2022年

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第18回

 

 

 

アルゼンチン Argentina(その2)

22州と2つの島嶼(その2)

 

<チャコ州、フォルモッサ州>

 原住民の武器

 サンタ・フェ州のほぼ入り口に当たる、全国で1,2の大都市を誇るロサリオ市から国道は二股に別れ、今まで来た9号線は左に分かれて、コルドバへ向かい、北へ向かう道は11号線になる。11号線はサンタ・フェ州を抜けると、まずチャコ州に入り、さらに、パラグアイとの国境のフォルモッサ州に至る。(フォルモッサはスペルが台湾のことと同じだけど、なぜそう呼ぶのかは聞き忘れてしまった)このルートを走ると、周囲の植物はすっかり亜熱帯の木に変わり、ガルーサと言う白鷺のような鳥が飛んでいる。それもそのはずで、東京から沖縄辺りまで南下(経度で言うと)するのと同じような距離であり、植物や動物だけでなく、住んでいる人間も変わってくる。これが飛行機では味わえない旅の醍醐味の一つでもある。

 原住民の素焼きの灰皿

国道には、ところどころに疾走するトラックに刎ねられた牛の死骸が転がり、腐敗してガスが溜まった腹は、今にも破裂しそうな巨大な風船のように膨らんでいるチャコ州もフォルモッサ州も、殆どの住民は農牧畜業が主体であるが、国内でも貧しい州であって、未だに恵まれない原住民が多い。今世紀初頭の経済困難の頃には餓死者が出たとの報道もあった。生活のためでもあるが、木彫りや陶器の優れた手工芸品を作り出しており、ガソリン・スタンドや国道沿いでは、子供達がこれらの民芸品を売っている。

民芸品の水差し
釉を使っている

 特に昔のインディヘナが使った弓矢や槍などの武器の模型は、此処でしか見られない民芸品の一種である。チャコ州の北部からフォルモッサ州には川が多く、しばしば河川の氾濫に悩まされる。国道11号線の終点クロリンダは、パラグアイとの国境を流れるピルコマージョ川に面した町で、パラグアイと陸路を結ぶ国際橋が架かっているが、両側の住民は通関などの手続きなしで、自由に両国を行き来している。

 

 

<コルドバ州>

 
アルゼンチンのこけし人形

 アルゼンチンには2つの国があると言われる。それは、コルドバ州を境にして南北に分割した形を言うのであって、北部には昔のインカの子孫の血を引くアイマラ族やケチュア族の原住民が多く住み、南部はヨーロッパ移民の白人主体の国だと言う意味である。確かにコルドバ辺りへ来ると、インディヘナの多いのに気が付く。ここから北のボリビアとの国境につながる、フフイ、サルタの両州を訪れると、まさにボリビアかペルーへ来たような錯覚さえ起こしそうな、家並みや風景ばかりになる。

人造湖サン・ロケ湖の畔にたつ
臍の標識

 こんなにも南部との違いを見せ始めるコルドバは、まさしくアルゼンチンの中心であり、”へそ”である。地図を見てもコルドバはアルゼンチンのほぼ中心に位置しているのが分かる。市の西方40キロほどにある人造湖サン・ロケ湖の岸には、"アルゼンチンの臍"と刻まれた石碑が立っている。コルドバは空気が程よく乾燥していて気候が良いので、スペイン人が早くから目をつけた町で、ブエノス・アイレスよりも早く発展し大学も一番早くできた。

旧電電公社の
ボスケアレグレ地球局

 コルドバ市から国道9号線を北へ行くと、日本の東北地方のような、純朴でのんびりした環境の、サンチアゴ・デ・エステロ州に入るが、コルドバの本当に良い所は、国道9号線ではなく、先の人造湖サン・ロケに面した国内有数の保養地、カルロス・パスを経て、北へ50~60kmくらいの間の高原地帯である。周囲は小高い丘のような山々に囲まれ、森の中にあちこちには赤い屋根に白い壁の、洒落た建物が遠望できる。

 コルドバ市北部の国立公園
にある
靴に似た石

別荘や小さなホテルだが、昔はアルゼンチンでも結核が多く、当時の療養施設だったものである。カルロス・パスから10kmほど凸凹で牛の糞だらけの。道幅だけは10mもありそうな山道を分け入ると、かってのアルゼンチン電信電話公社の、ボスケアレグロ(陽気な森)という名前の衛星通信所がある。
 サン・ロケ湖の北にあるコスキンの町の野外劇場では、毎年1月下旬に10日余りに渡り、世界的に有名なフォルクローレの祭典が行われる。この祭典にはアルゼンチン全国を始めラテン・アメリカ諸国、さらには日本の熱狂的アーチストやフアンなども参加する。

アルマジロ
別名キルキンチョ、食用になる

 

一時は人気が落ちて、このまま寂れてしまうのかと心配されたが、昨今はまたまた人気を盛り返し、入場券を 手に入れるのが大変になってきた。しかし、今はどうなのか分からない、”歌は世につれ、世は歌につれ”、というから、米国のロックなどに押されて、フォルクローレの人気が気になるところである。さらに北へ行くと、ラ・ファルダ、ラ・クンブレ、ロス・ココスなどの保養地が続き、公園やら施設の整った遊園地などが点在する。ロス・ココスのレクリエーション文化公園の博物館に、日本の昔の鎧冑が飾れているのには驚いた。

コルドバ州には平地に作った
広大な人造湖が多い

 サン・ロケ湖から南には人造湖がいくつもあり、雄大な自然とマッチした美しい風景が楽しめる。そして、谷間の杉林の中にぽつんと、小さな小さな町がある。ラ・クンブレシータと言うスイス人が入植した浮世離れしたような町である。洒落た店にはアルプス風の刺繍をした織物製品や、この地方の風景を彫った木彫りの壁掛けなどを売っている。

素焼き色付けした
ビールジョッキー

 コルドバ市には、アルゼンチン最強と言われた陸軍の基地がある。英国と戦ったマルビーナス戦争のとき、ここの若者が大勢戦場へ行った。しかし、結果は散々で、ろくな戦闘もしないで降伏してしまった。

素焼きの壁飾り

 それもそのはずで、家が貧しいため、軍隊へ入れば腹いっぱい食べられ、暖かい洋服が着られると思って入隊した若い兵隊達が多く、十分な訓練も受けず、防寒対策も不十分で、しかも武器は旧式の鉄砲ときては、昔のどこかの国の竹槍戦法のようなもので、近代的な装備の英国軍に太刀打ちできるはずがない。戦闘によるよりも凍傷でやられた若者の方が多かったと当時の新聞は伝えていた。コルドバを語るにはこのホームページを数ページ使わなくてはならないので、この辺で別れ、再び国道9号線に戻り北上すると、サンチアゴ・デル・エステロ州である。

 

<サンチアゴ・デル・エステロ州、ツクマン州>

ツクマン市郊外に
立つキリスト像

 サンチアゴ・デル・エステロ州は、コルドバの文化的環境とは正反対の、農業一色の州である。いまでも農道には、のんびり走る牛車を見ることができる。ブエノス・アイレスでは、ここの人達を多少の差別意識をもって"サンチアゲーロ"と呼ぶ。言うならば"田舎っぺ"と呼ぶようなものである。この州には温泉が沸いているが、外国の温泉はどこも同じで、入るには水着を着なくてはならない。水着を着て温泉に入るのは、なんとも気分が悪いもので、私はついに入ったことがなかった。

ガウチョの万能ナイフ
ファコン

ガウチョと馬の人形

 ツクマン州は、サンチアゴ・デル・エステロ州の西に取ってつけたような、一番小さい州である。しかし、小さくても独立した州になっているのは、この州が1816年、アルゼンチン独立のきっかけとなった、リオ・デ・ラ・プラタ連合の独立宣言をした由緒ある町だからで、州都の名前は正式には、サンミグエール・デ・ツクマンと言う。

 1776年、それまでペルー副王領だった現在のアルゼンチン領に、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイを加えた地域が、リオ・デ・ラ・プラタ副王領となった。そして、1810年、スペインに反対する勢力が評議会を設立して、リオ・デ・ラ・プラタ地方連合として自治を宣言、その後1816年7月9日、ツクマンにおいて独立宣言を発し、この連合がスペイン軍と独立戦争を開始した。ホセ・サン・マルチン将軍がスペイン軍を破って、まずアルゼンチンとチリが独立し、ついでペルーが独立した。

ガウチョが締めるベルト
コインが多いのが自慢

ガウチョが馬を乗りこなすときに使う道具

市内中心部にある小さな建物の中には、今でも独立宣言書に各地方の代表者が署名をしたと言う、机や椅子などが残っており見学ができる。ツクマンと言えば、フォルクローレの名曲"ルナ・ツクマーナ(ツクマンの月)"を思い出す。この辺りから遥か西に聳える、アンデスの山々の上に出る月を歌ったものだが、現地の人に言わせると、あの月は本当はツクマンではなく、西隣のカタマルカ州の月だと言う。ツクマン州はアンデス山脈にかかっていないので、正しくは"ルナ・カタマルケーニャ"かもしれない。 

 

(つづく)

  

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第17回

 

 

 

アルゼンチン Argentina(その1)

22州と2つの島嶼

 

 ラテン・アメリカ民芸品の旅と題して、メキシコから始め、カリブを越えてキューバに渡り、中米はグアテマラに寄り、南米大陸は北のベネズエラを皮切りに、時計回りにコロンビアに至る、民芸品を紹介しながら、その国の観光ポイントを訪ねる連載も、いよいよ最終回になった。

アルゼンチン全図と州区分
(クリックすると拡大表示)

 順序の途中になるアルゼンチンは、私が以前、住んだ国なので、執筆する材料には事欠かず、また書きたいこともたくさんあるので、締め括りの意味で最後にした。
 アルゼンチン編の第1回目は、日本の国土の約8倍もある広大な国土を構成する、22の州と2つの島のうち、行った事のある州の民芸品を紹介しながら、観光案内書などには余り書かれていない風物などを書いてみようと思う。残念ながら2つの島には行ったことがないが、これはアルゼンチン最南端の"火の島"と呼ばれるティエラ・デル・フエゴと、もう一つはマルビーナス諸島のことで、日本ではフォークランド諸島であり一般の地図では英国領になっている島である。今でもアルゼンチンは自国領であることを主張していて、マルビーナル諸島がない地図は販売できない。新聞の主張などで、この島の歴史を知ると、アルゼンチン領と言うのも一理はあるような気がするのだが。

 ブエノス・アイレスと一口に言う場合、それは、 ブエノス・アイレス州全体ではなく、連邦首都(Capital Federal)であるブエノス・アイレス市を指す。連邦首都は、東北部と東部を"ラ・プラタ川"に接し、北西部から西部および西南部は"ヘネラル・パス"と言う、1940年代後半に、当時のペロン大統領が建設した、首都圏の半分を囲むような形の高速道路が走り、南部は"リアチュエロ川"で区切られた、東西南北それぞれ約20km、なんとなく6角形をした、人口400万人の大都市である。

ブエノスアイレス市概観

 ラ・プラタ川を隅田川・荒川に、ヘネラル・パスを環状7号線に、リアチュエロ川を多摩川に例えて見ると、東京23区の形に良く似ているので、イメージを掴みやすい。国内全域への道路は、市内東端のラ・プラタ川を背にした、大統領官邸前から、扇子形に広がっている。
 各州を巡る旅は、国道9号線から12号線に続く、北東部の、ウルグアイとブラジルとの国境を接する州巡りから始めようと思う。

<エントレリオス州、コリエンテス州>

 エントレリオスとは、川の間と言う意味で、文字通り川と川の間に位置している。このため、エントレリオス州とコリエンテス州のことを”リトラル地方(沿海地方)”と言っている。ブエノス・アイレスのすぐ北側にある州で、東側にはウルグアイと国境を画するウルグアイ川が、西側にはラ・プラタ川の上流である南米第2の大河パラナ川が流れており、この間の自然に恵まれた低地がエントレリオス州で、北側にコリエンテス州が続いている。

自然豊かな
エントレリオス州の水郷

エントレリオス州に行くには、パラナ川に沿ってパラグアイのアスンシオンに通じる国道9号線を北上し、サラテと言う町で右に折れ、(真直ぐ行くとパラグアイの国境に達する)パラナ川に架かるブラッソ・ラルゴと言う長いコンクリートの橋を渡る。
 橋を渡ると湿地帯の中を一直線の道が続き、車はスピードを最高に上げるので、しばしば横道に潜んでいるパトカーの格好の餌食になる。湿地帯を抜けると、ウルグアイ川の岸に出る。ウルグアイ川に沿って70~80kmほど北上するとグアレグアイチュに達し、右に行ってサン・マルチン国際橋を渡るとウルグアイのフライベント町で、ここで簡単な入国審査がある。このルートは陸路でウルグアイに行くには最短の道である。

パラナ川に面した
美しいパラナ市

 ウルグアイに行かずに真っ直ぐに北上すれば、コリエンテス州を通ってイグアスの滝のあるミシオネス州に達する。郊外にでると、パンパの中にはアルゼンチンに特に多い南米独特の植物"オンブー"と言う大木があちこちに見られる。大きいものは、高さが10数メートル、幹周りが数メートルにもなるが、実はこの木は草の一種なのである。幹の中は隙間だらけで水分が多いので、材木としては使えない。

ウルグアイ川に面した
国立椰子公園

 この辺りからミシオネス州にかけては、アルゼンチンでも最も雨の多い地方のため各地に湿地帯があり、沼や湖が多く、また亜熱帯性気候のため、椰子の木が見られるようになる。ウルグアイ川沿いには椰子の木を保護するための国立公園もある。
 エントレリオスの州都パラナは、パラナ川に面した近代的な都市で、立派なホテルもあり、パラナ川でのレジャーも楽しめる、緑の美しい街である。

一見、大木に見える
オンブー

 コリエンテス州に入るとウルグアイ川の対岸は、ウルグアイからブラジル領になり、椰子の木はさらに多くなり、民芸品として椰子の実を使った人形などが目に付くようになる。コリエンテス州に入って間もなく、パソ・デ・ロス・リブレスと言う町がある。ウルグアイ川に架かる国際橋を渡ると、ブラジルのウルグアイアーナと言う町である。たった1本の橋を渡っただけで、言葉(スペイン語からポルトガル語)も食べ物も、車の種類も全く変わってしまうのが驚きである。陸続きの国境を持たない日本人には不思議な感じさえする。アルゼンチンは、ブラジル以外にも陸続きの国境を接している国はあるが、少なくとも言葉は皆スペイン語なので、通関などの諸手続きでは、それほど困る事は無いのだが、ポルトガル語は、スペイン語圏の人には殆ど不自由なく意志疎通できるのに、我々には全く違う言葉に聞こえるから困る。

ネズミの王様
カルピンチョ(カビバラ)

 コリエンテス州も東西が川に挟まれた州で、この辺りの湖沼地帯には、高級革製品の材料になる"カルピンチョ"がたくさん生息している。日本では"カピバラ"という名前でテレビなどに時々でてくる。ブラジル編で紹介したヌートリアよりはずっと大きく、世界最大の鼠で、肉も美味しいと言われている。カルピンチョの革は、一見豚の革に似ていて、ぶつぶつがあるが、水に強く洗濯しても固くならないので、高級手袋として珍重されている。日本では珍しいので土産品に最適であるが、旅行者には余り知られていないので、意外に買う人は少ないようだ。

ミシオネス州に立つ
アルゼンチン(中央)
ブラジル(左)
パラグアイ(右)
の3か国国旗

 エントレリオス州もコリエンテス州も中央部には殆ど人が住んでおらず、ウルグアイ川沿いと、西のパラナ川沿いに人口が集中している。途中にはガソリンスタンドもないので、車で横断するには燃料を満タンにしておくことが必要で、途中でガス欠になったら、いつ来るか分からない車を待たなくてはならないし、うっかり手を上げて止めたりすると、とんでもない人間が乗り込んできて、とんだ災難に合う恐れがあるので用心が肝要である。

<ミシオネス州>

 アルゼンチンの東北端でブラジル領に突き出したような州である。ここには、ペルーのマチュピチュと並び、南米最大の観光地の一つ、イグアスーの滝がある(イグアスーは語尾にアクセントがあるのでカタカナで書くとこうなる、この滝については、ブラジル編を参照)。亜熱帯雨林に囲まれ、自然のままのジャングルが生い茂り、そこに住む貴重な動植物が多い。特にこの辺りは世界的にも蝶の宝庫で、凡そ500種類もの蝶が見られる。
 西側にパラグアイ領、東側にブラジル領が見えるアルゼンチン領の先端に、この3か国の旗が立っている。アルゼンチンが立てたのだから、自分の国の旗が一番高いのは仕方がない。ミシオネス州は日本人移住者も多いところで、ブエノス・アイレスに住む日系人の食べる米の主な生産地でもある。

<サンタ・フェ州>

国道沿いにある
果物飲み物などを売る売店

 国道9号線をサラテでエントレリオス方面に曲がらずに、真っ直ぐに北ヘ300キロほど行くと、サンタ・フェ州に入る。この途中は柑橘類の畑が広がり、道端で獲りたての蜜柑などが売られている。アルゼンチンでは果物は大きさが不揃いでも、一緒くたにして目方で売る。日本のように一個一個、丁寧に包んで売るようなことはしない。品質改良などしないのか(註)、蜜柑などは何年経っても皮が厚いままだ。それでも甘味だけは十分ある。この辺りまでは車で3時間足らずなので日帰りでドライブができる。

 (註)アルゼンチンの広い牧場や農場の持ち主は、経営を殆ど執事にまかせ自分はヨーロッパなどで暮らしている。収穫期になると帰国して収益が前年並みであれば、満足するので、代理人である執事は危険を伴う品種改良などやりたがらない、そのため肉も果物もいつまでたっても同じ品質なのである。

 川沿いの洒落た小さなホテルで一休みして、景色を眺め、果物を買って帰る。国道はどこも殆ど真っ直ぐな道で、郊外に出ると信号もないので、距離をあらかじめ計算しておけば、帰る時間が予定できる。往復500キロ位の道のりは、朝10時ごろ出かける手頃なドライブコースである。

マテを飲む容器、民芸品でもある

 サンタ・フェ州は、南北に細長い長靴のような地形をしていて、パラナ川に沿って、ロサリオ、サンタ・フェとアルゼンチンでも一二を競う大都市があるが、広いだけで余り特徴のない州である。ただ、この州を北に向かって走っていくと、植物相が段々と亜熱帯のものに変わっていくのが良く分かる。南のブエノス・アイレスやバイア・ブランカの港に入った漁船から、パラグアイ向けの魚を積んだトラックが、猛スピードで駆け抜けていく街道の州境には検問所があり、常に軍用犬を連れた兵隊(カルビネーロ)が、麻薬取り締まりのために厳しい監視をしている。軍用犬は常に軽い麻薬中毒の禁断症状にしておくそうだ。そうすることで、犬は麻薬欲しさに嗅覚をより一層強く働かせるようになると言う。

(つづく)

 

 

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第16回

 

 

 

その4

(その1 その2 その3)

 

ペルー海岸地方の音楽と地震の話

 

≪バルス・ペルアーノ≫

 一般にペルー音楽と言うと、日本では 「コンドルは飛んでいく(El Co'ndor pasa)」が思い出される。しかし、これはアンデス山地のフォルクローレであって、ペルー音楽の全てを代表しているものではない。何故かと言うと、ペルーには海岸地方(ペルーの都会地域を意味する)には、リズムの早いフォルクローレがあり、 フォルクローレ・デ・ラ・コスタと言って、はやりペルー音楽としてのジャンルが確立されているからである。

リマのペーニャ
(ライブレストラン)

 16世紀の始めまで、北はコロンビアの南部から東はボリビア、アルゼンチンの北西部、南はチリの北部までを、その版図に収めていたインカ帝国は、多くの種族の集まりであった。その指導的民族はクスコを中心として、ほぼ現在のボリビアを故郷とするケチュア族である。インカの子孫であるケチュア族は、かっての首都クスコを中心に、アンデスの高原で農耕生活を送っており、その生活圏においては、国境線をあまり意識していない。
 そのため、この民族に生まれたアンデス・フォルクローレは、ペルーの歌とかボリビアの歌とか言うよりは、インディヘナの歌なのである。「コンドルは飛んで行く」は、このアンデス・フォルクローレの一つなので、ペルー人はペルーの歌だと言い、ボリビア人はボリビアの歌と言う。

 
木彫りのリャーマ
銅製のリャーマ

  海岸地方のフォルクローレとは、バルス・ペルアーノ(ペルー・ワルツ)を始め、ウワイノ、テンデーロ、フェステッホ、マリネラ、ポルカなどを総称したもので、ヨーロッパと交易をする船の船員が運んできたものや、奴隷として連れてこられた黒人が、ア

フリカから持ち込んだ外国産のものが沢山ある。

 マリネラは、すでに、チリ編やボリビア編で詳しく述べた"太平洋戦争"の時に、軍艦の乗組員の士気を鼓舞するために作られたものだと言われている。これらの中の代表的なものであり、最も都会的な音楽であるバルスについて、ペルー政府文化局が出版した「El waltz y el vals criollo(ヨーロッパのワルツと地元のワルツ)」と言う本には

素焼き人形、一服する農夫

『バルス・ペルアーノの起源はウインナ・ワルツである。スペイン人が南米を征服した後、今のボゴタ、ブエノスアイレスと共に、リマに副王府を設けたので、この地にヨーロッパから多数の役人が集まるようになり、彼らが持ってきたワルツは、中流階級以上の人々の間で19世紀末まで愛好されていた。それが、20世紀に入ってから、大衆の中にも広がり、下町の長屋の狭い中庭や、路地裏なでも踊られるようになってきた。それと共にステップも、狭い場所で踊るため、こちょこちょとした、せわしないものに変わり、リズムも当時流行していたマズルカ、ガロップス、クアドリージャ、ホータと言った、早い曲の影響を受けて、本来の4分の3拍子が半分の8分の6拍子に変わってきた』

と書いてある。

チチカカ湖畔のインディヘナ
インディヘナの夫婦

 従って、比較的歴史の浅い音楽であり、ペルーの「ラ・クンパルシータ」と言われるほどの、バルス・ペルアーノの代表曲「ラ・フロール・デ・ラ・カネーラ(にっけの花)」も1950年頃の作品で、作詞作曲をした、チャブーカ・グランダと言う女性も1983年まで健在であった。 バルス・ペルアーノとしての形態が整い、インディヘナとの混血が多いペルー人の中に定着するのにつれて、黒人系の陽気な早いリズムの中に、アンデス地方の独特のメロディーがこもるようになり、日本人にも共感の持てる音楽になってきた。歌の歌詞と言うものには、愛だの恋だの涙だのと言った言葉はつきものであるが、バルス・ペルアーノにも沢山でてくる。 

 昔から、アルゼンチン・タンゴを始めラテン音楽に人並みの愛着を持ってきた私にとって、バルス・ペルアーノに出会ったときには、世界にこんなにも心に焼き付く音楽があったのか、と思わず感嘆したものである。そしてまた、何故こんなにも素晴らしい音楽が、ラテン音楽フアンの多い日本で、殆ど聞かれないのか、と言うことが不思議であった。   かって、KDD新宿ビルの31階にFM東京があった。(現在は半蔵門にある) もう40年以上も前になるが、地下の社員食堂でK さんと言うプロデューサーと知り合い、彼の受け持ちの昼の番組の中で、バルス・ペルアーノを1曲づつ2度放送してもらったことがある。

フォルクローレを奏でる農夫たち

 さて、反響はいかにと胸をときめかせて期待していたのだが、僅かに放送局内の人が、「聞き慣れない音楽だ、リズムは良いがなかり泥臭い。歌詞はスペイン語のようだが、何処の国かな」と言った人が一人いただけで、一般聴取者の反応は全くなく、どんな反響があるかと興味を持っていた私の期待は見事に裏切られた。「日本では、波の音とか、鳥の鳴き声だけのレコードでも最低600枚は売れる、しかし、それでは商売にならない」と、Kさんは言っていたが、所詮バルス・ペルアーノも、その類なのかとひどく落胆したものである。

 日本にはラテン音楽フアンが大勢いる。勿論ペルー音楽が大好きな人も多い。しかし、ペルー音楽と言うと、大方がアンデス・フォルクローレと思っているのではないかと思う。しかし、バルス・ペルアーノには、民衆の哀歓と、日々の生活の中での喜怒哀楽の感情が、センチメンタルなメロディーと共に、ある時はオーバーに、ある時は切々と歌い込まれている。このような、バルス・ペルアーノは、これを聞く日本人の心に感銘を与え、アンデス・フォルクローレとは一味違った、ペルー音楽の素晴らしさに、きっと新しい目を開かせてくれるものと思う。

陶製の灰皿とオカリナ(笛)

 バルス・ペルアーノを歌った歌手の中でも代表的な歌手として知られているのが、ルチャ・レジェスである。彼女は、 ラ・モレーナ・デ・オーロ・デル・ペルー(ペルーの黄金の褐色人)と言われた歌手である。肌も髪も濃い褐色で、でっぷりと肥った堂々たる体型であった。肥っていたため持病の心臓病に悩まされ、1973年10月に40歳の若さで死去した。新聞は1400万国民が等しくその死を悲しみ、涙を流したと伝えている。歌手人生が短かかったこともあり、吹き込んだレコードはそんなに多くない。

トゥミ(ツミ)

 しかし、彼女は、海岸地方のフォルクローレの代表的歌手の一人だったので、ポルカ、マリネラ、ウアイノ、フェステッホなど、どんなジャンルの歌もこなしたが、やはりバルスが圧倒的に多い。ギターとピアノによるメランコリックなメロディーの伴奏で歌うのだが、その分厚い唇から流れる歌詞は極めて明瞭で、声は体つきに似合わぬ甘い響きを持っていた。それに歌だけではなく前奏・間奏が実に素晴らしい。

 彼女のレパートリーの中でも、死期を悟った病院のベッドの上で歌ったと言われる、 「ミ・ウルティマ・カンシオン(私の最後の歌)」が出色である。フアンに感謝しつつ、涙がこぼれるのを謝りながら、涙声で歌うラストが印象的だ。このレコードは彼女が死んだ後発売されたため、一層の感動を呼んだと言はれる。

 1964年5月24日、東京オリンピックのサッカー南米代表決定戦、ペルー対チリの試合が、リマの国立競技場で行われた。この試合は後半まで0対0だったが、レフェリーの不手際(オフ・サイドをレフェリーが見落としたためと言われる)で、ペルーが1点を奪われたため、観衆が騒ぎ出した。これを静めるため警官が発砲したので、逃げ惑う観衆に押し潰される人々が続出、死傷者が800人もでると言う大惨事が起きた。敬虔はクリスチャンであったルチャ・レジェスは、この事件で親を失った孤児達を多数自宅に引き取り、死ぬまで面倒を見ていたと言う、美しい逸話が残っている。

華麗な色彩のポンチョ

 日本では、1970年頃から、「ボタンとリボン」で、戦後の暗い世相に明るい風を吹き込んだ、池真里子さん(2001年死去)が、銀座のペルー料理店でバルス・ペルアーノの名曲「ホセ・アントニオ」を歌い始めた。

