第17

  

 

 

川瀬巴水  旅と郷愁の風景
旅情詩人と 呼ばれた画家

2021.10.2-12.26 SOMPO美術館
 

 川瀬巴水(かわせはすい)(1883-1957)、大正から昭和にかけて活躍した版画家。スティーブ・ジョブズを魅了したことでも知られています。ジョブズは子供の頃に巴水に出会い、美的センスや創作活動に影響を及ぼしたと述べています。

 1883年、東京都芝生まれ。10代から画家を目指し、鏑木清方 岡田三郎助に出会い、版画店の渡辺庄三郎に新版画の風景画を委ねられて版画作成に傾注していくようになり、30代後半に版画家としての地位を確立しました。その後はアメリカ展覧会に出品、朝鮮へ旅行、国内での個展を重ねていきながら人気版画家として知られるようになっていきました。

 「朝、夕、夜、水、雲などを取材した静的な世界を私は愛する」(巴水) 赤いお寺に白い雪、和傘の和服女性、月夜の光、川にたゆたう夕日の光、漆黒の壁と雪の白、やさしい日の光を浴びる富士山。 生まれた土地の増上寺の版画を数点描いています。増上寺に降り注ぐ雪、ぼた雪の時もあれば吹雪の時もあり、その表現の違いを見比べて楽しみました。また雨や竹にみられる勢いのある直線の表現も淡い力強さを感じさせ、他作品とは違う画風に触れることもできます。

 青のバリエーションの豊富さを感じたのは巴水が初めてのような気がします。夜の濃紺の深淵さ、灰色かがった侘しさの青、昼から夜になろうとする時間の微妙な色合い。そして雨で濡れた地面にゆれながら移る街灯のほのかな光、白い雪に染まる風景、それぞれに巴水の思いを感じ、情趣を味わい、しばらく余韻が消えません。

 浮世絵版画とは違い、風景を描写したようなメルヘンチックな現実感がありました。農作業をしている地元の人、川辺で遊ぶ子供たちがなんともいえないほのぼの感を漂わせていて、巴水のやさしさを垣間見るようでした。

 200点以上の作品です。1点1点に心奪われます。顔を近付ては見入り、離れては全容を味わいました。たっぷりと時間と余裕をもってお出かけください。巴水と一緒に全国の旅をお楽しみください。

(2021.11.14)

 

  

 川瀬巴水徹底鑑賞  (671作品) ーYouTube (1時間7分)

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

松本様

いつもありがとうございます。

川瀬巴水との出会いはとても大きかったです。
今年はあと2件、絵画展予定しています。コロナ禍が縮小してきて、来年も目白押しですのでとても楽しみなんですよ。

ところで、読書会へご参加されませんか?
次回は谷崎潤一郎『細雪』です。詳細は短信でご確認ください。

いつかお会いできますときを楽しみにしております。

12/09 島崎 陽子

琴線に触れる和の版画家、川瀬巴水の作品

島崎様

浮世絵展に何回か行きましたが、いつも大御所、北斎、写楽などに関心がいっていました。大正・昭和の時期の版画は最後に展示されていましたのでどうしても印象が薄くなっていました。今回、川瀬巴水を取り上げて頂きあの「赤いお寺に白い雪と和傘の和服女性」のものが川瀬巴水だったと認識できました。良かったです。

松本

 

12/04 松本 房子


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第16

  

 

 

風景画のはじまり  コローから印象派へ
ランス美術館 コレクション

2021.6.25-9.12 SOMPO美術館

展示品構成: 19世紀風景画 -バルビゾン派 -版画家の誕生 -ウジェーヌ・ブーダン ー印象派の展開
画家:  コロー   ルノワール   モネ   ピサロ   クールベ   ブーダン   シスレー 

 

 雨の日のとある週末、行ってきました。混雑もなく当日券で入場でき、館内も人影もまばらで落ち着いて観覧でき、満足のいく展覧会となりました。
 フランス絵画や風景画、印象派展覧会となると必ず展示されているといっていいコローです。一見地味と思われる色使いではありますが、淡い濃淡の木や森の葉とくすんだ空の色、境目のあいまいな湖、そしてうっすらと存在しながら存在感のある人物、そこからあふれる詩情感、惹きつけてやまない魅力がありました。今回の展覧会では存分にそのコローの作品を見せてくれました。

 自画像

 今回は本展覧会の中心画家であるコローに焦点をあて、コローと風景画について取り上げてみます。

 ジャン=パティスト・カミーユ・コロー Jean-Baptiste Camille Corot (1796-1875) パリ生まれ

 まず、風景画です。風景画は西洋絵画の歴史のなかでは物語の背景やわき役にすぎないと考えられていたため地位が高くありませんでした。しかし19世紀のフランスではそうした風景画に対する考えに変化が起き、フランス革命と産業革命を経て生まれ変わった社会では、身近な自然を描いた風景画が人気となっていきました。イギリス人画家のジョン・コンスタブルとターナーの作品が大きな影響力を与えたことはいうまでもありません。
 それまで絵画には伝統的な地位の順序が決められていたのです。歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画の順です。

 イタリアのダンス
(
今展覧会で展示)


 湖畔の木々の下のふたりの姉妹
(今展覧会で展示)

