年後の30年近くを退屈することなく過すことが出来、感謝感激です。
 

 

 

Happy Birthday (2013年1月掲載)

Happy Birthday !


1月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

 

今月のお誕生会員:
 勝部 日出男 さん、 佐藤 龍夫 さん、 高宮 孝一 さん、
 田渕 紀一 さん、 吉澤 生雄 さん

 

 


 

1. 勝部 日出男 さん (1月1日生れ)


"一京円資産国家"日本の2013年"


 輝かしき2013年、明けましておめでとうございます。
 KDD・OB・OGの皆様、新しい年を迎え、如何お過ごしでしょうか? 我らが誇り高くも懐かしきKDDが吸収合併されて消え去るとともに、私は、自らリードする新しい人生を始め、現役バリバリの起業家人生及び社会活動家人生にて格闘し続けています。
 2000年退職後直ちに、既に創立していた(株)ナレッジカンパニーの代表取締役としてベンチャーキャピタル業務に従事し、金融・投資事業に身を投じると共に日本メナード化粧品(株)、その他ベンチャー企業・NPO等の役員を兼任してきました。KDD時代から幸いなことに常に新しい困難な企画に数多く挑んできた経験と個人的に続けていた経営・ 経済・金融の研究に基づく資産運用経験を生かした事業ですから、通信事業から全く異なる分野に挑戦することに何らの躊躇もありませんでした。
 他方で40歳半ばごろから国会議員立候補へのお誘いが何度かありました。当時既にバブル崩壊後の経済・金融政策の失政による"失われた10年"が経過し、日本の資産価値を2000兆円も崩落させた日本の政治に憤激し、政治および金融経済の変革の必要も論じておりました。竹下登さん、小渕恵三さん、加藤紘一さん、塩崎恭久さん、藤井裕久さん等との交流からとうとう2002年に参議院選挙に立候補となりました。残念ながら準備不足のために落選してしまいました。(ご支援・ご期待いただいた方々には申し訳なくも改めて深く感謝しております。)