 しかし、その後、"失われた80年代"と言わしめた、ラテン・アメリカ全域を襲った、凄まじい経済混乱の嵐は、ペルーにも容赦なく押し寄せ、一時は年間1万パーセントを越えるハイパー・インフレなどもあって、市民生活は沈滞した。こうしたことから、リマ市内の下町で繁昌した、パリサーダとかハロン・デル・オーロなどのペーニャ(ライブ・ハウス)も相次いで姿を消し、若手や新人の育つ環境がなくなってしまったり、若者の嗜好がロックなどへ変わったりしたことなどで、バルスは以前のような人気を失って行った。

 

≪地震国ペルー≫

 ペルーについて書くことは山ほどあるが、切りがないので、ペルー編の最後に、ペルーは日本より大きな地震が多いことを述べて見ようと思う。

ピサック村で作る壺と皿

 中米から南米大陸の太平洋岸を走る地震帯は、世界でも有数のもので、さらに、イースター島の北西の海底には1300余りの火山が群がっている。1960年から2007年の8月までで、30回近い大きな地震を記録している。 1960年のチリ地震では、太平洋を渡った大津波が、日本の三陸地方に被害をもたらした。この地震の死者は5900人、マグニチュード9.5で、世界の地震史上最大と言われたが、日本の観測では8.3であった。つい最近でも、 2001年1月13日と2月にもエル・サルバドルで大きな地震が起きたし、2003年1月にはメキシコの太平洋岸7.8の大地震が起きている。
 そうした中の一つで、 1970年5月31日、リマ北部のアンカシ地方を中心に起きた地震は、マグニチュード7以上と言う大きなものであった。州都のウアラス市では45秒間も震動が続き、ユンガイの町は両側に連なる山の上部が崩れ、低地にあったこの町は、崩れた土砂が覆い被さって完全に埋没した。周辺のカラス、マンコス、カルウアスの町村も大被害を受けた。この地震による死者は5万人以上と言われており、復旧のため国連の呼びかけに応じた世界各国が救援活動を行い、埋まった町の上に新たに道をつけたりする作業が5年間も続けられた。

毛糸で編んだクッション

 1970年5月31日の地震の後で、ペルーで起きた地震だけを取り上げて見ると、 1974年10月3日の中部地震、1979年2月の同じく中部地震、1981年4月の東部地震、同じく1981年6月の中部地震、1990年5月29日の北東部地震、1996年10月12日のリマ南東部地震とマグニチュード7以上の地震が頻発している。 この中でも、1974年10月3日の地震は、最初の日本人移民が上陸した場所として知られる、カニェテの沖合いの深さ50キロの海底で発生した、マグニチュード7.8と言う関東大震災並の物凄いものだった。 カニェテの海岸では海水が200メートルも沖合いに引いたと いうことである。
 この日はたまたま、1968年の軍事革命の6周年記念日だったが、この地震のため式典は中止された。 リマ市の古い住宅はアドベ(日干し煉瓦)造りが多く、鉄筋が入っていないため地震には殆ど抵抗できず、倒壊家屋がたくさんでた。また、リマから南へ30キロ離れた海岸の砂漠にある、有名なパチャカマック遺跡も、 太陽の神殿を始め多くの城壁が広範囲に渡って崩れ落ちた。 

日本人移民の一部が初めて上陸した
カニェーテの海岸

 1981年には東部と中部で2回も地震が起きた。実は、この前年に米国の地震専門学者が「1981年の8月頃、ペルー沖でマグニチュード9.9の大地震が発生する」との予知を発表したため、ペルー海岸地方やチリなどでは一種のパニック状態となり、ペルー政府も米国に確認を求めた。その結果、それほど正確に予知できるものではないとの結論になったが、この年はペルーで2回、チリで1回、どちらも中規模の地震が起きたことを考えれば、米国の予知は半分当たったようなものだと言うことになり、この年は年末まで両国はかなり不安な日々を送ったと言うことである。
 さらに、1990年5月29日、北東部で6.3の地震が起きた、余震が20回以上にも及び、死者200人以上、負傷者800人以上、家を失った者は15000人に上ったと言われる。この日は、2日後の5月31日が5万人以上の死者を出した中部アンカシ地方を襲った大地震の20周年目にあたり、死者をともらう式典の準備の真っ最中であった。そして、1年後の1991年4月6日にも北部がM6,2の地震に襲われ、死者30人、負傷は多数をだした。
 21世紀に入ってからの記録は未整理のためここに記載する事が出来ないのが残念である。

(ペルー編  終わり)

 

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第15回

 

 

 

その3

(その1 その2 その4)

 

博物館巡り、日本人の歴史

大統領官邸(政庁)全景

 万年雪を頂くアンデスの山々、日本人好みのフォルクローレ、カラフルな民族衣装、数々の著名な遺跡などなど、南米のイメージの全てを持つのがペルーである。観光で行くには魅力たっぷりの国だ。しかしこんなペルーも、大分前だが、初めてリマに着いたある日本人のジャーナリストは その時の印象を、"骸骨のすすり泣きが聞こえそうな国だ" と言った。
 4月ごろから8月頃までの冬は、 ガルーア(霧雨、海霧)が立ち込め、灰色の空気に覆われるからである。反対に9月から3月頃までは雨が降らない。訪れる時期によって印象が全く変わるのがペルーである。南米大陸の太平洋岸は、東からの湿った空気がアンデス山脈に遮られて1年中雨らしい雨が降らないので、ペルーの北部からチリ北部までは砂漠だらけである。雨が降らないので、リマには傘屋がない。日本に始めてきた友人に最初に傘を買う事を勧め、折り畳み傘の使い方を教えたことを思い出す。
 1532年にピサロがやってきて、インカ帝国を滅ぼし、リマに首都を定めてから数百年の歴史を持つこの街には、多くの教会がある他、博物館もたくさんある。その中で、日本人観光客がよく行くのが ;
①アンデスへの夢とロマンに生きた天野芳太郎氏が、チャンカイ渓谷で発掘した土器、織物を集めた「天野博物館」
②インカ王家の黄金文化を集めた 「黄金博物館」
③インカ族の性行為を通して、おおらかな人間性を率直に現した陶器の人形を多数集めた「ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館」
である。
 本編では、このうち、黄金博物館と、ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館の収蔵品と、天野博物館の一部を紹介しながら、ペルー編冒頭で述べた、ペルーと日本との関わりの中で過去の重要な出来事について書いてみようと思う。なお、ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館のエロチックな人形を収蔵した別館は、未成年者の入場は禁止されている。天野博物館の残りについては、最終編で紹介する。

≪マリア・ルス号事件≫

横浜港で中国人を救助した
英国軍艦
アイアン・デューク
(1872.7)

  この事件は、今から丁度150年前、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク"が一人の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号"船内の窮状を訴えた。船の中の待遇は動物同然で、移民を斡旋した仲介人が言っていた待遇とは全く違っていたのである。この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民の間には虚無感があふれ、農村は疲弊しきっていた。

葬儀用仮面、緑の涙
:黄金博物館

 一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を至上命令とした、ラモン・カスティージャ大統領のもと、金銀の採掘や特産のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望しマカオに来ていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ドルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていたのである。 マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置として、まだ国交の無い日本に避難したのである。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が英国軍艦に救助されたのである。

神人像付き毛抜き
:黄金博物館

 英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けて政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長のリカルド・ヘレイロを裁判にかけた。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時として驚きの目で見られ、大江卓の人権擁護思想の下に進められた裁判は、9月13日に結審し清国人は全て開放されて本国へ送還された。
 この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された。この事件が後の、日本人移民が実現する伏線になっている。

≪悲劇の元蔵相、高橋是清の足跡≫
 岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、

 

2.26事件のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった)によって、反乱軍に自宅で射殺された。この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。
 1889年(明治22年)、当時、特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルーのカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。そこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。
 昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は、散々な苦労をした。是清の従者が馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落するなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る是清は、悠揚せまらず、"アンデスも転びてみれば低きもの"と人ごとのように一句を吟じたりしたと言う。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年も掘り尽くされた廃坑同然であった。
  特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(今なら凡そ8700万円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は、惨憺たる失敗であった。一行は千々の思いを砕きながら帰国した。日本の政治史に残るような大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。是清は家屋敷を売り払って借金を返したと言う話である。陽気で人が良いなどと言われるラテンアメリカ人の、怖い一面を現した事件の一つである。

≪日本人移民の入植と、悲惨なペルー下り≫

リマ南部カニュテ港に着いた第一回移民

 1800年代後半の日本は、明治維新後の国内の統合と再建が始まり、変化の激しい時代であった。首都が東京に移り、封建機構から脱却して政治構造が激変した。また、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との通商関係が緊密になっていった。その一方で、軍国主義による領土拡張政策が推し進められ、軍隊が増強された。工業の発展と軍隊の増強は、必然的に人口の増加をもたらす結果となった。

戦士文様杯:黄金博物館

トルコ石と金の首飾り
:黄金博物館

  1872年の人口3450万人が50年後の1920年には、約2倍近い5460万人に達した。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から溢れ出した余剰人口は、代替労働を求めて都会に集まってきた。しかし、これらの自由労働者を救済するための措置は十分ではなく、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。行き場の無い人々は、食うための手段を自分達で解決するしか方法がなかったのである。特に農村の二、三男達は相続できる土地がないため悲惨であった。これらの解決方法として考え出されたのが外国への移民であった。
 一方、19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(ボリビア編参照)の荒廃から徐々に立ち直り始め、工場設備は近代化され、生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖の価格上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力不足が決定的になってきた。
  それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄したのである。

戦士文様杯:黄金博物館
蛇神の首飾り:黄金博物館

 この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴収したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるとか、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。 こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
 移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。
 これに対し農場主達は、武装ガードマンを派遣するなどで対抗した。中にはピストルで殺された移民もいた。しかし、農場主達は中国人との問題を経験していたので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられので、1900年、日本政府の調査団がペルーを訪れ、全員を送還しよとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束したため、送還は実現しなかった。

ラファエル・ラルコ
・エレーラ博物館

 それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデスを越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスを超え、ボリビアやアルゼンチンへ逃げた人達がいる。しかし、過酷な山脈を抜けることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが、移民哀史で言う「ペルー下り」、或いは「ペルー流れ」である。

新人モザイック首飾り:黄金博物館

ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館

 しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資本を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。
 森岡移民会社が行った渡航は、1899年から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名となっている。
 しかし、このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では5万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎えた。

ラファエル・ラルコ・
エレーラ博物館

≪日系人排斥運動と国交断絶≫
 フジモリ大統領の誕生を頂点に、ラテン・アメリカで最も親日国になったペルーとの歴史の中でも、1940年(昭和15年)5月13日に起きた排日暴動は、ペルーと日本との関係の中で、最も忌わしい出来事の一つである。民芸品の話とは全く関係ない話だが、ペルーを語る機会に、その真相を書いてみようと思う。  1930年代のペルーは、米国資本と結びついた「40家族」と呼ばれた白人達が支配していた。彼らは日本人の経済的進出を嫌い、例えば、日本人がスパイを組織したとか、秘密軍事基地を作ったとか、武器弾薬を陸揚げしたとか、まことしやかなデマを流して、日系人に嫌がらせをした。

ラファエル・ラルコ・
エレーラ博物館

  ペルーには他にも外国の移民がいたのに、特に日系人が狙われたのは、日米関係の悪化に伴う米国の反日ムード作りが背景にあったのである。また、ペルー社会には、日系人がペルーに移住してから、まだ40年も経っていない新参者にもかかわらず、急速に成長した妬みもあった。その上、日系人の商売が既存のペルー人の小規模な店との摩擦を生み、ペルー人側が面白く思っていないと言う情勢に、米国が目をつけたとも言われている。このように1930年代の末期には、国内に多くの不安定要素があり、いつそれが爆発してもおかしくない状況だったのである。1940年(昭和15年)5月13日に起こったリマの排日暴動は、このような社会的背景の下に起きた事件である。しかし、そのきっかけは、日本人理髪業組合内部の、同胞相食む醜い抗争が原因であった。

ラファエル・ラルコ・
エレーラ博物館

 当時リマでは理髪店の数が飽和状況に達し、このままでは共倒れになることを恐れたH組合長が、市役所の役人を抱きこみ、傲慢にも独断で自分の商売敵22軒に閉店命令を出した。ところが、閉店を強制された側は、官憲にコネのあるF氏を立てて、市当局にこの命令を撤回させ、争いは法廷に持ち込まれた。H組合長は領事館を抱きこみ、日系新聞もH組合長側につき、F氏を攻撃した。
 事件が大きくなったのに驚いた領事館は、F氏に日本への帰国を命じた。ペルー国籍をもっているF氏を強制的に送還することは違法であったが、中央日本人会も領事館の決定を支持した。領事館はF氏を強制送還するため逮捕しようとF氏の家に侵入した。この時たまたま同家にいたペルー人のマルタ・アコスタと言う女性が巻き込まれ、死亡してしまった。悪い事に、この女性の親戚に地元新聞の社長がいたため、新聞は連日、日本人ボイコットを煽動する悪質な排日記事を書きたてた。険悪なムードが市中に流れ、ついに破局がやってきた。
 市内のガダルーペ中学の学生が、排日スローガンを書いたプラカードを手にして市中を行進し、これに野次馬が加わり、日本人商店に投石を始めた。暴動はやがてリマ市内から隣接の港町カジャオに飛び火し、さらに地方の都市へも波及した。しかし、不可解にも警察は介入せず、制止さえもしなかった。暴動は5月13日から翌14日の夜まで続いた。この結果、日系人620家族が被害を受け、被害総額は当時の金で600万ドルに達した。このうちの54家族316人が再起不能の被害を受け、1940年7月16日、日本郵船の太平洋丸で帰国を余儀なくされたのである。
 悪夢のような暴動は2日間で終わったが、日本人達は暫くは、このショックから立ち直る事が出来なかった。ここで不思議なのが中国人の動きであった。今までは暴動が起きれば中国人の店も被害を受けていたのに、今回は店先に青天白日旗(今の台湾の国旗)を掲げ、高見の見物をしていたのである。このようなことから、当時、日本軍が中国大陸への侵略を続けていたために、中国人が煽動に1枚噛んでいたのではないかとの憶測も流れた。
 ところが、事件から11日目の5月24日、リマ市一帯は大地震に襲われた。アドベ造りの家は大被害を受け、大勢の死傷者がでた。誰言うともなく、「罪の無い日系人をいじめた天罰だ」との噂が流れ、科学的知識に乏しい妄信的カトリック教徒だった一般大衆は、改悛の情を顕わにした。地面が揺れ戸外に飛び出した人々の中には、「私は日本人に何にも悪いことはしませんでした」と、手を合わせ、膝まづいて天に絶叫する女達が沢山いたと言うことである。
  地震が収まってから略奪した品物を日本人の家に返しに行ったペルー人もいたと言われている。この地震は全くの偶然とは言え、高ぶっていたペルー人の反日感情を抑える上で何よりの役割を果たした。まさしく神風だったのである。この暴動は一応収まりはしたが、日米関係の悪化と共に、時代は確実に破局に向かって進んで行ったのである。
  ペルーとの国交は、第二次世界大戦でペルーが連合軍に組し、日本との国交断絶を声明した1942年(昭和17年)1月24日に途絶えた。日系人は財産を没収され、米国に強制的に追放されたり、日本に強制送還されたりした。戦争終結後も再移住を認められない人達も大勢いた。 このように一時期、ペルーは反日国であり、”日本人移住者の受難の時代”があったのである。それから10年後の1952年(昭和27年)6月17日、日本とペルーとの国交は再開された。

≪天野芳太郎氏の足跡と博物館≫

天野芳太郎氏

天野博物館
(リマ・ミラフローレス)

http://www.museoamano.org/

 天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため強制送還された。

出産する女性像の壺
:天野博物館

人間像の壺:天野博物館

 しかし、ラテン・アメリカへの夢と情熱は絶ちがたく、持ち前の執念で、戦後の1951年(昭和26年)、密出国のような形で出日本を離れた。ところが、乗船したスエーデンの貨物船クリスターサーレン号(4900トン)が太平洋上で暴風雨に遭遇し、船体は真っ二つに割れて沈没、13時間の漂流の末救助され、日本へ送還された。その後1か月足らずの後に再び日本脱出を果たし、米国、パナマを経て、運良くペルーに着いた。勝手知ったペルーに渡ってからは、魚粉、魚網などの製造事業を行いながら、青春時代からの夢である、古代アンデス考古学研究への挑戦が始まった。

 戦前からのアンデス遍歴で、知識は十分に持っていた。未発掘の遺跡を求めて、リマ北方200キロのチャンカイ渓谷にとどまり、いつ果てるともなき発掘作業が続けられた。それから20数年間の地道な遺跡発掘の労苦が実り、2300余点の貴重な宝物を収集し、その成果は世界に知れ渡った。
 天野氏自身はその過去について多くを語らないが、戦前戦後を通して、人には言えない労苦を重ねてきた財産を、1963年に念願の天野博物館を建設する際、殆ど使い果たしたと言われる。各国からペルーに来る皇族、政府要人の殆どが、この博物館を見学に訪れると言う。日本で開かれたいくつかのインカ展にも出品した。米国や欧州、中南米諸国などの展覧会にも毎年のように出品を求められている。

川鵜で魚を獲る漁師
:天野博物館

 ペルーの古代文明研究者には全ての収蔵品が開放されており、写真撮影や、出版にも無料で便宜が供与されている。チャンカイ文化の"つづれ織り"など7点が、ペルーの切手図案に採用されている。日本人を始め世界の50余か国から同館を訪れる観光客は、年間約6000人に上る。それも申し込み制による無料である。

武将のミイラ:黄金博物館

ペンギン鳥の甕:天野博物館

 天野氏は、 「ペルーの民族的遺産を、外国人の私が有料で公開することに抵抗を感じる。文化不在といわれる日本へのイメージを少しでも和らげるために無料に徹したい。研究者が誰でも展示品を手にとって見られるように、私の独創的な配列をしている。一般公開にすると、館員や警備員の増員などの問題が出てくる」と語っていた。

 しかし博物館の維持のために、日本の文化交流調査団からの「募金箱」を設置したらとの提言を受け、入館者から募金の形で寄付を受けている。人件費を含む運営費は年間凡そ1600万円かかると言われているが、21世紀に入り入館者数も回復し、どうやら運営の目処がついたと伝えられた。


  ペルー編第3部では少し視点を変えて、過去の日本との関係について書いてみたが、巧く纏められたか不安である。日本にはペルーを知る人が多いので、ご指摘を頂ければ幸いである。

(ペルー編 第3部 終わり)

 

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第14回

 

 

 

その2

(その1 その3 その4)

 

空中都市マチュピチュ

 早朝6時にクスコの サン・ペドロ駅を出た観光列車は、2~3度スイッチバックを繰り返した後、マチュピチュに向かって110キロ余りを緩やかに下って行く。ほぼ中間でウルバンバ川の鉄橋を渡り、左側を流れる岩だらけの急流に沿って走ると、両側が見上げるばかりの断崖に囲まれた渓谷になり、 マチュピチュ駅に着く。

マチュピチュのほぼ全景。
左側に段々畠、家屋などがある。

手前のアグアス・カリエンテス駅の近くには温泉があり、近年は此処のホテルに泊まってアンデスの神秘な夜を過ごし、かってインカの王様も眺めた、南十字星と月を愛でて、翌朝早くにマチュピチュに登るという贅沢なツアーもある。クスコの駅もマチュピチュ駅も、そして列車も綺麗になった。特に先頭の1両は、鮮やかなブルーの車体で、特別料金をとる1等車である。遺跡は駅のある渓谷からは400メートルも高い場所にあるが、クスコよりは低地なので、クスコで ソロッチェ(高山病)にかかった人でも、此処へ来ると元気になる。

左:段々畠の上に立つ住民の家
右:「蛇の窓」から眺めたウアイナピチュ

 マチュピチュとは "老いた山(峰)"という意味で、全体の写真に必ず写る向こう側の高い峰を、対照的にウアイナピチュ "若い山"と呼ぶ。1911年7月24日、 米国人のハイラム・ビンガムが、僅か金貨1枚で、地元のインディヘナに案内させて発見し、世に知らしめてから、110年以上が過ぎた。駅からバスで、登山道(ハイラム・ビンガム・ジグザグ道路)を凡そ400メートル登った所に、ホテル・ツリスタスがある。ホテル前の展望台から遺跡への道が始まるが、今では遺跡に入るのは、自動改札式になった。入り口の横の斜面には、ハイラム・ビンガムの功績を称えた プラッカ(銘板)が貼り付けられている。遺跡発見50周年を記念して、1961年に取り付けられたものである。

 

マチュピチュの住居跡

 遺跡に入ると、まず 段々畑(アンデネス)が目の前に広がり、その脇に家が建っている。往時の人々は、安住の地を求めてか、それとも、宗教的観念のためか、居住地を好んで山の傾斜地の テラスのような場所に定めた。花崗岩の山腹を垂直に切り下げて建てられており、そのような家が今でも完全に残っている。

 農作物のテラスも、階段式に切り開いて造られている。ここでは、じゃがいも、とうもろこし、オユコ、キヌア(粟)の他、野菜や果物が栽培された。これらの土地を パチャママ(母地)と呼び、子々孫々に渡って耕作された。しかし、傾斜地のため耕作にはかなりの肉体的努力が必要であった。マチュピチュは、此処でなにをしたかということに確証をあたえることは難しい。

見事な段々畠

 その理由は、記録と言う物が無いからである。ここを 賢者の家だと言っても断定はできない。入り口を入って間もなくに、噴水とか浴場とか言われる泉がある。これを マチュピチュの聖水と呼んでいる。この水は此処から湧き出したのではなく、遠方から水道やトンネルを通して、引いてきたものである。それを熟練した技術で、常時一定の水量が流れるように作られた。 遺跡の一番低い場所に、監獄と呼ばれる所がある。そこには大きな三角形の岩盤があり、その岩の一端が、丁度コンドルの頭のように彫られており、周りには排水用の溝がある。生贄の血が地面に流れ込むようにしたもので、 いけにえの台と呼ばれている。

屋根を復元した建物

 マチュピチュの街並みは、不規則で急坂な土地に建設されている。従って、道も自然に階段式になる。あちこちに長短の階段が多く、その幅もまちまちである。マチュピチュの家は周りの石積みだけが残っていて、屋根はなくなっている。屋根は回りの石の壁に木を渡して梁にし、これに萱のような草を載せて、蔓や獣皮で硬く結び付けてあった。往時の手法で 屋根を復元した家がある。

 インカ族は、階級官位によって暮陵も様々であった。かなりの地位にあった人か、もしかしたら インカ皇帝の墓ではないかと思われている墓跡がある。半分崩れ落ちた岩石の下からは、沢山の人骨が発掘された。遺跡の中央部近くに、常時市街を監視していた高い塔がある。

インカ皇帝の墓稜といわれる場所

塔は馬蹄形をしていて、高度の技術と精密な設計の元に建てられた。これと同じようなデザインの建築物は、他のインカの遺跡にも見られる。居住区の中に、二つの大きな 摺り臼がある。これをモルテーロと呼んでいる。これは、穀物を摺り潰して粉を作るのに使われたと言われるが、一説によると、非常に高い柱を立てたときの土台石ではないかとも言われている。

 遺跡の入り口から入って左手の段々畑の上に、巨大で平面な石がある。 葬儀用の石台と伝えられており、死者を埋葬する前に、この石の上で最後の祈りを奉げたのである。この石の後部に大きな輪が付けられているので、一説によると、ここに死骸をくくりつけ、神の鳥と信仰するコンドルに食わせたのであろうとも言われている。

日時計

この石の表面は入念に作られていて、側面には神官だけが登る段が刻まれている。 三つ窓の宮殿は、外側から見るとかなり際立った印象の建物であるが,一般ルートの内側を歩くと、余り注意を引かない場所にあり、うっかりすると、気がつかずに通りすぎてしまう。これは由緒ある建物で、風変わりである。有史以前の建物なのに、梁の支え台があり、両端では両方の壁を支えるのに、溝に組み込むようになっている。専門家は、この建物は、完成しないまま放置されたのではないかと推測している。

 インカ族は天文学もしくは天文術に大変長じていた。インティワタナと称する 日時計を使い、月の回転から1年12か月を割り出し、正確に月と太陽の関係を知り、太陽に因む祭典の日を確実に知っていたようである。その上数学にも精通していて、幾何学的図案なども見事に描いていた。

峻険なインカ道

マチュピチュの建物を、長方形石建築法と言い、共同住宅建築の場合に用いられる工法である。この窓を 蛇の窓と言って、昔はこの部屋で沢山の蛇を飼いならしていて、占い術や呪詛の場合に使ったようである。階段や窓口の厚さなどにはティワナコ文化が影響していることを多くの学者が指摘している。

 囚人を繋ぐ石は、犯罪人を括りつけるためのもので、手首を穴に通し結び付けた。両側に穴の開いた石がある所もあり、両手を広げて結び付けるようになっている。マチュピチュに入って左側の段々畑の裏側を下ると、インカ道があり、クスコや、さらには中央アンデスの、インカの領土へも通じている。道の入り口には関門を示す石柱が立っている。そこから先は、崖淵に沿って人が一人やっと通れるくらいの、細い石積みの道が伸びている。マチュピチュは三方が断崖で、唯一南側だけに山続きの道がある。 断崖に懸けられた橋は、とても用心深く、しかも完全に、石と木材を巧みに組み合わせて作られている。

見張り塔という説があるが、場所が低い。
太陽の神殿ともいわれている。

 マチュピチュの最も古い部分は2000年以上も前に造られたのではないかとの説もあり、少なくともインカ以前から存在したと考えられている。スペイン人は征服した土地の貴重な建築物や財産を破壊したが、ここは、発見されることなく、現代に残された極めて貴重な遺跡である。

 発見されてからは時間が止まり、今後10年や20年、いや100年200年で変わってしまうことなどは想像できない。ところが、全てが死んでいる遺跡の中で、一つだけ生きている物がある。中央の広場に立っている 一本の名も知らぬ木である。右中段に立っており、ゆっくりと成長している。今ではテレビでマチュピチュが写る事は、それほど珍しいことではない。私は、その度に、この木に注目してきた。いつ頃から生えたのか知らないが、現代のマチュピチュの様子を知る、ただ一つの証人だからであり、懐かしいからである。

遺跡の前方に聳える峰は、
ウアイナピチュ(若い山)という。
頂上まで段々畠が出来ている。

 マチュピチュの話の最後に、外観の全体像を紹介して締めくくりとしたい。マチュピチュの写真は、必ずこのような パノラマ展望写真である。しかし、これは、入り口から入って、左側の段々畑の上にある、見晴らし小屋辺りから、北方の ウアイナピチュを眺めて撮ったもので、全体の半分しか写っていない。本当は、ウアイナピチュの中腹辺りから南方を写したものと合わせて、全体が分かるのであるが、まだそのような写真を見たことが無い。ウアイナピチュに登るのは大変危険だ。ウアイナピチュの頂上近くにも 段々畑があるので、インカ族はそこにも住んでいたという証拠である。

