長寿会員からの投稿 

 

~ 百寿のつぶやき ~
 
① 袖触れ会うも 多少の縁

遠藤榮造
(2022年8月吉日)


当老人ホームのウッドデッキの花壇は、新たに朝顔などの蔓類をプランターで育て始めた。蔓を這わす網には既にゴーヤの大きな実がぶら下がり、黄色く熟し始めたのもある。大輪の朝顔の開花が楽しみだ。さて、永い人生はご縁の固まりしょうか⁈

 既に申し上げた通り、小生は東日本大震災の直後の1911年4月末から当老人ホームに入居して、現在は102歳になるところだが、長生きを期待していた訳でもない。子供達には吾ら老後の面倒を余り掛けたくないと云う単純な思いからであったが、うまく行き過ぎた感じ??? 老人ホームは10年も経つと老人は一層老人らしくなり哀れを覚える一方、新規入居者もありホームの景色も変わってきたように思う。

 

  このマンション街と甲州街道との間に国立二期校の電気通信大学があり、老人ホームの環境としては悪くない。大学は有名校ではないが、電気通信と云う点では当方が務めてきた会社に極めて近い存在。事実、同大学の国際法担当教授とは国務省でのインテルサット協定審議の会議でお会いすることもあった。
 新しい宇宙国際法は当時学者の格好の研究対象のようであった。当方との関係では、衛星通信の始まり頃の経過・問題点をポケットブックで刊行したことがあり、同教授から会社を通して講義(毎秋3時間ほど)を頼まれたことがあった。なお、この種のポケットブックは、関係企業が買い取るほか、一部は官報販売所に卸されていた。多分教授の指示でこの小冊子を学生にも読ませるため、大学の生協が印刷所と購入の交渉をしたようで、結局残り少ない部数を生協が買い占めたようだった。本の内容が当時の話題を扱っていただけに買い占められて印刷所も他からの注文に応じられず困ったようだが、増刷は困難と云うことで売り切れになっていた。著者の小生も手持ち僅少で困った。懐かしい思い出⁈だし大学とも大切なご縁であった。
 この老人ホームに入居してから大学での講義のことを思い出し、キャンパス内の近道を利用して駅や付近の繁華街にアクセスしたり、時には大学の講堂で開催されるコンサートにも入場させてもらったこともある。小生はこの辺りにご縁があった訳だ。住環境としても余り悪くなかったのも入居を決めた大きな事由であろう。
 なお入居してからは、大学構内通行等のほか、特別な関係はない。ホームでの新しい生活に追われていたと云えようか? 

 この様なご縁は何時しか忘却の彼方へ‼である。ご縁にも色々のケースがあるのだろう⁈ 

シニアーカーのブレ―キ故障のため、レンタル・カートを運転中!

 

 

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 長寿会員からの投稿 

 

私の2年遅れの
卒寿祝いの写真
(「新宿シネマ研究会」 のメンバーと)

樫村 慶一
(2022年4月吉日)


 自分の写真なんか送るのは面はゆいのだが、金色の烏帽子、チャンチャンコを着る人は、KDDマン多しといえども、そんなにはいないだろう、と勝手に想像して、羨ましがらせてやろう(冗談)と思って投稿します。
「新宿シネマ研究会」のメンバーの構成は、KDD・OB、ラ米音楽評論家、日動火災OB、カワハギ釣り会長、保険代理店経営、電気技師,、劇作家、農水省役人、ギタリストなど多彩。後列左から3人目の女性は、息子が前の駐日ウルグアイ大使の娘と結婚している、日本でも知られる、清貧の大統領ムヒカさんとは親戚になる人。入会希望者は反社会的勢力に属する人と政治問題を持ち込む人を除いて自由です。

 

 

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2021年度の投稿

遠藤榮造さんの投稿 

百寿の追加のお話

前編  後編①   後編②   

  

 

 

 


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百寿の
追加のお話
(後編 ②)  対外業務を担当

遠藤 榮造
(2022年3月吉日)


 ポトマック桜満開の頃、ワシントン国務省でのインテルサット協定が纏まり、今度はインマルサット(海事衛星)関係の会議が英国ロンドンで持たれるようになった。小職は、本社の指令でワシントンからロンドンに飛び、第1回インマル政府間会議(1975年4月)に出席。外務省からの顔ぶれとも再会、旧交を温めることが出来た。インマル条約が採択・調印されるまでは当然外務省が日本代表の会議になる。

 さて、インマル会議がロンドンで開かれたのは、まずは国連専門機関の国際海事機関(IMO)本部がロンドンに置かれていること。特にIMOは、インテル衛星通信が実用化されたことから衛星通信を船舶との連絡改善や有効活用について早くから研究を進めており、関心も高い。

中央の大型レドームはテレビ受信用。
小型が通信用(電話・インターネット等)

 同じ衛星通信だが、インマルは世界の海を航行する船舶を対象に提供する衛星通信で、舶側の送受信設備が、固定通信の場合と異なり、技術的に船舶特有のもの。主な特徴を挙げれば、①船舶は小型アンテナ(直径1m余りのパラボラ型アンテナと駆動装置をレドームで保護)を搭載し、静止衛星を中継して海岸局地球局(陸上局)から相手方の端末に繋がり各種の通信(電話・FAX・インターネット等)を送受する。またクルーズ船等にはテレビ用の大型アンテナ(CSバンドなど)も搭載する。②舶船のアンテナは見通しの良いトップデッキに搭載し、船舶の動揺・方向転換などに対応できる自動姿勢制御方式を採る。③船舶の安全運航のための遭難・安全通信機能を船~陸間で自動化している。

 このようにインマルは、メカニック的に複雑であると共に、海に関わる法規制として、例えば「海上における人命・財産の安全条約・関連規定等」の改訂整備も必要となり、サービス開始はインテルに遅れること10年余の1982年になった。もっとも、ESA(欧州宇宙機関)はロンドン本拠・IMOの衛星システムとの意気込みから、インマルの宇宙部分(衛星と地上コントロール=TT&C施設)の構築等を進めてきたが、技術的問題でスケジュールに間に合わず、結局米国で運用中のマリサット衛星(米国内用海事衛星だが、試験的に他国の利用にもオープンにしていた。)をリースして、インマル・システムを構成した。つまり、米マリサットをINMARSATに吸収する形でグローバル化に発展したと云えよう。

 

 以上見る通り紆余曲折もあり、インマルの準備には時間を要した。海運国を初めとする関係者の会議が、ロンドンを皮切りに、ヨーロッパ各国で開かれた。IMO本部との関係もあり、当初はロンドンが中心であったが、英国各地(ホストは主管官庁のBPO)でも開かれ、ボンマス等の有名な港町を初めとし、茅葺屋根の風情を残すイギリスの田舎町など珍しいところでも開かれた。

サンクトペテルブルクの
エルミタージュ博物館

 会議のホストを2回も引き受けたのは熱心な海運国ノルウエー主管庁であったが、また珍しくも当時のロシア海上保安庁が、有名な「エルミタージュ博物館」等のあるロシア第2の都市「サンクトペテロブルグ」に会議を招聘した。ここは戦前「レニングラード」で知られ、市名が戦争映画の題名にもなったので、ご記憶の方もあるでしょう。激しい市街戦で綺麗な都市は全壊、結局冬将軍のお蔭でロシア側が生き残り、南軍は退散と云う象徴的な結末⁈であったと云う。

 ところで、日本は1879年(明治12年)にGNTCの助言・当時のロシア政府の紹介で、セントピータースブルグ=現在のサンクトペテロブルグ=万国電信条約に署名・批准して同条約の正式メンバーになった。つまり、日本はこの時点から現ITU(国際電気通信連合)のメンバーになった訳だ。 

 

 さて、小生がインマル会議でロンドンにお邪魔していたころKDDロンドン事務所長に、小関康雄氏が赴任、随分とお世話になった。忘れられない思い出も多い。丁度この記事を纏めていたとき小関氏の訃報メールに接した。遅ればせながら、哀悼の辞をK-unetのお悔みページに掲載して貰った。