 2か月あまりの短い選挙活動でしたので、慌ただしくも面白い経験でした。新しい分野への挑戦は、常に新しい発見があり、自分の世界が大きく広がり、苦しいけれど新鮮で楽しいものです。選挙後超短期間の選挙活動の割に善戦したことから多くの政治家・選挙関係者から次の選挙あるいは市長選挙への出馬を強く勧められたのですが、残念なことに家内及び親族の猛反対のために政治活動を断念せざるを得なくなりました。
 そこで再び投資・資産運用事業(結局20近くのファンドを組成・運用、約50社への投資中10社上場の実績)に回帰するとともに、日本のモノづくり知的資産活用事業(日刊工業新聞提携)、医療従事者支援教育事業(メディバンクス(株))、更に日本インドシナ協会を設立してインドシナ地域特にベトナム・カンボジアとの懸け橋事業(水力発電事業への71億円融資支援、図書館寄付事業支援、Dr服部眼科医のベトナム人失明救済活動支援等)、日本企業等のベトナム進出/M&A支援事業(建築設計会社、一部上場会社等)、日経先物・オプション運用、ベトナム株式投資等々新しい挑戦を続けています。(写真は夏に愛用するベトナム製シルクシャツを着て自社オフィスにて撮影。ベトナムは活気にあふれ、年に数回出張。韓国、中国、カンボジア、ロシア、トルコ等へも出張しております。)
 余芸として、この12月の解散総選挙時に、政策比較に基く投票行動に資するため政策工学研究所の活動を再開し、乱立する政党の政策分析・比較・評価とその評価の基準となる"一京円資産国家・日本"という日本再興ルネサンス政策を発表しました。
 皆さん、日本にはどれだけの資産があるかご存知ですか? 日本のマスコミは、財務省の洗脳政策に従い約1000兆円の政府借金(政府の借金であってその95%は日本の法人・国民が債権者ですぞ!)だけを強調し、最も経済に悪影響を及ぼす消費税増税(消費に罰金10%を課すような税制度)を推進しました。普通の経営者なら必ずバランスシートに基づき借金と対応する資産を見るものです。日銀統計及び内閣府等で公表している資料に基づき推計すると、政府及び公的部門の資産は約2000兆円以上(金融資産約1300兆円、不動産約600兆円、その他100兆円以上)の資産があり、民間の資産は6300兆円以上(金融資産・家計約1500兆円以上+民間企業約2800兆円以上=約4100兆円以上、不動産その他約2000兆円以上)その他に知的資産・文化資産・海洋資源さらに世界最大の海外金融資産(約370兆円)等々を加えるとほぼ一京円の国家・国民資産を有する国なのです。(マスコミは不勉強で家計の金融資産約1500兆円を報道するだけなのです。)
 日本は、われわれシニアが戦後ゼロから頑張りぬいて世界有数の資産形成国家となっているのです。この莫大な資産を生かし、価値をあげ、利回りを増やす経済・金融政策・成長戦略を徹底的にとることが最も効果があり、最重要なのです。これが、デフレから脱却し、2%程度のインフレを実現するリフレーション政策(1930年代の高橋是清が推進した政策の実例がある。)であり、みんなの党が最初に提起し、自民党の安倍総理が甲高く叫んでいる政策です。年金も社会保障も外交・防衛・安全保障も教育もあらゆる施策も経済が良くなり、財政収入が増えなければ実現できません。そのためにはまず日銀の非伝統的金融緩和及びバランスシート拡大政策を米国並みに進め、円高を是正し、株価を上げ、金融利息・利回りを増やすことをまず実現することなのです。
 かって我々シニアは、退職するときに数千万円の貯金があればその利息収入で十分老後をやっていけると考えた時期があった筈です。1990年ごろ金融機関からの利息収入が30数兆円あったと言われています。また日銀が数年前の国会答弁で"預金者の本来受け取るべき得べかりし利息が累積で331兆円"と報告しています。銀行救済のため・不良債権償却のために預金者はそんなに莫大な寄付上納をし続けていたのです。そろそろ銀行から本来受け取るべき適正な利息を受ける時が、このアベノミックス政策により実現する可能性が出てきたと言えます。これまでのゼロ利息、むしろ高い手数料を取られるマイナス利息の腹立たしい状況から、100万円でも利息を得られるようになったら20%くらいの金融利得税を取られても納得できると思います。また利息収入分なら全部使っても元本が減らないので安心して消費等に回し、また株・不動産・その他の資産の値段が上がると期待できれば、莫大な金融資産が投資、資産購入に回り、資金循環・経済循環が活発になり、景気が良くなり、税増収となり、財政再建が進み、復興が進み、雇用も個人収入もふえ、大変良い循環となるのです。
 政策工学研究所の評価では、みんなの党、自民党の政策の評価が高く次いで維新の会、未来、民主の順番になりました。今回の選挙では、約束したことをやらないで、一番やってはいけない消費税増税を約束を破って実行した詐欺政党民主党という事実を国民は見事に見抜き、今一番重要なのは経済の再建だと国民が賢明にも判断したのです。2013年の前半には、安倍政権は強い経済の再建に全力をそそぐことになります。それが明確に実行されると、円安好業績が見込める輸出の多い会社と10兆円以上の補正予算により潤う建設会社等の株価と不動産を中心に資産価格が明確に上がっていくことになるでしょう。
 年金生活者等にとっては副作用もありますが、基本的にまっとうな経済運営となり、多くのことが改善傾向に向かうと思いますので、金融リテラシーを高めて、適切な資産運用を行うことも大切になってくるでしょう。
 日本では、とかく悲観的な見解や自虐的な見方が溢れています。勿論政治(家)の酷さ、劣悪さ、愚かさには呆れるものがありましたが、それを補ってきた日本の素晴らしさは世界一であります。政治・政策の愚かさや数々の誤り、更には自然災害の過酷さにも拘らず、世界一の債権国であり、一京円もの資産を維持し、世界一インフラが国内隅々まで整い(やや老朽化の現実はともかく)快適・便利性に優れ、豊かな美しい自然の多様性や歴史・文化遺産の豊かさを享受でき、加えて不断の改善を続ける技術力・革新力の高さ等々枚挙にいとまがありません。
 しかし何よりも素晴らしいのは、あの東日本大震災の悲惨さの中で現われた日本人の美しい気質ではないでしょうか? 忍耐強さ、思いやり、助け合いと自助努力、謙虚さ、他者との調和、実直さ、勤勉さ、整然さと秩序正しさ、卑怯を嫌う武士道精神、美意識の高さ等々失われつつあったものを改めて意識させられました。魏志倭人伝にも記述されてきた日本人の美質こそ、日本を高め続けることができると思います。愚かな政治も終わりを告げて、2013年から新しい復興ルネサンス日本が始まると希望を抱き、毎年の英国BBC放送の調査結果にあるように世界に最も良い影響を与える国と称賛されている日本に自信を持って前向きに挑戦する年にしたいものだと心から願う2013年の誕生日です。

(長すぎる面白くない文面にお付き合いいただき、恐縮至極です。愛してやまなかったKDD人生を辞して以来の足取りと最近の思いを書き始めたら止まらなくなってしまいました。どうぞご寛恕の程お願いいたします。一京円資産国家・日本及び活動の詳細にご関心を抱かれた方は、ナレッジカンパニー及び政策工学研究所

 http://knowledgeco.jp/seisakukougaku/  で検索いただければ幸甚に存じます。)