 ツーリスタス・ホテル前の展望台から下の渓谷を眺めると、 ウルバンバ川が白い帯のように流れている。この川はアマゾン川の源流の一つで、激流は左右に屈折を繰り返し、滝を作りながら、北へ流れていく。雨季の1月から3月頃にかけては、いろいろな蘭やベゴニアなどの、この地でなくては見られない珍草奇花が咲き競い、パラダイスのような光景が展開される。

 雨季のマチュピチュは、晴天の日が少ないので、運が悪いと折角行っても、青い空に、遺跡を飾るアクセントのような雲が浮かぶ光景を撮ることはできない。スペイン軍に追われ、此処を捨てたインカ帝国は、更に奥地へと逃げ延びていったと言うのが定説であるが、果たして何処へ行ったのだろうか。とんでもない所に、まだ発見されない遺跡が眠っているのかもしれない。

(ペルー編 第1部 その2 終わり)

 

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第13回

 

 

 

その1

(その2 その3 その4)

 

日本との関係、クスコ周辺の遺跡

 南米諸国の中で、日本と関係の深い国が3つある。
 一つ目は、ハワイと並び日本人移住者が、世界で一番多いブラジル、二つ目は、日露戦争のとき、当時のハイテク巡洋艦リバダビア、モレーノの2艦 (これが日進、春日の両戦艦で、日本海海戦で東郷元帥率いる連合艦隊の中で大活躍をした)を日本に譲ってくれたことと、戦後の食糧難の時代に、小麦粉やミルクを一早く供給してくれたアルゼンチン、三つ目が、1872年のマリア・ルス号事件以来、日本との間に政治的経済的な数々の出来事を記録してきたペルーである。
 その数々の出来事の主なものを簡単に纏めると、次ぎのようなことである。

①横浜に入港したペルーの貨物船から逃げ出した中国人奴隷を保護したため、維新後初の大きな外交問題となった、マリア・ルス号事件(1872年、明治5年)。

②ペルーの銀山を開発しようと、時の特許局長高橋是清(226事件(1931年2月26日)当時蔵相で、皇道派反乱軍に射殺された)が、カラワクラ鉱山に乗り込んだが、これがとんだペテン話で、全財産を失った話(1889年、明治22年)。

③佐倉丸に乗った第一回契約移民832人が、リマの外港カジャオや、リマ南方のカニェーテに上陸したこと(1899年、明治32年)。

④当時ペルーを支配していた40家族と称する白人達が、米国資本と結びついて日系人排斥運動を起こし、600家族以上が迫害を受けたこと(1939年、昭和14年)。

⑤米国の尻馬に乗って日本に対して国交断絶をしたこと(1942年、昭和17年)。

⑥天野芳太郎博士が、リマに生涯の夢の実現として天野博物館を開設したこと(1964年、昭和39年)。

⑦日系二世のフジモリ大統領が誕生したこと(1990年、平成2年)。 ⑧そのフジモリ元大統領を数々の罪名をつけて逮捕に裁判にかけたことなどである。

 1960年代後半あたりから、日本が経済大国になった後は、南米諸国へも多額の有償無償援助を行ってきた。中でもペルーの電気通信のインフラの改善発展にはNTTと競争するかのように、パラグアイと共に日本が大いに貢献している。これもペルーと日本を結びつける大きな出来事の一つであった。これにはフジモリ氏が大統領になったと言うことが、大きな遠因になっている。今のペルーはフジモリさんを裁判にかけ、長期の実刑にしたが、近年認知症などで出獄している。
 20世紀末のペルーには、センデーロ・ルミノッソ((輝く道)という反政府武装集団によるテロが横行していたし、超インフレにも苦しんでいた。ペルーが安全になり経済発展を遂げたのは、フジモリ氏のお蔭によるところが大きいと思うペルー人も多いのである。娘のケイコ氏がその後2回の大統領選挙に立候補したが、2回とも僅差でやぶれた。日本政府の、フジモリ氏に対する援助が殆ど聞かれなかったのが残念でならない。 
 書店には旅行記とか案内と称する本がたくさんある。南米ものも然りである。しかし、旅行記はあくまでも旅行記であって、一時期の滞在体験談にすぎない。食べ物も、着る物も、住む所も、全てが違う文化と習慣を持つ外国を知るには、やはりその土地に住んで、庶民と接した生活を経験して見ないと分からないことがたくさんある。  
 南米の国の街作りは一般的に、一定の長さ(100米が多い)の道が四方を囲んだ一つのブロックが住居区の単位になっている。道に面した表側が店や入り口で、奥が中庭(パティオ)になっていて、各家の裏口が面しており、洗濯物を干したり、お互いにお喋りしたり、時には楽器を弾いたり、興がのれば踊りだす所である。  
 こうした裏側に入り込んでみて、初めて国民感情とか、庶民の生活習慣などの奥底を知る事が出来る。私はペルーには10回位は行ったが、所詮は旅人であって、表通りしか見ていない。しかし、日本にはペルーについて良く知っている人が多く、沢山の本も出版されている。従って、ペルー編については、今までの話しとは趣を変えて、ポイントを絞って書いてみようと思う。

クスコの中央にあるアルマス広場
左:大聖堂 右:ラ・ニンパーニャ・ヘスス教会

 まずは、ペルーと言えば誰でもが思い浮かべるのが、世界遺産であるインカ帝国の首都だったクスコと周辺遺跡群、そしてマチュピチュ遺跡であろう。私は過去3回マチュピチュに行ったが、一番最近でももう20年以上になる。しかし幸いなことに、マチュピチュは南米観光の最大の目玉なので、テレビでもしばしば放送されるため、最近の様子が分かる。もっとも、世界遺産が10年や20年で様子が変わることがあるはずはなく、何時の写真を見ても同じ姿を保っている。しかし、遺跡の中央部の広場に立っている1本の木だけは、遅々とした成長ながら、着実に育っており、遺跡の静かな移り変わりと見守っているように見える。この木については、後で述べることにする。まずは、クスコ周辺から案内しようと思う。

【クスコとその周辺遺跡】

<クスコ市内>

 アルマス広場前の通り

 クスコは昔インカ帝国の首都だった。クスコの中心は アルマス広場である。かってのインカ王国を構成していた4つの州から来る動脈道路は、みなこの中央広場を始終点としていた。今は人口40万のペルー第2の都市である。
 海抜3360メートルのこの町に着くと、ボリビアのラ・パスほどではないにしても、空気の薄さを感じる。クスコの殆どの家屋は、往昔のインカ人によって建てられた土台の上に造られているが、街並みは、皆スペイン風の家屋に建てかえられた。広場に面して 大聖堂(カテドラル)が聳えている。これは、インカ時代のビラコーチャ神殿の跡に建てられたもので、完成は、1650年頃で、銀300トンを使った祭壇は一見の価値がある。宗教画も400点ほどあり、中でも、マルコス・サパタが書いた"最後の晩餐"が興味をそそる。

 アツン・ルミジョク通り全景

 屋根には、1659年に付けられた南米最大の鐘があり、その音は40キロ先まで響いたと言われる。この大聖堂の右に同じように広場に面して立つのが、 ラ・コンパーニャ・ヘスス教会である。インカの第11代皇帝ワイナ・カパックの宮殿跡だ。いまの建物は、1650年の大地震の後に立て替えられたものである。 アルマス広場周辺は観光客向けの民芸品店、レストランなどが集まっていて、いつも人通りが絶えない。

アツン・ルミジョク通り
の12角の石

市内にはインカ時代のままの通りが多く、中でも、 アツン・ルミジョク通りには、カミソリの刃も入らないと言うほど精緻に積み上げた有名な、 12角の石組みが残されている。この石組みを土台にして建てられたのが、インカ帝国第6代皇帝インカ・ロカの宮殿で、のちの大司教庁である。今では 宗教芸術博物館になっており、その中庭はコロニアル風建築の第一級品で、特に中央にある噴水は、精巧なレリーフで飾られた優美なものである。

<サクサイワマン遺跡>

インティ・ライミ"が行われる
サクサイワマン遺跡

 クスコの東方を守るために、14世紀の第9代皇帝パチャクテックの時代に作られた要塞で、巨石を3層に積み上げ、22個のジグザグを描きながら360メートルも続いている。建築技術はインカらしく、石と石がぴったりと噛み合っており、内側には、高さ5メートル、重さ360トンもある巨石が使われている場所もある。

 サクサイワマン遺跡の巨石

石積みの前の広場では毎年6月24日に、 太陽の祭り"インティ・ライミ"が行われ、インカの儀式がそのまま現代に伝えられている。

<ケンコ遺跡>

 インカ帝国の祭礼場だった舞台
(ケンコ遺跡)

 サクサイワマンから15分ほど離れた所にある遺跡で、石を削って作られている。インカ帝国の祭礼場だったと言われており、巨大な1枚岩を削ったスクリーンのようなものや、観客席らしきものもある。上の方には、ジグザグの溝が彫られている石があり、生贄にした羊の血を流して、占いをしたと言い伝えられている。

<タンボ・マチャイ遺跡>

 聖なる泉と呼ばれている所で、数百年もの間、常に一定量の清水が湧き出している。インカ時代の沐浴場だったようであるが、未だに、何処から水が湧き出してくるのか分かっていない。サイフォンの原理(コーヒーサイフォンのように低い所から上に水を上げる)を応用して、遠くから水を引いていると言うのが有力な説である。清水が湧くので、ここに外敵を監視する見張り所が築かれていた。

<オジャンタイ・タンボ遺跡>

 オジャンタイ・タンボ遺跡の巨石

 浮き彫りをした石壁を持つ神殿と、墓地の遺跡である。ここの巨石建築は、人間の力の限界を示したとも言える神業のような大工事だった。ここに使われた巨石は、渓谷を流れるマラニョン川の対岸の、かなり遠くから運ばれてきたもので、一つの石を運ぶのに途中で力尽き、今でもそのまま放置された石が残されている。この石を "ピエドラ・カンサーダ(力尽きた石)"と呼ばれている。

(ペルー編 第1部(前編)終わり)

 

★ 本記事を書いている間に、ロシヤのウクライナ侵入が始まったニュースを聞いた。1962年のキューバ危 機を思い出し、あの時はケネディが先に核の話を出したように想う。それにフルシチョフがビビったんだと、 薄らと覚えている。今回はプーチィンが先に持ち出した。危ない話で、ゾットして物を書く手も止まる。嫌 な世の中、もう少し早めにこの世に見切りをつけておけばよかったかな、と変は後悔をしている。ウクライ ナを中立地帯にするのがが一番いいと思うんだけど。 さて・・・ *

 

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第12回 ①  第12回 ②

 

 

 

後編
(前編はこちら

 

 チチカカ湖は海抜3890メートルで、アンデス山脈のほぼ中央に位置する、世界で一番高い湖である。琵琶湖の約12倍あり中央部にボリビアとペルーの国境線が走っている。ペルーのナスカ地方の地上絵が上空から発見されたのは、そう古い話ではないが、チチカカ湖は上空から見ると、「プーマ(南北アメリカ大陸に住む猫科の動物で、インディヘナが信仰する動物の一種;豹)が兎を咥えている姿にそっくりだ」と言われている。

チチカカ湖全図

 地図を見ると確かに良く似ている。北西のペルー領から南東方向にかけて、プーマが飛びかかり、兎の喉笛に噛み付いている姿に見える。正式名称は、プーマの部分をチチカカ湖、兎の部分をウマイマルカ湖あるいはラゴ・チーコ(小さい湖)と呼ぶ。可哀想な兎はボリビア側にあり、奇しくも、収奪される歴史を重ねてきた哀れな国の、宿命を現しているようである。

 ボリビア領のアンデス高原でチワナコ文明を築いたインディヘナはインカ帝国に征服され、その後、スペインに支配され、独立以後は、チリやパラグアイとの戦争に敗れ、国土が半分以上も減ってしまったと言う気の毒な国である。地下に豊富な天然資源を持ちながら、開発資金が無いため、長い間資源が開発されず、採掘されても外国資本に搾取される哀れな国で、「黄金の椅子に眠る乞食」と言われてきた。

ラパス市内の自警団
交通整理などをする

 1982年のメキシコの債務破綻以降、ラテン・アメリカ諸国では経済停滞が続き貧富の差が拡大した。低所得者の不満を背景に左派政権が次々に誕生してきた。中でもベネズエラやボリビアは反米姿勢の強い急進左派の筆頭である。2008年4月にはパラグアイの大統領選挙で61年ぶりに中道左派が勝った。ボリビアではモラーレス大統領が、中央集権の強化で資源が生む富の再配分を積極的に行おうとするのに対し、資源を握る欧米の移民派は反政府行動を激化させ、国内不安が強まっていった。

経済回復に伴い商品も豊富になってきた

しかし、2008年9月サンチアゴにおける南米諸国連合の首脳会議ではモラーレス大統領への全面支持が表明され、さらに2009年、米国に民主党のオバマ大統領が登場し、従来の構図も大きく変わったのである。 

 そのモラーレス大統領は自身のインディヘナ出身を強調するためか、2010年に国名を従来のボリビア共和国から 「ボリビア多民族国 Plurinational State of Bolivia」と言う国名に変更した。一種の力の誇示でもある。長年に渡って耐えてきた抑圧と搾取への我慢が爆発したのであろう。ボリビアと同じように国名を「ベネスエラ・ボリーバル共和国」に変えたベネスエラのチャベス大統領などの反米大統領の率いる国々の民族主義の高揚は、これを一気に高まり、周辺には左より政府が次々と登場した。

ラパス市内を見下ろす、
イジマニ山

 中南米地域は麻薬がらみの紛争などは別として、1959年のキューバのカストロの革命戦争以来、ただ1回だけ、1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争を除いて本格的な戦争は起きていない。反政府ゲリラと政府軍との内戦も、1996年12月のグアテマラの内戦終結ですべて終った。世界全体を見た場合、現在のイスラム教諸国や,旧ソ連の衛星国をめぐる緊張などと比べると、比較的体制の安定している大陸であるということができると思う。いつまでもそうであってほしいものである。

岩山の向こうに見えるのが世界最高地にあるラパス・カントリークラブのクラブハウス

 ボリビアの首都ラ・パスの国際空港は「エル・アルト空港」といい、海抜4080メートルにあり、世界最高地の空港だ。旅行社によっては、ここへ着いた客に"世界最高地空港へ来た"と言う証明書をくれる会社もある。この他にも世界一高いと言われるものに、スキー場、サッカー場、ゴルフ場などがある。 ラ・パスは擂鉢の底に開けたような街で、空港から市内に入るには擂鉢の縁を通らなくてはならない。下へ行くほど空気が濃くなるので低地が高級住宅地である。空港飛行機から出て普通に歩こうものなら、たちまちソロッチェ(高山病)にかかる。頭痛がしてきてからでは遅い。最低1~2日は無駄にしなくてはならない。鼻血が出ればしめたものだ。気圧が低くて頭に上った血が溢れ出るので、これで楽になれる。

世界最高地のサッカー場の
入口に立つ模造石像

私は、ホテルで酸素ボンベを借りて酸素を吸ったのだが、さっぱり効果がなかったのを思い出す。味も臭いも無く、ただ"シューシュー"と口の中に空気のようなものがはいっているのが感じられるだけで、30分も吸っていても体調に変化はなかった。マラソン選手などがゴールした直後に酸素を吸っているのを見るが、あれで本当に効いているのだろうかと思う。

 高地に住むと赤血球が多くなり、重労働でも息が上がらなくなる。マラソン選手などがよく高地へトレーニングにでかけるのはそのためだ。しかし、だからといってボリビアの選手がどんなスポーツに強いと条件があるようだ。ボリビアは2002年のワールドカップ南米予選で敗退した。しかし、もし、ワールドカップがラ・パスで行われれば、間違いなくボリビアが優勝するだろう。

チワナク遺跡の太陽の門、
地震で割れた

 世界一高地のゴルフ場は球が良く飛ぶ。ある日本人駐在員が5番アイアンで250ヤードもキャリーで飛んだと喜んでいた。しかし、慣れない人間がプレーしようものなら、1番のグリーンへ行くまでにダウンしてしまうだろう。こんなゴルフ場のフェアウエーやグリーンはどんな状態なのか見たいものであったが、目の前まで行きながら残念ながら見るチャンスがなかった。

 空気は平地の30%くらい薄いので御飯も早く炊き上がる、しかし、芯が残るので圧力釜じゃないと駄目だ。ラ・パスは擂鉢の中の街なので、ちょっと歩いてもすぐに坂になる。そのため此処を走る車はエンジンの馬力が30%は落ちるので古い車は走れない。

ラパスの下町と上の町を結ぶロープウエー、2019年に11本完成ときいていたが どうなったか?

このため、ラ・パスの街には新車が多い。他の国から来た人間は、なんでこの国は自動車だけは新しいのが多いのか不審に思うが、皆その理由を聞いて納得する。

 ラ・パスの中心部から擂鉢を這い上がり、4000メートルのアルチプラーノ(高原)に出ると、擂鉢に入れなかったインディヘナが住むエル・アルト(空港と同名)と言う町がある。 通りの幅だけは広いが埃っぽく、道に面して意外に小奇麗な2階建ての家並みが続く。でも、歩いている住民は100%インディヘナである。この町を抜けて行くと、スペイン人が最初に首都を建設しようとしたラハの町がある。首都であったら多分中央広場になっていたであろう、広場に、バロック風の教会が目に付く寂れた町である。1時間ほど車を走らせると、紀元前600年頃まで栄えたチワナコ遺跡が見えてくる。

ボリビアとペルーを結ぶ世界最高地のマイクロ中継塔

 チワナコ遺跡で有名なのが、太陽の門である。チワナコの巨石文化を代表する、あの門の上部の横石にはひびが入っている。1908年の地震でできたものだ。この他にも発掘された遺跡があるが、中でも半地下の宮殿跡で、周囲の石の壁には200個位の人の首が飾られている遺跡が有名だ。どんな人の顔も、この中には似ている顔があると言われるが、白人系の顔はないようだ。その他にも、まだ未発掘の遺跡らしき土が盛り上がった部分が、あちこちに残されている。チワナコ遺跡からチチカカ湖までは70キロ余りであるが、辺鄙な場所にチチカカ・ホテルと言う小奇麗なホテルがある。途中の湖岸には、底が腐り始めて役目を終えたトトラの船があちこちに捨て去られ、静かに消滅の時を待っている。

ホテルの自前の衛星アンテナ

 チチカカ湖といっても最初に着くのは、本物のチチカカ湖とラゴ・チーコが繋がっている狭い水道部分である。つまり、プーマに咥えられた兎の喉笛に当たる場所である。この細い水道は数百メートルしかなく、渡し舟で15分くらい掛かる。この渡しを渡ると、ペルーとの国境は目と鼻の先にあり、チチカカ湖に突き出たボリビア領の最端の町コパカバーナに通じる道が始まる。昔のインカ道の名残でもある。

チリと戦った太平洋戦争の英雄、エドアルド・アバロア将軍の像

 渡し舟の桟橋の横に、コンクリートでできた記念碑が建っている。ボリビアにとって、悔やんでも悔やみきれない、太平洋戦争のモニュメントである。台座の一方の面には、軍人やインディヘナが遥かな海を望んでいる姿の画があり、「ボリビアは海への出口を要求する」と書かれている。反対側の面には、ボリビア軍が銃剣でチリ兵をやっつけている絵が画いてある。そして、台座のうえには、1879年3月28日の戦いで死んだ英雄エドアルド・アバロア将軍が、右腕を西(太平洋方向)に向けて伸ばした銅像が乗っている。ボリビアの太平洋への出口への欲求は、ちょうど日本の北方領土返還の悲願と同じようなものであるが、こちらの方は、国の繁栄が止まって以来、すでに130年以上も訴えつづけているのだ。チリが返還に応じる可能性などは、万に一つも無いだだろうから、ボリビアにとって未来永劫に背負わなければならない宿命である。

海のないボリビア海軍の陸に上がった巡視艇

 海への出口を奪回したいボリビア海軍は、その名前だけは今でも残し、水道を渡った向こう岸のチキーナと言う町の湖岸に、たった1艘の高速船を象徴的に残している。(現在はどうなっているか不明)。この船は水面に浮かんでいるのではなく、湖岸の「海軍司令部」の前に台座を設けそこに鎮座しているのである。これについて、ブラジルjのピアーダに面白いやり取りがある。

【ブラジルの大統領が、ボリビア大統領に、貴国は海がないのに海軍とはこれいかに? と聞くと、ボリビア大統領は、貴国は経済秩序がないに等しいのに、何故経済省があるのか?と聞いた。】

湖の畔に住む先祖代々の土着民

 この戦争の経緯を、ボリビアの「アマルゴ・マル=悲嘆の海(オスカル・ソリア脚本、アントニオ・エグイーノ監督、製作年月日不詳)」と言う映画が詳しく紹介している。日本人には殆ど知られていない"元祖、太平洋戦争"の概要を、かいつまんでお話しよう。

 『1879年初め頃、ボリビアの太平洋岸地域一帯には、この地方の鉱物資源の採掘権を、ボリビア政府から得たチリ人や英国人が多数進出していた。しかし彼らは、この地方を自国領土にしようとの野望を抱き、ボリビア政府と協定した税金を意図的に滞納して、ボリビア政府を挑発した。

地下に黒いマリアがいる教会

当時は、通信手段としては人間の足で文書を伝える他に方法がなかった。そのため、6000メートル級の山々を越えなければならない首都ラ・パスと海岸地方の間の情報伝達は十分ではなかった。1879年の初めに、海岸地方の地質調査に行った鉱山技術者が、チリ人の横暴な進出を見て大統領に報告、政府は初めて事態の急迫に驚いた。ここから事態は一挙に戦争へと転がり落ちるのである。
 一方、チリの有力な政商は、言葉巧みに、また自分の愛人などを利用して、ボリビア政財界や軍隊上層部などに食い入り、ボリビア政府の政策などを、逐一チリ政府に通報するなどの一種のスパイ行為を働いていた。
 ボリビア政府は、チリ人達を駆逐しようとしてこの地方に軍隊を送るが、政商から常に最新情報を得て、予め軍備を整えていたチリ軍は、これを待っていたかのように、1879年2月、アントファガスタを占領してしまった。そして、遥々とアンデスを越えてきたボリビア軍を一蹴した。ペルー軍とボリビア軍は連合を組んで応戦したが、1880年5月の戦いで連合軍は大敗した。
 1881年1月、チリ軍はペルー中央部まで進出し首都リマを占領した。このとき、ペルーの侵略者ピサロのミイラが安置されている大聖堂もチリ軍に蹂躙された。惨敗を喫した両国はアルゼンチンなどに仲裁を頼み、1884年、戦いは漸く終わったが、ボリビアとしては絶対に手放してはならない海への出口、アントファガスタ地方を割譲され、永遠に国の繁栄が閉ざされてしまった。』

湖畔の村人の唯一の楽しみは祭、一晩じゅう踊り明かす

 これが元祖太平洋戦争の概略であるが、資源と貿易港という国を支える2本柱を失ったボリビアは今もって、経済力の弱い国であるが、近年は豊富な鉱物資源の採掘が盛んになり、特に有名なウジュニ塩湖の下には世界最大量のリチュウムが眠っていると言われ、将来に明るい希望がある。「黄金の椅子に眠る乞食」 がようやく目を覚ました。と皮肉られている所以でもある。 チリとはその後何回か国交断絶と再開が繰り返されてきたが、いずれも解決を見ずにきており、1987年4月にはウルグアイのモンテビデオで、海への出口の返還交渉が行われたが、当時のチリのピノチェット大統領は、一片の土地も譲らないと強行姿勢を示し、これに対してボリビア外相が、卑怯者とののしったり、チリ製品のボイコットを決めるなど、両国関係は一触即発の危機状態に陥ったこともあり、今もって不仲である。

ボリビア主産品の銀の民芸品

 渡し舟を降りた所がチキーナ村だ。眼下に湖が眺められる高台の教会の庭は、何かと言うと村人達が集まる広場になっている。カーニバルの祭りは元より、結婚式の祝いのフィエスタなどには村中の人々が集まって一日中踊り狂う。特に女性の服装は華やかで、日頃の質素な服装をこのときだけは、かなぐり捨てて華やかさを競う。喧騒を後にするとインカ道は高台の尾根のように湖を眺めながらくねくねと続いている。時たま、リャーマを引いた農夫に出会うこともある。リャーマはアルパカと共に、インディヘナが長い年月をかけて家畜化した動物で、らくだ科のなかなか気難しい動物だ。

ボリビア特産品の民芸品、左から銀、陶器、椰子の実

背中の荷物が20キロ以上にもなると動かなくなり、無理に立たせようとすると、唾をはいたり足で蹴ったりする、わがままな奴である。らくだ科には、この他に、大きい順に、ビクーニャ、グアナコがいるが、これらは野生のままで、寒冷の高地を走り回っているが、近年は毛皮獲りの密漁にやられ、減ってきたようだ。

 中南米に住む原住民の先祖は、2万年前の氷河期にアラスカ海峡を渡ってきたアジア人だと言う説が一般的である。アラスカから南に向けて順々に定住を始め、気性の強い部族が、豊富な食料や、温暖な気候の土地を求めてさらに南下した。従って、南に行く程、気性の強い原住民が住み付くようになったと言われている。アンデス中部に住み着いたインカ族も、スペイン軍との戦いの歴史を見ると、かなり勇猛な種族だったように思える。一番南に定住したチリのアラウカーノ族は、最後までスペイン人の侵略を許さなかったことで有名である。

どこの国、どこの町も夜は飲み歌い踊る

  兎を咥えたプーマの口あたりにある町が、チチカカ湖に突き出たボリビア最西端の町、コパカバーナである。昔インカ帝国のメッカであった町で、クスコ方面へは船で出たが、アンデス高原地方との交流に利用した石畳のインカ道が今でも残されている。リオ・デ・ジャネイロの海岸と同じ名前であるが、リオの華やかさとは全く違い、今は各地のキリスト教信者が集まる信仰の町で である。窟のようなトンネルの奥には褐色の肌の聖母マリア像がある。スペイン人が原住民の感情を考えて、肌の色を原住民と同じような色にしたと伝えられている。コパカバーナにはペルーとの国境関門がある。

陶器の民芸品

しかし、インカ族の後裔であるペルーのケチュア族や、ボリビアのアイマラ族にとっては、現在の国境線は余り意識してないようで、大昔のインカ帝国の版図の中で、自由に高原を歩き回っている。 ラ・パスの夜は、やはりペーニャのフォルクレオーレを楽しむことだ。2~3日もいればソロッチェ(高山病)も治るので、高原地方のフォルクローレを聞き、踊りを見ながら、ボリビアの地酒チュフライや、シンガーニャなどを嗜むのがよい。素朴なメロディを聞いていると、いつ笑うのかと思うほど他人には決して笑顔を見せない、インディヘナの"もの悲しさ"の心の奥底を伺い知ることができるかも知れない。 

 (2022.1.31 改定 記)