コローはイタリアへ3回旅行してイタリアの風景を多く描き、フランスに戻るとフォンテーヌブローの森などで風景画を手がけました。イタリアで学んだ光の効果はコローの画風に変化をもたらし、のちの印象派に大きな影響を与えるようになるのです。

 コローはパリ市内の裕福な織物商人の子として生まれ、布や色に幼少期から接していた経験はのちの画家としての色彩感覚に多大な影響を与えたようです。シティボーイでありながら風景画に重点を置いて描き、その風景画には野暮ったさや闘争的、挑戦的な感覚はなく、詩情豊か、シンプルな色合いの中に大変洗練された上品さが漂っていて知性も感じられます。一遍の詩が浮かんでくるではありませんか。
 コローの評価はずっとかんばしくなく、サロンに出品してもその多くは落選しました。一般大衆にも人気がなく、作品もほとんどが売れず、不遇な時代を体験しながらゆっくりキャリアを積んで評価を高めていき、晩年に高く認められるようになりました。
 1845年にボードリヤールが「コローこそ、現在の風景画のリーダーだ」と先頭に立って宣言してから徐々に注目が集まり始めたようです。「コローの色は薄く、作品は平凡で下手くそだ」という批判に対して「コローは色彩を重視するカラリストよりも作品全体の調和を重視するハーモニストであり、全体的に常に衒学的でなく、色がシンプルだからこそ魅力的なのである」と反論しました。晩年は謙虚で控えめ、幸せな生活を送りました。「人はプライドを持って威張るべきではない」というのがコローの固い信念でした。

 「自然は芸術を模倣する」と言ったのはオスカー・ワイルドです。どういうことでしょうか。思考経路を反転しないと理解不能の表現にも思われますが、意味深いメッセージ性のある言葉です。芸術を通して自然の美しさに気が付き自然のあるがままの姿とその美を再認識するということでしょうか。

 最後に、最も知られた一点で、コローの代表作となった作品を。

 モントフォンテーヌの想い出

 《モントフォンテーヌの想い出》
 「サロンに出品された際に皇帝ナポレオン3世によって買い上げられ、フォンテーヌブローの城館に置かれました。皇帝失脚後はその財産整理によって国有財産となり、1879年以来ルーヴル美術館に所蔵されています。銀灰色の朝の光の中に、若い女性と子供たちが思い思いに花を摘み、樹に掲げて遊んでいる。伝記作者ロボー「軽々と筆を走らせたその確信的で単純な製作法によって、この自然の素描はこの画家の美しい作画法をよりよく分からせてくれる。これはもう、絵というよりは、あえて言うならば詩そのものなのだ」と語っている。まさに「甘し(うまし/ douce)国フランス」を体現するようなこの絵の理想主義的なイメージは、フランス人の心を掴んだのであろうか、発表後は瞬く間に版画などを通して多くの人に知られるようになった。さらに20世紀に入っても、紙幣の絵柄になるなど、ミレーの『晩鐘』に劣らない国民的な人気のある絵となった。」(高橋明也著『コロー 名画に隠れた謎を解く!』より)

(2021.9.23)

 

  

 コロー作品集 (YouTube から)

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

ありがとうございます。いつもわき役のコローが大きな位置を占めてきました。

次回は日本人版画家です。心を奪われました。

11/14 島崎 陽子

 

地味ですが上品な印象のコロー

島崎様

松本です。コローに焦点をあてての紹介、良かったと思います。加えてスライドショーも作品数が多く堪能いたしました。まるで美術館に行ったつもりになりました。楳本さんにも感謝ですね。

次回も期待しています。

松本

 

11/08 松本 房子

 

楳本さま いつも掲載ありがとうございます。

コロー作品集、楽しみました。

軽快な音楽がとても興味深いです。テンポのいい音楽に乗りながら詩情豊かなコローの絵画を楽しむ冒頭で、一瞬、んっ??と思いましたが、鼓動に響いてくるこの軽快感がとても心地よいのです。

ありがとうございました。

9/24 島崎 陽子


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第15

  

 

 

フリック・ コレクションと フェルメールと 野口英世と

 

 今回はニューヨークにある美術館、フリック・コレクションをご紹介したい。
 お洒落なブティックや店が並ぶマディソン街の先に堂々と佇んでいる新古典様式の白亜の建物の美術館。この美術館は元はフリックという鋼鉄王の大邸宅であったが、フリック死後、娘が邸宅を改装し1935年12月に開館した個人美術館である。美術館としては小規模でありながらも名作揃い、噴水と植物のある中庭が素敵な空間を醸していてそこは館内の憩いの場となっている。フェルメール、ルノアール、レンブラント、ターナー、ゴヤ、エル・グレコ、ベラスケスなどの作品を観ることができる。

