四 季 雑 感(50)

樫村 慶一

特別号

「携帯電話事業」三木谷のペテン

 昨年、携帯電話の3大既存キャリアに向かって、第4のキャリアとして参入すると華々しく花火を打ち上げた楽天が、窮地に陥っているようだ。会員制の月刊誌「選択」の10月号に、その内実が詳しく掲載されたので披露する。既にお読みなった方は無視して頂ければよい。
 じわじわと締め付けられてきた厚生年金をカバーして、今や、我々の生活の絶対的後ろ盾である、企業年金の親会社KDDIのライバルだと思うと、その動向は気になるものだ。タイトルは、「携帯電話事業・三木谷のペテン」と言うかなりセンセーショナルなものだが、内容は真面目でかなり詳細である。長いし理解しにくい部分もあるので、一部省略してまとめてみた。

 「携帯電話電話事業者としての社会的責任を踏まえ早期に本格的サービスを開始してほしい」と総務省が異例の警告を発したのは9月6日だった。菅が見込んで第四の携帯キャリアーへの道を開いてやった三木谷は、警告の重大さを殆ど認識していなかったようだ。所詮は虚業の口舌の徒か、と総務省担当者は自らの不明を恥じたという。
 同日三木谷が開いた言い訳の記者会見は陋劣(ろうれつ)を極めた。基地局開設が大幅に遅れ、当初計画の10月に本格サービスを開始できないことは分かっていた。案の定、計画は来年3月まで最長半年延期、肝心の通信料金も発表できなかったが、三木谷は、「携帯電話のアポロ計画」と自画自賛し、長広舌を振るって報道陣を煙に巻いた。そのうえで、10月1日から東京、名古屋、大阪で5000人限定の「無料サポータープログラム」の受付けを開始すると表明。これを「革新的ネットワークなので念には念を入れる」試験サービスと弁解した。本格サービスの時期については「1か月後か、3か月後かもしれない」と言を左右にし、通信料金は「政府が思っている以上の下げ効果をだせる」と大言壮語した。

 9月20日現在僅か1052局、楽天の東名阪の開設基地局数である。来年3月までに3432局を開設する計画の30%にとどまっている。10月1日現在でも1500局にも達していない。NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクの大手3社が東名阪にそれぞれ10000局を設置していることに比べればたった7分の1だ。大手3社からは「7回掛けて1回繋がるかどうかの接続品質」と嘲笑の声が上がる。 ある通信関係者は苦笑した。「楽天は時間稼ぎに必死だ。試験サービスの開始は早くて10月末、いや、色々理由を付けて11月まで延ばすかもしれない」。試験サービスの加入者を10月1日から7日迄受付抽選のうえ、13日から5000人に携帯端末を発送するという。申し込みはアンケートへの回答が条件になっており、恐らく年齢、住所、勤務先、などを精査し、繋がり易いエリアの申込者を選別するだろう。しかも携帯端末を中々送らない、そうすれば11月まで延ばせる、その間基地局を少しでも余計建設できるわけだ。(注1)
 楽天の携帯電話参入は消費税増税と一体で推進されてきた。小泉内閣の総務大臣だった竹中平蔵の副大臣だったのが菅であり、その菅と気脈を通じた三木谷は、後に官邸の実権を握った菅の三社体制の携帯電話市場に穴をあけるための尖兵となり、消費増税による国民の不満を緩和する目的もあった。菅と三木谷の6年越しの遠謀である。しかしこの目論見は見事に外れた。三木谷は3つの誤算を犯したからである。

 (注1)このサービスは地域限定無料サービスと言ってとりあえず10月から始まったが、10月24日の朝日新聞に次のような記事が載った。「利用できないという苦情が総務省に相次いよせられた。楽天よると「SIMカード」を端末に挿入する初期設定を通信圏外で行ったのが原因と説明している。都市部中心に自前の基地局を建設してきたが、エリア内でも圏外となる場所があるためで、通信環境の良い場所で設定をするようにと利用者に説明している。

 第一の誤算は1億人の楽天会員の購買力を提携材料にNTTと対等の交渉が出来ると錯覚し、ドコモへローミング(通回線の乗り入れ)を申し込んだ。ところが、「EC(電子商取引)モール風情が小賢しい」と一蹴された。楽天はもともとドコモのMVNO(回線を借りて格安携帯事業を営む業者)である。したがってその分をわきまえればよきパートナーだったのである。しかし自前の通信回線を持って移動体事業者(MNO)になるということは、ドコモにとっては天下を狙う相手になるということにもなる。そんな慮外者をドコモが受け入れるわけがない。楽天はやむなくKDDIとローミングしてMNOになる準備を進めてきたが、今後MVNOサービスも継続するという。MNOとMVNOを並行させると、いいとこどりが可能になる。つまり、大都市圏は自社回線で提供し、需要密度の低い市域ではMVNOになって大手の回線に乗るということだ。これなら楽天の6千億円程度の設備投資でも通信品質は確保できる勘定である。ドコモの吉沢社長はMNOとMVNOの平行運用は電波の有効利用に逆行すると猛反発しており、三木谷の思惑は通りそうもない。(KDDIもその辺分かっているだろうと思うが、どうなんだろうか。筆者の懸念)。

 第二の誤算は、菅の肝いりで始まった携帯電話市場の競争政策である。すでに通信料金から端末代金を値引きする一体モデルは違法になった。2年縛り契約の違約金を1000円へ減額、長期加入者の通信料の割引抑制、通信サービスと端末をセットで販売するときの端末価格の値引き上限を2万円までとする、という規制がかかった。特に端末の値引き上限2万円は新規参入の楽天にとっては有利な規制だったはずなのが、KDDIとソフトバンクの巧妙な奇策であえなく崩れ去った。 奇策とは自社の通信回線に利用を限定するSIMロックを解除できる端末を48回の分割払いとし、24回支払った時点で端末を下取りし、残債を免除する販売手法である。つまり半額の値引きだが自社の通信サービスを利用することを条件としないため、値引き上限2万円の規制は適用されないというものである。どっちが考えだしたか知らないが見事な抜け穴を見つけたものだ。(注2)
 加入者の移動は端末をいかに安く使えるかで決まる。端末の値引き競争はこれからも続くことになる。それに楽天はついていけるのだろうか。本格サービスを延期した結果、iPhoneの最新機種の取り扱いすらできていない。しかも大手3社は、来年3月を目途に5Gの商用サービスを開始する。ようやく4Gを始められれかどうかの楽天は周回遅れの状況になった。3社は5Gのインフラ整備を進めており、楽天の敗北はますます鮮明になってきた。

(注2) KDDIは半額割引(48か月分割払いを24か月払って解約すると残り24か月分は不要になり実質半額になる)について総務省から批判されたため、この制度を10月末で中止し、11月から36か月払いとし25か月以降に解約すると残り不用になり実質1/3の割引になる制度に改めた。(10月17日朝日新聞)

 三木谷はいつまで、予定通りと虚勢をはっていられるだろうか。唯一の拠り所は12兆円に上るポイント発行額だ。カード会員が買い物するたびに加盟店から入る手数料を元手にECモールのポイント還元率を高めた結果、楽天経済圏は急速に拡大した。約3%の手数料収入を放棄しても、そのポイントでカード会員がECモールで買い物をしてくれれば、楽天にはモール店がら平均15%の所場代がはいる。十分にペイする。
 携帯参入も同じ発想である。加入者が払う通信料金にポイントを優遇し、端末を使えば使う程ECモールの消費に加入者を誘い込ませることが三木谷の狙いである。つまり、携帯電話はEC事業の販促ツールなのだ。しかし、その本業が減益では楽天の先行きは危ない。当分は続くだろう携帯事業の赤字に耐えられるのか、とある金融関係者は指摘する。主力の国内EC事業は19年12期上期決算は営業利益1129億円(前年同期比18.6%増)を計上したが、これは投資先の米国ライドシェア企業の株式上場益の寄与が大きく、一過性要因を除けば327億円(同48.6%減)の大幅減益だ。国内送料無料のアマゾンとの差は開いており、それを補おうとポイント還元を厚くすれば、引当金負担で利益が伸び悩むジレンマを抱えている。
 9月の台風15号(千葉台風)に際して大手3社は基地局に対してバッテリーを充電する移動電源車を100台規模で動員、さらに車載型、可搬型基地局や、KDDIは東京湾に基地局になる船迄浮かべた。基地局もまともにできない楽天に緊急時設備の用意ができるわけがない。ECモールと言う消費の迷宮をつくり、その上前をはねて成り上がった虚業の経営者なのだ。社会的責任の欠陥、それが三木谷の最大の誤算と言ってもいい。


(敬称略 2019.10.26)

 

 

四 季 雑 感(49)

