四 季 雑 感(40)

樫村 慶一

今までしてこなかった、私の最高の自慢話
ー 開始10年目、40回目の区切りに当たり ー   

  10年前にk-unetの世話人を止めた後、ご厚意で、ホームページにささやかながら専用のスペースを頂き、書きたいことを書いてきた。初回は、2007年8月の 「このごろ思うこと」 と言うタイトルで始まり8号まで続いた、その後「四季雑観」に改題して39号、今年は執筆開始から10年目の記念年になり、今回は背番号も丁度40号と区切りの号になった。よく続いたと自分でも思う。
 
  自然界は秋になった。万葉集の頃まで遡らなくても、150年前(注1)の司馬遼太郎の 「坂の上の雲」 の時代だって、青空を見上げても、お月様まで何も空を飛んでいるものなどはなかった。それなのに、今じゃ一番低いところでは、ゴルフの白球から、ホームランのボール、ジェット機、低軌道や静止衛星、宇宙ステーション、そして恐ろしいICBMまで飛び出し、やたらに、天国の静謐をおびやかしている 。2年前に逝った女房はどうしているだろう、未だにベッドで目を瞑ると想い出す。
(注1) 来年2018年は明治150年になる。

  一方、 地球上には、テロだ、台風だ、豪雨だ、竜巻だ、地震だ、こそこそした殺人、不倫、汚職、政治スキャンダルなどなど、恐ろしいことや自然の脅威やら、昔だったら平気な顔で外を歩けないような恥ずかしいことまで、まともな人間が忌み嫌う現象が溢れかえっている。こんな時にはなにか、良い話題はないかと考えて思いついた。今迄色々書いてきたが、私も来年は米寿だ。周りには訃報がふつふつと舞い込む。自分がいつ、その仲間に入ってもおかしくはないと思っている。東京オリ・パラが卒寿で、差し当たりの目標である。もう、先行きには何も起きないだろうと感じ、とっておきの自慢話を書く気になった。

 

 秋になれば空が青くなり爽やかな風が吹く。とくると、ゴルフ狂はじっとしていられなくなる。私も13年前まではそうだった。1967年(昭和42年)から2004年まで37年間、ちっともうまくならない万年ビギナーのようなゴルフ遊びを続けてきた。ところが、その37年間で、一度だけとてつもない経験をした。国内でのコンペだったら黙っていたって話題になったのだろうが、場所が外国だったので、本人が言わない限りあまり知る人は現れないし、社内でも話題にならなかった。

  ブエノスアイレスの日本人社会には、進出企業と移住者の設立した企業、それに大使館が加わった合同のゴルフ親睦会 「オンブー会(注2)」という会があり会員は5,60人くらいいた。毎月1回首都近郊でコンペをしていたが、1984年12月1日、2日と2日間にわたって、ウルグアイで行った遠征コンペ(何回目かの記念大会だったように思うが覚えていない)で総合優勝したのである。参加人数は、7~8組だったので30人前後だと思う。
(注2)オンブーとは樹高10メートル位、周囲2~3メートルにもなる植物であるが、植物学的には樹ではなく草の一種と言われる。アルゼンチンの代表的植物。広いパンパ(草原)にポツンと立っているのもあり、真夏など日陰で一休みなどのときに役立つ。

  初日はモンテヴィデオの 「ウルグアイ・ゴルフクラブ」の18ホール、翌日は、150キロほど東へ移動、ウルグアイの大西洋岸、と言うよりかって貿易関係ニュースに頻繁に出てきた、ウルグアイ・ラウンドと言う言葉を覚えている方は多いだろうと思うが、そのウルグアイ・ラウンドが行われた、プンタ・デル・エステ(東の端っこ)と言う大西洋に面した高級リゾート地の 「カンテグリル・カントリークラブ」での18ホールマッチである。

  第一日目が52,56 トータル108 ハンディ30 ネット78、パーが73なので5オーバー、順位は6位。ハンディは30と自慢できるものではないが、でもこれも実力だから仕方がない。第二日目は、50,51 トータル101 ネット71で パープレイ(パー71)。2日間合計でグロス209 ハンディ60で、ネットが149、5オーバーで優勝だった。50を一度も切れず、お世辞にも良いとは言い難い。シングル級も2,3人はいたが、全体としては、余りレベルが高いとは言えなかったと思う。

  ゴルフ・コンペの賞品として純銀製のカップは、これだけでも十分な価値はあるのだが、副賞として、なんと当時の為替レート(1ドル約250円前後)で凡そ80万円のものを頂いたのだ。それは、JALの成田~リオ・デ・ジャネイロ線開通記念に日本航空ブエノスアイレス支店が、本社から割り当てられた1枚の日本往復ビジネスクラス航空券である。優勝が決定した瞬間の感激は、それは舞い上がったと思うが、残念ながら33年の歳月は、そのときの高揚感を記憶から半ば消し去ってしまった。 ただ、私が知っている範囲では、KDDの中でこのような名誉ある、かつ高額な賞品をもらった人は、現在も続けている人達も含めていないのじゃないかと、大ぴらに自慢したい。

  肝心の航空券は、一緒に連れて行った娘が、駐在生活3年目に入り、大学の友人に会いたくて仕方がない心境になっていたようだったので、それで一時帰国させた。ただ、航空券が成田~リオ間なので、ブエノスアイレスからリオまでは、自費で買わなくてはならない。それでも、帰した娘は久しぶりの日本の空気を腹いっぱい吸い、溌剌として戻ってきた。父親の権威が一番高まった時かもしれない。私の一生で一番自慢できる話は、これでお終い。

 これからの人生にはもう何も起きないと思うと寂しいけれど、”ヤッター” と思わず叫んだあの時の感激は、改めて、心の底から懐かしさを蘇えらせてくれた。

(2017.9.23 彼岸の日、記す)

 

四 季 雑 感 (39)