 さて、ここで野口英世である。
一冊の本、福岡伸一著『フェルメール 光の王国』を手にしたら、冒頭で野口英世が登場してきたのには意表を突かれた。フェルメールになぜ私の生まれ故郷の野口英世が? 絵画本になぜ黄熱病研究者の野口英世が?
 この本はアメリカから始まり、フリック・コレクションのフェルメールから始まっている。この美術館には3点のフェルメールが所蔵されているのである。そして福岡先生は英世がフェルメールを観ていたのではないかと大胆な仮説を立てる。最初にフェルメールを観た日本人は福島県片田舎生まれの英世か? 興奮する仮説だ。
1935年開館に先立つ7年前、すでに英世は西アフリカの地で研究対象だった黄熱病に感染し非業の死を遂げていた。したがって美術館としてのフリック・コレクションを彼が訪れることは出来なかったが、NYに20数年間滞在していた間にフリック邸宅のコレクションを観る機会があったのではないか、と福岡氏は推測する。
1900年の暮れ、ワシントンD.C.にたどり着いた英世はフィラディルフィアの病理学者・細菌学者、フレクスナー博士のところへ押しかけ雇ってほしいと懇願、そこで研究に邁進し博士の全幅の信頼を得る。ロックフェラー研究所初代所長に選ばれた博士は英世をNYへ帯同し英世は研究所のヒーローとなる。英世はそこで結婚、近くに借りたアパートには日本人画家、堀市郎が住んでいて、堀の手ほどきを受けて油絵を始め、油絵が生涯を通じての趣味となった。研究室では、英世は顕微鏡下に観察された菌などの像を手書きのスケッチで書き留め、光の粒のような正確なスケッチを残していたという。
そしてフリック邸宅はこのアパートの近くだった。フリックはしばしばパーティを催し、NYの名士たちにコレクションを披露していた。新しい絵を購入したときには特にそうだったそうだ。英世はすでに世界的に名が知られていてロックフェラーの庇護下にあったのだから、ここに招待された可能性は非常に高いというわけである。

 フェルメール3点「兵士と笑う女」「婦人と召使」「稽古の中断」。
フリックはなぜ早くからフェルメールの価値に気が付いたのか、近くにあるノードラー社という画商の影響が大きかったそうである。目利きがいた。本場ヨーロッパでいったん忘れさられ再評価されつつあったフェルメールをいち早くアメリカの富豪たちに教えたのはノードラーだった。
フリックは鉄鋼業で成功したが、ビジネスマンとしては波乱万丈、冷酷な経営者と批判され不遇の現役時代だった。私生活では二人の子供に先立たれ、先の見えない日々のなか、フェルメールの優しい光と穏やかな表情の人に癒されていたのであろうか。
世界各国で開かれている大規模フェルメール展にフリック・コレクションが参加したことは一度もなく、この3点を観るためには現地へ行くしかないそうだ。
英世死後19年後 妻メリー・ダージスが死亡、メリーはロックフェラー研究所から支払われた英世の恩給の一部をずっと猪苗代の野口家に送金していた。二人はNYの墓地に並んで眠る。
NYと英世とフェルメールと、そして故郷と。心温まるつながりができた。

(2021.8.9)

 

 

 

フェルメール  全作品    

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

意外なところで意外な出会い、楽しいものです。

日本で紹介されている絵画は、やはり商業主義的な思惑が背後にあり(お金になるかどうか云々)、画一化されてきていると感じています。率先して自分からアプローチしていかないと、掘り出し物等に出会うチャンスは薄れていくばかりでしょう。最近知人より、海外地元の絵画本は日本で出版されているのとは違い、構成、色合い等々、非常に魅力にあふれているとの話を聞きました。言語は横に置いといて(笑)、私も受け身ではなく積極的にアプローチしようと思った次第です。 

09/19 島崎 陽子

 

小規模ながらも素晴らしい個人美術館:フリックコレクション

今回は、フリックコレクション⇒フェルメール⇒野口英世⇒島崎さんの故郷繋がりの興味深い縁なるものを感じ、ホッコリしました。有名な美術館ではなく個人の美術館なので、普通にしていると目にする機会はないように思います。紹介していただいたことで知ることができ、よかったと思います。

 

09/05 松本 房子


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第14

  

 

 

ゴッホは 何者であったのか
 ―― ゴッホと 自然と 日本美術
                

 

  ゴッホは何者であったのか。 ビーチャー・ストウやディケンズの良書を読み、アルルではドーデの「タルタラン」の描いた南にすなおに引き付けられたといい、ピエール・ロティ「お菊さん」に感動して自然のうちに生きている単純な日本人たちが僕らに教えるのは、実際、宗教といってもいいではないかといい、フランス・ハルスをゾラの小説のように美しいと語るのである。ここに挙げた作家はほんの一部であり、多くの優れた作家がゴッホのテオにあてた書簡(650通)に出てきてそれらを読んでいたことがわかるし、アルルへ向けてパリを発つ前日にはワーグナーを聴きにいったというのである。

 原田マハ『たゆたえども沈まず』と小林秀雄『ゴッホの手紙』を続けて読んだ。
 小林秀雄を先に読んでいたら、おそらく不明点だらけですんなり入っていくことはできなかったであろうが、原田マハを先に読;んだことで、弟テオとゴッホとの関係、ふたりの人物像とその生活ぶりがよく把握でき、基本的な土台部分はおおよそ吸収でき、気構えして読み始めた『ゴッホの手紙』を心底味わい、リラックスして楽しむことができた。パリ万博のころの活気と躍動感のある当時のパリの様子も原田マハは冒頭で描写してくれていてパリの映像を描くことができ、この辺も大助かりであった。
 小林秀雄『ゴッホの手紙』、モーツァルトト短調シンフォニーを道頓堀で聞いたときのような衝撃を受けた。感動で衝撃を受けると涙を超えるが、今そんな状態にある。

