長寿会員からの投稿 

百寿の祝い 
プラチナ婚の続き
(2021年2月・後編)

遠藤 榮造

 

最近の著者
― ウッドデッキをシニアーカーで散歩

 梅のつぼみがほころぶ季節となり、春の訪れが待ち遠しく感じます。

 予想通りと云うか?新型コロナウイルスは新年に関係なく勢力を強めながら、年明けの世界中を驚かせているようだ。一応医療関係の対応としてワクチン問題も含め前進しているのが救いと云えようか?

 昨年・2020年2月のコロナ禍の始まりには、マスクの貿易で一儲け、と云う経済問題から始まった騒動が印象的だったが、兎も角マスクは新型コロナウイルスの感染防止には必需品として急速に世界中に普及した。

 かなり昔の話になるが、スイス観光を楽しんでいたころのこと。ご存知の通り、スイスは国策として険しく美しい山岳地帯を売り物に、氷河特急に代表されるように山岳地帯の交通網を整備し、手軽に山歩きを楽しめるようにしている。山登りの重装備でなく、トレッキングの軽装でもかなりの高山が楽しめる訳だ。 吾ら夫婦も、ユングラウヨッホ、アイガー北壁、モンブラン、マッターホン等3千から5千メートルのお決まり高山の景観を楽しんだ。宿の主人の勧めで好天のマッターホンのトレッキングに出かけた時の話。30~40人乗りの大型ケーブルカーのゴンドラで山頂真下に向かった。可なりの高度に到着したので、外気温との変化を考えた吾らは、降り際にマスクを着用した。その瞬間!!ゴンドラ同乗者の殆ど全員の視線が吾らに向いたのには驚いた。つまり、吾ら日本人などは日常的にマスクを使う習慣があるが、ゴンドラ同乗者(スイス人?・ヨーロッパ人?:因みにスイスには赤十字社の本部もある。)には、吾らのマスク姿が異常に珍しかったのだ。今回のコロナ禍で世界中が色・形とりどりのマスク姿に覆われたのを見るにつけ、当時のスイス観光を思い出して笑い話にしている。

  兎も角マスクが生活の必需品として世界中を覆っていた昨年(2020年)10月25日に小生は100回目の誕生日を迎えて、思いがけず「百寿の栄」に浴した。思いかけずと云うのは語弊があり、実は誕生日の半月ほど前から、早々と総理大臣より百寿の「祝状と銀杯」を、また栄造の留守宅(狛江市)を管轄する自治体の長(東京都知事・狛江市長)からもそれぞれの祝状・記念品が贈られてきた。ご存知かと思うが、これは昭和38年制定の「老人福祉法」により、国や地方公共団体が実施するもので、最近では年間8万件余(男1:女7ぐらいの割合)で全体的に年々増加しているという。お祝いや贈り物は個人的にも親戚・友人等からも頂戴した。立派な贈り物をホームの狭い個室に飾っておくにはスペースが足りない。やむを得なく子供たちに措置を任した次第。

 申すまでもなく、当方の百寿到達は、先ずはわが国の優れた社会・生活環境にあると思う。さらに個人的に言えば、ここ10年ほど当方は、老人ホームのお世話になってきたので、長寿はホームの環境にも預かって大きいと云えよう。つまり、同老人ホームの責任者(ホーム長)はじめスタフ・関係機関等のご協力のお陰であり、特に今次コロナ禍では、その禍に巻き込まれた施設等も少なくないと云われる中で、当ホームは、細心の注意で切り抜け、安心・安全な運営を維持してきた手腕は高く評価されなければならない。

 ところで、今次新型コロナウイルスは昨年1月に中国で発生したとされるが、目下国連のWHOが中国政府の協力を得て現地入りし、発生の詳細を調査中。日本政府は現下のコロナ対策として、コロナ禍鎮静の決め札として、来月7日を期限とする「緊急事態措置宣言」を発した。2月早々の節分の鬼退治と行くかどうか?!?! 