樫村 慶一

なぜ元号と西暦と、ごちゃまぜで使うのだろうか

  今年もお盆の季節になった。東京は7月お盆説が多いが、地方はやっぱり8月だ。今年は亡き妻の3回忌になるので、G.W.の前半に30年ぶりに妻側の田舎の墓参りをした。前回行った時は石ころのような墓石がゴロゴロ置いてあったのが、今ではたった一人になった子孫が、各墓の並べ方を綺麗に整理し、石ころの墓石はきちんとした墓石に置き換え立派な墓地になっていた。古い墓はいつ頃からのがあるのか若干興味を持ったので墓石の後ろの墓碑を読んでみた。古い石はよく読み取れないのが多い。文化文政の頃からのものもある。よく知らない元号もある。こうなると、いったいいつ頃、何年くらい前のものかなどという歴史を思い起こすことなど不可能である。
  私は元来、元号を使うのは嫌いである。元号は自分からは絶対に使わない。しかし、元号で書かなければならない場合も結構あるので、その場合はやむをえないけど、場合よっては、その下に わざと20・・と書くこともある。昭和は頭の中に換算表があるので、すぐわかるが、平成は全くだめだ。これももうじき終わるだろうから、ますます換算がむずかしくなる。元号から西暦への換算は、大正は11+、昭和は25+で比較的易しいが、明治は86+で数が多いので厄介だし、33年に1900年になったので、その後はややこしい。さらに平成も2000年までは1988+、2000年以降は12-とこれまた複雑だ。平成の次は2018を足すのか。こうした煩わしさを解決するには、やっぱり時の移ろいを示すいわば”通し番号”とも言える西暦を使う習慣とか規則にした方が便利だと思うのだが。
 お墓に行って、墓碑を見ると100%命日は元号で書かれている。文化文政のころの墓ならいざ知らず、近代の明治、大正、昭和の何年何月何日逝去と書いてあるお墓にはまだ子孫が墓参にくる。だけど、子孫は今からどのくらい前に亡くなったのかピンとこないのじゃないだろうか。お爺さん、お婆さんが亡くなったのはいつ頃だったっけねえ、なんてすぐにはその頃が思い浮かばないだろう。西暦を使っておけば、今から何年前とすぐわかる。私は妻が健在の頃すでに墓地を作っておいたが、建立年月は、2007年8月吉日 と彫ってある。勿論墓石の妻の墓碑も逝去日付は2015・・・・である。ただ塔婆を頼むときに西暦で書くように頼むのを忘れてしまったので、塔婆は平成になっている。大失敗だ。私達夫婦の墓は都内のお寺団地のような処の一つのお寺で、同じ墓地には約200位の墓石があるが、西暦で書いてあるお墓は一つもない。団地の墓地は全部で何千かになるだろうけど、建立月日や塔婆を西暦で書いてあるのは、全部見たわけではないが、今のところ私の家の墓だけだと思う。毎月2回、月命日と中命日にお墓に行って拝む度に、「早いもんだね、もうこれこれ経っちゃたね」、と心の中で話しかけるのが常になっているが、この後何年か経って多少呆けた頭で、いちいち暗算をしなくてはならないなんて、考えただけでもぞっとする。西暦万歳だ。
  そこで、今回は元号(昭和とか平成などのこと)と西暦の関係の話を思いついた。そもそもは、明治5年11月9日の太政官布告により、それまでの太陰暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、今の西暦)への変更と、時刻の現わし方を現行のような数字表現にすることが決まったことから始まる。この時に今の西暦が採用されて以来、年月日の表記方法が今の書き方が標準となった。元号の表記に関しては、明治改元と共に発布された「一世一元の詔」と、旧皇室典範第12条に基ずく元号表記が標準となり、上記の明治5年の太陽暦施行と同時に元号表記も公的な表現となった。従ってこの時から1812年とか明治5年とか二つの表示ができたのだ。
  ところが敗戦によって皇室典範が改正されて元号条項がなくなり、戦後しばらくは元号使用に対する法的根拠がなくなってしまった。このため元号の使用はあくまでも慣習として使われていただけである。この間に西暦の使用が広まった。このおかしな状態が改正されたのは、昭和54年に公布された現行の「元号法」によるためである。この結果公的な元号使用の法的根拠ができたが、あくまで元号を公的に使用することの根拠であって、元号の使用を強制するものではない。したがって、現在では、それぞれの場面、状況において平成であったり、西暦であったりしている。理由は、便利であるとか、分かり易いとか、都合がいいとかでの理由である。従って、最近西暦表示が多くなったと感じたとすれば、それは西暦が便利だと感じる役所が増えたか、行政やマスコミが意図的に西暦を使うようにしているのかもしれない。いずれにしても、近く平成が終わるのが分かっているが、まだまだ大正生まれの人も健在なので、4つの時代の元号と、それぞれの時代の様子を把握するなんて、とんだまぎらわしいことになる。まだお役所関係の書類には元号を使うことが多いが、平成が終わると、西暦の便利さが改めて分かるだろう。関係ないことだけど、資料によると西暦にはゼロ年がないのだ、始まりは西暦1年からで、その前は西暦前1年となっている。インド人(ゼロを発見したという)のような頭の良い人がいなかったんでだろう。2000年も経った今じゃ、西暦にゼロ年あったかなかったかなんて、なんの問題にもならない。兎に角、内に外に落ち着いた年、時代を期待していものだ、目の黒いうちに。では、また。

(2017.7.15 お盆の中日に記す)

 

 

四 季 雑 感(38)

樫村 慶一

雪国の春を行く

G.W.を先取りして、焼酎がワインに変身するのを味わい、
話題かしましくして波静かな日本海沿岸を走る。

 

 日々の天候の変動は徐々に激しくなってくるように思えるが、やっぱり、春がくれば桜が咲き、散って葉桜になるころは牡丹、つつじ、そして梅雨とともに紫陽花が妍を競うようになる。山形市に住む妻の母方の親戚から、伯父(義理の)の7回忌をやるが、こられたらこないか、ちょうど東北の桜が見ごろになるだろう、と誘われたのでその気になった。でも、すでに10年前に免許証を返納した私は車の運転ができないので、娘夫婦に甘えてGWを若干先取りしてもらい、渋滞が始まる前に、出かけて帰ってきた。それでも4泊5日は結構長旅という感じがする。温泉は堪能できたけど。東北道は面白味がないので、趣向を変えて話題多き日本海沿岸から行くことにし、関越自動車道から新潟県の海岸沿いを走るルートを選んだ。小説「雪国」の物語の通り、長い関越トンネルを抜けたら、越後の国にはまだ雪が残っていた。

 六日町インターを降りて、日本酒の名酒の一つ“八海山”醸造所を見学に訪れた。一面田圃に囲まれた少しばかり小高くなった広い敷地は周囲が桜並木に囲まれ、地面には、今が盛りのかたくり、つくし、名を知らぬ可憐な白い花などが咲き競っている。敷地内には主棟の醸造工場の他に日本調の内装の食事処とか試飲即売所などがあるが、一際目を引くのが建築デザインで賞を受けた、雪室という天然の冷蔵庫ともいうべき建物である。雪室内は冬の間に雪を300トンほどに積み上げ、室内を3度Cほどに下げて、吟醸酒などの熟成をしている他、オーク材の樽で焼酎を熟成している。300トンの雪は次の冬までに約半分に減り、また来冬に減った分を補充すると言う。

 ここの試飲コーナーで、酒には目がない私も初めて味わった、えも言われぬ、馥郁たる芳香を放ち、喉にかすかなリキュールの甘味を思わせる“焼酎”に出会った。その名は「風媒花」と言う。先ほどのオーク材〈樫の木〉樽で熟成された、極上の焼酎である。アルコール度数は40度。たかが焼酎が、なぜこんなにも高級感あふれる、シングルモルトのウイスキーにワインの甘味のような謎めいた味になるのか不思議でならない。やっぱりオーク樽での3年間の醸造が極意なんだろう。
オーク樽独特の香りや木質のためワインやウイスキーもどきになるのだと思う。720mlで1本3300円は、焼酎にしておくには勿体ない名品だ。

 実際はミサイルの話などほとんどしていない、日本海沿岸の砂浜を見下ろしながらひたすら走る。新潟の村上市からは高速道がない。いやおうなしに海岸沿いの道を走るが、心なしか太平洋より黒く感じる日本海の海は、現実社会の騒音などどこ吹く風と言わんばかりに穏やかである。久しぶりの田園地帯の空気を吸い、どこまでも続く花粉症の元凶を眺め、かっては広い田圃の片隅や崖の下にぽつんぽつんと立っていた茅葺屋根の代わりに、都会と同じ家が建っているのが不釣り合いに感じるなど、変わった思いをめぐらせていたとき、まさかあんなところに、という島があった!。日本海には佐渡が島の北には島なんかないものとばっかり思っていたのに、結構大きな島ではないか。充分に人が住んでいる可能性がある。あわてて地図を見たら今日まで全く知らなかった島が出ている。粟島と言い行政区画で言うと、“粟島浦村”となっており、予想通りフェリー航路がある。

 このあたりの海岸は茶色い岩がゴロゴロ波から顔を出し、陸地は岩が断崖のようになっていて、“笹川流れ”という名勝を作り出しているような、風光明媚な海岸である。そして夕方の見事な日没もさらに華を添える。あまつさえ、今年の東北はこの時期、満開の桜が美観に輪をかけていた。道に平行して走る羽越本線の乗客ももちろん景勝を堪能していることであろう。このような景色を楽しめるのは、日本海側には高速道路がない部分が多いためで、なまじっか高速道路ができれば、物流トラックは元よりよほどの閑人じゃない限り、高速を通るだろう。しかし、高速では、やたらに防音壁や目隠しの木があり、せっかくの風景が眺められない。もっとも、こんなことは一生に数えるほどしか来ない人間の言うことで、やっぱり地元も観光事業者なども高速道路は欲しいんだろうと思う。