 ゴッホは牧師の子として生まれた。牧師になろうとして失敗し画家の道へ進んでいった。22才の時ロンドンでひどい失恋にあい、寡黙で憂鬱な孤独を好む青年になっていった。弟のテオは兄のゴッホにあこがれ、いつも兄を慕いながら幼少期を一緒に過ごし、いつしか分身のような存在になっていった。そして国際的画商、パリのグービル商会の支配人として活躍するようになる。

 今回は両作家が重要性を置いているゴッホと自然、ゴッホと日本美術とのかかわりに注目してみたい。

自然について。

「ゴッホは専門画家ではない。何の因果か絵筆をにぎらされた貧乏人にすぎなかった。特徴はそこにある。…自然とは貧乏人にこたえる冬の事だ。…彼が忍んだ生活そのものである。…自然の方に出向いて行く余裕なぞなかった彼は、吹きさらしの自分の生活の中に、容赦なく侵入してくる自然について、知らず知らずのうちに、極めて人間的なある観念を育て挙げた。…感覚や観念によってではなく、生活を通してだ、『手仕事』によってである。…自然とは、人体にこたえる冬の事だ。だから働かねばならぬ。」「たくさんの自画像、この不安な執拗な人間性の分析家に一つの終点を見出していた。人間の、性格とは心理ではない、言葉ではない、自然を相手の勤労が形成する形である、という信念。…画家の思想であるとともにモラリストの思想。」「労働は彼の人生の綱領であり、労働による自然との直接関係のなかにしか、彼はいかなる美学も倫理学も認めていない。」(『ゴッホの手紙』より)
 ゴッホはミレーという絶頂をながめながらミレーを模倣して《馬鈴薯を食う人々》を描き上げた。自然を相手に働く農夫、生きるということはこういうことだ、手仕事でだ、と強く主張する。死の直前には麦畠を描きそこに死の影を見たというのは、自然とのかかわりのなかに生きてきたゴッホの全てが凝縮し反映されていたのであろうか。炎のような力強さ、絵具を投げつけたような筆致、激しくうずまく糸杉と空、自然と向き合い、苦悩とともに自然とかたくなに戦ってきた結果の表れなのであろうか。

日本美術について。

 パリの画家達や絵画コレクターのブルジョワジーが求めていた「新しさ」の背景には少なからず日本美術がかかわっていた。
 「パリ、激動と変革の時期を迎えていた。新しい何かを、変革を求める人々の欲求が高まっている。最初に『窓』を開いたのは、日本美術だった。その斬新さ、日本美術の素晴らしさにもっとも敏感に反応したのは革新的な芸術家たち、つまり印象派の画家たちだった。」「モネたちがなぜあんなに従来の絵画の手法からかけ離れた表現を生み出すにいたったのか、その答えが浮世絵にあるのだ。」(『たゆたえども沈まず』より)
 ゴッホは渓斎英泉の《雲竜打掛の花魁》を見て強い衝撃を受けた。これまでに見たことのない新しい、別次元の斬新な芸術がそこにはあった。
 ゴッホがアルルへ行ったのは「日本」を求めてだったということを初めて知った。そこに芸術家仲間を呼び寄せ、芸術村を創り、孤立した強烈な個性の力を超克し助け合いながら高みを目指そうという夢を描いていた。日本のように太陽が輝き、心も晴れ晴れとして、絵を描くことを楽しむことができるであろうと期待に胸を膨らませてパリを発ちアルルへ向かった。
 「アルルからの手紙、日本という言葉がしばしば現れてくる。…色彩のオーケストレーションに心労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーがいつも聞こえている。日本風の色の単純化、日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形とを捕える独特の線を出しているのだ。黒と白とはやはり色彩であるということでもう充分なのだ。…日本人たちはそれを色として使っているではないか。」「日本の画に現れた全く新しい色彩効果の秘密、そんなものは彼は一目で看破したが、そこから彼が想い描かざるを得なかった幸福の夢は、彼の苦しい思想上の問題につながっていた。」(『ゴッホの手紙』より)

 印象派、日本、ゴーギャンとの出会いがあろうと、ことごとく一種強迫された切羽詰まった諸条件となり、それらがキャンバスの上に塗り立てられていった。アルルに来てからのゴッホの絵に、黄色が取りついた。アトリエも椅子も、アトリエの窓も黄金のような黄色でなければならなかった。燃え上がるような黄色、いまいましい黄色、どこに行きつくのかわからない黄色。張り詰めた緊張の色の黄色。《麦畠》では「私の理性は半ば崩壊した」とテオに伝えている。 小林秀雄は本の序盤でこう語る。「一体自分を語るのと他人を語るのと、どちらが難しい事であろうか。いずれにしても、人間は、決して追い付けないもう一人の人間を追う様に見える。という事は、パスカルの言う様に『人間は限りなく人間を超える』という事になるのであろうか。」そして「「人間には人間を超えるあるものが在る、という強い鋭い感覚をゴッホの書簡全集から得ることができると、私は思っている。」と最後に語る。
 ゴッホの青と黄色が好きである。

(2021.6.20)

 

 

 

1881〜

1888〜

1890〜

 ゴッホ  全作品    

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メッセージもよろしく


著者へのメッセージ

樫村慶一様

メッセージありがとうございます。

今回の2冊で、ゴッホがとても身近になりました。常に対峙するような気構えと緊張感が沸いてくる画家でしたが、これからは寄り添えそうな気がしています。専門家が書いた本や学術書ではアプローチしにくいのですが、こうして原田マハさんが未踏分野への登頂の取っ掛かりを作ってくださりとてもうれしいです。気軽に近づけるという切っ掛けがいいですよね。

