四 季 雑 感(60)
(オムニバス)
樫村 慶一
★クリスマス (私のスクラップ・ファイルより)
『クリスマスだとばかり浮かれ騒ぐ人々の中に、果たして幾パーセントが真にキリスト教に帰依してゐるのであらうか。それは多分微々たるものであらうと思う。我々とても、キリスト教徒がキリストの降誕を心から祝福することに対し、決して咎め立てしようとするものではない。問題は、ほとんど何らキリスト教を信ずることなくして、しかも或いは酒食に耽(ふけ)り、或いは夜通しダンスに興ずる等、種々の享楽に耽らんがための口実として、神聖なるべきクリスマスを悪用する徒輩、及びデコレーションに粋をこらして軽薄な客を誘惑しようとする享楽施設の存在にある。
当局においても、現下の時局に鑑み、種々の制限は加えられつつあるに相違ない。然し我々の言わんとすることろは、更に一歩を進めて、単に消費節約の見地のみならず、従来の世人のクリスマス観を一新せんことにある。何等信仰を持たぬ人々に、享楽の口実とさせられてゐるキリストは、果たして天国において、喜んでゐるであらうか。(蛙の声より)』。
私が9歳(小3)頃の世相をほんのり思い出した。昼間は三角ベース野球や水雷艦長、時々、夜の提灯行列にはしゃぎまわっていた。子供の世界はまだ十分に平和だっと思います。
★コーヒーを飲みながら、たまーに思いだすこと
日本人に、コーヒーのアメリカンなんて変な飲み方? がいつ頃から定着したのかをご存じの方はいらっしゃるだろうか。私は戦争に負けた頃の記憶は大体覚えているが、その後の戦後の部分は消えている時期がかなりある。なにせ75年も前(15歳)のことだから。マッカーサーが厚木に着陸して、トウモロコシの軸で作ったパイプ(コーンパイプと言っていた)をくゆらしながら、爆撃機のタラップを降りてくる様子は映画館のニュース(テレビなんてない)で何回も見た。その後続々と進駐してきたアメリカ兵の下っ端は、貧乏人の子弟や黒人が多かったようである。
『彼らにとってコーヒーは贅沢品なので、増量して薄くした。事実アメリカではコーヒーは穫れない。ましてや砂糖も贅沢には入れられない。そのケチな飲み方が日本人に伝わり、後に言われる、いわゆる 「アメリカン・コーヒー」なるものができ、民主主義を覚えてアメリカ・ナイズされた日本に定着した』という話を以前どこかで聞いた。そのずっと後、コーヒー生産国の近くの国に住むようになって、本当のコーヒーの飲み方なるものを教えられた。
スタンドへ行ってコーヒーを注文すると、「カフェ・チーコ」と言って普通のカップの半分位の量が入る円筒形の白いカップがでてくる。見ると底に砂糖が入っている。そう,、5ミリか1センチ近くは入っていただろうか。そこへ真っ黒なコーヒーを注ぐ。スプーンでかき回して飲むのだが、結構甘い。アメリカン・コーヒーの砂糖抜きとは全く違う。これが本当のコーヒーの飲み方だと言われたものです。(本当に本当の飲み方なのかの検証はしていない)。日本の世の中が変わったのであろうし、変えたのは、昔の、なんでもアメリカさんに靡いた軽薄な日本人の習慣の残滓なんだろう、と、時々思い出している。私は砂糖抜きのコーヒーなんて飲んだことはありません。
(この話は事実ですが、真実ではないかもしれない。もし、アメリカンコーヒーの由来をご存じの方がいたら是非教えて下頂きたい。)
★人それぞれ・・・
西暦にゼロ年がないので、それが押せ押せになってきて、20世紀も2000年12月31日までかかってしまった。21世紀は2001年1月1日からだ。私は今90歳と10か月だが、まだ80歳代である。4月1日生まれなので、今年の3月31日で80歳代が終わる。ひと様は長生きだと言ってくれるが、それを特に意識したことはない。自分では、ものの考え方は30歳代40際代と同じつもりであるが、子供達から見るとやっぱり、強情張りになっているようである。
長生きしてきたら良い事が沢山あったろう、などと聞かれることがあるけど、それはどうだろうか。人にはそれぞれの人生があり、人それぞれが、それぞれの思い出を持ち、それぞれの思い出をどう評価するかであろうけど、思い出とは良いことばかりではないと思う。そんななかで、ここ2,3年のことだが、長生きしてきたお陰で、昔の懐かしい映画や懐メロが、簡単に見られたり聞けたりするようになり、いい時代になってよかったなあと思う時がある。嫌なこと悪い事ばっかりの世の中で、私にとって、ほんのささやかな”良いこと”である。
私の懐メロというのは、昭和4年(1929)の「東京行進曲」から、32年(1957)の「有楽町で逢いましょう」までの間の歌で、その後は散発的に、いいなと思う歌がある程度である。今の5人や6人が飛んだり跳ねたりして、カタカナ交じりで字余りの文学的価値のない歌詞を、ただ怒鳴るように歌うのは、どうしても受け入れることができない。あれは歌なんだろうかと思う。そんな今の時代に、私的基準の”いい時代”の映画や懐メロが見たり、聞いたりできるとは、率直にいい時代だと思う。これこそ長生きしたお陰だと喜んでいる。
昭和の終わり頃(1988~9)、ノストラダムスの予言で、1999年7月に人類が滅亡すると言う話が評判になり、五島勉の本が随分売れた。21世紀とか2000年なんて、遥か遠い先の夢の時代だと思っていたけど、もう21年目になってしまった。でも私にとっては、先行きの希望は精々1,2年単位でした望めない。ひょっとしたら目の黒い内には、緊張のない世界(東西冷戦が終わって10年位の間)や、格差のない日本社会は見られないと思う。男の健康寿命(介護や杖などなしで自由に動き回われる状態のこと)は71歳である。そのせいかどうか、最近はどこへ行っても私より年上の人間がいない。ただの平均寿命は80歳とかいわれるけど、年だけ取っても外出が難しいということであろう。ある意味で、怖いものがなくなってきた。時として傲慢になったり、上目線になったり、というようなことがないように、外へ出る時は十分心していかなくてはならないと自戒している。
(写真は懐かし映画のDVD)
おわり(2020.12.1 記)
長い間ご愛読頂いてきました「四季雑感」は60号の区切りのよい号をもってしばらく休刊とさせて頂きます。新年からは、月刊にて「ラテン・アメリカ民芸品の旅」と称する、ラテンアメリカ諸国の旅物語を連載いたします。政治や経済とはかけ離れた、地球の裏側の国々の旅情、民芸品、風情、過去のできごと、観光ポイント、日本との繋がりなどをご紹介します。どうぞご期待下さい。