 山形県の日本海側と内陸を結ぶ山形自動車道というのは、月山湖インターと湯殿山インターの間21キロが繋がっていない。山形市から月山湖(人造湖)を望む月山湖パーキングへ入って驚いた。道路公団の道路地図には立派に「月山湖P.A.」と書いてあるのに、施設はトイレと飲料自動販売機1台だけで無人だ。公園の公衆用より狭いトイレと自販機1台だけと言う、まことに小さなPAである。先客もワンボックスが1台だけだった。これも外へ出て初めて味わえる経験である。
紀行文はだらだら書いていると小学生の綴り方になってしまう。印象に残ったことだけを拾って綴ってみた。折りがあれば、他の部分も書いてみようと思うが、今回はこれでおしまいにします。
 定年になってから出ている諸々の集まりも、27年も経つとどんどん参加者が減ってくる。次は誰が減る籤に当たるのか。いずれは避ようがないことだけど、命運の神がこっちを向かないように、目と目が合わないように、毎日祈るばかりである。

      おわり (2017.5.5 記)

 

四 季 雑 感(37)

樫村 慶一  

不安を抱えながら楽しみと暮らす

 天の法則通り凡そ46億回目の春が来る。今年もまた各地で、新しい出会いと、悲しい別れ、人それぞれの人生模様が繰り広げられるであろう。私もそうして、今日まで生きてきた。4月1日生まれの私は毎年誕生日は家族と桜に囲まれてきた。ここ10数年は神田川の畔に住む娘と椿山荘まで歩き一緒に祝う、でも、2015年の4月は3か月後に亡くなる妻にとっては辛い時だったと思う。それを顔に出さずに付き合ってくれた。その心の内を思い、それ以来観桜は半分悲しみに変わる。私にはもう新しい出会いはないであろう。あるのは、いずれは来る悲しみを伴う別れだけだ。女房が亡くなってからは、それまでと違う人生観を持つようになり、付き合いの範囲も無差別に広がってきた。最近はいろいろな会に出ても、どこでもいつでも大体「最長老」になってしまう。87歳にもなって50代60代と一緒に出歩く人は少ないのかなとも思う。自分では年をとってきて、多少は物忘れが多くなったけど、まだボケには入ってないと思っているが、体の動きは確実に鈍くなった。特に歩行速度が落ちてきた。女の子に軽く抜かれてしまう。まあ、これも仕方がないさ、転ばないように歩くのが一番大事なこと、と自分に言い聞かせてマイペースで外へ出る。

 4月からはまた、私が生涯で最も深い関心を持つラテンアメリカの文化、音楽、信仰、伝統などに関する大学の研究会が始まる。戦前や戦後の超「古い映画を楽しむ会」の例会とか、どこかでラテンやジャズの音楽会があると誘われれば、のこのこついていく。これっと思う展示があれば美術館にも行く。k-unetの研修会も後の飲み会を楽しみに出かける、何もなければ囲碁に出かけ、家にこもればパソコンで退屈はしない。そして一番大事なのは、娘夫婦に支えられていることで、そんなこんやで男やもめを何とか過ごしている。

 ところが、去る2月、風邪で8.5度の熱が2日も続いたのには参った、と同時に、今後も救急車を呼ぶほどではないが、さりとて、かかりつけ医者までは行けない、という状態になった時のことが心配になった。昔はお医者さんに電話かければ往診してくれたけど、今はそうゆうサービスはないらしいので、娘が来てくれるまで、じっとベッドで我慢しかないのか、と不安に思った。風邪程度ならよいが冗談ではすまされない問題である。娘が週に1~2度来てくれるし、安否確認と言って必ず1日1度は電話はくるけど、脳出血とか心臓発作では間に合わない。一人では救急車を呼ぶことができないから、結局、安否確認に応答しないのがおかしいと感じて、娘が来るまで分からない、発見が死後2日や3日なんてことになる可能性がある。今の私の最大の問題である。いっそのこと、元気なうちに老人ホームに入ってしまうおうかというのも選択肢の一つである。やっかいな、でも重要な問題を嫌でも意識せざるを得ない。良い知恵をお持ちの方いたら是非お貸し願いたいと思う。

 家にいるときはパソコンを弄っていると言ったが、道を歩きながら夢中になっているような、場当たり的な使い方や、メール交換やSNSなどの検索だけではパソコンも時間ももったいないと思う。やはり、長期的に継続して作業できるようなテーマが欲しい。そこで、考えたのが丁度35年前(1982)の4月、私にとっては3度目、家族にとっては初めてブエノスアイレスの空港に降り立った、駐在生活の初日からつけている日記手帳を整理して電子化することである。一日分の記載事項ををワード文書の2,3行以内に要約して整理するのである。古いことを思い出しながら、昔を懐かしみながらパソコンに清書する。どうしても思い出せない名前もいくつか出てくる。小さくて読めない文字が沢山ある。そばに拡大鏡が離せない。でも飽きない、だけど、日々新しい材料が積み重なっていくので、果たして元気なうちに追つくかどうか、自分でも興味深々な作業である。

 それともう一つは、妻の一生を写真でまとめようと思っている。小学校に入学したころからのものが残っているので、それに私と知り合った時代をつなげていけばよいのだが、これにも問題がある。私がパソコンを始めたのは古希(70歳)の祝いに娘夫婦が贈ってくれたのがきっかけである。ワープロで十分などと言っていたが、綺麗な色付き画面に虜になり、写真処理やアニメ作りなどに夢中になったりしたお陰で、人並みのスキルに達したとは思っているが、これにも問題がある。結婚した1955年からデジカメを使いだした2000年までの45年間の古い写真を、退色補正しながらスキャンして取り込まなくてはならないので、その数が問題である。何枚になるかわからないので、これも一生仕事になるかもしれない。でもどちらも楽しみながらできるのが、一番のメリットだと思っている。ものを書くのも好きである。この四季雑感も、その前の、「この頃思うこと」という雑文を合わせるとかれこれ50回位にもなる。これも、k-unetの続く限り、私の一生の作業として続けて行きたいと思っている。取り留めないことばかりになったが、今の心境を文字に現わしてみた。どうぞお笑いくださいませんように。 おわり
(2017.3月 桃の季節 記す)

【写真説明】
上から:
①神田川沿いの桜とホテル椿山荘東京(数年前までフォーシーズンホテル)。
②戦前の映画「人妻椿、佐分利信、川崎弘子主演 1936年(昭和11年)」。
③銀座ジャズ雛祭りチケット(2017.3.5)。
④戦後の映画「湯の町エレジー、近江敏郎、山根寿子主演、1949年(昭和24年)」。

 お詫び; 前回「四季雑観(36)の富士山のコロナの写真で肝心な場所を書いてありませんでした。場所は山中湖の東側で山中湖花の都公園からです。申し訳ありませんでした。

 

四 季 雑 感(36)

樫村 慶一

幻の大正道路の話  

 2017年もはや1月の半ばも過ぎてしまった。海岸の砂浜に海水が昇ってくるように、どんどんと刻(とき)が浸食されていくように感じる。その速さは尋常ではない。私は今年で87歳になる。大動脈瘤や胃癌や肺の病気などを乗り越えた。とりあえずの長生きの目標は東京オリンピックである。丁度90歳になるからだ。
 ある説によると、時の経つのを感じるのは、年を取るほど早く感じるようになる。その理由は、「毎日の出来事が殆ど過去に経験したことばかりになり、なんの感動もないし記憶にも残らないから、一日が全く意識しないうちに過ぎてしまう、だから今日のことも昨日のことも意識的に区別しにくい。反対に子供は毎日毎日の出来事がみな、初めて経験することが多いので、新鮮であり、感動的であり、記憶がどんどん蓄積されていく、従って、一日一日が充実して長い、と感じるのだ」、と言うのである。なんとなく分かるようにも思う。