 実は、小関所長の肝いりで、小生妻と共にお邪魔したことがある。本社の許可を得て二日間ほど休暇を取りウイーン観光にでかけた。タクシーで大伽藍の教会から小さな喫茶店まで見どころを楽しんだ。妻の思い付きでウイーンの森からドナウ川を見に行った。タクシー5分ほどで土手下に到着、水量豊に滔々と流れる大河。タクシーを待たせておいて土手に駆け上がったら、運転手が慌てて追いかけてきた。流れに飛び込むとでも思ったらしい。かつてライン川下りを楽しんだこともあるが、ラインは北海からヨーロッパ大陸を東に流れるが、ドナウは東の黒海から流れ出て大小の河川と繋がりヨーロッパ大陸を西に横断。川の様子は可なり違うようだ。地図でご覧の通り黒海の辺りは急峻な地形。また、黒海の東側にはカスピ海を見るが、両方の内陸海の間が4千メートル級の高地(コーカサス山脈又はカフカフ山地)になっている。

 

 その後、黒海方面に仕事のご縁があり、1979年10月小生は技術専門家と二人でモスクワとカスピ海に突き出した半島にあるアゼルバイジャンの首都バクーに出張したことがある。出張目的は纏めると二つ。

 その①は、ソ連の通信衛星システム(インタースプートニク)理事会のバクー会議にオブザーバーとして招請されたこと。因みにソ連の衛星システムは先刻ご存知の通り、インテルサットと同様の赤道軌道衛星を利用するもの、と南北に回る準極軌道衛星を使う方式があり、必要に応じ切り替えるようだ。このようなソ連システムの理事会からKDDに参加招請が行われるのは数年前からのことで、衛星通信調査室で対応してきた。なお、KDD以外にもオブザーバー招請されている模様で、時にインテル事務局長等と、この理事会でお会いすることもあった。

 ところで、この出張が思いがけなくもソ連のアフガン侵攻作戦の時期にぶつかると云うハプニングに遭い、当然ながら吾等の旅程は少なからず影響を受けた。話が長くなるので結末から言うと、ソ連のアフガン侵攻により翌1980年のモスクワ・オリンピックは西側諸国のボイコットするところとなり、東西関係が緊迫した様子はご記憶と思う。

国技館の大相撲初場所
(グルジアの栃ノ心が活躍中)

 吾等は、成田からヨーロッパ行きの航空機をモスクワで乗り換え、別の空港から南行きの国内便でバクーに向かったが、侵攻作戦の影響でバクー行きが隣国グルジア「注」の首都トビリシに不時着になった。吾等は翌日の航空便でコーカサス山脈を越えてバクーに入り、会議には1日遅れの参加になった。オブザーバー資格で特に発言を求められることもなく、英語の通訳を通して挨拶、また進行状況を見学した。珍しかったのは、会議の要約記録の採択を署名式と称し、乾杯が行われるロシア式⁉の締めくくり、初めての経験であった。なお、週末のバス見学会は予定通りで、近くの「拝火教遺跡」などの珍しい見学が出来た。

 「注」グルジアは現地読みの国名で、最近は英語読みのジョージア(アメリカの州名と同じ国名)が多用されるようだ。トビリシはその首都で黒海のリゾートでもあると聞いた。なお、ご存知のように、この国からは大相撲の大関で優勝経験のある「栃ノ心」が今も日本で活躍中。そのような影響もあり、大変な親日国のようだ。また国際的には、NATO(欧米)寄りと云われる。

 

 その②は、1980年のモスクワ・オリンピックに関する打ち合わせ等であったが、ソ連のアフガン侵攻により、既に述べたように西側諸国はオリンピックに不参加となり、我々の打ち合わせも中止になった。なお、このオリンピックはソ連圏のみで予定通り開催されたようだが、次のオリンピックはソ連側がお返しのボイコットをしたと聞いている。

 さて、吾等のバクー理事会参加は1日遅れだったが、議事開始前に、近くのソ連共産党本部に挨拶参りを行うと云う手順があり、違和感を覚えた。理事会が開かれたアゼルバイジャンの首都バクーは、カスピ海南部に突き出た半島にあり周囲の景観が良く見えた。カスピ海にはオイル・天然ガス掘削の櫓が林立し、海底からの採掘が盛んなようだった。なお、掘削原油を需要地に送る油送管は欧州方面にも延びているとのこと。また、カスピ海では、チョウザメが採れるようで、その貴重な卵・キャビアの産地としても有名である。

 さて、アフガン侵攻を契機にソ連経済は混乱の道をたどった様で、当時を思い起こせば;早速吾等のモスクワでのホテルは、朝食に米ドル払いが要請され、1ドル均一で、黒パンとソセージが配られた。結局、上記の通りモスクワでのオリンピック問題打ち合わせは取り止め。ソ連側の案内には幹部(共産党員?)が対応して呉れたようで、テレビ塔の個室で昼食をご馳走になった。因みに、このテレビ塔(オスタンチノ?)はモスクワ郊外にあり、入口付近の説明板によれば;塔の高さ500メートル・永久凍土を利用しているので地上には構造物は殆ど見えない(つまり、テーブルの上に鉛筆を立てた格好)。塔の窓からは大きな氷柱(つらら)が垂れさがり見晴らしは良くなかった。さて、ソ連邦はその後当然の如く崩壊した。つまり、1990年ゴルバチョフ大統領が手際良くソ連邦を解体し、ロシア連邦共和国に衣替えした。これにより同大統領は、その年のノーベル平和賞を受けたことなど、ご記憶の方もあるでしょう。しかし、ゴルバチョフ氏によるロシア連邦共和国の発足は、半世紀にわたる冷戦はソ連の負け、と云うような不協和音が西側から聞こえ、ノーベル平和賞に水を差すような場面⁈もあったようだが、それから30年を経た今日のウクライナを巡るロシア・NATO(米欧)間の対立にも繋がっていると見ることも出来ようか!? 

 なお、10年ほど前?になるが、ウクライナ南部のクリミヤ半島にロシアが侵攻したことだ。ソ連時代から軍港施設などが置かれロシア色の濃い土地柄と云う。

 

イスタンブール市内
手前がボスポラス海峡

 さて、その後小生はKDDを退職、2000年頃から金婚旅行として妻と海外旅行を楽しんだ。その中でのトルコ旅行は、特に黒海を巡る問題を思い出させる。その旅は黒海の南側の観光地、例えば塩湖や奇岩群の洞穴(カッパドキア~今では鳥の巣⁈)・商隊宿(ラクダ等による旅の時代の宿泊所遺跡)或いはローマ時代の古代遺跡(広い円形劇場や図書館・公衆トイレ=道路の片側に便器が並ぶ)等の珍しい遺跡などを回る4日間のバス旅であった。改めて地図を見ると、トルコの世界遺産アヤソフィア大聖堂・トプカプ宮殿等で有名な観光地・イスタンブールは、黒海からボスボラス海峡を南下して僅かに31キロ。更にマルマラ海(10キロ)を渡れば、黒海から地中海までは40キロと近い。黒海にはロシア等沿岸国の軍事基地もあると云う。特に前出の通りクリミヤ半島(黒海に面する)には既にロシアは侵攻し、今回はNATO寄りのウクライナ全体に対し軍事行動を強化したようだ。ロシア・プーチン大統領は、ウクライナのNATO(欧米)寄りに反対で、少なくとも中立化を求めているという。この紛争では、両国大統領とも強固な姿勢で、最近の情報では両国とも所謂「義勇兵?」の募集を初めていると云う。