樫村 慶一
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携帯電話と | 電卓の数字配列は | なぜ違うのだろうか |
2020年と言う年は、今の時点でもそう思うけど、この先、何十年、何百年か経ったときの歴史でも、きっと、地球上の生活様式に大変革が起きた年と言われるに違いない、と思うほど、今年のCovidは世界中の人間の生活を変えた。恐らく自然界の動物や植物の世界・生態も人間生活の変化にひきずられて、変わっているのではないかと思う。そんなことが起きていたって、別にいいじゃないかと人は思われるだろう。その通りであって、自分の生活や周囲に支障がなければ、人間は何事も問題にしない。それは些細なことから大きな政治問題まで色々ある。そんなことの一つに、これから書こうとしている、電話のダイヤルボタンと携帯電話のダイヤルの配列の違いがある。問題にするほどのことではないが。
私は、毎日使う携帯やプッシュフォン式固定電話と、時々使う電卓の数字の配列が違うのはなぜだろう、どうして統一しないのだろう、と時たま思う。数字の配列といえば、銀行のATMもちょっと違うような気がしていたら、これはネットに答がでていた。ATMの配列は銀行によって、また同じ銀行でも支店によって違うとか、それも、時々並べ替えるとか、ちょっと信じられないようなことが書いてあった。理由は、暗証番号が傍(はた)からみられて指の動きで悟られないようにするためだとか。ずいぶん細かいところまで、気を遣うもんだと感心した。
さて、本題の電話と電卓の違いだが、電卓そのものは最近は携帯電話の機能の一部にもあるので、そっちを使うことが多いと思うけど、携帯電話の中の電卓機能の配列もちゃんと電卓配列で、電話配列とは逆になっている。面白い現象だ。その違いについての答えを、50年以上前から続けている新聞記事のスクラップ・ファイルの中から偶然見つけた。以下に、2007年8月20日の朝日新聞「生活欄」に出ていた記事を拝借する。
電卓の配列はISO基準で、電話は我々(KDDマンにとっては)に馴染みの深いITUで決められている。外国では1914年に米国で作られた足し算、引き算しかできない「加算器」というのがあった。国産ではカシオが1957年に発売した電卓のルーツに当たる「電気式リレー計算機」が最初である。下から0,1,2・・と並んでいる。大きさは事務机と同じくらいの大きさで、数字ボタンは大人の親指位あった。60年代になって小さくなり机の上に置いて使えるようになり、「電子式卓上計算機」略して電卓になった。数字配列は下から 0、1,2,3が定着していた。
一方プッシュホン型の電話機は1960年頃に米国で実用化され、日本国内では1969年頃から利用されるようになった。上から 0,1,2と並ぶようになった経緯はNTTでも古い事で資料がないから分からない、と書いてあるが、餅は餅屋で国際先達のKDDなんだからITUに直接聞くとか、今でもITUと関わりのあるOBに聞けばわかるかもしれない。
どちらの配列が本当は使い易いのかということになると、電卓として計算に使う場合は、よく使う0や1が手前にある配置は人間工学的に正しいと言われる。しかし、電話式も合理的だと言う。縦横に並んだものを見る時、人間の視線は自然と左から右へ、上から下へとZを書くように動くので、左上から1,2、と始まる配列が探しやすい。電卓と電話は使い方が違うので、どっちがいいとは決められないと専門家は言う。どちらかに統一できないかと言う論争は過去に一度あった。1969年に、電電公社が数字の配列が違うのはおかしいと問題提起をした。先発の電卓メーカー側は電話の配列こそ再検討すべきだと、通商産業省へ申し入れた、しかし、双方とも「すでに国際規格できまったこと」として譲らなかったと言う。電電公社の技術者の中には電話の方を見直すべきと言う意見もあったが、大勢は「将来は計算機よりプッシュフォン電話の数が圧倒的に多くなるだろう」と言う意見が多かったからだとも言われている。確かにその通りになった。
どちらも慣れの問題だと思うけど、旧KDDも先見の明を持って、もっと早くから携帯電話事業に介入していれば(いろいろ複雑な事情があったことは知っているが)、今のKDDIも違った形になっていたかもしれない、など過ぎ去りし愚問を問うてみた。
(2020.10.5)
75回目の敗戦の日 | がやってくる | 改めて満州を思い出そう |
また夏がきて8月15日がやってくる。この日を日本人は終戦記念日と言うけど、敗戦記念日とは言わないのはどうしてだろうか。やっぱり、敗戦では記念日とは言い難いからだろう。とは言っても、敗戦は敗戦だ、終戦なんて体裁いいこと言ったって、あのコテンパンな負けざまを見ている人間には、むしろ終戦という方がおこがましく感じる。国土も家も家族関係もなにもかもが、徹底的にやられたあの日、15歳はもう大人だった、大体のことは知っている。終戦なんてよくも体裁ぶったことが言えたものだと今でも思う。
この話を読んで、なんと言ってよいのやら、当時の緊張した時代を少しだけしか知らない私には、”えーー 本当かよ”と、しばし茫然となった。戦時中の軍歌には替え歌がいくつかあるが、その中でよくでてくる歌詞で 「女を乗せない・・・」と言うのがあり適宜歌詞を挿入するのだが、まさにその真逆をいったのだ。
最近読んだ本で「関東軍 神州不滅特攻隊」の若い将校が2人、それぞれの飛行機に女を乗せてソ連軍戦車に突っ込んだという衝撃的記事を読んだ。昭和20年8月⒚日、敗戦から4日後のことで、ソ連軍へ降伏するため南満州の大虎山航空隊から11機の残存飛行機(97式戦闘機を改造した練習機)を錦州飛行場へ移送し、ソ連軍へ引き渡す命令を受けた若い少尉達が、命令に反して特攻を敢行し、そのうちの1機は新婚の妻を、もう1機は恋人を載せてソ連軍戦車に突っ込んだ、という話である。
