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四 季 雑 感(30) 樫村 慶一 思っている人は沢山いると思うけど・・・・ 四季雑感も随分ご無沙汰してしまった。言い訳するわけではないが、前回29回を7月に書いてから、昨年後半は家内がごたごた続きになった。6月に私が胃癌の宣告をされ、8月には家内が肺がんになり、夫婦そろって癌持ちになってしまった。幸い私は、早期発見・早期処置の鉄則通りに行って、7月の七夕の日に内視鏡手術で簡単に摘出、8月末には普通に酒が飲めるまでになったが、家内は、闘病中で年を越す。今回の癌騒動で、世の中に一般化している、「健康診断は1年に1度は是非」、なんてよく聞くキャンペーン言葉は、信用できないことを、つくづく身を以って知った。 私は毎年5月、自発的にかかりつけの近所の内科医院で胃カメラを飲んでいる、10年以上も異常なしなので、今年も、”はいOKです”で済むと思っていたら、あにはからんや、潰瘍が出来ていると言った。すぐに生体検査してもらったら、中分化の腺癌だと言う衝撃の宣告であった。前回から丸1年目のことである。幸い早かったので、大きさは約2mm、内視鏡で、えぐるように取って2週間静かにしていて完治である。検査する前に、マイドクターは2年に1ぺんで大丈夫だと言うのを、今年OKなら来年はパスしましょうと言うことにしたばかりなのだ。予感の当たりに運命を感じた。来年になれば確実に胃袋を2/3も切ることになったはずだ。物欲、名誉欲、性欲など人間としての本能的欲望を全て捨て去った84歳の老人が、最後の楽しみである食欲を満たす術を失ったら、人として何を楽しみにして生きるのだ。来年からは半年に1度胃カメラを飲むことにした。胃癌は目で識別できるようになるには5年間隠れているという。もしいるとすれば、来年は今年の4年生が出てくるわけで、毎年監視を怠らずに首を出した途端に潰すのが絶対的対策である。 前回の四季雑感でも、太陽活動が静かなため地球地磁気も弱くなり、宇宙線が地球に大量に降り注ぎ、人類の脳の働きがおかしくなって、常識では考えられない行動に出るものが後をたたない、と書いた。日本でも通り魔がやたらに増えたし、海の向こうでは、イスラムの狂徒があちこちで殺戮を繰り返している。大量の宇宙線は、大国の為政者の脳から、貧困国の裏長屋の一人の狂信者の脳まで、等しく犯している。こうした現象は、いま、”間氷期”の間にある地球上にはびこる、70億のホモ・サピエンスの絶滅の章の始まりかもしれない。 また話は変わるが、ほとんどの日本人は、12月8日を忘れてしまったらしい。11日は日本も米国も奇しくも大災厄の日なので忘れようもないだろうが、74年も前のこととなると仕方がないのだろう。新聞もテレビもうんともすんとも言わなかったように思う。「本8日未明、帝国陸海軍は・・・・・」あのことである。前夜の雨の水溜りがまだ残っている小学校の校庭に並ばされ、やたらにが鳴りたてるラジオの大音響を、さっぱり訳が分からないまま、聞かされていた光景をはっきり思い出す。73年前、11歳の冬であった。 またまた話は変わる。これからが今回の四季雑感の本題で、戦前戦中戦後と3時代を知る昭和1桁の人間が感じる、極く極く低俗な、ばかっぱなしと思って頂いて結構である。テレビ番組の中で、日本へ来た外人にその目的を聞いて、密着してレポートするのだとか、反対に外国の僻地にいる日本人を尋ねて行く番組がある。かなりの部分までは事前に調べていくんだろうが(そうでなければ言葉もできない訪問するタレントだけで出来るわけがない)、中には、心から頭の下がる仕事をしている人がいる。良くぞやってくれるな、と脱帽である。政府は毎年定期的な叙勲を行っているが、こうした地道な活動をして日本の評価を上げている人たちも対象してもらいたいと、つくづく思うものである。 最近沖縄問題について、基地の集中について危険じゃないかと言う意見が出ている。当然だろう、万一どっかの相手と戦争にでもなって、集中的攻撃を掛けられ被害がでたら、日本には、後詰めがないんだから、1発でアウトだ。そんなことが起きるはずはないからだと、たかをくくっているんなら、それでもいいのだが。 そこで私は思うのだが、こいゆうときに服役中の囚人を使うのはどうだろうかと。税金で無駄飯を食わしている奴ら(勿論、選別は必要であるが)を使って、刑期に反映させれば喜んでやるであろう。このことは、以前は、福島の原発事故現場の作業にも使えないものかと思った。とにかく体力のある男衆を有効活用すべき方策をもっと考える必要がありそうだ。 それとか、ドラッグの話だけど、ヒロポンとかコカインとかは、成分が同一で一種類しかないので、法律の規制が簡単だけど、ハーブ(ハーブに吹き付ける薬)のように化学方程式に基づいて作る薬品となると亀の甲のような図形をちょいと弄るだけで、異質の物質になってしまう。いままでは、この図形をひとつづつ指定して禁制品にしていたのを、なんとか毒性があればまとめるようになったけど、まだまだ頭の良いやり方とは言えない。私が、焦れたく思っているのは、何故、ハーブ全体を禁制品にできないのだろうか、ということである。
夏ごろに世界を騒がせたアルゼンチンの国債をめぐるデフォルト騒ぎはどこへ行ったのだろう。今年一杯が最終的交渉期限だと思ったけど、現地の新聞のホームページをみても、記事が見当たらない。日本人に聞いても分からないようだ。問題が消えるわけはないが、ラテン・アメリカがよくやる手で、バホ・デ・ラ・メッサ(under table)でなにかやってるのかもしれない。
【写真説明】上:手前の高台はモロ要塞、向かう側の低い場所がプンタ要塞。ハバナ湾のこの幅500米の狭い入り口が米西戦争の激戦地になった。中:世界遺産になっているハバナ旧市街の町並み。下:ヘミング・ウエイの「老人と海」の題材の基になった釣りボート。 |
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四 季 雑 感 (29) 樫村 慶一 またまた 太陽活動極少期現象(マウンダー現象)のこと
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四 季 雑 感 (28) 樫村 慶一 ウィンドウズのOS入替大作戦”顛末記