 

 


 

2. 佐藤 龍夫 さん (1月2日生れ)

1月生まれ


 Happy Birthday 有難うございます。実はこれまで誕生日祝いらしいことをしてもらった記憶が殆どないのです。お正月三が日生まれなので御節料理の準備や"新年おめでとう"にまぎれて誕生日を忘れられて仕舞いがちだったのです。お正月が来ると自動的に齢をとり何気なく通り過ぎてゆくという感じで過ごして来たのです。しかしこの2~3年来、心身共に、特にシンのほうがややおぼつかなくなってきたようで、いよいよ人生最終段階に入ったなという感じがしてきました。 1928年生まれ、ここへきて一つ齢をとることの重みがズ~ンと来るようになってきたのです。
 さて、「Happy Birthday!」になにか書いてくださいというご依頼を受けましたが、つい3ヶ月前にウンウンうなって、ある会への寄稿文を書いたばかりで一難去ってまた一難というところです。そのある会とは「フランス政府給費技術留学生の会」という会で、創立45周年の記念誌に"留学の思い出"など書くよう依頼されたのです。話せば長いことになりますが、じつは1965年に会社(KDD)の有難い計らいで1年間、フランス政府の留学制度に乗ってフランスに留学させていただきました。そして会社退職後、この「留学生の会」の役員を10年間務め微力ながら日仏友好のための一端を担わせていただきました。というわけで記念誌への寄稿を断ることが出来ず、遠い空の彼方の雲のような47年前の記憶を掘り起こして駄文を書きました。四苦八苦しましたが、このところ使っていない脳のもみほぐしに役立ったのかも知れません。そんなわけでフランスとは1980年代のパリ事務所勤務を中にいれて1965年以来の縁です。いや64年以来といってもよいでしょう。と言うのもこの年、かの東京オリンピックがあり、これを契機に一人のフランス人と知り合うことになり以来50年ちかい交際がつづいたのです。このフランス人(ロベ-ル・クルア-ル氏)はEBU(ヨ-ロッパ放送連盟)の派遣員の一人として来日したのですが、オリンピック開会直後のTPCの切断という大事故が起きたことにより10日間ほど一緒に働くことになったのです。TPC-米国経由―欧州向け放送番組回線を急遽、数少ない無線回線に移すことになり、欧州各国の放送機関への回線使用時間の割り当てや、切り替えの作業が生じてきたのです。彼は一介の技術者として一手にこの作業を引き受けオリンピック閉幕の日まで働きつづけました。わたしは日本側技術者の一員として彼を援助し、連絡調整の任に当たりました。こんな状況の中で彼と親しくなり離日の際は、何時の日にかの再会を言い交わしました。この時はフランス留学の考えも計画もなかったのですが翌65年、かの地に行くことになり期せずして再開が実現したのです。留学期間中、彼はしばしば自宅に招いてくれたり、職場を案内してくれたりしました。驚いたのは彼の職場に行ったら彼はフランス国立放送の技術運用部長だったのです。彼が自分の大きな机の引出しから出して見せたものがあります。同軸ケ-ブルの断面片を封入したガラスの文鎮とA4の紙片です。文鎮はTPCの開通記念品で別れるとき私が贈ったもので、紙片は彼との仕事中、回線のスイッチング手順等を決めた合意メモで彼とわたしの署名が入っていました。 彼はいたずらっぽく笑って言いました。"この文鎮のケ-ブルの所為で知り合いになれたんだよね。このメモ覚えている? 署名させられちゃったんだ! ほんとにいい記念品、いい思い出だよ。"
 1998年10月、彼は奥さんを連れて来日しました。京都、姫路等を案内しました。一昨年、彼が他界し、つい最近、奥さんの訃報が息子さんからメールで届きました。とても悲しくさびしいです!
 話が暗くなりましたが、元気な友人もいます。デンマ-クの友人です。ご存知の方もいると思います。元GNTC東京事務所代表のエリック・イェンセンさんです。彼が今年4月に来日して10年ぶり旧交を温めました。前回来日の時は奥さん同伴でしたが今度はお嬢さんをつれてきました。彼が東京駐在の頃はまだ幼稚園児だったと思いますが立派なレディとなって現れたのには予期を超えて驚きました。彼とはJASC(日本海ケーブル)開通の時知り合いました。当時彼は旧ソ連のナホトカにいて日本(KDD)とソ連(通信省)との技術上の連絡調整をしていたのですが、電話連絡をしているうちに友達になりそれ以来の付き合いとなりました。話が外国の友人との交遊話になりましたが、自分自身にかえると、最近は遠出の外出が億劫になり、ましてや海外旅行など思いもよらない今日この頃、パリもコペンハーゲンも遠くなりました。そこでもっぱらパソコンに向かってネット検索で昔のシャンソンやカンツォ-ネを聴いたり、そして歌ったりしています。ネットのおかげで日本では歌われていない曲に出会ったり、その曲の由来を知ったりできる楽しみがありますね! 歌を唄うのは少しばかり頭の体操?肺の運動?になるかも...また感情をつかさどる脳細胞のマッサージになるかな?...なんて、ろくに運動もせず"歌舞音曲のたぐいにうつつをぬかしている"と冗談にでも言われそうな日々を送っている自分をジャスティファイしています。以上、後期(高貴?)高齢者のたわごとでした。 
    Bonne Année 2013 ! et Bon anniversaire !        以上