21歳から26歳までの若い将校をここまで駆り立てたのは、8月14日に同飛行場を飛び立った偵察機の乗員が、ソ連軍戦車隊による日本人に対するすさまじい蛮行を目撃したからである。「葛根廟事件」と言われるこの虐殺事件は、日本人移住者の婦女子約2500人が集団で避難しているのを丘の上から発見したソ連戦車隊が、ウサギを追うように戦車で次々とキャタピラーに巻き込み草原に無残な光景を描きだしていた。これを上空から目撃した乗員が基地に帰り報告した。この乗員は数少ない加藤隼戦闘隊の生き残りで操縦技量、偵察能力にすぐれたパイロットだ。⒚日の特攻隊の実質的指揮官である。基地のある大虎山付近にはより多くの日本人居留民がいるので、このままでは大変なことになると思い、ソ連軍に敢然と立ち向かう決断を下したのだ。
そのための機会は集団でまとまった飛行をする19日しかないと考えた。昭和20年8月19日夕刻、大虎山飛行場には最後の飛行を見送ろうと大勢の日本人が集まっていた、その中に日傘を差した二人の白いワンピースを着た女性が飛行機のそばに立っていた。だれもがただの見送りと気にしなかった。軍用機ましてや特攻機に女を乗せるなんて最高の軍規違反である、が、すでに戦争は負けたのだ。男と女のどちらから言い出したのかは分かるよしもないが、新婚の夫も、将来の夫かもしれない少尉も断り切れなかったのだろう。将校の妻には帰還列車に優先乗車の権利があったのを放棄したのだ。計画を知った基地司令官が、「ソ連軍に突っ込むなんて重大命令違反だ、貴様ら11機が体当たりしても露助はビクともせん、無駄死だ」と声を荒げた。これに対し11人は「無駄だと言う理由で特攻を止めるなら、今まで散った仲間に合わせる顔がないじゃないか」と答え、葛根廟の悲劇を知っている皆は、「この体当たりでたとえ少しの時間でもソ連軍の南下を食い止めて、少しでも多くの帰還者が無事に南へ逃げられるよううにできれば本望だ」と答えた。
11人は白い鉢巻をしめ、エンジンを始動させたその時、先ほどの二人の女性が、喧噪の隙をつき日傘を捨ててさっと搭乗した。それを目撃した人々が「女が乗ったぞー」と口々に叫んだが、その声はプロペラの音と小旗を振る群衆の歓声にかき消された。二人の女性は搭乗機の中で身を屈め群衆から見えなくなった。しかし後年、生き残りのH少尉が書いた手記「学鷲の記録、積乱雲」によると、どちらかの女性の黒髪がなびいていた、と書かれている。離陸後、飛行方角が違うのに不審を持った残留飛行兵が行き先を悟り、跡を追おうとしたが、もう大虎山飛行隊には飛べる飛行機は1機もなかった。11機が到着するのを今か今かと待っていた錦州飛行場では、ソ連軍に突入するとの連絡を受け、びっくりして隊長みずから飛行機で大虎山にやってきた。事情を確認して直ちに北方の空へ飛んで行ったが、ついに、11 機の攻撃の痕跡は発見できなかったという。
敗戦後、女を乗せた特攻機ということで、元軍幹部たちは彼らを切り捨ててきたが、紆余曲折を経て敗戦から12年目の1957年(昭和32年)に靖国神社に合祀された。さらに1967年(昭和42年)5月になり通称世田谷観音に「神州不滅特別攻撃隊」の碑が建てられた。しかし、新妻の死については、ずっと生死不明のままだったので葬式できないでいたが、色々な人たちの証言や協力により、1970年(昭和45年)になってようやく夫と同じ日付けの死亡告知書が県から届けられた。そして敗戦後25年もたって晴れて妻として同じ墓地に収まることができた。一方、恋人同士の結末は何も知らされていない。故郷に正式な婚約者がいたので遺族が話したがらなかったためであった。
この話は、単なる昭和の秘史とか夫婦愛の美談とかではなく、戦争が生んだ残酷な悲劇的な運命の物語といえよう。しかし、女を乗せない特攻機に、女性が乗っていたなんて、確かに悲劇ではあるが、カーキ色一色の世界に紅の雫を2滴も垂らし、前人未踏の艶模様を作ったことは、大和撫子の愛の強さを改めて知らしめ、軍神もやはり人間であったということの証であろう。
(2020.7.1 記)
<参考:角川文庫 豊田正義著 妻と飛んだ特攻兵より>
マスク亡国論 |
マスクなしでは、外を大手を振ってを歩けないご時世になった。世の中は日進月歩というけど、マスクの値打ちが日進月歩したわけではないが、今から82年前(1938年昭和13年、盧溝橋事件が始まった年の翌年)の日本は、どうやらマスクをかけるのが常識であったらしい。スペイン風邪はとっくに収まっていた時代なので、この年が特にマスクをかけるのが奨励された理由は分からない。1938年12月27日の朝日新聞の投書にこんなものがあった。(私の新聞記事コレクションより)。不謹慎のそしりを受けるかもしれないが、興味があるので紹介する。
『冬になるとマスクをかけるのがどうやら常識となったらしい、病人や老人はかりではなく、血気盛んな青少年までも皆こぞって異様な鼻かくしを耳から吊って得々してゐる。色彩からいっても、黒、白、赤、形からいっても大きな絆創膏を張ったやうなものや、鴉のくちばしをはったやうなものや、二枚貝に口をはさまれたやうなものや、実に多種多様である。
失礼ながらマスクをかけなければ感冒が予防できないと思う人は、ふだんとかく口の締りの悪い人ではないか。鼻や口に蓋をするよりは空気をきれいにし、身体を丈夫にしようじゃありませんか。襟巻に首をうづめ、この時節に親の仕送りで皮手袋などをはめ、口にはちょこなんとくちばしをつけてゐる、 醜悪極まる青年を興亜の大業を担って立つ日本から追放しようではないか。』1938(昭和13年)12月27日(粗面生より)
(2020.6.20)
Stayhome | を聞いて | 思い出したこと |
緊急事態は解除になったけど、Covid-19のパンデミックが起きて以来、表題の言葉をよく耳に目にする。そして、スペイン語圏の友人(30年以上前の古い話なのでペルー人だったかアルゼンチン人だったか定かではない)がかって、英語は言語学的にはスペイン語より800年遅れている、と言っていたことを思いだした。どうゆうことか聞いて、いろいろ理由があったよう思ったが、その中で覚えていることを思い出してみると、800年遅れはともかく、たしかに、なるほどと思うことがいくつかある。
Stayhome(米国の言い方、英国系はstayathomeが多い)と言う言葉は、上から下まですべての階級の人に等しく語りかける、二人称の一つだけのパターンだと思う。ところがスペイン語には相手との関係により二つの言い方がある。こうゆうことも、友人の言ったことの理由の一つだったように思う。どうゆうことか並べてみよう。