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四 季 雑 感 (27) 樫村 慶一 新春の舞台めぐり
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四 季 雑 感 (26) 樫村 慶一 神宮外苑の銀杏(2007~2013)
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四 季 雑 感 (25) 樫村 慶一
ジャズ・フェスティバルは9月6、7、8日の3日間で、私が行ったのは、7日である。この日は3つのバンドが出演したのだが、御目当ては、”とり”に出演した、キューバから来た、オルケスタ・ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クルブである。このバンドは11年前の同じこの祭典に来日している。あの頃は、このバンドが急激に人気が出たころで、楽士は全員黒人だったように記憶している。5000人入る国際フォーラムのAステージが満員になり、最後は皆立ち上がって手をふりふり、拍子を合わせていたのを今でも覚えている。その後は映画にでたり、世界ツアーをしたりで、世界の音楽会に大きな影響をあたえたものである。 その当時のメンバーは殆ど亡くなり、今回のメンバーには白人も少し混ざっていた。とにかく息をつかせない演奏の連続で、もう聞く方は完全にキューバ音楽に、いやラテン音楽に酔いしれてしまった。それも当然で、ラテンアメリカ音楽の原点はキューバ音楽からと言われているためである。そして圧巻は、これこそ、11年前と変わらない女性歌手、オマーラ・ポルトオンドの歌声である。年齢ははっきり知らないが、恐らく80代後半だと思うのだが。歩くことこそ危なっかしいが、喉から出る声は11年前の時と、さらにその後、ハバナの世界最大のラテン音楽殿堂「トロピカーナ」で聞いたときと、ちっとも変わっていないのが驚きである。歌っているときは手を大きく振り上げたり腰をくねらせたり、これがまた奇跡のようである。一時間半、夢のような時があっというまに過ぎてしまった。
埼玉県の日高市の巾着田の彼岸花が満開である。昨年まで毎年見物に行っていたけど、いよいよ足腰が弱って無理になってきた。人生の楽しみも屋外型から、屋内の映画や舞台鑑賞型に変わってきたようだ。寂しいことではあるけど。 終わり (2013.9.24 記) ★写真説明;(上)ハバナ港入口のモロ要塞を背にしたブエナ・ビスタのメンバー、赤い女性がオマーラ・ |
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四 季 雑 感 (24) 樫村 慶一 映画って本当に面白いものだ さて、今年のゴールデン・ウイークもとっくに終わってしまった。毎年この季節を楽しみしていた頃から20年以上が経った. 年毎に疲れ易くなってバスや列車での旅が億劫になり、肺に欠陥が あるため気圧の低い飛行機に乗るのが怖くて、海を越えなくなったため、エンターテインメント はどうしても都内か近郊でということになる。一番手っとり早いのが映画であり、シニアーは常に1000円 と有難い料金で楽しめる。誰が決めたかしらないが、全国の映画館が1000円とは近代で最も有難い制度の 一つであろう。ゴールデンウイーク前から割合面白そうな映画が集中した。私が見たものを自分なりの勝手な評価をさせて頂こうと思う。見損なった方、見ようと思っている方に少しでも参考になれば有難い。 【フライト】
【藁の楯】 【戦争と一人の女】 昔、淀川長治さんと言う映画評論家がいた。ご存じの方もいるだろう。映画って本当に面白い、というのが口癖だった。彼だけではなく、本当に映画って面白いものである。想像も願望も不可能なこと も実現できないことはない。ましてや今のようにC.G.なんていう技術が進歩したお陰で、映画で表現できない事象はないだろう。恐ろしいことをあたかも現実のように目にすることもあるけど、やっぱり ますます楽しみである。映画とは見ない人は何年も見なくてもなんとも思わないし、見る人はちょこちょこ見ないといられない、一種の麻薬のようなものらしい。 (2013.5記) |
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四 季 雑 感 (23)
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今年はKDD創立60周年です。 ああ、あの頃のことが、KDDが出来たのが、もう 60年も昔のことになってしまった!。 K-unetの会員名簿を見てみたら、60年前に当時の電電公社から新会社KDDに移ってきた人は40人くらいはいる。私は23歳だった。現場上がりの私には本社の人事構成は知らなかったが、KDDができてから最初に大学を卒業して入社した人は、創立翌年の昭和29年に入った技術屋の横井寛さんとk-unetの初代代表の石川恭久さんであり、業務屋のトップは31年に入った、先日亡くなった小熊忠三郎さんと、佐々木哲夫さんだった。この方達は、“給料が3回も出た”と言う感激は味わっていない。60年前に存在し、かつ今も健全で当時のことをなんとか覚えている”私”というのは、少しは凄いことなんだと自尊している。まだどうにか覚えている60年前の出来事の中から、前号の「四季雑感(22)」の二番煎じにならないように気をつけながら、今では考えられないようなことを拾って見た。思い出すままに書いてみたが、知っている人が読んで間違っていることがあったら、どうぞ指摘して頂きたいと思う。 【退職金の行方】 【輪番の夜の楽しみ】 【不祥事のかずかす】 【休日出勤を巡る贈収賄騒ぎ】 【宿直明けの自由な人生】 思えば遠い遠い昔のことばかり。空襲で街も学校も焼けてさまよい、食うためにやっと掴んだ通信屋の道が、将来どうなるかなんて全く考えもせず、また先行きに特別な希望も持たず、ただその日その日を好きなように過ごしていた時代である。ただ、それまでの電電公社よりは、”なんとなく良さそうだぜ”とはみんな思っていた。ゴルフでは、”たら、れば”は禁句であるが、今にして思えば、昔のことは、たらればばかりの日々であった。だからこそ、懐かしいのかもしれない。 |