 かつて私どもが、旅行で見聞した上記のボスボラス海峡は、ロシアやウクライナともに海上の重要な通航路である。敷衍すれば、海峡には既に橋やトンネルが構築され、アジア側との連絡は便利になっているようだし、また海峡自体の追加工事も行われると聞く。ご想像の通りトルコは、かつてヨーロッパ連合(EU)に加盟を申し入れたことがある。生活面は西欧的だが、根はイスラム国のこと、加盟は未だ実現に至っていないようだ。しかし、トルコは海峡の通行については、何らかの規制措置を必要としており、その権限を確保したい意向のようでもある。当方は旅行中に宮殿ホテルと称する宿に1泊し、食堂のベランダから海峡の速い流れを眺め、今後の政治的行方を思いながら朝食をとった。なお、2階の宮殿見学は、残念ながらガードマンに阻止され無理であった。

 ところで、最近の報道によれば、先日(3月下旬頃)には、トルコのエルドアン大統領の仲介により、ロシアとウクライナ両代表団による停戦協議が持たれたと云う。つまり、ロシアが要求するウクライナのNATO寄りに変えて中立化すること。これによりロシアは撤兵する。これらの具体的手順や検証などについて更に協議を進めると云うことのようだ。

以上

ー 閑話休題 ー
 話は変わるが、最近の新聞報道などでご存知の通り、スマホ等を含む携帯システムの更新が進むようだ。既にKDDIは、auシステムのG3サービスを3月末で停止すると発表している。その他のケイタイ事業者も同様の方向に進むものと思われる。
 小生はau/KDDIの所謂ガラ系の古い携帯を使ってきたが、先日auから、携帯システム全体が更新される関係上、利用者個々の端末も取り替えるとの案内があり、小生のガラ系端末もG3からG4に更新(無料)された。この更新申し込みは電話でも行われ、本人確認のため、直接電話口で生年月日と現住所をお伺いしたいとのことであった。申し込み後「101歳の方のお声を電話で初めて聞きました」との感激のようなコメントが返ってきた。小生の101歳が珍しかったようだ。
 切り替え後のガラ系「G4」は通信の速度・容量共に格段に改善され、特に音声が明瞭になったのは有り難い。これから「取説」の勉強です。

 

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 遠藤榮造さんへのメッセージ

 

「101歳の方のお声を電話で初めて聞きました」,その御声をk-unet上でも
 
遠藤榮造大々先輩の、「101歳の方のお声を電話で初めて聞きました」との話、感激しました。k-unet上でも、先輩の御声が拝聴させていただけると良いですね。
掲載していただいた御写真のグルジア(ジョルジア)出身の栃ノ心で思い出しましたが、ジョルジア出身のピアニストで、EUとウクライナ連帯にも活躍しているKhatia Buniatishvili(カティア・ブニアティシュヴィリ)の演奏が素晴らしいです。
https://youtu.be/_yOSweFsmO0
https://youtu.be/PY9Q7dPVsR4
2022/07/31 伊藤 英一

 

▲ INDEX

 

 


 長寿会員からの投稿 

 

百寿の
追加のお話
(後編 ①)

遠藤 榮造
(2021年12月吉日)

新年オメデトウ
・・・各位のご健勝・ご活躍をお祈り申し上げます。


 老人ホーム遊歩道の花壇に成長しているハナミズキの新芽が萌えてきた。水仙の白・黄の花びらが爽やかに群生している。最近南アフリカで「オミクロン株とか」有り難いようなお名前の新型コロナウイルスが発生!世界に広がりを見せ、3回目のワクチンが騒がれている。今年もコロナ禍は依然落ち着かない情勢のようだ。昔読んだ小説「地球がウイルスに占領される」と云うのを思い出してぞ~とした。

広島の原爆碑 ~ 碑文に注目
総務省のホームページより)

 前編で、小生は1953年4月KDD本社に入社したことを述べた。私個人的にも原爆で本家(伯父一家)が全滅し、広島を離れたことは一つの決断。世の中の大変革に対応した積りだが! 最後にもう一度、原爆モニュメントにお参り、犠牲者の冥福をお祈りした。 被爆者名簿を収める所謂「石棺」には新たに碑文が刻まれていた「安らかにお眠り下さい。過ちは繰り返しませぬから!」と意味深な言葉に注目した。因みに、この碑文は2008年のG8広島開催の際に採択されたようで、8か国語にも翻訳・掲示される。碑文の解釈は「世界的な不戦の誓い」と云うことのようだが、原爆投下から半世紀も経つと状況は変わるものだと驚いた。人類史上初の原爆を広島に投下したのは、日本の神がかり的な主戦論を止めて、無条件降伏に導くやむを得ない手段と云うのが米国側の主張・論調であった。これに対しわが国としては原爆投下が人道に反する暴挙だと反発した。が・・・反面戦争を終わらせたアメリカ・連合国側に感謝せざるを得ないとも思った。何と言っても80年前(1941年12月8日)の太平洋戦争に火をつけた日本軍部の誤算・暴挙は悲喜こもごもと云うより、メンツに拘る余り国民を長く敗戦の苦渋に追いやったものと云えよう。上記意味深の碑文がその事情を物語るようにも思えた。
 その後のマッカーサー占領政策は、日本をまさに民主主義国家に蘇らせる流れであったし、日本側にもそれに応え国際派・平和主義陣容が立ち上がっていた。有能な政治家と目されながら海外勤務を託っていた吉田茂氏が駐英大使から帰任。直ちに日本自由党(現・自由民主党)に復帰。内閣総理大臣を5回(凡そ10年間)に及ぶ戦後処理政治は見事なものであったし、サンフランシスコ講和条約・国際会議を自ら演じて日本を平和国家の1員として復活させる等々、国の舵取りに大成功。国葬で送られたことからもその功績が頷ける。

 さて、降って小生のKDDでの配属先は営業部周知販売課と決められていたが、課長から「1週間もの赴任の遅れ」に苦言を頂戴した。がその時、言い訳の余裕もなく、初対面の福田耕(たがやす)専務(当時専務は会社No2)から「急用で2・3人手伝って貰いたい」と の申し入れで、首相官邸に連れていかれた。
 専務からの急用の事情は、「二・二六事件」で知られる岡田啓介元首相の3回忌の法要が官邸で開かれ、その手伝いに駆り出されたと云う次第。二・二六事件はご存知の通り近衛師団の1部若手将校が昭和11年2月26日に起こしたクーデター。狙われた岡田首相は当時の首相秘書官の福田耕(KDD発足時の専務)の機転で助けられ生き残った。なお、岡田総理は海軍大将でロンドン軍縮会議の代表を務めた国際派である。その後は昭和天皇の重臣として、終戦への道筋をつける等尽力したと云う。そして1年前に数奇の人生を閉じ、その3回忌の集いが当日、首相官邸1階大広間で要人友人が参集し開かれていたと云う次第。参会者の挨拶が続く中で、注目を集めたのが吉田茂前総理の挨拶。前国会末(1953年2月)社会党議員との論戦がこじれて所謂「バカヤロー解散」となり、前列の報道陣に吉田総理からコップの水が掛けられたと云う。今回も!?と、近くに陣取った報道陣は戦々恐々であったとか・・・・。一方、吾らお手伝い組は福田専務の計らいで、広間の一角でランチが振舞われ、入社早々に小生は、首相官邸や有名人の様子を目の当たりにして、周知販売課の仕事も面白いなぁと感じた。
 入社早々の出来事で福田専務のプロフィルを紹介したが、KDDのトップ・澁澤敬三・初代社長についてもエピソードを含めて思い出が多い。いまNHKテレビの大河ドラマ「青天を衝け」で澁澤栄一氏の生涯を放送しているので、ご承知の通りだが、敬三社長は栄一氏の孫に当たり、顔つきも、経済界での活躍振りも栄一氏に良く似ているように思う。敬三社長は、大蔵大臣・日銀総裁・主要銀行頭取など経済界のトップを歴任、栄一氏に請われて子爵を継いだ貴族(注;栄一氏は若くして夫人が病死、再婚と云う事情の中で社会的地位は孫の敬三氏に譲った)だが、先刻ご存知のとおり、戦後の憲法では天皇を象徴として皇室関係は別格。一方新憲法では「国民は法の下で平等」との原則で貴族制度を廃止している。なお敬三社長は、民俗学にも造詣が深く、自費で研究所や博物館を創設・運営していた由。勿論KDDの経営においての功績は大きく、初代社長から会長を含めて足掛け10年余にわたりKDD発足時の舵取りを務めた。ご存知の通り、KDDは法律で設立された株式会社形態の特殊会社。つまり、戦後復興期のわが国貿易立国の脈絡を担い身軽な企業形態で活躍が期待された訳だ。