樫村 慶一

世紀が変わって20年になろうというのに

  梅雨が長いの、外は暑いのなんの、でかい台風が来るぞ来るぞ と言いながら、暦だけは正確に移ろいをもたらす。気が付かないうちに残暑見舞いの時期がきて、アッと言う間に、秋がきて、あれよあれよと思う間に1年が終わってしまう。暑い頃は日射病絶対反対という、女房亡き後の後見人を自負する娘の言うことを聞いて、外出は週2~3日に限定してパソコンに精出していた。お陰で、丸60年の結婚生活を記録したアナログカメラ時代のアルバム70冊余りを、全部スキャンし終わりデジタル化した。マンションのクローゼットに大分隙間が出来た。終活のひとつである。ただ、スキャンで問題は、どうしても元写真よりピントがぼやけることだ。そこでピント矯正用のアプリを買って、大事なシーンのものはピントを補正する。お金を出して買ったものだけに、ピントが、特に人物の顔などはかなりはっきりする。因みにスキャンし終わった元写真のうちで、家族、特に妻の写っているのは、燃えるゴミでは忍びなくお寺で成仏させた。神楽坂にあるS寺に送り、祈祷してお焚き上げをしてもらうのだ。段ボール1個分のお布施は3000円である。家族が写っていない写真も随分あったが、それらは燃えるごみで処分したが、私にとって,この夏最大のイベントであった。
  世紀が変わるなんて、日本も世界もなにもかもが一変することのように凄い事だと思っていた。それも良い方に。世界中がコンピューターの切り替えで天手古舞していたのを、まだしっかり覚えている。でも、20年近く経って振り返ってみると、世界も日本も、確かに随分と変わった。たった20年足らずなのに貿易、経済、外交関係、習慣、治安、生活様式、食べ物から娯楽に至るまで、何もかも悪い方に変わってしまった。差別、格差拡大、民族や国家の分断、孤立だとか、人間社会の悪い面ばかりが強く出てきた。原因は自分本位、我儘勝手、傲慢、強欲、残酷、独占欲などなどが元になる。これを突き詰めていくと、ある一人の人物に行きつく。 その名は、Señor Tramp この男は地球上の表面にできた皮膚がんのようなもので、発病して以来地上のあちこちに転移して平和を乱していく。こうゆう癌が地球上に張り付いている限り、地球はますます住み難くなるのであって、あながち異状気象のせいばかりではないような気がする。
  それでは、人類の歴史として人間が生きてきた史実が明らかになって以来の時代で、何時が住み易い、住みたい時代だったんだろうか。1958年から続けている新聞のスクラップ集をめくってみたら、2013年11月16日の朝日新聞に下記のようなランキングが出ていた。一番住みたい時代から順にならべてある。

① 遠い未来(100年よりもっと先の)(理由:今よりは全てが良くなっていると信じて)
② 高度経済成長期(1955~1973) (このころが日本の頂点だったから)
③ 安定成長期(1974~1985)(貯金が増えたよき時代だった)
④ 江戸時代(17~19世紀)(四海波立たずで太平の世だった)
⑤ 近い未来(2014~100年後)(子供や孫とずーっと暮らしたい)
⑥ バブル経済期(1986~1991)(思い切り稼いで派手な生活をしてみたい)
⑦ 平安時代(8~12世紀)(光源氏のような人と恋をしたい)
⑧ 明治時代(1868~1912)(がんばれば成り上がれる時代だった)
⑨ 大正時代(1921~1926)(あの時代は良かった、モダンで楽しかったと故老が言うから)
⑩ 縄文時代(1万年前~紀元前3世紀)(貧富の差がなかったから)

以下は次のような時代である。
⑪飛鳥時代(6~8世紀)、
⑫奈良時代(8世紀)、⑬戦後の復興期(1945~1954年)、
⑭戦国時代(15~16世紀)、⑮バブル崩壊後の現代(1992~2013)。⑯安土桃山時代(16~17世紀)、⑰旧石器時代(1万年以上前)、⑱弥生時代(紀元前3~3世紀)、⑲室町時代(14~16世紀)、 ⑳戦前(1926~1941)
となっている。

  理由はそれぞれあろうけど、私は、 ⑳位の「戦前」派である。 戦前とは昭和元年(1週間しかなかったけど)から16年までをいうが、昭和5年(1930)生まれの私は戦争が始まった時は11歳、昭和10年頃(5歳)からの記憶はかなり鮮明なものがあるが、昭和16年12月8日の「大本営発表」は、はっきり覚えている。東京中野区に住んでいた私は小学校6年生、前日雨が降って水たまりができた校庭で、校長先生の訓話を聞いたのをしっかり覚えている。結局今80年間の過去を振り返ってみても、色々ありすぎて何がと言う題目によって”あのとき”が違ってくるけど、一口に言うならば世界を含めて世の中の動きに頓着しないで、日支事変なんて他所の国の騒ぎくらいにしか意識しないで、子供らしくただひたすらに遊びまわっていた事だけが記憶に残る、昭和10年から16年までが、もう一度住みたい時代のトップである。遊び疲れて台風で倒れた木に腰掛けながら、日独伊三国同盟はすごいねーなんて、意味なんて全然わからないくせに、友達と話し合った時の、場所を含めた記憶がなぜか頭の隅から消えない。
  年寄りは、先がないから後ろを振り返るしか体の向きがない。上記のランキングのついで、同じ年(2013)の記事を手繰っていたら、これも興味深いランキングがあった。「死語」ランキングである。死語とは日常で通用しなくなった絶滅語のことだ。コメント抜きに羅列すると、「パタンキュー」「お茶の子さいさい」 「ハイカラ」 「ルンルン」「驚き桃の木山椒の木」「アベック」「胸キュン」「グロッキー」「イチコロ」 「小股の切れ上がったいい女」 「ミーハー」「あたぼうよ」「地震雷火事親父」「おきゃん」「おてんば」「オバタリアン」「とっぽい」「シェー」「べっぴん」「ほの字」「お妾」「貞操観念」まだまだ沢山の言葉の死骸が世の口から消え、いずれは辞書からも消されるのだろう。そんなこと言っている間にも自分の名前が死語になる時が、静かに忍び寄っているのだろう。覚悟だけは出来ているつもりだけど、ホスピスに入るのは嫌だなと思う。最近逝ったK君のように寝ている間に心臓が止まるのが、最高の理想形なんだけど。
 定年後には2度の人生峠があると人は言う。一つは72,3歳、それを乗り越えたら次は、87~89歳。そういえば新聞の有名人などの訃報でも87とか88が多い。目下最後の峠89歳を、ふうふう言いながら登っている。うまく登り切れると何が見えるんだろう。期待は大である。

(2019 .8. 25 記)

【写真説明】
①お焚き上げの様子。都内には燃やせる場所がないので、地方へ持って行って焼く。神楽坂S寺の坂戸市の焼却場での様子。
②平和な時代だったが、社会的大きな出来事の一つ、日本橋白木屋(後の東急、現在のコレド日本橋)の火事(1932.12.16 )。和服の裾の乱れを恥て救命綱から手を放し14名が転落死、以後ズロースが普及した。(ただし、実際は裾を気にせず大勢が助かったといい、これを都市伝説と言う人もいる)
③ハイカラ。襟のことだけではなく外国のファッションを取り入れた人をハイカラさんと言った。
④小股の切れ上がった良い女。定義はwebでどうぞ。要するに、当時のすらっとした細身の和服の似合う女性を評した。

 

 

四 季 雑 感(48) 

樫村 慶一  

日本人ペルー移民130周年記念の年にあたり

日本人があまり知らないペルーとのできごと


 太平洋戦争中、戦後における南米諸国の対日感情は現在とかなり違っていた。最も親日国はアルゼンチンで、ついでエクアドル、一番悪い国はペルーであった。理由は、アルゼンチンに移住した移民が、アルゼンチン人 の嫌う百姓、花造り、洗濯屋などに従事し、みな勤勉、誠実、礼儀正しく法律順守が厳しいなどの点が大いに尊重されたためである。エクアドルについては、ご承知のとおり野口英世博士の活躍がある。逆にペルーはアルゼンチンで愛でられた行為がペルー人の仕事を奪う結果となり、反日感情の高まりに繋がった。一般的に白人の比率が高い国ほど有色人種への差別感が高く、インディヘナの多い国は親日度が高いという傾向がある。なぜかはお分かりになろう。 こうした傾向がある中で、アルゼンチンの日本移民はアルゼンチン人が嫌がる仕事を積極的に引き受け、それを真面目に遂行したことが評価につながったのだ。人が嫌がることを引き受ければ喜ばれるのはいずこの国も同じである。今年は年紀的にはなんの祝賀行事もない年であり、ペルー移住130年が唯一国際的記念行事の年である。それに因み、余り知られていない日本とペルーの歴史の中で、特に大きな出来事にだけ触れてみたい。
 
【マリア・ルス号事件】
  この事件は、今から凡そ140年前、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク号"が一人 の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号(マリアの光)"船内の窮状を訴えた。「船の中の待遇は動物同然で、移民を斡旋した仲介人が言っていた待遇とは全く違っていた。」この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民の間には虚無感があふれ、農村は疲弊しきっていた。
 一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を至上命令とした、ラモン・カスティージャ大統領のもと、金銀の採掘や特産のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望してマカオに集まっていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ドルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は 凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていたのである。
 マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。 マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置として、まだ国交の無い日本に避難した。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が 英国軍艦に救助されたのである。
  英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けて政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長の リカルド・ヘレイロを裁判にかけることになった。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時の横浜に設立されていた外国公館を始めとして驚きの目で見られ 、大江卓の人権擁護思想の下に進められた裁判は、9月13日に結審し清国人は全て開放されて本国へ送還された。
  この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め合い1、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された 。この事件が後の、1899年の日本人移民第一陣が実現する伏線になっている。