 

 

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 長寿会員からの投稿 

結婚70周年目の
プラチナ婚祝い
(2020年12月・前編)

遠藤 榮造

 
最近の著者

 私ども夫婦は、本年(2020年)の5月で無事に結婚70周年、つまりプラチナ婚を迎えることが出来た。その前の金婚記念(50周年目)には、「金婚旅行記」を出版してお祝いとしたが、さて今回のプラチナ婚では何をお祝いにしようかと思ったが、ご想像の通り、世界中を震撼させている新型コロナウイルス騒動の真っ最中にぶつかり、お祝いどころではない、当方の老人ホームでの生活にもそれなりの不自由さに直面している。なお、当方の老人ホームへの入居・生活状況等については、既に、k-unetの話題としてもお知らせしている通りで、ボケ防止のため時々webを開いて、k-unet各位のご活躍の様子を拝見しているが、今回は当方の近況もお伝えしたいと思い「長寿のページ」にお邪魔した次第。

 金婚祝いに続く今回のプラチナ婚までの20年間の、凡そ後半の10年は老人ホームでの生活と云うことになる。ご存知の通り老人ホームは感染症に対し最も厳しいところで、しかも、今回のコロナ禍は世界中で未経験の感染症と云うことになる。周知の通り、この新型コロナウイルスは2019年12月中国湖北省武漢市で集団発生したウイルス性肺炎(COVID-19)と呼ばれるが、国連の専門機関「WHO」は発生場所などまだ公式の見解を出していないとも云われている。老人ホームに限らず、多くの方々がこの感染症からの試練を受けている今日だが、特に高齢者の集団である老人ホームへの影響が憂慮されている。

 このような状況でプラチナ婚のお祝いは諦めざるを得ない状況であったが、偶々6月6日が家内の誕生日でもあり、ホームの計らいで出前の特注お寿司を取ってもらい、ホームのコーラスグループによる$Happy Birthday$とともに二人だけのささやかなお寿司パーティーながら、「コロナ禍のプラチナ婚祝い」として便乗した。

 さて、新型コロナウイルスの襲来では、どうなることか?!と肝を冷やした方も少なくないと想像するが、まだその脅威は続いており。恐らく有効なワクチンが普及するまでは収まらないというのが一般的見方のようである。

 ご参考までにコロナ襲来時等の当ホームの様子の一端を紹介してみよう。

①  まず、新型コロナウイルスの襲来時には医療関係者は別として、ホーム入居者は、外部との接触を一切遮断する措置がとられた。例えば、美容サロンの職人やマッサージ師、ボランティアの慰問団等の来訪は当面すべてお断りと云うことになった。その後コロナ禍の状況や社会一般の事態の推移等を勘案しながら、数か月も散髪を待った入居者への美容サロンのサービス対応が漸次改善されてきた。例えば「カットサービス」を去る7月から始め、順次時間のかかる複雑なメニューにもサービスが拡大されている。

②  コロナ禍以前のように、家族・保証人などの自由なホーム訪問は未だ解禁されていない。当面は必要に応じてホームの玄関先での検温等身体検査を受けて、届け物の手渡しや短時間の面談が許される方向にある。

③  巷の報道などによると、コロナ禍は目下第3波の最中とも言われ、ホームに家族を迎え入れられる自由往来は当面無理のようで、コロナ禍の不自由には忍耐を要するようだ。医療関係者をはじめ、ホーム運営者のご尽力に感謝し、更なる改善を期待している。

④  なお、老人ホームなどの施設の中には、コロナ禍に巻き込まれたところも少なくないよ うだが、当ホームは関係者の適切な施策・判断のお陰で目下のところは安全・安心を享受している。

以上は当老人ホームでの近況報告だが、以前のように家族の自由な往来は当面のコロナ禍の状況から無理のようだ。 

(前編終わり)

なお、後編(こちら)では、私の百寿到達の報告などを予定します。

 

 