 私は、周期とか年紀とかついてこだわる人間である。今年はてっきり明治150年だとばっかり思っていたら来年だそうだ。何故かというと、西郷さんと勝海舟が会談して江戸城を無血明け渡しをしたのが、1867年だから、今年は150年目になると思っていたが、1868年(慶應4年)になって改元の令が出て、1968年1月1日に遡って明治とする、となったようで、来年2018年が明治150年である。
 もうすぐ平成も終わる、明治維新から近代日本が始まったけど、それから明治、大正、昭和、平成と4つの年代が過ぎたことになるが、それぞれには一言で時代を現す言葉がある。”ごいっしんの明治”、”ロマンの大正”、”モダンな昭和”とくると、次は”なんの平成”になるだろう。興味がある。世界的な移ろいを考えると、あまり良い呼称はつかないだろうとも思うが。これからは、”平成” も場所やら建物や名前やその他色々な所にレガシイとして使われるであろう。

 明治、大正、昭和については数えきれない程のものに使われているが、都内の主要道路に大正がないのに気が付かれた方はいるだろうか。山の手線に沿って内側をほぼ南北に走るのが”明治通り”、関東大震災後に当時の東京市長後藤新平が、だだっ広い道路を作るのを見て、飛行場でも作るのか、税金の無駄使いだ、と反対されながら信念を通した”昭和通り”とあるが、大正通りがない。さて、なぜだろうか。実は以前はあったのである。今の靖国通りの市ケ谷と亀戸の間が大正通りだったのだ。

 できたのは昭和4年(1929年)10月26日である。大正12年(1923年)の関東大震災の復興事業で東京には53本の新道が整備された。政府の復興局の援助を受けた東京日日新聞(現毎日新聞)が主要な22本の道路の名称を懸賞募集し、都心を南北を貫く復興1号線を昭和通り、十字に交わる3号線を大正通りと決めた。ところが、昭和9年に神田の猿楽町町会が出した新町名地図には「靖国通り」になっている。できてから5年で大正通りの名前は揺らいでいた。昭和10年代になるとどの地図にも大正通りの名前はなくなってしまった。 はっきりといつなくなっかは故老でも分からないと言う。当時懸賞で命名された22本の道路で、今も残っているのは半分にも満たない。新聞社が主体の命名なので強制力はない。ただ大正通りが早く消えた背景には、戦前の昭和時代に明治ブームがあり、昭和に明治を重ね大正の沈滞を吹き飛ばそうとしていた政府の意識的な戦略があったのではないかと、その影響を指摘する学者もいる。

  その後東京都は、1962年(昭和37年) 4月25日、2年後のオリンピックの観光客対策として新たに44本の道路に通称をつけることととし、新宿~両国橋間は 靖国道り、両国橋~江戸川大橋間は京葉道路となり、大正通りは完全に消えた。 しかし、1994年(平成6年)になって 大正通りは福岡市に蘇った。最も大阪市には大正区があり大正通りも存在する。

 大正通りは大正生まれの人にはその 名前がないのが悔しかったと言う。大正生まれは戦後の日本を、飢えに耐えながら再建したという自負があったからかもしれない。時の流れの速さに怖ささえ感じる年ごろになり、そんなことを書いているうちに、話が思わぬ方に逸れてしまったが、さて今年は、トランプのジョーカーが何に使われるのか、今年の上りは吉と出るか凶とでるか、期待と恐怖の一喜一憂の年なんだろうなと思う。 しかし、人類は確実に絶滅のトレンドに入っているのも事実である。次回は生物の絶滅について書こうと思う。2017年がk-unetの皆さまに幸せな年でありますように、お祈り申し上げます。
 では、次回まで ごきげんよう  (2017.1.20記)

(写真説明:この富士山のコロナは、年間で数日しか見られない光景で、たまたま行った日がその時に当たり、しかも時間も1分だけの貴重な景色である。この日は12月16日午後3時19分であった。)

 

四 季 雑 感 (35)

樫村 慶一

最近 行った処 見たこと 感じたこと  

 東京よりは多少は寒さが強いと言っても、紅葉にはまだ相当に早い10月始め、真田ブームに魅せられて信州上田のお城と真田家の当主が居を構えていた真田の郷、城下町らしい昔の北国街道の町並み、それに、真田と言えば作家の池波正太郎を思い出さずにはいられない「池波正太郎記念館」などを訪れた。上田城内に作られた展示場には大河ドラマに使われた小道具などが色々展示され、手紙類も昔の本物ではなくドラマに使われた本物らしく書かれたものとか、まあ、そこそこに見ごたえはある。でも私は、1990年頃にNHKのBSで放送された池波正太郎原作の「真田太平記」のほうが好きだ。女性忍者が活躍するなど忍者が沢山でてくるし合戦場面も多かった。北国街道跡の柳町通りには、昔の面影の残る家並みがある。真田の郷は市内からかなり奥深い所で、山深い森閑とした森の中の館の静かな囲炉裏部屋で、正幸が戦術を練った姿が想像できる。今でも実った栗の実が落ちる音だけが聞こえるだけである。
 翌日、沼田の城跡へ登った。沼田城は江戸城が火事で消失した後、関東で唯一五層の天守閣が残った城と言われるが、今は当時を偲ばせる遺跡は、せいぜい掘と石垣の一部くらいである。本丸跡は花壇になっていて再建された鐘楼が聳え、信之夫妻の石像が立っている。展示物は市役所近くのビルの2階を借り切ったスペースに、上田と同じようにドラマの小道具や、手紙類とか、ジオラマなどが展示さえている。またドラマの最初の画面の「真田丸」と彫った銅板の実物が展示されている。所詮沼田は長い歴史の上では、小田原北条氏が滅びる前から関ケ原までの短い期間に注目されただけの場所で、それ以降は歴史的に注目されることはなかった。大河ドラマのお陰で410年ぶりに注目を浴びているというこであろう。判官贔屓の日本人は戦上手で悲劇的な人生であった正幸や幸村にあこがれる。

 四季雑感なので、その時々に応じて感じたこと、見たことを思いつくまま書いているが、誰でもが知っているようなありきたりのことを書くのでは面白くない。つい先日まで、理由はわからないが、ラテンアメリカの映画がたくさん上映されていた。ラテンアメリカの映画は、暗く、貧しい人々が多く、そしてなによりも理解するのがむずかしい。

 その中で、「チリの戦い」という映画を見た。1970年11月に世界でおそらく初めてで最後の、民主的選挙によって社会主義国になったチリのアジェンデ政権の3年間にわたる国内情勢と、クーデターで倒れるまでの物語である。映画は3部作で、始まったのが午前11時、終ったのが午後4時半だった。なぜ比較的先進的な国であったチリで革命ともいうべき社会主義政権ができたのかというと、人口の40%を占めていた貧困層の大衆が蜂起して左派政権を団結させたためである。反対側はもちろん富裕層、大地主、軍部内の右翼、保守の牙城と言われるカトリック教会などである。この二つの階層には服装とか人相、言葉使いなどにいたるまで、はっきりした差異がある。典型的な階級闘争だったと思う。
 困ったのは米国である。ルーズベルト・ドクトリンに示されたように、冷戦で旧ソ連と対峙する米国としては、ラテンアメリカはわが裏庭だと思っていたのだから、そこでのいざこざは絶対に困るのだ。だから喉元にささった棘のようなキューバに対して、反革命勢力を上陸させようとしたりした(これは失敗した)。とにかくカナダからパタゴニアまでに社会主義はとんでもないことなのだ。選挙戦当初からアジェンデが優勢と聞いた米国はいろいろな選挙妨害をやってきた。しかし、これらの活動も功を奏さずアジェンデ政権は誕生した。その直後からただちにCIAを介してアジェンデ打倒の工作を開始した。アジェンデ政権の3年間は、政府側と反政府側とのストライキの応酬に明け暮れしたようなものだった。アジェンデはまずキューバとの国交を回復し、米国資本の銅鉱山、電信電話事業(我々おなじみのITT)を国営化し、大地主の特権をはく奪して農地改革を行った。これらに反対する軍部を内閣改造により一時は閣内に取り込んだこともある。ピノチェットも一時は体制側に立つた時期もあった。
  チリはご存じのように南北に4000キロと細長く物流はほとんどトラックにたよっている。CIAはこのトラック業者を抱き込んで長期にわたるストライキを行わせ、経済活動を麻痺させた。一方、アジェンデ支持者達は自分達が働く工場のトラックを使って物資を輸送し住民間に公平に分配した。食料品などを隠匿している業者を摘発して市場に流した。工場や農場を自主管理して経営する産業コルドン(紐帯)は、他の社会主義国と比較しても自立性において際立ったいた。ますますいらだつCIAはついに武力クーデターを起こさせたのである。1973年9月11日、戦闘機2機よる空襲から始まった。アジェンデ大統領は護衛警察官を帰し、本当の支持者約40人と戦ったが、いかにせん多勢に無勢、凡そ2時間ほどでアジェンデは自殺し、クーデターは終った。チリ最大の港バルパライソの沖には米国の駆逐艦4隻が停泊、完全に米国主導のクーデターだったのである。28年後の同月同日に米国自身がクーデターならぬテロに見舞われるとは誰が想像したろうか。
 先進国の資本主義が飽和状態になり格差が拡大しても、保守主義であるカトリック信者の多い南米に社会主義は馴染まないと思う。実際に生活を体験してみても、下層階級の人々が金持ちを羨らやんだりねたんだりしたことをほとんど見なかった。

