四 季 雑 感(30)

樫村 慶一

思っている人は沢山いると思うけど・・・・

 四季雑感も随分ご無沙汰してしまった。言い訳するわけではないが、前回29回を7月に書いてから、昨年後半は家内がごたごた続きになった。6月に私が胃癌の宣告をされ、8月には家内が肺がんになり、夫婦そろって癌持ちになってしまった。幸い私は、早期発見・早期処置の鉄則通りに行って、7月の七夕の日に内視鏡手術で簡単に摘出、8月末には普通に酒が飲めるまでになったが、家内は、闘病中で年を越す。今回の癌騒動で、世の中に一般化している、「健康診断は1年に1度は是非」、なんてよく聞くキャンペーン言葉は、信用できないことを、つくづく身を以って知った。

  私は毎年5月、自発的にかかりつけの近所の内科医院で胃カメラを飲んでいる、10年以上も異常なしなので、今年も、”はいOKです”で済むと思っていたら、あにはからんや、潰瘍が出来ていると言った。すぐに生体検査してもらったら、中分化の腺癌だと言う衝撃の宣告であった。前回から丸1年目のことである。幸い早かったので、大きさは約2mm、内視鏡で、えぐるように取って2週間静かにしていて完治である。検査する前に、マイドクターは2年に1ぺんで大丈夫だと言うのを、今年OKなら来年はパスしましょうと言うことにしたばかりなのだ。予感の当たりに運命を感じた。来年になれば確実に胃袋を2/3も切ることになったはずだ。物欲、名誉欲、性欲など人間としての本能的欲望を全て捨て去った84歳の老人が、最後の楽しみである食欲を満たす術を失ったら、人として何を楽しみにして生きるのだ。来年からは半年に1度胃カメラを飲むことにした。胃癌は目で識別できるようになるには5年間隠れているという。もしいるとすれば、来年は今年の4年生が出てくるわけで、毎年監視を怠らずに首を出した途端に潰すのが絶対的対策である。
 家内の肺がんは、昨年7月私と一緒に区の老人健診でCTを受け、綺麗だったのが、まる1年後の今年7月に癌になっていた。1年に1度の検診のうたい文句に見事に乗せられて犠牲になってしまった。本当に可哀そうである。昔、年寄りは癌にはならない、なっても大きくならない、と聞いた覚えがあるが、あれは嘘だった。

 前回の四季雑感でも、太陽活動が静かなため地球地磁気も弱くなり、宇宙線が地球に大量に降り注ぎ、人類の脳の働きがおかしくなって、常識では考えられない行動に出るものが後をたたない、と書いた。日本でも通り魔がやたらに増えたし、海の向こうでは、イスラムの狂徒があちこちで殺戮を繰り返している。大量の宇宙線は、大国の為政者の脳から、貧困国の裏長屋の一人の狂信者の脳まで、等しく犯している。こうした現象は、いま、”間氷期”の間にある地球上にはびこる、70億のホモ・サピエンスの絶滅の章の始まりかもしれない。

 また話は変わるが、ほとんどの日本人は、12月8日を忘れてしまったらしい。11日は日本も米国も奇しくも大災厄の日なので忘れようもないだろうが、74年も前のこととなると仕方がないのだろう。新聞もテレビもうんともすんとも言わなかったように思う。「本8日未明、帝国陸海軍は・・・・・」あのことである。前夜の雨の水溜りがまだ残っている小学校の校庭に並ばされ、やたらにが鳴りたてるラジオの大音響を、さっぱり訳が分からないまま、聞かされていた光景をはっきり思い出す。73年前、11歳の冬であった。

 またまた話は変わる。これからが今回の四季雑感の本題で、戦前戦中戦後と3時代を知る昭和1桁の人間が感じる、極く極く低俗な、ばかっぱなしと思って頂いて結構である。テレビ番組の中で、日本へ来た外人にその目的を聞いて、密着してレポートするのだとか、反対に外国の僻地にいる日本人を尋ねて行く番組がある。かなりの部分までは事前に調べていくんだろうが(そうでなければ言葉もできない訪問するタレントだけで出来るわけがない)、中には、心から頭の下がる仕事をしている人がいる。良くぞやってくれるな、と脱帽である。政府は毎年定期的な叙勲を行っているが、こうした地道な活動をして日本の評価を上げている人たちも対象してもらいたいと、つくづく思うものである。

 最近沖縄問題について、基地の集中について危険じゃないかと言う意見が出ている。当然だろう、万一どっかの相手と戦争にでもなって、集中的攻撃を掛けられ被害がでたら、日本には、後詰めがないんだから、1発でアウトだ。そんなことが起きるはずはないからだと、たかをくくっているんなら、それでもいいのだが。
 今年も大雪のニュースが伝えられる。いつも、あの屋根の雪の重さは何トンくらいあるんだろうと思う。子供や孫は都会に出ている家も沢山あるだろうし。おじいちゃんやおばあちゃんが、曲がった腰で重いシャベルを持って掻くんだけど、いくらも出来るもんじゃない。若い人たちのボランティアが地獄での仏のように有難がられる。また、洪水、土石流の氾濫、噴煙の灰など自然災害の後始末に本来の消防、警察隊員のほかに、自衛隊が出動する。特に自衛隊には感謝であろう。いまでは、自衛隊は誇りを持てる職業になっているそうだ。世も変わったものである。

 そこで私は思うのだが、こいゆうときに服役中の囚人を使うのはどうだろうかと。税金で無駄飯を食わしている奴ら(勿論、選別は必要であるが)を使って、刑期に反映させれば喜んでやるであろう。このことは、以前は、福島の原発事故現場の作業にも使えないものかと思った。とにかく体力のある男衆を有効活用すべき方策をもっと考える必要がありそうだ。
 安倍君はなし崩しに原発を動かしたいようだが、一度くらいは考えたことがあるのだろうか、それは福島原発が東京の北で、太平洋岸だったことをである。太平洋から西に風が吹くわけがないので、幸いだったけど、考えてみれば、青森県と北海道を除けば、ほかの原発は、みな東京より西の方にある。どっかで事故がおきれば、全部関東地方に放射能が飛んでくる。(富士山の噴火だってそうだけど)それがないような安全基準を作ったのかもしれないけど、起きてからじゃ間にあわないことが現実に起きたのだ。その辺のことはどう考えたのかなと思う。

 それとか、ドラッグの話だけど、ヒロポンとかコカインとかは、成分が同一で一種類しかないので、法律の規制が簡単だけど、ハーブ(ハーブに吹き付ける薬)のように化学方程式に基づいて作る薬品となると亀の甲のような図形をちょいと弄るだけで、異質の物質になってしまう。いままでは、この図形をひとつづつ指定して禁制品にしていたのを、なんとか毒性があればまとめるようになったけど、まだまだ頭の良いやり方とは言えない。私が、焦れたく思っているのは、何故、ハーブ全体を禁制品にできないのだろうか、ということである。
 つまり、日本は、嗜好品であろうと、医薬品であろうと、ハーブ(葉っぱを乾燥させ、香料を振りかけたり刻んだりしたものを炙って煙を嗅ぐもの)は一切扱ってはならない、いうならば、一口で麻薬と言う分類に含め、拳銃と同じような扱いにすればよいと思うんだが。多少生活に情緒感が欠けるようになるかもしれないが、ハーブがないと死んじゃう人がでるんだろうか。ハーブの一つ位日本から消えても、われわれの生活には何の影響もないと思うんだが。裏社会のメニューが一つ増えるけど。
 あれもこれも宇宙線の大量被爆とはいわないけど、もう少し頭を働かせてもらえると、随分安心して暮らせるようになり、ストレスの少ない社会になるんじゃないかな、と思っている。


  しかし、悪いことばっかりの2014年も年末にすばらしい朗報を聞くことができた。米国とキューバの国交再開である。キューバへ行くなら社会主義の間に行けとは、ラテン・アメリカに少しでも関心のある人たちの間では常識である。再び欧米の資本が入れば、ハバナの旧市街(世界遺産になっている)のスペイン統治時代のままの建物も、1950年ころの、ガソリンを撒き散らして走る(1リットル3~4キロしか走らない)キャデラック、ダッジ、シボレー、リンカーン、オールドモービルなんて、よくよくの保存政策を取らないと、アット言う間に消えてしまうだろうし、昔、奴隷船が眺めた深い紺青の海と自然豊か海岸線は、高級マンションやホテルが立ち並ぶ、カリブのどこの島にも見られる、至極平凡なリゾート海岸に変身してしまうだろう。

 今のキューバの産業とは、砂糖、世界1の品質を誇る葉巻、ラム酒、ラテン・アメリカ音楽のルーツでもある音楽、そして優秀なスポーツ選手(特に野球選手)などだけど、おそらく観光立国の島になり、古い景観は消えてしまうに違いない。建設ラッシュがはじまり景気がよくなれば、いずこも同じで、今は無縁の麻薬、泥棒、殺人等がはびこりだすだろう。汚職や政治腐敗、悪徳商人などが現れ格差社会が再び出現するに違いない。カストロの革命は無駄になってしまう。
 今、世界で、政治体制と経済体制(物資の配給制度を行っている)の両方が完全な社会主義国はキューバだけである。(北朝鮮は中途半端な国)社会主義を掲げる国は、中国、ベトナム、ラオス、ほかにも一つか二つあるが、それぞれは、人民平等といいながら汚職はあるし格差社会ができている。しかし、キューバだけにはそれがない。理由は簡単、前の首相フィーデル・カストロが、貧しさを国民と等しく分け合って特権階級を作らなかったからで、そのため、国内で反政府活動が起こらなかった。私は10年前に行っていてよかった。せめてヘミングウエイの家や「老人と海」の主役になったモーターボート、あのボートを引き上げた小さな桟橋は残るだろうか。マウンダー現象による大量の宇宙線もオバラとラウル・カストロの脳細胞にはちょっとだけ、好作用をもたらしたようである。

 夏ごろに世界を騒がせたアルゼンチンの国債をめぐるデフォルト騒ぎはどこへ行ったのだろう。今年一杯が最終的交渉期限だと思ったけど、現地の新聞のホームページをみても、記事が見当たらない。日本人に聞いても分からないようだ。問題が消えるわけはないが、ラテン・アメリカがよくやる手で、バホ・デ・ラ・メッサ(under table)でなにかやってるのかもしれない。


 2015年、あの戦争が始まって74年、終わって70年、最近地球誕生46億年、なんて本読んでいると、人類の平均寿命単位で数える時代の、いかに短いことかをしみじみ考えさせれれる。オーストラリアのプレートが1年で3~5センチ北上していて、遠い将来は日本にくっつき、日本はそれに押され、日本海はなくなり列島は朝鮮半島の上の高い山脈になるんだそうだ。世の中、そんな目で見ると目前の悪い出来事もストレスにならないかもしれない。2015年がせめて平凡な年になるようにと祈りたい。  
(2014.12.30記)

【写真説明】上:手前の高台はモロ要塞、向かう側の低い場所がプンタ要塞。ハバナ湾のこの幅500米の狭い入り口が米西戦争の激戦地になった。中:世界遺産になっているハバナ旧市街の町並み。下:ヘミング・ウエイの「老人と海」の題材の基になった釣りボート。