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四 季 雑 感 (22) 樫村 慶一 KDDが還暦を迎えた 2012年もあっという間に終わってしまった。今年2013年はKDDの創立60周年、還暦の祝い年である。思えば1958年(昭和28年)に、電電公社から国際部門に関係した人たちの大部分がKDDに転籍してからもう60年たってしまった。一緒に移った仲間も随分いなくなった。いきなり給料が10%以上も上がった。”国際通信”を担うというエリート意識を持たせるために常に電電公社より10%以上差をつけるのだと言われていた。朝鮮戦争のさなか対米電報の山に埋まりそうな頃だった。ほとんどの電報は兵隊が国にお金を無心する内容で、しかも、文字が書けない兵隊がいるとか電文を短縮するためとかで、略称”EFM”と称する略語電報が多かった。そして極め付きは、年度末の3月、給料が2回でた。当時の給料は10日の前半と25日の後半の2回に分けて出ていたので正確には3回目である。会社にきたら主任が給料が出ているから副課長席に行けと言う。つい先日出たばかりなのに一体どうゆうことかと、半信半疑の思いで副課長席へ行った。当時の給料は現金の袋詰めである。話は本当だった。机の上の箱に袋が一杯詰まっている。勤勉手当、後の期末手当である。奥さんに長い間内緒にした人が沢山いたし、ある社宅では夫婦喧嘩の末、奥さんの機嫌とりに臍繰りとして隠していたのを白状したため、奥さんがこれを近所に吹聴したので暴露された家では新たな夫婦喧嘩が起きた。送受信所社宅では周知事項がみな拡声器で一斉通報されるので、何事も公明正大だとぼやき半分に語っていた人もいた。でも、みなアンテナのバッジを誇らしく思っていた。あの頃を知っている人達はみな80歳を過ぎた。かく言う私も83歳になる。 四季雑感も22回目を数えるが、その中身は始めの頃は社会福祉制度や税金などについて感じることを書 いてきたが、いつのまにかラテンアメリカ絡みになってきてしまった。自分にとって、とっつき易いテーマであるし、材料も色々と集まってくることも理由である。 年が変わったのを機に2012年を振り返ってみた。1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争から丁度30年、当時を思い出させるかのように、アルゼンチンと英国が再び火花を散らした。 東アジアでは政権交代があった国が多かったが、ラテンアメリカでもニカラグア、ベネスエラ、メキシコ、パラグアイなどで大統領選挙があった(パラグアイは弾劾裁判で罷免)。ニカラグアでは3選目、ベネズエラでは絶対的独裁者チャベスが4選されたけど、癌持ちのため体力が心配されている。世界各地でも様々な動きがあるものだ。
とりとめないことばかり書いてきたが、年末になって私はテレビでびっくりする写真を見た。ここに掲げる上の写真である。(上は尖閣諸島に侵入してきた中国機.下はアルゼンチン航空のB727) アルゼンチン航空の写真は15年ほど前にボリビアのラ・パス空港で撮ったものだが、このブルーの2本の横線は4年間住んでいる間に目に焼きついているデザインであり、今も変わらない。中国機を見て一瞬、「あ! アエロリネアスだ!」と叫んだ。(Aerolineas= アルゼンチン航空の名称)。とにかく青い横線がそっくりなのはご覧になってお分かり頂けるだろう。猿真似が得意で、偽物作りの天才のような中国人らしいと言えば聞こえがいいが、 本当に知らずに描いてみたら同じような模様になったということなのか。このデザインにした理由は分からないけど、もしそうなら実に不思議な偶然である。 |
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四 季 雑 感 (21) 樫村 慶一 コーノスールの国花を偲ぶ
チリの国土は南北に約4000kmもあるので、常に四季があると言われる。コピウエ(写真:8,9)は南部の花である。南部ということは南極に近い寒い地方のことで、JICAが成功しなかったのをチリ政府が引き継いで成功した、鮭の養殖が盛んな地方であり、日本への木材の輸出も多い。この地方に咲くのがコピウエである。 写真出典: ①ハカランダ(パレルモ公園):撮影:ホセ ルイス フネス (ブエノスアイレス)、 ②③セイボ(ウルグアイ・コロニア:撮影・筆者、 ④カントゥータ:ウエッブサイト「プロフィール胡蝶」より、 ⑤カントゥータ(チリ・プエルトバラス、⑥⑦パシオナリア(旧自宅庭):撮影:筆者、⑧⑨コピウエ:ウエッブサイト「プロフィール胡蝶」より。+++
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四 季 雑 感(20)-1 樫村 慶一 マチュピチュが大好きな日本人のために <その1>
前置きが長くなってしまった。では、改めて日本と関わりがあった事柄を2回に分けて紹介しようと思う。 (注) 灰色の雲が低く垂れ込めた暗い雰囲気に囲まれ、スペイン人侵略者へのインカ族の恨みが聞こえるようだと言う意味を込めたもの。(1957~8年頃に産経新聞に連載されたレポート「世界の裏街道を行く」より)。 ≪マリア・ルス号事件の話≫ この事件も年紀で言うと丁度140年前に起きた事件で、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク"が一人の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号(Maria Luz)"船内の惨状を訴えた。船の中の待遇は家畜同然で、出発前に聞いた待遇とは全く違っていたのである。この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民は疲弊しきっていた。 