 10月31日がハローウインだと若者が大騒ぎしていたが、バレンタインデーのチョコレート贈答習慣が、メリーチョコレートの販売拡張キャンペーンで始められたことを知っている若者は殆どいないと思うが、ハローウインもどこかの会社の宣伝作戦だったのじゃないかと勘繰りたくなる。韓国大統領がスキャンダルで大変だが、日本は、まだまだ社会的にも政治的にも平和である。ただただ、地下や海底深いところで、何かがうごめいているような気がしてならない昨今である。 おわり

【写真説明】
(上から)上田城入り口にできたNHK大河ドラマ館、 上田城門、 上田市の北国街道町並み

 

四 季 雑 感(34)

樫村 慶一  

痛快な話  

 四季雑感も随分ご無沙汰してしまった。最後は今年の2月だから半年ぶりである。そもそもは、2007年8月にk-unetの世話人を辞めてから、「この頃思うこと」と言う題名で、投稿を始め1年後に現在の「四季雑感」に改名した。四季というのだから、せめて1年に3~4回は投稿しようと思っていたけど、いろいろと都合があってなかなか続かない。題材は世の中にあふれているけど、ニュー性の高いものは平凡で面白くないし、なるべくあまり覚えてないとか、そんなことあったっけ、なんていうものを自分の好みで勝手に選んできた。

 そういう意味でも、久しぶりに書くのに、そんなことあったっけ!にぴったりの題材がある。皆さんは、日本の領海へ中国の漁船が侵入してきたとき、自衛艦が退去を申し入れても出て行かないとき、どうすると思うだろうか。まさか撃沈はしないと思うだろう。しかしそれがあったのだ。 ただし日本ではない。地球の裏側のアルゼンチンの、しかも領海外のEEZ内である。それにしても痛快な話だ。だけど、このニュースは大方のマスコミは報道しなかったように思うのだが、何故だろうか。関係ない事件なので、やっぱり中国は怖いのかな、と余計な斟酌をしてしまう。サンケイ新聞辺りはしたかもしれない。

 事件が起きた時は少し遡るが、今年の3月14日のこと、アルゼンチン南部のプエルト・マドリン沖(注)の大西洋で、同国の沿岸警備隊がアルゼンチンの排他的経済水域(EEZ)内で違法操業中の中国の大型漁船を発見(下の写真)、停船を命じたが従わず、衝突させようとするなど抵抗して、公海へ逃亡を図ったため警告の上で発砲、撃沈した。動画で確認すると、アルゼンチン軍艦が撃ったのは大砲ではなく砲身の長い機関砲のようなもので、漁船の船腹部を狙って2,30発撃っている。船長他乗組員全員は保護され身柄を拘束された。沿岸警備隊を管轄するアルゼンチン海軍の発表では、身柄拘束を受けているのは4,5人で、アルゼン当局の取り調べを受けた。(その結果どうなったかは不明)。
 この漁船は、中国山東省の煙台の漁業会社の船で「魯煙遠魚10」と書かれていた。いかを不法に漁獲していたと言う。 中国政府は強い懸念を示し再発防止について交渉を始めると言われている。
 アルゼンチン海軍は、1982年のマルビーナス島(フォークランド)での英国との戦争でも、すぐに降伏した陸軍と異なり、英艦を撃沈するなど勇猛で名をはせた海軍で、外国船を撃沈したのは15年振りといわれる。それにしても、領海ではなくEEZなのに撃沈とは痛快極まりない話で、EEZどころか領海を通られても機関砲1発撃たない、日本の海上自衛隊はどう思っただろうか。
 中国漁船の不法操業は日本でも問題になったが、今月20日にはインドネシアの領海でも不法漁獲を行いインドネシア軍に拿捕された漁船が海上で爆破沈没させられた。

 (注)プエルト・マドリンは、ブエノスアイレスのから南へ約2000キロ行ったところにある大西洋に突き出したバルデル半島への入口の町で、私は急行バスで一晩走り続けて行った思い出がある。半島には季節により、クジラ、シャチ、ペンギン、トドなどが集まるところで、有名な観光地でもある。
 
 そんな事件があって、少し経って熊本地震が起きたのだが、ほぼ同時期に、エクアドルでも大地震が起きた。でも日本のマスコミは熊本の報道に忙しくて、よその国のことまで手がまわらなかったのかも知れない。あの辺はもともと地震帯の上なので特に珍しい出来事ではない。丁度ガラパゴス諸島の対岸の海岸あたりが震源地だが、M7.8は結構大きい。死者は最終的に654人となり負傷者は2000人以上と報道された。
 そしてオリンピックの準備に大童のブラジルでは、大統領の汚職事件が明らかにされ、ついには職務停止においこまれた。オリンピックは大統領不在である。外務省が先日「観戦者向けに安全の手引き」を作ったが、これは観光を兼ねて行く人向けで、現地に住んでいる人たちは恐らくあまり被害に会わないと思う。私の経験から言うと、現地に住むと自然に防御方法が身につくからである。もっともそれまでには、そこそこに月謝を払っているはずではあるが。
 パナマ文書問題が起きたのもこの頃だし、米国とキューバが仲直りしようと言う動きが本格化したのもそうである。時たまたま、キューバへの日本人移民の世一世で最後に残った人、島津三一郎さんと言う方が亡くなった、108歳だったそうだ。そして、私が一番関心を持っていたのはペルーの大統領選挙の行方だった。フジモリさんの娘ケイコが予選では1位だったのに、決戦では50%に僅か0.12% (21000 票)足りなかった。従って両者の差は僅か0.24%(42000票)だった。ちなみにケイコご本人は、ケイコの漢字を知らないと言う。フジモリさんは、せっかく日本へ亡命してゆっくり生活できたのに、自分からまずチリへ渡り、大丈夫と思ってペルーへ帰ったんだろうが、とたんに捕まってしまった。これこそ、飛んで火に入る夏の虫そのものである。私の知る限りでは、フジモリ大統領は、アンデス高地のインディヘナのために道を作り学校を建て、水道や電気を引き、インフレを収め、Sendero Luminoso や人質事件をおこしたMRTA(Movimiento revolucionario de Tup'ac Amaru=ツパックアマル《インカ王の名前》革命運動)などの反政府ゲリラを撲滅したなど大きな功績があると思っていたけど、国内では、独裁とか汚職とか、海外で見るとは大違いの評価がされているのに驚いたものである。