(ボリビア後編終わり)

 


 

前編
(後編はこちら)

 

 

ラパスのエル・アルト国際空港
標高4000米

  ボリビアの首都ラ・パスの中心部にある、サン・フランシスコ教会は、1549年にスペイン人の植民地化が始まるとすぐに建てられた教会である。丸屋根の塔が美しいバロック風の建物で、入り口は、"ムデハル"様式と言って、花弁のような切り込みがあり、中世スペインの特徴的なデザインである。
 教会の前は市内の目抜き通りで、どんな用があるのか知らないが、いつも、大勢の人々が集まっている。人々の半数以上はインディヘナで、特に女はスカートを何枚も重ねた独特の衣装を着て、出身地ごとに区別された帽子をかぶり、背中にカラフルな織物で包んだ荷物を背負っている。

 教会の左側の道は"サガルナガ通り"と言う登り坂で、坂の途中には大小の民芸品店がたくさん並んでいて、売っている物も千差万別だ。坂の上には、原住民の市が1年中開かれていて、生活に関わるあらゆる品物が揃っている。日本製の電気製品などもたくさんある。

 サンフランシスコ教会の前

(注:従来使われているインディオと言う言葉は原住民への差別言葉であるとして現在禁止用語なので、聞きなれない言葉であるが、本文ではインディヘナと国連などで使用される呼称をつかっている。)

 ボリビアは、ペルーと共に、私の知る限りは、南米で最も民芸品、手工芸品の豊富な国で、1軒の店でもつぶさに見ていようものなら、たちまち数時間が経ってしまいそうだ。

サガルナガ坂の市場

 ラテン・アメリカの民芸品は、何処の国も大別すると、材料や形や題材は様々だが、壁掛け、置物、敷物、人形類と大体相場が決まっており、この他に金銀や宝石・輝石などを使った装身具や装飾品なども、選ぶのに困るくらい豊富にある。サガルナガ坂の真中にある一番大きい店に入ると、壁や天井まで一面に、木彫りのインディヘナの農夫、チャスキ (インカ時代の唯一の通信手段だった飛脚のこと。足が自慢の若者が、アンデスの険しい山々を越えて国中を走り回った)の姿、インディヘナが信仰した神々の顔、リャーマ、アルパカなどの動物の模様の壁掛けがびっしりと飾られている。
 周りの棚や台の上には、本物の毛で出来たリャーマやアルパカなどの動物人形、インディヘナの人形、トトラ (チチカカ湖で採れる葦の一種で2メートル以上もある)細工の船、ポンチョやセータ、袋物などの他、小さなキーホルダーや魔除けやら数え切れないほどの民芸品が山を築いており、その種類の多さには驚かされる。また、精巧な木彫り細工の壷、瓶、コップなどもある。

腐りかけて放置されたトトラ船 

 ボリビアは、今でこそ大した量ではないが、かっては、ヨーロッパの経済を支配したほどの銀と、錫の産出量を誇った国なので、銀や錫でできた製品は山ほどある。大は大きな壁掛けや皿から、小は小さな指輪や、ネクタイ・ピンまで、また食器でも、ナイフ、ホーク、スプーン、ナプキン立て、ペーパーナイフ等は元より、普段は使わないような、錫製のワイン・グラス、ビール・グラス、コーヒー・カップなどまで揃っている。
 チチカカ湖の写真に必ず出てくるのが、トトラで作った船である。この船は湖岸に住むインディヘナの生活に欠かせない道具であるが、トトラは腐りやすくて寿命が短いので、しょっちゅう新しいのを作っていなければならない。観光案内書や絵葉書などには、チチカカ湖沿岸に残骸をさらすトトラの船が写る事はないが、あちこちの水際には朽ち果てたトトラ船の無残な姿が晒されている。

トトラで作ったリャーマ人形

 民芸品のトトラ船には、大きいのは1メートル位のものもある。作り方は本物とおなじようであるが、帆の上に吊るす毛糸で作った飾りものの意味が良く分からない。購入しても持って帰るのが大変で、壊れやすいので飛行機の中まで抱えてこなくてはならない。
 農夫の木彫り人形は、必ず男女が左右対称になっている。暗い色調のものが多い。顔つきは、どこかアジア人種に似ているが、鼻の直線が特徴的である。女の被っている帽子は、色や形で住んでいる村が分かるようになっていると言う。皆表情が幼稚で暗く、男女の区別が分かりにくい物が多い。 ラテン・アメリカの民芸品には、何処の国にも、様々な大きさの壁掛け類があるが、特に毛糸を編んで作ったものは素晴らしい色彩のものがある。しかし、デザインや細工はそれほど優れているとは思えないが、額などに入れて飾ると重厚な感じがでて、現地を思い出すい記念になる。  

エケコと言う縁起物人形 

 ラ・パスから北に道を取り、ペルーとの国境線が通るチチカカ湖へ行く。途中の村々には、トラックの運転手や、沖の小島に渡りたいという、物好きな旅行者を運ぶモーターボートの運転手などが屯す、小さな食べ物屋がある。ちょいと寄って、パンチョ (コッペパンのような形をしている固いパンにチョリッソを挟んで、マスタードをたっぷりかけたホットドッグ)を食べ、セブン・アップかコカ(コーラのこと)を飲んで、少しの時間駄弁る所である。
 こうした店の一つで見つけたのが、トトラで出来たリャーマと羊の人形と、それに女が路上で機織をしている人形だった。
 トトラのリャーマなどは、毛でできたリャーマと同じで、何処にもあると思ったのだが、意外とこれが珍しい物で、ラ・パスでは殆ど見かけなかった。ただ、乾燥が完全でないのか、日本の湿気が悪いのか、時が経つと中からトトラの芯が粉のようになってこぼれてくる。

インディヘナのペアー人形

 機織の人形の顔つきは若く見える。ペルーのアンデス高地でもそうだが、、実際に高地の路上で見る機織女は、かなりな老婆である。もっとも平均寿命が短いので年齢は案外若いのかもしれない。この人形が店の棚の上に飾ってあるのを見て、一目で気に入った私は、是非売ってくれとモッサ (店の女の子)にたのんだ。売り物ではないと言うのを無理に頼んだので、足元を見られ言い値で買うしかなかった。なんと、40ドルである。それでも満足だったのだが、ラ・パスを去る時、空港の売店でこれが、たったの13ドルで売られていたのを見て、悔しい思いをしたものである。知らないということは恐ろしいことだが、こういったことも経験となり勉強になる。
 インディヘナは、一見従順で素朴な感じで、旅行者を誤魔化す事などしないと思っていたが、どうして、中々の商売上手だということを後で聞いた。ラ・パスの路上では、煙草やガム、キャラメルを1本ずつ一個づつ売っているが、これが結構いい商売になり、稼いだ金でバスや自動車を買い、これを個人や会社に貸して、さらに儲ける人たちがいると言う話しを聞いた。

乾燥コカの葉を売る女

 ラ・パスからチチカカ湖への道とは正反対に南へ230キロ、車で3時間も走ると、昔は錫鉱山で栄えたオルーロの町ヘ着く。ここのカーニバルは、リオのカーニバル(ブラジル)、クスコのインティ・ライミ(ペルー)と共に、南米の3大祭りの一つに数えられている。このお面は、"La Diablada(悪魔の踊り)"で、悪魔が被るもので、金銀をちりばめた龍のような形をしている。踊りは最後に、悪魔が天使ミカエルに討たれて終わる。お面の実物も売っているが、とても重いし大きくて、日本からの旅行中には買えるものではない。
 ここのインディヘナの市は、鉄道線路の両側に露店が広がり、一部は枕木の上まで進出しているが、1日に何本か列車が通る度に、汽笛に追われるように急いで荷物をまとめて線路脇に避難する。 そんな危険と同居しながらも、ラ・パスのサガルナガ坂上の露天市に負けぬ賑わいを見せている。 路上に広げた品物は主に食料品であるが、観光客に珍しいのは、乾燥したコカの葉を売っていることだ。

コカの葉を落とし、
出来た形で占う占い師

 コカは麻薬のコカインの原料になるものだが、本物のコカインにするには、その数千倍とか数万倍の原料葉が必要だと言う。私も幾度かコカの葉を煎じたコカ茶を飲んだり、口の中で噛んだりしたが、決して美味しい物ではない。何となく生臭くいだけで、味も香りもしなかった。日本では絶対に出来ない貴重な経験だった。それでも、高地のホテルでは、高山病の予防にと旅行客に提供してくれる。麻薬も薬には違いないわけで、インディヘナ達は、子供の頃からこの煎じた茶のようなものを飲んだり、葉を噛んだりして育つので、彼らには癌や心臓病、それに目や歯の悪い人はいないと言われている。路上で売っている乾燥コカ葉は飲むだけではなく、占いにも使われる。乾燥した葉を、目の高さ辺りから地面に落とし、落ちた葉の形や高さで、色々なことを占うのだそうだ。

男女のカップルだが
どちらも厳しい顔で
男女の見分けがつかない

 雑貨店のようなアラシータの店には、日常使う物から、車、家、電気製品、食料、さらにはお札や、証券類まで、生活に関する全ての物のミニチュアがある。これを買って、お酒や花などを供えてお祈りすると、願いが叶うと言われている。インディヘナの希望や夢の一旦が伺い知れると言うものである。

 オルーロからさらに南に下るとウジュニ塩湖がある。南米大陸のこの辺りは、アルゼンチンのリンコン塩湖とかチリのアタカマ塩湖などがあり、湖底には世界の凡そ80%とも言われるレアメタルのリチュームが眠っている。電気自動車などの電池に欠くことのできないリチュームを巡って、先進国をはじめとする多くの国々がその開発利権の争奪戦を繰り広げている。日本勢の健闘を是非期待したいものである。

 ウジュニ湖といえば2008年の5月、日本のゴールデンウイークにボリビアへ行った日本人観光客が、イスラエル人観光客を乗せた車と衝突して5人が死亡した悲しい事故が起きている。

乾燥したリャーマ胎児とか
動物の乾燥品を売っている、
薬のようである

 ボリビアをよく知るには、ラ・パスとオルーロとチワナコ遺跡とチチカカ湖などだけではなく、銀の町ポトシとか、憲法上の古い首都であるスクレとか、日本人移住者が多く気候の良い、サンタ・クルスとかコチャバンバなどの町がある低い地方や、広さ12000平方キロもある雪原のような広大な塩の湖ウジュニ湖(ウユニ湖)などを見ないと、よく分からと思うが、残念ながら私は行ったことがないので、ここで紹介することは出来ない。

 さらに東北部のベニ州はコカインの元になるコカの畑がたくさんある所で、南米の麻薬の主産地の一つである。普通の人が近づく所ではない。そこで、この物語では再び道を北に取り、チワナコ遺跡を通って、ペルーとの国境にある、世界一高い湖チチカカ湖へ向かう事にする。

(ボリビア編 前編おわり  2022.1.3 記)
後編はこちら 

 

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2021年

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第11回 

 

 

 

  1980年代後半になるが、五木寛之原作の小説を元にした「戒厳令の夜」と言う映画があった。主演は、小林圭樹、伊藤孝夫、樋口加奈子などで、当時新人の樋口加奈子が、全裸のヌードでデビューしたのを覚えている。 ストーリーは、南米のどこかの国(この映画ではグラナダとなっていたと思う)から流れ出た有名絵画を、伊藤孝夫、樋口加奈子の二人がその国に返しに行き、そこで起きた反乱に巻き込まれて死んでしまうと言う筋書きに、小林圭樹がに扮する自衛隊の幹部がクーデターのようなことを起す話が絡んでいたように思う。残念ながら詳しい事ははっきり覚えていない。

 モンセラーテの丘

 物語りの中の反乱は、チリのアジェンデ政権を倒した、ピノチェット将軍の革命(1973年9月)をモデルにしているようであった。この革命シーンなどの海外ロケがコロンビアであった。映画の中では特に撮影地についての説明などなかったが、映画を見ていて、見覚えのあるモンセラーテの丘やら、国立競技場だとか、ボリーバル広場などが出てきたのですぐに分かった。 

 モンセラーテの丘は、市の西に立っていて、ボゴタ(注1)のシンボルである。ここからは新旧市街が一望にでき、特に夜景が素晴らしい。

 シモン・ボリーバル博物館

 頂上には教会があり、祭壇の後に回ると、何百、いや何千かもしれない松葉杖と、落書がびっしり書かれたギブスが、通路一杯に積み重ねられている。ここは、身体障害にご利益のある寺院なのである。この丘にはリフトとロープウエーの両方で登ることができるが、この丘の下がすりやかっぱらいがうようよしている、観光客などにとってはまことに危険な所である。丘の手前に南米解放の英雄シモン・ボリーバルの別邸があり、年中観光客で賑わっている。
(注1)ボゴタはBogota'と最後の母音にアクセントがあるので、ボゴタッ↑ としり上がりに発音する。

 
 ボゴタのエル・ドラド国際空港

 1996年12月にグアテマラの内戦が終わって、ラテン・アメリカには平和がやってきたと思っていたが、コロンビアだけは永らく麻薬集団の反政府軍との間で、争いが絶えなかった。現在は平和協定ができている)。そのあおりを食って、日本人の誘拐事件も時々起きた。まことにお気の毒なことである。でも多少の危険は何処の国にもあるもので、よほど運が悪くなければ、そうそう、危険な目に遇うものではないと思うが、如何なものであろうか。 

コーヒーを運ぶロバ

 コロンビアといえば、まず思い浮かべるのは、コーヒーとエメラルド、そして、近年はカーネーションであろう。コーヒーは、南米ではブラジルに次ぐ生産量を誇っている。中西部アンデスの1300メートルから1800メートル位の高原で栽培され、現地ではティントと呼ばれており。そのマイルドな味は日本人にも珍重されている。

 その昔、クレオパトラがすっかり気に入っていたと言われるエメラルドは、世界の60パーセントを産出する。昔、日本人の河合誠一さんと言う人が、コロンビアで産出するエメラルドの半分を輸出していて、エメラルド王と言われていたが、その後はどうなったのだろうか。風聞によると、何か犯罪に巻き込まれたと言うようなことを最近聞いた。

 
 人も物も混載する、チーバス

 このような国だけあって、かっては、ボゴタのエル・ドラド国際空港に着くと、ロビーへの通路の両側のショウ・ウインドーには、エメラルドの原石がたくさん陳列されていて、この国を訪れた旅行客の欲望を刺激していた。エメラルドには澄んだ色(透明度が高いので色が薄い)のものから、濃い緑色まであるが、欧米人は澄んだ色のものを好み、日本人は濃い色を好むと言われる。
 緑色石の中に別の結晶があるのが良いとされているようだが、私には本当のところはよく分からない。市内の薄暗い通りなどで、汚い子供がポケットから、エメラルドらしき緑色の石をいくつも取り出して ”安いよ安いよ” と売りつけるが、これだけは絶対に買ってはいけない。ぐずぐずしていると、警官がよってきて子供を追っ払ってくれ、気をつけるように注意される。ちゃんとした宝石店は、扉が二重になっていて、その上にガードマンがピストルを持って立っている。

 
 革製の水筒、馬に乗る人が使う

 我々が買うのには、やはりこのような店で買うのが間違いない。宝石にとって、台や枠に使うので絶対に欠かせない金やプラチナもコロンビアは南米最大の産出国であるが、その割には指輪でもブローチでも驚くほど安いと言うわけではなく、値段はせいぜい日本の半分位だったと覚えている。それに、これは覚えておかれると良い、南米の指輪、ネックレスなどの台に使う金は、ほとんどが14金である。色が18金にくらべ黄色っぽい。

 また、あまり知られていないが、コロンビアは日本へのカーネーションの輸出量が膨大である。何時間くらいで成田まで来るのか知らないが、特に、"母の日"が近くなると、この量が急激に増える。コロンビアは、宝石や金、プラチナがたくさん採れ、国花にもなっている美しい蘭の花があちこちに咲き誇り、色とりどりの果物が溢れ、美味しいコーヒーがふんだんに飲め、人々は陽気なクンビアのメロディーに乗って踊る、色彩溢れる美しい国である。その上、コスタ・リカ、チリと並び、石を投げれば美人に当たると言われるほど、美女が多く(注2)すべてが羨ましい国なのに、残念なことに麻薬にからむ血生臭い事件が多く、何となく行き難い遠慮したくなる国であったが、数年前、政府と反政府軍との和解が成立し、平和が戻ってきた。
(注2)ラテン・アメリカの女性は20歳くらいまでが華で、年ごとに下半身に肉がついてきて魅力が薄れてくる。(この部分余り口外しないこと)。

農家の動物小屋

  また、この国は南米西海岸に横たわる火山帯の上にあり、ご多聞に漏れず地震が多く、火山の爆発もある。1985年には西部のネバダ・ルイス火山が爆発し、泥流で麓のアルメロという町が消滅した。1993年1月にはガレラス火山が爆発し日本人研究者も危険な目にあった。1994年6月、1995年2月、1999年1月とM6以上の大きな地震が起き、最近では2008年5月に中部でM5.6の地震があり6人が死んだ。 

 ボゴタ市内にある黄金博物館は、コロンビアに行ったら是非見学しなくてはならない場所だ。"エル・ドラ-ド"と言う言葉は、新大陸の征服者達がアマゾン川の流域に求めた、伝説の黄金境のことであるが、この伝説の発祥地がコロンビアである。1939年に建設された博物館で、サンタンデール公園の一角にあり、ものものしい警備がなされている。

 
木製のスプーンとフォーク

 収蔵する黄金の品々は36000点に及ぶといわれ、中に入るとガラス・ケースの各陳列棚には、大は宗教儀式の装身具や装飾品から、偶像、器などまで、まばゆいばかりに燦然と輝いている。中でも小さい製品は、並べてあるのではなく、ガラス箱の中に雑然と放り込んであると言う表現がぴったりする。

 2008年9月に、東京上野の国立科学博物館で 「ジパングとエル・ドラド」 と言う展覧会があった。世界の有名な金製品が陳列された中に、このコロンビアの黄金博物館の所蔵品の一部が出展されていたのを覚えている人もいると思う。

 このような国なので、コロンビアの民芸品は、金銀を使った物が多く、デザインは蘭(オルキディア)の花をあしらったものが特徴的である。その他には、南米定番の革製品や陶磁器、籐細工、牛の角をつかったものなどがある。牛の角と言えば、ボリーバルの別荘の入り口から建物までの、アプローチの両側の土留めが、全部牛の背骨を埋めたものであったのには驚いた。

 果物や野菜を満載したトラックや、チーバスと言う乗合バスを模した陶製の置物は、日本でも、ラテン・アメリカ製品を扱う民芸品店で売っている。(一時に比べ最近はこの種の雑貨を売る店がほとんど見られなくなってしまった)。革の袋は元々は馬に乗った昔の旅行者が、ワインや水などを入れて携帯したものだが、現在では模様や風景などを画いたものが室内装飾品として民芸品になっている。

 
 マラカス持ちクンビアを踊る男女

 また、コロンビアの代表的音楽は、チリのクエッカに似た、男女がペアーになって回りながら踊るクンビアである。観光客相手の市内のショー・レストランで、毎晩鑑賞することができ、これを形取った人形もたくさんある。市内にある巨大なガレリア(吹き抜け式のショッピング・センター)"ウニ・セントロ"は、南米のガレリアの中でも草分け的存在と言えるものである。
 ボゴタから約50程北へ行くと、シパキラの岩塩洞窟がある。ここは、海抜2650メートルの高地にあり、岩塩の山を刳り貫いてキリストを作った、塩の教会がある。中の温度は平均14度で、ひんやりとする。教会の壁を舐めてみるとどこも、しょっぱい味がする。ここは、スペイン人が侵入してくるまでは、原住民の酋長"シパ"の住居だったものである。ボゴタ郊外にはこれと言った観光ポイントがないので、シパキラの岩塩洞窟の教会は、唯一の観光地とも言える場所である。 
 

 
 ショー・レストランでは
外国人の国旗を飾ってくれる

 コロンビアには、植民地時代の面影を今も色濃く残しているカルタヘーナとか、コーヒー、砂糖産業の中心地カリとか、常春の気候で国花の蘭の主生産地メデジン、それに紀元前900年頃まで栄えた石像文化の遺跡があるサン・アグスティンなど、観光地としての魅力を十分に備えた所が各地にあるが、私は、訪れる機会がなかったため、紹介することができず、また、収集した民芸品も少ないので、コロンビアについては底の浅い内容になってしまったのが残念である。

 そこで、メデジンと言う都市の名前が出てきたついでに、アルゼンチン・タンゴを多少なりともご存知の方はご存じと思う、不世出の偉大なタンゴ歌手、カルロス・ガルデルが、メデジン空港での飛行機事故で死んだ、と言うことに触れておこうと思う。この真相は、86年も経った今でも、完全には究明されていないミステリー物語である。この物語は、(財)ラテン・アメリカ協会発行の機関紙「ラテンアメリカ時報」、1993年7月号および、世界の音楽情報誌「ラティーナ」、2015年8月号に発表している。
 この事故は、1935年6月24日の午後3時頃に起きた。3時頃としか正確な時間が言えないのは、遺体の持っていた時計や、飛行機の時計、それに飛行場の記録が皆違っているからである。

民芸品の壁掛け、
下左はチーバス、
右は黄金博物館の記念品

 メデジン空港のある、アンティオキア州という所は、タンゴは我々の州の音楽だなどと言うほど、狂信的タンゴ・フアンの多い所である。ガルデルが、このような所で死んだというのも、神話の導いた運命かもしれない。

 この事故の詳細については 上記雑誌の記事の元になった私のホームページ の 「メデジン空港の事故の謎に迫る」に詳しく記載してある。

 アルゼンチン人の話が長くなってしまったが、コロンビア編はこの辺で終わりにしたい。


(2021.11.3改定 コロンビア編終り) 

 

 

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第10回 

  

 

 アタカマ地方の温泉

  チリは南米大陸の西側に張り付いたような地形をしている。南北の長さは南緯18度20分から56度までの4200キロもありながら、東西は一番広いところで僅か180キロしかない、鰻のような国である。サンチアゴの空港を飛び上がる飛行機が、風向きにより東に向かって離陸すると、目の前にアンデスの山々が屏風のように立ちふさがり、ぶつかるのじゃないかと、ひやりとすることがある。

 イースター島のモアイ

国土の端から端まで飛行機でも5時間かかる。これだけ長い土地のため、気候も北部の酷暑地帯から、南極に近い極寒地帯まで、地球上のあらゆる気候が存在する。北部は地球上で最も乾燥した砂漠地帯であり、塩湖があり温泉が噴出する。此処のアタカマ砂漠は標高が3000米もあり空気が澄んでいて 「宇宙に一番近い観測地」として各国の天文台が集中している。ここの気象条件は太陽光発電にも適しており、東大が2008年から世界最大級の太陽光発電を始めた。

 
 プエルト・モンの民芸品店街

 南部に行くに従い雨の多い地域になり、無数の湖沼が点在する風光明媚な地帯になる。最南部は森林と川と入り組んだフィヨルド地帯でマゼラン海峡まで続いている。このため海岸線が長く、総延長距離はヨーロッパの海岸線よりも長い。さらに、本土から3800キロ離れた南太平洋上の謎の孤島、モアイ像で日本でも良く知られるようになった、イスラ・デ・パスクア(イースター島)もチリ領である。 イースター島も観光客が増えて、落書きとか石像の破壊など様々な犯罪に犯されるようになってしまった。

プエルト・モンの青空市場

 民芸品の旅という本題を無視すれば、チリについては書くことが一杯あるが、本編では南部と中部それに北部から、主に日本人には余り知られていない話題を取り上げることにした。

 米国の故ケネディ大統領が作ったと言われる、パンアメリカン・ハイウエーはアラスカからチリのプエルト・モンまで南北のアメリカ大陸の太平洋岸を走っているが、途中パナマとコロンビアの間のダリエン湿地帯で切れている。何故切れたままなのかはっきりした理由を知らないが、地質的に工事が難しくて建設できないからだとか、戦略的理由から南北を分断しておくためだとか、口蹄疫の牛が陸地伝いに米国に入ってこないようにするためだとか、いろいろ言われている。

 
 湖と湖の間をバスで移動する

 ずっと以前、南米の牛の口蹄疫の流行が問題になり、米国が第二次大戦後、中米地峡地帯までは、この病気にかかった牛を個別に処理し絶滅させた。 広い南米には手がつけられないが、この分断のお陰で、口蹄疫にかかった牛が中米以北に来る心配はないと言う話しを聞いたことがある。日本でアルゼンチンの肉が食べられない理由は、
①口蹄疫は人間には影響はないが、家畜(ひずめのある)の間に一度流行すると、餌を食べなくなりやせ細って死んでしまう大変な事態になると言う取り越苦労的な心配と、
②主たる輸入国の米国やオーストラリアへの気兼ねから、アルゼンチンの生肉の輸入が禁止されていためなどである。
 幸い今はあるゼンチン肉も食べられるようになったが、日本では後発で、本当の美味しさが分かってないので、人気はいま一つのように思う、食わず嫌いとはこのことかもしれない。

 
 チリ富士と呼ばれるオソルノ火山

 パンアメリカン・ハイウエーの南の終点プエルト・モンは、鉄道や長距離バスの終点でもあるし、アンデス山脈を越えてアルゼンチンと結ぶ、数本の陸上交通の一番南のルートの終始点でもある。大袈裟に言えばチリだけでなく、南米文明の終点とも言える都市である。此処から南はフィヨルドと、森と川の間に荒れた平地が続く、殆ど人の住まない地域になり、道がないので交通は船頼りである。  プエルト・モンとアルゼンチンのサン・カルロス・バリローチェを結ぶアンデス超えのルートには四つの湖があり、船とバスを乗り継いで超えるのだが、真夏でも真冬の服装が必要だ。

国境の真上にそびえる
アコンカグア

  しかし、このルートは他のルートに比べ,風景が抜群に美しい。特に一番西にあるジャンキウエ湖の東側に聳える"オソルノ火山"は、日本人にチリ富士と呼ばれるのにふさわしい優雅な姿を見せている。チリとアルゼンチン国境の南部アンデス山脈には休火山がいくつもある、いつ噴火するか分からない。2008年にはチロエ島の東に位置するチャイテン火山が爆発した。火口から30キロのチャイテン町の住民4000人が海軍の艦艇で避難した。

 ジャンキウエ湖畔の町、プエルト・バラスは、赤いとんがり屋根のバンガローや白い教会が、緑の森に点々と浮かび、通りには薔薇やチリの国花コピウエ (日本名:ツバキカズラ=真っ赤な筒のような花をつける) が咲き乱れる、それはそれは美しい町である。 チリとアルゼンチンは、南米大陸最南端の島フエゴ島の国境線を巡り犬猿の仲であった。1982年4月~7月、アルゼンチンがマルビーナス諸島(フォークランド)の領有権をめぐって英国と戦争した頃は、チリがアルゼンチンの情報を英国に流したりして敵国に肩入れをしたため、さらに関係は悪化した。このため、当時は特に両国の国境警備は厳しく、旅行者も随分と厳しい検査を受けたものである。