 

四 季 雑 感 (29)

樫村 慶一

またまた 太陽活動極少期現象(マウンダー現象)のこと 

 

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四 季 雑 感 (28)

樫村 慶一

ウィンドウズのOS入替大作戦”顛末記

 

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四 季 雑 感 (27)

樫村 慶一

新春の舞台めぐり

 

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四 季 雑 感 (26)

樫村 慶一

神宮外苑の銀杏(2007~2013) 

 

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四 季 雑 感 (25)

樫村 慶一
 
  四季雑感は5月を最後に暫くご無沙汰していた。「新作」用にと思う手持ちの題材が半端でまとまりがつかないのと、猛暑で気分的に文書を書く気が起きなかったなどが理由である。 ブエノスアイレスの友人が、市内の中心部はIOC総会の前から交通規制がかかり、世界一広い(幅144米)と言われる7月9日大通りも交通止めになるので、今年の冬の寒さは格別なので、いっそのことこの期間は暖かいところへ逃げようか、なんて言ってきていた。場所貸しだけの現地では、もうオリンピックのオの字も出ないようだ。日本でも東京に決まってからの、オリンピック期待の騒ぎもだんだんと収まってきたようで、まずはやれやれと思っている。 それにしても、自分自身は見られるかどうか分からないような年の人が、いろいろ言っているのが滑稽でもある。でも、今の日本にとっては、オリンピックで騒ぐよりも、福島の汚染水処理が何お置いてもやらなくてはならない重大なことだと思うのだが。

  暑さ寒も彼岸まで、と言う古人の言葉の言い伝えに、今年は改めて敬服した。なんたって、あの夏の酷暑が彼岸の前日に、綺麗さっぱりと涼しくなったんだから、これはもう神秘的というしかない現象でもある。その、涼しさを狂気のごとく求めていたときに、秋を先取りして芸術を楽しんだ。9月上旬の東京国際フォーラムの 「Tokyo Jazz Festival 2013」 と、中旬の東京芸術劇場の 「としま能の会」 である。どちらも初めてではないけど、今年はなぜか特に新鮮に感じられた。暑くてうんざりしている毎日に、スキッとした気分にさせてもらったからだろうと思う。

  ジャズ・フェスティバルは9月6、7、8日の3日間で、私が行ったのは、7日である。この日は3つのバンドが出演したのだが、御目当ては、”とり”に出演した、キューバから来た、オルケスタ・ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クルブである。このバンドは11年前の同じこの祭典に来日している。あの頃は、このバンドが急激に人気が出たころで、楽士は全員黒人だったように記憶している。5000人入る国際フォーラムのAステージが満員になり、最後は皆立ち上がって手をふりふり、拍子を合わせていたのを今でも覚えている。その後は映画にでたり、世界ツアーをしたりで、世界の音楽会に大きな影響をあたえたものである。

  その当時のメンバーは殆ど亡くなり、今回のメンバーには白人も少し混ざっていた。とにかく息をつかせない演奏の連続で、もう聞く方は完全にキューバ音楽に、いやラテン音楽に酔いしれてしまった。それも当然で、ラテンアメリカ音楽の原点はキューバ音楽からと言われているためである。そして圧巻は、これこそ、11年前と変わらない女性歌手、オマーラ・ポルトオンドの歌声である。年齢ははっきり知らないが、恐らく80代後半だと思うのだが。歩くことこそ危なっかしいが、喉から出る声は11年前の時と、さらにその後、ハバナの世界最大のラテン音楽殿堂「トロピカーナ」で聞いたときと、ちっとも変わっていないのが驚きである。歌っているときは手を大きく振り上げたり腰をくねらせたり、これがまた奇跡のようである。一時間半、夢のような時があっというまに過ぎてしまった。
  最初に出たのは、大江千里サタデイ・ナイト・オーケストラ、2番目はリー・コニッツ・カルテット、いずれも、世界でも一流バンドであり、ジャズの醍醐味を十分に味あわせてもらった。

  豊島区が主催する 「としま能」 も今年は26回目になる。毎年ではないが、何回か鑑賞してきた。毎回、舞囃子、狂言、能の3つの演目(能組)で構成されている。今年の能組は、舞囃子は「高砂」、狂言は「棒縛(ぼうしばり)」、能は「隅田川」で、この3つの中で、一番面白いのはなんといっても狂言であろう。 外出する主人は、留守中に太郎冠者と次郎冠者が悪さをするので、召使と共に二人を縛ってしまう。しかし、悪賢い二人は奇妙な手を考え出し酒を飲み浮かれだす。シテ、アドと小アドの3人(3役)が喋りまくり、所作を踊りまくる。これは文句なしに面白い。これだけで、満足といえると思う。
  これ以外の囃子は、謡を歌うのは、ほんの2、3人だけで、後ろに袴を穿いた10人近い人が正座していて、殆ど何もしない。能は、シテとかワキ、ワキツレなどが所作をするが、後ろにいる人達は途中で扇子を前に置き腰を半分浮かして、また座りなおす。この所作役割がよく分からない。それに能は意味が取れないセリフばかりだ。能の良さが分からない人間には、まだまだ見る前の修行が足りないと思ったものである。

  埼玉県の日高市の巾着田の彼岸花が満開である。昨年まで毎年見物に行っていたけど、いよいよ足腰が弱って無理になってきた。人生の楽しみも屋外型から、屋内の映画や舞台鑑賞型に変わってきたようだ。寂しいことではあるけど。   終わり   (2013.9.24 記)

 ★写真説明;(上)ハバナ港入口のモロ要塞を背にしたブエナ・ビスタのメンバー、赤い女性がオマーラ・
   ポルトオンド、右の黒人男性は、トロンボーン奏者でリーダーのヘスス・アグアッフェ・ラモス。
 ★写真説明(下) 東京芸術劇場のとしま能、狂言「棒縛」の舞台。

 

四 季 雑 感 (24)

樫村 慶一

映画って本当に面白いものだ

 さて、今年のゴールデン・ウイークもとっくに終わってしまった。毎年この季節を楽しみしていた頃から20年以上が経った. 年毎に疲れ易くなってバスや列車での旅が億劫になり、肺に欠陥が あるため気圧の低い飛行機に乗るのが怖くて、海を越えなくなったため、エンターテインメント はどうしても都内か近郊でということになる。一番手っとり早いのが映画であり、シニアーは常に1000円 と有難い料金で楽しめる。誰が決めたかしらないが、全国の映画館が1000円とは近代で最も有難い制度の 一つであろう。ゴールデンウイーク前から割合面白そうな映画が集中した。私が見たものを自分なりの勝手な評価をさせて頂こうと思う。見損なった方、見ようと思っている方に少しでも参考になれば有難い。

【フライト】
 新聞の宣伝では、旅客機が宙返りして飛んでいる写真が大きく載っていたが、実はメインのストーリーは、旅客機の前代未聞のアクロバット飛行の物語ではない。飛行機のトラブルの場面は開始後すぐ始まり30分くらいで終わる。アクロバットの原因は、垂直尾翼が右に曲がったまま動かなくなり、自動操縦が不能になった機体が水平飛行できなくなったので、やむなく手動で背面飛行をしたことによる。 定期検査の検査官としてかそれとも他の理由か、たまたま機長資格者が2人も搭乗していて援助したのも幸いだったようだ。 なんとか広い草原まで飛び、元の姿勢に戻って、田舎の教会の屋根を少し壊しただけで不時着し、被害を最小限に抑えた手腕に対して世間は拍手喝采を送り、機長は一躍ヒーローになった。被害は乗客1人とスチュワーデス2人が死んだ。しかし、 操縦した機長が飛行中かなり酒くさかったので、酔っぱらってあんな無茶な飛行 をしたのではないかという疑問がかけられ裁判になった。映画はこの裁判の結末を最後までスリリングに描き、観客をはらはらさせる。事故調査により機内のパントリーにはウオッカの空ビンが2本転がっているのが見つかる。死んだスチュワーデスの一人が酒好きで、ウオッカはそのスチュワーデスが飲んだものと関係者は皆そう思っていた。しかし、実際は機長が飲んだものであった。事実を打ち明けられた弁護士は 「飲んでいないと最後まで主張しろ、そうすれば見事なアクロバットで水平飛行を保ち不時着して被害を最小に抑えた英雄になれるんだ」、と説得する。機長は自分が飲んだのを死んだスチュワーデスのせいにするのに良心の呵責に悩んだ。そして、判決の直前で遂に機長は良心に負け、自分が飲んだと打ち明ける。 結果は有罪になり刑務所に入ると言う物語である。前代未聞の飛行の腕前を高く評価され一時は英雄に祭り上げられた機長の、心中の葛藤が見事に描かれている。JAL・OBの友人に聞くと、「旅客機は主翼の 断面からみて宙返りは揚力が逆になるので実際は難しいのじゃないか、飛行機はどんな姿勢でも自然に水平になるものだ。 ただ、この飛行機はボーイングB727で尾翼周りに3基のエンジンがあるので、尾翼故障の場合は主翼エンジンの機体よりは操縦しやすいとは思う」、と言っていた。C・G画面とは言え現実的な背面飛行のスリルを楽しむのも良し、名誉欲と良心の狭間に苦しむ機長の心境を共有するのもよし、 興味満点の映画である。


【リンカーン】
 スピルバーグ流のキレの良い場面が沢山あるが、一口に言って、この映画は、国外向けと言うよりは国内向けのような気がする。理由は色々あるが、当時の米国の国内事情や、黒人奴隷の実態、政治世界の力関係などが殆ど書かれていない。「過去にはあんな立派な大統領がいたんだ、偉大な指導者が求められる今、このような歴史を知って欲しい」 と言う教科書的映画のようにも思える。スピルバーグの熱意の作品ではないかと思う。物語は1865年1月に再選を果たした頃から、4月にフォード劇場で暗殺されるまでの僅かな期間に絞って、リンカーンの行動が細く描かれている。特に1864年1月31日の、議会での憲法改正評決を前にした賛否の票読みのあたりは興味深々である。 ”すべての人間の真の自由”と言う理想を掲げたリンカーンにとって黒人奴隷解放は悲願であり、そのためには憲法改正が絶対に必要だった。議会に対しなりふり構わぬ多数派工作を行う。評決の結果は 賛成119票反対59票、1票差のまさに薄氷の勝利だった。出席議員総数は178人。賛成が3分の2を上回るには119票なくてはならない。反対が60票なら賛成票が3分の2に届かない、憲法改正は否決である。しかし、この辺りの票の動きのスリリングな模様は映画にはうまく表現されていない。たった数ヶ月間の動きなので妻との確執とか息子の出征の悩みなど、リンカーンの行動が詳細に描かれているが若干凝り過ぎの感もある。もっと当時の南部7州に続き最後は11州が連邦から離脱した経緯とか、当時の国内情勢、南部の経済を支えた奴隷制度、南北戦争の悲惨さなどが見たいと思ったものだが。面白い映画ではあるが、先の「フライト」のほうが、映画としては上であろう。友人の 時事通信解説委員長の明石氏も「題材はいいが興行的には成功しないだろう」と言っている。でも、これを契機にアメリカと言う国の歴史を改めてもっと知りたいと思ったものである。