一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を図るべくラモン・カスティージャ大統領は、金銀の採掘や特産品のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する良質な原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望しマカオに来ていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。 ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ドルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていた。マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置としてまだ国交の無い日本に避難してきたのだ。明治5年6月4日のことである。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が、英国軍艦に救助されることになった。清国人の名前は「木慶(もくひん)」と言った。 英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けた政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長のリカルド・ヘレイロを裁判にかけた。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時として驚きの目で見られ、大江卓の人権擁護思想の下に進められた。大江は船内の虐待を裁こうとしたが、横浜に駐在していた外国領事達から、横浜入港までの公海上で起きた出来事には日本の主権が及ばず裁判権はないことを指摘され苦悩する。結局横浜入港後に、虐待に反発した首謀者の頭を剃ったり監禁したりしたことを日本領内における犯罪行為として有罪の判決をだした。しかし、当時続々と横浜に開設された欧米先進国の領事館は、なんだかんだと言って日本の裁判指揮を批判した。しかしこの時代では珍しい人権擁護思想を持った大江卓の裁断と、これを支持した時の外務大臣副島種臣の毅然たる対応によって清国人は全て開放されて本国へ送還された。清国人たちの喜びはいかばかりであったろうか。 この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された。これが後の日本人移民が実現する伏線になっている。 (注)資料の中で、このときの清国人の喜びの様子を次の文章が表している。中国人は日本に対してもっともっと礼をつくしてもおかしくないのである。 『貴政府の御仁恩広く、草木昆虫の微にいたるまでも、みなそのところを得せしめ候様遊ばされ候儀と存知奉り候。若し、船長より是非とも私度もを差し押さえ、船中へ連行候儀にも候はば、私ども余儀なく貴国境内に一命を擲ち、決して身を斧砧(ふちん)の上に送り申さず所存に御座候。右事情何卒万国公法の権衡を以って私ども愚民の生命を御保護、郷里へお差返し下され候はば、再生のご恩有難く拝戴、来生は犬馬となり、あるいは異日亡魂草を結び環を含み、御恩に報い奉るべく存じ。哀願奉り候。』 (注:巻末の”異日”、以下の文は当時の中国の報恩のたとへ表現である。死んでも何らかの形で恩を忘れていないことを告げたい、という意味)。 ≪高橋是清の話≫ 岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、日本陸軍のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった) いわゆる2.26事件によって、反乱軍に自宅で射殺された。この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。 1889年(明治22年)、当時、初代の特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルーのジャウリ(Yauli)村にあるカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ホルヘ・ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った(注)。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。しかしそこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。 (注)ジャウリ村は地図では2箇所ある。いずれも首都リマから東へ約60kmと 130kmのアンデス山脈の高峰に近い場所で、どちらかは分からないが、60kmの場所には鉱山のマークがあるのでここの可能性が高い。 昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は散々な苦労をした。一行の中には馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落する者が出るなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る是清は、悠揚せまらず、"アンデスも転びてみれば低きもの" と人ごとのように一句を吟じたと言われる。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年もの間掘り尽くされた廃坑であった。 特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(現在に換算すると数十億円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は惨憺たる失敗であった。日本の政治史に残るような大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。 是清は家屋敷を売り払って借金を返したと言う話である。ときの人達は、このことを、”カラワクラ はるばる来たら クラワカラ(蔵は空)”と揶揄した。陽気で人が良いなどと言われるラテンアメリカ人が、狡猾で恐ろしい一面を現した事件の一つである。 ≪リマの天野博物館の話≫ 天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた(1982年:昭和57年10月14日逝去)。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、 エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため全てを放棄させられ強制送還された。 <その2>へ 参考文献: Luis Diez Canseco Nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1:有隣堂発行)、天野博物館発行資料。 参考文献の本文内容への転載転用引用をお断りいたします。