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遠藤榮造さんへのメッセージ
 
 お祝い 紀寿おめでとうございます。

 百歳を紀寿とも申すそうです。なにはともあれ、一世紀生きてこられましたこと、お祝い申し上げます。遠藤さんとは直接仕事上でご指導頂いたことはございませんが、ご尊顔は良く存じております。私は間もなく(4月1日)91歳になります。70歳の折、縁あって、愛知県”知多半島の半ばにある「野間の大坊」と申す古刹の住職から。”貴方は104歳まで生きる” とのご宣託を頂きました。この住職は姓名判断で全国的に高名な人だと言ういことを後で知りました。その後、大病をするたびに、「俺はまだ死ぬはずはない、104まで行くんだから」、と暗示にかかったような気分で闘病して参りました。遠藤さんのお写真を拝見しますと、顔色もよく、補助器具を使ってとはいえ、自力で歩くことができるとは100歳でも健常者であると拝察いたします。宣託の104まで本当に行けるのか、自信はございませんが、私が人に90歳まで元気で生きる秘訣を聞かれるのを自分に置き変えて、あと10年どう生きるか、その秘訣を遠藤さんにお伺いいたしたく存じます。気がむかれましたら、紙上にてご披露頂ければ幸甚です。ますますのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。ごきげんよう。
2021/02/20 樫村 慶一

100歳おめでとうございます。

100歳でパソコンにてエッセイを記載れる力に感服です。
私も1月に81歳になりました。誕生祝は5色のボールペンです。
遠藤さんはご自分へのプレゼントは何になさいましたか?(鎌田光恵)
2021/02/04 鎌田 光恵
 

 

 


 長寿会員からの投稿 

 

卒 寿 の 記

樫村 慶一

 
2020.4.1
90歳の誕生日の祝い会で
椿山荘・錦水亭

 私は元号が嫌いである。もっとも、昭和時代は極く自然に昭和を使っていたし、西暦だって普通だった。それが平成になってからは、換算がややこしくなり、令和になると、西歴との関係が全く断ち切られてしまった。
 人間90年も生きてくると、この世の中に暴力以外では怖いものがなくなってしまう。昔の日本の美徳などについてとんと縁のない現代人とは、意見がすれ違うことがあるのは当たり前である。世間には長寿を目指して体操をやったりサプリメントを飲んだりする人がいるが、クローンの自分を作り、やる方とやらない方を比較して、はじめて効果が証明されるのだと思っている。結局は自己満足の範囲を出ないと思う。その証拠には日夜体を鍛えたアスリートだって比較的早く亡くなる人も沢山いるし、逆に私の知人で、胃袋がなく他の内臓も一つくらい手術し、なお96歳で老人カートを押して一人で歩いている人がいる。だから寿命は運命であって、努力で左右されるものではないと思っているので、極端なことはやらない。長寿の秘訣を時たま尋ねられるが、私は、ストレスを溜めないことと答えている。年寄の三原則と言って、「風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」という言葉がある。言いえて妙である。考えてみれば、私が生まれた1930年(昭和5年)は、明治が終わって17年しか経っていないし、大正が終わってからたった4年だ、そんな昔からよくぞ生きてきたものだと思う。

 1937年(昭和12年)7月、中国(当時は支那)の盧溝橋で、その後の太平洋戦争に続く”日支事変”が始まった。日本軍は破竹の勢いで南京、徐州、重慶、新型コロナウイルスで有名になった武漢とかの都市を占領していった。そのたびに提灯行列があった。7,8歳の男の子達は最高の興奮状態で、万歳万歳と大はしゃぎだった。小学校5、6年くらいの頃、日本が世界列強の圧迫に反発して国際同盟を脱退し、日独伊三国同盟ができた時のことを不思議に覚えている、遊び仲間どもと、すごいねーー なんて室戸台風で倒れた大木に腰掛けながら生意気な気勢を挙げていた。
 その後、府立の旧制中学へ進んだ。1942年4月、米空軍のドーリットル爆撃隊が日本本土初空襲を敢行、B25の見慣れぬ黒い機体がかなり低空で不忍の池の方へ飛んでいくのを、下校途中の上野駅の山手線のホームで、不思議な目で眺めていたのが、はっきりと記憶にある。1943年、父親が病死したため母親が千葉県の軍需工場に勤めたのを機に千葉へ移った。1944年3月、中学4年になるときに東京大空襲で下町はまる焼けになり、瓦礫の平原のようになった。省線(現JR)も都電も学校もなくなってしまった。いつ開通したのか全く覚えていない。千葉の空襲では、焼夷弾が落ちる、シュルシュルという不気味な音を防空壕で小さくなって聞き、六角形の筒から火がついたグリスのような油が地面一面に散らばっているのを、水に浸した火叩きで消した。その頃小学校の子供はもう東京には誰もいなくなり、中学生以上はみな動員され、私は大森近辺の工場で兵隊の靴を作っていた。