 

 

 

 


 

3. 高宮 孝一 さん (1月3日生まれ)

 アラカンと言われる五十九歳の三月、前立腺肥大のため体調を崩し、定年前に転籍先を退職した。 仏教では「阿羅漢とは、尊敬を受けるのにふさわしい人」とあるが、退職後も、夜中も眠れずに悶々としていた時に、子供に進められて似顔絵を始めた。
 子供の頃に「イガグリくん」や「赤胴鈴之助」等の漫画の主人公を描いて、褒められたのを思い出した。しかし、最初は余り似たものは描けなかった。
 ただ、前立腺の手術が成功したのを機会に、川口市内や田舎のお祭り等でリピータを増やすために、来訪者の写真を撮り、翌年に似顔絵を描いて差し上げることにした。
 以来、親の介護に伴う関東・関西の往復、国内外の旅先、KDD同友会等でも お世話になった方々の似顔絵を描かせて頂いている。そして、手交またはインターネット、郵送等で送付した似顔絵は五百枚余りになった。
 写真とは異なり、似顔絵を描く過程を含め、いろいろな記憶が蘇ってくる。時間がある限り、喜んで戴ける人がいる限り、これからも似顔絵描写を継続してみようと思っている。

 

 

 


 

 

4. 田渕 紀一 さん (1月22日生まれ)

近 況


 1940年1月22日生まれなので、この1月で73歳になりました。 2000年3月にKDDを定年退職して13年目になります。 定年を契機にして、W大学オープンカレッジや地元のシニア大学などに入って、意識して今までお付き合いのなかった人たちとの交流を始めました。 いろいろな職務経歴を持った多彩な人たちとのお付き合いは、私とはものの考え方や行動の規範などが大きく違って戸惑うことも多かったですが、文化の違いを痛感しながらも、得難い友人がたくさんできました。 大学や地元の人たちとのお付き合いに加えて、KDDのOBで構成している「京浜東北沿線会」や、現役社員とOBで構成されている「KDD東京アマチュア無線クラブ」のメンバーとして引き続き趣味を通じての親睦・交流を続けています。特に趣味のアマチュア無線関係では、ほぼ毎年、アマチュア無線とプチ観光を兼ねての海外移動運用を行っています。 昨年末にも12月6日~10日に、KDD、NTT、与野アマチュア無線連合会のハム仲間6人でグアムに出かけて、現地ハムとの交流や世界のハム局との無線交信を楽しんできました。 

    (グアム・サイパンに海外移動運用した時の私/JJ1CDYのハム交信カードなど)

 他にKDD関係で、私にとってとても大切なグループがあります。昭和33年に高卒でKDDに入社して、関東地区の事業所で定年退職した同期生で構成する「燦々会」です。 毎年、夫婦連れで食事会、東京湾納涼屋形船や、有志による台湾、韓国、ベトナム、カンボジアなどへの海外旅行など、親睦行事を行っています。 後期高齢者入りを控えて病気や死亡等によってメンバーは徐々に減りつつあって現在の会員数は17名となっていますが、気持ちで歳をとらないようにみんなで元気に遊んでいます。

 

 


 

5. 吉澤 生雄 さん (1月28日生まれ)

あした天気になあれ!