ところで、コロナ禍により以前のような美術館めぐりが出来ず、困ったもんです。これはぜひ行ってみたいと思う展覧会はチケットを事前にオンラインでクレカ払いで購入。オンラインクレカ払いはしたくない私には致命的です…トホホ。まあ、画集や本で絵画を楽しむことも出来ますので、しばらくは我慢です。

引き続きご指導のほどお願いいたします。

 

08/07 島崎 陽子

 

芸術の評の分かりにくさ

よく研究されていますね。ゴッフォは向日葵、と浮世絵の真似をして絵とかしかしりませんけど、ゴッフォの絵は好きです、家の玄関には一年中向日葵がかかっていています。取り替えるのが面倒になりました。(歳を経て 額は季節を 気にもせず  川太郎)。貧乏人でも絵描きになれるんですね。外国人の画家を評するとき、よくわからない(わかりにくい)表現をします。いつどう家庭で育って、どんな先生について、どのような絵が得意だったとか、ではない、本筋から外れた評が多いような気がします。単純な評だとバカにされるからでしょうかしらね。もっとも、これは映画でも本でも評というものは、元来素人には分からないことをもって良しとすべし、という哲学があるんですね。これからも頑張ってください。

08/02 樫村 慶一

 

松本房子様 へ

マハさんはこの後『リボルバー』を著していますね。

『たゆたえども沈まず』でゴッホを書ききれなかったのではないか、と読書会で発言された方がいらっしゃいました。

小林秀雄『ゴッホの手紙』は泣けます。魂の奥底に入ってきます。

美術と小説を一体化させた原田マハさんは新分野を切り開きましたね。

あいまいだった印象派の生い立ちやゴッホのこと、当時のパリの状況等、この本を通して習得することができました。先日のNHK大河ドラマがパリ万博に行ったところを放映していて、うんうん、とうなずきながら見ることができてにんまりでした。

07/22 島崎 陽子

たゆたえども沈まず

島崎 様

今回も興味深く拝読しました。作家の原田マハについては、松方コレクションの号でも紹介されていたように記憶しております。

ラテン語由来である「どんなに風が吹こうと揺れるだけで決して沈没はしない」という16世紀以来用いられているこの言葉は、戦乱や革命などの困難を乗り越えたパリ市民たちの標語になったとのことを知り、ゴッホの生涯とこのタイトルをリンクさせた原田マハの見識の高さを素晴らしいと感じました。

この刺激を受け、少し前まで読んでいましたカズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だった頃」をすばやく読了させ、目下「たゆたえども沈まず」を読んでいる途中です。

次回も楽しみにしております。

07/19 松本 房子


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第13

  

 

 

『ヴェニスに死す』 とギリシア神話
     
                

 

 学生時代機上から見下ろしたクレタ島、ギリシア神話が気になり始めた学生のころからいつかあの地へと思いを馳せているうちに〇十年が経過してしまった。クレタ島は地中海に浮かぶギリシア最大の島で、古代ミノア文明が栄えたところである。クノッソス宮殿といえば馴染みがあるだろうか。
 ギリシア神話は西洋音楽や文学、芸術にはどこかにさりげなく挿入されていてよく登場してくる。ゼウスとオリュンポスの神々から始まり壮大な絵巻物語を呈していてすべてを網羅するには私には気の遠くなる話であるが、先般トーマス・マン『ヴェニスに死す』を読書会で取り上げたことでギリシア神話と対峙する機会に遭遇した。この本に真正面から真剣に取り組んでみたとき、目の前に大きく立ちはだかったのがギリシア神話である。ギリシア神話を踏破しないと『ヴェニスに死す』の真髄には入っていくことができないと悶え始めてきてしまったのである。ギュスターヴ・モローの「アフロディテ(添付)」や「ガラティア」に強烈な刺激を受け、モローの描く華やかで幻想の世界に惹かれて画集を開くのが楽みだった頃もあったが、特段さらに突っ込んでみようという気にもならず今日まで来てしまった。
主人公のアッシェンバッハは「自分がいまエリシウムの地につれてこられたように思うことがあった」と語るまでにギリシア神話の世界に誘われていく。エリシウムとはギリシア神話に登場する死後の楽園である。