【藁の楯】
 日本映画にしては珍しい、本格的な素晴らしいアクション映画だ、幼児誘拐殺人犯に孫を殺された財界の大物、元経団連会長が、犯人を殺した人には10億円提供するとテレビで大々的に発表する。このため日本中の人が10億円欲しさに犯人の命を狙う。この犯人を九州から東京に護送する5人の警察官と、途中で犯人の命を狙う様々な人間との戦いを描いた映画である。どの車に乗せているか分からないように何十台ものパトカーを囮にして移送する途中で出現するダンプカーとの壊し合い、新幹線の中での暴力団風3人組との銃撃戦、この新幹線内の打ち合い場面の立ち回りはシナリオの発想が見事だ、新幹線の車両は台湾の新幹線を使ったものなので、色が橙と白の日本では見られない車両である。この銃撃戦で警察官一人が死ぬ。周りの人間すべてが敵に見えてしまう緊張感は観客にもひしひしと伝わってくる。誰も信用できなくなった時の恐怖感はいかばかりか、映画とは言え鳥肌が立つ思いがした。護送する警察官が拳銃で撃たれたり想定外の事件で脱落したりして、最後は主役の「大沢たかお」だけになってしまう。”任務だとは言え、殺人犯を守るために 警官が命をかけるなんてどうしても納得できない” と言う台詞が劇中でも出てくるが、見ている人も皆そう思っただろう。護送警察官が手首にGPSの発信機を埋め込み、犯人を殺させるために仲間を呼び寄せようとするストーリーには原作に敬服である。アクション場面が全部実写ではないことは良くわかるが、さりとてどの部分がC.G.なのかも分からない。日本映画も随分と腕が上がったものである。ただ、護送女性警察官が油断して犯人に撃たれるシーンがあるが、筋書きを面白くするためだろうけど、あの緊張感の中での油断はわざとらしい。賞金を出すと言った財界大物は殺人教唆の罪になるそうだ。最後は一人になり血まみれになって任務を果たした大沢たかおの男っぽさが素敵である。テレビではとても味合うことができない迫力が迫る、掛け値なしにl面白い娯楽映画と言える。

【戦争と一人の女】
 パンフレットの評では”官能文芸ロマン”となっているが、全編を通して男女の絡み合いが充満している坂口安吾原作の文芸作品に基づく映画である。ストーリーは関連性のない二つの話が平行して進行する。一方は戦中戦後の市井の片隅に生きる、夢も希望も捨てたような無気力な男、飲んだくれの作家と元女郎上がりの飲み屋のおかみとの、長々とした濡れ場の話。 しかし、戦争末期の東京に中年の五体満足な男がこんな好き勝手なことをしていたと言うのは、にわかには信じがたい話である。好きな女性の写真を抱いて死んで行った多くの兵隊がなんとも哀れである。
 もう一つの筋書きは、昭和20年~21年に世間を騒がせた小平義雄事件をモデルにした話である。映画では小平ではなく大平義雄となっている。中国戦線で右腕を失って帰還してきた兵隊が、女房との正常な夫婦生活ができなくなり、刺激を求めて都内の駅などで7人もの女性に声をかけ、主食の買い出しに農家を紹介してやる と言って地方へ連れ出し、乱暴して殺害するというこわい話である。詳しい紹介はこの欄でははばかれるので、実際の映画を見てもらうしかない。その他の場面では、焼夷弾の説明がよくできていた。あれは、実際に焼夷弾を知っていた人ではないと書けないだろう。この映画を見て、昔は本当に、あんなことをしていた人がいたのかなと思うばかりである。

 昔、淀川長治さんと言う映画評論家がいた。ご存じの方もいるだろう。映画って本当に面白い、というのが口癖だった。彼だけではなく、本当に映画って面白いものである。想像も願望も不可能なこと も実現できないことはない。ましてや今のようにC.G.なんていう技術が進歩したお陰で、映画で表現できない事象はないだろう。恐ろしいことをあたかも現実のように目にすることもあるけど、やっぱり ますます楽しみである。映画とは見ない人は何年も見なくてもなんとも思わないし、見る人はちょこちょこ見ないといられない、一種の麻薬のようなものらしい。 (2013.5記)

 

四 季 雑 感   (23)


樫村 慶一

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今年はKDD創立60周年です。
昔のことを一緒に思い出してみませんか 

 ああ、あの頃のことが、KDDが出来たのが、もう 60年も昔のことになってしまった!。
私は、人一倍古いことへの愛着が強い人間なのかもしれない。すべてのことについて、昔のことが懐かしい。もっとも懐かしいことがない人などはいないとは思うけど。私にとって懐かしい時代を年代で言えば、生まれていなかっただけに憧れに似た憧憬がある大正時代に遡るが、実際に記憶の領域にあるのは、5歳位になった昭和10年頃からのことである。昭和11年の2.26事件はなんとなく覚えている。懐メロは昭和30年頃(1955)までの歌じゃないと、私の懐メロのカテゴリーには入らない。でも今じゃ、昭和40年代(1965~1975年まで)の歌も40年以上も経った立派な懐メロになった。
 KDDが今年創立60周年になるということを、昔を知っている人に会う度に言うが、異口同音に“ふーん、そんなになるかー”で終わりだ。拍子ぬけがしてしまう。私は、k-unetになにか特別なイベントをやってもらいたいと思うのだか、世話人も皆若返りしてしまったためか、乗ってもらえそうもない。50周年の時は自分が世話人だったこともあるが、他の世話人さんも50周年を祝う気分に満ちていた。ホームページの表紙を特別仕様の画像で飾ったり、募集した投稿文も沢山集まった。でも60周年の今回はムードが全く沸かない。時代は変わったのだ。やむなく自分で出来ることを考えた。それは、このウエッブ・サイトの中で、自分で裁量できる「四季雑感」欄を活用し、特別に作った動画アニメを掲載することである。この欄と合わせて一度是非見て頂きたい。

 K-unetの会員名簿を見てみたら、60年前に当時の電電公社から新会社KDDに移ってきた人は40人くらいはいる。私は23歳だった。現場上がりの私には本社の人事構成は知らなかったが、KDDができてから最初に大学を卒業して入社した人は、創立翌年の昭和29年に入った技術屋の横井寛さんとk-unetの初代代表の石川恭久さんであり、業務屋のトップは31年に入った、先日亡くなった小熊忠三郎さんと、佐々木哲夫さんだった。この方達は、“給料が3回も出た”と言う感激は味わっていない。60年前に存在し、かつ今も健全で当時のことをなんとか覚えている”私”というのは、少しは凄いことなんだと自尊している。まだどうにか覚えている60年前の出来事の中から、前号の「四季雑感(22)」の二番煎じにならないように気をつけながら、今では考えられないようなことを拾って見た。思い出すままに書いてみたが、知っている人が読んで間違っていることがあったら、どうぞ指摘して頂きたいと思う。

【退職金の行方】
 会社になったとき、KDD社員は皆電電公社を退職してきたので、退職金と、一部の人を除き電電共済会の脱退金がでた。私は電電公社の在職が5年だったので、退職金は11万円余りだった。昭和28年の11万円はかなりの値打ちがあった。母親達と住んでいた千葉市の戦時中の軍需工場社宅のボロ家がすっかりリフォームできたのだから。当時の電電公社職員は国家公務員であり、厳然たる身分制度による階級社会であった。無線通信士の1級とか国際電話交換手などは、6級とか7級職でかなり上の地位だったし、外信課で国際通信に従事するのに絶対に必要な資格、特殊無線技師国際級だと5級職とか、職級で給料が決まっていた。7級職くらいの人の退職金は30万位だったと記憶している。そして、福利厚生の対策もかなりのスピードで進み、社宅の建設と併行して住宅資金貸付制度も出来、誰でも25万円が簡単に貸してもらえた。地方出身の人が多く、退職金と合わせて大勢の人がマイホームを建てた。今は余り形態が残っていないと思うが、三鷹の下連雀にはKDD村ができた。概して中央線沿線とか西武線、小田急など、なぜか都下の西の方が好まれた。こうした中で、Tさんと言う豪傑は、新宿2丁目(明治通りを挟んだ伊勢丹の東側の一角、昔は新宿2丁目だけでどんな場所か分かった)で、退職金がなくなるまで居続けたと言う逸話もあった。確認した人は誰もいなかったけど。

【輪番の夜の楽しみ】
 昔の輪番は3番勤務と言って、「宿直~明け~日勤または休み」の繰り返しである。宿直は前徹・後徹の交代制で、前徹は午前2時半まで勤務、後徹は午後10時から寝て午前2時半から翌朝9時までの勤務である。しかし私は、すぐには寝付けないたちなので、起床時間をきにしいしい寝返りばっかりを打っていた。昭和30年(1955年)大手町新局舎ができソファーが置かれた立派な休憩室ができた。夜中はこの休憩室が眠らない連中の賭博場と変わり、丸テーブルを囲んで博打もどきの遊びをやっていた。なにをやったのか忘れた部分も多いのだが、ポーカーとか、1円硬貨の裏表を当てる丁半博打だったように覚えている。掛金は硬貨や食券だったと思うが、すでに忘れてしまったことが多い。1円硬貨をピース(たばこ)の缶に入れて持ち歩き、職場でも仕事をしながらやっていた。禁止命令が出たのは大分後のことで、きっかけは、休憩室の丸テーブルの縁に煙草の焦げ跡が沢山ついているのを不審に思った夜間責任者が夜中に見回り、開帳中のところを御用にしたというわけである。今の人には信じられない話だろう。日勤の昼間の休憩室は野球中継を聞くものが多かった。あの頃はプロ野球の西鉄ライオズ(今の西武)の全盛期で、鉄腕稲尾が大活躍するのを興奮して聞いていた頃でもある。ナイターはまだ始まっていなかったのかどうか覚えていない。

【不祥事のかずかす】
 庶民俗人ばかりが集まった国際電報局には、当然ながら世間並みの不祥事もあった。鍵のかかっていないロッカーから現金や金券(食券)を盗んだ人とか、京浜東北線の通勤電車の中で痴漢をやっ人などは警察沙汰になったと記憶しているが、都内の営業局における現金蒸発事件とか、別に犯罪ではないが、競輪に狂い周囲から借りるだけお金を借りまくり、給料差し引きで食券を買い、それを直ぐ売って現金にする人がいたとか、大分後の話ではあるが電話局の交換手のベッドに侵入したが未遂?だったので温情で依願退職扱いになった豪傑の話などは、内緒で始末されたように思う。ただ寡聞にして、或いはまだ道徳心が世の中に健在だったためか、女性がらみの不道徳(背徳)な話は聞いたことがなかった。ましてや、新聞タネになるようなことは皆無で、悪いことで新聞を騒がせたのは、恐らく1979年(昭和54年)のKDD事件が初めてだったのではないかと思うのだか。