 日本食が食べたくなった。自転車を借りて、ホテルのベルボーイに教わった「米咲(まいさ)」というレストランに行った。アンコールワットがあるカンボジアの街シェムリアプにある日本食のお店である。食事中に年配の日本人女性が話しかけてきた。 その店のオウナーだった。聞くとは無しに、「数年前に、このお店を開いた。 二十代後半の孫がいるけれど六十才代では無い。」 と話してくれた。若くは見える。 しかし、20代後半の孫がいると言うからには50代ではない。 ということは、70歳代。 そんなお年になってから、女性一人でよくこんな辺鄙なところでレストランを始める気になったものだと半信半疑な気持ちが残った。 KEC財団の開発関連のお仕事で出張した7年前の思い出。
 昨年2月にTV東京の「世界の秘境!日本の食堂」という番組を見ていた。 シェムリアプのその食堂が映し出された。あの年配のオウナー女性が出てきた。77歳になっていた。 医療環境が進んで無いカンボジアの子供を救おうという思いが、そこでお店を始めるきっかけだった。 売り上げの一部を近くの小児病院に寄付していた。若い頃は宝塚歌劇団員の一員だった。タカラジェンヌの面影は片鱗もなかったが、老いても青春、元気そのものだった。 このカンボジアの「がばい婆さん」には及ばないが、 第二の人生を充実させるべくパソコンを友として、少なくとも自分の年齢と同じ数までは訪問国数を増していきたいと、昨年(2012年)3月末に定年退職する時の挨拶メールに書いた。
 退職時に訪問した国を数えると31カ国になっていた。 最初に外国へ行ったのが1980年の夏だった。 海外へ出かける場合は、役員に挨拶してから出かけて行くという習慣がまだ残っていた頃だ。 コロラド州のボウルダーにある英語学校へ行った。 日本から企業派遣の留学生が大勢来ていた。 その中に「お互いにつぶれない会社に入って、良かったね」と話しかけてきた日本人がいた。 長期信用銀行からの派遣行員だった。 20年経った。2つの会社とも無くなっていた。 その行員は、長銀の国有化に伴って退職していた。 退職後は、転んでは起き転んでは起きの人生を歩んでいた。 現在、JASDAQ上場の小さな会社の社長に納まっている。 私が退職する予定であることを知って、監査役になってくれないかと声をかけてきた。
 監査役として、新橋にあるオフィスに出勤するのは火・木の週2日である。 夕方になると区役所から「夕焼け小焼け」の音楽が流れてくる。 夕焼け空に「あした天気になあれ!」と声をあげながら帰っていた日々を遠くに感じる歳になってしまった。 あの頃に比べると、時がはるかに早く過ぎてゆく。 退職後は、自由な時間が多くなるから、子供の頃のように1日が長く感じられるだろうと期待していた。 しかし、予想に反して、あっという間に半年が過ぎてしまった。
 ジャネーの法則というのを最近知った。 60歳の人間にとって1年の長さは人生の60分の1、6歳の子供にとって1年は6分の1。 60歳の大人にとっての10日は、6歳の子供の1日に相当するという。 大人になるにつれ新しい感動が少なく単調になるから、時が早く過ぎるように感じるらしい。 忙しさに追われていると時間の経つのが早く感じる気がするのだが、逆のようだ。振り返ると長く感じるという。
 単調な生活に陥らないようにと、新しい事へ挑戦してみた。 FacebookやTwitterはせわしい感じがするので、ブログを始めた。
   http://light4you2nd.blog.fc2.com/page-0.html

 「青春とは人生のある時期を言うのではなく、心のありさまを言う。 子供のような好奇心をもち、挑戦する喜びをもっていれば、いつでも青春」と詩人のウルマンは謳っている。 しかし、挑戦にはかなりのエネルギーが要る。 そこで、「楽しみを見つければいつでも青春」と超訳してみることにした。 明日天気になあれと言いながら寝床に着く遠足の前の日の子供のように、わくわくする気分をもって明日を迎えようと楽しみを見つけている。 KDDIの株を買ってみた。 外貨も買いこんだ。 うまくいくと新しいパソコンが買える。自分の年齢と同じくらいの数の国を訪問できる資金もできる。 暖かくなったら、パワードグライダーで空を飛んでみたい。 荒川サイクリングロードで満開になった桜並木のトンネルの中を走り抜けよう。 海外にもまだ目を向けている。 カンボジアへ行って、がばい婆さんにまた会えれば元気がもらえそうだ。 カリフォルニアに3カ月くらい住むのもいいかな。 ミャンマーでの美術教育を支援してくれないかというお誘いも来ている。 楽しみがいっぱい。あした天気になるといいね。

 

Happy Birthday (2012年掲載)

Happy Birthday !


11月及び12月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。
この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


11月のお誕生会員:
 富士 暹 さん、鈴木 進午 さん、金澤 修二 さん、吉田 壮五郎 さん、

12月のお誕生会員:
 永田 秀夫 さん、内藤 雅行 さん、山岸 幸子 さん、榑松 明 さん

 

 


  

1.富士 暹さん (11月11日生れ)

 

誕生日を迎える度に


私の誕生日は11月11日です。結婚記念日も11月11日です。 たとえ老齢の身になっても誕生日はそれなりに嬉しいものですし、結婚記念日も人それぞれに忘れ得ぬ意義深い日であるに違いありません。
ところが私の場合、毎年11月11日を迎える度に何とも苦々しくそして恥ずかしい思いを反芻させられるのです。

