第31

  

 

 

ルイ15世と デュ・バリー夫人と マリー・アントワネット

 

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ジャンヌ・デュ・バリーのポスター

 

 先日観た映画『ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人』が面白かった。デュ・バリーとはルイ15世の最後の愛人であった人である。映画に関していえば、佐藤賢一氏がいうルイ15世「ちょっと枯れた昔の色男感が不可欠になってくる」をジョニー・デップが見事に演じていて当時のルイ15世像を十二分に醸していた。マリー・アントワネットに至っては「過去最高のそっくりさんだろう」と佐藤氏は大絶賛している。ルイ15世とは「歴代の王のなかでも随一と讃えられた美貌の貴公子。64年の命尽きるまで、数えきれないくらいの愛人を持ち続け、その女たちに愛され続けたことで『最愛王(ル・ビアン・ネメ)』と呼ばれた男」である。(パンフレット 佐藤氏解説より)

 今回は当時の絵画を鑑賞しながら、ルイ15世の治世の一部を垣間見ていきたい。

ルイ15世

 

デュ・バリー夫人

 ルイ15世といえば、およそ20年にわたって彼に君臨していたポンパドゥール夫人がよく知られている。その夫人が病没してから5年経ち、デュ・バリー夫人が登場してきたのである。私生児でお針子、そして娼婦であったと噂される女性が寵姫の座につくことを聞かされた宮廷人の混乱ぶりは察して余りある。ポンパドゥール夫人を失って後、相変わらず次々と愛人をつくっていたルイ15世もすでに58歳、一方のデュ・バリー夫人は25歳という若さであった。ルイ15世は多くの愛妾をたくわえたことで後世に名を残した。そのためにフランス革命の遠因をつくったという歴史家もいるほどである。実態は国王自身の政治的無能と無気力の方であったといわれているが、そういわれるほどの波乱振りだったようである。
 寵姫というのは愛人とは違い、国王自身によって王妃や王太子等の王族および全宮廷に正式に紹介され、その存在を公けに認められた側室のような女性のことである。そして一旦寵姫に宣せられれば、王妃に準ずる扱いを受け、宮廷で権勢をほしいままにすることができた。
 マリー・アントワネット(以下M・A)がお輿入れをしてきた時は、まだ15歳という若さであった。ルイ15世の隣にはいつもデュ・バリー夫人。M・Aとデュ・バリー夫人との対立は歴史に一ページを残すほどの一大イベントとなっていった。M・Aはデュ・バリー夫人の出自の悪さや過去の経歴を蔑視し、無視することに徹底した。デュ・バリー夫人からM・Aに声をかけることは許されず、取り巻く叔母や女性たちからつぎこまれて、宮廷内はM・A派とデュ・バリー夫人派に分かれていきバトルが続いていた。M・Aがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている。

 シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』関楠生訳で読んだ次の場面、歴史的重要場面であったことをこの映画は物語っていた。

M・Aの肖像

M・A 少女の頃の肖像

 

 「M・Aが宮廷にきたときには、デュバリ夫人なる人の存在もその特別な地位のことも知らなかった。風紀の厳正なマリア・テレジアの宮廷では、側妾という概念はまったく知られていなかったのである。彼女は最初の晩餐会のとき、他の貴婦人たちのなかに一人、豪華な装飾品を身につけ、晴れやかなよそおいをこらした、豊満な胸の婦人が好奇の目をこちらへ向けているのを見、その婦人が「伯爵夫人」と呼ばれるのを聞いただけだった。これがデュバリ夫人である。・・・ M・Aは数週間後にはもう、『ばかで横柄な女』と、母親にあてた手紙に書いている。彼女は、親切な叔母たちが彼女のしまりのない唇につぎこんだ意地悪い陰険な意見を、何の考えもなく大声でそっくりそのまま繰返した。それで、退屈のためいつでもこういうセンセーションを待望している宮廷にとって急にすばらしいなぐさみの種ができたわけである。というのは、M・Aが、ここの王宮で孔雀のようにいばりくさっているあつかましい闖入者を徹底的に黙殺してやろうと思いこんだから、いや、むしろ、叔母たちにそう吹き込まれたからである。

 1772年元旦に、この勇ましくもこっけいな女の戦争はついに終結した。デュバリ夫人が凱歌をあげ、M・Aは屈服したのである。・・・前代未聞の、運命を左右する力を持った言葉を口にした。彼女はデュバリに向かってこう言ったのである。

 『今日はヴェルサイユはたいへんな人ですね』
  Es sind heute viele Leute in Versailles.