 
市内の民芸品店、銅製品が多い

 私は、マルビーナス戦争の最中にメンドーサから国境トンネルを抜けてチリに入った。国境を越えてすぐに、カメラの絵が画かれた標識の下で写真を撮った。この標識は写真撮影に適した場所を示すものだが、突然、白いジープが現われ自動小銃を突きつけられて、カメラをよこせと脅かされた。そんなものには気が付かなかったので抗議したら、そのままジープに乗せられ、近くにある国境警備隊の本部に連行され、フイルムを抜けと強要された。36枚撮りフィルムの最後の2~3枚を此処で撮っただけなので、それまでの貴重な撮影まで駄目になってしまうので拒否した。アルゼンチン電気通信庁長官からもらった、駐在目的の身分証明書を見せ、帰りにここを通る時までに検閲して、不適当なものだけ没収して返してもらうことで合意した。しかし、帰路には、このときの将校がいなくて分からないと言われ、未解決になったその後、チリ電気通信公社を通じて執拗に交渉してもらった末、半年後にプリントだけが返ってきた。

 
 チリの特産品、銅板彫刻

 後にアルゼンチンの新聞記者にこの話をしたら、プリントだけでも返してくれたのは、極めて珍しいケースだとのことだった。それにしても、自動小銃を突きつけられた時は鳥肌が立ったが、よく平気で強気に交渉できたものと、後になって、その時を思い出し、改めて恐怖感を蘇らせたものである。 しかし、今では国境検査もおおようで旅行者も増えた。細長いプエルト・モンの南の端にあるアンフェルモ港周辺は手工芸品店がびっしりと建ち並ぶ民芸品の宝庫である。チリ特産の輝石ラピス・ラスリを始め、珍しい虎目石の装飾品、銀のアクセサリー類、銅板画や食器類、カバンなどの革細工や、革に焼き鏝で風景を描いた壁掛け、動物などの陶製品、木彫りの人形などが、どの店にも、所狭しと並べられている。衣類では、アルパカの毛をふんだんに使った分厚いセーターやチョッキなどが、無造作に山積みされて、埃をかぶっている。

 
 銅製のトレイ

 アンフェルモ漁港はチリでも有数の漁港で、市場の中には獲りたての魚介類をすぐに食べさせてくれる店がたくさんある。数種類の魚介類をソーセージやじゃが芋と一緒にぐつぐつ煮た"クラント"と言う煮込みが名物だ。日本人の旅行者は殆ど来ないが、パルプ材の買い付けの商社マンや日本漁船員が来るので、日本人らしいと見ると、"ウニ、カニ、アワビ、オイシイヨッ!"と日本語で愛想を振り撒いて寄って来る。 アンフェルモからフェリーで30分の所に南米第2の大きさのチロエ島がある (因み1位はティエラ・デ・フエゴ=火の島)。途中の風景が美しいが、その中に1960年のチリ地震 (日本の三陸沖まで津波がやってきたことで有名な地震)の震源地で、地形が変わったのがはっきり見られる場所がある。 

海産物をごった煮にしたクラント

 1972年ごろから、日本のJICA(海外協力事業団)がフィヨルド帯で紅鮭の養殖を始めた。南半球であっても、北半球で鮭が住むのと同じ緯度なので、簡単に養殖ができると思ったようだが、鮭の生活本能は、そうは簡単に南北が逆にはならなかった。稚魚を放流しても帰ってこないのである。いろいろと試行錯誤を繰り返してきたようで、その実験の過程で漁獲した鮭を1980年代にはチリやアルゼンチンにいる日本人に供給してくれるようになった。アルゼンチンの港に入った日魯漁業の船が、新巻きにした鮭を祖国を遠く離れた日本人駐在員達に頒布してくれたのである。

 
 牛革に焼き鏝で絵を描く壁掛け

 魚と言えば目の赤くなった深海魚(銀ダラと言われるメーロもこの仲間)とか、水揚げされてすぐに火に通され、砂だらけで、じゃりじゃりな貝などが平気で売られている頃に、日本の船が日本人用に作った新巻き鮭は、本当に嬉しい贈り物であった。それが今では、日本のスーパーやデパートで、ノルエー産鮭との競争でいつでもチリ産にお目にかかることができるようになった。

 
 1960年の大地震の震源地
風光明媚な所

 JICAの実験は成功しなかったが、その後をチリ政府が引き継ぎ完成させ、世界の鮭漁獲高第二位の地位にまで成長させたのである。日本の水産技術の素晴らしい偉業だと思う。牧畜業と林業と発電所で占められていた寒帯地方に、新たな資源が生まれた。 首都サンチアゴは細長い国土のほぼ中央部にある。アルゼンチンのメンドーサとはバスで約8時間で連絡している。このルートは、チリとアルゼンチンのワイン産地の真っ只中を過ぎ、アンデス山脈の最高峰アコンカグアのすぐ南の山腹に入り、山脈の下の約2キロの国際トンネルを潜り抜ける。トンネルの中は殆ど真っ暗で、途中に両国の国旗を描いた電光看板が地下の国境を示しているだけである。 

 
 チリ唯一の外国貿易港
バルパライソ

 このトンネルの真上、標高4200メートルのクンブレ峠に、1902年にチリとアルゼンチンが不戦の誓いを立てて、両国の軍隊が青銅の大砲を溶かして作ったと言う、左手に十字架を持ったキリスト像(キリスト・レデントールと言う)が立っている。訪れる人も殆どいないアンデス山中に立つ、赤銅色のキリスト像が神秘的に感じる。白い台座には 『レデントール(救世主)の足元で結んだ平和を壊そうとすれば、この山は消えうせてしまうであろう』 と刻まれている。 チリを語るとき、3Wとか3Cとか言うことがよくある。3Wは、ワイン、ウーマン、ウェーザーのことで、ワインはアルゼンチンと共に,世界のワイン大国であるし、美人の女性が多いことでも有名だ。

獲れた海産物をその場で調理する

 また、ウエーザーは、春はリンゴ、アンズ、菜の花など黄色い花が山野を埋め、夏には真紅の国花「コピウエ」や紅薔薇などの赤い花が妍を競い、澄み切った晴天が続く四季の彩りを言ったものである。 3Cは、美人の多い国の頭文字を取ったもので、コスタ・リカ、コロンビア(コロンビアの中で特にカリ市のことを言うようだ)と共に、美人の多い国として世界的にも有名だ。確かに街を歩いていても、しなやかな腰つきで黒髪に黒い瞳の美人が多い。何年か前に、青森県の何とか公社の馬鹿職員が、日本に来ていたチリ女に逆せ上がり十数億円を貢いだ話しがあったが、ラテン・アメリカ人の性格は、「人間性悪説」が基本で、騙される方が馬鹿だと言うことになるので、多額の金を貢がれても貢く方が悪いと思っている。ただし、彼女達も歳相応(一般的には20歳代後半)になるとラテンの血は争えず次第に太くなっていく宿命を背負っているのが哀れだ。

 
 不戦の誓いの象徴

 1973年にアジェンデ社会主義政権がピノチェットの軍事クーデターで倒れた後、厳しい軍政が続いたが、1990年に民主的選挙で漸く民政が復活した。軍政当時、ブエノス・アイレスでは、チリの言論統制を皮肉って、こんな小話が流行った。 ≪サンチアゴの犬が遥々とアンデスを越えてアルゼンチンにやってきた。アルゼンチンの犬が "チリには食い物がないのかね?" と訊ねると、チリ犬は "何とか食べているよ" と答えた。"じゃ、着る物がないのかね?"、"それもあるよ"、"それじゃ、一体、苦労して何でアルゼンチンくんだりまで来たんだね?"、"思いっきり吼えたいからさ"≫。当時は街の角々には軍隊と警察が交互に立っていた。市民生活は緊張しており、通りには紙屑一つ落ちていない清潔な街で、旅行者には安心だったことを思い出す。

 
 チリの国花 コピウエ

 ところが今では、サンチアゴの中央広場では、昼日中でもそこここに人だかりが出来て、政治に関する街頭討論会が活発に行われている。10数年前には想像もできなかったことである。時の流れの偉大な力に驚き入るばかりであるが、一番驚いているのは、ほかならぬチリ国民そのものではないだろうか。この他広場では大道芸人の興行や、街頭画家の活動が盛んである。 サンチアゴには観光ポイントが殆どない。市内にある小さな、サンタ・ルシアの丘か、もう一つのサン・クリストバルの丘へでも登って、市内を一望にするしか楽しみはない。市内を回って驚いたのは、市の西部に位置する、ラス・コンデスと言う高級住宅地である。

 

サンチアゴ市内
サン・クリストバルの丘
からの眺め

 1軒の家でも広い敷地は雑木林に囲まれ、小川が流れ、小高い丘のような起伏もある。これが1軒の敷地なのである。ラテン・アメリカ諸国の金持ち階級は、人口の1%にも満たないが、日本人には想像できないほどの金持ちが多く、貧富の格差は物凄いものだ。チリにおいても、ピノチェット政権が進めた新資本主義と称す民営化を推進する政策で、一部の資本家が富を増やした結果格差が多くなったためだといわれる。つい昨年も、地下鉄のたった30円ほどの値上で学生の猛烈な反発を食らった事件があった。

ショー・レストラン

 その結果、格差是正を認める新し憲法草案の是非を問う国民投票が行われ圧倒的支持をえた。チリも変わろうとしている。 中央広場を取り囲む建物の一つに、1階全部 が民芸品店になっている所がある。ここには、高級装飾品を始め家具,生活用品などを売る店から、小さな土産品的民芸品などの店まで数十軒も並んでいる。ある店でいい物を見つけても、念のため他の店も見て、再び元の店に戻ろうとしても、同じような店が並んでいるので、分からなくなってしまうほど、複雑でたくさんの店がある。

 
サンチアゴ市内の目抜き通り

 市内の目抜き通りを一寸奥に入ると、洒落たブティックや宝飾店、靴屋などが並んだ小道が所々にある。ブティックでは、民芸品店にあるのとはちょっと違った、都会的センスのデザインをしたアルパカの高級セータやカーディガンなどを見っけることができる。宝飾店には、これも細工の技巧に優れたアクセサリー類がある。こうした場所を見つけるのが、ヨーロッパ流に洗練された、サンチアゴの本当の魅力を求める歩き方かもしれない。 チリの北部は元々は、ボリビアとペルーの領土であった所である。アリカ、アントファガスタ、イキケ、カラマなどは、ボリビアの経済を支えた重要な地域であった。この地域は、乾燥度世界一と言われるタラパカ砂漠やアタカマ砂漠を挟んで、硝石、銅、塩、金、銀、硫黄、石英、モリブデンなどの鉱物資源の宝庫で、所々に温泉が噴出している。

 
 チリEntel(電信電話公社)の
シンボルタワー

 特にチュキカマタ銅山の露天掘りは有名で、今でも毎日大勢の観光客が見学に訪れる。1860年代にノーベルが発明した火薬の原料になる硝石が、この地方から大量に産出され、ボリビア経済の根幹を支える貴重資源であった。 ボリビアの太平洋岸と首都ラ・パスとは真ん中にアンデス山脈が聳えていて十分な行き来ができず、政府の目が十分届かなかった。これに目をつけたチリは、英国と組んで、この地の権益を手に入れようとしてボリビアを挑発した。1879年2月には、ボリビアと同盟を結んでいたペルーがまづ宣戦を布告し、太平洋戦争が勃発した。十分に準備をしていたチリ軍は、ペルー、ボリビア連合軍を破り、思惑通りに今の利益を手に入れた。チリらしい極めて巧妙な、汚いやり方である。 両国は領土の一部と貴重な資源を奪われたが、特に哀れなのはボリビアで、国の将来を左右する経済的2大要素を一挙に失った。

 
 陶製のリャーマの人形

つまり、資源の宝庫と貿易の拠点になる海への出口を一遍に失ったのである。このことが、いかに大きな損失だったかは、その後のボリビアの貧困ぶりを見ても分かるし,今も南米の最貧国に甘んじている現状からも、当時の政府の不手際が如何に大きな失政だったかが分かるというものである。この戦争については、ボリビア編で述べようと思う。

 チリを観光するのに4200キロもの長い国を全部歩くことはない。北の方は砂漠だし、南部は交通手段が極めて悪いので、サンチアゴと100キロほど北西の太平洋岸に面した保養地ビーニャ・デル・マルと、日本などへのワインを積み出す、バルパライソ港などを見物し、プエルト・モンまで1000キロをバスか列車で途中下車しながら歩けばよい。

 
 左:陶製灰皿、右:銅製小皿

 チリは海産物が美味しいとよく言われるが、確かに魚介類は豊富であるが、料理方法が違うので、人は、必ずしも美味しいとばかりは言えない。特にシーフードと言われるものは、いきなり生で食べたりすると下痢を起こす。例えば、日本では高級品である "うに" などが、嘘みたいな安い値段で食べられる。この際と思って腹いっぱい食べたりするとてき面である、つまり、旅をしながらこの辺まで来るには、日本を出てからかなりの日数がたっている筈で、体力的にも疲れて抵抗力が弱まっていることなどから、簡単に腹をこわしてしまうのである。

 食べ物をほどほどに、他の南米の都市とは一味違う、ゲルマン調の落ち着いた雰囲気の街を歩き、数多くある博物館、美術館などを周る。天気がよければ、広場やビルの角には、大道芸人や青空画家が通りかかる人々に、愛想を振り撒いているのに出会う。夜はショー・レストランで食事をしながら、チリの伝統的民族舞踊であるクエッカなどを鑑賞するのが、短い時間でのチリ旅行のコツだと思う。 

(チリ編終り 2021.10.31)

 

 

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第9回

 

 
キトー市街
 
 赤道の下には15以上もの国や島嶼があるのに、南米のエクアドルだけが"赤道"の名前を独占しているのは不思議な話である(アフリカに赤道ギニアと言う国があるが、この国の位置は正確には赤道より少し北にずれている)。
 赤道直下でありながら、涼しい風が吹き、北部アンデスの高峰には万年雪が残っている、太陽とは一見縁のないような感じのするエクアドルは、南米大陸の中では、ウルグアイに次いで小さく、インデイッヘナ(”インディオ”は差別用語なので私は使わない)の割合もボリビアに次いで多い国である。この国については、日本では余り知られていないように思えるし、実際に世界的なニュースにも乏しい国である。日本と関係のあることを私の知っている範囲であげてみよう。
民族衣装を着た人形
①1918年に野口英世博士が黄熱病の研究のため、グアジャキール(Guayaquil=グアヤキールと呼ぶ人もいる)にわたり、ワクチンを開発して流行を食い止めた。その功績を称え、エクアドル政府は、"名誉大佐"の勲章を贈った。グアジャキール市のほぼ中央部に野口通りがあり、胸像が立っている。
②1931年に米国の宣教師がキリスト教放送のために開局した"アンデスの声"短波放送局が、1964年から長年日本語放送を行っていた。ラテン・アメリカに関心のある人はたいてい知っていた。この放送局はキト市の外れにあり、世界の18の言語で放送しており、民族音楽や現地の出来事などを伝える番組である。情緒ある局名とともに、宗教を越え、世界の短波放送愛好家に広く知られていたが、今はもうない。
木彫り人形
③かっては日本全国に流行したパナマ帽の製造地である。パナマはこの帽子の単なる輸出港であって、帽子そのものはエクアドルで作られている。
④何気なく食べているバナナの中には、エクアドル産がたくさんあり、2008年頃からは移住した日本人が、自分の名前をいれたバナナを日本に輸出している。田辺農園はその中でも先駆者的存在である。一度召し上がって頂きたい。  
 この国の商業経済の中心地は、太平洋に面した港湾都市グアジャキールで、首都キトはアンデスの山中の盆地のような場所にある。玄関口の、マリスカル・スクレ国際空港は、飛行機から見下ろすと、滑走路がたった1本だけの小さな空港である。空港はキト市の北の外れにあり、中心部から約10キロ離れている。キト市は新旧2つの地域に分かれていて、新市街には、公園や近代的なビルやホテル、文化施設や官庁などがあり、旧市街には、植民地時代の古い建物が残っており、住宅街の通りは狭く、ごちゃごちゃした感じで民芸品などを売る店も多い。  
壺を持つ少女
 エクアドルの民芸品は、南米の他の国と同じように、木彫りの人形類とか、毛織物、陶器などが主である。木彫り人形は百姓や、乞食を扱ったものが多く、比較的大きなものもあるが、重いので旅行者には持ち帰るのが厄介だ。珍しいものとして、パンをこねて、人形や花の形に固めた"マサパン"と言うものがある。これについては後で述べる。
 この他に、民芸品とはちょっと異質であるが、これこそエクアドルにしかないと思われる、"Tzantza(ツァンツァ)"と言う、人間の首を干して縮小したものの複製品がある。本物のツァンツァは、ヒバロ族が、部族間の戦争で捕虜にした敵の首を、そのまま約半分の大きさに干し固めて作ったものである。頭蓋骨そのものを縮小するのだが製法は秘密だそうだ。この風習は、戦った仇敵への呪いのために、捕虜の首を自分の家の天井にぶら下げておき、朝夕これに向かって思い切り悪口を吐くと言うものである。ある米国人が、製法の秘密を探ろうとしたところ、自分がツァンツァにされてしまったと言う話がある。以前は本物も売られていたが、今は販売禁止になっている。男よりは女、土人よりは白人の首の方が高いそうだ。民芸品として売られているものは、後述の写真のように、羊の鞣革を使った模造品であるが、実に良く出来ている。2018年2月に上野科学博物館でインカ展があったとき、このツアンツアが展示されていたが、この章に載せた私の物よりずっと小さいものだった。  
南米で一番古いと言われる教会
 旧市街の目玉は、1535年に造られた、南米で一番古いサン・フランシスコ教会である。頑丈な建物だったが、1987年の大地震で、あちこちが壊れ、修復に10年以上もかかったが、大部分は当時のままの状態を保っている。この教会前の広場から、キト市の南端に当たるパネシージョの丘が一望にできる。高さ180メートルほどの丘であるが、頂上には、"ビルヘン・デ・エクアドル"と言う、コンクリート製の聖母マリアの像が建っている。この像の下に名前を彫ると、再びキトに来ることができるとの言い伝えがあるので、私も最初に行った時(1977年)、持ち合わせていた爪切りの端で名前を刻み込んだら、その3年後に本当に、再度この丘に登ることが出来た。頂上からはキトの新旧市街が一望にでき、地理を把握するのに好都合な場所である。 
 エクアドルに行ったなら、"赤道記念碑"は絶対に見落とせない場所である。記念碑はキト市の北方約22キロの、サン・アントニオ村の広場の中に建っている。記念碑は高さ30メートルで、てっぺんには直径4.5メートルの地球儀が乗っている。記念碑の下には、南北緯度0度を表す赤と白の線が引いてある。ここを訪れた観光客は、必ずこの線を跨いで写真を撮る。南北両半球一跨ぎと洒落るわけだ。この記念碑は、以前はもっと辺鄙な場所にあったものを、1979年頃に現在の場所に移設したものだ。今の場所は周りに土産物屋が沢山並び賑わっている。この他にも、赤道を示す標識は、南米大陸の太平洋岸を南北に走る、パン・アメリカン・ハイウエーなど、赤道直下に当たる場所に大小の標識が立てられている。

ツアンツア
捕虜の干し首

 記念碑と言えば、やはりキト郊外に、インカ帝国最後の皇帝になった、アタウアルパの胸像がある。15世紀にインカ帝国の皇帝ワイナ・カパックがエクアドルを征服した。ここがインカ帝国の版図の北限になる。エクアドルを征服したワイナ・カパックは、2人の息子の一人アタウアルパにキトを支配させ、もう一人の息子ワスカルにクスコを統治させた。しかし、ワイナ・カパックの死後二人の兄弟は、王位継承をめぐる長期間の戦争を繰り広げ、1532年に漸くアタウアルパが勝った。丁度その頃、スペイン人のフランシスコ・ピサロがペルー北部のツンベスに上陸、黄金を求めて次第にエクアドルに侵入してきた。鉄砲や馬を持たないインカ軍は、少数のピサロ軍に敗れ、アタウアルパは遂に捕虜となり、1532年11月、ペルーのカハマルカで殺され、インカ帝国は滅亡した。この最後のインカ皇帝アタウアルパの記念碑である。
 
 
上野科学博物館で2018年2月に行われたインカ展で展示されたツアンツアの製法図
 
 エクアドルと言う国は、インディヘナの数がボリビアに次いで多い。しかし、ラ・パスのように、街中に伝等的衣装をまとった人たちが歩いているわけではない。その代わりではないが、地方にはインディヘナの町や村が沢山あり、毎週土曜や日曜にはインディヘナの市が立つ。
市でクイを売る女達
こうした市(いち)に集まる人達は、被る帽子によって出身地を見分けることができる。各地にあるインディヘナの市の中でも、オタバロ町の市が一番有名である。オタバロはキトからパン・アメリカン・ハイウエーを2時間ほどで行ける場所で、十分日帰りができるので観光客には嬉しい。この途中のカルデロンと言う村が、先にちょっと触れたが、エクアドルの有名な民芸品の一つである"マサパン"(マジパンという人もいる)の産地である。マサパンは、パンをこねて、動物や花などの形に固め、乾燥させて色をつけたものである。形は様々で、大は30センチくらいの置物から、小は胸につけるブローチ、ペンダントなどまである。私も幾つか買ったが、生のパンを固めたものなので湿気に弱く、中に閉じ込められていた虫が復活し、中から食い荒らして、人形をぼろぼろにしてしまった。そのため写真が紹介できないのが残念である。 
赤道記念碑
 オタバロのインディヘナの市は、エクアドル民芸品のショーウインドウのような観がする。中でも目を奪われるのは、毛織物の敷物や壁掛け、ベッド・カバー、袋物、クッションなどで、鮮やかな色彩は見事なものだ。色鮮やかな織物が、山と積まれている市の光景は、それは美しいもので、平均身長150センチくらいの小さいオタバロ族の人々が着る、真っ黒いポンチョが一際、浮き上がって見える。アンデスの高原に暮らす人たちの貴重なタンパク源である、"クイ"(天竺鼠、モルモット)を焼いて売っているのは、日本人にはちょっと気持ちが悪い。壁掛けや敷物、ポンチョなどの毛織物のデザインには、いずこの国のものもそうであるように動物が主である。しかし、ここの動物には、ハチドリとかガラパゴス諸島の亀など、他の国にはないモチーフがある。特にハチドリは、鳥類の中で一番小さい鳥で、南北両アメリカに約300種程住んでいるが、その内米国には約20種くらいなのに、エクアドルには100種類もいて、米大陸で一番種類が多い。

赤道を示す標識は
他にもある

ハチドリは、体長8センチ未満で、体重は4グラムほどの小さな鳥である。羽の色は光沢のある緑色を基調にしているが、玉虫色に変化して輝く美しい鳥で、"空飛ぶ宝石"とも言われている。花から花へ蜜を求めて飛び渡り、蜜を吸うために空中静止ができるように、1秒間に80回以上も羽を回転させる。また、蜜を吸いやすいように、舌が嘴の2倍以上も伸び、エネルギーの補給のために、1日に体重の2倍もの蜜を吸う。花から離れる時に、後ろ向きに飛べるのもハチドリだけの特技である。
 ガラパゴス諸島がエクアドル領だと言うことを知らなくても、この諸島の名前だけは有名である。チャールス・ダーウインの進化論で世界に知られたガラパゴス諸島は、1978年に世界自然遺産第一号に指定された。この貴重な島々も、島の開発や、1994年5月に起きた大規模な山火事、さらには、心無い観光客が棄てるゴミ、付近で起きたタンカーの座礁事故で流れ出した大量の重油などが重なって生息地を襲い、生態系を壊す環境破壊が、予想を超える速さで進んでいる。こうした環境破壊に警鐘を鳴らす写真集「ガラパゴスがこわれる」を、日本人の藤原幸一さんという人が2008年2月に出版した。人間の活動がいかに自然をかえてしまうか、本当に恐ろしいと語っている。この諸島にしか生きていない、陸イグアナ、象海亀、飛べないコバネ鵜、ガラパゴス・ペンギンなど、そのうち見られなくなるかも知れない。象海亀は、かって25万頭もいたのに、今では最大に見積もっても約1万4千頭しかいないと言われる。保護の努力が続けられているが、密漁者に獲られたりして、減少が続いている上に、人間が島に持ち込んだ動物達が、卵や子亀を襲ったりして、減少に拍車をかけている。
キトー市街を見下ろすパネシージョの丘に立つマリアの像
 エクアドルを書くには、抜かしてはならないことがある。それは、コロンビアとの国境に近い南部の長寿村、ビルカバンバ村のことである。ビルカバンバとは、ロハ県のマラカストス、ビルカバンバ、ヤンガーナの3部落の総称で、全部の人口は約5千人である。古い国連の統計によると、5千人の中で、100歳以上が約380人、90歳以上が約600人と言う、驚くべき数字が記録されている。住民の農民達は素朴で早寝早起きでよく働き、食事は粗食で過ごし、ゆったりとした平和な生活の中で、ストレスは全く感じていないと、この村を研究した各国の研究者は報告している。村は海抜1600メートルの高地にあり、気温は常に20度前後、自然環境は極めて良好である。地味は豊な上、特にアンデスの山から流れ出る水は、美味で炭酸カルシュームの含有量が豊富である。このような条件が健康を保つ長寿の原因と見られている。飽食でいらいらの多い生活を送る日本人には、真似のできない、羨ましいことである。
ガラパゴス島の軍艦鳥
 先のペルー編でも述べたが、南米大陸の太平洋岸の国々は、地震の巣の上に座っているようなものである。キトから南へ下るパン・アメリカン・ハイウエーの両側を、アンデスの連山が平行して走っているが、この中にはコトパクシ、イリニサなどの火山が混じっている。19世紀にドイツの地質学者アレキサンダー・フォン・フンボルトが、このあたりを"火山大通り"と命名した。有難くない大通りは、しばしば大きな地震を起こす。最近でも、1987年3月には、アマゾン源流地帯に近い東部のナポ州で、1996年3月には、海抜3000メートルを越す、インディヘナが住む山岳地帯で大きな地震が起き、大勢の死者や家屋の倒壊を引き起こした。最新の地震は2006年に起きている。  
 地震も自然現象の一つと捉えるのならば、エクアドルは、むせ返るような湿気に覆われた海抜ゼロの海岸地方から、涼しい高原、活火山の多い火山地帯、未だに外界との接触を拒んでいる原住民のいる密林地帯まで、全ての自然現象や環境を揃えた欲張りな国である。南米の国々の中では治安の良い国なので、ペルーへ行くチャンスがあれば、2~3日日程を水増しして、赤道を跨いでくるのも一興であろう。ただし、音楽や食べ物は余り期待しない方が良いかもしれない。(2021.10.3 改正版)  
 
 

 

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第8回

 

 

  

 