【休日出勤を巡る贈収賄騒ぎ】
 休日に出勤すると手当がついた(今でもそうかもしれないけど)。これが馬鹿にならない金額だ(額はすっかり忘却)。昼間の休日出勤だけでも結構な額になったし、宿直に当たろうものなら宿直当日と翌日の明け番とで、1勤務で2日分にもなった。そのため、皆が出勤したがったので、課長が記録簿をつくり公平に当たるように采配していた。そこを裏口から接触して有利に扱ってもらおうとするずるい奴がいた。ちゃちな贈収賄事件である。中でも旧陸軍の将校上がりで要領の良い奴がいて、派手に袖の下を使ったと言う話は、多くの人が知っていることであった。年末年始やゴールデンウイークなどは、うまく当たれば絶好の稼ぎ場で、次の給料が楽しみだったのである。

【宿直明けの自由な人生】
 若いということは本当に素晴らしいことだ、80を超えた今になって、つくずく昔の体力が懐かしい。宿直勤務でも一応眠る時間はあった。前徹は午前2時半までが仕事でそのあとは朝まで眠れる、後徹は、先にも書いたが、午後10時から翌午前2時半まで眠る時間がある。しかし、寝る時間が早すぎるし若い体が十分に睡眠を取るには短すぎるので、とても眠れるものではない。したがって、翌朝になると、殆ど寝ていないも同じ状態なのだが、一向にへこたれないから、若いってよかったな、と懐かしむわけである。
 宿直明けの自由な時間に大学へ行く人、競輪とか競馬とかのギャンブル場へ行く人、がめつく別の仕事を持っていて、そこへ急ぐ人などなど、私の周りの人達で、家に帰って眠るなんてことを言う奴は、役職者のロートルを除いてはいなかったように思う。そして私は仲間と神田駅近くのパチンコ屋へ急いだ。10時の開店時には戦時中の行進曲「軍艦マーチ」が鼓膜を破らんばかりにがなり立ている。終戦から10年も経っていない時代(前年に占領から解放され漸く主権を回復したばかりの1953年頃)では、昨日まで聞きなれていた勇壮な曲である。それから12時間、昼飯抜きで立ったままで玉を弾いていた。顔には脂汗が浮き、煙草をやたらに吸いながら打つので、口はカラカラ、喉はいがらっぽく、さすがに腰もしびれてくる。よくぞ病気にならなかったものである。いつも遊ぶ資金の調達が問題になった。神田駅のすぐ近くに顔馴染みになった質屋があり、仲間と順番に腕時計を質入れして、その金を分配して助け合って?遊んでいた。

 思えば遠い遠い昔のことばかり。空襲で街も学校も焼けてさまよい、食うためにやっと掴んだ通信屋の道が、将来どうなるかなんて全く考えもせず、また先行きに特別な希望も持たず、ただその日その日を好きなように過ごしていた時代である。ただ、それまでの電電公社よりは、”なんとなく良さそうだぜ”とはみんな思っていた。ゴルフでは、”たら、れば”は禁句であるが、今にして思えば、昔のことは、たらればばかりの日々であった。だからこそ、懐かしいのかもしれない。
 今年は4月に桜がないと言う異常な年になりそうだ。桜は入学式の花ではなく卒業式の花になってしまったようだ。地球規模の異常気象の始まりかもしれない。大きな地震や噴火の説を聞けば”霞か雲か 見渡す限り・・・”などと言う、のたりのたりした気分にはとてもなれない。残りが少なくなったのは幸せかもしれない、などと、とり止めもないことを考える。おわり(2013.4 記)

 

四 季 雑 感  (22)

樫村 慶一

KDDが還暦を迎えた

 2012年もあっという間に終わってしまった。今年2013年はKDDの創立60周年、還暦の祝い年である。思えば1958年(昭和28年)に、電電公社から国際部門に関係した人たちの大部分がKDDに転籍してからもう60年たってしまった。一緒に移った仲間も随分いなくなった。いきなり給料が10%以上も上がった。”国際通信”を担うというエリート意識を持たせるために常に電電公社より10%以上差をつけるのだと言われていた。朝鮮戦争のさなか対米電報の山に埋まりそうな頃だった。ほとんどの電報は兵隊が国にお金を無心する内容で、しかも、文字が書けない兵隊がいるとか電文を短縮するためとかで、略称”EFM”と称する略語電報が多かった。そして極め付きは、年度末の3月、給料が2回でた。当時の給料は10日の前半と25日の後半の2回に分けて出ていたので正確には3回目である。会社にきたら主任が給料が出ているから副課長席に行けと言う。つい先日出たばかりなのに一体どうゆうことかと、半信半疑の思いで副課長席へ行った。当時の給料は現金の袋詰めである。話は本当だった。机の上の箱に袋が一杯詰まっている。勤勉手当、後の期末手当である。奥さんに長い間内緒にした人が沢山いたし、ある社宅では夫婦喧嘩の末、奥さんの機嫌とりに臍繰りとして隠していたのを白状したため、奥さんがこれを近所に吹聴したので暴露された家では新たな夫婦喧嘩が起きた。送受信所社宅では周知事項がみな拡声器で一斉通報されるので、何事も公明正大だとぼやき半分に語っていた人もいた。でも、みなアンテナのバッジを誇らしく思っていた。あの頃を知っている人達はみな80歳を過ぎた。かく言う私も83歳になる。

 四季雑感も22回目を数えるが、その中身は始めの頃は社会福祉制度や税金などについて感じることを書 いてきたが、いつのまにかラテンアメリカ絡みになってきてしまった。自分にとって、とっつき易いテーマであるし、材料も色々と集まってくることも理由である。 年が変わったのを機に2012年を振り返ってみた。1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争から丁度30年、当時を思い出させるかのように、アルゼンチンと英国が再び火花を散らした。 東アジアでは政権交代があった国が多かったが、ラテンアメリカでもニカラグア、ベネスエラ、メキシコ、パラグアイなどで大統領選挙があった(パラグアイは弾劾裁判で罷免)。ニカラグアでは3選目、ベネズエラでは絶対的独裁者チャベスが4選されたけど、癌持ちのため体力が心配されている。世界各地でも様々な動きがあるものだ。
 私は何回かラテンアメリカが日本と変わらぬ地震多発地域であることを書いてきたが、2012年も結構大きな地震が何回も起きている。もっとも日本の数十倍以上にもなる地域だから、影響を比較するのは間違っているだろうけど、同じ大陸の中ということで考えると、北米やヨーロッパ、アフリカなどと比べてやっぱり多いと思う。南米各地では、「2012年は、ブラジルやコロンビアの洪水、旱魃、チリの火山噴火や大規模な山火事、アルゼンチンや ブラジル東部の旱魃などが続いた異常気象の年だった。海面温度が下がるラ・ニーニャの影響だ」 と言われている。気象と関係あるのかどうかまだ分かっていないが、もともと中南米の太平洋岸には世界有数の地震帯が走っている。2012年もまた大きな被害をもたらした地震があった。3月にはメキシコのM7.4とチリのM7.1の2回も、9月にはコスタ・リカでM7.6、そして締めくくりは10月のグアテマラのM7.4と、相も変わらず揺れ続けている。

 10年前のデフォルトの後遺症に未だに悩むアルゼンチンは、1年を通じて外貨流出を防ぐため輸入規制を強めている。 身近なことでは、私が友人に誕生日のプレセントに贈ったアクリルの額、花の模様などが描いてある和蝋燭、CDケースにいれた卓上カレンダーなどにも課税され、友人が受け取りを拒否 したとして、二月も遅れて日本に送返されてきた。税金が高くても受け取りを拒否するうような友人ではないのだが、課税が不正行為であり税額がものすごく高いらしかった(友人は税額はいわないが、想像以上なんだと思う)。他から聞いた話では税関職員が輸入規制をいいことに、対象外の物品にまで勝手に課税するんだだそうだ。封筒を触ってみて硬い感じのものや、申告用紙の金額欄に金額を書くと、それが安くても開けて税金をかける。柔かいもの、要するに紙か布製品で”贈り物”として金額はゼロにしておけば、まあ安心だと言われている。

 日本では2012年は国内や周辺国との問題が多すぎて、新聞もテレビはとてもじゃないが地球の裏側のことなどを報道するまで、あまり手がまわらなかっただろうし、スペースもなかったのだと思うが 、それにしても観光番組が多い(同じ所が重複している)わりには政治経済、一般社会状況などの報道が少なすぎる感じがする。ほとんど新聞などに出なかったけど、マヤの暦による地球滅亡の日と言われた12月21日は世界のあちこちで、”聖なる山”などに、狂信的な神の信奉者が集まり集団自殺をするなんて噂がたった。アルゼンチンでも、アルゼンチンの臍と言われる中央部のコルドバ市 (最初に大学ができた文化的学園都市)近郊の保養地の近くにある、ウリトルコ山に物凄い数の人々が集まってきたので、州政府が立ち入り禁止措置をとったと伝えられた。

 とりとめないことばかり書いてきたが、年末になって私はテレビでびっくりする写真を見た。ここに掲げる上の写真である。(上は尖閣諸島に侵入してきた中国機.下はアルゼンチン航空のB727) アルゼンチン航空の写真は15年ほど前にボリビアのラ・パス空港で撮ったものだが、このブルーの2本の横線は4年間住んでいる間に目に焼きついているデザインであり、今も変わらない。中国機を見て一瞬、「あ! アエロリネアスだ!」と叫んだ。(Aerolineas= アルゼンチン航空の名称)。とにかく青い横線がそっくりなのはご覧になってお分かり頂けるだろう。猿真似が得意で、偽物作りの天才のような中国人らしいと言えば聞こえがいいが、 本当に知らずに描いてみたら同じような模様になったということなのか。このデザインにした理由は分からないけど、もしそうなら実に不思議な偶然である。
 さあ2013年、蛇年は吉とでるか凶とでるか、スペイン語の世界では、 ”Dios sabe” と言う。”神様が知っている” という意味だが、”さあ、どっちだろうな” というような場合に使う。なにはともあれ、今年もk-unet会員の皆様にとって良いお年になりますように、心より祈念いたしたいと思います。   終わり (2013.1.2)

 

四 季 雑 感 (21)

樫村 慶一

コーノスールの国花を偲ぶ


 「四季雑感」も20回目が終わった。今回は少しばかり肩の力を抜いて、南米大陸のコーノスール(cono sur:南の円錐、つまり南米大陸の南半分の三角形の部分を言う) 諸国の国花を偲んでみた。これらの花はみな春に咲く。(季節は逆なので日本の秋)。地球の裏も表も、秋の花は耽美な深い香りと魅惑的な色合いの、えも言われぬ魅力を振りまく成熟した女を感じさせるのに比べ、春の花は若々しい新鮮味溢れる、健康的な様相を見せてくれる。日本の国花は秋の菊だけど、世界中に通用する日本の花はなんと言っても桜だ。花見の季節を楽しみにするのと同様に、南アメリカの国々でも、春の訪れには狂喜し、各地で花祭りが盛大に行われる。コーノスールの国々の国花とは、アルゼンチンとウルグアイのセイボ(ceibo:マメ科のアメリカディコ。写真:2,3)、ペルー、ボリビアのカントゥータ(cantuta:花しのぶ。4,5)、パラグアイのパシオナリア(pasionaria:時計草。6,7)、チリのコピウエ(copihue:ツバキカズラ。8,9)などの花である。