 この七語、正確に数えて七語を、M・Aはやっとの思いで口に出したのであるが、これは宮廷では大事件であって、一州を獲得するより重要でもあれば、とうから必要になっていたすべての改革にもまして人心を聳動するものなのだった――王太子妃がついに、ついに、愛妾に話しかけられた! ・・・この陳腐な七語には、もっと深い意味があった。この七語によって大きな政治的犯罪が確定し、ポーランド分割に対するフランスの暗黙の諒解がかちとられたのである。」

 M・Aは敗れた。
 この後、首飾り事件が起こる。この世にかつて類を見ない、もともとデュバリ夫人のために作られた傑出したすばらしいダイヤモンドの首飾りである。 
 久々にシュテファン・ツワイクの『マリー・アントワネット』を開いてみたら、ルソーの『社会契約論』やフリーメイスンや「セビリヤの理髪師」やらも出てきていて、今夜はこのまま本書を通読していきそうな勢い。私のフランス革命手引き書。とにかく面白い。

(2024.3.2)

 

 

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第30

  

 

 

パリ ポンピドゥーセンター  キュビスム展 ― 美の革命 
ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ
上野  国立西洋美術館  2023.10.3 - 2024.1.28

 

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キュビズム展ポスター

 キュビスム、これまで私にはどうも馴染むことのできない一派であったが、今回当展覧会で多くの作品に触れることによって立体感の面白さとグラデーションする多彩な色彩の変化に魅力を感じ始めてきた。展覧会に足を運んだ後の12/9、TV「新美の巨人たち」《ピカソの芸術革命 キュビスム》の番組を見て、キュビスムが生まれた背景とキュビスムが現代の日常生活の身近なところにも影響を与えていることを知り、突如、これまで敬遠気味だったキュビスムが身近に感じられてきた。とてもわかりやすい番組だったので、その内容をここで紹介したい。

《ピカソの芸術革命 キュビスム》

 見たままをそのまま描くのではなく、新たな表現方法はないか、その模索がもたらしたのがキュビスムであり、それは世界の絵画を根底から覆した。
 15世紀のイタリアで花開いたルネサンス、ラファエロのアテネの学堂、それはそこに存在しているかのようにリアルに見たままを優美に描く、これが古典的な絵画のスタイルである。ところがパリで反乱が勃発し、美術界は大きく揺らいでいった、写真の登場があったのである。見たままを描いていても写真にかなわない。印象派、ポスト印象派の登場、そしてピカソは絵画の常識をやぶろうともがき始めていた。

りんごとオレンジ

 

ピカソ「ギター奏者」

 ピカソはポール・セザンヌの「りんごとオレンジ」に取りつかれ衝撃を受けた。上のオレンジは横から、下のりんごは上から描かれていて、実際に配置するのは不可能な構図であった。セザンヌはあらゆる方向から見てそれぞれを見た角度で描いていたのである。それまではひとつの視点からだけ描かれていた。いろんな視点からみた絵を描いたセザンヌこそ、これこそ新たな表現方法だ、これだ!とピカソは奮闘した。ピカソ「アヴィニオンの娘たち」における女性たち、半分は正面から半分は横から描かれていて多視点で捉えていることが見て取れる。鼻から口まで測ることができることをしたい、それを描きたいとピカソは思った。
 ピカソのジョルジュ・ブラックとの出会いは運命的であった。ブラックはパリで画家を目指していて画家たちが集まるアパート洗濯船へ通うようになり、そこで「アヴィニオンの娘たち」を見て衝撃を受ける。石油を呑んで火を噴いているようだったとブラックは言う。ピカソが仲間を得た瞬間であった。