① 英語は発音が曖昧で聞いたことを記述するのが難しい。例えば語尾が、アー という場合、英語では ar er or ir など、同じ発音でもいろいろな書き方があり、初心者や英語圏ではない人には分かりにくい。かって大流行したインフルエンザの SARS と MERS も、サーズ、マーズでどちらも アーと発音する。スペイン語ならサールス、メールスになる。この曖昧さが発展途上だという一つの理由だ。 スペイン語では、聞いた通りに書けばほぼ正解である。ローマ字で書くのと良く似ている。母音には発音が一つしかないし、最後の子音のrを発音するので、アールはar (trabajar=トラバハール、働く)、エールはer(comer=コメール、食べる)、イールはir(vivir=ビビール、生きる)、と言うように明快だ。
ただ、発音は同じなのに文字が違うのが幾つかあり、慣れるまでは少し戸惑う。例えば、サ行の子音はs とz の区別がつかない(スペイン語圏の人間でも間違うことがある)。ハ行はややこしい、ハ=faとja、ヒ=fiとgi、フ=fuとju、ヘ=feとge、ホ=foとjo。ラ行ではrと l が日本人には聞き分け難い。
ジャジュジョはyとllが使われる。例えばyacer=ジャセール、横たわる、yudo=柔道、yo =ジョ、私、と llamar=ジャマール、呼ぶ、lluvia=ジュビア、雨、llorar=ジョラール、泣く、の両方があるなど、始めは戸惑う。なおllは少数派だがリャと言う人もいる。話はちょっとそれるが、スペイン料理の海鮮炊き込みご飯をパエリアと言うのは間違いで、”paella=パエージャ”が正解である。磁器のリヤドロもジャドロが正しい。
② 人称は英語もスペイン語も1人称、2人称、3人称とあるのは同じだけど、スペイン語には直接の相手、つまり2人称には相手によって3人称を使うことも多い。どうゆうことかと言うと、2人称は、君とかお前とか、親しい友人とか、家族親戚間とか、自分と同列か目下の人に対して使う。それに対して、初対面の人とか、”あなた”と呼ぶような関係、先輩、上司、或いは社会的地位のある人など、要するに、君とかお前とか言うのは失礼である相手には三人称を使う。こうした相手には直接呼びかける形ではなく、何らかの社会的地位の象徴である肩書に対して、話しかける形を作る。つまり、相手の名誉や肩書は人ではないので3人称になる、そのため相手を呼ぶのに3人称という変則な形になるのだ。英語だと、大臣に対しても乞食に対しても、二人称はyouで通用するのだろう。偉い人にはそれなりの肩書をつけるだろうけど。この辺も言葉の進歩という点でスペイン語が勝っているように思う。それとも単なる権威主義の名残というべきなのか、私には分からない。
③ 敬語表現が多い。歴史を見ればお分かりの通り、ラテン語(注)が発展してきたイタリアを始めイベリヤ半島やヨーロッパ本土には、かっては王制国家が多く権威主義が国の体制の主流だったことから、格式ばった体裁ぶった見栄を張る社会習慣が強かった。だから、前記のように、相手に対して、相手個人に直接話しかけるのではなく、相手の肩、胸に飾られた”名誉を通して申し上げます”、というような形になった。そこで、名誉や飾りは第三者であり、三人称ということになる。ややこしことである。その結果 stayhomeの場合も、スペイン語では「家にとどまっていろ」と言う言い方と、「どうか、家にお留まり下さい」の二つの言い方ある。スペイン語でstay と同じ意味の”とどまる”という自動詞はquedar という。動詞の変化は100以上あるが、この動詞の命令形として、お前、君に対して”とどまれ”は quedate (ケーダテ)となり、”お留まり下さい”では quedese (ケーデセ)と変わる。上から下まで stay 一つしかない英語より、相手によって言い方が二つあるスペイン語の方が、やっぱり進歩しているように感じる。丁寧な言い方には、英語の please に相当する言葉は当然あるし、名詞と形容詞やをつけた補足語で”どうか”とか”すいまませんが”という意味にしたり、動詞の変化を変えたり、まったく違う構文にしたりして、他にも言い方があるし、多彩な表現もできる。
(注)ラテン語:ローマのごく小さな地域ラティームで使われていた言葉で、ローマ帝国の公用語になり発達した。
後裔の現在の俗ラテン語とは、スペイン語、ポルトガル語、イタリヤ語、フランス語、ルーマニア語を言う。
④ 感情を込める言い方が日本語と同じようにできる。たとえば、”なにかが出来るか”という質問をする場合、・・・ができるか? と単刀直入に聞く場合と、・・・できますでしょうか?↑と、語尾を少し上げ態度を少し引いて丁寧に聞く聞き方がある。この例の場合の動詞は ”出来るpoder”という動詞だが、君とかお前の間柄で聞く場合は直接法の二人称 ¿puedes?(できるか?)、貴方などの場合は三人称 ¿puede?(できますか?)になる。さらに丁寧に聞く場合は可能法と言う変化があり podría (できますでしょうか?↑)となる。 特に可能法は実際に会話で使うと感情がよく表れる。英語だとどうなんだろう、こういった微妙な言い方があるんだろうか。テレビなどで日本語に翻訳する場合は、言っている相手によって翻訳者が若者言葉から上品な言葉にまで、言い換えているんだと思う。
40年近い昔に聞いたことを思い出してみたけど、800年進歩しようが遅れようが関わりないが、自分自身のスペイン語の知識が急激に脳細胞から消えていくのが、たまらなく寂しい。世のかな嫌なことがいっぱいあって、卒寿なんて目出度くもなんともないことがようく分かったきた昨今である。
(2020.5.28)
(ここに書いたことは、私の忘れかけたスペイン語と未熟な英語の知識だけでまとめたものです。間違っている個所があるかもしれません。お気ずきの場合は、どうぞ、下記までご連絡ご指導ください。よろしくお願い申し上げます。)
k.kashimura@ac.cyberhome.ne.jp
今年は、 | ”日本海海戦115周年” | ー 私の独自研究の秘話 |
私は年紀に割合こだわる人間である。今年は何があった年だったかな、と考えることがよくある。アルゼンチンの不世出の国民的大歌手カルロス・ガルデルがコロンビアで飛行機事故で死んでから今年は85周年になるし、敗戦から75周年だし、日露戦争が終わった明治38年(1905年)から数えて115年目でもある。まもなく5月27日の今はなき「海軍記念日」がやってくる。