 今回『ヴェニスに死す』に出て来るギリシア神話のなかでヒュアキントスとナルキッソスについてふれてみたい。
 まず『ヴェニスに死す』のヒュアキントスの場面から。
 「いくたびも、ヴェネチアの背後に太陽が沈むとき、彼は公園のベンチに腰をおろしてタジオを眺めていた。アッシェンバッハは自分が見ているものはヒュアキントスだと思った。そしてヒュアキントスは二柱の神に愛されたために死なねばならなかった。いつも美しいヒュアキントスと一緒に遊ぼうとして、神託を忘れ、弓を忘れ、キタラを忘れてしまった恋敵に対してゼピュロスが抱いた、痛ましい嫉妬の気持をアッシェンバッハは感じた。彼は、円盤が残酷な嫉妬に導かれて、ヒュアキントスの愛らしい頭に当るのを見た。彼は、――彼も蒼ざめならが、折れた身体を受けとめた。そして、ヒュアキントスの甘美な血から咲いた花には、彼の無限の嘆きの刻印が捺されている。」
 ヒャアキントスについては次の通りである。
 「アポロンの愛は女性だけでなく、少年にも向けられました。古代ギリシアでは、大人の男と少年のあいだで結ばれる同性愛の関係は、信頼や同志的な絆に通じるものと考えられており、女性への愛よりも高い価値を持つとされていました。ギリシア神話には同性愛の物語が数多くありますが、それはこうした考えから生まれたものです。
 ヒュアキントスは、アポロンに恋する美少年でした。…西風の神ゼピュロスもこの美少年に思いを寄せており、嫉妬を感じていました。悲劇はアポロンとヒャアキントスが円盤投げを楽しんでいるときに起こりました。アポロンが投げた円盤をキャッチしようと少年が夢中で走っているときに、ゼピュロスが風を吹かせたのです。この風で円盤はヒャアキントスの額に命中し、彼は死んでしまいました。自分の投げた円盤にあたって死んだのを見たアポロンは「花になっていつまでも私の愛を受け続けなさい」といい、ヒャアキントスの額から流れた血からヒアシンスの花を咲かせました。ヒアシンスという花の名は、この悲劇に由来しているのです。」(吉田敦彦著『ギリシア神話』より)

 そしてナルキッソスの場面。
 「彼と少年の視線が合ったときには、歓びと驚きと讃嘆とがはっきりと現われていたにちがいなかった。――そしてこの数秒間にタジオは微笑んでみせたのだ。話しかけるように、親しく、愛らしく、はっきりと、微笑しつつ徐々に開いて行く唇で笑いかけたのである。それは水に自分の顔を映してみたナルキッソスの微笑であった。あのわれとわが美の反映に手をさしのべる、あの深い、魅惑された、誘い寄せられたような微笑であった。――ほんの少し歪んだ微笑であった。歪んだというのは、おのれの影にやさしい唇で接吻しようとする努力の不可能さのゆえで、媚態を含んだ、好奇心を浮べ、かすかな悩みをたたえ、うっとりとした、そしてひとをうっとりさせる微笑であった。」
 ナルキッソスとは。
 「ギリシア伝説中の美少年。この名は〈水仙〉の意。フランス語ではナルシス。森のニンフのエコーから求愛されたが断り、怒ったエコーは復讐の女神に頼んでナルキッソスを自分自身の姿に恋する男にしてしまったため、彼は池に映るわが姿に恋をつづけてやつれ死んでしまい、水仙の花に化したという。精神分析で自己愛をナルシシズムと呼ぶのは、この物語による」(世界宗教用語大辞典より)。
この伝承からフランスでは水仙をナルシスと呼ぶ。

 いずれも主人公アッシェンバッハがタジオの美に吸い込まれるように惹きつけられていく場面である。ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を想わせ、自然の世界にも芸術の世界にもこれほど成功した作品はみたことがないと思った少年である。
 タジオが象徴するものは何か、エロスの神だろうか、最後は死してタジオと一体化、神と化して昇天していったのだろうか。至るところでのギリシア神話との絡み合いと融合、アッシェンバッハとタジオとともに濃色の彩りを添えてくれたこの神話、ちっぽけな解釈ではあっても西洋文化への足掛かりの大きな一歩となった。
 本仲間の友人でギリシア神話に詳しい方から次の言葉をいただいた。「日本人における日本神話のようなものでしょう。難しいものではなく知っているとよくわかる教養と思って楽しんでください。」 この一言で肩から力が抜け、踏破するのではなくギリシア神話を楽しもうという気持ちになってきた。
 最後に吉田敦彦氏の本から。
 「欧米の文化や欧米人の考え方を理解するためには、ギリシア神話を知ることが近道であると同時に必須です。ギリシア神話を知ることは、もうひとつ大切な意味があります。それは、科学の目とは違う目で、世界を見直すことができるという点です。…科学が発達したからといって、すべてが満たされるわけではないことにも気づいています。ギリシア神話には、科学だけでは絶対に説明できない自然現象や力があると描かれています。自然の神聖さを思い出し、それを敬う心を取り戻すためにも、多くの人にギリシア神話を知っていただきたいのです。」

(2021.4.29)

 

 

ー 映画「ベニスに死す」 (ヴィスコンティ監督作品) のテーマ曲 ー

 

 

マーラー 交響曲第5番からアダージェット
ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1977年


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第12

  

 

 

テート美術館所蔵 《コンスタブル展》
Constable  A History of His affections  in England
 
 2021/ 2/ 20  ー  2021/ 5/ 30  三菱一号館美術館

 

 開催日から数日後の2/23(火・祝)、高ぶる弾む気持ちを転がすようにしてコンスタブル展へ出向いて行った。東京駅から美術館までの丸ビルや三菱関連ビルの重厚な趣のある建物が建ち並ぶ道を歩いて美術館へ。赤煉瓦ビルに掲げられた大きなコンスタブル展垂れ幕が出迎えてくれ、中庭に入ると木々、花々、カフェや銅像が見えてきてヨーロピアンテイストを存分に醸していたお洒落な空間があった。お日様が照っていて、椅子でくつろぐ人たち。
 初めての美術館。各部屋には暖炉があるというイギリス風建物の中でのコンスタブル展、これ以上最適な会場はないようだ。

「三菱一号館は、1894年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された、初めての洋風事務所建築です。19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられています。」(三菱一号館美術館HPより