 地球の西の方のテロとはあまり係りのない南米であるが、気候は日本がこれから2010年以来の猛暑になると言われているのとは反対に、この冬はかなり寒いと友人は言っている。それにやっぱり雨が多いとかも。そうは言っても今の中南米は、世界的には北欧と共にきわめて安全な地帯である。中南米で政府軍と革命勢力が戦ったいわゆる内戦は、1996年2月のグアテマラの終戦で終わり、その後は政府軍、警察と麻薬シンジケート、マフィアなどとの争いであったのだが、これも最近のコロンビアを最後に終わった。中東やヨーロッパで起きているようなテロがないのは、宗教対立がないからである。殆どがカトリック信者で、多い国は98%にもなるし、少ない国でも60%以上はカトリックだから、他の宗教が入り込む余地はない。日本が仏教が大多数なのと同じである。それに日本とくらべて自然災害がかなり少ない。太平洋岸は地震と火山噴火の恐れがあるけど、アンデス山脈の東側は、まず安全だ。だから、体力があれば南米の南部へ移住したいと常々思っているのだが、もう両肺の気胸をやってPOPDの初期では、とても飛行機には怖くて乗れないし、子供と離れるのも寂しいなどで実行する気はない。

 人生の終焉がいつ来ても可笑しくな歳になってしまった。せいぜい楽しむかと色々出かけているが、先日、昔はお大尽のお遊びの一つだった芸者遊びの合間をつなぐ、いわば和製ピエロみたいな存在だった、幇間(たいこもち)の芸を見に行った。悠玄亭玉助の名前だけは知っていたが、今では、弟子が数人しか残っていないそうだ。その中の一人、悠玄亭玉八の芸を観た。一人で落語、漫談、都都逸など三味線を巧みに弾き座敷芸は一通りこなす、真打は、屏風の中にあたかも女がいるように見せる一人芝居が圧巻である。これを見るだけでも腹を抱えて笑ったのだか、一緒に行った50代の娘婿はあまり笑わない。我々がポケモンなんて全く興味が湧かないのと同じなんだろう。そういえば客は年配ばかりだった。ああいった伝統芸も我々年寄りと共に消えていくのかもしれない。 (写真は悠玄亭玉八、神楽坂 志満金にて)

 久しぶりの四季雑感だが、読み返してみたら、空き巣に入られた後の部屋のように、脈絡のない雑文が乱雑にまき散らされたようになってしまった。次回はしっかりしますと約束して今回は、これでおしまいにします。  (2016.7月末 記)

 

四 季 雑 感(33)

樫村 慶一

尾張の国で聞いた面白い話と、この頃の携帯電話会社のCMのこと  

 先日、ある団体の一員として愛知県の国宝犬山城や、明治村を訪れる旅をした。新幹線は、久しく乗っていたなかったので、遠足に出かける子供のようにわくわくしていた。行きの「ひかり」大阪行きはほぼ満員だったが、帰路は、「ひかり」や「のぞみ」で、ぴゅうっと行ってしまうのは旅情も何もないので、在来線で窓外の景色を見ながら、ぼちぼち帰ろうと思い普通の電車に乗った。しかし、線路は1本なのに、東京まで乗り換えなしで来る列車はない。豊橋、浜松、静岡などで乗り換えないと繋がらない。でも、浜松あたりで日が暮れるので、浜松からは新幹線の「こだま」にしたら、なんとがらがらである。それこそ3人掛の席はひじ掛けを上げればどこも横になれる席ばかりである。でも東海道線の車窓の景色は、平地に家ばかりが続いていて面白くない。各駅停車でのんびりした旅をするには、やっぱり、山の中を走る列車のほうが遥かに旅情を感じられるものだと思った。
 さて、表題の面白い話であるが、名古屋市長は、以前テレビによく出た民主党出身の河村氏であるが、市民税を半額にしたとき、自分の年俸も1600万円を半分の800万円に下げたという。市議会議員歳費も半分にしたけど、このほど復活案が可決され議員たちは元に戻ったが、市長は依然800万円のままだそうだ。そして、市長公用車は軽自動車にしていると言う。黒の軽に「名古屋市役所」と書いてあるのですぐ分かるそうだ。それでも、後ろ窓にはカーテンをかけ、運転手が運転する。変わり者かもしれないが、税金を安くしてくれた市民は、市長が、”鉄筋コンクリートの城は城じゃない、木造に建て替えるべし”という、現代離れした提案に対し、反対が少数で可決されたとか。改築費はなんと500億円だという。500億円かけて鉄筋を木製にかえる、もしかしたら、九州の地震で熊本城が被害を受けたのを見て、心変わりしているかもしれない。
 そういえば、思い過しかもしれないが、名古屋には綺麗な外車、特にベンツが多いように思える。やっぱりトヨタのひざ元で、税金だけでなく国民健康保険とか後期高齢者健保とか、いわゆる公共負担が少ないから、懐が豊かなのかもしれない。知らなかったが、全国の市町村の面積でトヨタ市が一番広いんだそうだ。トヨタが豊かなので、隣接市町村が合併させてくれと寄ってくるの。人が集まるのはいいことだと、拒ばまないでいたら、巨大都市になってしまったらしい。三河湾という入り江があるが、この湾の東西に丁度蟹の爪のように囲む半島がある。東が、古い名曲「椰子の実」の生まれた伊良湖がある渥美半島、西が知多半島である。渥美半島はほとんど開発されていないのに、知多半島は、東京からでも、半島の先っぽまで高速道路で行ける。なんでこんなにこっち側だけが便利なのかと聞いたら、知多半島には、もともと「みつかん酢」の発祥元の半田市とか、瀬戸物で有名な常滑市があるが、それだけではなく、トヨタの下請け工場が沢山あり、3次下請けまであることから高速道路ができたのだそうだ。トヨタの地元での威力は、関東地方の人間の想像以上のものがあるようだ。
 話はがらっと変わって、最近、総務省の女大臣が携帯電話の料金を下げろ下げろとうるさく言っているのを新聞で読む。4月23日の朝日新聞には、またもこの問題に関連する記事が大きくでた。そのせいかどうか知らないが、ドコモやau、ソフトバンクの宣伝がぐっと減ったように感じるのは私だけではないと思う。かってSMAPが画面から飛び出しそうに跳ね回っていたり、白い犬が七変化よろしく、迷演技を披露していたソフトバンクの派手なCMがなくなったことが特に感じるのである。CMが減ったのはソフトバンクだけではないので、このこととは関係ないのかもしれないが、一般書店には出ていないので、余り読んでいる方は多くないと思う、月間雑誌「選択」4月号に「ソフトバンク米国子会社のXデー、孫正義に迫る最大の挫折」というちょっと目を引く記事がでていたのでそのさわりを紹介する。 
 『孫社長は2月の決算発表の場で、”これからはスプリントが稼ぎ頭の一つになる、私はわくわくしている”と虚勢を張っていた。実際はスプリントの株価は、2年前の10ドルから3ドルまで下落して重大な局面を迎えている。純債務は2015年3月期の296億ドルから12月末で315億ドルに増加している。しかし、もう負債がどうのという話ではない。目の前の金がないのだ。スプリントの現金は、15年3月末40億ドルから12月末には21億ドルまで減った。同時点での流動比率は(150%以上が望ましい)59.3%、当座比率は(100%以上が望ましい)29.3%、現金預金比率に至っては19.6%まで低下している。何もしなければXデーは目前である。今年から来年にかけて金が回るかどうかが焦眉の問題である。債務返済の最初の山場は今年末にもやってくる。12月1日満期の社債が23億ドル、来年3月1日に10億ドル、8月15日には13億ドルという大きな償還が続く。孫正義と高利回りの債券市場との間でチキンレースが始まる、と米史上での関心も高まっている。(話はまだまだ続いているが中略)大事なことは、スプリントの経理部門のトップが自分の会社の株を平均3.72ドルで売り払ったということだ。同社の数字を最も知る地位の人がやったことだけに、ただ事と考える関係者は皆無である。・・・・』