 南米南部の春は10月から12月末頃までで1月は真夏になる。パタゴニアの氷河見物や、アコンカグアに登るのも、南極へ行くのも 1月か2月である。今でこそパタゴニヤ地方が観光地としてテレビでしばしば放映されるけど、20年位前までは、大陸最南端の海と島嶼が入り混じった複雑な地形の国境線を巡って、アルゼンチンとチリがしょっちゅう争っていた。そのため観光なんてとてもできる状況ではなく、どうしても行かなければならない場合は、軍隊の飛行機や船、トラックなどに余裕のあるときに、便乗を願いでるしか手段がなかったものである。今の竹島、尖閣と同じようなことをやっていたのだ。最後はローマ法王の仲裁に両国とも服して解決した。竹島も尖閣も仏教国同士なんだから、お釈迦様がいたらとっくに解決していたかもしれない。


 ブエノスアイレスに春がきて真っ先に咲き出すのが"ハカランダ"(写真:1)だ。英語読みするとジャカランダだが、言葉の感じからも花の印象からも、濁りのないハカランダの方がふさわしい。桜と同じ位の大きさの木で、長さ5~6センチの薄紫の花が、小枝の隅々まで咲き溢れ、都の空を霞がたなびくが如く紫色に染め上げ、春の陽射しに眩いばかりに輝く。桜と同じように風雨に弱く、一雨ごとに色褪せて、花吹雪のように散り行く様を見ると、日本人は、それぞれの胸中に故国の桜を思い浮かべ郷愁にかられる。
 ハカランダの紫が盛りを過ぎる12月になると、いよいよ アルゼンチンとウルグアイの国花"セイボ"(写真:2,3)の季節である。ハワイなどで虎の爪と呼ばれるこの真っ赤な花は水辺に多い。そのためかブエノスアイレスもモンテビデオもラ・プラタ川の岸部に多く見かける。大きなものになると、高さはゆうに3米を超えるものもある。暑さも本格的になるクリスマスの頃まで強烈な赤色に輝く。そして、赤が色褪めてくると、幹がワインやビールの樽のように膨らんだパーロボラッチョ(酔っぱらいの木)が、ほんのり頬を染めたように薄桃色と白の五弁の花をつけ始める。セイボが散り、酔っ払いの木の花の色が褪せてくると、街路樹の "アカシア"(ミモザ)の梢近くに、黄色い房のようになった花が葉陰から見え始め、4月のセマーナ・サンタ(イースター:聖週間)がやってくる。

 ペルーとボリビアの二つの国が、カントゥータ(写真:4,5)をどっちが先に国花にしたかを巡って争っているという話もある。アンデス山脈の3000米を越す水のない高地に咲く2米足らずの低い常緑樹だが、両国の象徴である神聖な土地の花なのでどちらも譲れないと言う。花はつりがね状の長い花びらを持ち密集して咲く。マチュピチュの石積みの間に咲いているのが、殺風景な遺跡に紅一点の趣を添える。しかし、ボリビアのチチカカ湖に近いチワナク遺跡では見ることはできない。どこかの山地の石の間に、ひっそりと咲いているのであろう。
 コーノスールの国花の中で日本で唯一見られるのが、パラグアイの国花パシオナリア、時計草(写真:6,7)である。針と言い、文字盤と言い本当に時計に良く似ている。紫と白と2色あるが、紫の方が先に咲く。見ているだけでユーモラスな感じをうける花である。丈夫でとても繁殖力が強い。鎌倉の極楽寺の裏の奥に十六夜堂(いざよいどう)という小さな無人の庵があるが、そのそばの垣根に咲いていた蔓状の茎を、10センチ程に切って数本頂き庭に差しておいた。それが、3年くらいで7米にもなる生垣に成長した。満開の時期はそれは見事である。パラグアイに行ったのは冬だったので見ることはできなかったが、南米の花というのを知ったのはずっと後になってからだ。だからこの花だけは何回見ても彼の地を思い出すよすがにはならない。

 チリの国土は南北に約4000kmもあるので、常に四季があると言われる。コピウエ(写真:8,9)は南部の花である。南部ということは南極に近い寒い地方のことで、JICAが成功しなかったのをチリ政府が引き継いで成功した、鮭の養殖が盛んな地方であり、日本への木材の輸出も多い。この地方に咲くのがコピウエである。もう15年ほど前になるが、真夏の2月、妻と一緒にアルゼンチンのバリローチェからアンデス山脈を超え、湖沼地帯をバスとフェリーを乗り継いでチリへ入った、最初に着いたところがプエルト・バラスと言う、それはそれは美しい町だった。通りの中央部はバラの花壇になっていて、建物は皆ロッジ風の洒落た家だ。地の果てのような辺境の町で初めてコピウエを見た。雪柳に似たこんもりした樹形で、細い蔓には10センチ程の真っ赤な靭形の花が下を向いてびっしりと咲いている。丁度 正月の飾りに使う舞玉のようだ。珍しい花なのでしばし佇んでいると警官が通りかかったので、花の名前を聞き初めてチリの国花コピウエと知った。南部に多いと言う通り、その後1000キロ北に位置する首都のサンチアゴへ行ったが、そこではついぞ見かけなかった。私にとっては一種の幻のような花である。  (2012.10 記)

写真出典: ①ハカランダ(パレルモ公園):撮影:ホセ ルイス フネス (ブエノスアイレス)、 ②③セイボ(ウルグアイ・コロニア:撮影・筆者、 ④カントゥータ:ウエッブサイト「プロフィール胡蝶」より、 ⑤カントゥータ(チリ・プエルトバラス、⑥⑦パシオナリア(旧自宅庭):撮影:筆者、⑧⑨コピウエ:ウエッブサイト「プロフィール胡蝶」より。+++
               

 

 

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四 季 雑 感(20)-1

樫村 慶一

マチュピチュが大好きな日本人のために
日本とペルーの過去のできごと

<その1>


  今年はペルーの世界遺産マチュピチュ遺跡が発見されてから101年目になる。米人考古学者ハイラム・ビンガムが、インカ文明の遺跡を求めてアンデスの奥地に入り、 400米上の稜線に石積みを発見し、地元の子供にお金を渡して現場を見に行かせて発見した、その日が1911年7月24日である。発見100年祭なんていうのをやったかどうか知らない。昨年は、ペルーは大統領選挙が6月にあり、フジモリさんの娘が後一歩で当選というきわどい選挙だったので、国民の関心はもっぱらそっちに向かい、マチュピチュのことなど話題に登らなかったこととと思う。
 その反動ではないだろうが、日本人の、”世界遺産の中で行きたい所”のNo.1 ということもあり、今年はテレビ番組もマチュピチュに関する番組が多く放送されている。しかし、ペルーという国と日本とを結びつける事柄でよく知られていることと言うと、移民が多いこと、天野博物館があること、最近ではフジモリさんが大統領だったことくらいだと思う。動物好きな人だったら、らくだに似た顔のリャーマの故郷だということは知っているだろう。(私が勝手にその位だと思っているだけかもしれないが)。
 リャーマで思い出したので、ちょっとだけ話を横道に入らせてもらう。リャーマと言う名前は ”llama”と書くのだが、この”LL”はLを重ねて1字であって、リャとジャと二つの発音を持っている。 従って、”雨が降る”と言う言葉は”llover”と書くのだが、リョベールとジョベールと人によって、地域によって違う(一つの国の中でも違う)。どちらも正しい。私はジョベール派でジョという人をジョイズム   という。だからllamaもリャーマでもジャーマでもよさそうなものだが、どうゆうわけか、リャーマだけはジャーマでは正しい発音ではないとペルー人に教えられた。リャーマはアンデス高地に住むインカの子孫 にとっては、高地における移動には絶対に欠かせぬ道具?であり、大事な動性物蛋白質の元であり、アルパカと共に防寒衣料の原料になる神様のような神聖な存在なので、呼称もただひとつだけなのだろう。日本人のテレビのレポーターがヤマとかラマとか言うときがあるが、これなどは論外で通じないだろうと思う。話を戻そう。
 日本人は、”何々の何周年”と言う年紀を祝うのが好きな国民であるが、100年目ということでは、国内では今年一番大きなイベントに明治天皇崩御(1912年7月30日)、の100周年記念祭があり (別の言い方では大正100年という人もいる)、明治神宮の参道には明治時代の出来事を描いた大きなパネルが沢山立てられている。また、白瀬中尉を隊長とした日本初の南極大陸探検隊が1912年1月16日に初めて南極大陸に上陸したのもちょうど100年前である。国外ではタイタニック号の沈没事故(1912年 4月 14日)があり、清朝の滅亡(1912年2月)も100年前である。

 万年雪を頂くアンデスの山々、日本人好みのフォルクローレ、カラフルな民族衣装、数々の著名な遺跡、現代人に不可欠な多くの食材(じゃが芋、玉葱、トマト、玉蜀黍、にんにく、唐辛子などなど)の原産地であること、アマゾン源流のジャングル地帯などなど、南米のイメージの全てを持つのがペルーである。観光で行くには魅力たっぷりの国だ。1年中ほとんど雨が降らないからリマには傘屋がない。日本に始めてきたペルー電気通信公社(Entel)の研修生に最初に傘を買う事を勧め、折り畳み傘の使い方を教えたことを思い出す。春先(10~11月頃)にはガルーア(霧雨、海霧)が立ち込め、灰色の空気に覆われる。訪れる時期によって印象が全く変わるのがペルーである。初めてリマに着いた時の印象を、かっての著名日本人ジャーナリスト、大宅壮一は "骸骨のすすり泣きが聞こえそうな国だ" と言った(注)。雨が降らないので、ペルーの北部からチリ北部までは砂漠だらけである。この砂漠が昔、日本人移民に苦い記憶を作らせたのだが・・・・・
 前置きが長くなってしまった。では、改めて日本と関わりがあった事柄を2回に分けて紹介しようと思う。
 (注) 灰色の雲が低く垂れ込めた暗い雰囲気に囲まれ、スペイン人侵略者へのインカ族の恨みが聞こえるようだと言う意味を込めたもの。(1957~8年頃に産経新聞に連載されたレポート「世界の裏街道を行く」より)。
 