 靴工場のおんぼろラジオに、食らいつくようにして友達と敗戦の詔勅を聞いた。難しい言葉が多く、しかも音声が悪いので半分しか聞き取れないが、負けたらしい、という肝心のことは分かった。さあ、大変だ、負けたんだったらどうなるのか、色々な恐ろしいデマが飛んだ。アメリカ野郎がやってきて、女はみんな強姦され、男は睾丸を取られて東京湾へ投げ込まれるとか。多くの人が信用した。母親の軍需工場もみな解雇され、靴工場は閉鎖されて行くところはない。座して飢えを待つ状態になってしまった。15歳だった私は浪人のようになり、人生の目標を失い呆然となっていた。戦争末期の東京には、学徒動員の名のもとに、兵隊には少し歳が足りない、私のような14,15歳くらいの少年が、大小の軍需関係工場で働いていた。14,15歳は志願すれば軍隊に入れたが、そんな勇気はなかった。その後は、母親ともども弟妹を食べさせるために苦労が続いた。そのため、胸を張って話せる青春時代というものがない。人生は山あり谷ありと言うが、私は妻と知り合うまでは、人生の谷底を、下を向いて石ころを避けながら歩いているような毎日だった。

 1953年、KDDの発足とともにそれまでの電電公社から東京国際電信局に配属になった。その頃はようやく戦後の苦境を乗り越え、逓信省職員となり生活は安定してきた。ある日、歯の治療に局の診療所に行った。ところがこれがとんでもない乱暴な藪医者で、前歯を抜いたら2日間血が止まらない。愛想をつかし、家の近所の歯科医院に通うことにした。いうならば、これが人生の最大の転換期になったと言える。
 歯医者の奥に、年ごろの、ちょっと色の浅黒い、とても可愛いけど田舎くささが抜けない女の子がいた。なんとも言えない剽軽なしぐさが可愛かった。1953年秋、友人から都合が悪くて行けないのでと、日比谷公会堂のタンゴ演奏会の切符をもらった。しかし、私にも心当たりがあるわけではなく、思い余っているとき、神の啓示が歯医者の娘を思い出させ、ダメ元で誘ってみた。女の子を誘うのは初めてではないが、相手が医者の娘となると相当勇気がいった。しかし案ずるより産むが易し、結果はなんと一発でOKである。ここから、2年後の駆け落ち同然の事実婚生活を始めるまでの交際が始まった。その年のクリスマスには、生まれて初めての”クリスマス・プレゼント”を買った。銀のネックレスだ。そして、これも初めての ”くちびる” というものに、恐る恐る触れてみた。まだこの頃の男女の交際は、戦前からの美徳の一つとも言うべき慎みがあり、恥ずかしさとはにかみがあった。現代の動物の如きモラルのない男女から見たら、とても理解できない行動と言うだろう。

 1954年3月、短大を卒業した彼女は教師を希望していたが、母親が早死にして、父親が一人で育ててきた彼女の就職を許してくれないため悩んでいた。でも明るい性格で皆んなに好かれ、学生のボーイフレンドも両手に余るくらいいた。それなのに、なぜ社会人の私に気を許したのかを後年尋ねたら、社会人は落ち着きがあって、大人に見えたからだと言っていた。父親の目を盗んだ交際が日増しに深まって行くのを、誰も止められない。お互いにやり取りした変色した便せんの手紙類は、今でも大事な箱の一番下に、恋の化石としてひっそりと眠っている。彼女の父親の弟で、逓信省の役人で北海道の電波管理局長をした叔父は、KDDをよく知っており将来の安定性と私の仕事に深い理解があり、陰ながら二人の交際を応援してくれた。それに加え、事実上の仲人役を果たしてくれた会社の上司の援助で、駆け落ち同然の同棲生活が始まった。1955年7月31日、江戸川区新小岩のバラック同様の家の2階一間が愛の巣になった。結婚式はない。