明治38年の5月27,28日、日本海海戦で大勝利をおさめて日露戦争は終り、日本はロシヤから樺太の北緯50度以南の領土、旅順と大連の租借権、それに旅順~奉天(瀋陽)の鉄道経営権を獲得した。その後この権益を基に1932年に満州国を建国した。日本の3倍もある広大な国だ。そのためには多くの犠牲者も出た。中でも旅順の203高地の戦いでは10万人以上の戦死者を出した。それほどまでにして手に入れた貴重な領土を、理由は色々(注)あったのだろうが、大馬鹿としか言いようのない軍部は、太平洋戦争などという愚かは戦争を起こし、いともあっさりと貴重な国土を失ってしまった。あのままだったら満州だけでなく、朝鮮半島、台湾、国連委任統治地のグアム、サイパンなどの膨大な地域が、パスポートなしの国内旅行で行けたのに。生まれた時から無かった戦後人間には、ただの歴史の一齣にすぎないのだろうが、なまじっかよく知っている戦前派年寄りには残念で残念でたまらないことである。
(注)北からロシアの南下、米国のフィリピンを経由した圧迫、フランスの印度支那への干渉、
英国のインド、ビルマ、マレーシアへの進出、オランダのインドネシアへの侵略など、日本
を囲む周囲の圧力のこと。
話がそれてしまった。ここでのお話はそんな死んだ子の年を数えるような愚痴話ではなく、私が地球の裏側で偶然に出会った1台のピアノにまつわる、日本海海戦の猛火の下、岩陰に根ずく小さな珊瑚のような愛すべき秘話である。
東郷元帥が率いる連合艦隊の主力第一艦隊は、4隻の戦艦と2隻の重巡洋艦から編成されていた。この2隻の重巡はアルゼンチン海軍がイタリアの造船所に発注していた軍艦で、それを日本が懇願して153万ポンド(当時の邦貨で1500万円 注)で譲渡してもらったものである。明治38年2月に横須賀に着いた2隻は、モレーノが日清、リバダビアが春日と命名された。
(注)当時、アルゼンチン、チリ、英国の間に複雑な関係があり、アルゼンチンも発注した軍艦を売らなければならない事情があった。
5月27,28日の海戦の模様は、観戦武官として日清に乗艦したアルゼンチン海軍のドメック・ガルシア海軍大佐の観戦記をはじめ、司馬遼太郎の「坂の上の雲」とか岡本好古著「日本海海戦」などいくつかの記録本、文献が発表されている。アルゼンチンでは「対馬海戦」と呼ばれている。
この春日の士官室に1台のピアノが置かれていた。2隻の巡洋艦には家具調度品などがすべてそろっていて、いわば家具付きの状態であった。ピアノは、誰が弾くのか分からないが、もしかしたら、乗船が決まっていたアルゼンチン海軍の将校が、自分用に注文したのかもしれないとも言われている。このピアノはトリノにあったG.MOLA社製のアップライト型である。
日本海海戦の一番の焦点は、東郷司令長官の敵前回頭であろう。対馬海峡の東側から北上するロシア艦隊に対して、朝鮮半島の鎮海湾基地から南下する連合艦隊は、ロシヤ艦隊の西側(左側)をすれ違う形になる。それでは、討ち漏らした敵艦がウラジオストックへ逃げ込む恐れがある。そのために東郷長官がとった戦術が世紀の大博打とも言われる敵前回頭である。3列縦隊になって北上する敵艦隊との距離が8千米近くになったところで(海の上で8千米は目と鼻の先)、敵の頭を押さえるかのように、東側(左折)へ直角に曲がり(取り舵)、進路を妨げる形をとった。2列縦隊の連合艦隊の全艦が曲がり終えるまでは敵に横腹を見せて無防備状態になる、そこへロシア艦隊は猛砲撃を加えた。先頭の旗艦三笠や殿の春日が一番敵弾を浴びた。回頭を終え、敵艦隊の旗艦スワロフとの距離が6500米になったところで、右舷の大砲をそろえ一斉砲撃に出た。
横に並んだ形の連合艦隊第1艦隊は、右から三笠、敷島、富士、朝日の戦艦(15000トン級)と新着の重巡洋艦春日、日清(7628トン)の6隻である。全艦の右側砲塔から一斉に砲撃が開始された。5月27,28日両日にわたった海戦において、連合艦隊は大勝利を博し、最終的にはロシアの艦隊28隻(軍艦のみ、輸送部隊を除く)のうち、ウルジオストックにたどり着けたのは、巡洋艦アルマーズと2隻の駆逐艦だけであり、残りのうち3隻はマニラまで逃れて武装解除され、1隻は漂流しているところを英国貨物船に曳航されて上海にたどり着いた。残りは連合艦隊に撃沈されたり、拿捕されたり自沈した。これに対する連合艦隊の損害は、わずか水雷艇3隻だけであった。春日も他の僚艦同様相当な砲弾を浴び、士官室も被弾したが、なぜかピアノは奇跡的にかすり傷ひとつ負わなかった。ロシア艦隊総司令官ロジェストヴェンスキー提督は負傷して捕虜になった。戦死者は連合艦隊が88名、ロシア側が6000人に上ると言う圧倒的な連合艦隊の勝利であった。
この海戦には観戦武官としてアルゼンチン海軍のドメック・ガルシア大佐(後の海軍大臣)が日清に同乗し、海戦の模様をつぶさに観察、後に詳細な報告書をまとめた(後日海上自衛隊の教材になった)。ガルシア大佐は日清、春日がイタリアで建造中に、監督官として駐在していた将校であり、さらには英国海軍兵学校で東郷長官と机を並べて勉強したという因縁から、日清への乗艦観戦が認められたものだと思う。
日露戦争が終わってから5年が経った1910年、アルゼンチンは建国100周年記念に沸き返っていた。日露戦争を契機として日本とアルゼンチンの友好関係は一挙に深まっていった。そうした関係から、日本政府はアルゼンチン建国100周年記念行事に参列すべく、日本ではじめて建造された巡洋戦艦「生駒」を派遣した。生駒はケープタウン周りの航路をとり、4200カイリの長旅を経て5月15日にブエノスアイレスから400キロ南のベルグラーノ軍港に投錨した。この生駒には「春日のピアノ」や、日清の砲弾の穴があいた舷側の鉄板なども積まれていた。これらは友好関係の贈り物としてアルゼンチン海軍に返還され、海軍博物館に保存され、両国の友情を永遠に記念するという爽やかな歴史物語の主役になった。奇跡のピアノはイタリヤからアルゼンチンまで、随分遠回りをし、5年ぶりに本来の落ち着き先に帰ってきたのである。
私がこのピアノに興味を持つようになったのは、アルゼンチン在住中のある日、家族とドライブがてらラプラタ川上流の水郷地帯にあるリゾート地ティグレを訪れた。そこは博物館や美術館、図書館などがある文化の香り豊かな景勝地である。その一角に海軍博物館があった。入って日本には珍しい海賊船の大砲などを見物しながら、「思い出コーナー」という部屋に入り、驚いた。