2度の戦争の戦没者を追悼する霊廟

 南米大陸の中で国と国とが本格的に戦争をしたのは、過去に僅か3回だけ(注)であるが、パラグアイは、そのうちの2つの戦争の当事国となっている。一つは1864年から5年間も続いた、パラグアイとアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ連合軍が戦った三国戦争である。この戦争では大敗を喫し、悲惨な経験をした。もう一つは、1932年から1935年にかけて、ボリビアと戦ったチャコ戦争で、これには勝った。後の一つはパラグアイは関係ない。1879年から1883年まで続いた、チリとボリビア、ペルー連合軍が戦った、いわゆる"元祖太平洋戦争"である。
夕暮れのアスンシオン港
 三国戦争で敗れたパラグアイは、国土を大幅に失い、国民の半分以上が死んだ。特に男子は小学校の生徒までが駆り出され悲惨な死を遂げた。そのため長い間、国民の男の数が極端に少ない状態が続いた。このため、嘘か本当か知らないが、男が道を歩いていると、木の上から男を求めた女が落ちてくると言う、信じられないような話も伝わっている。首都アスンシオンの中心部にある霊廟には、独立戦争を始め、上記の二つの戦争の犠牲者が祭られ、一年中花が絶えない。
(注)チリとスペインの戦争、アルゼンチンと英国の戦争など大陸外の国との戦争を除く。
  
 パラグアイの原住民はグアラニ族で、南米の原住民の中でも、最も従順で素朴な種族である。このためか、スペイン人が侵入してきた当時は、南米各地の原住民がスペイン人に対する激しい抵抗戦争を起こしたのに、パラグアイでだけは、このような抵抗を受けずに、スペイン人は入植することができた。

パラグアイが誇る芸術品
ニェアンドッティ ñyandotti

スペイン人は原住民グアラニ族との融和を進め、イエズス会の修道士が、各地に"レドゥクシオン"と称する城壁に囲まれた区画を建設し、ここで、教育、布教、職業訓練などを施した。これを"ウトピア(utopía=ウトピーア=英語ユートピア=理想郷)"と言う。このためか、今では,純粋なグアラニ族は殆ど残っておらず、国民の97%がスペイン人との混血である。

イパカライ湖
 パラグアイは、ボリビアと共に海への出口を持たない内陸国のため、産業貿易の発達が遅れ、今でも貧困に悩んでいる。ボリビアとパラグアイの経済開発が遅れているため、南米全体の発展の足並みが揃わず統一市場ができずに、自由経済圏がいくつもできる原因だといわれている。内陸国と言っても、ボリビアとは違い、パラナ川~ラ・プラタ川を経由して、1400キロもある大西洋と直接結ばれ、首都アスンシオン港までは、1500トンもの船が通行できる。しかし、航路は全部アルゼンチンの領土を通るため、かなり高い通行料を払わなくてはならず、これが発展を阻んでいる。アルゼンチンは大型船のための浚渫費用だと言っている。
 

ダンサ・デ・ボテージャ、
瓶踊り

ワインの瓶を5~6本乗せる

 パラグアイの国土は、ボリビアと接する西部チャコ地方のジャングル地帯と、東部の豊かな平野と森林地帯に分けられる。チャコへ自動車で行くなら必ず2台以上で行けと言われる。チャコ地方には殆ど人が住んでおらず、車も通らないので、もし故障したり、ガス欠にでもなって動けなくなったら、飢え死にしてしまうかもしれないからである。このような地勢の国なので、産業は殆どが綿花を中心とした農牧産業で、その他に目立った産業はない。農業国なので雨は絶対必要であるが、21世紀にはいり2006~2007年のラ・ニーニャ現象により少雨と高温に見舞われた。また、これにより生息域が広がった蚊が媒介する黄熱病が2008年に34年振りに確認された。 
アスンシオン郊外に国内唯一の湖、イパカライ湖があり、海のないパラグアイ人の格好の保養地になっている。ラテン音楽愛好家ならば、この湖の名前を題にした"イパカライの思い出"と言うフォルクローレをご存知の方も多いかと思う。

大統領官邸
裏がパラグアイ川
 パラグアイは、南米各国の中でも有数の親日国で、日本の経済技術援助の重点国であり、特に電気通信関係の技術や資材設備などの援助が多かった。現在はどうなっているのだろうか。1970年代からKDDを始め、NTT,NHKの技術者が通信・放送施設の建設や技術指導に携わってきた。イパカライ湖畔に立つ,衛星通信用アンテナも日本の援助(主としKDD)で出来たものであるし、2000年に運用を開始した携帯電話会社"オーラ・パラグアイ"も100%KDDの資本援助で創立されたものである。
 
ネアンドッティで作った人形

 アスンシオン市は、人口50万の、こじんまりとした地方都市といった感じの街で、今でもまだ近代的建物よりも、スペイン統治時代の名残の残る、コロニアル風の建物が多い。 春先(日本の9月頃)には、市内にラポーチャの紫の花が美しく咲き乱れる。大統領官邸は、一旦緩急ある時は大統領がすぐに船で逃げられるようにとの配慮から、パラナ川に通じるパラグアイ川を背にして建てられている。大統領官邸は、ルーブル美術館を真似したと言われており、前庭の花壇の花時計は7~8月に綺麗な花を咲かせる。

カージェ・ハポン、日本通り

 パラグアイは1954年から34年間にわたり、ストロエスネル大統領の独裁が続いていたため、ストロエスネルの名前が町や道路、橋、空港などに沢山残った。アスンシオン国際空港もストロエスネル国際空港であった。しかし、政権が変わり、これらの名前は一掃されてしまった。パラナ川を挟んでブラジルとの国境を画する位置にあったパラグアイ第2の都市、プエルト・プレシデンテ・ストロエスネル(ストロエスネル大統領の港)もシウダ・デル・エステ(エステ市=東市)と名前を変えた。
木彫りの瓶踊り
パラグアイでは、2008年4月の大統領選挙において、61年も続いた右派コロラド党の政権が倒れ、中道左派政権が誕生した。ブラジル、アルゼンチンの工業製品が大量に流入して国内産業が打撃を受け、長期政権に対する国民の不満が頂点に達したためであると言われている。

アルパを弾く
女の人形
 パラグアイには凡そ7000人の日本人移民がおり、1996年には移住60周年記念式典が行われた。このような背景から、アスンシオン市内には、"ハポン通り"がある。しかし移民の中には、生活上の問題からアルゼンチンへ再移民してきている人も多い。
パラグアイと言う国には、大きな遺跡はなく、遺跡と言えば、先に述べた"レドゥクシオン"の跡くらいであり、 地勢的にも森林や湿地帯が多くて、自然美と言うような風景・景観に乏しく、観光資源の少ない退屈な国である。このため観光客も少なく、同じ途上国のボリビアと比べて、外貨収入の資源の点で劣っている。この国に来る観光客は、イグアスの滝を見物に、ブラジルやアルゼンチンにやってくる人が、時間の合間を見て、パラナ川に掛かる国際橋"友情の橋"を渡り、シウダ・デル・エステに革製品を買いに来るか、或いは、月からも見えると言われるほど大きい、世界最大のダム"イタイプー"発電所を見学する人達などであろう。
(ブラジル編イグアスの滝周辺図を参照されたし)
 始めてパラグアイを訪れた時、自動車で行ったが、遠くから放牧されている牛を見て馬と間違えた。体格が細くて腹にあばら骨が浮いているので、どう見ても牛には見えなかったからである。近くに寄って始めて牛だと気がついた。色々聞いた結果、牛らしくない理由が分かった。
美しい紫色のラポーチャの咲く
アスンシオン市内

それは、アルゼンチンの肥沃な大パンパに放牧されている牛達は、自分の立っている場所を時計の針と同じ速度で一回りし、足元の草だけを食べていれば満腹になる。パンパには牛が好むアルファルファ(うまごやし)が自然に密生しているので、 草を探して動き回る必要がないため、運動量が少なく筋肉は硬くならず、いつも肥って食べごろの柔らかい肉質の体格になっているので、誰が見たって馬と見間違えられることなど絶対にない。
 これに反して、ウルグアイやパラグアイなどのように、大きな山はないが、地勢全体に傾斜地が多く、牧草が十分ではない土地に住む牛は、草を求めて斜面を移動しなければならないため、肉は硬くなり、痩せているというわけなのだ。

 パラグアイの民芸品は、世界的にも有名な、"ニェアンドゥティ"に尽きる。これは、日本語に訳すと"蜘蛛の巣様刺繍"と言う。一口に蜘蛛の巣刺繍というが、二つの種類がある。
パラグアイと
アスンシオンの位置

 一つは,四角い木枠に張った布の上や、衣類の上に、普通のフランス刺繍のように、いろいろな色の糸を使い、花や動物の模様を刺繍したものである。もう一つは、生地の上に描こうとする図柄を残し、それ以外の糸を抜いたり、括ったりして花模様を浮き立たせるもので、形は殆どが円形で、どちらかと言うと色は単色が多い。これは、テーブルセンター、敷物、ハンカチなどに使われる。アスンシオンからシウダ・デル・エステへ行く国道沿いの、イパカライ湖近くにあるイタウグアと言う町が主な生産地である。
 かっては国道の上まで店を広げて観光客に呼びかけていたが、いまは、国道が拡張され、店も大分道の内側に引き下がった。このほかには、他の国と同様に、木彫りの動物や壁掛け、人形類、それに革製品などがあるが、革製品はナメシが固い。

 民芸品ではないが、パラグアイと言えば、アルパ(インディアン・ハープ)と言う、34~36本の糸を持つ弦楽器が有名だ。アルパの音色は高い金属性の音で、心に響くが、演奏される曲は単調なものが多く、初めて聞く人にはみな同じ曲のように聞こえると言われる。また、民族芸能として、ダンサ・デ・ボテージャ(瓶踊り)と言う踊りがあるが、異国人には珍しい踊りであろう。東洋人に似た顔つきと体型の美女が、頭の上にビール瓶やワインの瓶を5~6本も重ねて、リズミカルな音楽に合わせて踊るのだが、観客は終わるまで、はらはらのしどうしである。
 一般の日本人の行くツアーの観光ルートからは全くと言ってよいほど、取り残されたパラグアイであるが、アルゼンチンやチリなどからは、"田舎っぺえのパラゲーニョ"と言われるほどの素朴な国であり、治安も良いので、グアラニ族の笑顔を見て、ひと時のんびりするにはもってこいの国である。
おわり
(2021.8.29記 パラグアイ編改定版) 
 
 

 

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第7回

 

 

 
 我々は1985年以来長い間、”ウルグアイ・ラウンド” と言う言葉を、新聞やテレビで数え切れないほど聞かされていた。ラウンドとは丸テーブルのことで、ウルグアイ・ラウンドをスペイン語では、Mesa redonda de Uruguayと言う。丸いテーブルについて多角的な貿易のことを話し合おうと言う場のことである。2001年に新たなラウンドが中東のドーハで始まり、ようやくウルグアイ・ラウンドという言葉は消えた。
 

ウルグアイ・ラウンドが行われた
サン・ラファエル・ホテル

1986年に、120カ国以上もの代表が集まったGATTの総会が、ウルグアイ第2の都市プンタ・デル・エステ市で開催された。それ以来、ウルグアイという言葉だけが一人歩きしてきたが、殆どの日本人は、なんとなくサッカーが強い(そう思っている人も意外に少ないかも)国ということぐらいで、ウルグアイについて殆ど馴染みがないと思う。ウルグアイ・ラウンドが行われたのは、プンタ・デル・エステで一番大きく、カシノもあるサン・ラファエルと言う、ウルグアイでも有名な老舗ホテルである。2回ほど泊まったことがあるが、広さだけは一級だが部屋の中は古いので、当時は余り快適とは言えなかった。

ウルグアイ国会議事堂

 ウルグアイはもともと、ブラジルとアルゼンチン両国の緩衝地帯として創られた国で、正式な国名は“ウルグアイ東方共和国”と言う。アルゼンチンとの国境を流れる、ウルグアイ川の東に位置するからである。国内には高い山も谷もなく、ほとんど平坦なパンパが広がる、のんびりした農業国である。従って、この国を書こうとしても、特徴がなく文章の糸口を見つけるのが難しい。ブラジル、アルゼンチン両国の間にあるとは言っても、アルゼンチンとは川幅42キロの海のようなラ・プラタ川を挟んだ一衣帯水の関係であり、一口で言えば、ミニ・アルゼンチンというような感じがする。1980年代に南米各地で軍事政権が終焉を迎えた頃、ウルグアイも例外ではなく、文民政府に代わり、宗教的対立もなく、世界各地の紛争とも関係なく、誠にもって穏やかなのんびりした国だと言うのが私の印象だった。日本でも伝記映画が公開され、来日もした第40代大統領ホセ・ムヒカ(Jose Mu’jica、2010~2015在任)が登場したのもこの頃である。以前冷戦の時代に、核戦争が始まったとき、最後まで生き残る国は、ウルグアイとアルゼンチンとチリの南部だろう、なんて言われた時代があった。
 
牛車で野菜を運ぶ農夫
陶器製

 首都モンテビデオとブエノス・アイレスはラ・プラタ川を斜めに削いだような形に向かい合う位置にあり、飛行機で行くと、水面をかすめるように飛んで、離陸後僅か15分で着陸態勢に入る。勿論ベルトをはずす暇などはない。そんな近い位置にありながら、観光客向けに一晩かけてゆっくり走るフェリーボートもある。 また、ラ・プラタ川を挟んで、ブエノス・アイレスと正面に向き合う位置にある、サクラメント・デ・コロニアの町とは高速船で1時間で結ばれている。首都同士がこれほど近い関係にあるのと反対に、ブラジルとは陸続きでありながら、裏口同士の接触なので、どうしても、アルゼンチンとの関係が強くなるのは当然である。裏口のせいか国境意識が薄弱で、例えば、北部の大西洋岸でブラジルと国境を接している、チュイ(ブラジルではシュイと言う)と言う町などは、町の中を通る道の真中が国境で、道の両側で言葉違う。国や言葉が違いながら普通の隣人として付き合っているのだ。言葉はそれぞれが、ポルトガル語とスペイン語を理解し合っているので問題はないらしい。

椰子の実のガウチョの人形

 このような国だから、ウルグアイにはアルゼンチンに似ているものが沢山ある。その中でいくつかを上げるとすると、まず、国旗の色がどちらも水色と白であること、旗に画かれている太陽の顔のデザインが殆ど同じであること、そして代表的な音楽がタンゴであること。ご存知の向きもあるかもしれないが、アルゼンチン・タンゴの代表的名曲と言われる“ラ・クンパルシータ”は、ウルグアイ人のエラルド・エルナン・マトス・ロドリグエスと言う人が作った曲である。50年の著作権保護期間はとっくに過ぎで、今では誰でも自由に演奏する事ができる。大袈な言い方をすれば、世界中のどこかで、毎日演奏されていると言われるほどの名曲である。それに、ワインはウルグアイでも造ってはいるが、高級品はアルゼンチン・ワインが圧倒的であり、電話もブエノス・アイレスからは国際通話ではなく、アルゼンチンの市外通話扱いである。さらには、アルゼンチンにしかいないと思われている、ガウチョ (放牧している牛の面倒を見る人、カウボーイ) もウルグアイには大勢いる。勿論代表的料理だって、アルゼンチンと同じ“ビッフェ・デ・チョリッソ(ビフテキ)”である。

モンテビデオ湾西側に聳えるモンテ(山)の丘

 
 首都モンテビデオの街並みは、アルゼンチンに住んだ人間には誠に退屈だ。ただ、金融業務は経済の安定化を背景に、以前から自由経済政策がとられていたため、幾たびかのアルゼンチンの経済危機の都度、金持ちが外貨をウルグアイの銀行に緊急避難したという話を随分と聞いたものである。モンテビデオの港は日本の南大西洋の漁業基地にもなっており、その人達を相手にする日本料理店もある。
ウルグアイの民族衣装
両国を分けるラ・プラタ川は、一番広い川幅が42キロもあり、岸からは対岸が見えない海のような川である。川幅の約3分の1くらいまで進んだ辺りで、漸く高いビルの屋根が見えてくる。 川の色は上流のパラナ川が運んでくる鉄分のために赤茶けた色で透明度はほぼゼロに近い。それでも子供達は水に潜り鯰などを獲っている。赤銅色の水は400キロ下流の大西洋まで続いている。
 
 ラ・プラタ川は河口の幅と長さがともに約400キロで、川と言うよりは三角形の湾のような形をしている。この河口に位置するのが、ウルグアイ・ラウンドの行われたプンタ・デル・エステ市である。モンテビデオから約140キロ東で、ラ・プラタ川が大西洋に注ぐ突端に当たる。そのため、市の名前が、プンタ・デル・エステ(東の先端)と言うのだ。この街は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、アルゼンチンのマル・デル・プラタと並び、南米大陸大西洋岸の3大リゾート地の一つである。 ラ・プラタ川の赤茶けた水の色は、漸くこの辺にきて色が薄れ、本来の大西洋の色になってくる。市内には豪華マンションやホテルが立ち並び、ヨット・ハーバーには高級ヨットが浮かび、立派なゴルフ場もあり、夏のバカシオンには外人で溢れる。特に多いのがアルゼンチン人で、リゾート施設で働く人以外の一般のウルグアイ人には無縁の都市になる。

陶製の動物人形、
世界的に有名である

 ほぼ100%の農業国なので、ウルグアイの産業も農産物と牧畜業、その加工品といったところが主な物である。以前、ウルグアイの友人に、機械産業はないのかと聞いたとき、彼は、ウルグアイにも自動車産業があると答えたのに驚いた。それは実は、クラシック・カーの部品を作る工場の事だったのである。ウルグアイには20世紀末までは、1920~30年代のT型フォードのような年代ものの車が走っていた。キューバで走る古い米国産自動車は1950年代のものだから、更に古い時代のものだ。21世紀になって、さすがに今は殆ど走っていない。クラシックカーの手入れが出来る国は世界遺産にならないだろうか。
  内陸部は緩やかな傾斜地が多く、直線の道は遥か彼方の丘の稜線を横切り、上下に波を打って伸びている。古い鉄道も走っており、”今は山中、今は浜・・・・”と言う昔の小学校の唱歌を思い出させる。中央部を流れる“ジ (Yi)川”と言う川があるが、おそらく世界一短い名前ではないだろうか。
 
 ミニ・アルゼンチンのような国なので、民芸品にも特に目新しいものは少ない。ただ、アルゼンチンにないものとしては、オットセイの毛皮の敷物と、毛皮を使った動物人形があった。オットセイの毛皮は一見牛の毛皮と見間違えるが、両方の“ひれ”に当たる場所に大きな穴が開いているのが特徴であった。もうだいぶ前に捕獲禁止となり禁制品になって、毛皮などはとっくになくなった。
 それと、陶器の小さな動物の人形があるが、これは世界市場での民芸品で、大分前から日本でも売っている。ウルグアイから、どうしてこんな物だけが、輸入されるようになったのか不思議でならない。この他には、南米では珍しくないアメジストを細工した装身具が多い。もともと宝石より一段価値の低い輝石なので、かなり手ごろな値段で売られている。石の台には銀が多く、南米はどこの国も同じだが、金台は14Kが大部分である。

 

瓢箪の人形

 ところで“民芸品の旅”というタイトルとは、全く縁のない話であるが、モンテビデオを語る時にどうしても、忘れてはならないことがある。本題とは大分横道に逸れることをお詫びして、この話をしたいと思う。  それは、70歳後半以上の人たちは記憶している人もいると思うが、第二次世界大戦初期の1939年(昭和14年)に、ドイツの豆戦艦グラフ・シュペー号が、南大西洋で英国艦隊に追われて、中立国であったウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込み、最後に自爆した有名な話である。シュペー号は、長い間モンテビデオ港外に沈んだままだったが、1995年4月に、ウルグアイ海軍と英国のオックス・フォード大学による合同調査が行われ、50年以上も川底に横たわっていた悲劇の戦艦の残骸の様子が明らかになった。そのときの現地の新聞記事を要約して紹介する。
 
【ドイツ豆戦艦グラフ・シュペー号の最後】
(ブエノス・アイレス日刊紙、クラリン、1995.4.24)
 
 ≪シュペー号がモンテビデオ沖に沈んだのは1939年12月17日のことで、シュペー号の艦長ハンス・ラングスドルフの決断によるものである。艦首には当時爆発しなかった爆薬が未だに残っており、ウルグアイ海軍にもどの位の量の火薬が残っているのか分かっていなかった。このため、105ミリ大砲の引き上げには細心の注意が払われた。当時の自爆の様子を知る、ウルグアイ人のバド氏は次のように語っている。

シュペー号の錨、
今では自国民にも殆ど忘れさられている

 『シュペー号の艦長と士官達は、砲弾の火薬を利用した爆薬を艦尾と機械室付近及び艦首の3か所に装置した。この爆薬は艦長がシュペー号から離れる時に乗ったランチから操作し、同時に爆発するはずであったが、艦尾と機械室の2か所が始めに爆発し、その衝撃で艦体が激しく揺れたため、艦首の爆薬装置が作動せず不発に終わった。爆発は艦尾にある100トンを越す口径280ミリの3つの砲座から始まり、破片は60メートルの高さまで飛び散った。さらに、火薬庫に近い機械室からも大爆発が起こった。
 排水量1万2千トン、長さ185メートル、幅22メートルの艦体は真っ二つになって、右に50度傾き川底に横倒しになった。しかし、艦首の下に仕掛けられた爆薬は爆発せずに、今日まで不発のままであった。いつ爆発するか分からないので、潜水グループが艦首に入るときは細心の注意が必要であった。この調査で大砲と船体の一部が引き上げられた≫。
 地元の歴史研究家メディアナ氏は 『シュペー号は12月17日夜8時、モンテビデオ港から凡そ7キロ沖のプンタ・ジェグーナで自爆したもので、当日は日曜日とあって、凡そ20万人の人々が海岸でこの世紀のスペクタルを見物した。また、港の周辺では80隻を越す船舶が見物していた。英国艦隊との海戦を避け、シュペー号の千人以上の乗組員の命だけでなく、英国艦隊の乗組員をも救ったラングスドル 【シュペー号の錨、今では自国民にも殆ど忘れさられている】フ艦長は、ウルグアイ人の間で未だに賞賛に値する人物として尊敬され、この事件は今日までウルグアイの民族的歴史として伝えられている』と語っている。
 
 シュペー号はその後引き上げられたと聞いたが、日本では全く歯牙にもかけられない話で、何も伝えられなかったと思う。シュペー号の話の他にも、1923年(大正12年)に、日本の軍艦 「浅間」 から脱走したと言われる機関兵の話があるが、詳しいことは何も分からない。遠い遠い時代の遠い遠い国のお話である。
(ウルグアイ編おわり) 
 
 

 

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第6回

 

 

 
 ブラジルはとにかく広い国だ。南北と東西の距離は凡そ4300キロでほぼ同じであり、日本の23倍もある。しかし、このような面積の比較では、なかなか大きさや広さが想像できないので、日本とブラジルの、国内における社会的文明的水準の格差の大きさで比較して見ると、また違った見方が出来る。

ブラジル大聖堂、
キリストがかぶった荊の冠を模した。
ガラスとコンクリート製

つまり、ブラジルと言う国は、人跡未踏の無人地帯や、アマゾン奥地のヤノマミ族のような裸族の住む原始的社会から、大西洋岸の世界的大都市、そして まだ、ようやく半世紀あまりの歴史(2020年で60歳)しかない、超近代的首都ブラジリアまでの文明発展の時間格差は、数百年もの隔たりがある国である。
 反対に日本には、このような地域間の発展の落差は、今は殆どなくなったと言ってよいと思う。今ではどんな僻地や孤島でも、地図に載っていない場所などないし、少なくとも定住者のいる所には電話は皆自動で繋がるし、郵便や宅配便の届かない場所はなく、映画は全国で一斉に封切りが見られるし、流行ファッションもすぐに全国津々浦々に普及する。

コルコバードの丘のキリスト像

 こんな広い国でも、1億5000万人を超える人口の90%は、大西洋沿岸の都市部に集中している。南米最大の近代都市サンパウロは人口1100万人で全人口の7%が住み、ブラジル経済の中心地である。サンパウロの外港でブラジル最大の貿易港サントスは、1908年に日本からの始めての移民が上陸した所である。しかし、この周辺には観光ポイントは少ない。
 
サンバ行列の先頭の旗人形

 人種の坩堝と言われるブラジルでは、移住してきた人種は、どうゆうわけか、北緯と南緯を逆にした自分の本国と同じ緯度付近の土地に住みたがると言われる。例えば、日本人はサンパウロやその近郊に、ドイツ人は南部に、黒人は北部にという具合である。サンパウロに住み着いた日系人は、リベルダージ地区のガルボン・ブエノ通りを中心に、日本文化を受け継いだ街並みを作っている。       
 第2の都市、リオ・デ・ジャネイロは人口600万人で、経済ばかりでなく文化の中心地であり、南米大陸の大西洋岸有数の観光地でもある。華やかなサンバのカーニバル、贅沢なリゾート海岸、絶景のポン・ジ・アスーカルなど、いくつもの観光要素を備えた国際的大都市である。

ウハカの丘の向うに屹立する
ポン・ジ・アスーカルの奇岩
(リオデジャネイロ)

 ポン・ジ・アスーカルは丁度ラグビー・ボールを半分にしたような奇岩が、手前のウルカと言う丘の先に聳え、常に一体で眺められる。市内から見ると丁度オットセイが首を持ち上げたような、あるいは亀が首を伸ばしたような格好に見える。リゾート海岸はポン・ジ・アスーカルに近い方から南へ、コパカバーナ、イパネマ、レブロン、サン・コンラードの順に続く。名前が変わっても、別に海岸に仕切りがあるわけではなく、砂浜をづっと歩いていける。砂浜を眺める海岸には高級ホテルやマンションがびっしり立ち並んでいる。
 ポン・ジ・アスーカルと並ぶ観光ポイントが、海抜710メートルのコルコバードの丘に立つ、白いキリスト像である。高さ30メートル、横一文字に広げた両手の幅は28メートルもあり、重さは145トンもある。市内の何処からでも見られ、特に夜はライトを浴びて夜空に怪しく浮かび上がる。

ペルナンブコ州の素焼きに色を付けた人形

この丘ばかりでなく、リオ市内には急斜面の丘が多いが、その山腹には"ファベーラ"と言う、貧しい人たちの部落がひしめいている。リオで一番貧しい人たちが、一番良い景色を独占しているとして、市当局は何十年も前から、立ち退きを要求しているが未だに実現していな。そうは言っても、ほんの一瞬ブラジルに立ち寄るだけのパック・ツアーでもブラジルを代表する二つの都市(リオとサンパウロ)だけは見たいものだ。
 ブラジリアは、"50年の進歩を5年で"というスローガンの下に、当時の権力者クビチェック大統領が自分の任期中の完成を目指し、1953年から建設がはじまり1960年に完成した超近代都市である。
ピラニアの剥製
左前は魚の化石
完成から2020年で50年になるが、半世紀以上も経ったいまでは木々も大きくなり、市街地も膨らみ落ち着いてきてはいるが、奇抜な建築物が随所にある珍しい光景である。建築家や都市計画に関心のある人々には興味ある所であろうが、なにせ歴史がないので古い物を見たい人間には今一つ魅力を感じさせてくれない。