四 季 雑 感(20)-2 樫村 慶一 マチュピチュが大好きな日本人のために <その2> 一方、19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(1879~1884)の荒廃から徐々に立ち直り、工場設備は近代化され生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖価格の上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力不足が決定的になってきた。それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄し、ペルーへの労働力提供を止めた。 ≪日系人排斥運動と国交断絶の話≫ ≪鈴木善幸元首相のペルー訪問時の裏話≫ 参考文献: Luis diez canseco nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1有隣堂発行)。参考文献の本文内容への転載転用引用をお断りいたします。
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四 季 雑 感(番外) 樫村 慶一 久家さんが逝った 東報出身で、重役にまで登った久家勝美さんが亡くなった。我々電報局出身者の希望の星だった(私だけがそう思ったのかもしれないが)。旧KDDの重役は大抵全国紙に訃報が載るし、会社の広報からも何かしら発表があるだろうと思っていたけど、なんにもない。定年になってしまえば、平も重役もないし、ましてや死んじゃったらただの元KDD社員だった、でも構わないけど、久家さんは昔流行った源氏鶏太の「三等重役」を地に行ったような重役だった。ざっくばらんで、史跡探勝会の昼食の席でも一杯ビールが入れば、「おい、久家」で通っていた。どうゆうわけか、いつも集合場所の駅などで会うと「昔の社会党がどうの、誰々がどうだったの(旧組合委員長や役員の名前など)」と、いきなり喋りだす。三鷹の白木屋の昭和会でも同様だった。いい加減に返事していても別に怒ることもない。まことに穏やかな、そして昔話の好きな懐かしがりやの紳士だった。
《写真は、2010年 5月 9日の史跡探勝会で両国界隈からスカイツリー建設現場を歩いた時、東関部屋(元大関高見山)の前にて》 |
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四 季 雑 感(19) 樫村 慶一 - とんでもない仮説 - 最近の、特にここ1年以内くらいの間における社会不安の増大、つまり、事件、事故、異常事象などの多さは目を覆いたくなるほどだ。新聞やテレビだけしか知る手段がないが、それでも死者が大勢でる交通事故、殺人事件、船舶事故、鉄道事故、自殺、さらには地震、水害、竜巻、雹、雷などの異状気象、動物の異常生態、外国での飛行機事故、幸い日本では起きていないが爆弾テロなどなどの発生件数は、過去の同じ期間の記録と比較しても多過ぎるのではないだろうか。特に人間の意識が正常ではないために起きた人為的原因の事件、事故、そして異常気象が原因の天災、いずれにしても昨年あたりから随分増えたと感じるのは私だけではないと思うが、これも悪いときには悪いことが重なるもんだ、と言う諺に照らして割り切ることができないでもない。しかし私は、人間の視覚や感覚では図りきれない何か大きな力が働いて、人類の運命を悪い方へ悪い方へと押しやっているのじゃないかと神経質な推測をしていた。
つい先日、オーロラに関するNHKのテレビ番組を見た。(5月半ばころ、番組名は控えなかった)。オーロラ研究に関する異常気象の話が主であった。覚えていることを並べて見ると以下のようなことである。 (注) マウンダー極小期:英国人エドワード・マウンダーが発見した現象で、太陽活動が極少になり黒点が大幅に減少する時期のこと。1970年に認められた現象。寒冷期の遠因になるとされヨーロッパや米国では夏至になっても夏らしくならなかった。 私はマウンダー極小期という言葉に興味を引かれインターネットで探して見た。そして一つのブログに出合った。「スピリチュアル大学」というタイトルのブログには、『マウンダー極小期は実際には1630年頃から始まった。この頃から太陽の黒点が減り始めた。日本では通常の時代ではありえないようなことが起きた。それは、徳川綱吉の時代で、鎖国令、生類哀れみの令、富士山の噴火、何回もの飢饉などである。・・・・』 と書いてある。また、さらに次のようにも言っている 『地球と人間が平常より多くの宇宙線を浴びることになる。宇宙線はどこでも通過するので人間のあらゆる細胞やDNAにも入り込み、人間の心にも影響を与えるようになる。』 例えば、車を運転していた者がなぜこの時期にあちこちで事故を起こしたのか。偶然が重なったと言ってしまえばそれも納得できることではあるが、やっぱり多すぎると思う。其の上、人為的原因ではない地震、豪雨、雷、竜巻などの異常気象が今の時期になぜ多いのか、これも、宇宙の異状がもたらす不可抗力な原因が、地表のみならず海底深い地殻にまで影響を及ぼしているのではないかと。話を少し飛ばせば、北アフリカの政変やシリヤやイスラエルの狂気もこんなことが遠因なのかもしれないと、すでに残り少ない寿命を支えるだけのやせ細った脳細胞で考えた結果である。 そしてさらに別のブログでは新しい宇宙の脅威を報じている。 