壁一面に昔の日本海軍の軍艦旗と、海戦を描いた油絵が2枚掛かっていて、その下に1台の茶色のピアノが置かれていた。軍艦旗は風にはためいているかのように、壁に止められている。明治、大正、昭和3代にわたって活躍した和田三造画伯が描いた海戦画の1枚の額縁は、砲撃で焼け落ちた三笠のマストを使って作られたといわれ、焼け焦げが何か所も残ったままだ。説明書を読んだり、館員に聞いたりして、なぜ此処にピアノがあるのか、なぜ軍艦やら海戦場面を描いた絵があるのかなど、その理由がようやく分かった。そして改めて感激したものである。
しかし、私にとっては、過去の一つの記憶として脳裏に残っていただけで、日ごろ特別は意識を持っていたわけではなかった。
そして、2005年がやってきた。古い人間の間や新聞テレビで、日露戦争100周年に関する報道がなされ、インターネットの記事も増えてきて、私の脳裏にも、あのティグレの海軍博物館にあったピアノが蘇ってきた。以前上映された映画「戦場のピアニスト」というタイトルを思い出し、軍艦とピアノという奇妙な取り合わせに興味を感じ、改めてその故事来歴が知りたくなり、資料を探し始めた。しかし、日露戦争そのものや、海軍の日本海海戦や陸軍の203高地争奪戦などの模様を描いた本は沢山あるし、ネットにもいろいろアップされているものの、ピアノに関する記述があるものは皆無であった。図書館へも行ったがついに見つけることはできなかった。
やむなく、ピアノがある海軍博物館に直接当たってみようと思い、博物館に近いところに住んでいる親しい友人に依頼して博物館にピアノに関する資料を紹介してもらった。その結果、ティグレ市のサルミエント公衆図書館が発行するPR誌の2005年4.5月合併号に、日本海海戦100周年に因んだ「春日のピアノ」という題名で海戦の模様や、上記に記したピアノの奇跡な運命などが詳しく書かれた、特別記事が発表されたことを知らされた。そして友人の計らいで私に原稿のコピーを送ってくれた。図書館のPRのためとはいえ、日本ではやらないような、日本海海戦の戦闘の模様とともに秘話とも言えるようなエピソードを、特集として発表したのは素晴らしい企画だと感服し尊敬したものである。
1台のピアノにまつわる物語はこれで終わる。しかし、なぜ春日にだけピアノがあったのか、備え付け家具の一つだったなら、日清にも積んであったんではないかという憶測もできる。それとも日清は、”T字戦法”で敵前反転したときに先頭艦になるなど目標になりやすかったため、損害は三笠についで大きなものだったので、壊れたか燃えたかしてしまったので、全く話題にならなかったのかもしれない。それにしても幸運なピアノである。
2009年暮れに始まったNHKの長編ドラマ「坂の上の雲」のプロデユーサーにピアノの件について尋ねてみたところ、原作にないのでドラマには取り上げられないとのことだった。結局、「春日のピアノ」は知る人だけが知る小さな小さなエピソードに過ぎないが、その価値は日本とアルゼンチンとの友好が続く限り、ティグレの海軍博物館に愛蔵されている限り、永遠に輝き続ける一粒の宝石のように思える。
それにして、80歳以上の老人を除いて日露戦争なんてとっくに遥か歴史の彼方に葬り去られた感があるにもかかわらず、軍艦を譲ってくれただけのアルゼンチンが、いまだに毎年5月に海軍博物館で記念式典を行っていることを我々はどう受け止めるべきか、私にはその答えが分からない。今年もまた115年前の歴史が蘇ることであろう。
終わり
(2020.5.1記)
この小文は、ラテン音楽雑誌ラティーナ2010年6月号(105年紀)に掲載したものを改定したものである。
参考文献:
アルゼンチン・ブエノス・アイレス州ティグレ市、サルミエント公衆図書館発行月刊誌
「ペルスペクティーバ」2005年4/5月号 (スペイン語)
「日本アルゼンチン交流史 1998」
アルゼンチン国立海軍博物館公文書「ピアノの受領について(1931.5.19)」(スペイン語)
志賀重昂著 「世界山水図(抜粋)」 (日本アルゼンチン協会提供)
学習研究社発行、岡本好古著「日本海海戦」
PHP研究所発行、柘植久慶著「旅順」
文芸春秋発行:司馬遼太郎著「坂の上の雲(第六巻)」 ***
残り火が | つきる前に・・・ |
私の生まれた1930年は分かりやすい年号配分である。今年は2020年、生まれてから何年経ったかは小学校1年生でもわかる。 ”よわい”を重ねるということは、神経的(思考、運動両面)、肉体的、本能的(注)に弱ってくることだ。後どのくらいあるのか分からないが、せめて残り日を楽しく笑って過ごしたいと思っているが、いたずらコロナ坊主が邪魔をするのが癪にさわる。それはそれとして、本号では、歳をとったたら後々の為にやっておいた方がいい、と思うことを私の経験から披露しようと思う。
(注)5大本能とか言われる、名誉欲、出世欲、性欲、物欲、食欲。まだ食欲は快飲快食中。)
1.お墓を作ること
すでにお持ちの方、田舎の実家の墓に入るつもりの方は無視して頂きたい。練馬区の大江戸線豊島園駅前に11軒のお寺が並んでいる。大正12年の関東大震災で下町で焼け出された浄土宗のお寺が集まって移転してきたお寺団地である。17年前に豊島区へ引っ越してきた私達夫婦は、ある春の午後、散歩の折このお寺団地の前を通りかかった。一軒のお寺の前に石屋が机をだして一生懸命お墓の売り出しをやっていた。すでに結婚して家を出ている娘達に、将来墓を作らせるのは可哀そうだから自分達で作っておこうと、その場で契約した。しかし後で考えたら、もう少し宗派のことを研究すべきだったと後悔した。なぜならば、浄土宗にはジェネリックともいうべき浄土真宗がある。新しい信者を獲得するには、入信条件を元祖より簡素化しなければならないので、それなりに簡略化されている。すなはち、浄土宗は南無阿弥陀仏を10回となえれば極楽へ行けると言うのに対し真宗は1回でよい、戒名は前者が最低4文字から布施額に応じて院号まであるのに対し、後者は全部で3~4文字、(釋と尊の間に本名の字を1~2つ入れるだけ)、前者は塔婆を立てるしきたりがあるが後者にはなし、と経済面で大きな違いがある。更になにより大きな違いは、前者は女人禁制だが後者は色恋自由になっていることである。いずれ要るものだから、まだの方は、精々研究されるといいと思う。