 まあ、ふた昔以上前に現役をやめた人間には、関係のない話でござんす、というところだが、一時は向こう所敵なしの感じで暴れまわっていた、世界有数の金持ちの孫さんも、やっぱり人の子だ、金持ちにはそれ相応に見合った挫折、苦労もあるんだと思ったものである。
 雑感だから書きたいことを書けばいいのだが、去年の暮から私にとって世界で一番関心の高い、中南米に政治的に大きな変化というか、うねりが起きている。これに関しては、またの機会にゆずることにする。ただ、6月5日のペルー大統領決戦投票の行方は、一つのドラマのような思いで注目している。

【写真上:国宝犬山城、下:明治村に移設されている帝国ホテルの旧玄関】

(2016.4.24 記)

 

四 季 雑 感(32)

樫村 慶一

蟷螂の斧じゃなければいいのだが

 ことしの冬の気候は異常だ異常だと大騒ぎだ、沖縄に霙が降った、奄美大島に115年ぶりに雪が積もったのとか、都内でも5年前の2010年に大雪があったとか騒がれている。しかし、冷静に考えてみよう。宇宙とまで手を広げなくても、太陽系の中だけの話でもいいのだが、5年間なんて太陽系時計に秒針があっても、刻みきれない短さだし、115年なんて言ったって精々1秒に数えられるかどうか。とにかく、地球誕生46億年の過去から見ると、大きな地球自体の変換期に入っているのじゃないかと思うのだが。地球の変化の単位は、最低でも数百万年からで、何千年なんでほんの序の口だ。恐らく、今は、これから、地球時間で、地球上の生物、植物、あらゆる生命体が絶滅に向かい始めた時期ではないかと思う。地球には過去5回大きな絶滅期があった(注)。それでも、地上のあらゆるものが全てが死滅したのではなく、何とか生き抜けたのがあった、と科学の本に書いてある。
(注)きちんとした参考資料があるのだが、仕舞いこんでしまい探すのが大変なので、具体的年数等を入れていないのをお許しねがいたい。

 そんなわけで、COP22 とか23とかやって、排出ガスを出さないようにしてもそれは、結局、“蟷螂の斧”であって、大自然の動きには殆ど影響を与えないと思う。そして、何億年かたって 地球の位置が太陽と変わらなくて、水があれば、単細胞の、何か“うごめくもの”が出てきてそれが段々分裂拡大、色々な生物、植物に分裂していく現在の動植物の進化の過程を繰り替えすのだと思う。本をしまってしまったので、何億年前とか何々期とかいう具体的なことが書けないのがじれったいが、異常気象の結末は今日明日の話ではなので、この話はこれでおしまいにすることにしたい。

 そこで話しは180度変わる。定年以来、毎年税務署の入口に確定申告書が並べられるのを待ってもらいにいき、源泉徴収表が揃ったらすぐ計算して真っ先に出しに行くのが、1月の大事な行事である。それなのに、愚かにも26回目にしてある不思議なことに気がついた。先刻ご存知の方がいたら、今頃気がついたのかと大いに笑って下さって結構だ。
 というのは、私は、2015年は、通常の薬(降圧剤、尿酸抑制、血液さらさらなど)の他に、妻の入院費や治療費、私自身の総胆管結石の除去の入院費などなどで、高い医療費を払い、かなりの出費を強いられた。所得金額から医療費控除をすると、課税所得が最低ランクに入ってしまった。このランクに入ったのは、初めてである。すなはち 1000円~1,949,000というランクである。このランクの税額は課税所得×0.05である。この課税所得をすぐ上のランク (1,950,000~3,299,000のランクで税率は×0.1-97,500円 )の税率で計算すると、2万円以上安くなる。同じ所得を上のランクの税率で計算すると、安くなるというのが不思議なことだ。つまり、同じ所得なら、低いランクの方からは高い税金を取るということになる。納得できなかったので、税務署職員に尋ねたら、なるほどね、その職員も感心していたが、結局、幾らから~幾らまでと言うランクの中での計算であって、他のランクに入ったら、多くなる、安くなるという比較はナンセンスな話です、と自分も旨く説明できないのか、忙しいので・・・と行ってしまった。もしこれを読んだ方で興味をお持ちになられたらいろいろ計算してみると面白い結果が出ると思う。

 今年は騒がしくなると言われる、申年の最初の「四季雑感」である。ちょいとした、クイズめいたお話を一席ご披露して、ことしの書初めの筆置きとしたい。
 毎朝ベッドから抜け出す前に、暫くラジオを聞いているが、先日、面白い話をしていた。あるラジオ局が、『寿司屋へ来てカウンターへ座った客の中で、板前が「この人は寿司屋は始めてだな!?」と感じた客がいたら、何故そう思ったか理由を尋ねる』、と言う番組である。なかなか面白い課題である。その“なぜ”を披露する。
①座るや否や、“寿司を下さい”と言った。
②“いくら”などの軍艦巻きにした海苔を、ケーキのセロファンのようにはがした。
③中トロ、大トロと注文したが、“中も大も大きさ変わらないじゃないの?”と言った
④“このお寿司、ご飯がすっぱいよ”と言った。
⑤“ご飯は、おにぎりのように三角にしてください”と言った。
⑥“いくら”を楊枝で一粒一粒つっついていた。
⑦“こはだ”のような光ものに、磁石を当てていた。
 まだまだあったような気がしたが、起きぬけで徐々に覚めつつある頭では、全部は覚え切れない。まだまだ、珍しい行動や会話をする人がいるだろうし、外人が増えるとますます、こうした落とし話的、場面がふえるのじゃないだろうか。世の中はどんどん変わっていく・・・ ことしも皆様、よいお年をお過ごしください。
 (2016.2.3 節分の日 記)

 

四 季 雑 感(番外編)

樫村 慶一


東西南北から眺めたKDDビル

 我々の懐かしき故郷、命の炎を燃やした場所であり、今の、安穏な生活の礎を作ってくれた、わがKDDビル。(我々の時代にはKDDIビルは存在しなかった)

 昨年暮れに約1年振りに「四季雑感31号」を出した。年が変わり、なにか書きたくなったものの、四季と名乗っている以上は、やっぱり、節季を意識しないといけない。間隔が近すぎるので、番外として書いてみようと思った。とは思ったものの、なにか気分の変った題材はないかと考えた。K-unetの記事に添付される写真はどうしても、書く題材に関連のあるものになる。そこで、こうした傾向ではないやり方はないものかと知恵を絞った。その結果、思いついたのが、週刊誌的に言うと、冒頭のグラビア写真に相当するものである。具体的に言うと、KDDビルを、東西南北の高いところから撮った写真なんか、どうかなと思いついた。
 1974年7月、昭和49年の真夏、霞ヶ関ビルから引っ越してきた。引越しは、完成したこの年の1月から始まり、各週末に組織ごとに順番に移転してきた。それ以来16年、途中、出向やアルゼンチンでの生活を除いて、凡そ10年を過ごした。新宿西口超高層ビル群の草分け的存在でもある、この中に住みながら、すぐ近くにありながら、周囲の高層ビルの中へ入ったりしたことなしに辞めて行った人、遠くから眺めたことがなかった人などは意外と多いのではないかと思う。
 “東京の新宿”、日本人なら誰だって知っている、この巨大なコンクリートのジャングル街の中に我々は毎日毎日いたのだ。また退職してからも、新宿へはちょこちょこ行ったりしているのに、まだ行ったことがない場所は数え切れないほどあると思う。しかし、いつもカメラを持っているので、東西南北のどこかの一角の、高い場所に行った時には必ず写すようにしていた。そんな写真をアルバムから拾い集めてみた。距離はそれぞれ違うけど、いつ、どこから眺めても懐かしい建物である。
でも翻って見ると、そこは、常に戦場であったし、ある時は憩いの場にもなり、独占時代は世界のKDDマンであると、胸を張って新宿界隈を闊歩した。更には、去ったあとの余生を安穏に過ごせる、貴重な糧(かて)を与えてくれる、後光の射すような、このKDDビルを、「遥かに眺むる我が懐かしき故郷」、なんて懐メロ調のタイトルにしては、ばちがあたるかもしれない。
 “なんだ、ここからなら知っているよ”、と思われる方もいるだろうし、“へえええ”、と思われる方もいるであろう。評価はご覧頂いた方々の自由である。本音はk-unetの記事にちょっとだけ、一輪の花を添えようと思ったからであると同時に、CM的に言わせて頂くと、これからも「四季雑感」を是非ご愛読頂きたいということでもある。 (2016.1記)