≪マリア・ルス号事件の話≫
 この事件も年紀で言うと丁度140年前に起きた事件で、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク"が一人の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号(Maria Luz)"船内の惨状を訴えた。船の中の待遇は家畜同然で、出発前に聞いた待遇とは全く違っていたのである。この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民は疲弊しきっていた。
 一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を図るべくラモン・カスティージャ大統領は、金銀の採掘や特産品のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する良質な原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望しマカオに来ていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。 ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ドルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていた。マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置としてまだ国交の無い日本に避難してきたのだ。明治5年6月4日のことである。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が、英国軍艦に救助されることになった。清国人の名前は「木慶(もくひん)」と言った。
 英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けた政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長のリカルド・ヘレイロを裁判にかけた。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時として驚きの目で見られ、大江卓の人権擁護思想の下に進められた。大江は船内の虐待を裁こうとしたが、横浜に駐在していた外国領事達から、横浜入港までの公海上で起きた出来事には日本の主権が及ばず裁判権はないことを指摘され苦悩する。結局横浜入港後に、虐待に反発した首謀者の頭を剃ったり監禁したりしたことを日本領内における犯罪行為として有罪の判決をだした。しかし、当時続々と横浜に開設された欧米先進国の領事館は、なんだかんだと言って日本の裁判指揮を批判した。しかしこの時代では珍しい人権擁護思想を持った大江卓の裁断と、これを支持した時の外務大臣副島種臣の毅然たる対応によって清国人は全て開放されて本国へ送還された。清国人たちの喜びはいかばかりであったろうか。
 この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された。これが後の日本人移民が実現する伏線になっている。
 (注)資料の中で、このときの清国人の喜びの様子を次の文章が表している。中国人は日本に対してもっともっと礼をつくしてもおかしくないのである。 『貴政府の御仁恩広く、草木昆虫の微にいたるまでも、みなそのところを得せしめ候様遊ばされ候儀と存知奉り候。若し、船長より是非とも私度もを差し押さえ、船中へ連行候儀にも候はば、私ども余儀なく貴国境内に一命を擲ち、決して身を斧砧(ふちん)の上に送り申さず所存に御座候。右事情何卒万国公法の権衡を以って私ども愚民の生命を御保護、郷里へお差返し下され候はば、再生のご恩有難く拝戴、来生は犬馬となり、あるいは異日亡魂草を結び環を含み、御恩に報い奉るべく存じ。哀願奉り候。』 (注:巻末の”異日”、以下の文は当時の中国の報恩のたとへ表現である。死んでも何らかの形で恩を忘れていないことを告げたい、という意味)。
 
≪高橋是清の話≫
 岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、日本陸軍のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった) いわゆる2.26事件によって、反乱軍に自宅で射殺された。この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。
 1889年(明治22年)、当時、初代の特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルーのジャウリ(Yauli)村にあるカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ホルヘ・ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った(注)。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。しかしそこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。
 (注)ジャウリ村は地図では2箇所ある。いずれも首都リマから東へ約60kmと 130kmのアンデス山脈の高峰に近い場所で、どちらかは分からないが、60kmの場所には鉱山のマークがあるのでここの可能性が高い。
 昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は散々な苦労をした。一行の中には馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落する者が出るなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る是清は、悠揚せまらず、"アンデスも転びてみれば低きもの" と人ごとのように一句を吟じたと言われる。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年もの間掘り尽くされた廃坑であった。
 特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(現在に換算すると数十億円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は惨憺たる失敗であった。日本の政治史に残るような大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。 是清は家屋敷を売り払って借金を返したと言う話である。ときの人達は、このことを、”カラワクラ はるばる来たら クラワカラ(蔵は空)”と揶揄した。陽気で人が良いなどと言われるラテンアメリカ人が、狡猾で恐ろしい一面を現した事件の一つである。

≪リマの天野博物館の話≫
 1532年にピサロがやってきて、インカ帝国を滅ぼし、リマに首都を定めてから五百年以上の歴史を持つこの街には、多くの教会がある他、博物館もたくさんある。日本人観光客がよく行く博物館は、①アンデスへの夢とロマンに生きた天野芳太郎氏が、チャンカイ渓谷で発掘収集した土器、織物を収蔵・展示した「天野博物館」、 ②インカおよびプレインカ時代に栄えたアンデス文明の黄金製品を集めた 「国立黄金博物館」、③インカ族の性行為を通して、おおらかな人間性を率直に現した陶器の人形を多数集めた「ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館」などである。本編では、これらの博物館のうち、日本人の天野芳太郎さんが開いた「天野博物館」を紹介する。 (右の写真は、ラファエル・ラルコ博物館収蔵品の複製、筆者所蔵品)

 天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた(1982年:昭和57年10月14日逝去)。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、 エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため全てを放棄させられ強制送還された。
  しかし、ラテン・アメリカへの夢と情熱は絶ちがたく、持ち前の執念で、戦後の1951年(昭和26年)、密出国のような形で日本を離れた。ところが、乗船したスエーデンの貨物船クリスターサーレン号(4900トン)が太平洋上で暴風雨に遭遇し、船体は真っ二つに割れて沈没、13時間の漂流の末救助され、日本へ送還された。その後1か月足らずの後に再び日本脱出を果たし、米国、パナマを経て、運良くペルーに着いた。勝手知ったペルーに渡ってからは、魚粉、魚網などの製造事業を行いながら、青春時代からの夢であった、古代アンデス考古学研究への挑戦が始まった。
 戦前からのアンデス遍歴で、知識は十分に持っていた。未発掘の遺跡を求めて、リマ北方200キロのチャンカイ渓谷に入り、いつ果てるともなき発掘作業が続けられた。それから20数年間の地道な遺跡発掘の労苦が実り、2300余点の貴重な宝物を収集し、その成果は世界に知れ渡った。
 天野氏自身はその過去について多くを語らないが、戦前戦後を通して、人には言えない労苦を重ねてきた財産を、1963年に念願の天野博物館を建設する際、殆ど使い果たしてしまった。各国からペルーに来る皇族、政府要人等のVIPの多くがこの博物館を見学に訪れる。日本で開かれたいくつかのインカ展にも出品した。米国や欧州、中南米諸国などの展覧会にも毎回のように出品を求められている。 ペルーの古代文明研究者には全ての収蔵品が開放され、写真撮影や、出版にも無料で便宜が供与されている。チャンカイ文化の"つづれ織り"など7点が、ペルーの切手図案に採用されている。日本人を始め世界の50余か国から同館を訪れる観光客は、年間約6000人に上る。見学は無料であるが事前予約の申し込み制になっている。
 天野氏は、 「ペルーの宝である民族的遺産を、外国人の私が有料で公開することには抵抗を感じるので無料に徹したい。研究者が誰でも展示品を手にとって見られるように、展示品は私の独創的な配列をしている。予約制ではなく一般公開にすると、見学者が増えて館員や警備員の増員などの問題が出てくる」と語っていた。しかし日本の文化交流調査団から、”博物館の維持のために募金箱を設置したらどうか”との提言を受け、入館者から募金の形で寄付を受けている。人件費を含む運営費は年間凡そ1600万円かかると言われているが、2000年以降は入館者数も増え、ようやく運営のめどがついてきたと伝えられている。

<その2>へ

参考文献: Luis Diez Canseco Nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1:有隣堂発行)、天野博物館発行資料。

参考文献の本文内容への転載転用引用をお断りいたします。

▲<その1>へ

四 季 雑 感(20)-2

樫村 慶一

マチュピチュが大好きな日本人のために
日本とペルーの過去のできごと

<その2>
 
≪日本人移民の入植と、悲惨なペルー下りの話≫
 1800年代後半の日本は、首都が東京に移って政治構造が激変し、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との通商関係が緊密になってきた。また一方では、軍国主義政策が推し進められ軍隊が増強された。工業の発展と軍隊の増強は、必然的に人口の増加をもたらす結果になった。
 1872年(明治5年)の人口3450万人が50年後の1920年には、約2倍近い5460万人に達した。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から溢れ出した余剰人口は、新しい労働の場を求めて都会に集まってきた。一方、これらの労働者を救済するための対策は十分ではなく、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。行き場の無い人々は食うための手段を自分達で解決するしか方法がなかった。特に農村の二、三男達は相続できる土地がないため悲惨であった。これらの解決方法として考え出されたのが外国への移住である。

 一方、19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(1879~1884)の荒廃から徐々に立ち直り、工場設備は近代化され生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖価格の上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力不足が決定的になってきた。それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄し、ペルーへの労働力提供を止めた。
 この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴集したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料として1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるなどの、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。 こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
 移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民自身もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は(雨が降らないので)屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。これに対し農場主達は、武装ガードマンを派遣するなどで対抗した。中にはピストルで殺された移民もいた。しかし、農場主達は中国人との問題を経験していたので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられたので、1900年、日本政府の調査団がペルーを訪れ全員を送還しようとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束したため、送還は実現しなかった。
 それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデス山脈を越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスの峻険を越え、ボリビアやパラグアイ、さらにはアルゼンチンへまで逃げた人達がいる。しかし、厳しい山脈を越えることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが移民の歴史で言われる「ペルー下り」、或いは「ペルー流れ」という移民哀史である。
  しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資本を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。森岡移民会社が行った渡航は、1899年から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名となっている。このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では5万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎え、ペルーと日本で盛大に式典が行われた。
 写真説明:(上)日本人移民が上陸したカニェテの海岸。下の方、水際に点々と黒く残るものは当時の桟橋の杭跡と言われるが真偽のほどは不明。(下)パンアメリカンハイウエーから眺めた内陸の砂漠と荒涼とした山々。この山地を日本人移民達は裸足で逃げた(撮影・樫村慶一)。

≪日系人排斥運動と国交断絶の話≫
 フジモリ大統領の誕生を頂点に、ラテン・アメリカで最も親日国になったペルーと日本との歴史の中でも、1940年(昭和15年)5月13日に起きた排日暴動は、ペルーと日本との関係の中で、最も忌わしい出来事の一つである。1930年代のペルーは、米国資本と結びついた「40家族」と呼ばれたヨーロッパ移民の白人達が支配していた。彼らは日本人の経済的進出を嫌い、例えば、日本人がスパイを組織したとか、秘密軍事基地を作ったとか、武器弾薬を陸揚げしたとか、まことしやかなデマを流して、日系人に嫌がらせをした。
 ペルーには他にも外国の移民がいたのに、特に日系人が狙われたのは、日米関係の悪化に伴う米国の反日ムード作りが背景にあったのである。また、ペルー社会には、日系人がペルーに移住してから、まだ40年足らずの新参者にもかかわらず、急速に成長した妬みもあった。その上、日系人の商売が既存のペルー人の小規模な店との摩擦を生み、ペルー人側が面白く思っていないと言う情勢に、米国が目をつけたとも言われている。このように1930年代の末期には、国内に多くの不安定要素があり、いつそれが爆発してもおかしくない状況だったのである。 1940年(昭和15年)5月13日に起こったリマの排日暴動は、このような社会的背景の下に起きた事件である。しかし、そのきっかけは、日本人理髪業組合内部の、同胞相食む醜い抗争が原因であった。
 当時リマでは理髪店の数が飽和状況に達し、このままでは共倒れになることを恐れたH組合長が、市役所の役人を抱きこみ、傲慢にも独断で自分の商売敵22軒に閉店命令を出させた。ところが、閉店を強制された側は、官憲にコネのあるF氏を立てて、市当局にこの命令を撤回させ、争いは法廷に持ち込まれた。H組合長は領事館を抱きこみ、日系新聞もH組合長側につき、F氏を攻撃した。
 事件が大きくなったのに驚いた領事館は、F氏に日本への帰国を命じた。ペルー国籍をもっているF氏を強制的に送還することは違法であったが、中央日本人会も領事館の決定を支持した。領事館はF氏を強制送還するため逮捕しようとF氏の家に侵入した。この時たまたま同家にいたペルー人のマルタ・アコスタと言う女性が巻き込まれ、死亡してしまった。悪い事に、この女性の親戚に地元新聞の社長がいたため、新聞は連日、日本人ボイコットを煽動する悪質な排日記事を書きたてた。険悪なムードが市中に流れ、ついに破局がやってきた。
 市内のガダルーペ中学の学生が、排日スローガンを書いたプラカードを手にして市中を行進し、これに野次馬が加わり、日本人商店に投石を始めた。暴動はやがてリマ市内から隣接の港町カジャオに飛び火し、さらに地方の都市へも波及した。しかし、不可解にも警察は介入せず、制止さえもしなかった。暴動は5月13日から翌14日の夜まで続いた。この結果、日系人620家族が被害を受け、被害総額は当時の金で600万ドルに達した。このうちの54家族316人が再起不能の被害を受け、1940年7月16日、日本郵船の太平洋丸で帰国を余儀なくされたのである。
 悪夢のような暴動は2日間で終わったが、日本人達は暫くは、このショックから立ち直る事が出来なかった。ここで不思議なのが中国人の動きであった。今までは暴動が起きれば中国人の店も被害を受けていたのに、今回は店先に青天白日旗(今の台湾の国旗)を掲げ、高見の見物をしていたのである。このようなことから、当時、日本軍が中国大陸への侵略を続けていたために、中国人が煽動に1枚噛んでいたのではないかとの憶測も流れた。
 ところが、事件から11日目の5月24日、リマ市一帯は大地震に襲われた。アドベ(日干し煉瓦)造りの家は大被害を受け大勢の死傷者がでた。誰言うともなく、「罪の無い日系人をいじめた天罰だ」との噂が流れ、科学的知識に乏しい妄信的カトリック教徒だった一般大衆は、改悛の情を顕わにした。地面が揺れ戸外に飛び出した人々の中には、「私は日本人に何にも悪いことはしませんでした」と、手を合わせ、膝まづいて天に絶叫する女達が沢山いたと言うことである。地震が収まってから略奪した品物を日本人の家に返しに行ったペルー人もいたと言われている。この地震は全くの偶然とは言え、高ぶっていたペルー人の反日感情を抑える上で何よりの役割を果たした。まさしく神風だったのである。暴動は一応収まりはしたが、日米関係の悪化と共に、時代は確実に破局に向かって進んで行った。
 ペルーとの国交は、第二次世界大戦でペルーが連合軍に組し、日本との国交断絶を声明した1942年(昭和17年)1月24日に途絶えた。日系人は財産を没収され、米国に強制的に追放されたり、日本に強制送還されたりした。戦争終結後も再移住を認められない人達も大勢いた。このように一時期、ペルーは反日国であり、”日本人移住者の受難の時代”があったのである。それから10年後の1952年(昭和27年)6月17日、日本とペルーとの国交は再開された。