 風景画家ジョン・コンスタブルはイングランド東部サフォーク州イースト・バーゴルトに生まれた。父は製粉業を営む裕福な家庭で、自宅周りの草地や小道沿いで遊んだ子どもの頃の楽しい記憶や風景の思い出が画家を志す最初のきっかけとなった。才能の開花には父の理解と支援が大きく、専用のアトリエを用意してくれ、製粉所に画材を置くことを認めてくれて画家活動の環境を整えてくれた。
 結婚して家族が新鮮な空気に触れられるようにとロンドン郊外に位置する高台のハムステッドに住まいを借りて移り住んだ。そこには視界いっぱいに広がる風景と千変万化の空と雲があった。時には画面の半分以上を占めるコンスタブルが描く空と雲。緑豊かな木々や色彩豊かな花々以上に雲に魅了されていたコンスタブルの画家魂はいかばかりか、と突っ込んでみたくなる。「自然は絶対的な規範とみなしうるものだったのではないか」とライター前橋重二氏は述べる。

 「空は自然界の『光の源』であり、あらゆるものを統べている」(コンスタブル)。 コンスタブルは空を観察して記録し、当時最新の気象科学の成果を学んでいたそうだ。虹についても光化学的な原理を理解したうえで描くべきだと考えていたらしい。
 イギリスの天候は非常に変わりやすく、晴れ間がのぞいていたと思うと突然雨雲が押し寄せてきて強い雨模様になり、そしてまた太陽が照り出す…そんな変化の中の雲を捉えて描くのには根気が必要だったに違いないと思うが、雲の描写は変化に富み表情豊かで、雲のみでここまでに起伏を持たせた物語性を描くことができるのかと感嘆した。

 コンスタブルの同僚でライバルにウィリアム・ターナー(1775-1851)がいる。ターナーが一歳年上。二人ともそれまで見向きもされなかった風景を描きイギリスを「風景画大国」に位置付けた。コンスタブルは生涯にわたり一歩たりとも国外に出ることはなかったが、対照的にターナーはフランスとの戦争が終わると足しげく大陸に通った。
 本展覧会の見どころのひとつは二人の一騎打ちの場面である。コンスタブル「ウォータールー橋の開通式」、ターナー「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」。 ロイヤル・アカデミィー展においてふたりのこの二つの絵画が並んで展示された。ターナーはコンスタブルの鮮やかな大型作品の隣に自分の絵が配されたことを知り、手直しの期間に画面中央に鮮やかな赤色のブイを付け加えて観客の視線を引きつけようと画策した。歴史に語り継がれるターナーの悪名高い行為。後日「ターナーはここにやってきて銃をぶっ放していったよ」とコンスタブル。この両絵画が当時をしのばせるかのように一室に配されている。
 2020年2月から、20ポンド紙幣にターナーの絵と肖像が採用され、ターナーは紙幣に登場した最初の画家となった。私は本展覧会の後、出口ショップでコンスタブル本(図録外)を購入してコンスタブルを学習して…と目論んでいたのだが、一冊たりともコンスタブルの名を冠した本がなかったことに愕然とした。偉大なイギリス人画家ターナーの陰に二番手として認知されているのであろうか。

 「コンスタブルは自然を描いた芸術家の中で、最も著名な画家であると同時に、間違いなく最も優れた画家のひとりです」(本展より)。 

(2021.3.5)

 

 

ー コンスタブルの展示作品から ー

ターナーの作品は第9回をご覧ください。

 

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著者へのメッセージ

松本房子さま

コンスタブルを通してイギリス文化に触れる、至福の時でした。

こうしてみなさんからコメントもいただき、感無量です。

最近、またコロナ渦で美術館へ積極的に出かける気持になりません。

日にちが開いてしまいますが、近々またアップしようと思っていますので、引き続きご支援お願いいたします。みなさんからいただくコメント、楽しみです。

04/16 島崎 陽子


京極さま

興味深いお話、ありがとうございます。「巡査」なんですね、初めて知りました。

最近イギリス本に凝っていますのでうれしい情報です。

ジョン・ル・カレ、スパイ小説にハマっています。「巡査」が出てきそうな予感ですね。なんとこの作家シリーズの新しい訳者は元KDDマン、加賀山卓朗氏です。

職場で一時期ご一緒させていただきました。

出版社の方も加賀山卓朗さんのお仕事ぶりを絶賛しておりました。

これから加賀山卓朗さん訳を購入して読むところです。すっごく楽しみです。ファンレターをお送りしちゃおうかな(笑)。

04/16 島崎 陽子


コンスタブル展行ってみようと思います

雲の描き方が独特で、流石、雲について研究した成果だと感じました。”百聞は一見にしかず”なので、開催中に足を運ぼうと思っています。

追記:前号のグレゴリー・フランク・ハリスについては、メッセージを書く時期を逸しましたが、時折、バックナンバーから検索し、音楽付きスライドショーを楽しんでおります。得も言われぬ充実感に満たされております。

04/03 松本房子


コンスタブルって
島崎さん

画家 John Constable って良くは知りませんでした。ターナーの風景画は印象にあります。同僚でライバルとはよくあることですね。

なぜか Contable は英国では巡査のことを言うのですよね。警察ものの映画やTVで知っていました。モース警部も若いときは Constable Morseとか。