大手町総合局舎
~電信電話の関門局並びに本社が置かれた。

 KDDは設立間もなく米国側と協力して太平洋地域での衛星通信の導入を図った。KDD総合局舎(大手町ビル)の稼働とほぼ同時期に恵比寿に本格的研究所も開設し、また米側太平洋岸西岸の地球局に対応する実験地球局施設を茨木の太平洋岸近くに建設する等、先端技術の導入推進にも社長の積極的関与・顔の広さ等を挙げることができる。

 余談になるが、敬三社長の祖父・栄一氏については、小生の住居地「狛江市」にもご縁があったので一言紹介しておこう。ご存知のとおり狛江は、小田急線の多摩川鉄橋手前の3駅(喜多見・狛江・和泉多摩川)に跨る地域の小さな都市(人口8万余)。その川岸に、江戸後期の文化2年=1805年に老中・松平定信が「万葉歌碑」を建立したと云う。この碑は文政12年(1824年)に当時の大洪水で流されたが、定信の肝いりで再建されている。歌碑は万葉編者の大伴家持が詠んだとされる東歌:「多摩川に晒す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき」と万葉仮名で刻まれる。万葉の乙女が手作りの布を多摩川の流れに晒す愛らしい様子を詠んだものであろう。その後も歌碑は暴れ川(当時の不十分な治水工事)の災難に度々遭ったようだが、関東大震災の直後・大正13年には街の有志により歌碑の顕彰行事が行われ、定信に私淑する栄一氏も狛江に足を運び行事に参加している。碑は川岸の安全な小公園に移され、栄一氏の講話や多額の寄付などもあり盛会であったと云う。なお、狛江駅前広場には,万葉乙女をイメージした女性像が立つ。ご存知の通り小生10年ほど前から調布市にある有料老人ホームに入居しているが、多摩川の流れが狛江とつながる調布にも万葉乙女の古事が掲示されている。流れを接する河原で布を晒す乙女が複数いても不思議ではないと思った。
 もう一つのご縁は前編で小生がお寺の座禅会に参加していたことを紹介したが、この座禅会の後は自由な話題の茶話会に移行した。ここでKDDとのご縁の問題を知った。ご存知の通り我が国の電気通信事業は、明治7年(1874年)制定の「帝国電信条例」以来一貫して政府専業として経営されてきたが、国際通信に限っては、民営方式が早くから導入されてきた。小生が狛江に移ってくる以前に国際通信事業に関わっていた会社の事業所が狛江や隣接地に点在していたと云う話である。例えば、無線国策を推進するため、国際電気通信会社を興して通信機材の調達や建設を促進し、更に戦時中は同様の手法で海外での通信施設も賄うことが出来たと云う(例えば:満州電電等)。因みに、狛江から成城に至る旧街道にはNTT学園の広い敷地を見るが、そのような国際電気通信会社の跡地とも云われている。
 このようなKDDの先駆的民営事業については、戦後GHQの政策で、逓信省などの政府事業に吸収され、その後の通信事業再編成でNTT・KDDの体制に整備された経過で、先駆的事業からKDDに移ってきた人材も少なくないし、また特技を生かして新たな企業に衣替えしたケースもあるようだ。勿論KDDには、旧逓信省・電気通信省やNTTから横滑り的に移った職員・役員が多い訳だが、小生のように地方勤務から採用されたのは極めて珍しいようだ。

発足当初に本社が置かれた
「丸の内三菱21号館」

  一番背丈の低いのが遠藤

 さて、敬三社長は、発足したKDD事業の推進に熱意を見せると共に、社員との融和にも意を用いていたことも伺える。例えば、職場の親善野球大会が上福岡(埼玉県)受信所のグランドで開かれ、われら広報関係も応援取材に出かけた。偶々大手町ビルの前に駐車していた社長の乗用車に吾ら3人も同乗させて貰ったが、社長のスケジュールを知っていたのは吾らの周販課長で上司に遠慮のないタイプ。一方の「洒脱な社長さん」も即座にOK。当時としては珍しい流線型のスマートな外車で上福岡のKDDグランドに向かった。課長の無遠慮タイプは、噂では若い時代に外国公館に勤めていたカラーが出ているのではないか?との見方もあり、頷けるところ。
 兎も角、社内の親善野球を取材したところで、早速、課長腹案の周知販売課の仕事の内容や分担について意見交換。周販課はNTT広報からの分割を加えても僅かに10人足らず。課長や古手記者上りの大先輩のNTTカラーは目立つ存在だが、恐らく仕事の様式も似ていたように思う。仕事の目玉は、顧客向けの月刊誌「国際電信電話」(B5判・表紙・グラビアなどを含め40ページ程度)。また、社内向け月刊誌をタイトル「KDD」とした。さらにタプロイド版の社内向け月刊紙の刊行も決まった。課員それぞれが1誌・1紙ずつを担当。小生は取敢えず顧客向けの「国際電信電話」誌と英文のサービス案内パンフレットの作成を引き受けた。英文案内は、課長の得意技で某・日刊英字紙の主筆にチェックして貰えることになり、早速「国際電話のパンフレット案」をチェックして貰った。スマートな修正振りを見て感心!当方としても勉強になる。周知販売課の仕事は、上記のような刊行物の作成の他、新聞記者への対応や一般顧客を含めてKDDの販売品目全般にわたり目配り??を進めると云うことであった。当時は時間外手当等の制度があったかも知れないが、仕事は家に持ち帰ることがと多かったと思う。つまり今日的に言えばサービス残業だ。
 なお、新聞記者との関係だが、時々社長等KDD幹部との懇談会があり、記者担当の周販課からも世話人が参加した。この席で披露される渋沢社長の18番(粋な日本舞踊)は記者の間でも評判、何時も要望される。社長ともなる方は芸事にも優れ、大変だなあ~と感心した。
~つづく~
(後編②へ)

 

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百寿の
追加のお話
(前編)

遠藤 榮造
(2021年7月吉日)

誕生日のお寿司・昼食をとる遠藤夫妻

 先の拙文投稿では、思いを尽くせなかった割に、沢山の星印を頂戴し有難う御座います。色々と疑問・質問を頂戴し、もう少し明確に説明しなければとの思いです。遅くなりましたが、言い訳の追加をお許し頂きたい。

 先ず、大方の疑問点を要約すると「この度の百寿到達は、目出度い限りだが、達成のための健康法?心がけ?或いは秘訣?について知りたい。」と云うようなことであろか? 100歳まで生きるための健康法とか・秘訣などが特にあるとは思わないが、強いて言えば、私の場合は会社の仕事が一段落した70台後半頃から夕方の時間を利用して体操教室に通った。単純に老後の健康を願ってのこと、友人の誘いで入ったのがヨーガ体操教室。インドでヨーガを勉強してきたと云う女性の先生は元々指圧を仕事にしていた由で、一人ずつに指圧を施術してくれながら、教室全体には号令でヨーガ体操(*鼻呼吸など各種呼吸法を含む)を指導。約1時間で指圧とヨーガの二刀流と云うところか?月謝は少々お高めだが、生徒は熱心に受講していた。 次に、近くの禅寺で、夏:冬に早朝座禅会(6時には座禅の体制で座る)を公開していた。欠かさず参禅した。座禅も呼吸法が中心要素の活動(修養)になっていると思った。つまり、修養を重ねるうちに呼吸が安定(自律神経が副交感神経に移る)して雑念を離れ「只管打坐」の境地で、足の痛さも忘れ身体が爽やかになる。大げさに言うと安心立命?という感じ。