   

 

四 季 雑 感(31)

樫村 慶一


  この欄に記事を書くのは、ほぼ1年ぶりになる。昨年、今年と、なにやらやたらに、せわしい日々であった。今年も間もなく終わる。考えてみるまでもなく、人間から1寸の虫まで、1時間は1時間であり、1年は1年だけど、人間以外は、時間感覚なんかないから楽だろうと思うことがある。もっとも楽しいことばかりの人生だったら別だろうけど。
 世間には、いろいろな“会”があるけど、「古い映画を見る会」というのがあるのをご存知だろうか。毎月第2日曜日に目黒のさる場所でやっている。千円払えば誰でもいれてくれる。映画は邦画と洋画の2本立てで、戦前、つまり1930、1940年代のものが多いのだから、ただ“古い映画”だというのとは、ちょっと質が違う。しかし米国のカラー映画の色調が今と遜色ないのに驚かされる。テレビなどで今放送される「懐メロ」というのは、精々東京オリンピックの頃のものが多いのだから、孫かひ孫の懐メロものということになるのだろう。今までに上映された邦画の題名を少しだけ紹介すると、次のようなものである。

●東京行進曲1929 ●何が彼女をそうさせたか1930 ●マダムと女房1931●お琴と佐助1935 ●東京ラプソディー1936 ●新しき土1937 ●土と兵隊1939 ●白蘭の歌1939 ●君を呼ぶ歌1939 ●上海陸戦隊1939 ●花つみ日記1939 ●蘇州夜曲940 ●燃ゆる大空940 ●進め独立旗1943 ●サヨンの鐘1943 ●かくて神風は吹1944 ●加藤隼戦闘隊1944 ●アニメ映画 桃太郎海の神兵1945 ●必勝歌1945 ●誰か夢なき1947 ●湯の町エレジー1949 ●女性三重奏1950 ●哀愁の夜1951

*上記映画を見たい方は連絡くれればDVDをお貸しいたします。

 k-unet会員は結構お歳を召している方も多いはずである。かく言う私も85歳ともなれば、男としては結構な年配である。こうした古い、懐かしい映画を見るのは楽しいものだ。ただ、筋書きは単純で、お世辞にも面白いとは言えない。それでも毎月欠かさず出席している。
 このような映画に興味を持たれる方々は、興味の的がそれぞれ違うのじゃないかと思う。昔の家の形、外壁、道路の状態、街を歩く人々の服装、髪型、今も残っている建物の原型、電車や自動車などの形、家の中の様子、食事の献立、着ているもの、あるいは髪型、店の看板、広告、人々の会話などなど、7,80年も前のことなると、全く変わっているものもあれば、なんだ、今と同じじゃないかと思うものもある。観ていて、ただただ懐かしいと思うだけではあるが。あの頃の家は、殆どが一戸建てで平屋と二階家が半々くらい。敷地は、狭くても50坪くらいはあったろうか。生垣が板塀で囲んである。

 ここで、話は現在に飛ぶのだが、これらの木造の家は、戦災で焼けた家でも建て直して60年以上になる。もっと新しい家でも4,50年は経っている。新しい建築基準法が1981年に施行されたため、古い建物は、耐震構造に改築するか建て直さないといけないという。聞くところによると,来年あたりまでにそれをすると、都から補助金がでるとか聞いた。そのためであろうか、 私のマンションの周辺だけでも、古い一戸建ての家があちこちで取り壊されて更地になり、あっと言う間に、新築が建つのだが、これが、前にあったゆったりした建物で、庭には立派な木が植わっていた面影は全く消えて、元々は1軒の家だった敷地に3軒も4軒も建つ。敷地はせいぜい17,8坪しかないところへ、1階がガレージと納戸のようなもの、2階がキッチン、リビングで3階が寝室、と判で押したように同じ間取りの、ひょろっとした家が建つ。それはまあ、どうでも良いことでもあるが、生まれつき、”なんで”、“どうして”と物事を追求する性格のため、頭に浮かんだ疑問を解かないと自分でも気がすまない。
 この場合の疑問とは、先行きのことである。つまり、普通はこんな家を買うのは、30代か40代の人だが、大方は30年とか35年とかのローンを組むんだろうと思うが、一戸建てとは名ばかりで、家と家の間が50センチもあるかないかである。ローンが終わる頃には家の寿命も終わるだろう。近所の数十か所の現場を散歩ついでに見て回るが、柱は細いし、柱と梁が交差する部分の三角の金属の接続器具を使っていないとか、耐震に大事な部屋の仕切りのX型の貫きをいれてないとか、売れる前から外側のモルタルにひびが入っているとか、手抜(?)じゃないかと思う様子を知ってしまう。格好良く出来上がったものを見せられる買い手には分らない部分が沢山ある。カメラを持ち歩いて色々撮っているので、買う人に建築途中の状態を教えてやりたい位である。
 昔の木造住宅は50年たってもびくともしなかったものが多かったのに、これらの家を建て直したくなったとき、真ん中に建っている家はどうやって壊したり、建てたりするんだろうというのが、素朴な疑問である。まさか両側の家も一緒に建て替えてくれとも言えないであろう。
今の地球の自然現象の行方や温暖化、宗教対立、大規模な戦争、経験のない新型のウイルスの発生と流行、などなど予測不能、想定外の未知の現象との遭遇を考えると、孫やひ孫の将来が心配になってくるが、自分の寿命の範囲の先のことは、Que’ sera?、その時はその時のことさ、その時の人間が適当にやるだろうとでも思うしかない。

 しかし、先行きどうなろうと、やっぱり日本人が減って減って最後は絶滅して、黒か半黒か、やたらに腹やおっぱいが出っ張った人種が新しい日本人になる可能性が100%否定できないというのに、なんで、同性同士の結婚?を認めるような政策がまかり通るんだろうか。大体、動物は、雄の細胞(精子)が雌の卵子と結合して細胞分裂を繰り返して成長し、一定期間たつとまたそれを繰り返して子孫が増えて種族が繁栄する。しかしそのままでは、全ての生物が増え過ぎるので、天敵動物や、地震、火山爆発、隕石落下、飢饉、病気蔓延、戦争などのために、適当な間引きが行われ、全ての調和がとれるようになっている。地球が誕生して46億年の間に絶対不変の事実として受け継がれてきたものだ

 それなのに、同性同士がくっついて、どうやって子孫を残そうとするのか。くっついた二人がそれぞれ、外に異性を見つけて作りっこをするのだろうか。ただただ、若い間の、我が儘を公に認めてもらって、自由気ままに生きていこう、先のことなど知っちゃいないよ、と言う訳だろうか。運よく7,80歳の寿命を全うした後、残った方は誰に面倒みてもらうのか、新しい子孫ができないんだから、人口が減っていくのだから、看護する奴だって減っていく、日本消滅に拍車がかかるばかりだと思うんだけど。本当に、同性同士が夫婦気取りで、それを役所が認めるなんて、神がいることは全く信じていないけど、こうゆう風潮の時代こそ、何神でもいいから本当の神様が現れて、ガツーンと一発、バカ者に食らわしてやって欲しいと思うのだが。 

以上 (2015.11.27 記)