【悲劇の元蔵相、高橋是清の足跡】
  岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、日本陸軍のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった)によって、反乱軍に自宅で射殺された。 この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。
  1889年(明治22年)、当時、特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルー中部のカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った 。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。そこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。
 昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は、散々な苦労をした。是清の従者が馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落するなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る 是清は、悠揚せまらず、"アンデスも 転びてみれば  低きもの"と人ごとのように一句を吟じたりしたと言う。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年も掘り尽くされた廃坑同然であった。口の悪い人達は、「カラワクラ」をもじって「開いてみれば蔵は空(クラワカラ)」と比喩した。
  特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(今なら数十億円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は、惨憺たる失敗であった。一行は千々の思いを砕きながら帰国した。日本の政治史に残るような 大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。是清は家屋敷を売り払って借金を返したと言う話である。一般的日本人は、ラテンアメリ人は陽気で人が良いなどと言うが、性悪説のラテンアメリカ人の、怖い真実の一面を現した事件の一つである。

【日本人移民の入植と、悲惨なペルー下り】
 1800年代後半の日本は、明治維新後の国内の統合と再建が始まり、変化の激しい時代であった。首都が東京に移り、封建機構から脱却して政治構造が激変した。また、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との 通商関係が緊密になっていった。その一方で、軍国主義による領土拡張政策が推し進められ、軍隊が増強された。工業の発展と軍隊の増強は、必然的に人口の増加をもたらす結果となった。
 1872年の人口3450万人が50年後の1920年には、約2倍近い5460万人に達した。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から 溢れ出した余剰人口は、代替労働を求めて都会に集まってきた。しかし、これらの自由労働者を救済するための措置は十分ではなく、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。行き場の無い人々は、食うための手段を自分達で解決するしか方法がなかったのである。特に農村の二、三男達は相続できる土地がないため悲惨であった。これらの解決方法として考え出されたのが外国への移民である。
  一方、19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(1879~ 1884)の荒廃から徐々に立ち直り始め、工場設備は近代化され、 生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖の価格上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力 不足が決定的になってきた。
  それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が 導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄 したのである。
   この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴収したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託 した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるとか、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。
 こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した 。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
  移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは 大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。
 これに対し農場主達は、武装ガードマンを派遣するなどで対抗した。中にはピストルで殺された移民もいた。しかし、農場主達は中国人との問題を経験していた ので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられので、1900年、日本政府の調査団がペルーを訪れ、全員を送還しよとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束した ため、送還は実現しなかった。
  それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデスを越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスを超え、ボリビアやアルゼンチンへ逃げた人達がいる。しかし、過酷な山脈を抜けることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが、移民哀史で言う 「ペルー下り」 とか「ペルー流れ」である。
  しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資本を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。
  森岡移民会社が行った渡航は、今年120周年になる1899年の第1回から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名となっている。
 しかし、このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では5万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年 には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎えた。

【日系人排斥運動と国交断絶】
  フジモリ大統領の誕生を頂点に、一時期ラテン・アメリカで最も親日国になったペルーとの歴史の中でも、1940年(昭和15年)5月13日に起きた排日暴動は、ペルーと日本との関係の中で、最も忌わしい出来事の一つである。その真相を書いてみようと思う。
  1930年代のペルーは、米国資本と結びついた「40家族」と呼ばれた白人達が支配していた。彼らは日本人の経済的進出を嫌い、例えば、日本人がスパイを組織したとか、秘密軍事基地を作ったとか、武器弾薬を 陸揚げしたとか、まことしやかなデマを流して、日系人に嫌がらせをした。
  ペルーには他にも外国の移民がいたのに、特に日系人が狙われたのは、日米関係の悪化に伴う米国の反日ムード作りが背景にあったのである。また、ペルー社会には、日系人がペルーに移住してから、まだ40年も 経っていない新参者にもかかわらず、急速に成長した妬みもあった。その上、日系人の商売が既存のペルー人の小規模な店との摩擦を生み、ペルー人側が面白く思っていないと言う情勢に、米国が目をつけたとも言われている。 このように1930年代の末期には、国内に多くの不安定要素があり、いつそれが爆発してもおかしくない状況だったのである。1940年(昭和15年)5月13日に起こったリマの排日暴動は、このような社会的背景の下に起きた 事件である。しかし、そのきっかけは、日本人理髪業組合内部の、同胞相食む醜い抗争が原因であった。
  当時リマでは理髪店の数が飽和状況に達し、このままでは共倒れになることを恐れたH組合長が、市役所の役人を抱きこみ、傲慢にも独断で自分の商売敵22軒に閉店命令を出した。ところが、閉店を強制された側は、官憲にコネのあるF氏を立てて、市当局にこの命令を撤回させ、争いは法廷に持ち込まれた。H組合長は領事館を抱きこみ、日系新聞もH組合長側につき、F氏を攻撃した。
  事件が大きくなったのに驚いた領事館は、F氏に日本への帰国を命じた。ペルー国籍をもっているF氏を強制的に送還することは違法であったが、中央日本人会も領事館の決定を支持した。領事館はF氏を強制送還するため逮捕しようとF氏の家に侵入した。この時たまたま同家にいたペルー人のマルタ・アコスタと言う女性が巻き込まれ、死亡してしまった。悪い事に、この女性の親戚に地元新聞の社長がいたため、新聞は連日、日本人ボイコットを 煽動する悪質な排日記事を書きたてた。険悪なムードが市中に流れ、ついに破局がやってきた。
  市内のガダルーペ中学の学生が、排日スローガンを書いたプラカードを手にして市中を行進し、これに野次馬が加わり、日本人商店に投石を始めた。暴動や略奪はやがてリマ市内から隣接の港町カジャオに飛び火し、さらに 地方の都市へも波及した。しかし、不可解にも警察は介入せず、制止さえもしなかった。暴動は5月13日から翌14日の夜まで続いた。この結果、日系人620家族が被害を受け、被害総額は当時の金で600万ドルに達した。このうち の54家族316人が再起不能の被害を受け、1940年7月16日、日本郵船の太平洋丸で帰国を余儀なくされたのである。
  悪夢のような暴動は2日間で終わったが、日本人達は暫くは、このショックから立ち直る事が出来なかった。ここで不思議なのが中国人の動きであった。今までは暴動が起きれば中国人の店も被害を受けて いたのに、今回は店先に青天白日旗(今の台湾の国旗)を掲げ、高見の見物をしていたのである。このようなことから、当時、日本軍が中国大陸への侵略を続けていたために、中国人が煽動に1枚噛んでいたのではないかとの憶測も流れた 。
   ところが、事件から11日目の5月24日、リマ市一帯は大地震に襲われた。 アドベ(日干し煉瓦)アドベ造りの家は大被害を受け、大勢の死傷者がでた。誰言うともなく、「罪の無い日系人をいじめた天罰だ」との噂が流れ、科学的知識に乏しい妄信的カトリック教徒だった 一般大衆は、改悛の情を顕わにした。地面が揺れ戸外に飛び出した人々の中には、「私は日本人に何にも悪いことはしませんでした」と、手を合わせ、膝まづいて天に絶叫する女達が沢山いたと言うことである。
  地震が収まってから略奪した品物を日本人の家に返しに行ったペルー人もいたと言われている。この地震は全くの偶然とは言え、高ぶっていたペルー人の反日感情を抑える上で何よりの役割を 果たした。まさしく神風だったのである。この暴動は一応収まりはしたが、日米関係の悪化と共に、時代は確実に破局に向かって進んで行ったのである。
  ペルーとの国交は、第二次世界大戦でペルーが連合軍に組し、日本との国交断絶を声明した1942年(昭和17年)1月24日に途絶えた。日系人は財産を没収され、米国に強制的に追放されたり 、日本に強制送還されたりした。戦争終結後も再移住を認められない人達も大勢いた。このように一時期、ペルーは反日国であり、”日本人移住者の受難の時代”があったのである。 それから10年後の1952年(昭和27年)6月17日、日本とペルーとの国交は再開された。

【天野芳太郎氏の足跡と博物館】
  天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い 日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、 「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため強制送還された。
  しかし、ラテン・アメリカへの夢と情熱は絶ちがたく、持ち前の執念で、戦後の1951年(昭和26年)、密出国のような形で 日本を離れた。ところが、乗船したスエーデンの貨物船クリスターサーレン号(4900トン)が太平洋上で暴風雨に遭遇し、船体は真っ二つに割れて沈没、13時間の漂流の末救助され、日本へ送還された。その後1か月足らずの後に 再び日本脱出を果たし、米国、パナマを経て、運良くペルーに着いた。勝手知ったペルーに渡ってからは、魚粉、魚網などの製造事業を行いながら、青春時代からの夢である、古代アンデス考古学研究への挑戦が始まった。
  戦前からのアンデス遍歴で、知識は十分に持っていた。未発掘の遺跡を求めて、リマ北方200キロのチャンカイ渓谷にとどまり、いつ果てるともなき発掘作業が続けられた。それから20数年間の地道な遺跡発掘の労苦が実り、2300余点の貴重な宝物を収集し、その成果は世界に知れ渡った。
  天野氏自身はその過去について多くを語らないが、戦前戦後を通して、人には言えない労苦を重ねてきた財産を、1963年に念願の天野博物館を建設する際、殆ど使い果たしたと言われる。 各国からペルーに来る皇族、政府要人の殆どが、この博物館を見学に訪れると言う。日本で開かれたいくつかのインカ展にも出品した。米国や欧州、中南米諸国などの展覧会にも毎年のように出品を求められている。
 ペルーの古代文明研究者には全ての収蔵品が開放されており、写真撮影や、出版にも無料で便宜が供与されている。チャンカイ文化の"つづれ織り"など7点が、ペルーの切手図案に採用されている。 日本人を始め世界の50余か国から同館を訪れる観光客は、年間約6000人に上る。それも申し込み制による無料である。
  天野氏は、「ペルーの民族的遺産を、外国人の私が有料で公開することに抵抗を感じる。日本へのイメージを少しでも和らげるために無料に徹したい。 研究者が誰でも展示品を手にとって見られるように、私の独創的な配列をしている。ただ、一般公開にすると、館員や警備員の増員などの問題が出てくる」と語っていた。
  しかし博物館の維持のために、日本の文化交流調査団からの「募金箱」を設置したらとの提言を受け、入館者から募金の形で寄付を受けている。人件費を含む運営費は年間凡そ1600万円かかる と言われているが、2000年に入り入館者数も回復し、どうやら運営の目処がついたと伝えられてきた。
  特に目立った記念日もないなかで、日本人移民120周年に視点を当てて、余り知られていないであろう、過去の日本とペルーの関係について書いてみた。フジモリさんが東京で隠遁生活をしていたのは、私が毎月行く目黒のラテンサロンのすぐ横 の広い道に建つホテルの6階を殆ど全階借切りだったそうだ。黙って日本にあのままいれば、日本人なんだからなんの問題もなかったのに、何故帰ったん(行ったん?)だろうと今でも通 30る度に思う。      終わり