 呼吸法よりも何よりも日本を世界の長寿国に押し上げた「健康保険制度!(1950年代成立?)」をまず挙げるべきであろう!つまり医療費の3割(現役・現役並み収入の方)or1割(退職後)の自己負担で病気治療を受けられる。最近は年収200万円の75歳以上に2割負担の制度を新設の模様。 健保制度や呼吸法も長生きの要素だが、小生の場合、更に老齢化後の在り方として老人ホームを選択したことにもあると思う。その事情等を若干振り返えると:―   

  小生は、KDDの発足(1953年4月)で広島から出てきたお上りさん。つまり、国の通信機構改革で、既に半年ほど前(1952年7月)にはNTTが発足していたが、小生は、広島電気通信局において中国5県の国際通信を統括(国際主査)していた関係でKDD本社に採用された(NTT公社が国内通信、KDD会社が国際通信を分担した時代)。

 さて、当方家族5人(小生の母親、吾ら夫婦と子供2人~何れも幼稚園児)であったが、大東京には適当な借家などもなく、当時の転任・引っ越しは大変であった。幸い友人の協力を得て郊外に分譲地が見つかり、小さな家を新築することにした。KDDから厚生資金を借り入れ、広島の退職金等と併せて資金の目途を立てた。

 新居での生活はひとまず順調であったが、母親は老化に伴い寝込むようになり、妻(嫁として)は1年間ほど看病に明け暮れる生活が続いた。当時はまだ病院での完全介護は整備されておらず、医療事情も遅れていた時代。

 吾ら自身の老後を考え出したのは勿論定年を迎えた頃からだが、最近の新聞報道などに「ヤングケアラー(学生などの若者が介護に苦労)」の問題を報じているのを見て、吾らも母親のように老齢化を迎えて子供に苦労は掛けたくないと云う気持ちが強くなっていた。その頃、巷では老人介護事業も漸く盛んになり、施設の改善・多様化が進んできた。当方も老人ホームの見学やお試し入居などにより、種々選択を試みた。結局自宅近くに新設された大手のベネッセ有料介護老人ホームに二人揃って入居した次第。月々の支払等も考慮した積りだが、有料介護老人ホームは入居一時金も必要だし、安い買い物ではない。それでも最近は人気ホームの競争は激しいようだ。吾ら入居10年を過ぎたところだが、家内は心臓冠動脈の難しい持病で時に専門病院等への入院を繰り返している。勿論小生も持病はあるが、お陰で百寿達成の栄に浴した次第。

 

 さて、樫村さんのk-unetでの活躍振りは余りにも有名。残念ながら当方については、殆ど馴染みがないとのお話。当方はお上りさんだから友人は極めて少ないわけだ。それでも敢えて言えば、2000年の通信事業の再編でKDD時代の終焉を迎えたころ、KDD/OBの情報網を何らかの形で残したいとの声が上がり、有志の話し合いに参加したことはある。その際に当方が叩き台に出した会則案やk-unetの名称など。その名称が今も継続しているのは有り難い。もっとも今日のk-unet は有能・賢明な有志により再建されたもので、近代的親睦ネットとして運営されており、ご同慶の至り。

 当方と樫村さんとは年齢的には一昔ほど離れていることもあり職場での交流はなかった訳だが、樫村さんの投稿から推察するとラテンアメリカ方面でご活躍の様子。当方も海外での仕事に追われていたが、ラテンアメリカでの経験は殆どない。一度だけインテルサットの総会で、メキシコシティとアカプルコ方面に出張したことがあり貴重な経験であった。メキシコシティはご存知の通り海抜4千メートルほどの高地に開けた大都会、航空機から降りて駆け出すな!と注意を受けたが、アカプルコはその海岸リゾート。メキシコシティからの航空機はまさに急降下爆撃機?のようだ。そこで同行者と相計り、帰途は途中一泊の帰途は途中一泊の「登り坂」バス旅に切り替えた。登り道は殆ど昔からの石畳みでスピードは出ないが途中に見る風物は高度に従い、草木・風物の様子にも変化が現れ楽しい観光になった。途中南米の桜にも例えられるジャカランダの満開も見られた。信仰に熱いメキシコらしく地震で崩れかけた大きな教会に信者は絶えない。教会のはす向かいに、コジンマリした土産物屋が目に入り、妻はショーウインドウの宝石が目に止まったらしく現物を見せて貰っていた。店員の説明によると「メキシカンオパール」とか!我々一般に知られるオパールは水色に煌めく宝石だが、これは地味な茶色。大きさやカットの出来栄えを含めて百ドルはお土産に手頃と思いカードで購入した。この辺の様子は既に樫村さんの投稿で知られているかも知れない。

 

 さて仕事の話に若干触れるとすれば;小生は主に初期の衛星通信の組織問題で国際会議に派遣された。先ずは米国主催のインテルサット恒久制度(1973年発効)、引き続きインマルサット(海事衛星システム・機構)の設立関係:1975年本社指示で、ワシントンからロンドンに飛び、第1回インマルサット政府間会議に出席。この会議は国連の海事専門機関(IMO・本部ロンドン)主催。IMOは、衛星通信が出現した当初から船舶での衛星利用について研究を行い、問題点を掘り下げていた。その後衛星システムの技術的進歩と共に民間資金(所謂~ファウンド)からの投資も自由化され。また遭難安全通信の自動化システム(GMDSS)も開発されてきた。映画「タイタニック」でお馴染みのSOS遭難呼び出し方式等は衛星に切り替えられて廃止された。そのような技術的・制度的革新の関係でインマルサットの設立はやや時間がかかり1981年。因みに遭難安全問題は、一般条約の所謂「海上における人命・財産の安全条約」の細目改正にまで及んでいる。

 云うまでもなく、上記の政府間会議は外務省の所管(代表は初め頃には大使であった)。KDDからは役員(副社長~常務)が出席。小生らは、日本の大代表団の随員、言わば金魚の糞のようなものだが、それでも会議の記録・報告書の作成等、大変勉強になった。オマケに・・・・・このような会議は小生らの担当が定年後まで続き、KDD参与や関連会社の役員等の肩書で国際会議もカバーしてきた。

 

 余談の追加になるが、国務省でのインテルサット会議は、3年に及ぶマラソン審議であったが、会期中には世の中に変化を及ぼすような重要出来事もあり、例えば;当時の米大統領・リチャード・ニクソンは、国務省での会議進行を励ましながら重要発表の演説を行っていた。その一つは「突然の訪中決定」の発表。世界注目の出来事で、米・中二大国の歴史的交流に繋がった。(今日でも中国との政治状況は複雑。)

 もう一つは1971年8月15日のニクソン演説で、戦後の世界金融を支えてきた「1844年のブレトンウーヅ体制」が変更(所謂、ニクソン・ショック)。例えば、それまではドル紙幣を米国の銀行では同額の金貨に交換して呉れていたが、米国でも金の裏づけを確保できなくなった訳で、世界中の金融体制を根本的に変更する政策に移行。以来米ドル安の傾向が続いて来たことはご存知の通り。なお、ニクソン大統領はご存知の通り、ウオーターゲイト事件で、汚い大統領選挙を行ったとして、結局は議会から追放を受けて大領職を退いている(大統領弾劾決議は避けられていた。)

 

 小生、衛星通信システムに関わる以前に実は忘れられない歴史的!?新型海底ケーブルの事案を担当した。つまり、明治初期に敷設された長崎―ウラジオスト電信ケーブルの近代化である。18世紀に欧米で発展してきた電信ケーブル網は、19世紀半ばにはアジアにも進出。英国系通信企業が南回りで清(今の中国)大陸にも進出、重要都市(例えば、シンガポール・上海等)を結んでいた。これに対抗してロシアが北回りで計画したのがウラジオストクからの電信ケーブル。日本(長崎)への陸揚げは、幕末~明治維新に日・露/デンマーク間の外交交渉で始まった。デンマークの大北電信会社「Great Northern Telegraph Co.(GNTC)」は、ロシアとの特約により、この交渉に関与した。日本側は当時の外交機関である外務卿が担当。日本へのケーブル陸揚げや国内通信路建設などで、多くの提案が先方より提示されたが、外務卿は長崎陸揚げ以外すべて断っている。この旧電信ケーブルの敷設・運用は戦前GNTCが独占担当してきたが、戦後は日本側の陸揚げ施設・ケーブルの運用はKDDが引き継いでいる。