『べテルギウス超新星の爆発予測、と題したこの文章では、2012年にべテルギウス超新星が爆発するかもしれない、そうなると、地球からはまさに太陽が二つ存在するような現象が見られる。べテルギウス超新星は地球から見える全天空の星の中で9番目に大きい星で地球から640光年離れているが、大きさは太陽より物凄く大きいので同じような大きさに見える。超新星が爆発すると周囲数百光年の範囲の惑星に生物がいれば強烈なX線やガンマー線で絶滅する。640年光年離れた地球は地磁気で守られるだろうが、地磁気が弱まっている時期では危ない。』 と書いてある。 太陽活動の極小現象もべテルギウス爆発も、もし本当なら、小さな小さな日本の国内で起きている政局や、世界各地の紛争などは宇宙、地球規模の危機の中のゴマ粒にもならない。こんな突拍子もない仮説がもし立証されたら、今生きている人類は、今後70年間は快適な生活を送ることはできない、明日への希望はないということである。もっともっと自殺者が増えるだろうし、世の中に絶望した暴走人間がもっともっと増えるだろう。残り少ない人生が明るい希望、楽しみの持てない時代に入ってしまうのが本当に悲しい。太陽活動極小期に遭遇した今の人間は運が悪いと、地球全体が甘受しなければならない運命と諦めるしかないのだろう。そういえば、今年の12月には地球が滅亡するなんてマヤの暦に書いてあると言う話が世界的に流布しているが、こっちはただの神話だと思っている。 どなたか明るい気分にさせてくれる話題を提供してくれる会員の方はいないだろうか。 おわり (2012.6 記)
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四 季 雑 感(18) 樫村 慶一 -- 嫌な予感がする年 -- 私達は、「小」は自分自身の周りから、「中」は定年後の生活を保障してくれる有難い会社の周り、さらには「大」は国を取り巻く地勢的環境と、色々は環境のなかで生活している。それらの環境が大は何千年周期かで、小は10年くらいの周期で一定の波が巡ってくるように思える。今年は私個人にとっても、KDDIにとっても、さらには日本自身にとっても重大な年になりそうである。
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しかし、悪いことばっかりの2014年も年末にすばらしい朗報を聞くことができた。米国とキューバの国交再開である。キューバへ行くなら社会主義の間に行けとは、ラテン・アメリカに少しでも関心のある人たちの間では常識である。再び欧米の資本が入れば、ハバナの旧市街(世界遺産になっている)のスペイン統治時代のままの建物も、1950年ころの、ガソリンを撒き散らして走る(1リットル3~4キロしか走らない)キャデラック、ダッジ、シボレー、リンカーン、オールドモービルなんて、よくよくの保存政策を取らないと、アット言う間に消えてしまうだろうし、昔、奴隷船が眺めた深い紺青の海と自然豊か海岸線は、高級マンションやホテルが立ち並ぶ、カリブのどこの島にも見られる、至極平凡なリゾート海岸に変身してしまうだろう。
今のキューバの産業とは、砂糖、世界1の品質を誇る葉巻、ラム酒、ラテン・アメリカ音楽のルーツでもある音楽、そして優秀なスポーツ選手(特に野球選手)などだけど、おそらく観光立国の島になり、古い景観は消えてしまうに違いない。建設ラッシュがはじまり景気がよくなれば、いずこも同じで、今は無縁の麻薬、泥棒、殺人等がはびこりだすだろう。汚職や政治腐敗、悪徳商人などが現れ格差社会が再び出現するに違いない。カストロの革命は無駄になってしまう。
2015年、あの戦争が始まって74年、終わって70年、最近地球誕生46億年、なんて本読んでいると、人類の平均寿命単位で数える時代の、いかに短いことかをしみじみ考えさせれれる。オーストラリアのプレートが1年で3~5センチ北上していて、遠い将来は日本にくっつき、日本はそれに押され、日本海はなくなり列島は朝鮮半島の上の高い山脈になるんだそうだ。世の中、そんな目で見ると目前の悪い出来事もストレスにならないかもしれない。2015年がせめて平凡な年になるようにと祈りたい。
暑さ寒も彼岸まで、と言う古人の言葉の言い伝えに、今年は改めて敬服した。なんたって、あの夏の酷暑が彼岸の前日に、綺麗さっぱりと涼しくなったんだから、これはもう神秘的というしかない現象でもある。その、涼しさを狂気のごとく求めていたときに、秋を先取りして芸術を楽しんだ。9月上旬の東京国際フォーラムの 「Tokyo Jazz Festival 2013」 と、中旬の東京芸術劇場の 「としま能の会」 である。どちらも初めてではないけど、今年はなぜか特に新鮮に感じられた。暑くてうんざりしている毎日に、スキッとした気分にさせてもらったからだろうと思う。
豊島区が主催する 「としま能」 も今年は26回目になる。毎年ではないが、何回か鑑賞してきた。毎回、舞囃子、狂言、能の3つの演目(能組)で構成されている。今年の能組は、舞囃子は「高砂」、狂言は「棒縛(ぼうしばり)」、能は「隅田川」で、この3つの中で、一番面白いのはなんといっても狂言であろう。 外出する主人は、留守中に太郎冠者と次郎冠者が悪さをするので、召使と共に二人を縛ってしまう。しかし、悪賢い二人は奇妙な手を考え出し酒を飲み浮かれだす。シテ、アドと小アドの3人(3役)が喋りまくり、所作を踊りまくる。これは文句なしに面白い。これだけで、満足といえると思う。