≪鈴木善幸元首相のペルー訪問時の裏話≫
 今から丁度30年前、1982年6月、時の首相鈴木善幸自民党総裁がペルーへやってきた。途中他の国を回ってきたのだが、何しにペルーくんだりまできたのか理由・目的は今では思い出せない。当時ペルーとは外交上にも特別な懸案もなかったと思うし、結局何もなかったので、結果的には総理の引退慰安旅行だったようだ。それでも、KDDは首相官邸と外務省を直接繋ぐホットラインを引かなくてはならなかった。
 旧KDDには特別通信対策担当という正規の会社機構からちょっとはみ出した担当部署が運用部にあった。この担当は、名前の通り皇室や政府のVIPなどが外国に出張するときや、外国や国内で国際的な大きなイベントが行われるときなどに、テレビ・ラジオ伝送やホットラインなどのために臨時に特別な回線を開く作業を行う部門である。私は前記の首相ペルー訪問の特別対策を援助するため、赴任して2ヶ月しかたっていないブエノスアイレスからリマへやてきた。
 4月に赴任するとき当時の日高会長から「戦地へ行くんだな、十分気つけるように」と励まされた。着任と同時にマルビーナス(フォークランド)戦争が始まり、日本から大勢のマスコミがやってきた。当時アルゼンチンは超々インフレの時代で、日本の通信社、新聞社は全社が支局を閉鎖してブラジルなどへ引き上げてしまっていたため、日本の通信関係事業者はKDDだけであった。このため来アした記者達がKDDの事務所へ殺到した。どこかに仲間意識があるのか気安く、なれなれしく出入りしてきた。目的は、テレックスを借りるのと、事務所にはOCSで日本の新聞が2日遅れくらいで送られてくるので、それを見て自分が送った記事が本社でどの程度に扱われているかを確認したり、同時期にロンドンから日本へ送られた記事と比較したり、さらには日本国内の様子を知るためであった。6月になり、実質的にアルゼンチンの敗戦が決まると、潮が引くよううにいなくなってしまった。テレックス使用料は後で払うと言っていたが遂に1社も払いに来なかった。これもKDDの存在理由の一つと思い請求はしなかった。
 ペルーでの特別対策の作業は、リマの五つ星ホテル、クリジョン・ホテルの最上階の首相用スイートルームと手前の秘書官用部屋に首相官邸と外務省を結ぶホットラインを設定することである。本社から来た特別対策班とペルー電電公社の技術者と数回にわたり打ち合わせをした。最初に顔を会わせたときはびっくりであった。なんと、先方の5,6人の技術者全員が全部KDDに研修に来た人間で、皆私が千葉の家へ招待した人達だったことである。打ち合わせの途中で、重要な設備部品 (首相と秘書官の受話器を切り替えるスイッチだったように思う)がないことが判明した。この件は事前に分っていたことで、ペルー側には品物がないのでKDDが持参してくることになっていたのを忘れてきてしまったのだ。KDD本社から来た者は真っ青になった。そこで、私がこれも知己であった電電公社のP副総裁に助けを求め、結局ペルー側で急遽作ることになり、急場を凌いだ。しかし一難去ってまた一難である。時あたかもフットボール・ワールドカップ・スペイン大会の真っ最中であった。(南米ではサッカーとは余り言わない)。
 今度は首相が泊まる肝心のスイートルームが空かないのである。首相は午後2時頃着く予定である。リマでは前日まで、ミスユニバースの南米大陸予選が行われており、首相が泊まる予定の部屋はベネスエラ代表が泊まっていたのだ。大会は昨日で終わり、今日の午前中にチェックアウトすることになっていたので首相用に予約してあったのに、午前11時になっても美女が帰ってこない。我々は大いに慌てた。電話局から直接引き込んだケーブルは、保安上の理由からホテル内を通さずに外壁を這わせて直接最上階の首相の部屋へ引き込む予定なのだが、部屋が空かないのではどうしようもない。やむなくホテルマネージャー立会いで部屋に入り、外のケーブルを隙間から引きこみ、ベネスエラの美女にはケーブルが見えないように先端を隠して出てきた。私はこの間の工事と例のスイッチを何処に設置したのかは知らない。どうやら部屋が空き、電話器を繋いだのは首相到着の1時間ほど前であった。鈴木総裁は次期総裁選挙は無競争で当選が確実視されていた。それなのに、どうした心境か次期総裁選挙には全く関心を見せず、日本のことなどさっぱり忘れたかのようにリマの休日を楽しみ、夜はぐっすりお休みなったらしく、ついに1度も電話器を手にすることはなかった。もちろん我々の苦労など知る由もない。日本とペルーの話のついでとはいえ手前味噌の話を持ち出して大変恐縮である。  おわり  (2012. 8月 記)

 参考文献: Luis diez canseco nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1有隣堂発行)。参考文献の本文内容への転載転用引用をお断りいたします。

 


四 季 雑 感(番外)

樫村 慶一

久家さんが逝った

 東報出身で、重役にまで登った久家勝美さんが亡くなった。我々電報局出身者の希望の星だった(私だけがそう思ったのかもしれないが)。旧KDDの重役は大抵全国紙に訃報が載るし、会社の広報からも何かしら発表があるだろうと思っていたけど、なんにもない。定年になってしまえば、平も重役もないし、ましてや死んじゃったらただの元KDD社員だった、でも構わないけど、久家さんは昔流行った源氏鶏太の「三等重役」を地に行ったような重役だった。ざっくばらんで、史跡探勝会の昼食の席でも一杯ビールが入れば、「おい、久家」で通っていた。どうゆうわけか、いつも集合場所の駅などで会うと「昔の社会党がどうの、誰々がどうだったの(旧組合委員長や役員の名前など)」と、いきなり喋りだす。三鷹の白木屋の昭和会でも同様だった。いい加減に返事していても別に怒ることもない。まことに穏やかな、そして昔話の好きな懐かしがりやの紳士だった。
 個人的な思い出を一つ。「30年前、福地東京支社長から海外事務所長の内示を受けるとき、久家さんは運用部長で同席していた。私が内示を受けると、私以上に久家さんがびっくりした。私などとなんで同席するのか支社長から事前に知らされていなかったのだ。支社長室をでて、「お前も人が悪い、何故一言言わなかったのだ」と言われた、私だって知りませんでした、というと、頭をふりふりのっしのっしと行ってしまったのが今でも脳裏に残っている。
 はっきり覚えていないが、旧KDDの年金制度を作ったという人は自薦他薦で10指にあまるが、久家さんもその一人だったような気がする。また良き時代を知る大物が消えた。時の移ろいは知らぬ間に周りの環境を変え、御恩になった方々を消し、いつかは自分も。永遠の冥福を祈ります。 Q. E. P. D.!

 

《写真は、2010年 5月 9日の史跡探勝会で両国界隈からスカイツリー建設現場を歩いた時、東関部屋(元大関高見山)の前にて》

 

 四 季 雑 感(19)

樫村 慶一

- とんでもない仮説 -

 最近の、特にここ1年以内くらいの間における社会不安の増大、つまり、事件、事故、異常事象などの多さは目を覆いたくなるほどだ。新聞やテレビだけしか知る手段がないが、それでも死者が大勢でる交通事故、殺人事件、船舶事故、鉄道事故、自殺、さらには地震、水害、竜巻、雹、雷などの異状気象、動物の異常生態、外国での飛行機事故、幸い日本では起きていないが爆弾テロなどなどの発生件数は、過去の同じ期間の記録と比較しても多過ぎるのではないだろうか。特に人間の意識が正常ではないために起きた人為的原因の事件、事故、そして異常気象が原因の天災、いずれにしても昨年あたりから随分増えたと感じるのは私だけではないと思うが、これも悪いときには悪いことが重なるもんだ、と言う諺に照らして割り切ることができないでもない。しかし私は、人間の視覚や感覚では図りきれない何か大きな力が働いて、人類の運命を悪い方へ悪い方へと押しやっているのじゃないかと神経質な推測をしていた。

 そこで私は一つの仮説を考えた。笑われるのを承知でk-unetのページを汚して見ようと思う。

 つい先日、オーロラに関するNHKのテレビ番組を見た。(5月半ばころ、番組名は控えなかった)。オーロラ研究に関する異常気象の話が主であった。覚えていることを並べて見ると以下のようなことである。
 『今年に入り宇宙には特別な現象がいろいろと起きている。すなはち、部分日食が各地で起きる、太陽表面を金星が横断する(2004年以来、次回は105年後)、日本に続きオーストラリアで金冠日食が起きる、そして昨年辺りからは太陽の表面のフレアーが減り、黒点が減るなど太陽活動が鈍くなってきた。太陽活動が極小期と呼ばれる時期に入ったためではないかと言われる。太陽活動の鈍化と共に地球の極地の地磁気も弱まり、地球を宇宙線から守る役目のオーロラが低くなり減ってきた。このため銀河系から地球に降り注ぐ宇宙線が増えてきので上空の雲が増え、地表の温度が下がってきて異常気象が起きるようになる。前回の極少期はマウンダー極小期と言って1645年から1715年まで70年間続き、ロンドンのテームス川が凍りついた・・・・・』 と言うことである。