 さて、戦後の新型ケーブルについてKDDは、太平洋電話ケーブルの他に、東南アジアケーブルや多くの案件を抱えていたが、旧電信ケーブルの更新を熱望するGNTCの計画に応えて検討。紆余曲折を見たが両社の意見やロシア側の地理的・政治的事情等により日露間の最短区間としてナホトカ―直江津間に新設、JASC(日本海ケーブル)として1969年に完成している。このJASC交渉は主にGNTC本社(コペンハーゲン)で行われ、小職も随員して参加、合意文書などにかかわった。ロシア側の担当次官(英語通訳帯同)・GNTC社長・KDD副社長の3社代表により、最終合意が確認された。

 中継増幅器を内蔵する新型ケーブルは、電話・テレビ中継等の広帯域分野で活躍。既に大西洋側その他で成果を上げ、当時太平洋横断電話ケーブルの建設も米国(ATT)の協力を得て進めていた。技術進歩は目覚ましく、間もなくファイバー方式や光方式で大容量のケーブル通信を実現している。電話事業の大改革!忘れられない時代だ。

 

 さて前回の投稿で、老人ホームのウ~ドデッキをシニアーカーで散歩中の栄造本人の写真を掲載したが、ご質問を頂いた。

 ウ~ドデッキは言わば構内の遊歩道。土地の形状等にも関係して、ホーム設計当初に色々苦心があったようだが、当ホームのウ~ドーデッキの広さは、南北に長く概ね50メートル・幅5メートル位とコジンマリとした遊歩道。花壇にはハナミズキ3本や草花等が咲き乱れる季節もあり癒される。更にビーチパラソル3基もおいてあり、遊歩道としては些か狭い方かも知れない。なお、この遊歩道の東側は一般の駐車場でホーム側を板塀で囲っている。反対側つまり塀の内側がホームの4階建てのビル施設で、1階には、玄関・受付・事務所の他、ホームの中心的施設である「ダイニングルームやファミリールーム等」が配置される。オープンエアーのウ~ドデッキからはバリアーフリーで硝子戸を通って出入りができる。ホームのイベントや入居者の散歩には重要・手頃な施設である。

以上

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 遠藤榮造さんへのメッセージ

 

百寿およびプラチナ婚をお迎えになり誠におめでとうございます。


遠藤 榮造 様

興味深く拝読いたしました。

k-unet創設の際の名称や会則(案)の叩き台の作成に参加されたとのこと。改めて、諸先輩方のご尽力により成り立ち継続していることに深く感謝いたします。今後の私共の励みにもなりますので、無理のない頻度で投稿を続けていただけたらいいなと思います。よろしくお願いいたします。

2021/07/28 松本 房子

 

 

 

 


 長寿会員からの投稿 

百寿の祝い 
プラチナ婚の続き
(2021年2月・後編)

遠藤 榮造

 

最近の著者
― ウッドデッキをシニアーカーで散歩

 梅のつぼみがほころぶ季節となり、春の訪れが待ち遠しく感じます。

 予想通りと云うか?新型コロナウイルスは新年に関係なく勢力を強めながら、年明けの世界中を驚かせているようだ。一応医療関係の対応としてワクチン問題も含め前進しているのが救いと云えようか?

 昨年・2020年2月のコロナ禍の始まりには、マスクの貿易で一儲け、と云う経済問題から始まった騒動が印象的だったが、兎も角マスクは新型コロナウイルスの感染防止には必需品として急速に世界中に普及した。

 かなり昔の話になるが、スイス観光を楽しんでいたころのこと。ご存知の通り、スイスは国策として険しく美しい山岳地帯を売り物に、氷河特急に代表されるように山岳地帯の交通網を整備し、手軽に山歩きを楽しめるようにしている。山登りの重装備でなく、トレッキングの軽装でもかなりの高山が楽しめる訳だ。 吾ら夫婦も、ユングラウヨッホ、アイガー北壁、モンブラン、マッターホン等3千から5千メートルのお決まり高山の景観を楽しんだ。宿の主人の勧めで好天のマッターホンのトレッキングに出かけた時の話。30~40人乗りの大型ケーブルカーのゴンドラで山頂真下に向かった。可なりの高度に到着したので、外気温との変化を考えた吾らは、降り際にマスクを着用した。その瞬間!!ゴンドラ同乗者の殆ど全員の視線が吾らに向いたのには驚いた。つまり、吾ら日本人などは日常的にマスクを使う習慣があるが、ゴンドラ同乗者(スイス人?・ヨーロッパ人?:因みにスイスには赤十字社の本部もある。)には、吾らのマスク姿が異常に珍しかったのだ。今回のコロナ禍で世界中が色・形とりどりのマスク姿に覆われたのを見るにつけ、当時のスイス観光を思い出して笑い話にしている。

  兎も角マスクが生活の必需品として世界中を覆っていた昨年(2020年)10月25日に小生は100回目の誕生日を迎えて、思いがけず「百寿の栄」に浴した。思いかけずと云うのは語弊があり、実は誕生日の半月ほど前から、早々と総理大臣より百寿の「祝状と銀杯」を、また栄造の留守宅(狛江市)を管轄する自治体の長(東京都知事・狛江市長)からもそれぞれの祝状・記念品が贈られてきた。ご存知かと思うが、これは昭和38年制定の「老人福祉法」により、国や地方公共団体が実施するもので、最近では年間8万件余(男1:女7ぐらいの割合)で全体的に年々増加しているという。お祝いや贈り物は個人的にも親戚・友人等からも頂戴した。立派な贈り物をホームの狭い個室に飾っておくにはスペースが足りない。やむを得なく子供たちに措置を任した次第。

 申すまでもなく、当方の百寿到達は、先ずはわが国の優れた社会・生活環境にあると思う。さらに個人的に言えば、ここ10年ほど当方は、老人ホームのお世話になってきたので、長寿はホームの環境にも預かって大きいと云えよう。つまり、同老人ホームの責任者(ホーム長)はじめスタフ・関係機関等のご協力のお陰であり、特に今次コロナ禍では、その禍に巻き込まれた施設等も少なくないと云われる中で、当ホームは、細心の注意で切り抜け、安心・安全な運営を維持してきた手腕は高く評価されなければならない。

 ところで、今次新型コロナウイルスは昨年1月に中国で発生したとされるが、目下国連のWHOが中国政府の協力を得て現地入りし、発生の詳細を調査中。日本政府は現下のコロナ対策として、コロナ禍鎮静の決め札として、来月7日を期限とする「緊急事態措置宣言」を発した。2月早々の節分の鬼退治と行くかどうか?!?! 