スピルバーグ流のキレの良い場面が沢山あるが、一口に言って、この映画は、国外向けと言うよりは国内向けのような気がする。理由は色々あるが、当時の米国の国内事情や、黒人奴隷の実態、政治世界の力関係などが殆ど書かれていない。「過去にはあんな立派な大統領がいたんだ、偉大な指導者が求められる今、このような歴史を知って欲しい」 と言う教科書的映画のようにも思える。スピルバーグの熱意の作品ではないかと思う。物語は1865年1月に再選を果たした頃から、4月にフォード劇場で暗殺されるまでの僅かな期間に絞って、リンカーンの行動が細く描かれている。特に1864年1月31日の、議会での憲法改正評決を前にした賛否の票読みのあたりは興味深々である。 ”すべての人間の真の自由”と言う理想を掲げたリンカーンにとって黒人奴隷解放は悲願であり、そのためには憲法改正が絶対に必要だった。議会に対しなりふり構わぬ多数派工作を行う。評決の結果は 賛成119票反対59票、1票差のまさに薄氷の勝利だった。出席議員総数は178人。賛成が3分の2を上回るには119票なくてはならない。反対が60票なら賛成票が3分の2に届かない、憲法改正は否決である。しかし、この辺りの票の動きのスリリングな模様は映画にはうまく表現されていない。たった数ヶ月間の動きなので妻との確執とか息子の出征の悩みなど、リンカーンの行動が詳細に描かれているが若干凝り過ぎの感もある。もっと当時の南部7州に続き最後は11州が連邦から離脱した経緯とか、当時の国内情勢、南部の経済を支えた奴隷制度、南北戦争の悲惨さなどが見たいと思ったものだが。面白い映画ではあるが、先の「フライト」のほうが、映画としては上であろう。友人の 時事通信解説委員長の明石氏も「題材はいいが興行的には成功しないだろう」と言っている。でも、これを契機にアメリカと言う国の歴史を改めてもっと知りたいと思ったものである。
日本映画にしては珍しい、本格的な素晴らしいアクション映画だ、幼児誘拐殺人犯に孫を殺された財界の大物、元経団連会長が、犯人を殺した人には10億円提供するとテレビで大々的に発表する。このため日本中の人が10億円欲しさに犯人の命を狙う。この犯人を九州から東京に護送する5人の警察官と、途中で犯人の命を狙う様々な人間との戦いを描いた映画である。どの車に乗せているか分からないように何十台ものパトカーを囮にして移送する途中で出現するダンプカーとの壊し合い、新幹線の中での暴力団風3人組との銃撃戦、この新幹線内の打ち合い場面の立ち回りはシナリオの発想が見事だ、新幹線の車両は台湾の新幹線を使ったものなので、色が橙と白の日本では見られない車両である。この銃撃戦で警察官一人が死ぬ。周りの人間すべてが敵に見えてしまう緊張感は観客にもひしひしと伝わってくる。誰も信用できなくなった時の恐怖感はいかばかりか、映画とは言え鳥肌が立つ思いがした。護送する警察官が拳銃で撃たれたり想定外の事件で脱落したりして、最後は主役の「大沢たかお」だけになってしまう。”任務だとは言え、殺人犯を守るために 警官が命をかけるなんてどうしても納得できない” と言う台詞が劇中でも出てくるが、見ている人も皆そう思っただろう。護送警察官が手首にGPSの発信機を埋め込み、犯人を殺させるために仲間を呼び寄せようとするストーリーには原作に敬服である。アクション場面が全部実写ではないことは良くわかるが、さりとてどの部分がC.G.なのかも分からない。日本映画も随分と腕が上がったものである。ただ、護送女性警察官が油断して犯人に撃たれるシーンがあるが、筋書きを面白くするためだろうけど、あの緊張感の中での油断はわざとらしい。賞金を出すと言った財界大物は殺人教唆の罪になるそうだ。最後は一人になり血まみれになって任務を果たした大沢たかおの男っぽさが素敵である。テレビではとても味合うことができない迫力が迫る、掛け値なしにl面白い娯楽映画と言える。
パンフレットの評では”官能文芸ロマン”となっているが、全編を通して男女の絡み合いが充満している坂口安吾原作の文芸作品に基づく映画である。ストーリーは関連性のない二つの話が平行して進行する。一方は戦中戦後の市井の片隅に生きる、夢も希望も捨てたような無気力な男、飲んだくれの作家と元女郎上がりの飲み屋のおかみとの、長々とした濡れ場の話。 しかし、戦争末期の東京に中年の五体満足な男がこんな好き勝手なことをしていたと言うのは、にわかには信じがたい話である。好きな女性の写真を抱いて死んで行った多くの兵隊がなんとも哀れである。
10年前のデフォルトの後遺症に未だに悩むアルゼンチンは、1年を通じて外貨流出を防ぐため輸入規制を強めている。 身近なことでは、私が友人に誕生日のプレセントに贈ったアクリルの額、花の模様などが描いてある和蝋燭、CDケースにいれた卓上カレンダーなどにも課税され、友人が受け取りを拒否 したとして、二月も遅れて日本に送返されてきた。税金が高くても受け取りを拒否するうような友人ではないのだが、課税が不正行為であり税額がものすごく高いらしかった(友人は税額はいわないが、想像以上なんだと思う)。他から聞いた話では税関職員が輸入規制をいいことに、対象外の物品にまで勝手に課税するんだだそうだ。封筒を触ってみて硬い感じのものや、申告用紙の金額欄に金額を書くと、それが安くても開けて税金をかける。柔かいもの、要するに紙か布製品で”贈り物”として金額はゼロにしておけば、まあ安心だと言われている。
日本では2012年は国内や周辺国との問題が多すぎて、新聞もテレビはとてもじゃないが地球の裏側のことなどを報道するまで、あまり手がまわらなかっただろうし、スペースもなかったのだと思うが 、それにしても観光番組が多い(同じ所が重複している)わりには政治経済、一般社会状況などの報道が少なすぎる感じがする。ほとんど新聞などに出なかったけど、マヤの暦による地球滅亡の日と言われた12月21日は世界のあちこちで、”聖なる山”などに、狂信的な神の信奉者が集まり集団自殺をするなんて噂がたった。アルゼンチンでも、アルゼンチンの臍と言われる中央部のコルドバ市 (最初に大学ができた文化的学園都市)近郊の保養地の近くにある、ウリトルコ山に物凄い数の人々が集まってきたので、州政府が立ち入り禁止措置をとったと伝えられた。
ブエノスアイレスに春がきて真っ先に咲き出すのが"ハカランダ"(写真:1)だ。英語読みするとジャカランダだが、言葉の感じからも花の印象からも、濁りのないハカランダの方がふさわしい。桜と同じ位の大きさの木で、長さ5~6センチの薄紫の花が、小枝の隅々まで咲き溢れ、都の空を霞がたなびくが如く紫色に染め上げ、春の陽射しに眩いばかりに輝く。桜と同じように風雨に弱く、一雨ごとに色褪せて、花吹雪のように散り行く様を見ると、日本人は、それぞれの胸中に故国の桜を思い浮かべ郷愁にかられる。