 (注) マウンダー極小期:英国人エドワード・マウンダーが発見した現象で、太陽活動が極少になり黒点が大幅に減少する時期のこと。1970年に認められた現象。寒冷期の遠因になるとされヨーロッパや米国では夏至になっても夏らしくならなかった。

 私はマウンダー極小期という言葉に興味を引かれインターネットで探して見た。そして一つのブログに出合った。「スピリチュアル大学」というタイトルのブログには、『マウンダー極小期は実際には1630年頃から始まった。この頃から太陽の黒点が減り始めた。日本では通常の時代ではありえないようなことが起きた。それは、徳川綱吉の時代で、鎖国令、生類哀れみの令、富士山の噴火、何回もの飢饉などである。・・・・』 と書いてある。また、さらに次のようにも言っている 『地球と人間が平常より多くの宇宙線を浴びることになる。宇宙線はどこでも通過するので人間のあらゆる細胞やDNAにも入り込み、人間の心にも影響を与えるようになる。』
 ここで私の仮説である。『前述のような太陽活動の衰退が地球上に大量の宇宙線を降らせ、その影響で動物の肉体的活動を鈍くし、思考力を減退させ、平常心を失わせ、その結果として事件、事故の増大に間接的に影響しているのではないか。』 というものである。気象の異常も同じようなことが遠因ではないかとも思う。

 例えば、車を運転していた者がなぜこの時期にあちこちで事故を起こしたのか。偶然が重なったと言ってしまえばそれも納得できることではあるが、やっぱり多すぎると思う。其の上、人為的原因ではない地震、豪雨、雷、竜巻などの異常気象が今の時期になぜ多いのか、これも、宇宙の異状がもたらす不可抗力な原因が、地表のみならず海底深い地殻にまで影響を及ぼしているのではないかと。話を少し飛ばせば、北アフリカの政変やシリヤやイスラエルの狂気もこんなことが遠因なのかもしれないと、すでに残り少ない寿命を支えるだけのやせ細った脳細胞で考えた結果である。

 そしてさらに別のブログでは新しい宇宙の脅威を報じている。 『べテルギウス超新星の爆発予測、と題したこの文章では、2012年にべテルギウス超新星が爆発するかもしれない、そうなると、地球からはまさに太陽が二つ存在するような現象が見られる。べテルギウス超新星は地球から見える全天空の星の中で9番目に大きい星で地球から640光年離れているが、大きさは太陽より物凄く大きいので同じような大きさに見える。超新星が爆発すると周囲数百光年の範囲の惑星に生物がいれば強烈なX線やガンマー線で絶滅する。640年光年離れた地球は地磁気で守られるだろうが、地磁気が弱まっている時期では危ない。』 と書いてある。
≪写真:ベテルギウスが爆発した後で地球から見える二つの太陽の光景≫
 (注)ベテルギウスは地球から640光年離れているので、もし今日見えるとすると、それは640年前の出来事の光であり、今日爆発したならば640年後でなければ見えないはずである。なぜ2012年に爆発すると予測できるのだろうか、その辺ことは、このブログには何も書いてない。

 太陽活動の極小現象もべテルギウス爆発も、もし本当なら、小さな小さな日本の国内で起きている政局や、世界各地の紛争などは宇宙、地球規模の危機の中のゴマ粒にもならない。こんな突拍子もない仮説がもし立証されたら、今生きている人類は、今後70年間は快適な生活を送ることはできない、明日への希望はないということである。もっともっと自殺者が増えるだろうし、世の中に絶望した暴走人間がもっともっと増えるだろう。残り少ない人生が明るい希望、楽しみの持てない時代に入ってしまうのが本当に悲しい。太陽活動極小期に遭遇した今の人間は運が悪いと、地球全体が甘受しなければならない運命と諦めるしかないのだろう。そういえば、今年の12月には地球が滅亡するなんてマヤの暦に書いてあると言う話が世界的に流布しているが、こっちはただの神話だと思っている。 どなたか明るい気分にさせてくれる話題を提供してくれる会員の方はいないだろうか。  おわり  (2012.6 記)

 

 

 

四 季 雑 感(18)

樫村 慶一 

-- 嫌な予感がする年 --

  私達は、「小」は自分自身の周りから、「中」は定年後の生活を保障してくれる有難い会社の周り、さらには「大」は国を取り巻く地勢的環境と、色々は環境のなかで生活している。それらの環境が大は何千年周期かで、小は10年くらいの周期で一定の波が巡ってくるように思える。今年は私個人にとっても、KDDIにとっても、さらには日本自身にとっても重大な年になりそうである。
 私が今の豊島区のマンション生活を始めたのは丁度10年前(2002年)である。従って今年は生活を取り巻くあらゆるものが10年目になる。これが問題なのであって、特に家の中の諸々の生活道具の最初の寿命更新の時期がやってきた。電気、ガス、水周り、といってみれば一般家庭の中にあるいわゆる”なになに設備”という類に、がたが来はじめたのである。其の一つ、寝室の天井の蛍光灯がつかなくなった。てっきり切れたと思い新品を買ってきて取り替えた。今の蛍光灯には、従来のものと今流行のLEDのものと2種ある。LEDの寿命は3倍以上で値段は50%高くらいなのでLEDを買った、しかし点かない、結局手に余って管理会社経由で電気設備会社に来てもらった。点検の結果蛍光灯を取り付ける器具が壊れたのだ。今は修理なんてことはやらない。新品と取り替えるだけである。。工事の人に聞いたら、確かにLEDは長持ちするが、今回のように取り付け金具が壊れたリ、スイッチが壊れたり、リモコンの音波発射部分が壊れたりで、周りが一部の長寿についていけないので、延びた寿命をすんなり享受するのは難しいという。それはそうだろう、全部が何十年も持つようになったら、それぞれの商売は上がったりになってしまう。先日は、これも10年になるアナログ時代のVHSデッキが壊れた、これは過去に撮りためたビデオの再生用にしかならないのであっさり廃棄できたけど、今後次々と起こるであろう設備類の障害を考えるとうんざりする。のんびり生きていくのにも結構な維持費がかかるるものだ。
 最近のテレビ番組には、次の地震の予測と津波の高さや被害の予測に関するものが多いが、この狭くて小さな国土や周辺の海にまたまた大きな地震が発生して、原子力発電所に事故が起きたら逃げる場所があるのだろうか。真面目に考えると恐ろしい。世界の国々に、何百万人とか何千万人とかまとめて難民として引き取ってもらわなくてはならないだろう。2000年前にローマに滅亡させられ、世界の流民となったユダヤ民族の悲劇の再来である。過去、日本は難民引き受けには余り積極的ではなかったので逆の立場になったときは心配だ。残り寿命が少ないことを忘れて、真剣になって国外脱出を家内と話合ったこともある。行き先はアルゼンチンである。30年間に、誕生日、友達の日(毎年7月)、クリスマスと年に3回もプレゼントを交換して家族ぐるみ付き合っている友人が、逃げてくるなら別荘を貸してくれるとまで言ってくれる。しかし、最近5年間で3回も心臓周辺や胸部の手術を受けた体は、気持ちだけではどうにもならない。今更実現できないもどかしさは切実である。
 アルゼンチンほど、良い国はないと思っている。2007年に「アルゼンチン・ばばあ」と言う映画があったが、自分では「アルゼンチン・じじい」と言いたい思いである。地震、台風、火山爆発、竜巻と言った大きな人的被害をもたらす天災はなく、水害は一部の川で数年に一度、旱魃は広い国なので地方単位で起きるが、どこの国でも起きるのと同じような規模であり、異常気象もしかりである。食料は牛が国民の2倍(6000頭)もいるし、小麦・大豆は世界有数の輸出国だし、フォークランド島近海の南大西洋は魚介類の宝庫だし。石油は出るしウラン鉱石だって出る。政治も民主主義がすっかり板につき、反政府活動の芽もないしやる理由も旨みもないことを国民は知っている。さらには日本人移住者がが3万人以上もいる。私から見れば地球上のパラダイスとも言える国である。しかし、何事もすべてがうまくいくとはかぎらないのが世の常で、アルゼンチンも2001年のデフォルトの後遺症に未だに悩まされ、今年2月1日からは外貨節約のため強烈な輸入制限を始めた。ブラジル製品をのぞき、ほとんどのものが輸入禁止になった。外資の投資が極端に減ったので外貨をかせげるのは大豆だけになってしまった。しかし、ラテンアメリカの国はなんのかんのといっても生き抜くのだから偉い。最後はやっぱり資源のあるなしの問題なんだろうと思う。金がなくても物さえあれば強いものだ。
 話はやっぱり会社のことに戻ってくる。今年は地上アナログ放送が終わって空いた900メガ帯と700メガ帯の2種類の周波数の割り当てが予定され、すでに2月末に900メガ帯のいわゆるプラチナ・バンドがソフトバンクに割り当てられた。ドコモとauはすでに持っているので、今回はソフトバンクが取ると言うのは大方の予想でもあったし、そうでなくても、郵政省肝いりで始めたPHSのウイルコムの経営が怪しくなったのを、ソフトlバンクが救ったということで一本借りができていた総務省が、当然のことをしたと見る人もいる。
 ここまではいいんだが、これからの展開が、はらはらどきどきしなくてはならないことになりそうなのだ。もう一つの700メガ帯の割り当てが7月に行われることを巡って、ソフトバンクがこれもよこせと総務省に猛烈にアタックをかけている。ソフトバンクはKDDIに対して敵意を持っていると言う。理由はただ一つ、iPhoneの独占をKDDIに破られた恨みである。この700メガ帯は帯域の幅から2社しか参入できない。今年になってしばしば発生した、スマートフォンの急増による回線のパンク状況を解消させるには、加入者の多い会社の順に割り当てるのが筋だろうが、一方で公正に選ぶとなると、2008年の高速無線サービスの事業者選定(KDDIとウイルコムが免許を受けた)の例ににて、今度はドコモとイーモバイルという答えもある。特にイーモバイルは経営不振から新周波数をもらわないと存亡にもかかわるという理由がある。そこでソフトバンクはイーモバイルへの割り当てをバックアックして、割り当てられたらイーモバイルをそっくり買収してしまおうという戦略を描いていると見る人もいる。
 KDDIにとっては、ソフトバンクにいいように翻弄されてはたまらない。このままでは新参者に、「かって国内はNTT、国際は KDDと棲み分け、NHKと共に郵政御三家と言われて、宇宙空間に君臨した名門の血を引くKDDI」が、将来の存続を脅かされ、その基盤を揺すられようとしている。今年の大河ドラマではないが、栄枯盛衰は世の習いとは言え、2012年は周波数の割り当てを巡り携帯電話会社を激動させる地震が来る、怖い年になりそうな、いや-な予感がする。
  (注:下線の部分は月刊誌「選択2011.12月号2012.2月号の記事から引用した。2012.4 記)