婚約時代に交わした約束事のひとつに、「ふたりの年齢差がちょうど3歳に達する日に籍を入れ、結婚式もその日に挙げる」という妙なこだわりの項目がありました。
ところが当時の私は、結婚式を挙げた日が戸籍上の婚姻の日だと思いこんでいたため、挙式から13日も経ってから婚姻届提出のために市役所に出向いたのです。そしてそのときになって初めて戸籍法の定めを知るところとなったのです。
家に戻ってこのことを家内に報告したところ、‘勝ち目のない’夫婦喧嘩第一号へと繋がってしまったことは言うまでもありません。

今年の11月11日で満76歳、48回目の結婚記念日を迎えますが、今年もまた「約束を守れなかったことへの後ろめたさ」が私の頭をよぎるのです。
 

 


 

2.鈴木 進午さん (11月18日生まれ)

 

写真撮影を楽しんでいます


鈴木進午です。平成7年3月に旧KDDを定年で退職し現在に至っております。
k-unetをいつも拝見させていただき有難うございます。
現況をよく知る上での貴重な情報誌で非常に助かっております。
これもひとえにk-unet幹事さんのボランティア精神のたまものと感謝しております。
私、昭和37年入社、平成7年定年退職と約33年間にわたり国際通信事業に関与することができ、今でも懐かしく郷愁にひたっております。
在職中は、旧KDDが大躍進しているときで、短波通信、海底ケーブル、衛星通信といろいろな分野に携わり、最後はロシア極東における国際通信事業サービス改善のためインテルサット衛星を用いたサービスを提供すべくウラジオストックに設立されボストークテレコム会社の立ち上げに関与でき現在も同社が活躍していることを耳にし、ほっとしております。(先般ウラジオストックで開催されたAPEC会議でも活躍されたそうです)
これらすべてが諸先輩、同僚等のご指導のたまもので今でも感謝しております。
その後、日本コムシスで8年間お世話になり、現在に至っております。
現在は、健康維持のため、読売写真クラブに加入し主に風景写真で楽しんでおります。
写真を始めた理由は、①歩く②デジタルカメラが主ですので画像処理のためパソコンを利用するので少々頭を使う③会員との議論を通じての会話等です。
反面、最近は毎年行う定期健康診断で軽い生活習慣病等が発見され医者から生活指導を受けるようになってしまいました。
そんな訳で、一人で撮影に出かけるのは一抹の不安がありグループで出かけるように努めております。
写真撮影によって本当に楽しい毎日を過ごしておりますので、今後も健康維持のひとつの方法として続けていこうと思います。
 

 


 

3.金澤 修二さん (11月27日生まれ)

 

ある秋の土曜日(平成24年10月のある土曜日)


 朝6時。いつものように家を出て最寄りのJR駅から電車に乗り、1回乗り換えて目的の駅に着く。駅前はいつものように待ち合わせる人で大混雑。(この駅は巨大テーマパークの最寄駅なので)
 そこからアルバイト先へは徒歩で10分程。ゲートをくぐり更衣室のある建物へ。そこで着替えを済ませ、仕事現場の側にあるオフィスに構内循環バスで移動。出勤の記録を済ませ、その後休憩室で朝ご飯。同僚と雑談をしているうちに時間になり、その日の注意事項等を確認して現場へ移動。
 朝8時、正面のゲートが開き大勢のゲスト(ここではお客様をゲストと呼ぶ)が走って我先にと目的のアトラクションやショー会場に向かう。
私の仕事はこれらのゲストの安全を見守り、併せて行き先の案内等を行うこと。 この混雑が一時間ほど続き、やっとパーク内が落ち着いてきたところで小休止。 小休止終了後また現場へ戻り先ほどの仕事を継続。
 そうこうしている内に午前のショーが大きな海の周辺で始まる。今の時期はハロウィンのスペシャルショーが約20分程の時間繰り広げられる。このショーが行われている間、ゲストが安全に且つ快適に見られるよう会場内に目を配る。
 やがてショーが無事終了。ゲストに何事も無かったことを確認した後、交代で昼食。ここでの昼食はゲストから見えない裏側にある社員食堂で取る。(ここではKDDの社員食堂とほぼ同じ内容(定食、麺類等)
 同じ価格レベルで昼食が食べられる)同僚と雑談をしながらの昼食。同僚の多くは20歳前後の若者なので、ここで最新の若者事情等を仕入れることが可能。食後歯磨き等を行って再び現場へ戻り、午後のショーへの準備を行いつつ、ゲストからのいろいろな要望に応える。いわくショーはどこで見るとよく見えるの?この商品はどこで売っているの?トイレの場所は?気分が悪いんだけど?喫煙場所は?子供が迷子になった、落し物をしたんだけど等々。
 それらに応えていく内に午後のショー開始時刻が近づき、辺りが混雑してくるので交通整理を実施。体の不自由な方には、その状況を見極めて、必要であればそのために設けられたショーの鑑賞エリアにご案内。またお子様には専用のキッズエリアへご案内。そしてショー開始。午前中のショーの時と同じような業務を行い、これも無事終了。今日の作業はこれまでで、引継ぎを終えてオフィスに戻り、反省会を行いこれで今日の業務は全て終了。更衣室に戻り着替えを済ませ、帰宅。(時には同僚とお茶を飲んだり、飲み会だったりはサラリーマン時代と同じ)
 