写真説明、上から・・・①英国軍艦アイアン・デユーク号 ②神奈川県令:大江卓 ③高橋是清が殺害された家(2階で射殺された)現在小金井の建物博物園に移設されている ④1899年ペルーに着いた最初の日本人移民 ⑤移民船が着いた桟橋の柱だけが僅かに残っている(ペルー南部カニューテ海岸) ⑥当時の桟橋を復元した実用桟橋 ⑦カニューテ、ナスカ辺たりより南部のアンデス砂漠地帯、左端の道路はパンアメリカン・ハイウエー ⑧天野芳太郎博士 ⑨天野博物館

(2019.6.25記)

 

 

四 季 雑 感(47)   

樫村 慶一

なぜ新学年は4月にはじまるのか

 とうとう平成も過去になってしまった。私は1930年(昭和5年)4月1日生まれの89歳で、昨年の米寿と来年の卒寿の間の、なにも祝い事のない半端な年の筈だったのが、思いもよらぬ新元号の御開帳となり、全国民が祝ってくれる幸運に恵まれた。人間は、同じ年月の幅を生きても、その時代の背景によって経験することは様々だと思うが、私と同年代の人達(昭和の一桁生まれで健常な人)は、過去・未来の人達と比べ、より多彩な経験をして来たのではないだろうか。たとえば、天皇の代変わりを2度も経験し、元号を3つも体感し、さらに100年に一度の世紀の更新まで実感した。そして、平和から戦争へ、戦争から平和へ、想像でしか思えなかったことが、科学を始めとする技術の進歩で現実になってきた。半面、当然ではあるけど、幾多の大地震や洪水、長い年月を周期とする自然災害や宇宙変異も避けることはできなかった。
 4月1日生まれの私は、誕生日ごとに社会制度や税制や、そのほか生活に関連することなども含め、何かしら変わる。小学校に入るときからそうだったので。いままで、4月1日が諸々の制度の切り替え日だということに、特に関心は持たなかった。 ただ、直接関連がない話だが、新しい元号の報道にマスコミが1秒を争っていたり、元号そのものの想定遊びのようなことをしたりしたのは、なんだったのかという素朴な疑問がテレビでも流れていた、同感である。そんなにあわてて報道して、なんの意味があったんだろう。
 ところで、私は、ラテンアメリカ関係を始め、何かの時に役に立ちそうな新聞の話題記事のスクラップを50年くらい前から続けているが、先日、他の探し物をしていて、おもしろい記事が目に入った。「なぜ学年は4月に切り替わるのか」と言うタイトルである。
 いわく「明治初期に欧米の教育システムを導入した当初は9月入学制から始まった。これがなぜ4月に変わったのかと言う理由として、以下のように述べている。国の会計年度は財政法で4月1日~翌年3月31日と定められている。これは大日本帝国憲法が制定される以前の1886年(明治19年)から続いている。それ以前は7月~翌6月制だったが、大きな財源だった酒税の納期が4,7,9月だったので、これに会計年度を適合させるために4月に変えた。これに連動して1886年に徴兵令が改正され、徴兵検査を受ける義務のある満20歳男子の届出期日が9月1日から4月1日となった。これに文部省が敏感に反応し、同じく1886年に教員養成の総本山、東京高等師範学校(東京教育大の前身、現筑波大)を急遽4月入学に変更した。1888年には全国の師範学校も4月入学に変わった。
 船寄(フナキ)俊雄神戸大教授(教育学)は、「当時の高師と師範は20歳以上の新入生が多く、9月入学だと優秀な人材は軍隊に先に取られてしまう、まさに軍部との人材獲得競争だったのだ。」と話している。これらに下から連結する旧制中学校、さらに小学校も法令で4月入学に変わった。1907年(明治40年)には専門学校(私立の大学等の前身)も4月1日に変わっていく。最後まで9月入学だった旧制高等学校、大学も3月卒業の旧制中学との連携を図るため1921年(大正10年)に4月入学となった。
 船寄教授は、「本当の子供達の教育の視点に立てば、夏休みを過ごした後に、新たな気持ちで勉学を始める9月入学制度の方が、遥かに利点が多い。4月新学期と言う制度は、教育効果が目的ではなく、軍部や役人の御都合主義の結果であると言われてもしかたがない」と言っている。もう、皆様には関係ないだろうが、今も9月新学期論が聞かれる。孫、曾孫のことを考えると、如何思われますか。


(2019.4.5 記)

 

 

四 季 雑 感 (46)

樫村 慶一
 

- 安いワインが増えているが、最高級ワインの条件とは -

  2019年2月1日、日本とEUとの間でFTPが発効し、ヨローッパ産の色々物品の関税がゼロになったり、安くなったりしました。ワインもその恩恵を受け関税ゼロになりました。ゼロになったといっても、今までだって1リットル当たり40円だったんだから、たいしたことはないかもしれませんけど。
 ところで、ヨーロッパと並んで、アルゼンチンとチリが世界の主要ワイン生産国であることを知らない人は意外に多いものです。これは、それなりの宣伝をしない日本のマスコミだけではなく、チリやアルゼンチンの業者とか政府の責任でもあると思っています。 理由はいろいろ考えらますが。彼らの目が宗主国であるヨーロッパを向いていることも大きな原因です。しかしチリは2007年のFTP協定ができてワインの関税がゼロになり、怒涛の如く日本に流れ込んできました。最高ブランドのコンチャ・イ・トロ(貝と雄牛;創業者の姓、本名はドン・メルチョール・コンチャ・イ・トーロと言う)の700円と言うのを見ました。流石に飲む気にはなりませんでした。4番絞りくらいの動物の餌にしかならない、搾り滓でしょうから。数年前まで、ワインに関する本にも、アルゼンチンやチリを、いわゆる新世界(近年ワイン生産を開始した国)のワイン国(注1)と同等に扱っている、あきれた自称専門家と称する輩がいました。私は、2回ほど出版社へ抗議しましたが、勿論返事などはありません。1772年頃のヨーロッパの広範囲にわたる葡萄の樹の立ち枯れ騒動の時、チリのワインの苗を逆輸出して救ったという話なども勿論知らないだろうと思います。ヨーロッパ移民が持ってきた葡萄の樹を里帰りさせたのです。日本にもワインが普及するにつれて、”エセ通”が増えてきました。

(注1)北米、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、イスラエルなど。ワイン栽培ができるのは元来南北緯40度までと言われていましたが、最近は栽培法の発展や気候変動で変わってきたようです。

 古い話になりますが、山梨県でワイン騒動と言うのが起きました。もう30年近い昔になりますか。覚えている方もいるでしょう。中小ワイナリーが生産量を増やすために外国の原酒を混ぜて増量していたのです。チリの原酒も大分入っていたと思います。ステンレスのコンテナにゴムの袋をいれ、原酒で一杯になるとコンテナと同じ大きさ形になるという寸法です。そのコンテナは輸送船の甲板に積まれ、チリ唯一の貿易港バルパライソから、日光をたっぷり浴びながらピチャピチャ揺れながら赤道を越え太平洋を渡ってきます。ワインは赤道を越えると味が落ちると言われています。そうした原酒を混入したワインに原産地国名を入れる事に山梨県のワイナリーが猛烈に反対し揉めたのです。たとえば、原産地チリと書いたら、世界的有名産地とは知らない人間が多い日本では、売れ行きに大きな影響を与えると危惧したのです。結局入れないことで落ち着いたと思います。
 お正月のテレビ番組で、本物と偽物を当てる番組があり、ワインも1本100万円もするものと、5000円程度のものが提供され、目隠しして当てるのですが、外れる人も結構います。私はアルゼンチンに4年弱いまして、毎晩妻と娘とワインを1本半飲んでいました。当初は飲んで車の運転もしました。あとで、やっぱりブレーキをかけるタイミングが遅れるので止めましたが。飲んだワインのエチケッタ(ラベル)のコレクションをしましたが、そのうちブエノス・アイレス市内で売っているものは約500種類で殆ど飲みつくしてしまい、全国を旅したときなど新しいラベルをみつけコレクションに加えるのが楽しみでした。
 それだけ飲みましたが、単に美味しい美味しくないという程度の判定はできますが、ワインのクラス当てはむずかしいことが良くわかりました。現在ではお酒専門店はもちろんのこと、コンビニでもスーパでも、大手カメラ・電気製品屋まで安売りをやってます。今でも1000円程度のものと5000円クラスのものとは、おそらく80~90%位は判定できると思いますが、5000円と10万円程度のものと比較はとても自信がありません。ロマネ・コンティは飲んだことがないのでどんな味がするのかしりませんが、国内で売っている5000円クラスのワインは、アルゼンチンやチリでも最高クラスです。このクラスになると、原産国でも恐らく最高品種だと思いますので、素人には100万円クラスと見分けがつかないかもしれません。コク(注2)や香りで良し悪しを当てるのはそのくらい難しいものです。