2.古い写真の整理
K-unetの会員は全員が昭和生まれだと思う。だとすると、アナログ時代の写真がたくさんあると思う。それらはプリントされたものが何冊ものアルバムに貼られて、戸棚やクローゼットのかなりのスペースを占領しているに違いない。子供や孫になると、親や爺さん婆さんの写真にはあまり興味を示さない。そこで、私はアルバムから剥がして1枚ずつスキャンし、パソコンに取り込んで年代順に整理した。70冊のアルバム処理を気の向くままに、気長にやったのでほぼ2年かかった。スキャンなのでピントが甘くなるので、鮮明にするアプリを買った。
剥がした写真は、燃えるものなら何でも引き受けてくれるお寺が都内だけで数か寺あり、お焚き上げと称して、ダンボール1箱を3000円~5000円のお布施で処分してくれる。私は神楽坂のお寺に頼む。例年6月に祈祷会があり、埼玉県の所領?に運んで焼くのである。あとで証拠に焚き上げ現場の写真と証明書を送ってくる。朝日新聞社の関連会社が、スキャンしてくれるサービスをやっているが、アルバムに張った写真の上の透明フイルムの上からスキャンするので、鮮明度が落ちるのと、1枚1枚のスキャンではなく1ページ全体なので、後の始末がしにくいのでやめた、料金も高い。
3.戒名の授戒
これは是非とか絶対という話ではなし、常識的でもない。でも「生前戒名の進め」なんていう本もある。お通夜の日に付ける戒名の方がずっと高い布施(15万円~30万円位)が入るのにと思うけど、何故かお寺は推奨する。私は二つの理由により一昨年につけた。一つは、上記に書いたように安く済むこと。娘達に負担させなくても済むようにとの思いである。もう一つは、自分の好きな名前で作れることである。私の生涯の趣味の源泉であり、心身の研鑽の場でもあった「ラテンアメリカ」をもじったものにしたかったからである。浄土宗は4文字(〇〇信士、信女)から院号の付く10文字くらいまである。院号居士となると生前戒名でも100万円はかかる。生まれた時の新しい名前が僅かな手数料だけなのに、使うことなどない死後の名前が何十万円もするのが不思議でならない。さりとて戒名がないと寺が葬儀をしてくれないので、こればっかりは仕方がない。私が作った理想戒名の一字が浄土宗では使えないと住職が苦情を言ってきた。それじゃ止めるといったら、私の裁量で認めましょうと手の平を返した。戒名は住職の専決事項だそうだ。こうしておけば、死んだときにはお寺へのお経料だけですみ、葬儀は随分と経済的に上がるという寸法である。今は”現世と来世”両方の名前を背負って生きている。
4.遺言の作成
作ろう作ろうと思っていても、なかなか腰が上がらないことの一つに遺言作成がある。自分はまだまだ生きていけるという自信というか、そんなものはまだ早い、縁起が悪いという思いか、いずれにしても思いだけで動かないのは、結局億劫だからだと悟った。娘が公証人役場の予約をしたのでやむなく出かけた。そして、あまりにも簡単でかつ費用が安いのに驚いた。これこそが、まさに「百聞は一見に如かず」の例えそのものである。
初回は顔合わせである。遺言の内容は大きく分けて、不動産と金融資産に分けられる。不動産については、評価額が証明されるものが必要なので、何が必要かあらかじめ電話で聞けばよい。金融資産については何もいらない。銀行名、証券会社名を口頭で告げるだけで、金額は不要である。それはそうだ、遺言を作った後でも預金の出入りがあるからだ。役場の書記の小母さんに、不動産は誰に、〇〇銀行は誰に、▲▲銀行は誰に、と告げる。配分率は法定遺留分を考慮しなくても決められる(侵していても有効)。公正証書遺言の効力は絶対で裁判の判決同様の効力があるので、配分率に同意できな場合は遺言無効の民事裁判を起こさなくてはならない。差をつけるのはそれなりの理由があるわけで、相続権があるのにゼロのような場合を除き、面倒なので何とか納まるものだと公証人は言っていた。
以上が主文になり、贈与者に事故や死亡などで変動があった場合のために「予備的遺言」、いわゆる第2案も書ける。そして、なぜそうゆう風に分けたかの理由と言うか心情を述べる「付言事項」という欄があり、言ったことを書記が書いてくれる。、親に孝行した子供とそうではない子供とで、差を付けた親の気持ちが伝わるという塩梅である。以上は全部口頭でしゃべればよい。数日すると下書きをメールで送ってくれるので、細かい字句の修正まで含めても2~3回のメール往復で完成し、次回訪問を予約。
2回目は実印を持って役場へ行けば、役場で用意した保証人という年寄りが二人待っている。保証人屋ともいうべき人間で、過去に法曹業界にいた隠居老人のアルバイトである。遺言書の読み合わせをしてこれで結構となれば本人、二人の保証人が実印を押して終わり、10分も待つと遺言書本文、謄本の2通が出来上がり、原本は役場で保存してくれる。封もなにもしてないので、公正証書遺言は原則オープンだ。原本が公証人役場にあるので、誰に見せても改ざんされる恐れはないし、秘密にするかどうかは依頼者の自由ということである。
費用は思ったほどかからない。料金は不動産価値と相続人の数で決まる。マンションの場合は土地面積が小さいので比較的安くすみ、(金融資産の額は関係ない)保証人2人の謝礼14000円(一人7000円)を含めて10万円以内で収まる。今年7月から個人遺言書の扱いが若干簡素化されるというが、裁判所へは2度行かなくてはならないし、面倒くさい。それに引き換え公証人役場はあちこちにあるし、自分ですることはなにもない。私は、公正証書が一番簡単だと思う、億劫がっている方は、是非今年は思い切って腰を上げられてはいかがかと思う。
5.物品の始末
90年も生きてくると雑多な品物がたまってくるのは仕方がないことである。問題は、それらをどう始末をつけるかだ。本、新聞記事・雑誌のスクラップ、趣味の中南米の民芸品コレクションなど雑多である。民芸品は愛着があってなかなか始末ができない。東京へ出てくる際に、競売とか人に譲るなどして随分処分はしたが、まだまだ残っている。本当は1か所に纏めて引き取ってもらいたくて、適当な場所を探したがうまくいかない。やむなく、まだ居間に飾ったままになっているものがかなりある。いよいよ先行きが見えてきたときに、友人知人を集めて形見分け会でもやろうかなどと考えているが、まだいいかと踏ん切りがつかない。まだはもう、という言葉があるので、先読みを誤らないようにしないと、と気は使っているのだが。結局娘に後始末を頼むことになる恐れも十分ある。