後記:約6年間土日はこのような生活を送っています。健康であればもう少しやる予定です。
 

 


 

4.吉田壮五郎さん (11月27日生まれ)

 

「スポーツ吹矢」を始め四段に


 11月生まれなので、近況などの投稿依頼があった。9月末に同期会があるので、その模様を報告することで同意したが、なんと台風17号の直撃でそれが延期となった。そこで今年の出来事を中心に近況を綴ります。

 auひかりがやっと埼玉西部まで来たので、早速申し込み、Bフレッツから乗り換えることができた。ただし、光ケーブルのルートを巡り近隣の了解を得るのに3ケ月かかり、ネット拡充の苦労の一端を知った。ギガ得プランでプロバイダーも継続利用でき、電話も問題なく使え、料金も安く なった。

 また、誕生月の半年前に運転免許の高齢者講習の通知が来て年齢を実感した。一日講習で良好との評価を貰った。愛車のプリウスも最初の車検を受け、年間平均1万キロをリッター22キロで走ってくれる。去年は九州一周、今年は東北一周をKDD OBテニス交流会の後ドライブしてきた。あと5年はゴールド免許を継続して各地を回りたい。  

 最近は加齢による脊柱管狭窄症と付き合いながら、老化防止のためテニス、ソフトボール、スキー、水泳などを続けているが、3年ほど前から、「スポーツ吹矢」を始め四段まで進み指導者を目指している。まだ新しいスポーツで全国に普及中で特に関東は会員が多く、来年の東京国体のデモ種目に選ばれた。室内で精神集中と腹式呼吸を取入れた競技で、上達が目に見えるので楽しい。お蔭でこの所風邪などはひかず病院はご無沙汰している。生涯スポーツの一つなので関心のある方はネット検索してみてください。

 また、頭の老化防止に朝日新聞の「天声人語書き写しノート」を求めて夫婦で始めた。1日分約30分位かかるが、文章の暗記と漢字を思いだすのに良いようだ。ただ怠けると何日分もすぐに貯まるので大変だ。

 現役中は五輪中継に携わったが、今年はロンドン五輪で盛上った。そのメダリストのパレードを見に行ったが50万の人出で銀座通りに辿りつけず遠くからの見物となった。

 今年の残暑は異常で秋の訪れが遅れた。地元の曼珠沙華公園の彼岸花も10月になってやっと咲き揃った。そのスナップをご覧ください。以上纏まりのない近況でした。

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日本吹き矢スポーツ協会によれば一日吹き矢20発を発することで5㌔走ったと同じエネルギーの消費量になるそうです。

 

 

 

  

5.永田 秀夫 さん (12月5日生まれ)

 

戦後の国際通信の資料はどこに?


 10年ほど前にSF作家のアーサ・C・クラーク氏の「地球村の彼方」(訳)1993年同文書院インターナショナル出版(同作家の Voice Across The Sea 1974 Harper&Rowの補強版)を読みました。 ご存知のように、この本は最初に発明された電信から、約150年前の大西洋横断海底電信ケーブル、21世紀の衛星通信までの電気通信などについて、いろいろなエピソードを入れて面白くわかり易く書いた本です(訳に少し問題があるが)。 ただ、舞台が欧米に終始しています。
 では、日本ではどうだったのでしょうか?  言うまでもなく、明治の初めから、日本でも電気通信について立派な仕事がされてきたし、戦後KDDでも、多くのブレークスルーがなされたことはご承知のとおりです。しかし、KDDのこれらの資料は、残念なことに、かなり散逸してしまっているようです。 一時、小山の通信センターの横の建物に古い資料が保管してありましたが、どうなったのでしょうか? また、KDDからKDDIに移る時に、図書室の多くの資料が捨てられたと伝え聞きました。残念なことです。

 ちなみに、ごく最近、私はある大学の先生から、1976年の「日中間海底ケーブル」についての資料はないか?と尋ねられました。私はこのケーブルの敷設時にKDD丸に乗って個人的に毎日作業メモをつけていたので、外部に迷惑をかけないという条件で、メモや写真をお貸し、少しは役に立ったようです。日本にも、英国ロンドンの科学博物館のそばにある付属図書館(Imperial Collegeの)のように、膨大な資料を集めたところがあるとよいのですが。