(注2)コク: 味の濃さと、ワインが喉を通るときに、ゴクンと感じる心地よい響きのこと。

 南米のワインにはfino (フィーノ、ファインのこと、最上級品)reserva (レセルバ、リザーブのこと)común(コムーン、コモンで大衆品)の3つのカテゴリーがありますが、フィーノこそが本当の味で、文句なしに美味しいものです。しかし防腐剤を入れてないため輸出入ができないので国内消費用です。日本などでは、最高級品は大使館にでも行かないと飲めないでしょう。
 そんな大国の一つアルゼンチンで、かってワイン専門誌が発刊されました。その中で、「良いワイン」の定義が書かれています。体裁ぶりやで理屈ぽい性格のお国柄を表したもので、29箇条もあります。具体的にどうゆうことなのか、重複している部分もあるし、ちんぷんかんぷんな個所も沢山あります。1本何十万円とか100万円などと言われるワインはこの条件を満たしているのでしょうか。勿論原文はスペイン語なので、稚拙ですが訳してみました。兎に角一度お読みになってみて下さい。

【良いワインの特徴】☟ 【例えばこのような】☝
① 果物である。 畑にふさふさと実る光景の香りを思い出させる・・・
② 幅の広さ。

中身の構成と”こく”が調和よくバランスが
取れている・・・
③ 調和の良さ。 色合い、香り、すばらしい味の・・・
④ 香りのよさ。 ブーケの香りのように、いつまでも長持ちする・・・
⑤ 香りの発散性がある。 植物性の香水がまき散らすような・・・
⑥ ビロードの如き滑らかさ。

美食美飲家の肥えた舌を優しく撫でるような
柔らかい・・・
⑦ 豊満さ。 表現豊かに、その存在を誇示するような脂肪質の・・・
⑧ 気品がある。 個性にあふれた(彩られた)・・・
⑨ 残る記憶。 一度飲んだら忘れられなくなるように・・・
⑩ バイタリティ。 バランスがとれて永遠に変わらぬ・・・
⑪ 刺激のあるコク。

濃度と、良いワインの特徴と、心地良い味が
合体した・・・
⑫ たくましさ。 香りや”コク”とたくましさが良く調和した・・・
⑬ 繊細さ。

優しく軽やかな、粘っこい柔らかさ、蜜に濡れた上品な唇の香りのような・・・
⑭ 著名な産地。 栽培地方と、そこの葡萄畑を彷彿とさせる・・・
⑮ 卓越さ。 独特の個性で差をつけた・・・
⑯ 優雅さ。 特別に栽培され、気品の高い品種だけが持つ・・・
⑰ 包装。

愛好家を完全に満足させるデザインで、最高品種らしい体裁で人目を引く・・・
⑱ 甘美さ。 夢を見ているような心地のする・・・
⑲ 誠実さ。 自分だけが持つ特徴を一途に保ち続ける・・・
⑳ 新鮮さ。

果物の香りと、もぎ立ての瑞々しさがいつまでも
変わらない・・・
㉑ 生命力の長さ。 強烈な個性、持続性、品質がいつまでも変わらない。
㉒ 洗練度の高さ。

デリカシー、エレガンス、卓越性、円やかな香りを
持った・・・
㉓ 粒の質。 エッセンスと脂肪分に富んだ・・・
㉔ 丸み。 口の中で調和の良い(溶けるような)・・・
㉕ たくましさ。 適度なアルコール分と固さを持った・・・
㉖ 舌の感覚。 個性的なアルコールの素晴らしい刺激を受ける・・・
㉗ ワインらしさ。 純粋なアルコール分、優れた香り、味が醸し出す・・・
㉘ 生気があふれる。

ほのかな酸味があり、理想的環境で保存され、
よく冷えた状態で・・・
㉙ 甘酸っぱさ。

ふんわりしたベッドで発散する、成熟した女性の肌
の如き・・・

 いかがでしたか。ロマネ・コンティだって、合格するかどうか怪しいものです。よほどのワイン好き人間が、暇にかまけて作ったんだと思います。ワインを飲むとき、たまにはこんな、不可解な定義とやらを思い出してみてください。 終わり

   (2019. 2.25記)

***

 

四 季 雑 感 (45)

樫村 慶一   
 

- 八十路の頂点に立つ、先行きは霧の中 -

 今年は、年紀的には明治151年、昭和94年、2019年、どれも半端な年である。私も89歳で、米寿と卒寿の間のなにも祝いのない齢である。しかし、80代の最後で、このまま無事で過ぎれば、来年のオリンピックがみられる事になる。でも、オリンピックを特に楽しみしているわけではないし、先行きには一瞬の闇底が待っているかしれないし、どこまでも平坦な大地が続いるかもしれない。いずれにせよ、先行きは霧の中だ。不安な気持ちで先行きを遠望するのはいやなので、もっぱら、過ぎにし来し方だけを眺め、懐かしきこと、つらかったこと、嬉しかったこと、楽しかったことなどを想いだすばかりである。前回44号も、やっぱり回顧物だったけど、今回もそんな風なものになりそうなので、近年の、嫌でも目や耳にする不快な内外の世相(注1)を振り払って、最近印象深いことを書いてみようと思う。しかし、これらはあくまでも、私個人の勝手な思い込みや偏見であることをお断りしておく。

「老人ホームの実態」
 昨年、長年の親友が老人ホームに入った。早速見舞いに行った。高額の入居金を払ったのに、まるで刑務所のような(入ったことがないので本当は比較できないけど)感じである。現金は一切持てない。認知症が4割位いるので、その人たちが、盗まれたとか、無くしたりするとか言いだすので禁止している。友人は頭は正常なので、自分で管理できるんだから、そうゆう人には持たせても良かろう、と事務所に言ったが規則だと言う。正月でも雑煮が出ない。喉に詰まらせる恐れがあるからという。何かあった時の責任逃れである。結局、来客に自動販売機の飲み物はおろか、食事のもてなしもできない。彼が肉が食べたいと言うので、私が車いす押して近くのレストランへ連れて行き、見舞客の私が入居者の分まで払うことになった。
 食事時間に食堂にはいった。4人掛けテーブルに座った入居者は、それぞれの視線は全く相手をみずに、あさっての方角を見て一言も言葉を交わしていない。黙々と食べ、だまって部屋へ帰る。1フロアーに14~ 5人入居者がいるそうだが、3~4割が認知症で、勝手に外へ(徘徊)出ないようにエレベータは暗証番号で開くようになっており、時々変更すると言う。違う階の入居者同士の交友はおろか、同じ階の入居者同士の話し合いも全くないという。部屋も狭いから私物は殆ど持ち込めない。パソコンをやらない彼は、面白くもないテレビを見てCDやDVDを繰り返し見聞きして、マッサージとか入浴とか、幼稚園児のやるようなお遊びなどやって、死ぬまでいるなんて、正常だから言えるのかもしれないが、とてもたまらないと感じた。暮れに再度訪問したが、やはりストレスが溜まってきていると本人も言っていた。自分のことを考えたが、必要になった時の心身状態によるので、今は考えないことにした。

「新しいタクシーの乗り心地」
 最近、ロンドンのタクシーを思い出させるような、トヨタ製の黒塗りの軽自動車に毛の生えたような外観のひょろっとしたタクシーが増えてきた。横腹に「2020 Toko」と書いてある。私は、昔人間なので、従来のクラウンとかセドリックの、横幅の広いオーソドックスな2,000CCのセダン形のものが好きだ。ところが、元日の夜、これに初めて乗った。そして驚いた。中が従来型より広いのだ。理由は、前輪駆動なので床の中央部が盛り上がっていないこと、外人にも向くようにと天井が高いこと、助手席が通常は前に押してあること、さらに、車載カメラが完備なので強盗除けのアクリル板の仕切りがないことなどである。しかも1500CCのハイブリットなので音も静か。乗り心地はとても良い。百聞は一見に如かず、とはよく言ったものだと改めて諺に敬服。

「馬鹿な奴がいるもんだ」
 昨年の暮れの新聞に、名古屋の方の老人女性が1億円を何回かに分けて宅急便で東京へ送り、詐取されたと言う記事があった。きっかけは、なんだか裁判からみの手紙がきて、家族にも絶対話さないようにと書いてあったそうだ。最初は極く少額を送ったら、次第に理由が難解になり、金額も高くなり、何回かにわたって定期預金を解約したり、生命保険を解約したりして、合計1億円になったとか。150%馬鹿としか言いようのない事件で、他人事ながら腹が立った。そういえば、パソコンのメールにも時々変な請求書メールがくる。100人に送って馬鹿の一人か二人がはまってくれれば商売?になるんだろう。これも諺どうり、浜の真砂が尽きるまでは無くならないのだと思う。