 その後ピカソの絵は、元の題材が判別できないほどに変化していく。従来の写真のようではない描き方、その探求として描いた結果であった。徐々にとんでもない境地へと向かっていく。何を描いたかわからないほどになるのである。これがキュビスムの本質、何を描いても同じような抽象画になってしまった。そしてそこから台紙の上に組み立てていく手法が生まれ、新聞紙を切り抜いて貼ったようなコラージュが始まった。これがデザインの基本的な考え方へと発展していき、描く対象の本質的なもの、その表現のためなら何でも使うようになっていったのである。

アヴィニオンの娘たち

 建築家ル・コルビュジエもキュビスムから大きな影響を受けたのをご存知だろうか。違う角度から見る、多視点からものをみる、キュビスムを取り入れて変化を楽しむ建築。それは国立西洋美術館常設展の作品の配置にも取り入れられていて、キュビスムは意外にも身近なところで触れることができるのである。
 アフリカ作品は物の根源的なものを表現している。モディリアーニの彫刻、面長な顔とアーモンド形の目はアフリカの仮面をモチーフとしている。これらの作品は、人間の想像を解き放ち、表現を変えていき、キュビスム化していき、現代の家電製品やインテリアにも大きな影響を与えている。ただ単にそこにあるものを描くのではないという発想が自然とキュビスムの形になっていった。キュビスムとその思考は現在もクリエイティブの中に内包されていて、日常生活の作品のなかでお目にかかることができるのである。

 もともと人間はキュビスムの世界で眺めている。芸術に正解はない。20世紀初頭、ピカソとブラックが生み出したキュビスムは、単なる技法を超え、ひとつの理念となって世界に拡散していった。

(2024.1.2)

 

 

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著者へのメッセージ

ありがとうございます!

坂口様 ありがとうございます! さらなるうれしいメッセージをいただきました。
美術館巡り、今後も楽しんでいきたいです。
引き続きご支援のほどお願い申し上げます。

ところで読書会も主宰しておりますので、気が向かれましたらぜひご参加ください。
毎回10~15名参加者あり。参加費無料、楽しいですよ。

【かつしか読書クラブ】

第22回 4/7(日)15時-17時
アントン・チェーホフ『桜の園』
場所:東京都 葛飾区立中央図書館(常磐線金町駅徒歩1分)会議室2
17時~懇親会(各自実費払い)

島崎 陽子

02/25 島崎 陽子


  島崎さんいつも見ていますよ!  

島崎さんこんにちは。
いつも素晴らしい美術散歩ありがとうございます。
島崎さんの作品に誘われてガラにもなく美術館に行って来ました。
いっぱい人が来ていましたよ。
素晴らしい作品でしたね。(よくわかりませんでしたが)
でも勉強になりました。  

帰りは上野のあめや横丁を散策してきました。
とても楽しい一日でした。
また、機会がありましたら応援させたいただきます。
まだ、寒いから気をつけてください下さい。
これから美術散歩楽しみにしています。  

ー坂口 行雄ー

02/25 坂口 行雄


坂口様 メッセージありがとうございます。

坂口様 動画のメッセージ、ありがとうございます。
改めて美術館を訪れたときのことを思い出しました。
私には画期的な展覧会となりました。
それにしましても、作成された動画、大変気に入りました! 
工夫が素晴らしいですね。
このようなリアル感のある仕様があることの新発見、私もトライしてみたいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

島崎 陽子

02/22 島崎 陽子


キュビズム展に行ってきました

島崎さんの美術散歩を拝見し、先月、上野西洋美術館のキュビズム展に行って来ました。
その模様を動画に編集してみましたのでご覧ください。
最後に「まちだより」の宣伝を入れていますが、悪しからず。

 

02/21 坂口 行雄