 ブラジルの地勢は大きく分けて、北部のアマゾン川流域地帯、中央部から南東部のブラジル高原地帯、南部のラ・プラタ川流域の平野部となっている。これだけ広い国だと、各地域の産物も違うし、文化習慣も違うので、自ずと手工芸品なども、地域の特色のある物が作り出される。

水草の上に住むヌートリア
(上の黒い部分)


 北部のアマゾン川地域の民芸品としては、獰猛な肉食魚ピラニアの剥製が有名である。大西洋に突き出た形の東部のバイーヤ州では、木彫りでできた人形や人物像などが特産だし、隣のペルナンブコ州の、素焼きに泥絵の具を塗ったような人形、椰子の実を使った物入れなども価値がある。
南部の平野部は、なだらかな丘陵地帯が果てしなく続いている草原である。牧畜が盛んなので牛の皮を使った動物の人形や、アルゼンチンでよく見るマテ茶の壷などの民芸品が目に付く。南部最大の都市ポルト・アレグレから最南端のウルグアイとの国境の町シュイ(スペイン語ではチュイ)にかけては大きな湖が連なる湿地帯になっていて、水面に繁茂している草の上には、ヌートリアと言う体長60センチくらいの "南米川鼠” が住んでいる。
 ヌートリアの毛皮は、女性のコートに最適で、加工方法によってはミンクと同じように見える。毛の手触りがミンクより若干固く、目方が少し重いのがミンクとの違いで、値段はミンクの10分の1くらいである。

バイーア州の革細工人形

ヌートリアはとてもすばしっこい動物で、人の気配がするとすぐ水に潜ってしまい、網などではなかなか獲れない。獲り方は魚を釣る要領で、糸に餌をつけて投げ、咥えたところを釣り上げるのである。
アルゼンチンでは、ヌートリアを養殖しており、同国の主要な産物である毛皮製品の原料として重要な地位を占めている。近年は日本でもちょくちょく出没して話題になる。

蝶々の羽を埋め込んだ
トレイと椰子の実の
物入れ

 アルゼンチンとの国境に跨るイグアスの滝付近には、世界的にも貴重な蝶がたくさん生息していて、近年捕獲が禁止されているにもかかわらず、この美しい羽を細工した工芸品が観光客を喜ばせている。数年前まで、東京豊島区の北池袋に個人の収集家がアマゾンへ行って集めた、蝶のコレクションで有名で「昆虫博物館」があり、ここだけにしかない標本もいくつかあり貴重な博物館であったが、本人が亡くなった今はどうなったか。散逸したとしたら勿体ない話である。       
 この他にも、木や魚類の化石がたくさん掘り出されるようで、化石そのままのものの他に、加工して文字盤にした時計とか、灰皿、置物などもたくさんある。また、ブラジルは、ダイヤモンドだけは採れないという、世界的にも有数な宝石・貴石の産出国なので、アメジスト、トパーズ、アクアマリン、ガーネット、エメラルドなどの貴石を使った、鳥、ミニチュアの盆栽、動物、壁掛けなどが作られている。
 全国各地の民芸品は、リオ・デ・ジャネイロやサンパウロの民芸品店で売られており、少し歩くだけで十分手に入る。各地のものの他に、リオの誇るサンバの祭典で踊り狂う、華やかな踊り子達を模った人形はリオならではの高価な民芸品である。それぞれの人形は、高さがせいぜい20センチ足らずのものが多いが、顔の表情一つとっても、衣装のデザインにしても、実に精巧に出来ている。顔はブラジル特有のメスティッソ(白人と黒人の混血)の美人で、衣装には2~3ミリの金銀色のスパンコールを一つづつ縫い合わせ、赤や水色に染めた鶏の羽をドレスの裾に縫い付けてある。
民芸品の範疇ではなく、純粋な宝石を使った装身具、装飾品は数え切れないほどの種類があるが、本題と外れるので取り上げないことにした。ただ、イグアスの滝について、一般的に誤解があるので、この部の付録として触れておきたいと思う。

【イグアスの滝】
(正確にはイグアスー(iguazú)と語尾にアクセントがあるのでスーを上に発音する)
 
 イグアスの滝はブラジル、アルゼンチン、パラグアイ3国に跨ると書いてある案内書があるが、これは大間違いである。滝は我々の国のものと信じている、ブラジル、アルゼンチン両国の権威と名誉のためにも詳しく説明しておこう。
 地図のように、イグアスの滝の下流では、パラグアイ北部を源流とするパラナ川が北から南に流れ、西側はパラグアイである。そこへブラジル南部を源流とするイグアス川が東から流れて来て、パラナ川に突き当たってT字路を作っており、北がブラジルで南がアルゼンチンである。T字路から南東へ20キロ上流でイグアス川が南から”Uターン”するように曲がっているため、外側に当たる南のアルゼンチン側の岸は大きく抉られて広くなり、凹凸も激しく、ブラジル側はカーブの内側なので川岸は単調である。落差が付いた所が滝になっている。このように、パラグアイは滝には全く触れていない。
 滝はブラジル側とアルゼンチン側から互いに眺め合うような形になっていて、それぞれが全く違った特徴をみせている。このため、本当の姿を鑑賞するにはどちらかの国のホテルに泊まって、両方から眺めなくてならない。

 空ら見たブラジル側の滝
右奥の滝との間が広くえぐれている

 

 ブラジル側は1か所から眺められるが、アルゼンチン側には大小合わせて数十もの滝があり、それぞれの滝には固有の名前がついている。大小の滝の縁を縫うように遊歩道があり、歩きながら眺められるようになっていて、所々に展望台がある。今では遊歩道に沿ってトロッコ観光列車が走っている。
 その中でも圧巻は落差80メートルもある「ガルガンタ・デル・ディアブロ(悪魔の喉笛)」と言う大きな滝だ。見所の特色を一口で言うなら、個々の滝の迫力を見るならアルゼンチン側、エリザベス女王が"ナイヤガラの滝が可哀想"と言った程の雄大なパノラマを見るならブラジル側ということになろう。

 この記事の原文を書いたのは大分前になるが、その後のブラジルは政治経済、それに自然環境などで、目まぐるしい大きな変化があり、今またコロナで大混乱の真っ最中であるが、観光記事には縁がない話なので、触れないことにした。
(2021.7.5)
 
(ブラジル編終わり)
 

 

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第5回

 

 

 
 かって、メキシコのことを「天国に一番近く、アメリカに最も遠い国」と言った人がいる。これになぞらえて言うと、ベネズエラはさしずめ「アメリカに一番近く、南米に一番遠い国」と言うことができるかもしれない。
 
 

南米最大の湖マラカイボ湖
に林立する油田櫓

私にとっては、南米の国々の中で、ベネズエラが最も馴染みの薄い国である。一度しか行ったことがないし、それも僅か1週間の滞在だったからだ。その短い滞在の中でも一番印象的だったのは、巨大な高層ビル群や、急速にアメリカ化をもたらした象徴である米国製の車の多いことであり、このことから、ここは、もはや南米ではないと感じたものである。実際にフロリダにはほんの一ッ飛びで行ける。金持ち階級などは、ちょいとした買い物などに、時には日帰りで、フロリダへ行くそうである。南米らしい魅力を感じなかったのも、当然だったのかもしれない。
 

ギアナ高原のアンヘルの滝

 この国は南米大陸解放の二人の英雄の一人、シモン・ボリーバルが生まれた国である(もう一人は、アルゼンチン生まれのホセ・サン・マルティン)。首都カラカスで生まれたボリーバルは、今でも国民崇拝の的で、カラカス中心部にあるボリーバル広場には、馬に跨ったボリーバルの銅像が立っている。通貨の単位もボリーバルである。
 アメリカ化に伴い、貧富の差が広がり、地方の町や村からカラカスへ出てきた人が多く、彼らは周辺の丘の中腹などに掘っ立て小屋のような家を建て住み着いた。大きな道路を走っていると、一方が高級住宅地で、反対側が貧民街という全く対照的な光景を幾度となく見た。
 このような光景は、リオ・デ・ジャネイロでも見られる。リオのキリスト像が立つコルコバードの丘から北方の斜面に群がる、古い映画「黒いオルフェ」や、2000年に封切られた映画「オルフェ」、2008年の「シティ・オブ・メン」などの舞台になった、混沌とした住宅密集地帯である。
 

コロニア・トバール
民芸品店(カラカス)

 カラカスから西へ500キロ行くと、南米最大の湖マラカイボ湖がある。狭い入り江でカリブ海と繋がった、大きな潟のような湖である。この付近一帯はベネズエラ経済を支える石油の宝庫で、湖面には油井櫓が林立している。湖上や周辺には今でも原住民のグアヒラ族が住んでいる。

 一方、南部のブラジルと国境を接する地域は密林地帯で、ここを水源とする全長2500キロのオリノコ川はベネズエラの中央部を流れ大西洋へ注ぐ。オリノコ川の東側には広大なギアナ高地が広がっている。ここには世界的に有名な、"アンヘルの滝(エンジェル・フォール)"がある。しかし、2010年1月に、国民の人気とは裏腹に、世界的に悪名高いチャベス大統領が、この滝の名称を、ベネスエラ古来の財産だと言うことから、発見者エンジェルの名前は怪しからんとして、「ケレパクパイ・メル Kderepakupai Meru」という難しい発音の現地名に変えてしまった。

原住民が踊りにかぶる面

 先にも述べたように、やたらにアメリカ・ナイズされたベネズエラは、ラテン・アメリカの魅力を求めてやってくる外国人観光客には余り魅力がない国であるが、南東部のオリノコ高地には、テーブルマウンテンやサルト・アンヘル (英名:エンジェル・フォール)で有名なギアナ高地がギアナ三国まで続いている。落差1000メートルもある、このアンヘルの滝だけは、文句なしに第1級の観光ポイントであろう。この他にもギアナ高地には、「失われた世界」の舞台になった"ロライマ山"や、映画「パピヨン」の主人公が投獄された城砦牢獄"ラス・コリーナス"などがある。
 カリブ海には、ロス・ロケス諸島やマルガリータ島などのビーチリゾートがある。アンデス山脈の観光地としては、メリダがある。ここには世界最長のロープウェイ(全長12.6 km)があり、そこの最高地点ピコ・エスペホからベネズエラ最高峰のボリバル山(5007m)へ行くことができる。

マラカイボ湖近くに住む
原住民グアヒラ族が作る
手工芸品

 ベネズエラは大都市の発展に比べ、地方や僻地は未開発のまま放置されており、奥地にはまだ裸族が暮らす密林が残されている。こうした現状から観光資源の開拓も遅れていて、これに合わせるかのように、民芸品などの特産物も少ない国なので、それも私に魅力を感じさせてくれない理由の一つかもしれない。
 
 数少ない民芸品を上げるとすると、カラカス郊外にある、コロニア・トバールと言うドイツ人移民の入植地で作られる陶芸製品、カラカス市内の民芸品店で売っている人形、原住民の祭りに被るお面、置物等である。

 悪魔の面の人形
(サンフランシスコ
 ・ジャトーレ村)

 それに、マラカイボ湖の周辺に住む原住民グアヒラ族が作る色鮮やかな織物製品などがある。グアヒラ族の手工芸品の中では"チンチョロス"と言うハンモック、色彩豊かな膝掛け、敷物、ポンチョ、帽子などが目を引く。また、サンフランシスコ・デ・ジャーレ村の悪魔のお面を被った人形や、ララ州のグァダルーペ村の鳥や人形をかたどった木彫り細工なども目を楽しませてくれる。この他に、沿岸の島で作る椰子の実細工や麻細工なども、民芸品としての価値がある。 
 
 南米諸国はどこも同じようであるが、国内の主要都市間の交通は一般庶民階級は長距離バスが主であるが、ビジネスには飛行機が一般的である。一時期、飛行機事故が多発したこともあった。ここ数年は殆ど事故の話しを聞かなかったが、2008年の2月に、西部のメリダからカラカスへ向かっていた、サンタバルバラ航空の双発ATR42-300型機がアンデス山中に墜落した。乗員・乗客46人が乗っていた。
 
  ベネズエラは、中央アメリカから広がるトウモロコシ文化圏の国であり、アレパと呼ばれるトウモロコシから作るパンのようなものが一般に食べられている。飲み物としては、ロン(ラム酒)が広く飲まれており、お茶やコーヒーの代わりに熱したチョコレートを飲む習慣もある。スペイン料理やイタリア料理も一般に食べられている。民芸品と旅のお話はこの辺で終わり。もし興味があったら下を読んで下さい。
 
 
現代のベネズエラをちょっとだけ
(民芸品とは関係ないので読まなくても結構です)

 1914年、フアン・ビセンテ・ゴメス時代にマラカイボ湖で石油が発見されるまでは、ベネズエラはコーヒーとカカを主としたプランテーション農業の国だったが、1930年代には石油輸出額が第一次産品を抜き、1950年代にアメリカ、ソ連に次ぐ世界第三位の産油国となった。その後1970年代を通して高成長が続いたが、原油価格が下落した1983年を境に急落し続け、2002年には1960年の水準にまで落ち込んだ。貧富の差が著しく一部の富裕層に富が独占された。

(左)カラカス郊外のドイツ人入植ヒトバールの陶器
(中・右)土産用の小さな人形

その後、1998年に左派のチャベス大統領が登場し、医療の無料化や低所得者への手厚い政策で人気を維持し、格差是正等の貧困層重視の政策が試みられ、原油価格の高騰の恩恵を受け、貧困層への財政支出拡大等の効果により貧困率が改善し経済も好調となっていた。だが、その後の原油価格の下落や政策の失敗などにより経済状況は徐々に悪化し、特に2010年代に入ってからは市場原理を無視した政策によりハイパーインフが慢性化し、市民生活が混乱に陥り、多くの国民が貧困に喘いでいる。
 
 それでも強気に反米政策を推し進めており、2010年には長年親しんできた「ベネスエラ共和国」の国名を、「独立の父」と崇めるシモン・ボリーバルの名を冠し、「ベネスエラ・ボリーバル共和国」と改名してしまった。前記のエンジェルの滝の改称とともに、自分の存在の誇示に躍起である。
 
 ベネズエラにおいては、富裕層が所有するメディアにより、反チャベス的内容のものが報道されることが多かったが、チャベス政権成立以降は、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。チャベス派は、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など、国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げている。
 しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決できないまま、2013年3月5日、チャベスはガンのため没した。

マドゥロ政権時代
 チャベスの死後、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロが政権を継承した。国際的な原油価格の低下と価格統制の失敗により、前政権時代から進行していたインフレは悪化し、企業や野党勢力のサボタージュも継続するなどマドゥロ政権下においても政情不安は続いた。マドゥロはチャベス時代の反米路線と社会主義路線を踏襲して企業と敵対し、また野党とも激しく対立している。 
 マドゥロは、野党連合民主統一会議の早期再選挙の要求を却下し、代わりに憲法の修正による改革を提案した。しかし制憲議会選挙が「一人一票の原則」を無視し、通常の1票に加えてマドゥロが指名した労組や学生組織など7つの社会セクターに所属する者に2票を与えるという前例のない与党有利の選挙制度になっていたことから野党に強い反発を巻き起こし、全野党が立候補せず、選挙をボイコットした。
 2017年7月31日、制憲議会 (Asamblea Nacional Constituyente) の議会選挙が実施、野党候補がボイコットした事で全候補が与党から出馬、政権に対する「信任投票」と位置付けられ、街頭での衝突も内戦寸前の状態に陥った。軍や警察は政府側を支持して行動し、民間人と警官・兵士双方に死者が発生した。同日深夜、マドゥロは統一社会党が全議席を占める制憲議会の成立を宣言した。宣言により国民議会は廃止され、ベネズエラは事実上の一党独裁体制へ移行した。

マドゥロ政権下のハイパーインフレ
 チャベス権期から開始された「21世紀の社会主義」政策は経済活動の硬直化を招き、その過程で行った主要生産設備や企業の強制的な国有化と、それに伴う利益を度外視したずさんな経営 により、物資不足と二桁以上のインフレが常態化している。2013年以降のベネズエラ経済は、ハイパーインフレの危機的状況を迎え、2016年1月にマドゥロは経済緊急事態を宣言する事態となったが、食料品の高騰がつづき、日用品不足が深刻となる、国外へ脱出する国民も多数に上っている。
 豊富な原油を背景に、世界幸福度報告では2015年には23位、2016年の44位と比較的上位に位置していたが、2017年には82位と順位を急速に低下させた。アメリカの前大統領トランプは「チャベスとマドゥロの社会主義は、原油埋蔵量世界一の国を電気も灯せないまでに荒廃させた」と批判している。(ウイキペディア等よりダイジェスト) 
おわり
(2021.6.10記)
 

 

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メッセージもよろしく

 

 

 

 樫村さんへのメッセージ


◆ 最近の状況、たいへん参考に!

ベネズエラの最近の状況、気になっていたのですが、よくわかりませんでした。要領よく解説いただき、ありがとうございました。

06/13 楳本 龍夫


 

 

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第4回

 

 

 

 
 飛行機の窓から眺める富士山は美しい景色である。でも、この富士山のような美しい山が3つも見えるグアテマラの光景は、3倍とまでは言わないまでも素晴らしい風景である。

 飛行機から見た美しい山々:
3つが重なって2つに見える。
下方はグアテマラ市街

グアテマラ市内の高級住宅地に近い、ラ・アウロラ空港に発着する飛行機からは、天気がよければ、これらの山がいつも眺められる。
 グアテマラ全土には火山が多く、タカナッ、タフムルコ、サンタ・マリア、スニル、サン・ペドロ、トリマン、アティトラン、フエゴ、アグア、パカジャ、スチタン、イパラなどと、この狭い国土の中に、10を超える火山が聳えている。地震帯の真っ只中に位置しているので、M7級の大きな地震も多い。
 富士山のように美しい3つの山とは、グアテマラ・シティの西150キロにある、「世界一美しい湖とグアテマラ人が自慢する"アティトラン湖"の周りに聳える、サン・ペドロ、トリマン、アティトランの、いずれも3000メートルを越す火山群である」。世界一はおこがましいと思うが、レイアウトを分かりやすく言えば、伊香保の榛名湖とその後に聳える榛名富士を三つ並べて、全体を10倍位にした風景だと思って頂ければ良い。
花が咲き競うホテルの庭でマリンバの演奏

 それほどグアテマラという国は自然が美しい国で、穏やかな気候に恵まれていることもあって"永遠の常春の国"とも言われている。都会にも田舎にも一年中四季の花が咲き乱れている。ちょっと歩いただけでもハカランダ(ジャカランダ)や、ブーゲンビリア、ジェラニュームなどが目に入る。七色に彩られたような美しいホテルの中庭からは、時折この国特有の楽器であるマリンバ(注)の、"からからころころ"と言った澄んだ音色が響いてくる。 中米最後のグアテマラの内戦が終わったのが1996年12月だが、やはり平和は有難いものである。ただ生活は苦しく、、米国に向かって行進する難民の行列は新聞をにぎわせる。
(注)木琴を大きくしたようなものに木の共鳴装置をつけた打楽器。

サン・ペドロとアティトランの代表的火山

 南西部の太平洋側の火山群とは対照的に、北東部カリブ海側の低地地方には、密林に覆われたマヤの遺跡が多い。有名なティカル、コパンを始め、キリグア、セイバル、ウアサクトゥンなどの遺跡が密林の中に眠っている。時間の許す旅であれば、これらの遺跡群も、民芸品の収集などとは別に、グアテマラアを知るには是非とも見たい観光ポイントである。

 30年位前までは、グアテマラのことを「今のグアテマラは本来のグアテマラではない。真のグアテマラには存在在しない」 と言われていた。その理由は、地勢的にも社会的にも統一国家を形成するには不向きな要素が多すぎると言うものであった。そのためか、長い間内戦が続いていたのである。 

1773年の大地震まで首都だったアンティグア市

 しかし、実際にこの目で見て見ると、住んでいる人たちは、マヤ族の後裔が殆どで、性質は他の国のインディヘナと同様に、温和で従順である。1996年12月29日まで、36年間も反政府軍との内戦が行われていたのが信じられない。この戦争で主に地方の住民が28万人もが死んだ。この終焉により、中米各地で長い間続いていた内戦は全て終わり、中米の細い地峡に平和が訪れた。

 グアテマラの人々は、メキシコ南部からグアテマラ、ベリーズにかけて勢力を伸ばしていたマヤ族共通の文化を持っており、生活様式はあまり変わらない。

陶器の民芸品の店:
アティトラン湖畔
ノサンタ・カタリーナ・バロポ村

日本の観光会社が主催する"秘境ツアー"(この地方を秘境と言うのは大変差別した言い方だと思ううのだが)で知られる、北西部のアルト地方(山岳部)の町や村は、生活様式に昔からの伝統を守っており、民芸品の宝庫である。民芸品としては、いずこも同じように、人形や陶製品、木彫り、壷などであるが、やはり何と言っても、グアテマラの民芸品はマヤ文化を今に伝える織物製品で、各地独特の色合いを持った衣装や、敷物類は傑出しており、同じような織物を使ったカバンなども実用的価値が高い民芸品である。

 郷土衣装を着た人形:
(左)チチカステナンゴの人形
(右)トトニカバンの人形
(中央)蛙の入ったペーパークラフト

 変わったところでは、遺跡から掘り出したと言う陶器や、その破片を骨董品として売っている。ところが、これらはとんだ食わせ物で殆どが偽ものである。高いお金を出して買おうものなら、跡で後悔すること間違いない。売っている店では、さも貴重品のように特別のガラス・ケースなどに入れていて、証明書も付いているなどと、まことしやかに勧めるのである。

 これらの民芸品は地方の町でも勿論売っているが、なんと言ってもグアテマラ市の旧市街にある、政庁と広場を挟んで立つ大聖堂の裏の大市場が有名だ。ここには、国中の手工芸品が揃っている。地下は住民の日用品、食料品などの店で、1階が全部民芸品店になっている。余談であるが、政庁は一部が観光客に開放されていて、2階の大広間にはグアテマラ全土の道路原標が立っている。

マヤ時代の衣装を着た人形達:
国立考古学博物館
(グアテマラ市)

東京の日本橋にあるのと同じようなものだが、建物の中にあるのは珍しい。また、グアテマラ市にある、国立考古学博物館には、マヤ文明の全てが陳列されており、複雑なマヤ文字や彫刻品、それに年代順の衣装や生活道具などの変遷の様子が見られる。

 1773年の大地震で壊滅するまでの首都であった、アンティグア市には、各地の織物や民族衣装を集めた博物館がある。陳列品は、衣装の他に敷物やテーブル・センター、クッション、紐類、帽子などである。アンティグアには、この他に、民芸品ではないが、木綿製品の優れたものがある。

民族衣装博物館の各地の織物
(アンティグア)
 先に述べた、アティトラン湖の岸にある村々は、村によって着ているウイピル(村の女性の衣装)の色が違う。生地の毛織物は殆ど自分達の村で織る。大体の基調色は紺青や紫、緑系のもので、これに鮮やかな赤が混ざる。村によって模様やデザインが違っており、着ているものを見るとその人が住んでいる所が分かるらしいが、我々にはどこの村のものであろうと美しさには変わりはないように思える。
(後)木彫りの壁掛け
(中)マヤの石像ミニチュア
(前左)アンティトラン湖風景画置物
(前右)陶器の梟の人形
また、この湖の湖畔では、陶芸品を焼く窯場も多く、題材は、ここでも鳥を取り上げたものが多いようだ。値段はグアテマラ市内で売っているものの4分の1程度でかなり安い。

 民芸品を買う時は、色違いとか大小を揃えるなどの買い方が理想的だと思うのだが、陶製品のように目方の張るものや大きなものは、持ち運びが大変なので、買い控えてしまうことがしばしばあり、後で後悔することがよくある。

グアテマラア編終わり
 
つづく
 

 

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第3回

 

 

 

 
  キューバはリズムの激しいラテン音楽の源泉である。ルンバ、ソン、マンボ、トゥローバ、チャチャチャ、ボレロ、コンガ、サルサ、グアラッチャなど、ラテン音楽で我々の良く知っているリズムは、みなキューバから生まれたようなものだ。
 
 街角の即興バンド
ハバナの市内では、ちょいとした広場や市場の中庭などで、数人のバンドがしょっちゅう演奏しているし、地方の国道沿いのドライブインや、レストランなどでは、観光客へのサービスに一生懸命楽器を鳴らしている。

 内務省広場のゲバラの電光絵
カストロの革命以降アメリカから経済封鎖を受けて国内は疲弊し、あまつさえ、ソ連の崩壊で最大の輸出産業である砂糖の最大手のお得意様を失った中で、キューバは音楽のお陰でどうにか外貨を稼いでこられた。外貨稼ぎの王様は、スポーツ(選手やコーチとして)の輸出?と、音楽の輸出だと言われる。そうでありながら、長い間、国内にはCDの生産工場がなかった。
 

ラテンアメリカスタジアム
広告が全くない

このため、カナダやコロンビアの企業と提携して、音楽の原版だけを国内で作り、これを輸出して、そこで大量生産していたそうだ。
 2000年~2001年は日本でもどうゆうわけかキューバ・ブームだった。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クルブと言う、50年も前の年寄り楽士達のグループが蘇り、ヨーロッパや米国で大人気を得て日本にもやってきた。ブームに乗って映画もいくつか出来た。今まで、キューバに関心を持っていた人達の大半はラテン音楽好きの人達で、一般の人は、それほど関心がなく、ましてや、実際にあの小さな島国に行って見ようなどと考える人は殆どいなかったと思う。私がハバナで会った日本人の女の子も、やはりキューバから発生したサルサ大好き人間で、わざわざキューバまで踊りを習いに来たと言っていた。テレビでも同じような番組を見た。  
 しかし、このブームに航空会社や旅行社が目をつけないはずはない。JALがこの頃、初めて直行のチャータ便を飛ばした。チャータ便と言うことは、バンクーバから米国の頭越しに飛ぶのだから、やはり、米国のご機嫌を損なうような定期便には出来ないためなのか、それとも、どれだけ客が集まるか分からないので、試験的に飛ばしたのか知らないが、カストロさんにとっては大満足であったろう。
 

  世界一豪華なトロピカルのショー

寡聞にして、この試みが成功したかどうはは知らない。それからかれこれ10年近くも経って米国のブッシュ共和党政権が退場した。共和党政権が続いている間は厳しかったが、民主党のオバマさんになって漸く動きが出てきた。私は常にキューバへの観光客が増え、海岸沿いのマレコン通りが賑わう日が来るのを夢みていたけど、トランプになって180度政策が変ってしまった。
 

 葉巻を吸う老人

元の木阿弥である。ドルを持った観光客大歓迎のなせるせいか、ラテン・アメリカでも一番入国審査が厳しいだろうと思われたハバナ空港には荷物検査がない。トランクを広げる台そのものがないのである。入国審査官はホテルの予約の有無を聞いただけで、にこにこしてパスポートを返してくれた。入国スタンプもない。
 これは、後日社会主義国へ行ったことがあるために、入国を制限される場合を考慮した親切な措置なのである。しかしドルを持っている客からは、できるだけドル貨を取るのが国策なので、空港に着いてカートを使うところから、これに協力させられることになる。カートに手をかけると、すかさず小さな女の子が手を差し出して使用料を払えと来る。定価などないから精々1~2ドルやれば、グラシアス(ありがとう)となる。
 