 

 

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 長寿会員からの投稿 

結婚70周年目の
プラチナ婚祝い
(2020年12月・前編)

遠藤 榮造

 
最近の著者

 私ども夫婦は、本年(2020年)の5月で無事に結婚70周年、つまりプラチナ婚を迎えることが出来た。その前の金婚記念(50周年目)には、「金婚旅行記」を出版してお祝いとしたが、さて今回のプラチナ婚では何をお祝いにしようかと思ったが、ご想像の通り、世界中を震撼させている新型コロナウイルス騒動の真っ最中にぶつかり、お祝いどころではない、当方の老人ホームでの生活にもそれなりの不自由さに直面している。なお、当方の老人ホームへの入居・生活状況等については、既に、k-unetの話題としてもお知らせしている通りで、ボケ防止のため時々webを開いて、k-unet各位のご活躍の様子を拝見しているが、今回は当方の近況もお伝えしたいと思い「長寿のページ」にお邪魔した次第。

 金婚祝いに続く今回のプラチナ婚までの20年間の、凡そ後半の10年は老人ホームでの生活と云うことになる。ご存知の通り老人ホームは感染症に対し最も厳しいところで、しかも、今回のコロナ禍は世界中で未経験の感染症と云うことになる。周知の通り、この新型コロナウイルスは2019年12月中国湖北省武漢市で集団発生したウイルス性肺炎(COVID-19)と呼ばれるが、国連の専門機関「WHO」は発生場所などまだ公式の見解を出していないとも云われている。老人ホームに限らず、多くの方々がこの感染症からの試練を受けている今日だが、特に高齢者の集団である老人ホームへの影響が憂慮されている。

 このような状況でプラチナ婚のお祝いは諦めざるを得ない状況であったが、偶々6月6日が家内の誕生日でもあり、ホームの計らいで出前の特注お寿司を取ってもらい、ホームのコーラスグループによる$Happy Birthday$とともに二人だけのささやかなお寿司パーティーながら、「コロナ禍のプラチナ婚祝い」として便乗した。

 さて、新型コロナウイルスの襲来では、どうなることか?!と肝を冷やした方も少なくないと想像するが、まだその脅威は続いており。恐らく有効なワクチンが普及するまでは収まらないというのが一般的見方のようである。

 ご参考までにコロナ襲来時等の当ホームの様子の一端を紹介してみよう。

①  まず、新型コロナウイルスの襲来時には医療関係者は別として、ホーム入居者は、外部との接触を一切遮断する措置がとられた。例えば、美容サロンの職人やマッサージ師、ボランティアの慰問団等の来訪は当面すべてお断りと云うことになった。その後コロナ禍の状況や社会一般の事態の推移等を勘案しながら、数か月も散髪を待った入居者への美容サロンのサービス対応が漸次改善されてきた。例えば「カットサービス」を去る7月から始め、順次時間のかかる複雑なメニューにもサービスが拡大されている。

②  コロナ禍以前のように、家族・保証人などの自由なホーム訪問は未だ解禁されていない。当面は必要に応じてホームの玄関先での検温等身体検査を受けて、届け物の手渡しや短時間の面談が許される方向にある。

③  巷の報道などによると、コロナ禍は目下第3波の最中とも言われ、ホームに家族を迎え入れられる自由往来は当面無理のようで、コロナ禍の不自由には忍耐を要するようだ。医療関係者をはじめ、ホーム運営者のご尽力に感謝し、更なる改善を期待している。

④  なお、老人ホームなどの施設の中には、コロナ禍に巻き込まれたところも少なくないよ うだが、当ホームは関係者の適切な施策・判断のお陰で目下のところは安全・安心を享受している。

以上は当老人ホームでの近況報告だが、以前のように家族の自由な往来は当面のコロナ禍の状況から無理のようだ。 

(前編終わり)

なお、後編(こちら)では、私の百寿到達の報告などを予定します。

 

 

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 遠藤榮造さんへのメッセージ

 

紀寿おめでとうございます。
 百歳を紀寿とも申すそうです。なにはともあれ、一世紀生きてこられましたこと、お祝い申し上げます。遠藤さんとは直接仕事上でご指導頂いたことはございませんが、ご尊顔は良く存じております。私は間もなく(4月1日)91歳になります。70歳の折、縁あって、愛知県”知多半島の半ばにある「野間の大坊」と申す古刹の住職から。”貴方は104歳まで生きる” とのご宣託を頂きました。この住職は姓名判断で全国的に高名な人だと言ういことを後で知りました。その後、大病をするたびに、「俺はまだ死ぬはずはない、104まで行くんだから」、と暗示にかかったような気分で闘病して参りました。遠藤さんのお写真を拝見しますと、顔色もよく、補助器具を使ってとはいえ、自力で歩くことができるとは100歳でも健常者であると拝察いたします。宣託の104まで本当に行けるのか、自信はございませんが、私が人に90歳まで元気で生きる秘訣を聞かれるのを自分に置き変えて、あと10年どう生きるか、その秘訣を遠藤さんにお伺いいたしたく存じます。気がむかれましたら、紙上にてご披露頂ければ幸甚です。ますますのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。ごきげんよう。 2021,2,20  樫村 慶一

2021/02/20 樫村 慶一


100歳おめでとうございます。
100歳でパソコンにてエッセイを記載れる力に感服です。

私も1月に81歳になりました。誕生祝は5色のボールペンです。

遠藤さんはご自分へのプレゼントは何になさいましたか?(鎌田光恵)

2021/02/04 鎌田 光恵

 

▲INDEX
 

 

 


 長寿会員からの投稿 

 

卒 寿 の 記

樫村 慶一

 
2020.4.1
90歳の誕生日の祝い会で
椿山荘・錦水亭

 私は元号が嫌いである。もっとも、昭和時代は極く自然に昭和を使っていたし、西暦だって普通だった。それが平成になってからは、換算がややこしくなり、令和になると、西歴との関係が全く断ち切られてしまった。
 人間90年も生きてくると、この世の中に暴力以外では怖いものがなくなってしまう。昔の日本の美徳などについてとんと縁のない現代人とは、意見がすれ違うことがあるのは当たり前である。世間には長寿を目指して体操をやったりサプリメントを飲んだりする人がいるが、クローンの自分を作り、やる方とやらない方を比較して、はじめて効果が証明されるのだと思っている。結局は自己満足の範囲を出ないと思う。その証拠には日夜体を鍛えたアスリートだって比較的早く亡くなる人も沢山いるし、逆に私の知人で、胃袋がなく他の内臓も一つくらい手術し、なお96歳で老人カートを押して一人で歩いている人がいる。だから寿命は運命であって、努力で左右されるものではないと思っているので、極端なことはやらない。長寿の秘訣を時たま尋ねられるが、私は、ストレスを溜めないことと答えている。年寄の三原則と言って、「風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」という言葉がある。言いえて妙である。考えてみれば、私が生まれた1930年(昭和5年)は、明治が終わって17年しか経っていないし、大正が終わってからたった4年だ、そんな昔からよくぞ生きてきたものだと思う。

 1937年(昭和12年)7月、中国(当時は支那)の盧溝橋で、その後の太平洋戦争に続く”日支事変”が始まった。日本軍は破竹の勢いで南京、徐州、重慶、新型コロナウイルスで有名になった武漢とかの都市を占領していった。そのたびに提灯行列があった。7,8歳の男の子達は最高の興奮状態で、万歳万歳と大はしゃぎだった。小学校5、6年くらいの頃、日本が世界列強の圧迫に反発して国際同盟を脱退し、日独伊三国同盟ができた時のことを不思議に覚えている、遊び仲間どもと、すごいねーー なんて室戸台風で倒れた大木に腰掛けながら生意気な気勢を挙げていた。
 その後、府立の旧制中学へ進んだ。1942年4月、米空軍のドーリットル爆撃隊が日本本土初空襲を敢行、B25の見慣れぬ黒い機体がかなり低空で不忍の池の方へ飛んでいくのを、下校途中の上野駅の山手線のホームで、不思議な目で眺めていたのが、はっきりと記憶にある。1943年、父親が病死したため母親が千葉県の軍需工場に勤めたのを機に千葉へ移った。1944年3月、中学4年になるときに東京大空襲で下町はまる焼けになり、瓦礫の平原のようになった。省線(現JR)も都電も学校もなくなってしまった。いつ開通したのか全く覚えていない。千葉の空襲では、焼夷弾が落ちる、シュルシュルという不気味な音を防空壕で小さくなって聞き、六角形の筒から火がついたグリスのような油が地面一面に散らばっているのを、水に浸した火叩きで消した。その頃小学校の子供はもう東京には誰もいなくなり、中学生以上はみな動員され、私は大森近辺の工場で兵隊の靴を作っていた。