私なりに考えた終活は上記のようなことである。残った物は娘の手には負えないだろうから、その道のプロに任せることになるだろう。目の黒いうちに出来るだけのことはしておいてやろう、というのは親馬鹿の類かもしれない。
(2020.3.1 記)
アバディーン・アンガス牛の話
皆様 明けましておめでとうございます。
そうは言っても、国内は騒然、世界は混沌、地球環境は生物の終焉に向かって加速度的に悪化している。そんなことを考えると、何がおめでたいのかと言いたくなるのだが。昨年秋にはやっぱり訃報が何通か届いた。卒寿ともなると同輩諸氏も段々いなくなっていく。KDDの友人知人との交際範囲が狭まっていくので、その代わりではないが、近年は会社以外の人との付き合いを広げることを心している。
今年2020年、2度目のオリンピックがやってくる。56年振りである。今の世界にはおよそ200の国と地域がある。地域とは、台湾、香港、マカオ、パレスチナ、プエルト・リーコ、南極などだけど、この中から何か国・地域が来るのか知らないが、とにかく世界中から来る。初めて来る極東の小さな国では、どんなものが食べられるかは、心配ごとの一つだと思う。でもそれは恐らく来てみて杞憂に過ぎなかったことが分かるであろう。日本は世界でも有数な万国食通国だから、必ずや気に入った食事があるはずである。イスラム教信者を除いて大体は牛肉や豚肉、それに鶏肉を食べる。私は、世界で1,2を争う牛肉王国で暮らしたことがあるせいか、牛肉には目がない。新年早々なので、食べ物の話でもいかがかなと思い、牛肉を話題にしてみた。
今、東京で食べられる牛肉は、国産、オーストラリア、米国、メキシコ、アルゼンチン、それにわずかにウルグアイなどの肉だが、和牛というのは、日本牛の種を輸出して現地で育てたものも和牛というので、日本産ばかりではない。和牛はご存じのように、”さし”がはいっている。これは脂だから火が通ると白くなる。脂が多すぎるので私は和牛は好きではない、和牛を食べるのなら、しゃぶしゃぶが一番脂を少なくする方法である。
赤身が多く柔らかいのがアバディーン・アンガス種だ。これを略してアンガス牛と言っている。元は英国のアバディーンとアンガス地方で生産された種族だが、今では米国産とオーストラリア産が主流である。ステーキ専門レストランでは、昨今赤身のメキシコ牛が美味しい。昨年からアルゼンチン牛も輸入され始めた。しかし、おいしさとか生産量などの世界的ランキングでは、トップはオーストラリアかアルゼンチンかということになるのであるが(昨年テレビでも味比べがあった)、今、日本に輸入されているアルゼンチン肉は、南緯50度(マゼラン海峡付近)以南の、南極に近く一年中強い風が吹いている地域で育った牛なので、肉が締まっていて固く、世界1,2と言う評判とはまったく違う。それゆえ、今はアルゼンチン肉はお勧めできない。本格的に中部の大パンパ(草原)で育ったアンガス牛が入ってきたら、世界1,2の貫禄を示すと期待し、首を長くして待っている次第である。
米国とオーストラリアの違いは餌の違いだ。米国は玉蜀黍が主食だけど、オーストラリは牧草である。アルゼンチンもアルファルファー(日本名ムラサキウマゴヤシ)と言う牧草を食べて育つ。根が地中長く伸び栄養豊富な野草で1米くらいになる。これが地平線まで続く大草原に一面にはえており、牛は朝起きて太陽の動きに合わせ体を回転させて足元の草を食べ、陽が落ちると寝る。足元に無限にあるので餌を求めて歩く必要がないので、体に柔らかい肉がたっぷり付いている。
近年は、肉を寝かせることで旨みが増すという「熟成肉」(ドライエイジングと言う)が評判になっているが、早く言えば腐らせることで、本当に腐る直前で食べさせるのである。温度1~2度、湿度70~80%の熟成庫内で1か月以上乾燥させると、表面にカビが生え水分が飛んで、うま味が凝縮すると言う。腐っているのは表面の数ミリだけで、そこを削って出荷する。ただ、まだ定義が定まっていないので業者がいろいろなやり方で熟成といっているので、農水省が熟成肉の定義を決めると言っている。
そんなことしなくても、アルゼンチンの肉は十分美味しい肉だ。味付けは塩だけだが、現地で暮らす日本人は携帯用の小さな醤油瓶を持ち歩いて、食べる時数滴垂らす。これで旨みがさらに増える。彼らは朝から肉を食る。日本人の年間牛肉消費量が近年10グラム増えて平均90グラムになったと最近の新聞で読んだが、彼らは10倍くらい食べる。アンガス種のビフテキをビッフェ・デ・チョリッソと言うが、これが一番おいしい。レストランの一人前は大体400~500グラムである。赤身と脂部分がはっきりしているので、脂が嫌な人は切り分けるのが簡単にできる。牛肉のヒレ部分は流石に柔らかさは特別で、これは病人食とか、幼児の離乳食になる。ヒレ部分を厚み4,5センチに切ってレアーに焼き、それをスプーンで掬うようにして食べさせる。
ご存じかどうか知らないが肉は消化は抜群である。私は、肉が多いと聞いていたので赴任の時、消化剤を沢山持っていった。ところが、同じ消化剤でも日本人の様に米を主食にする人種用と、肉を主食の人種用とは消化剤の成分が違うそうだ。現地の日系人の医者に、だまされたと思って消化剤なんか飲まないでいてごらんなさいと言われ、300グラム位のを食べて消化剤を飲まないでいた。ところが食後は勿論翌朝も全然胃に違和感がないのだ。それ以来肉の消化の良さをすっかり信用している。
牛肉人種も勿論豚肉も鶏肉も食べることは食べるけど消費量で比べれば牛肉との差は大違いである。牛の次は羊で、次が豚や鶏とかキルキンチョ(アルマジロ)、ウサギなどである。豚は固くてビフテキにしたのは全く美味しくない。豚は牛の放し飼いの草原で牛の周りを走り回っているので逆に肉は固く、臭くてとても日本人が知っているトンカツの肉とは違う。牛が肉になる様子を順を追って撮影した写真を紹介する。残酷なことだが、私は常に、人間に人間以外の動物を殺す権利を与えたのは誰なのか疑問に思っている。
お正月にすき焼きなど食べた方もいるだろうが、霜降り肉ではなく、外国産のアンガス種の赤身肉をぜひ食べてみて頂きたい。いかにも牛肉ということがお分かり頂けると思う。
では、次号をお楽しみに。
(2020.1.10記)