失礼、変なことを書きました。

03/25 京極 雅夫

 

 


▲INDEX

第11

  

 

 

女性の優雅な生活 を描く画家 
グレゴリー・ フランク・ ハリスと
マンスフィールド 『園遊会』
     

 

 一枚の優雅なお茶会の絵が飛び込んできました。

 フェイスブックからです。テーブルの上の花瓶の花と背景の色とりどりの花々は薔薇の花でしょうか。女性がふたり、お友達同士かしら、会話が気になります、何を話しているのでしょうね。
 画家はグレゴリー・フランク・ハリス、1953年南カリフォルニア生まれ。上流階級の女性の優雅な生活を印象派の絵のように描いています。 一目ぼれしました。何と美しい絵なのでしょう。私はモーツァルトの K353を聴きたくなり、CDを取り出してきました。フランスのシャンソン「La belle Francoise 美しいフランソワーズ」を主題とした12の変奏曲。陽の光が多彩な装飾音符とともにはじけているようです。

  この絵をみて、キャサリン・マンスフィールド『園遊会』(The Garden Party)を思い出したと友人が連絡をくださいました。

 マンスフィールドは短編小説の名手といわれ、『園遊会』はマンスフィールドの最高傑作の代表作といわれている珠玉の一篇です。
 上流階級の無垢な少女ローラが、自宅開催の楽しい園遊会の日に初めて“死”と貧しい人々に直面するお話です。
 物語は園遊会の準備から始まります。明るく澄んだ青空と多彩な植物に満たされた庭、庭に張るテントやバンド、サンドイッチの準備などで家族全員が忙しく動き回っています。
 詩情豊かに印象派の絵のように上流階級の優雅な生活の描写が展開されていきます。

 「薔薇といえば、この花は園遊会のお客の気を惹く花は自分のほかにはない、と自分で考えているようだ」
 「ピンクの百合の鉢がいっぱい、美しい紅の茎に、大きなピンクの花がぼっかり開いて、光り輝き、びっくりするくらいいきいきとしていた」
 ローラの母シェリンダ夫人「一生に一度でいいから、いやっていうほどカンナ百合をほしいと思っていた――園遊会がいい口実よ」
 サンドイッチにはクリーム・チーズにレモンカード。高級店から盛りだくさんのシュークリームを取り寄せます。

 そしてローラは、身近な人々とのふれあいから少しずつ生を認識しかみしめていきます。庭で園遊会の準備をしている、たくましく働く男たちに魅力を感じ始め、理不尽な階級の違いを感じ取ります。
 きれいな目をした職人たちを見て「職人のひとりがラヴェンダーの小枝をつまみ、匂いをかいだ。この職人たちとどうして友達になることができないのかしら。それはすべて、不合理な階級制度にもとづく誤りであると、彼女は決めてしまった」と悟るのです。

 そんな時、料理番が「おそろしい事故があったんですよ。男の人が死んだんです」と血相を変えて報告にやってきます。
 「このすぐ下に何軒か小さな家のあるのをご存じでしょう。あそこにねスコットという、若い馬車屋がいるのです。スコットは放り出されて、後頭部を打ったんです。死んでしまったのです。おかみさんと5人の子供が残されました」
 みすぼらしい住まいがひと固まりになって建っていて、シェリンダ家の子供たちは、小さいときには、そこへ足を踏み入れてはいけないといわれていました。
 ローラは園遊会の中止を主張しますが、家族はとりあってくれません。園遊会が終わると、母はローラに残り物をその家族に届けるように提案し、ローラはそれが良いことなのかどうか悩みながら、籠に食べ物を入れてその家を訪れ、そこで横になっている死人と対面します。

 「そこには若い男が横になっていた――眠りこけていた――とてもぐっすり、とてもふかぶかと眠りこけていた――ずっと向こうに、とても平和に。夢を見ているのだ。眠りをさましてはいけない… 園遊会も、籠も、レースのドレスも彼になんのかかわりがあろう。こういうものから一切から、彼は遠く離れているのだ。彼こそすばらしい、美しい。みんなが笑っている間に、バンドが演奏している間に、この路地にこの奇蹟がおこっていたのだ。幸福…幸福…『総てよし』とこの眠っている顔はかたっているのである。こうあるべきなのだ…心残りはない…と。」

 小説の終末、主人公ローラが兄ローリーに語りかける描写が秀逸でこの短編の名場面になっています。
 帰り際、路地で心配で様子を見に来た兄のローリーにばったり出会います。

 「お母さんが心配していたよ。うまくいったかい?」とローリー。
 「『人生って…』、と彼女はどもりながらいった。『人生っていうのは…』。しかし、人生がなんなのか、彼女には説明できなかった。それでよいのだ。兄はすっかりわかってくれた。『そうだろうね、ローラ』とローリーはいった」(完)。

 “生と死”のはざまに初めて直面し言葉では表現できない感情や戸惑いをやさしく受け止めてくれる兄。
 死人の顔をみて「総てよし」「こうあるべきなのだ」と感じたローラの心境、死生観や人間の感情を超越した宇宙のような果てしなさを私は感じ取りました。

 一枚の絵から音楽と小説へ。そこかしこに春の気配を感じ始める今日このごろ、ゆるやかなお陽様のもと得もいわれぬ充実感に満たされています。 

(2021.1.23)

 

 

ー ハリスの作品から ー

 

 

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