「コニカ・ミノルタのCMを見て」
 前からやっていたのに気が付かなかったのかもしれないが、先日(昨年暮れ)「コニカミノルタ」のCMを見た。コニカ、ミノルタと言う名前を聞き、なぜか胸に、えも知れぬ懐かしさが沸き起こり、すっかり頭から消えていた父親を思い出した。親父は、昔、新宿伊勢丹のちょっと手前にオリピックという洋食レストランがあって、その角が路地になっていて、そこを入ったすぐの所に写真屋の店をだしていた。昭和14,5年~18年(1939,40~1943)頃のことである。中野に住んでいた私は、ときどき親父の店へ遊びに行き、カメラを弄り回しては叱られた。当時の日本はまだ戦争中という気分はなく、それなりに平和であった。勿論写真もマニアの間では上品な趣味として楽しまれていたと思う。
 その頃のカメラと言えば圧倒的にドイツ製のもので、今覚えているものでは、コンタックス、ライカ、イコンタ(注2)、バルダックス、ローライ(注3)、ロボット(注4)、エキサクタなど、まだ他にも沢山あったように思う。カメラの先進国、米国は映画用カメラは結構いいものがあったのだろうが、子供の頃の私が覚えているのは、普通のカメラとしてはコダックのベス単(注5)という、玩具に毛の生えたようなものだけだった。
 「コニカ」と言う名前は戦前から一般的に言われていたのかどうか分からない。昔は、創業者の小西六兵衛の名前をつけた、「六桜社」の製品を「コニシロク」と言っていた。社章は桜の花びらを模したものだった。フイルムはサクラフイルムがほぼ独占していたと思う。そして国産カメラはコニシロクの「パール」(注6)シリーズが王者であった。それに追随したのがミノルタである。パールはイコンタの真似ん坊だったけど、イコンタを買えない人には随分と人気があったように微かに覚えている。今でも新宿の中古カメラ屋に並んでいる。当時から日本のカメラ、レンズは優秀なもので、小西六のパールのレンズも最高クラスで、一般向けがオプター、高級品がヘキサーだったように思う。これらと肩をならべていたレンズが、当時の日本光学のニッコール、高千穂光学のズイコーであり軍部に採用され、望遠鏡や照準鏡などに使われていた。ニッコールは今のニコン、ズイコーはオリンパスである。
 戦前のカメラ事情など、インターネットで検索して、ウイキペディアで調べれば、正確に詳しく出てくると思うが、それでは、折角の少年期の”今でも薄ら覚えに頭に残る貴重な記憶”が台無しになってしまいそうで、それはできないし、そっと胸にしまい続けて行きたいと思っている。  おわり

 四季雑感は、まだまだ続けます  (2019.1.9  記)

(注1) 米中貿易戦争の影響、孤立主義、米国の横暴、宗教対立、民主主義の危機、気候変動、大地震の切迫、格差拡大、一強政党の強引な支配、ITの発達により落ち着かない世相。 一方、医学の進歩は大きなメリットだけど、交通手段の発達はすでにあまり恩恵を感じない、むしろ昔のゆっくり走る列車が懐かしい。

(注2) イコンタは蛇腹式カメラで、ベビーイコンタ、セミイコンタ、イコンタ、スーパーセミイコンタ、スーパーイコンタがある。スーパーと付くのには自動焦点装置がついている。ベビーイコンタはセミ版フイルムを使用、それ以外は、ブロニー版フイルムを使用。

(注3) ローライは2眼レフで2種類ある。一般向けはローライコード、高級品はローライフレックス。フイルムはブロニー版。

(注4) ロボットは今のアニメのように、連続シャッターが切れ連続画面が撮れるユニークなカメラだった。カメラの下にゼンマイ巻き上げ用摘みがついている。小型だが意外に重かった。

(注5) ベス単とは蛇腹式カメラで、ベスト単玉の略である。ベスト版フイルムを使用し、レンズは直径5mm位のガラス玉一枚だけの固定焦点、シャッター速度は、B、25分の1、50分の1、100分の1。玩具みたいだがよく写った。

(注6) パールはコニシロクの至宝カメラ。ベビーパール、セミパール、スーパーセミパールの3種類がある。3種ともイコンタにそっくりで、スーパーパセミパールはイコンタ同様自動焦点装置が付いている。

(注7) イコンタ、パール、バルダックスは蛇腹式、ローライは箱型、それ以外はみな鏡胴型で35ミリフイルムを使用する。

  ***

 

 

四 季 雑 感 (44)

樫村 慶一   

― 平成も残り僅か、遠い想い出は尽きず ―

 今年も残り僅か、猛暑、酷暑が続いた夏は、記録上初めてと言う現象もいくつかあったが、何十年振りと言うのもいくつかあった。と言うことは過去にも同じような現象があった証拠であり。異常は始めてじゃなかったということである。なんのかんの言っても秋は確実にやってきた。そして、明治150年とか言われたけど、大した国民的行事もなく、またKDD創立65年も全く何にもなく、今年も終わりそうである。さらに、私の米寿も過ぎる。果たして卒寿が期待できるかどうか、気になる季節でもある。
 私は、妻が逝ってから、できるだけ友人を増やし家に籠もらないようにしてきた。お陰で旧KDD以外の友人知人が増え、外出する機会も増えた。男やもめの、ひょっとしたら鬱になるかもしれない境遇と紙一重の生活が、奈落へ落ちないのも、良い友達に恵まれたお陰だと思っている。そう言った付き合いの中に、「古い映画を鑑賞する会」と言うのがある。毎月第2日曜に行われ、邦画と洋画の2本立てだ。主催はラテンアメリカ音楽を通した古い友人だが、それに誘った旧KDDのHさんが高校時代の友人を誘い、またその人が誘うと言う連鎖が続き、今で男女合わせて10人近くになった。終ってビヤホールで遅い昼食を、わいわいがやがや言いながら取る。楽しい時間である。幸い今のところは、生活面も健康面もまあまあなので, 恐らく一瞬に過ぎていくであろう残りの人生を、このまま終わらせたいと願っている。
 古い映画は邦画、洋画ともに1930年代頃から1955年頃までのものが多く、洋画はアメリカ物が大半だが、すでに1940年代のカラー映画の色彩の鮮やかさには驚かされる。邦画は、戦前の盛り場、電車バスなど乗り物、住宅風景、服装、きちんとした言葉使い、畳にちゃぶ台、と言う日常の生活事情など懐かしい場面が映し出され、良き時代を偲ぶことができる。 平成も来年で終わる。「明治は遠くなりにけり」はもう過去の言葉になってしまった、間もなく「昭和は遠くなりにけり」になるのだろう。私は昭和の大半63年間(元年も最終64年も1週間ほどなので省略)のうち58年を生きてきた。その中で、一番平和な時代と言うか、静かな時代、懐かしい時代と感じるのは、昭和10~15年の間位だと思う。しかし、この時代にこそ、その後の日本の悲劇の幕が静かに上がっていたのだ。11年には226事件が起き、12年には盧溝橋事件を契機に日華事変が始まり、14年にはノモンハン事変(と言っているけど間違いなく日ソ戦争だった)で大敗したりした。そして密かに満州国を世界に隠れて強固にしていた。それでも、世の中はまだまだ平穏無事で、服装は女性の多くが普段でも和服だったし(銘仙とか絣で、普段は上等なものは着てなかったけど)。男は服装ですぐ職業が分かるような姿だった。サラリーマンは三つ組の背広にラシャかパナマ帽子をかぶりカバンを下げていた。商店の店員は絣の着物にハンチングをかぶっていた。夜は銀座や新宿の盛り場のダンスホールが賑わい、庶民は屋台でひと時を楽しんでいた。しかしそれは、一般市民には分からない嵐の前の、一時期の静けさと言えたのかも知れない。今じゃちっとも珍しくない強盗や殺人事件が大ニュースになる時代だったんだから。子供心でも覚えているのは、説教強盗とか、阿部お定事件とか、向島おはぐろどぶのバラバラ事件などで、新聞の3面記事の大半を占めていた。
 何よりも私がこの時代を、良き時代と言うのは、私にとっての懐メロがこの時代に一番沢山誕生しているからである。特に古賀メロディーに歌手は藤山一郎、ディック・ミネ(戦争が始まると敵性名前は怪しからんと言われ、ミネ・コウイチと名乗っていた)霧島昇、東海林太郎、灰田勝彦など、女性は佐藤千夜子,二葉あきこ、渡辺はま子、淡谷のり子などなど、今の人達は知らない名前ばっかりだろう。年頃は5歳~10歳の子供が、なんでこの時代を懐かしむのか自分でも分からないことの一つである。子供のくせに、その頃の歌を懐メロというのも辻褄が合わない話なんだが、考えてみると、父親が明大の古賀政男と同期で彼のマンドリン・クラブに入っていて、しょっちゅう古賀メロディを口すさび、母親もそれを歌っていたのを聞いていたから、自然と覚えたんだろうと思う。それに、大人になってから振り返って、ガキ仲間と草野球をやったこと、模型飛行機を飛ばしよその家の屋根に落ち、おそるおそる登ったこと、哲学堂の垣根を壊して侵入(当時は入園料をとられたので)したこととか、ばっけが原(西武新宿線の新井薬師前と中井の間の原っぱ)の下水の土管に入って出られなくなって大泣きしたこと、南京や武漢三鎮など陥落の度に行われた提灯行列に大はしゃぎしたことなどが、はっきりと思い出として蘇ってきたからだろうと思う。まだ少しは「昭和モダン」の気分が残っていた、遠い遠い時代のお話である。