 1955年12月、会社の住宅資金25万円を借り、その年の暮れには、埼玉県の蕨に、まさに ”小さいながらも楽しい我が家” が手に入った。猫の額の如き狭い庭の付いた、ちっぽけな立ち売り住宅だったが、ようやくにして本当に二人だけの生活が始まった。やがて長女が生まれ、勤めも順調に過ぎていった。「もはや戦後ではない」と言う言葉が聞かれるようになった頃だ。1958年、皇太子(現上皇)の結婚を控え、馬車行列をみようとする人達が増え、テレビが普及し始めた時代で、いち早くアンテナを立てたため裕福な家と誤解され、私が夜勤の留守に強盗に入られた。胸の痛い思い出である。お腹には次女を妊娠中だった。そしてほぼ同じころ、猛烈な伊勢湾台風がやってきた。大雨のため低地の川口市が増水し、さらに埼玉県側の荒川堤防が決壊したため、我が家も床上30センチの浸水を被った。強盗騒ぎや浸水騒ぎと、不幸が立て続きに起こった。希望に燃えて始まった蕨の生活であったのに、次第に風向きが変わってきた。生活基盤を変えたい願望にかられ、妻の強い希望に押されて会社に転勤希望を出した。当時の転勤は、相手側に希望者がいて実現する交換転勤制度だった。1961年春、大阪への転勤が実現し、一時高野山への途中にある送信所社宅に住み、半年後に宝塚社宅に落ち着いた。

 そして6年後、運勢を変える時期がやってくる。1967年に本社に国際電報を自動処理するための、新しい一大コンピューター・システムTASの建設プロジェクトが立ち上がり、建設要員が全国の事業所から集められた。私も運よく選考の対象に入り、本社への転勤が実現した。1967年4月、高揚した気分で帰京した東京の社宅は、奇しくも生まれ育った中野区上高田と目と鼻の先の、妙正寺川の畔の西落合にあった。空襲が激しくなった1943年に、疎開するように東京を出てから、24年目の里帰りだ。哲学堂の桜が満開だった。東京に戻った1967年から1972年までの5年間は、アセンブラとかフォートランなどのコンピュータ言語を覚え、2進法に取り組み、コンピュータの理屈を会得した。1972年TASが完成し、プロジェクトは解散、それぞれが新しい職場へ散っていった。私は総合企画に残り、1974年新宿ビルが完成した時に運用部に移り、東京支社を経て、ブエノスアイレス事務所へ赴任することになった。足掛け4年のアルゼンチン生活を無事に終え、1985年晴れて帰国した。

 1990年3月末に定年。その後の60歳代が一番元気があり、お金もあり、鎌倉に別荘を持ち、外国を贅沢に旅し、車で国内を乗り回し、人生最高の10年間だった。70歳は病気の年代で、80歳は再び遊びが柱になった、と思ったら妻が逝ってしまった。妻と知り合ってからの人生は常に上昇機運にあり、犬も食わない喧嘩は多少あったけど、ついに定年まで妻の強運にも支えられ、一度も躓くことなく、会社人生を全うできた。5年前に、じゃあお先と逝ってしまった妻、彼女は私の最高の”あげまん”だった。何度感謝してもしきれるものではない。
 一人になってもう5年も過ぎてしまった。本当に月日が矢のように飛んでいく。

 妻が居なくなった後の寂しさの中での悩み、迷い、思考錯誤に、ようやく自分なりの哲学を見つけた。それでも、寂しさは癒しきれるものではない。今でも精神的な落ち込みに襲われることが時々はある。幸い、気持ちが落ち込むことがあっても、生来の楽天的性格でストレスをかわしてきた。独居生活になっての唯一の利点は自由であることだ。毎週土曜日は立教大学のラテンアメリカ研究会の講義を聞き、帰りに友人と池袋駅近くの隠れ家で焼酎をたしなみ、週1~2回はサンシャインの囲碁サロンに通い、第二日曜は目黒のラテン・サロンの「古い映画の会」で昭和黄金期を懐かしみ、後の2次会を楽しむ。また映画の他にもタンゴの歌詞を勉強に行ったり、ラテン音楽やジャズライブの誘いに乗り、家にいればパソコンが遊び相手で、退屈する暇はない。
 意欲がある間、体が動く間、頭が考えられる間、酒が飲める間は、娘夫婦のアテンドに甘え、自然に過ごすことが、卒寿になった人間が、妻に再会できる日までの生き方であろうと思っている。 おわり     (2020.4.10記)

 

 

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