 靴工場のおんぼろラジオに、食らいつくようにして友達と敗戦の詔勅を聞いた。難しい言葉が多く、しかも音声が悪いので半分しか聞き取れないが、負けたらしい、という肝心のことは分かった。さあ、大変だ、負けたんだったらどうなるのか、色々な恐ろしいデマが飛んだ。アメリカ野郎がやってきて、女はみんな強姦され、男は睾丸を取られて東京湾へ投げ込まれるとか。多くの人が信用した。母親の軍需工場もみな解雇され、靴工場は閉鎖されて行くところはない。座して飢えを待つ状態になってしまった。15歳だった私は浪人のようになり、人生の目標を失い呆然となっていた。戦争末期の東京には、学徒動員の名のもとに、兵隊には少し歳が足りない、私のような14,15歳くらいの少年が、大小の軍需関係工場で働いていた。14,15歳は志願すれば軍隊に入れたが、そんな勇気はなかった。その後は、母親ともども弟妹を食べさせるために苦労が続いた。そのため、胸を張って話せる青春時代というものがない。人生は山あり谷ありと言うが、私は妻と知り合うまでは、人生の谷底を、下を向いて石ころを避けながら歩いているような毎日だった。

 1953年、KDDの発足とともにそれまでの電電公社から東京国際電信局に配属になった。その頃はようやく戦後の苦境を乗り越え、逓信省職員となり生活は安定してきた。ある日、歯の治療に局の診療所に行った。ところがこれがとんでもない乱暴な藪医者で、前歯を抜いたら2日間血が止まらない。愛想をつかし、家の近所の歯科医院に通うことにした。いうならば、これが人生の最大の転換期になったと言える。
 歯医者の奥に、年ごろの、ちょっと色の浅黒い、とても可愛いけど田舎くささが抜けない女の子がいた。なんとも言えない剽軽なしぐさが可愛かった。1953年秋、友人から都合が悪くて行けないのでと、日比谷公会堂のタンゴ演奏会の切符をもらった。しかし、私にも心当たりがあるわけではなく、思い余っているとき、神の啓示が歯医者の娘を思い出させ、ダメ元で誘ってみた。女の子を誘うのは初めてではないが、相手が医者の娘となると相当勇気がいった。しかし案ずるより産むが易し、結果はなんと一発でOKである。ここから、2年後の駆け落ち同然の事実婚生活を始めるまでの交際が始まった。その年のクリスマスには、生まれて初めての”クリスマス・プレゼント”を買った。銀のネックレスだ。そして、これも初めての ”くちびる” というものに、恐る恐る触れてみた。まだこの頃の男女の交際は、戦前からの美徳の一つとも言うべき慎みがあり、恥ずかしさとはにかみがあった。現代の動物の如きモラルのない男女から見たら、とても理解できない行動と言うだろう。

 1954年3月、短大を卒業した彼女は教師を希望していたが、母親が早死にして、父親が一人で育ててきた彼女の就職を許してくれないため悩んでいた。でも明るい性格で皆んなに好かれ、学生のボーイフレンドも両手に余るくらいいた。それなのに、なぜ社会人の私に気を許したのかを後年尋ねたら、社会人は落ち着きがあって、大人に見えたからだと言っていた。父親の目を盗んだ交際が日増しに深まって行くのを、誰も止められない。お互いにやり取りした変色した便せんの手紙類は、今でも大事な箱の一番下に、恋の化石としてひっそりと眠っている。彼女の父親の弟で、逓信省の役人で北海道の電波管理局長をした叔父は、KDDをよく知っており将来の安定性と私の仕事に深い理解があり、陰ながら二人の交際を応援してくれた。それに加え、事実上の仲人役を果たしてくれた会社の上司の援助で、駆け落ち同然の同棲生活が始まった。1955年7月31日、江戸川区新小岩のバラック同様の家の2階一間が愛の巣になった。結婚式はない。

 1955年12月、会社の住宅資金25万円を借り、その年の暮れには、埼玉県の蕨に、まさに ”小さいながらも楽しい我が家” が手に入った。猫の額の如き狭い庭の付いた、ちっぽけな立ち売り住宅だったが、ようやくにして本当に二人だけの生活が始まった。やがて長女が生まれ、勤めも順調に過ぎていった。「もはや戦後ではない」と言う言葉が聞かれるようになった頃だ。1958年、皇太子(現上皇)の結婚を控え、馬車行列をみようとする人達が増え、テレビが普及し始めた時代で、いち早くアンテナを立てたため裕福な家と誤解され、私が夜勤の留守に強盗に入られた。胸の痛い思い出である。お腹には次女を妊娠中だった。そしてほぼ同じころ、猛烈な伊勢湾台風がやってきた。大雨のため低地の川口市が増水し、さらに埼玉県側の荒川堤防が決壊したため、我が家も床上30センチの浸水を被った。強盗騒ぎや浸水騒ぎと、不幸が立て続きに起こった。希望に燃えて始まった蕨の生活であったのに、次第に風向きが変わってきた。生活基盤を変えたい願望にかられ、妻の強い希望に押されて会社に転勤希望を出した。当時の転勤は、相手側に希望者がいて実現する交換転勤制度だった。1961年春、大阪への転勤が実現し、一時高野山への途中にある送信所社宅に住み、半年後に宝塚社宅に落ち着いた。

 そして6年後、運勢を変える時期がやってくる。1967年に本社に国際電報を自動処理するための、新しい一大コンピューター・システムTASの建設プロジェクトが立ち上がり、建設要員が全国の事業所から集められた。私も運よく選考の対象に入り、本社への転勤が実現した。1967年4月、高揚した気分で帰京した東京の社宅は、奇しくも生まれ育った中野区上高田と目と鼻の先の、妙正寺川の畔の西落合にあった。空襲が激しくなった1943年に、疎開するように東京を出てから、24年目の里帰りだ。哲学堂の桜が満開だった。東京に戻った1967年から1972年までの5年間は、アセンブラとかフォートランなどのコンピュータ言語を覚え、2進法に取り組み、コンピュータの理屈を会得した。1972年TASが完成し、プロジェクトは解散、それぞれが新しい職場へ散っていった。私は総合企画に残り、1974年新宿ビルが完成した時に運用部に移り、東京支社を経て、ブエノスアイレス事務所へ赴任することになった。足掛け4年のアルゼンチン生活を無事に終え、1985年晴れて帰国した。

 1990年3月末に定年。その後の60歳代が一番元気があり、お金もあり、鎌倉に別荘を持ち、外国を贅沢に旅し、車で国内を乗り回し、人生最高の10年間だった。70歳は病気の年代で、80歳は再び遊びが柱になった、と思ったら妻が逝ってしまった。妻と知り合ってからの人生は常に上昇機運にあり、犬も食わない喧嘩は多少あったけど、ついに定年まで妻の強運にも支えられ、一度も躓くことなく、会社人生を全うできた。5年前に、じゃあお先と逝ってしまった妻、彼女は私の最高の”あげまん”だった。何度感謝してもしきれるものではない。
 一人になってもう5年も過ぎてしまった。本当に月日が矢のように飛んでいく。

 妻が居なくなった後の寂しさの中での悩み、迷い、思考錯誤に、ようやく自分なりの哲学を見つけた。それでも、寂しさは癒しきれるものではない。今でも精神的な落ち込みに襲われることが時々はある。幸い、気持ちが落ち込むことがあっても、生来の楽天的性格でストレスをかわしてきた。独居生活になっての唯一の利点は自由であることだ。毎週土曜日は立教大学のラテンアメリカ研究会の講義を聞き、帰りに友人と池袋駅近くの隠れ家で焼酎をたしなみ、週1~2回はサンシャインの囲碁サロンに通い、第二日曜は目黒のラテン・サロンの「古い映画の会」で昭和黄金期を懐かしみ、後の2次会を楽しむ。また映画の他にもタンゴの歌詞を勉強に行ったり、ラテン音楽やジャズライブの誘いに乗り、家にいればパソコンが遊び相手で、退屈する暇はない。
 意欲がある間、体が動く間、頭が考えられる間、酒が飲める間は、娘夫婦のアテンドに甘え、自然に過ごすことが、卒寿になった人間が、妻に再会できる日までの生き方であろうと思っている。 おわり     (2020.4.10記)

 


 

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