 話は全く変わるが、昨今の国会で現代版四谷怪談のお岩さんみたいな女大臣と共に主役を務めている、桜田五輪担当大臣を見て懐かしい友人を思い出した。k-unetの会員にはどのくらい知っている人がいるか分からないが、私と同年代の昔の東京電報にいた人は知っているはずだ。栃木の片田舎から出てきた斎藤吉雄さんである。顔つきはもとより、体形、動作と言いそっくりだ。だから私には桜田氏が憎めない。大正末生まれなので大先輩だったけど、3番勤務の明け番には、朝から軍艦マーチが鳴り響く神田のガード下のパチンコ屋に、閉店の蛍の光を聞くまで粘っていたことを思い出す。いつも仲間の廿楽軍治さんと3人組で、資金が尽きると順番に近くの根本質店に時計を曲げに行った。KDDビルが大手町にできた1958~60年頃のことだ。お二人共すでに亡い。昔話を書いていたらきりがない。今年はこの辺で、来年もどうぞご愛読下さるようにお願いして、終わりとしたい。
 
 【写真出典:(株)国書刊行会1986年2月10日発行 「流行歌と映画でみる昭和時代」より】
 【写真説明:左上から左右交互に:①愛染かつらの映画ポスター ②ちゃぶ台を囲む一家団欒
  ③226事件の反乱軍 ④南京占領の万歳 ⑤和服姿 ⑥逮捕された阿部お定 ⑦提灯行列 
  ⑧故斎藤吉雄さん(1961.7)。


Feliz Navidad y Pro'spero Año Nuevo  (2018.11.20 記)

 

 

四 季 雑 感 (43)

樫村 慶一   
  

異常気象は太陽に元気がないため

 なんとも早や、言いようのない暑さが続く。猛暑、酷暑と言う表現よりもっと刺激的な言い方はないかと考えてみた。激暑とか、極暑とか、殺暑とか、絶暑とか、狂暑とか、しかしどれをとっても、やっぱり猛暑、酷暑より響きの強い表現にはならない。7月16日(月)の朝日新聞の文化欄に、大変興味のある記事がでていた。以前にも、この欄で書いたたことがあるが、今の太陽は活動が静謐になり、フレアが殆ど無くなり黒点が消えた。この現象をマウンダー極小期と言い、地球寒冷化の傾向である。

 前回の極小期は1645年ころから約70年間続いたとかで、ロンドンのテムズ川が凍結したり、日本では飢饉が続いたと言われる。マウンダー現象ではないが、最近では1991年のフィリッピンのピナトゥボ火山が噴火した後、上空に広がった火山灰による冷夏と長雨で、米が記録的不作となりタイ米を輸入する騒ぎになった。太陽活動が低下すると大規模噴火後のような異常気象が何十年も続くことになる可能性があると言われる。異常気象が異常ではなくなると言うことである。

--- 太陽活動が低下すると地球の地磁気も弱まり、銀河宇宙からの宇宙線を防御する能力が弱まって、紫外線や赤外線やX線や、もろもろの銀河宇宙線が許容量を超えて地球に降り注いでくる。京都大学の余田成男教授は、「このうち紫外線はオゾン層に吸収され、その反応で成層圏が温められ地球の気象に異常を起こす。過去の地球の解析でもオゾン層の紫外線吸収が気象に影響を与えていたことが分かった」と言っている。異常気象が続けば農作物の不作から慢性的食糧不足となり、社会は混乱を深める。特に途上国は栄養不足による伝染病の蔓延などの被害を受けやすいし、世界経済への影響も計り知れない。その他にも気象以外への影響も色々ある。こういった影響を与える太陽活動の低下が近く始まるかもしれない、と言う予測が相次いでいる。国立極地研究所の片岡龍峰准教授は「次の太陽活動の周期がさらに弱まる可能性は高く,大極小期に突入してもおかしくない」と語っている。名古屋大学の宇宙地球環境研究所の草野完也所長の分析でも、「次の太陽活動の活発さを決めるとされる太陽の磁場の強さが近年弱まっている。磁場はいったんなくなると復活には時間がかかる、大極小期がいつ始まるかはまだ分からないが、必ず起きる」と語っている。地球温暖化と太陽活動の低下が同時に起きれば、影響が相殺される可能性はある。ただ、その間に温室効果ガスが十分削減されずに再び太陽活動が活発化すると、気温上昇に歯止めがからなくなり、最悪のシナリオもありうる、人間が自然を乱し続けると予測のつかない事態に陥りかねない」と警告している。 (7月16日の朝日新聞の記事より)---

 最近来た台風12号のように、全く逆方向から侵入してきた台風なんて、専門家でも想定できなかった現象だろうし、テレビを見ていて、九州にやってきた台風の進路予想が上下逆じゃないのか、とさえ思う現象だった。おそらく気象専門家も頭を抱えていたに違いない。恐ろしい世界になってきたものだ。先日生まれた曾孫を抱いて、悪い時代に生まれてきたな?と心の中でつぶやいたが、当たらないこと祈るしかない。

 

寿号を貰うということ

 7月29日、寿号(生前戒名のこと)を授かった。授かる儀式を「授戒会(じゅかいえ)」と言う。自分で作った戒名を、形の上では阿弥陀如来からもらったようにお寺は扱う。爾後、あなたは仏教徒になられました、と宣告された。冥加金も著作権は私にあるのに、100%お寺につけてもらった場合と同じだ。しかもこの種の収入は所得税がかからないから丸儲けである。坊主丸儲けとはよく言ったものだと思う。ただ、生前に付けるのは葬式の時にあわててつけてもらうのと違い大分安く上がるし、何よりも自分で考え一番気に入った名前にできるのが有難い。もらう?前には五箇条の誓約をする。①殺生をするな、②泥棒をするな、③不倫をするな、④嘘をつくな、⑤酒を飲むな。と言う五つである。④まではいいが⑤はいけない。これをやめたら生きてる楽しみが半減してしまうからだ。

 私は、神仏を信じるかどうか、と聞かれれば絶対に信じていない。キリストだって翌日生き返ったというのなら、医学的にあり得るが3日後なんてナンセンスである。仏教界にしても釈迦は確実に生存した証拠があるが、それ以外の仏陀である阿弥陀、薬師、大日など、また衆生の援助者とされる菩薩の観音、弥勒、文殊など、密教固有の不動明王など、もっといろいろいるがこれらが実際にいるとはどうしても信じられない。でもそれぞれを本尊とする寺に行くとちゃんと像がある。おそらく昔の、芸術的才能を持ち、色彩感覚の優れた人物が、想像しながら描き出した架空の偶像がオリジナルなんだろうと思っている。仏教徒になったなんて全く意識はない。そうゆう意味で神仏に関する限り、私は完全は二重人格である。

 残り少ない寿命であり、主治医からは「あなたは、長期療養型の終末ではなく、血管系(心臓、脳梗塞など)で、突然逝くんじゃないか」と言われているので、できるだけ身の回りを片づけ、葬式もできるだけ簡素に経済的にと思ってやったことで、後は葬儀社との葬儀の生前予約でもしておこうか、などと考えている。でも、まだ体は普通に動くし、食慾はあるし、酒はうまいし、まだしばらく、この四季雑感も続けられそうな予感はする。幸いなことに。では 次回まで 
(2018.8.1記)

 

四 季 雑 感 (42)