ハカランダの紫が盛りを過ぎる12月になると、いよいよ アルゼンチンとウルグアイの国花"セイボ"(写真:2,3)の季節である。ハワイなどで虎の爪と呼ばれるこの真っ赤な花は水辺に多い。そのためかブエノスアイレスもモンテビデオもラ・プラタ川の岸部に多く見かける。大きなものになると、高さはゆうに3米を超えるものもある。暑さも本格的になるクリスマスの頃まで強烈な赤色に輝く。そして、赤が色褪めてくると、幹がワインやビールの樽のように膨らんだパーロボラッチョ(酔っぱらいの木)が、ほんのり頬を染めたように薄桃色と白の五弁の花をつけ始める。セイボが散り、酔っ払いの木の花の色が褪せてくると、街路樹の "アカシア"(ミモザ)の梢近くに、黄色い房のようになった花が葉陰から見え始め、4月のセマーナ・サンタ(イースター:聖週間)がやってくる。
ペルーとボリビアの二つの国が、カントゥータ(写真:4,5)をどっちが先に国花にしたかを巡って争っているという話もある。アンデス山脈の3000米を越す水のない高地に咲く2米足らずの低い常緑樹だが、両国の象徴である神聖な土地の花なのでどちらも譲れないと言う。花はつりがね状の長い花びらを持ち密集して咲く。
マチュピチュの石積みの間に咲いているのが、殺風景な遺跡に紅一点の趣を添える。しかし、ボリビアのチチカカ湖に近いチワナク遺跡では見ることはできない。どこかの山地の石の間に、ひっそりと咲いているのであろう。
見ているだけでユーモラスな感じをうける花である。丈夫でとても繁殖力が強い。鎌倉の極楽寺の裏の奥に十六夜堂(いざよいどう)という小さな無人の庵があるが、そのそばの垣根に咲いていた蔓状の茎を、10センチ程に切って数本頂き庭に差しておいた。それが、3年くらいで7米にもなる生垣に成長した。満開の時期はそれは見事である。パラグアイに行ったのは冬だったので見ることはできなかったが、南米の花というのを知ったのはずっと後になってからだ。だからこの花だけは何回見ても彼の地を思い出すよすがにはならない。
もう15年ほど前になるが、真夏の2月、妻と一緒にアルゼンチンのバリローチェからアンデス山脈を超え、湖沼地帯をバスとフェリーを乗り継いでチリへ入った、最初に着いたところがプエルト・バラスと言う、それはそれは美しい町だった。通りの中央部はバラの花壇になっていて、建物は皆ロッジ風の洒落た家だ。地の果てのような辺境の町で初めてコピウエを見た。雪柳に似たこんもりした樹形で、細い蔓には10センチ程の真っ赤な靭形の花が下を向いてびっしりと咲いている。丁度 正月の飾りに使う舞玉のようだ。珍しい花なのでしばし佇んでいると警官が通りかかったので、花の名前を聞き初めてチリの国花コピウエと知った。南部に多いと言う通り、その後1000キロ北に位置する首都のサンチアゴへ行ったが、そこではついぞ見かけなかった。私にとっては一種の幻のような花である。 (2012.10 記)
1532年にピサロがやってきて、インカ帝国を滅ぼし、リマに首都を定めてから五百年以上の歴史を持つこの街には、多くの教会がある他、博物館もたくさんある。日本人観光客がよく行く博物館は、①アンデスへの夢とロマンに生きた天野芳太郎氏が、チャンカイ渓谷で発掘収集した土器、織物を収蔵・展示した「天野博物館」、 ②インカおよびプレインカ時代に栄えたアンデス文明の黄金製品を集めた 「国立黄金博物館」、③インカ族の性行為を通して、おおらかな人間性を率直に現した陶器の人形を多数集めた「ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館」などである。本編では、これらの博物館のうち、日本人の天野芳太郎さんが開いた「天野博物館」を紹介する。 (右の写真は、ラファエル・ラルコ博物館収蔵品の複製、筆者所蔵品)
この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴集したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料として1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるなどの、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。 こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデス山脈を越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスの峻険を越え、ボリビアやパラグアイ、さらにはアルゼンチンへまで逃げた人達がいる。しかし、厳しい山脈を越えることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが移民の歴史で言われる「ペルー下り」、或いは「ペルー流れ」という移民哀史である。
そこで私は一つの仮説を考えた。笑われるのを承知でk-unetのページを汚して見ようと思う。
私が今の豊島区のマンション生活を始めたのは丁度10年前(2002年)である。従って今年は生活を取り巻くあらゆるものが10年目になる。これが問題なのであって、特に家の中の諸々の生活道具の最初の寿命更新の時期がやってきた。電気、ガス、水周り、といってみれば一般家庭の中にあるいわゆる”なになに設備”という類に、がたが来はじめたのである。其の一つ、寝室の天井の蛍光灯がつかなくなった。てっきり切れたと思い新品を買ってきて取り替えた。今の蛍光灯には、従来のものと今流行のLEDのものと2種ある。LEDの寿命は3倍以上で値段は50%高くらいなのでLEDを買った、しかし点かない、結局手に余って管理会社経由で電気設備会社に来てもらった。点検の結果蛍光灯を取り付ける器具が壊れたのだ。今は修理なんてことはやらない。新品と取り替えるだけである。。工事の人に聞いたら、確かにLEDは長持ちするが、今回のように取り付け金具が壊れたリ、スイッチが壊れたり、リモコンの音波発射部分が壊れたりで、周りが一部の長寿についていけないので、延びた寿命をすんなり享受するのは難しいという。それはそうだろう、全部が何十年も持つようになったら、それぞれの商売は上がったりになってしまう。先日は、これも10年になるアナログ時代のVHSデッキが壊れた、これは過去に撮りためたビデオの再生用にしかならないのであっさり廃棄できたけど、今後次々と起こるであろう設備類の障害を考えるとうんざりする。のんびり生きていくのにも結構な維持費がかかるるものだ。