 

 


 

6.内藤 雅行 さん (12月8日生まれ)

 

 昭和8年12月8日生まれ79歳、奇しくも天皇陛下と同い年ですが、第二次世界大戦の始まった日と誕生日が同じになりました。そして、これも又偶然ですが姉の生まれた日が8月15日の終戦の日と同じなのです。 それがどうしたと言われますと「それだけです」としか言えませんが、生まれる日を指定することは何人と言えども出来ませんし、まして、その日に歴史に関わるような出来事がおきるなんて想像することもありませんよね。
齢を重ねると年毎に健康のことが心配になります。成人病と言われる高血圧や糖尿病等々の対応を迫られることもあるでしょうし、何となく体力の衰えを感じることもあるのではないかと思います。小生も、ここ数年来、高齢者健康検査で高血圧と診断されてから、毎日朝夕に血圧降下剤を飲んでいますが、小康を保っているというだけで薬を止めても好いことにはならないのです。
 昨年の、夏頃から手、足に痛みと痺れが出るようになり歩行も10分くらいで休まなくてはならないようになってしまいました。最初は整形外科で痛み止めの飲み薬と湿布を出して頂いたりして診てもらっていましたが、あまり芳しくないので紹介状をもらって脳神経外科を受診していろいろと検査を受けたところ、「脊柱管狭窄症」と診断され手術を受けることになりました。そのお蔭か今のところ痛みも痺れも無くなり、これっという障害もありません。
 下手なりに楽しんでいたゴルフや、健康維持と皆さんとお会いすることが目的で参加していた友歩会もご無沙汰続きになっていますが、段々に身体の調子が良くなりそうなので、もう少し様子を見ながら参加を検討してみようかなと考えています。
 どうぞ、皆様方も健康に留意され、お健やかにお過ごし下さいますよう心よりお祈り申し上げます。

 

 


 

7.山岸 幸子 さん (12月21日生まれ)

 

 1998年に退職してもう14年になります。時々、在職中のことを懐かしく思い出しております。結構長く同じ職場で働いた仲間の方たちとも退職以来、殆ど連絡を取り合うことはありません。同僚というのはそういうものなんだなと思ったりしている時に同期の友人からこちらの会のことを聞き少しでも皆様の情報を知りたいと思って入会しました。
 入会して間もなくパソコン研修会開催のお知らせがあり、メールしかできない私は早速参加してみましたが非常に高度な内容でついて行けませんでした。個別にも教えて頂けるそうなので引き続きパソコン操作の習熟に努めたいと思っています。
 在職中は主にオペレータ業務で外部の人たちと直に接する機会が少なかったので、退職後は近隣の方たちとの交わりを大切にしようと心がけています。それでホームヘルパーや傾聴ボランティの資格を取ってしばらくお年寄りのお世話をさせて頂き自分の未熟さを教わりました。今は日本語講師のボランティアをしていますが、教えることの難しさを毎回思い知らされています・・
 外国の人に日本語を基礎から教えるだけなのですが教え方の工夫と根気が必要なので自分の勉強にもなります。
 趣味の内で一番の楽しみは仲間とのテニスです。間にブランクはありますが、もう10年以上やっているので上手になっていいはずなのですが中々思うようにはできません。最近は体力の限界を感じるようになり何時まで続けられるかなと夫と話したりしています。これからも健康で楽しく過ごしたいものです。 

 

 


 

 
8.榑松 明 さん (12月23日生まれ)

 

元気について


 「元気」という言葉が好きです。幸せと感じる喜びに接したときに、心身の活動の源となる元気を感じます。最近の私の元気の源が3つほどあります。 1つ目は、スマートフォンの出現によって、音声の認識や音声の翻訳が長い年月の多くの人の研究を経て広く実用になってきたことを見て、昭和36年にKDDに入社以来パターン認識や音声認識の研究に入りこれを続けて、人間の役に立つことに係わってきたことにひそかな喜びを感じます。
 2つ目は、国内旅行をして自然に接して大いなる元気を得ることです。ここ数年毎年10月に裏磐梯方面へ家族と旅行し、トレッキングをして自然の美しさから元気をもらっています。今年は、安達太良山に登ってきました。

 3つ目は、70歳を過ぎてあるきっかけから日本の伝統芸能の良さに魅せられて、家内と歌舞伎や能狂言を鑑賞することであります。最近では、中村吉右衛門の「河内」の舞台で円熟した演技をみて幸せな心持になりました。能は毎回続けてみていると良さがわかってきて、10月に「大社」の舞を見て優雅な良い実演を見たという満足感を覚えました。
 引き続き目標をきめてつぎの元気を得るようつとめています