樫村 慶一

日本列島は毎日ゆれています  

 もう4月も半分が終わった。どんどん妻の元へ行くときが近づいてくるのを感じる。ところで、先日来話題になっていた、年金の過少支給の問題は、私も該当者だった。たしかに、昨年、扶養家族申告書というA3の大きな紙がきた。昨年までは葉書だった。妻に先立たれた男やもめは扶養者がいないので、出しても出さなくても同じだろうと、たかをくくっていたのだが、今年になって2月分と4月分の支給額通知が来てその少なさにびっくり、今まで見たことがない低額だ。怒りをもって年金事務所に照会した。こうしたサービスの常で、次々と番号を押して要件を絞って担当者に行きつくのだが、行きついたのは男の担当で、あまり親切な感じはしないが、とにかく用紙を送りなおすということで話は終った。その後、年金機構のホームページをみたら、各区に年金事務所があるので、私の区の事務所に電話した。一発で出て担当に繋いでくれた。やっぱりマニュアル通信は気持ちがこもる。そして出てきた担当の女の子もそこそこに親切丁寧である。そりゃそうだろう、相手は年金をもらっている人間なんだから、若いものがいるわけはない、自分の父親とかお爺さんとかを想像するだろう。本部は数が多いから、なかなか細かい対応ができないんですよね。と味方を庇いながら受給者にもソフトである。こちらから用紙送りますから、すぐ返送してください。こっちの方がずっと早く処理できます、と言ってくれた。きっと可愛いやさしい性格の女性なんだろうなと、想像して厚く礼をいった。翌日にはもう用紙が届いた。役所(年金機構も役所の一種だ)でも随分気分の違う対応があるもんだ。年金額が少ない理由もやさしく説明してくれた。つまり、この申告書をださないと、基礎控除130万円が控除されないのだと言う。そんなわけで、2月分はガクッと来たが、4月分は2月分より83,056円も多かった。認知症や年金などで生活していない人などの中には、気にしないでいた人もいるんだろうなとも思う。
 世の中、世界も日本も、土台から腐ってきたようで、鉄砲の撃ちあいは相変わらずだし、政治も経済も大揺れである。ところが、実は、表面だけではなく、地球は地中深くでもほとんど毎日揺れている。私のところにツイッターで来る地震情報(おそらく発信者は気象庁の関係者だと思うのだが)によると、新聞、テレビに出ない地震がほぼ毎日起きている。地盤とはこんなに動いているものとは、最近まで知らなかったけど、びっくりである。ツイッターが来るようになったのは半年くらい前からだけど、本当にほとんど毎日どこかで揺れているのだ。つい最近の数日だけの記録をちょっと紹介してみよう。これだけ毎日揺れていればいつ、ドカーンとデカいのが来ても不思議ではない。報道は震度3くらいより大きいのしか報道しないから。皆さんご用心に越したことはありません。他人事ながら。4月9日の島根県西部のものなんか、震度がないが、マグニチュード5.4で深度11キロだったら結構揺れたとおもうのだが。
 米寿と言うのは大体どこへ行っても長老になる。それはそうだ、90歳93,4歳の人も最近は多くなっては来たが、外出しない人が多いのだろう。米寿にもなって図々しく週に2~3日も外出して、仲間は60代、70代では、長老になっても不思議ではない。動けるうちが華である。転ばないよう、風邪をひかないようにして、精々義理を欠いて頑張ろう。
では、また次回まで ごきげんよう。

 (2018.4.13記)

 



 

四 季 雑 感 (41)

樫村 慶一

いろいろ考えさせられたお正月

 今年は元号が明治になって150年になる。私は西郷さんと勝さんが会談して(戦争が会談によって回避された顕著な事例だろと思う)江戸が解放され、大政が奉還されたのが1867年なので、てっきり、昨年が明治150年だとばかり思っていた。かと言って、明治150年にどんな意味があるんだろうと考える。この間の150年は短いと思うか、長いと思うか、人それぞれだろうが、私は、平安時代から徳川時代まで位の凡そ500年分くらい、いやもっとたくさんの中身の詰まった150年だと思うので、極めて短いと感じる。なんたって、空を見上げたってお月様が唯我独尊だったし、白い顔をした外人が、赤いはずの鬼にみえた時代からだから。それから100歳超える長寿者が67,824人(2017年9月厚労省発表)もいる、ほんの150年の間の地球上のあらゆるものの変わりようは言葉に尽くせない。明治150年には政府も何か考えているようだが、はて、何をやろうとするのか、楽しみに見ていようと思う。

 私の正月は3年前から、元日一番に妻の墓参をすることから始まるようになった。7月1日が祥月命日なので、毎月1日と中日の15日には必ず墓参をするので、元旦も例外とはならない、それが終わって、娘の家の近くにある「牛込穴八幡」へお参りし、それから娘家族と食べて飲む。今年は2日に椿山荘でおせっち料理+肉など食べ放題のバイキングと初寄席を組み合わせた催しの切符を買っておいたので、2日も楽しめた。椿山荘には年に2~3回は行っているので、何も珍しいものはないが、たまに来る人や遠くからくる人には”都内で蛍がいる”なんて珍しい場所に思えるのであろう。あっちを向いてもこっちを向いても、きらきら光る液晶の林である。このiPhoneにまつわる常識を娘に教わった。

 私は、癌で家族を失った人達の会に加入している。正月は七福神巡り、春秋には近郊の散策のようなことをやるが、今まで私は、みなカメラを持ってないので、適当に会員のスナップ写真をとり、住所やメールアドレスはプライバシー保護のためとかで公開してないので、直接写真を送ることができないため、主催者に適宜配送してもらうように頼んでいた。そしたら、娘曰く、「それはとんでもないお節介なことだ、みながカメラを持ってないのじゃなくて、多くの人は携帯電話を持っていて、撮りたければ自分で撮り自分を撮りたければ自撮りとか人にたのむのよ。パパがやっていることは、100%お節介なことなんだ」と教えられた。余計な親切が仇になっていたかもしれないと反省。

 3日になって初めて位牌の妻と向き合って一人酒を楽しんだ。我が家の仏壇は、菩提寺の住職が見たら、びっくりするだろうと思うレイアウトである。我が家の墓は、妻が生前に散歩のついてにお寺の前で墓石の宣伝をしていた石屋にのせられ、どうせいずれ必要になるんだから、嫁に行った娘たちに負担をかけないようにと買ってしまった。それが浄土宗の寺だった。浄土宗の仏壇は、必ず中央に阿弥陀如来の像が立っている。本当の位牌達はその横に立つ。しかし私は、神仏の存在を信じない人間なので、仏壇の主は妻の魂だと思っているので妻の位牌がでんと真ん中に立つ。その横に妻の両親の位牌が並び、阿弥陀の像は追い出すわけにもいかないので、一番端っこである。妻が逝ってしまった後、これらの偶像達とどう付き合っていくべきか長い間悩んだ。仏教には多くの想像で作り上げた偶像がある。何とか如来とか菩薩だとか、大王だとか、いつだれが想像したのか、悩みや病気の種類による役割分担があり、快復を願って、藁にもすがりたい弱い人間からお布施という名目で貢がせる。彼らが唱えるご利益が本当にあれば、この世に貧乏人はいなくなり、病院もいらなくなるはずだ。阿弥陀にすがるとはどうゆう意味か、地獄も極楽もないのに、なんで神仏にすがるという言葉があるのか、お経を上げるということはどうゆう意味なのか、塔婆とはなんだ、とか、考えることはたくさんある。長い間の慣習もあるのだろうが、法事や春秋の彼岸会などで、住職が阿弥陀の像に向かって経を読むが、本来は生きている人間の生き方の指針ともいうべきお経を、なんで死者や架空の偶像に向かって唱えるのか、本当は、参列者に向かって唱えるべきじゃないのかと思うこともある。
 浄土宗は法然上人が開祖だが、10年後に弟子の親鸞が浄土真宗を開いた。ジェネリックだから当時の無知文盲の庶民の人気を得るには、先発より簡単な極楽行きを考えた。先発は極楽へ行くには「南無阿弥陀仏」を10回唱えろ,戒名もちゃんとつけろ、塔婆も上げろ、といろいろ条件があるのに対し、後発は、南無阿弥陀仏は1回でOK,戒名も3文字でみな同じ、釈尊の間に俗名の1文字を入れるだけ、塔婆なんて不要、とまことに簡便な制度である。妻の戒名に2か月分の年金以上も出したことを考えると、墓を作る前にもっとしっかりと宗派を研究すべきだったと、しきりに後悔したものだ。一人暮らしをするようになって、ある意味ではくだらないことかもしれないが、こんなことなどを考えているうちに、時々精神安定剤が必要な人間になってしまった。

 初「四季雑感」だと思って、正月雑感になってしまったが、最後にまじめな話を一つ。月間雑誌で「選択」というのがあるが、正月号に面白い記事がいくつかでた。一つは、ソフトバンクの米国の子会社スプリントがお荷物になり、グループ全体の足を引っ張っているという話とか、楽天の携帯参入には役員会で反対者がでて、総務省の後押しがないと前途は暗い、とかの話しがあるが、これらの話しは同業者のよしみで詳細ははばかる。
 メインの話しは、昨年末から不正入札で大きな問題になった、リニア新幹線が実は、「クエンチ」と言う致命的欠陥が潜んでいる、超伝導磁石の磁力が突然低下する現象で、いつ起きるか分からない。そのため、最悪の場合は在来型新幹線にするための準備をしているというお話。本来は在来型新幹線の半分位の高さでよいはずのトンネルを、在来型新幹線と同じ規格で掘っており、こっそり在来型の鉄の車輪方式の準備もしているということである。リニアの事業費は名古屋までの事業費が5兆5千億円に膨らんだのもトンネル・サイズを在来型にしたためだと言う。
 超伝導磁石は魔法瓶のようなものに入っており、電気抵抗をゼロにするため液体窒素や液体ヘリウムでマイナス269度の超低温に冷やしているが、走行時の振動が魔法瓶に伝わり振動エネルギーが熱エネルギーに変わり、窒素やヘリウムが蒸発して超電導磁石の温度上がって、磁力が突如低下する現象で、どうして発生するかなかなか解明されなかった。
 しかし、2013年5月にリニア開発本部長が記者会見で、クエンチ問題は解決したと言っている。それなのになぜ今頃になってこんな記事がでるのだろうか、やっぱり、完全に問題が解決できていないのかもしれない。もしそうなら、いつ起きるかも知れない危険なリニアには誰も乗らないだろう。JR東海はドル箱路線の東海道新幹線が老朽化してきているので、そのバックアップになると強気を示している、ということである。この世の中、自分が住んでいる近所から、国内、海の向こう、どこもかしこも危険危険危険、危険ばっかりな地球になってしまった。祈る相手は誰か知らないけど、明治150年は危険解消を祈願する年にしたいものだ。くわばら くわばら では次回まで

終わり  (2018.1.12 記)