 こけし人形

社会主義国の国民に乞食はいないと言っても、街にはそれに近い生活をしている人たちも多く、観光客にやたらにチップや、お恵みを乞う子供達もいる。
 

 民族衣装を着た女性

こうした習性や行動をそのまま外国から来た観光客に見られたら、余り格好いい姿ではないだろう。知られたくない恥部を、曝け出すことにならなければいいがと心配している友人がいた。 要するに底辺に住む国民には受け入れマナーがまだ出来ていないのである。今でこそ貧困に苦しんでいるが、立派な音楽文化を持つ、こうした国を訪ねる場合には、余計な事かもしれないが、純粋にその国の文化を評価できる、サルサを聞きに来る人達のような心構えが必要なのではないかと思うのだが。
 
 玉蜀黍の毛でできた人形
 ハバナには世界最大と言われる音楽ショーを見せる”キャバレー・トロピカーナ”と言う野外劇場がある。ラテン・アメリカではこの種の劇場をキャバレーと言うが、日本人の想像するキャバレーとは全く違う、最高の踊りと音楽を聞かせてくれる場所である。この他にも大きなホテルの中にキャバレーガがある。 ホテル・ナシオナルの中の”パリシエン”(パリジェンヌ)もその一つである。このように、音楽と踊りを国を挙げて世界に供給している国だから、民芸品だってそれにまつわるものが多いのは当然だ。人形の形態や材料も様々である。
 
楽器マラカス
キューバの土産品となると一般的には人形などではなく、葉巻、ラム酒それにコーヒーが代表的である。しかし、葉巻は好き嫌いがあるし、酒瓶は重たいし、液体を機内に持ち込むのは今世界的に禁止になっているので買うのを躊躇するが、コーヒーだけはお薦めである。 あの苦味のある味は、日本にあるコーヒー店の キューバ・コーヒーにはないものだ。
 

 操り人形

 2009年、米国に民主党のオバマ大統領が登場し、それまでの共和党の政策であった「孤立主義」を180度転換して、各国との協調融和政策に変わった。キューバに対しても同様で、渡航制限を緩和したり、お金の送金なども自由にした。
 
 クラフトの蛙
メキシコ市内の旅行社に勤める友人は 「キューバ観光は、米国と対立していた時代には資本主義と社会主義の違いが分かって面白いのであって、米国と仲がよくなっては、また昔の資本主義時代に逆戻りしてしまい、ただの観光地になり面白くなくなる、キューバ観光はカストロ時代(今は弟のカストロ)に行くべきだと言っていた。おわり
 

 

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第2回

  

 
 メキシコ市の中心を走るレフォルマ通りの独立記念塔(左の写真)を挟んで、シェラトン・マリア・イサベル・ホテル(とうの反対側の一角が、日本で言うところの銀座通りに当たる"ソナ・ロッサ"である。直訳すると"ピンク・ゾーン"だが、そんな怪しげな所ではなく、メキシコで最も洗練された繁華街である。
 
 レフォルマ通りに立つ独立記念塔

  ブランドものの店や高級品の店が並んでいるが、その中に民芸品や土産物を売る店ばかりが集まった横丁がある。上野のアメ横をもっと狭く、迷路にしたような横丁である。
  ここに集まっている店では、銀製品の装飾品や置物類が目に付くが、民芸品としては、壁掛けや、マリアッチの人形が多く、壁掛けにはアステカの暦時計を始め花模様や鳥などを描いたものが多い。また、もう少し高級な店には、ペーパークラフトや木彫りの人形な どもあるし、一種の美術品としては、壁などに貼り付けたり花瓶敷などに使うる化粧タイルなどもある。

 ソナ・ロッサの民芸品店(メキシコ市)

 この他にも市内には、装身具、装飾品、置物、民芸品、やみやげ物などを売る店ばかりがたくさん集まった、だだっぴろい市場があり、観光バスが必ず立ち寄るようになっている。また、ユカタン半島の突端に位置する、最近では日本でも有名になったリゾート地、カンクンと目と鼻の先の沖合いに浮かぶイスラ・ムヘーレス(女達の島)には魚の形をした陶器の壁掛けが沢山ある。
 

レストランで演奏する
マリアッチの楽団

 マリアッチはハリスコ州から生まれたメキシコを代表するポピュラー音楽の一つである。最高レベルのマリアッチは、国立芸術院で毎週水曜日と日曜日に上演しているショーで、全国各地の民族衣装をまとい、伝統音楽や踊りを紹介する中で、たっぷり聞かせてくれる。また、シェラトン・マリア・イサベル・ホテルの中のレストラン・シアターでも一流が毎晩演奏している。
 

  メキシコの民芸品
  後左:イスラ・ムヘーレスの壁掛け

  後右:アステカの暦時計
  前左・右:フル編成の
      マリアッチ人形

 もっと身近で生々しい演奏を聞きたければ、ガリバルディ広場(通称マリアッチ広場)に行けばよい。しかし、ここは、掏りやかっぱらい、たかりなどが大勢いて観光客は危ないと言われ、お客が減ってしまったと楽士達は嘆いている。
 でも実際はそれほどでもない。ただ、歌わせろと言って客引きするのがしつっこい。
 

 メキシコの民芸品
 左:オアハカ地方の骸骨の人形
 右:装飾用ソンブレロ

 マリアッチを演奏する楽士はチャーロという黒か紺色の短い上着を着て、首にはスカーフを巻き、金色や銀色の縞の入ったズボンを穿いて、縁に飾りのついたソンブレロを被っている。ソンブレロは、革命の頃から愛用されてきた代表的な帽子で、今では実際にはマリアッチが被っているのしか見られないが、民芸品としては大きさも大小様々で、刺繍の模様も色とりどりで美しいものが売られている。
 

 オアハカの死者の祭の
 骸骨踊り

マリアッチ・バンドのフル編成は7~8人で、1曲5ドル~10ドル位はする。高いか安いかはその人の価値観によるが、レコードやCDなどで聞くよりも長い時間演奏してくれる。マリアッチ人形は7人揃っているのが一組なので、足りないのは欠陥品だ。買う時によく注意することが必要だ。
 民芸品で目に付く骸骨の人形は、オアハカ州の死者の祭りに出てくる仮装からもじったものだと思うが、骸骨や白骨も人形になると愛嬌があって面白い。 民芸品には色々な形や衣装をまとった骸骨の人形がある。骸骨は人形だけでなく、国立芸術院の民族踊りの中にも出てくる。
 

 トゥラスカラのカーニバルの
 仮面踊り

 オアハカ州はメキシコの代表的な酒の、テキーラと並ぶ有名な地酒メスカルの産地でもある。メスカルは原料もテキーラと同じマグエイの葉で、味もテキーラに似ているが、瓶の底に芋虫が必ず入っているのが気持ち悪い。
 メキシコ市内から西へ、高原の道を雄大な景色を眺めながら140キロ行くと銀の町タスコに着く。途中所々にハカランダの紫が浮かび、サボテンがにょきにょき立っている。 この途中にリゾート観光地クエルナバカという面白い名前の町がある.ここは皮細工とペーパークラフトの民芸品の本場である。皮細工はカバン、ハンドバックなどの他にサンダルとかベルト、財布など実用品が主である。ペーパークラフトは鳥とか動物の人形が多い。しかし、壊れやすいので観光旅行では持って帰るのに気を使う。
 
 クエルナバカ教会の壁画の文字
 クエルナバカの観光ポイントの一つに、1552年に建てられたアメリカ大陸でも最も古いと言われる教会があり、その壁画には、長崎の26聖人処刑の絵と共に"太閤秀吉が処刑を命じた"と書いた文字が残っている。
 
(注)壁画文字の両端が切れているが、
・・ RADOR . TAYCOSAMA .. MANDO . MART ・・
と読める。これは
EMPERADOR TAYCOSAMA MANDO MARTIRIO
で、"皇帝太閤様が殉教を命じた"という意味である。

 
タスコの銀製品を売る店
 クエルナバカからさらに、西に向かうと銀の街、タスコである、タスコは国内でも有数の銀製品の産地で、それを売る店が軒を並べており、裏側に回ると、手作業で作る工場があちこちにある。
 

 タスコ街道から眺めるタスコ市全景

銀はメキシコの特産の人つで、あらゆるものに使われている。その製品は殆どが職人一人ひとりの手作りが多い。工場と聞いて見学したら、たった一人で小父さんが一生懸命やすりをかけていた。アマテと言う樹皮から作るアマテ紙に画いた花や動物の絵は土産物に最適だ。
 
 メキシコ大聖堂
この前が市の中央広場
 観光案内もする内容なので、メキシコへ行ったら、是非ここだけは見て欲しいと思う、市内中心の教会、有名な行楽地ソチミルコ、それに郊外のティオティウアカアンのピラミッドを紹介してメキシコ編を終わりにする。教会の絶っている場所はかっては、湖だったところで、地盤が非常に弱く教会も傾いている、日本のゼネコンが補強をしていたが、今はどうであろうか。
 
 ソチミルコ湖の遊覧船
 ソチミルコは郊外の湿地帯の川をせき止めて池を作りそこに、いかにもメキシコらしき、極彩色の絵の具で、デコレーションを施した遊覧船を浮かべ、家族や友人達がわいわいがやがや、騒ぐところである。その間をマリアッチのバンドが乗った船が巧みに、近寄ってきて、「旦那1曲どうですか」と来る。1曲最低5ドル、ちょっと気前が良いと10ドル、石油成金などは100ドルなどと様々だ。1曲は5分から10近くやってくれる。
 日本の民芸品店で買える中南米の民芸品の中ではメキシコの製品が断然多い。メキシコの民芸品に限って言えば、わざわざメキシコで買わなくても面白いものはに日本でも結構手に入りそうだ。ただ、日本の店では人形類は一般に少ないようで、骸骨の人形にいたっては殆ど見たことがない。民芸品は、その国の文化の一面を表わすものであり、旅の思いでをいつまでも残しておけるので、同じ品物でも現地で手に入れたものの方が価値観が高いのは当然である。  
 (写真は全て筆者が撮影したものだが、プリント画をスキャンしたものであるためピンボケのようになっている)
(メキシコ編終わり 2021.3.1)  つづく

 

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第1回 ②

  

 

ー 中南米の観光地 

  日本の民芸品はと言うと各地の観光地とセットになっていることが多い。ところが、南米の国々は先祖の残してくれた文化、遺跡など貴重な観光資源が多いにもかかわらず、経済的利得に結びつける利活用が誠にお粗末である。日本からラテン・アメリカ方面へのツアーは、中米地域ではメキシコ市周辺のアステカ遺跡、グアテマラにあるマヤ遺跡郡、キューバなどを巡るルートが代表的である。

 クラシックカーの天国ハバナ市内

南米大陸ツアーでは、お決まりの、リマ~クスコ~マチュピチュ遺跡~ブエノス・アイレス~イグアスの滝~サンパウロ~リオ・デ・ジャネイロといった、遺跡と素晴らしい景色と民族音楽をミックスしたルートが代表的なものだ。しかし、南米ルートのクスコ郊外の遺跡の周囲には殆ど何もないし、マチュピチュにも入り口の前にホテル兼レストランがあるだけだ。イグアスの滝だって、アルゼンチン側にもブラジル側にも肝心の滝の近くのホテルは1~2軒しかない。これらの場所も、もし日本ならば、おそらくご本体の影が薄くなるほどに周囲は開発され、ホテル、レストラン、土産物屋などが群がるであろう。 南米の観光ルートは飛行機便の関係や現地の交通事情などから、どうしてもワン・パターンなものにならざるを得ないとは思うが、このようなルートに含まれない所にも行く価値のある所は多い。

 クイ(鼠科)を売る女
オタバロ市場(エクアドル)

 例えば、エクアドルの首都キト市の外れにある赤道モニュメントは、南北両半球が一跨ぎに出来る所であるし、オタバロ村のインディオ市(露天市)は、げてもの料理の屋台やカラフルな毛織製品などが多いことでは特長的である。更にオタバロ族は平均身長が150センチ程度なので、平均的日本人でも巨人になれる。コロンビアの首都ボゴタには、市内の一角に素晴らしい夜景を一望に出来るモンセラーテの丘がある。この丘は、ずっと以前に上映された五木寛之原作の映画「戒厳令の夜」のロケ地になった。また、郊外のシパキラ村には全山が塩の山を刳り貫いた中に作った教会、南部のサン・セバスチアンには多数の石像があり一見の価値がある。ペルーならお決まり の場所以外にも、近年新しい遺跡がいくつも発掘されているし、南部の白亜の町アレキーパ周辺にも観光ポイントは多く、郊外はコンドルの群生地として知られている。

 ドイツ豆戦艦シュペー号の錨
モンテビデオ(ウルグアイ)

 往復に1週間かけられるなら、太平洋に浮ぶイスラ・デ・パスクァ(イースター島)のモアイも見たいものである。ボリビアにはペルー同様のプレインカ以降のティワナク遺跡が無数にある。先住民族の文化のなかったアルゼンチンだって、北部にはインカ族の影響を受けた遺跡や、奇岩怪石の景勝が見られる風景がある。その反面、パラグアイやウルグアイには、残念ながら目ぼしい観光ポイントは殆どないと言ってよい。 しかし、中米はとにかく、南米は日本からは地球のほぼ真裏になり、特に南半分の国々はどこをどう回っても約2万キロ(地球の円周は凡そ4万キロだからその半分)は飛ばなくてはならず、30時間は有にかかる。

ティオティウアカンのピラミッド
(メキシコ)

簡単には行けないが、行けば行っただけの価値と満足感は十分に得られると思われる地域である。

 そして、絶対に言い忘れてはならないのは、ラテン・アメリカは多種多彩な音楽の宝庫であることだ。メキシコのボレロ、ルンバ、マリアッチ。キューバのソン、トゥローバ、マンボ、サルサ。グアテマラのマリンバ。ブラジルのサンバ、ボサノーバ。アルゼンチンのタンゴ、ウルグアイのカンドンベ。チリのクエッカ。ペルーのバルス(ワルツ・ペルアーノ)、アンデス・フォルクローレのウワイノ、マリネラ。コロンビアのクンビア。ベネスエラのホロッポ、などなどの他に、各国とも独自の民族音楽(フォルクローレ)やそれに合わせた踊りがある。どこか面白い国、珍しい場所はないかと考える機会があったら、是非ラテン・アメリカの国々を候補に上げられることをお薦めしたい。

すり鉢の底のような街、ラ・パス
(ボリビア)

日本に一番近いラテン・アメリカの国はメキシコだと言うことには誰も異論はないであろう。しかし、私は、フィリピンこそ本当は最も日本に近いラテン系の国ではないかと思っている。なぜならば、四百年もスペインの統治下にあって、今でも、人の名前や、町や通りの名称がスペイン語でたくさん残っているし、通貨単位もスペインのペソのままである(注)。私はフィリピンを全く知らないが、テレビなどで見るフィリピン人の体型や気質などには、今でもスペインの血が流れているような気がする。先ほど亡くなったアルゼンチンのフットボール界の神様マラドーナの体形はどうみても、ヒリピン人に似ている。国語のタガログ語も何となくスペイン語に似ているような気がする。 まあ、れはとにかくとして、ラテン・アメリカと言えば中南米諸国であり地球の裏側である。

 ではいよいよ「ラテン・アメリカの民芸品の旅」を始めよう。まずメキシコから出発して、メキシコ湾を東へ飛び、カリブ海の真珠と言われるキューバ(今はすっかりその輝きを失っているが)を巡り、再び中米はグアテマラに戻り、一路南下して南米大陸のベネズエに入り、そこから時計回りに広大な大陸を回って、コロンビアまで行き、アルゼンチンを締めくくりとするお話しである。

 集めた民芸品の数は、国によって行ったときの手荷物の量や日数の関係で、数が少ない国や、逆にたくさん集められた国がある。自分がいたアルゼンチンは元よりであるが、ウルグアイ、ペルーやチリ、ボリビアなどは複数回行っているので多く、反対にグアテマラ、ベネスエラ、エクアドル、コロンビアなどは1~2回しか行ってないので、ほんの数点しか集められなかった。

 お話は、収集した民芸品の写真を紹介し、それに関連する事柄を説明し、観光ポイントなどに触れながら進めていくが、どうしても横道にそれがちである。でも、それはそれで、話のねたがある訳で、多少の道草はご勘弁願いたい。この物語は、2003年に初版が完成した。そして、その後に世界の状況も随分と変わった。しかし、民芸品のありようは、政治・経済・軍事問題などに影響を受ける事はないが、その国の様子に触れる部分もある。そういった理由から2015年に大改訂を行い、さらに本稿の掲載に当たり手元資料によりできるだけ現行になるよう修正した。 

(2021.2.2  つづく)

(注) ペソと言う言葉は、重さ、秤、重要性などの意味で、メキシコ、キューバ、ドミニカ、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、コロンビアなどの通貨単位になっている。

 

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第1回 ①

 

 

 

(まえがき)

 元来、旅とは、自分のペースでのんびりと、ゆっくりと行きたいものである。しかし、外国旅行の場合は、時間的、経済的、健康的な制約、さらには、行き先での言葉の問題などの理由から、添乗員が案内してくれて、短期間の間に観光ポイントを無駄なく、出来るだけ沢山回れるパック・ツアーで出かける人達が多い。しかし、アジア諸国や大洋州のような、比較的短距離で時差の少ない地域は別として、南北アメリカ大陸にまたがるラテン・アメリカへの旅行となるとそうはいかない。特に日本からはちょうど地球の裏側になる南米方面のパック旅行となると、ただただ疲れだけが蓄積し、帰ってから写真を見ても、どこをどう巡ったのか全然思い出せないと言う声を何度も聞いた事がある。しかし、それも無理はない。南米ハイライト何日間などという旅行は、往復で4日間が消えてしまい、実際にホテルに泊まれる日はぐっと少なくなる。しかも、1か所一泊で、トランクを全部開く余裕もなく、観光ポイントからポイントへ移動する事が多く、時差ぼけの取れる暇もない。

 南米くんだりまでやってくる旅人達は、医者とか、なになに士とか、自営業とかの比較的経済的に余裕のある人達で、今までに世界のあちこちを回ってきて、残ったのが南米だと言う人が多い。こうした人達だから皆年寄りである。予定地に着いてからの移動中のバスではぐっすり眠りこけている。観光場所に着き、いきなり起こされて下車し、写真を撮って、また次の目的地まで眠る。車中での説明なんか聞いていないから、自分が今どこにいるか分かるわけがない。老夫婦がホテルのレストランや喫茶コーナでぼんやりしているので 「どうしましたか」 と声かけると、日本人と分かってほっとした表情で、「コーヒーを飲みたいのだが言葉が通じない、南米はコーヒー一杯、サンドイッチ一つ食べられない」と力なく話しかけられたことがある。スペイン語圏では“コーヒー”といっても通じない。“カフェッ”と発音しなくてはいけない。アメリカンなどという邪道?の飲み方はしない。砂糖をたっぷり入れたカップの上から濃いめに煎じたコーヒーを注ぐのが本来の飲み方だから。

 ラテン・アメリカという定義は難しい。一口に言うと、メキシコを含む中米、カリブ海諸島、南米大陸の国々でスペイン語かポルトガル語を話し、ラテン文化を継承している国々と言う事が出来る。フランス語をラテン系の言語に含めると、ハイチ、グアドルペ、マルティニク、ギアナなどが含まれる。ただ、フランス系住民が30%もいるカナダは一般的にはラテン・アメリカには入らない。英語圏のジャマイカ、ベリーズ、スリナムもラテンと言うのは難しい。しかし、中南米と言う場合は、言語、文化に関係なく、地理的に中米、南米、カリブ海諸国を言う。メキシコは地理的には北米であるが、中南米という場合でも、ラテン・アメリカという場合でも、どちらの場合にも含まれる。

民芸品収集のきっかけ

 

大草原を走る、メンドーサ州

 旅の楽しさや面白さを本当に味わうには、地上の交通機関を利用するに限る。暫くの間アルゼンチンで暮らした私は、仕事の上でも、観光のためにも、南米諸国を気軽に歩けるという幸運に恵まれていた。チリやパラグアイ、ウルグアイ、それにブラジルの南部などはみな車で行った。ペルーやボリビアへも車で行きたかったが、さすがに遠すぎるのと、道が悪くて車が殆ど走っていないので、万一故障したり、ガス欠になったら飢え死にしてしまう恐れがある、との知人の忠告に従って諦めた。一日に1000キロも走ったことがある。(8時間かかる)。このくらい一気に南北を移動すると植物の分布が変わるのがはっきり分かる。それほど長距離ではなくても、途中の景色を楽しみながら小さなレストランとかガソリンスタンドに立ち寄って、土地の名産や民芸品を聞き出したり、あるいは、道端の老婆から採りたての果物を買ってお喋りをしたり、綺麗な花が咲いているのを見て、その名前を聞き、ちょいと摘まんでバックミラーに挿してみたり。地面を走ることによって、その国のその地方の生の生活が見られる。これが旅の楽しさだと思う。こうした旅が出来ながら、その記念となるものが写真だけというのは勿体ないし、歴史や文化の片鱗でも偲べるものを思い出として残しておこうと思い立ったのが、各地の民芸品の収集のきっかけである。

 このホームページで紹介するものは、私が行った際に入手した収集品のなかの一部である。このほかに絵画、壁掛け、楽器、敷物、民芸調雑貨等があるが、それらの話は別の機会に譲る事にする。また、現地では目につかなかったり、興味を引かなかったりして入手しなかったものも多数あるので、各国にはこの他にもまだまだいろいろなものがあると思っていただきたい。

  

アンデス山脈を車で超える
チリ国境通過直後

 ラテン・アメリカ諸国の独立は、1810年ごろから1820年代の後半にかけて次々と達成されたもので、やっと200年である。その上、独立前はポルトガル、英国、フランスなどの支配を受けていたごく一部の地域や島々を除き、殆どがスペイン一国の支配を受けていたため、国ごとによる個性が育ちにくかった。政治、宗教、教育などのメンタルな面だけでなく、街作りのレイアウト,教会,議事堂、役所などの建物についても、大きさ,規模は別として皆同じような規格の外観を持っている。このため、各国の民芸品は、スペインの征服前に栄えた原住民の文化・伝統をモチーフにしたものが中心である。これらを題材にして、革や陶器、,金・銀・銅・錫などの【アンデス山脈を車で超える、チリ国境通過直後】金属、そして 毛織物、木・竹・葦・石・ガラス、貝殻などの材料を使って、人形、敷物、壁掛け、置物、装飾品、灰皿、壷、篭、物入れ、小さな実用品、遺跡から発掘されたもののミニチュアなどを作っている。これらの民芸品は、生産された場所ごとに独特のものがあるわけではなく、その国のどこへ行っても同じ物が売られている。先住民族の歴史の長さとか版図の大きさが、国ごとに見た民芸品の種類の多少に現れているように思える。

 すなはち、南米ではインディオ文明の中心的存在であったインカ族の本拠のあった、ペルー、ボリビアなどが民芸品の種類が最も多く宝庫である。材料も上記に述べたようなものがすべて使われている。南米の原住民の中でも最強と言われ、最後までスペイン軍と戦ったアラウカーノ族がいたチリには、銀製品、銅製品、陶器、籐製品、木彫りなどの他、日本でもお馴染みのラピスラスリ細工がたくさんある。チリのラピスラスリには細かい金片がたくさん入っている。

 

パラグアイのネアンドティ 

 逆に最も穏健であったグアラニ族のパラグアイには、世界的に有名なニェアンドティ(蜘蛛の巣刺繍)の他、木彫り、革製品が多い。コロンビアでは、採掘量世界一のエメラルドや金の装飾品が有名だが、民芸品としては陶磁器製品、籐細工などがある。ベネズエラでは、グアヒーラ族の色彩豊かな織物、麻細工などが代表的である。エクアドルでは、木彫り、織物(ポンチョとか敷物、壁掛けなど)パンを固めて人形や鳥などの形にしたものが有名だが、珍しいものとして、ツァンツァ(Tzantza)と言う、原住民同市の争いで捕虜にした敵の首を干し首にしたものの模造品がある。
 ウルグアイにはアメジストを用いたものや椰子の実を使ったものがある。以前はオットセイの革細工があったが、今では捕獲禁止でなくなった。ブラジルは、サファイア以外の全ての宝石が採れると言われるほど、宝石・貴石がたくさんあるので、これらを使った装飾品、置物などが多いが、木や魚貝の化石を細工したものもある。民芸品としては、やはり木や革、椰子の実を材料にした人形や置物類が主である。アルゼンチンのようにヨーロッパ人が侵入するまでの原住民は、ほとんどが狩猟漂流民族であった国では、固有の文化がなく、民芸品と言えばヨーロッパからの移民が流入した後のものばかりで、ガウチョ(牛飼い)か、タンゴにまつわるものに集約されるが、形態や材料は多種多彩である。また、北西部で採れるオニクス(薄緑の他にルビーのような赤い高価なものもある)の加工品も有名である。

  

素朴な人形、グアテマラ

 中米のメキシコ、グアテマラなどには、繊維製品、陶器製品、銀製品が多いが、題材はそれほど古いものとは思えない。キューバには色々な形で、色々な材料を使った人形がたくさんある。中南米の民芸品は、あくまで民芸品であって、美術品のような芸術的価値のあるものは少ないように思える。金銀宝石を使った装飾品のようなものを除き、日本人の高級品志向の目から見るとお粗末な細工なものが多い。特に人形類については、顔の表情に重きをおく日本人から見ると、まことに幼稚である。しかし、私にとっては芸術的価値などは二の次三の次のことだ。広大な大陸にある国々やカリブ海に面した国々から、自分の足で集めたものであること、特に、南米にある全ての国(ブラジル北部の3つの小さな国を除き)の民芸品を集めたことに最大の誇りを持っている。近年は日本の各地に外国の民芸品を売る店がたくさんできて、ペルーやメキシコ、グアテマラなどのものは日本でも手に入り易くなってきた。
 人形達を一つ一つじっと見ていると、私が彼らの故郷の町や村を訪れた時の情景を彷彿とさせてくれる。埃っぽい石ころだらけの道、紫色に起伏する小山のような砂漠、果てしなく続く大草原、見事なまでに深い紺青の海、異様な臭いが漂い蝿が群がる市(青空マーケット)の屋台、皺だらけの手の老婆、地の果てを思わせる黒い海の砂浜などなどが今でも目に浮かんでくる。   (つづく 2021.1.5 )
 
* コロナ禍のなかで、違和感を持つ題材になったけど、それはそれとして、気分を変えてお読み頂くようお願いいたします。

 

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著者へのメッセージ
感想 ラテンアメリカの観光事情がよくわかり、興味深く読まさせていただきました。
続編を期待しています。   楳本
01/05 楳本 龍夫